画家一覧

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福田平八郎(ふくだ へいはちろう)

1892年-1974年
日本画家

1919年 第一回帝展に「雪」が入選
1921年 第三回帝展に出品した「鯉」が特選となり、宮内省(現・宮内庁)が買い上げる。
1924年 帝展の審査員になり、京都市立絵画専門学校助教授に就任
1932年 「漣」を発表。
1936年 京都市立絵画専門学校教授となる。
1947年 帝国芸術院(同年末日本芸術院)会員。
1948年 毎日美術賞受賞。
1949年 日展運営会理事。
1958年 日展常務理事。
1961年 文化勲章受章、文化功労者。
1969年 日展顧問。
1974年 死去。

福田平八郎の作品の特徴にトリトミングに近い写真的描写で描かれる。
時代背景的にも大正から昭和初期の日本画家の多くは琳派のセンスを取り込んだ作品が多く描かれている。



上村松園(うえむら しょうえん)

1875〜1949年
日本の画家

1890年 第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品、一等褒状受賞(この絵を、来日中のヴィクトリア女王の三男アーサー王子が購入し話題となった)。
1893年 幸野楳嶺に師事。火事のため高倉蛸薬師に転居。
1895年 楳嶺の死去にともない、竹内栖鳳に師事。
1903年 車屋町御池に転居。
1914年 間元町竹屋町に画室竣工。
1941年 帝国芸術院会員。
1944年 帝室技芸員
1945年 良平城の唳禽荘に疎開。
1948年 文化勲章受章(女性として初)。
1949年 死去。

戦前には珍しく、女性の画家として活躍をしていた上村松園、世間的にもまだ男尊女卑が強くあり厳しい世間の目がある時から母の仲子は理解を示していた。
女性の絵を女性ならではの視線から描き続けていた。
1948年に文化勲章受章を女性として初めて受賞して戦後を代表する女流日本画家となる。



杉山 寧(すぎやま やすし)

1909年-1993年
日本画家
1931年 美校日本画科卒業。
1934年 第1回日独交換留学生に選ばれベルリン大学で学ぶ。
1938年 肺結核を病む。
1943年 朝鮮満洲支那へ取材旅行。
1947年 日展特選。
1950年 日展審査員。
1951年 「エウロペ」を日展に出展して本格的に画壇に復帰。
1957年 日本芸術院賞受賞。
1958年 日展評議員。
1970年 日本芸術院会員。
1974年 文化功労者、文化勲章受章。
1976年 西ドイツより大功労十字勲章受章。
1977年 東京国立近代美術館評議員。
1991年 東京都名誉都民になる。
1993年 死去。

戦前は日本画の技法を極めた技巧で知られたが、戦後は岩絵具を用いながらも線描などの日本画の技法を一新し、メチエールにこだわった独自の作風を確立した。
エジプトやインドなどの古代遺跡や神像、抽象画や裸婦など従来の日本画にはなかった題材も描いた。
亡くなる直前まで、納得いくまで絵を修正し続けるなど完璧主義者として有名。



松尾 敏男(まつお としお)

1926年2016年
日本画家

1949年 『埴輪』が院展初入選。
1962年 院展奨励賞
1966年 院展日本美術院賞
1971年 芸術選奨新人賞
1975年 院展文部大臣賞
1979年 日本芸術院賞。
1988年 多摩美術大学教授に就任。
1994年 日本芸術院会員。
1998年 勲三等瑞宝章。
2000年 文化功労者。
2012年 文化勲章受章。
2016年8月4日、肺炎のために死去

魚や鳥・花等を好んで描いていた。その他にも富士山や湖等の作品も高く評価される。
技法・色彩豊かな作品から水墨画等の幅広い作品を描き出していた。



山下清(やました きよし)

1922年-1972年
日本画家

1925年 重い消化不良で命の危険に陥り一命こそ取り留めたものの、軽い言語障害、知的障害の後遺症を患う。
1934年 知的障害児施設 八幡学園へ預けられる。
この学園での生活でちぎり紙細工に出会う。
1940年 八幡学園を出て放浪の旅へ出る。
この時のイメージにてドラマ裸の大将ができる。
1956年 東京大丸で山下清展を始め、全国巡回展を行う。
1961年 式場隆三郎らとともに約40日間のヨーロッパ旅行。
1971年 脳出血のため死去。

驚異的な瞬間記憶を持っていたので、サヴァン症候群ではと言われている山下清ですが、花火が好きだったらしく、全国の花火大会に行き作品作りにしておりました。
所属していた画壇がなかったため、その作品を鑑定できる者がいないことから、贋作が多く出回り一時は騒動となった。



小磯良平(こいそ りょうへい)

1903年-1988年
洋画家

1925年「兄妹」が帝展入選。
1926年「T嬢の像」が帝展特選を果たす。
1928年 フランスに留学した時にルーブル美術館のパオロ・ヴェロネーゼ「カナの婚礼」に衝撃を受け、群像表現を極めることを生涯のテーマとする。
1933年 神戸でキリスト教の洗礼を受ける。
1936年「新制作派協会」(現・新制作協会)の結成に加わる。
1938年 1年間藤田嗣治らとともに陸軍省嘱託の身分で従軍画家として中国に渡り、帰国後戦争画を製作。
1941年 群像画の傑作「娘子関を征く」と「斉唱」を相次いで発表。
自身は当時、群像を書くため精力的に戦争画に取り組んだが、戦意高揚のために戦争画を書いてしまったことに心が痛むと晩年に語っている。
1970年 日本聖書協会の依頼により32点の聖書の挿絵を作成。

肖像画や群像表現に定評があり後進の指導も積極的に行い日本洋画界に大きな功績を残した。

代表作品一例

「T嬢の像」(1926年、兵庫県立美術館蔵)
「彼の休息」(1927年、東京藝術大学大学美術館蔵)
「日本髪の娘」(1935年、韓国国立中央博物館蔵)
「着物の女」(1936年、神戸市立小磯記念美術館蔵)
「練習場の踊り子達」(1938年、東京国立近代美術館蔵)
「斉唱」(1941年、兵庫県立美術館蔵)
「娘子関を征く」(1941年、東京国立近代美術館蔵)
「二人の少女」(1946年、神戸市立博物館蔵)
「働く人びと」(1953年、三井住友銀行蔵)
「婦人像」(1960年、神戸市立小磯記念美術館蔵) - 元宝塚歌劇団の八千草薫がモデルを務めた作品
「絵画」(1974年、赤坂迎賓館蔵、赤坂迎賓館の大ホールにて展示)
「音楽」(1974年、赤坂迎賓館蔵、赤坂迎賓館の大ホールにて展示)
「KOBE, THE AMERICAN HARBOUR」(1985年、兵庫県公館)



東郷青児(とうごう せいじ)

1897年-1978年
洋画家

1914年 青山学院中等部を卒業。
日本橋呉服町に竹久夢二が開いた「港屋絵草紙店」に出入りし、下絵描きなどを手伝う。
1915年 日比谷美術館で初個展。この頃有島生馬を知り、以後師事。
1916年 第3回二科展に初出品した『パラソルさせる女』により二科賞を受賞。
1921年 フランスに留学。
この頃の作品には、ピカソらの影響が見られる。
1928年 第15回二科展に留学中に描いた作品23点を出品。
1929年 愛人の西崎盈子(みつこ)とメスで頸動脈を切り、ガス自殺をはかったが、救出される。
1931年 二科会入会。
1938年  二科会に「九室会」が結成され、藤田嗣治と共に顧問になる。
1957年  岡本太郎と共に日活映画『誘惑』に特別出演(西郷赤児役)。日本芸術院賞受賞。
1960年 日本芸術院会員。
1961年 二科会会長に就任。
1969年 フランス政府より芸術文化勲章(オフィシエ)を授与される[3]。
1976年  勲二等旭日重光章授与。
1978年 急性心不全のため死去。没後、文化功労者、勲二等旭日重光章、正四位追贈。

独特のデフォルメを施され、柔らかな曲線と色調で描かれた甘い女性像が人気を博し
本や雑誌、包装紙などに多数使われ、昭和の美人画家として戦後一世を風靡した。
派手なパフォーマンスで二科展の宣伝に尽力し、「二科会のドン」と呼ばれた。



彼末宏 (かのすえ ひろし)

1927年-1991年
洋画家

1953年 国画会展に初入選,
1960年 「城跡」で会友優作賞を受賞会員。
1962年 東京芸大教授。
1991年 死去。

個性的で独自の暗色の地に明るく鮮やかな色点が独自の画風です。



野間仁根(のま ひとね)

1901年-1979年
洋画家
1922年 久遠社を結成し美校倶楽部にて第1回展開催。
1924年 「静物」第11回二科展出品、初入選。神田竹見屋にて個展開催、約30点出品。
1925 東京美術学校卒業。卒業制作百号「裸婦」。「静物」第6回中央美術展出品。
9月、「静物」第13回二科展出品。童顔社展、約20点出品。
9月、「娘と人形」「摘草」など5点、第14回二科展出品。
9月、童顔社解散。
1928 
9月、「夜の床」など3点第15回二科展出品、第15回樗牛賞授賞。作品「壺の中のダリヤ」。
1929 1月、紀伊國屋にて展覧会。
拓榴社同人となる。「操り人形四種」「玩具の会話」第10回中央美術展出品。
9月、「ぜ・ふうるむうん」「友達」第16回二科展出品、二科賞受賞。
11月、銀座資生堂の漣洋画展に出品。
11月、拓榴社展に出品。作品「アルルカン」「柿」。
1930 9月、「龍桜」「濤声」「冬夜の歌」第17回二科展出品。二科会友となる。
1931 佐藤春夫作「むさしの少女」に挿絵を描く。
9月「La Promenade de l’artiste」「鴎」第18回二科展出品。アンデパンダン展出品。
1932 9月、「夏の夜の戯れ」「小鳥は楽しく鳴いている」第19回二科展出品。
9月、千駄木、福原平一借家に移住。
12月、津倉にて岡山市都窪郡帯江村、長瀬又七長女、志那子と結婚。
1933 9月、「画室」「睡れる旅人」第20回二科展出品。二科会々員となる。本郷区駒込千駄木町に移る。作品「麦畑と子供」。
1934 1月、長女佳子生まれる。下谷区に移る。銀座画廊にて個展開催。
9月、「魔法の森」第21回二科展出品。作品「かぶと虫と話す牛」「ライオンとかぶと虫」。
1935 長男伝治生まれる。新宿紀伊國屋画廊にて個展開催。
9月、「晩夏交響楽」「海辺」(2点)第22回二科展出品。作品「家族」。
1936 本郷駒込坂下町に移る。
9月、「花園の友人」「鮒と麦の花」など5点第23回二科展出品。
9月、坪田壤治『風の中の子供』(東京朝日新聞夕刊)の挿画連載を始める。作品「夜々の星」「壁」。
1937 二男雅二郎生まれる。銀座日動画廊、銀座ラテン画廊にて個展開催。坪田壌治作「三平チャンと善太君」(大阪朝日新聞夕刊)にて挿絵を書く。9月「夏の淡水魚」第24回二科展出品。
1938 2月、銀座日動画廊にて熊谷守一と共に個展開催。
8月、臨時召集により山砲兵第11連帯に応召、中国へ渡る。
9月、「夏園」「田園」第25回二科展出品。作品「薔薇と雀」
1939 5月、召集解除。日動画廊にて個展開催。約20点出品。銀座三越にて第1回新水彩展開催。「看護婦の散歩」「花と水鳥」「檳榔樹の並木」第26回二科展出品。
1940 1月から千葉県安房郡太海へ、8月伊豆、10月茨城県龍ヶ崎町など写生旅行。
第2回新水彩展、第5回京都市美術展、無涯社第1回展などへ出品。「春の海」「朝陽」春季二科展出品(高島屋)。「花実と白鷺」第27回二科展出品。
5月、日動画廊で個展開催30点余を出品。『童話集』(小川未明著)『童心の花』(坪田壌治著)『愛児煩悩』(舟橋聖一著)の装幀を行う。
1941 4月、妙義山写生旅行。
5月、長野県初谷砿泉に写生旅行。
5月、三男利根生まれる。
6月、日動画廊にて新作油絵展開催。20点余を出品。
7月、大阪三角堂で個展開催。仏印巡回絵画展、洋画10作家新作発表展に出品。
10月、文化奉公会出征画家展に「広東の回想」出品。台東区桜木町に移る。作品「虫と猫」。『井伏鱒二随筆集』の装幀と表紙、扉画、『ドン氏の行列』(太田博也著)の装幀と表紙と扉画を行う。
1942 2月、嵯峨嵯温泉写生旅行。
第2回出征美術家展に出品、火野葦平作「ハタノウタ」に挿絵を書く。
8月、井伏鱒二の小説『花の街』(東京日々新聞朝刊)の挿画連載を始める。
9月、二科展に「越後毛渡沢渓流」「子供勤労」「葛飾の子供」を出品。
1944 1月、愛媛県に疎開。二科展解散。
1945 再建二科会入会。秋の審査に上京。作品「迷宮物語」。三男博生まれる。
1946 9月、「夜釣」「滞船」など6点第31回二科展出品。
1948 9月、「銀河」「夜々の星」など4点第32回二科展出品。作品「魚」
1948 作品「風景」「瀬戸内の海」
1949 作品「田舎の家族」「受胎告知」「処女宮」。
9月、「かっぱと花」「壺の花」など6点第34回二科展出品。
1950 9月「すばる星と金牛宮」「夜曲夜釣」など4点第35回二科展出品。
1951 9月、「魚歌水心」「魚譜」など4点第36回二科展出品。
作品「星座」「海」。
1952 日展改組に審査員として出席、7月上京。
9月、「海の花苑」「川口」など4点第37回二科展出品。
「瀬戸内海・南浦風景」芸大文庫買上げ。毎日新聞連載、石川達三作「青色革命」に挿絵を書く。作品「漁火」
1953 2月頃家族上京。
9月、「漁火」「子供と昆虫」「谷中の森」第38回二科展出品。
作品「漁介」「兄弟と昆虫」「春潮」「嵯峨沢渓流」「房州太海海岸」。
1954 東京の自宅を回収。作品「牡丹」「浜離宮」、「5月の花」国際新美術展出品。
9月、「昆虫」。「街の散歩」など5点第39回二科展出品。
1955 6月、鈴木信太郎らと二科会退会。7月、鈴木、高岡徳太郎らと一陽会結成。9月、日本橋高島屋で第1回展開催、「星座・アンドロメダ」「貝殻」「生物B」「双魚」出品。
1956 日動画廊にて近作展開催。
8月、「森のニンフ」第2回一陽会出品。「メバル」
1957 8月、「渦潮」「裸婦七人」第3回一陽会出品。
1958 野間仁根個展開催。
9月、「水浴」「水辺の物語」第4回一陽会出品。「外房州天面海辺」。
1959 9月「鳥の会話」第5回一陽会出品、「魚と釣師」。
1960 第1回谺会出品。野間仁根新作油絵展。秀作デッサン展。
9月、「ダリア」「疚太風景」第6回一陽展出品。作品「河童の酒宴」「メバルとヨメガサ」。
1961 野間仁根油絵個展を松坂屋で開催。
9月、「聖人文壺のダリア」など3点第7回一陽展出品。作品「蜂」
1962 野間仁根新作油絵展、野間仁根油絵小品展開催。
9月、「浜木綿」など3点第8回一陽展出品。
1963 9月、「漁村の岩山」など3点第9回一陽会出品作品「浜木綿」「星座・琴の二重星」。
1964 9月、「天河」「薔薇」第10回一陽会出品。「春の星座」。
1965 9月、「未来水道」「魚の散歩」第11回一陽会出品。
1966 9月、「吉浦漁村」「天面漁村」第12回一陽会出品。
1967 千代田画廊にて、田崎広助、鈴木信太郎らと「三人展」開催。
9月、「来島水道仲度島付近」「能島水道」第13回一陽会出品。
1968 9月、「瀬戸内海・早川」「瀬戸内海・能島鯛崎」第14回一陽会出品。
1969 9月、「瀬戸内海石槌山遠望」「瀬戸内海早川の景」第15回一陽会出品。
1970 9月、「森の友達」「虫の演奏会」第16回一陽会出品。
1971 9月、「瀬戸内海・仲度島付近」「瀬戸内海漁港」第17回一陽会出品。
作品「メバル」「瀬戸内海・釣魚」「神々の集い」。
1972 9月、「瀬戸内海伯方島遠望」「瀬戸内海南浦の朝」第18回一陽会出品。
作品「露草とカマキリ」「露草とカタツムリ」「山彦」。
1973 9月、「常石の眺望」「森の人々」第19回一陽会出品。「アネモネ」
1974 9月、「天ノ河」「森の友達」「旧作森の物語」第20回一陽会出品。「蟹」。
1975 9月、「森の友達」「虫の演奏会」第21回一陽会出品。「沼の河童」。
1976 9月、「森の猿」「森の妖精」第22回一陽会出品。「水辺の鳥」「森の人々」。
1977 9月、「蛙と猿」「ニンフの午睡」第23回一陽会出品。「外房州天面」。
1978 9月、「マリオネットの散歩」「森のヒッピイ」第24回一陽会出品。「泊港滞船」。
1979 9月「芸術の散歩」「森の楽人」第25回一陽会出品。「富嶽」絶筆「森の鳥たち」。12月30日逝去。78歳。

鮮やかな色彩と骨太な筆伸で幻想的な独特の画風です。



白髪 一雄(しらが かずお、1924年8月12日 - 2008年4月8日)

日本の抽象画家。

1924年 兵庫県に生まれる
1942年 京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)日本画科入学(48年卒業)
1955年 具体美術協会会員となり、第1回具体美術展(小原会館、東京)出品
1958年 「The Gutai Group Exhibition」展
     (マーサ・ジャクソン画廊、ニューヨーク)出品
1959年 第11回プレミオ・リソーネ国際展出品、買上賞受賞
1962年 「SHIRAGA」展(スタドラー画廊、パリ)
     「白髪一雄個展」(グタイピナコテカ、大阪)
1963年 「現代絵画の動向―西洋と日本―」展(国立近代美術館京都分館)出品
1965年 ヌル国際展(ステデリック美術館、アムステルダム)出品
     「現代美術の動向―絵画と彫塑―」展(国立近代美術館京都分館)出品
1970年 「万国博美術展<現代の躍動の部>」(万国博美術館、大阪)出品
1971年 比叡山延暦寺で得度し、法名白髪素道と号す
1984年 「元永定正・白髪一雄展」(和歌山県立近代美術館)
1985年 「白髪一雄―抽象のダイナミズム―」(兵庫県立近代美術館)
1987年 兵庫県文化賞受賞
1989年 「肉体とマチエールの出会い 白髪一雄展」(尼崎市総合文化センター)
1997年 「白髪一雄展」(福岡市美術館)
2001年 「アクションペインター白髪一雄展」(兵庫県立近代美術館)
2008年 敗血症のため84歳で死去
2009年 「白髪一雄展―格闘から生まれた絵画」(尼崎市総合文化センターほか)

天井からぶら下がったロープにつかまり、足で絵を描く独特なスタイルが世界的に評価されている。
昭和四十年第八回日本国際美術展の出品作「丹赤」で優秀賞を受賞。
2013年6月にクリスティーズ・パリで行われた競売では、≪地劣星 活閃婆≫が166万5500ユーロ(約2億1650万円)という、この画家のものとしてはこれまでの最高値をつけた。
2014年6月3日からサザビーズパリで行われたイブニングセールでは、「激動する赤」(1969年、油彩、キャンバス、183×229cm)が530万米ドル(5億4,590万円)で落札され、オークション個人レコードを更新した。



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