画家一覧

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篠田 桃紅(しのだ とうこう、本名:篠田 満洲子、1913年(大正2年)3月28日 – )

日本の美術家。中国大連に生まれ, 独学で書を極める。第二次世界大戦後、文字を解体し、墨で抽象を描き始めてから美術家を目指すようになった。現在103歳。

1913年 - 3月28日 関東州大連に生まれる(本籍は岐阜県)
1936年 - 東京鳩居堂で最初の個展、「根なし草」と評される
1947年 - 書の枠を出た抽象的な作品を制作し始める
1956年 - 個展(養清堂画廊、東京)渡米、ニューヨークに滞在
1957年 - 各地で様々な個展を開く。
1961年 - 第6回サンパウロ・ビエンナーレ招待出品「ピッツバーグ国際現代絵画彫刻展」
1970年 - 東京都港区南青山に転居し、現在に至る
1994年 - 「戦後日本の前衛美術展」
1996年 - 個展「TOKO SHINODA VISUAL POETRY」(シンガポール国立近代美術館)
2003年 - 個展「篠田桃紅 朱よ」展(原美術館、東京) 皇后陛下行啓
2013年 - 回顧展「篠田桃紅 百の譜」
2015年 - 『103歳になってわかったこと』が45万部を超えるベストセラーになる

長きに渡る激動の時代と前衛的な芸術をいち早く行っていた海外という環境を生き抜いた彼女だからこそ描けるダイナミックな作風が特徴。文字の書き順やバランスにとらわれず自由で鮮やかな世界観を今もなお描き続けている。
----『「いつ死んでもいい」なんて嘘。生きているかぎり、人生は未完成」』
独自のポリシーを展開した本ではその半生から学んだ哲学がわかりやすい言葉でつづられており、若者たちへのメッセージともなっている。



高崎元尚(1923年 – )

日本の彫刻家。「装置」シリーズという幾何学模様をした同じ形のオブジェクトを一面に並べる、という作品が代表的。

1923年 高知県香北町生まれ
1949年 東京芸術学校彫刻家卒業
1951年 モダンアート協会展出品
1958年 抽象絵画の展開展出品(東京国立近代美術館)
1986年 現代の「白と黒」展出品(埼玉県立近代美術館)
1989年 くり返しの構造展出品(高松市美術館、香川)
1993年 具体展Ⅲ出品(芦屋市立美術博物館、兵庫)
1995年 クールの時代展出品(高知県立美術館)
1996年 個展(星ヶ岡アートヴィレッヂ、高知)

「人と違うことをやりたい。自分に合わない環境だと感じたら新たな方向を模索する。考えて実行するのは自分。例えば具体では後から加わった中では年上の部類だった。でもそれも僕の判断だから気にならなかった」というスタンスで自身の作品に今もなお挑み続けている。実際に士官学校で士官になれなかった時、自分の道は違うところにあり、そちらへ進むことが自分にとって都合が良いことだと解釈しているため高崎は今の自分の人生にとても満足している。



宮脇愛子(みやわき あいこ 1929年 - 2014年8月20日)

日本の彫刻家。真鍮、石、ガラスを用いた立体作品のほか油彩や墨絵を多数制作。

1929年 - 静岡県で生まれる。
1951年 - 日本女子大学文学部卒業
1957年 - 9年間欧米各地に滞在し、制作活動を行なう。
1998年 - 個展『はじめもなく終わりもない 宮脇愛子 彫刻家の軌跡』
1998年 - 神奈川県立近代美術館で回顧展
2014年 - 膵臓癌のため横浜市青葉区の病院で死去。

1960年代後半には、真鍮のパイプを使って制作。重ねたパイプの後ろから来る光によって、真鍮に含まれる銅の色が反映する微妙な効果が生み出されるという科学の利点を活かした作品。その後ワイヤを使った流れるような曲線を表現した「うつろい」の世界を生み出すという進化も見られた。



李 禹煥(リ・ウーファン、Lee U-Fan、이우환、1936年 - )

大韓民国慶尚南道に生まれ、日本を拠点に活動している美術家。
彫刻家・関根伸夫と同じく、「もの派」を主導した人物の一人である。

1936年 – 韓国で生まれる
1956年 - ソウル大学校美術大学を中退しすぐに来日。
1961年 - 日本大学文学部哲学科を卒業。
1969年 - 「事物から存在へ」が美術出版社・芸術評論募集に入賞。
2010年 - 香川県直島町に初の個人美術館である李禹煥美術館が開館。

代表作は「点より」「線より」が有名で、大きな平筆で軌跡を付けながら
大きなキャンパスに綺麗に描いていく。その美しく蒼い線が流れるような作風は
人によっては風のようだったり雨のようだったりと感じ方がそれぞれ違う楽しみ方が出来る。李 禹煥の作品はそんな工夫が魅力的で今もなお支持されている。



パブロ・ピカソ(1881年10月25日 - 1973年4月8日)

世界で最も有名な芸術家。数々の有名作品を多く世に残し、キュビズムという新しい表現を生み出した天才画家である。今もなお影響を受けるアーティストがいるほど強烈な個性と作風を持った人物。代表作は「ゲルニカ」「泣く女」「アヴィニョンの娘たち」

1881年 - スペインのアンダルシア地方で生まれる
1892年 - ラ・コルーニャの美術学校に入学
1894年 - 父ドン・ホセは絵の道具を息子に譲り自らが描くことをやめる
1901年 - 個展「青の時代」の始まり。
1905年 -「桃色の時代」が始まる
1907年 - 『アビニヨンの娘たち』製作。
1937年 - 『フランコの夢と嘘』(エッチング)出版、『ゲルニカ』製作。
1970年 - アヴィニョン法王庁で140点の新作油絵展。バルセロナのピカソ美術館開館。
1973年 - 南仏ニース近くにあるムージャンの自宅で肺水腫により死去。

何人もの別人格がいるかのように絵のタッチが進化・変化していった画家であり、
また彫刻作品も数多く世に残している。最大の特徴は、キュビズムという「物体をありのまま見えるものとしてキャンパスに描くのではなく、自分の世界に映るものを描く」もの。その斬新かつ革新的な絵は世界中の人々に今も愛され支持されている。
有名作品のゲルニカは戦争の激しさを独自のキュビズムで巨大なキャンバスに描ききった。
この絵の訴えかけるメッセージ性は当時の社会全体に大きな影響を与え、人々の戦争への
反対メッセージが芸術の枠を超えて様々な民衆の心をわしづかみにした。



アンディ・ウォーホル(Andy Warhol、1928年8月6日 - 1987年2月22日)

アメリカの画家・版画家・芸術家でポップアートの旗手。

1928年 - ペンシルバニア州で生まれる
1949年 - カーネギー工科大学を卒業
1952年 - 「アート・ディレクターズ・クラブ賞」を受賞
1960年 - イラストレーションの世界を捨て、ファインアートの世界へ移る。
1961年 - ポップアートを描き始める
1962年 - シルクスクリーンプリントを用いて作品を量産するようになる。
後の代表作「マリリン・モンロー」が作られた。
1965年 -「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」のプロデュースを行う
1968年 – S.C.U.Mという全男性抹殺団という組織に銃で撃たれ重傷、後に映画化
1987年 - 心臓発作で死去

アメリカを代表するポップアートの先駆者で、マリリン・モンローの絵はあまりにも有名。
1963年から1968年にかけ、60を超える映画も手掛けた。ただし実験映画的な作風から、一般公開されたものは少ない。画業廃業宣言をするほど映画にのめり込んだり、バンドを前衛的な音楽とともにプロデュースしたりと常に挑戦を続ける人物。支持は少なかったが、今もなお沢山の人々に愛されている。
彼の名言として、In the future, everyone will be world famous for fifteen minutes.
(将来、誰でも15分は世界的な有名人になることができるだろう。)というものがある。
この言葉は当時のアメリカの人々に大きな夢と希望を与えた。



常玉(1901〜1966年)

中国出身の洋画家。

1901年 - 四川省に生まれる。
1921年 - 絵画の勉強の為にフランスに渡る
1922年 – シュミエール学校でジャコメッティと出会い、個展を開催する。
1930年 - 『アヒルとボート』を制作、以降数々の絵画を残す。
1950年 – この頃からまったく絵が売れず、苦しい時期が始まる。
1966年 – 死去

パリのモンパルナスに永住しそこを拠点にフランスで活躍した。
女性の脚を描くのが好きで人物画は個性的かつ素朴な色合いで仕上がっている物が多い。
画商のアンリ=ピエール・ロシェと写真家のロバート・フランクに経済的支援を受けていた。モンパルナスでは人気の高い作家。作品は個人で所有していることが多く、美術館に置かれている作品は希少なものが多い。



堅山南風(1887年9月12日 - 1980年12月30日)

日本の画家。

1887年 - 熊本県に生まれる
1913年 - 文展初入選二等賞受賞
1914年 - 横山大観に師事
1956年 - 熊本県文化功労者顕彰
1958年 - 日本芸術院会員となる
1964年 - 日光東照宮薬師堂天井画に着手 勲三等旭日中綬章受章
1980年 - 静岡県で逝去

作風としては情緒ある日本の風景画から情景画、または想像上の動物である龍を描く画家。
有名な作品として中尊寺五大堂天井画『瑞祥龍』がある。そのスケールの大きい絵と
迫力のある龍の絵は中尊寺を訪れる観光客や住職に今も愛され、飾られている。
また風景画も魅力的で草花の彩りは日本画ならではのにじみ、グラデーションの淡さを
筆で表現している。
狩野永真安信によって描かれた日光山輪王寺薬師堂天井画『鳴龍』は、薬師堂が1961年に火災によって焼失してしまったため、現在の建物は再建。その時に、堅山南風によって復元されたものが今でも飾られている。



斉白石(1864年1月1日~1957年9月16日)

中国の画家 ・書家・篆刻家。

1864年 - 湖南省湘潭県杏子塢星斗塘に生まれる。
1876年 - 木工の傍ら表具師出身の蕭薌陔について肖像画を習い後に美人画も描いた。
1891年 - 文人画家の胡沁園に就いて花鳥画・鳥獣画を学んだ。
1894年 - 同郷の詩友と「龍山詩社」・「羅山詩社」を結び、書法や篆刻も独学
1919年 - 北京に移り住んで絵を売って生計を立てる。
しかし絵は全く売れず、人物画の依頼を受けては糊口を凌ぐ
1922年 -日中共同絵画展に作品を出典した。これをきっかけに国際的な評価が高まった。
1957年 - 死去

生まれつき体の弱かった白石は幼い頃から絵に興味を持ち、特に海老を描かせたら右に出るものはいないと言われたほど魚介類・昆虫の絵が得意だった。
海老特有の透き通った体の内部まで墨の濃淡で表現することができ、水墨画での新たな可能性を発展させた偉大な人物の一人でもある。
日中共同絵画展は東京で開催されて、当時の恩師に紹介してもらったきっかけで世の中に出ることになった斉白石は90を超えても死ぬまで1年に600作品も作るという非常にエネルギッシュな人物であった。



呉作人(1908年~1997年)

中国の画家。中央美術学院院長。

1908年 - 江蘇省に生まれた。
1930年 -ブリュッセル王立のパステン研究室に移り、油絵・彫刻を学んだ。
1935年 - 帰国、中央大学芸術系講師となる。
1946年 - 徐悲鴻に招かれて国立北平芸術専科学校油画系教授となる
1949年 - 中央美術学院の成立とともに油画系主任教授になる
1958年 - 中央美術学院院長に就いた。

水墨でパンダやラクダ、ツル等を好んで描く画家。
パンダは白と黒がメインカラーの動物だからこそ水墨画で単調な絵にならないように
パンダのフォルムそのものを濃淡で上手くデフォルメさせて紙の上に収めている。
ラクダも見たことない人にも実際の雄大さと色合いが伝わるような作品に仕上げている。
主に掛け軸として飾られることが多い呉作人の絵は今も骨董品として高額で取引されている。



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