画家一覧

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浮田克躬(1930年~1989年 )

日本の洋画家。

1930年 - 東京に生まれる。
1945年 - 東京美術学校油画科入学。安井曾太郎に師事。
1950年 - 新制作派協会第4回展に「集荷場」を出品し初入選。
1954年 - 田崎廣助に師事。第16回一水会展で「教会」が入選。
1957年 - 第13回日展に「山手の路地」を出品し初入選。
1958年 - 第20回一水会展で安井奨励賞受賞。第1回新日展で「丘の工場」が特選受賞。
1967年 - 渡欧。第10回新日展で「サンマルタン水路」が特選受賞。
1968年 - 「バスティユの冬」で第3回昭和会賞受賞。一水会委員に任命。
1979年 - ブラジル政府よりコメンダドール・オフィシャル章受章。
1981年 - 第13回改組日展で「シシリーの家」が会員賞受賞。
1988年 - 第20回改組日展で「海風の館」が内閣総理大臣賞受賞。
1989年 - 死去。

東京都杉並区に江幡寛夫の長男として生まれる。実母が病身のため幼少期から母方の祖父浮田和民に養育され、のち両親離婚のため浮田姓を名のる。聖戦美術展を見て洋画家を志し、藤嶺学園藤沢中学校に入学し、同校の図画教師灘波秀二(新制作協会)と一水会の画家石川真五郎の指導を受ける。小林萬吾のもとで石膏デッサンを学び、藤沢中学校を修了して東京美術学校油画科に入学。安井曽太郎や伊藤廉に師事。第14回新制作派協会展に
「集荷場」で初入選、第3回日本アンデパンダン展に「雪降る窓」「高原」を出品。
北海道を初めて訪れ、その雪景色に画因を見出して以後、しばしば足を運ぶ。
「冬(一)」「冬(二)」を出品し会員優賞を受賞する。その後渡欧しフランスを中心に8ケ国を巡遊。西洋の都市を描いた堅牢で構築的な作品が多く描かれた。
第3回昭和会展に「バスティーユの冬」を出品して昭和会賞を受賞。同年一水会会員に推挙される。また、日伯美術連盟評議員となって第2回日伯現代美術展に際し渡伯。
この後、西欧に加えて中南米の風景が描かれるようになる。第13回日展出品作「シシリーの家」で会員賞受賞。第17回日展出品作「城砦の島」で第4回宮本三郎記念賞を受けた。初期から風景画を中心とし、絵具を塗り重ねた重厚なマチエールを用いて、構図・明暗・濃淡、彩度すべてに対するシャープなセンスが光っていた。



岡田謙三(]1902年~1982年)

日本の洋画家。

1902年 - 横浜に生まれる。
1922年 - 東京美術学校西洋画科に入学する。
1924年 - 東京美術学校を中退。
1927年 - サロン・ドートンヌに入選。
1937年 - 二科会の会員となる。甘美な女性像と叙情的な作風で人気を博す。
1939年 - 日本大学美術学部の講師となる。
1947年 - 二科会員賞を受賞。
1950年 - 新たな可能性を求めて渡米。
1951年 - ニューヨークに住む。
1955年 - ピッツバーグ国際美術展でガーデン・グラブ賞を受賞。
1957年 - 第1回コロンビア絵画ビエンナーレで1等賞を受賞。
アメリカ芸術アカデミー・国立芸術研究所より「全米優秀芸術家の一人」に選出される。
1967年 - 毎日芸術賞を受賞。
1982年 – 死去。
1989年 - 秋田市立千秋美術館に「岡田謙三記念館」が開館。

東京美術学校を中退した後は高野三三男に誘われ、パリに留学。半年ほどアカデミー・ド・ラ・グランド・ショミエールでデッサンを学んだ。藤田嗣治をはじめとする多くの日本人画家やキスリング、ザッキン、ブルデルらとの交友を重ねるが、生活は貧窮を極めていた。
日本を代表する抽象画家で戦後ニューヨークを中心に隆盛を極めていた抽象表現に出会った。日本的な色彩感覚や自然観を表現した「幽玄」を導入する事により、ユーゲニズムと称される岡田作品独自の世界観を確立していった。ニューヨーク近代美術館・MOMA、グッゲンハイム美術館、フィラデルフィア美術館、ロックフェラー財団等に収蔵されるに至りアメリカ画壇を制作拠点とし活躍され、日本国内の各美術展にも出品していた。
1953年にニューヨークの名画商ベティー・パーソンズ女史に見いだされアメリカでの
第1回個展を開催。以後、手のこんだマチエールと奥ゆかしく優しい色彩により、装飾的ともいえる抽象作品を発表。日本の伝統的な美意識に基づいた「ユーゲニズム(幽玄主義)」といわれる独自の抽象画である。第29回ヴェネチア・ビエンナーレでアストーレ・マイエル賞を受賞。ユネスコ絵画コンテスト最高賞を受賞。現代日本美術展で国立近代美術館賞を受賞。



刑部人(1906年~1978年)

日本の洋画家。

1906年 - 栃木県下都賀郡家中村大字家中に生まれる。
1915年 - 川端龍子、鶴田吾郎の主幹するスケッチクラブの通信講座を受ける。
1922年 - 日本画家の川端玉章が設立し、本郷の川端画学校に通う。
1924年 - 東京藝術大学美術学部油絵科に入学する。
1928年 - 第9回帝展において「友人の肖像」が初入選となる。
1931年 - 美校の1年後輩だった島津一郎の妹の鈴子と結婚し、
1940年 - 芝浦の千葉大学工学部助教授となる。
1943年 - 新文展無鑑査となる。
1948年 - 第4回日展に「渓流」を出品し、特選となる。
1951年 - 日本橋三越にて第1回個展を開催。
1958年 - 新世紀美術協会に参加、第3回新世紀美術展に「渓流(奥入瀬)」を出品。
1967年 - 日展審査員に選ばれる。
1976年 - 日動画廊で「刑部人記念展」(銀座・名古屋)を開催。
1978年 - 腎不全のため死去。享年71。勲4等瑞宝章を受ける。
1979年 - 栃木県立美術館にて回顧展「刑部人展」が開催される。全216点出品。
1987年 - 日動画廊にて回顧展「刑部人」(銀座・福岡)が開催される。
2004年 - 栃木県立美術館にて「刑部人展 昭和日本紀行」展が開催される。
2007年 - 原博物館にて「刑部人 自然との対話・限りなき風景の体現」展が開催される。
2008年 -「開館5周年記念展 アートリンクとちぎ2008 風景の旅人 刑部人展」開催
2015年 - 日動画廊にて「刑部人展」が開催される

刑部は川端龍子に日本画を学び、東京美術学校の西洋画科の在学中に帝展に初入選した。ヨーロッパ各地で起こっていたフォーヴィズム、キュビズムの波に飲まれ、一時的なスランプに。作風を改めようと思い、悩んだ結果、周りの風潮や流行に惑わされず本来の写実中心の画風を確立させていった。刑部は絵筆により細部を精緻に組み立てていく表現を超え、ペインティングナイフのバネの反動を利用して生乾きの絵具を重ねていくアクション・ペインティング風の独特の画風を生み出す。
刑部の「落合文化村」には、佐伯祐三などの画家が住んでいた。刑部邸の隣の土地に林芙美子が夫の緑敏と居を構えた。画家だった緑敏は薔薇づくりを趣味としており、刑部は隣家から毎年季節になると届く薔薇を好んで描いた。梅原龍三郎、中川一政、朝井閑右衛門等も緑敏の薔薇を描いたが、画家たちが巻きのやわらかいつぼみや、虫の食った葉を好むので、緑敏はわざと自然のままに花をつくったという。



金山平三(かなやま へいぞう 1883年~1964年)

日本の洋画家。

1883年 - 兵庫県神戸市に生まれる。
1912年 - 渡欧。パリを拠点にヨーロッパ各地に写生旅行へ。
1915年 - 帰国。
1916年 - 第10回文展で「夏の内海」が特選第二席。
1917年 - 第11回文展で「氷すべり」が特選。帝展無鑑査となる。
1919年 - 帝展審査員となる。
1935年 - 帝展改組を機に中央画壇から離れる。
1957年 - 日本芸術院会員となる。
1064年 - 死去。

東京美術学校時代は黒田清輝の指導を受け、同校の卒業後ヨーロッパに渡り、印象派に影響を受けながらも沢山の作品を残していった。帰国後は技術を高め、密度の濃い絵を描くようになり国内外からの評価が上がった。しかし1935年から翌年にかけて起こった美術界への政治の介入が転機となり、以後は中央画壇との一定の距離を保ち1964年に亡くなるまで、日本の気候と風土に根ざした風景画を中心に、静物画や人物画など、数多くの作品を制作し続けた。時代に流されながらも強く生き続けた金山の作品にはその人生の縮図が刻まれている。



金山康喜(1926年~1959年)

日本の洋画家。

1926年 - 大阪市に生まれる。
1939年 - 大阪府立今宮中学校(旧制)で学ぶ。
1943年 - 両親の出身地の富山県へ転居。官立富山高等学校 (旧制)で学ぶ。
1951年 - 渡仏。
1952年 - ソルボンヌ大学入学、同年サロン・ドートンヌ展に初入選
1953年 - 油彩画1点がフランス政府に買い上げられる。
1958年 - 一時帰国
1959年 - 逝去。

東京帝国大学、同大学院で数理経済学を学ぶ一方、猪熊弦一郎主催の田園調布純粋美術研究室で本格的に絵画を学び、新制作派協会展にも参加していた。作風として、青がシンボルカラーとなっており、ブルーの透明感のある色彩に包まれた金山の静物画は、半世紀以上過ぎても輝いているという。金山のフランス時代の作品の「静物」は何層にも薄く塗られ下の絵の具が透けて見えており、物を形成する線は繊細、と語られている。
金山は現実にあるものをそのまま描写したのではなく、頭の中に浮かぶイメージを膨らませて描くタイプの画家なので何も無いところから絵を描ける人物であった。



川口軌外(1892年~1966年)

日本の洋画家。

1892年 - 和歌山県有田郡有田川町に生まれる。本名は孫太郎。
1909年 - 和歌山県師範学校に入学。
1911年 - 洋画夏期講習会に参加し油絵を始める。
1912年 - 上京し太平洋画会研究所に学ぶ。
1913年 - 和歌山県師範学校を放校となる。
1914年 - 日本美術院洋画部に学ぶ。
1917年 - 第4回二科展に初入選。安井曾太郎に学ぶ。
1918年 - 長男、京村が生まれる。
1919年 - フランスに渡り、パリで学ぶ。
1929年 - 帰国。第16回二科展で二科賞を受賞。
1930年 - 協会会員となる。その後、独立美術協会の結成に加わる。
1931年 - 第1回独立美術協会展。以後、独立展を中心に盛んに発表を行う。
1947年 - 国画会会員となる。
1950年 - 上京し、国画会展を中心に発表を行う。
1956年 - 雅号を「軌厓」とする。
1963年 - 国画会を脱退。川口軌外展。
1964年 - 第1回和歌山県民文化賞を受賞。
1966年 - 死去。

幼少期から絵を描くのが好きで本格的にアクリル水彩を学ぶようになった。
里見勝蔵・前田寛治・小島善太郎・佐伯祐三と親交を結びあの有名なマルク・シャガールにも教えを受けた。シャガールからの影響は作風に顕著に現れている。
渡欧してからアンドレ・ロートやフェルナン・レジェに師事。帰国後は二科展・独立展・国画会展に積極的に参加していた。幻想的で絵本のような世界観を持つ川口の絵には存在感が凄まじいものだった。太平洋画会研究所と日本美術院洋画部に学んだ後、安井曾太郎に個人的な指導を受ける。和歌山市で南紀洋画展を開催、翌年第4回二科展に「静物」が初入選。フランスに渡った後、一時帰国して妻子を連れて再度渡仏する。
第二次世界大戦後は、抽象的な作風を開拓し、戦後再編されたエコール・ド・パリやアンフォルメルなど、新しい表現も積極的に取り入れて、常に実験的な姿勢で制作を続けた。日本とヨーロッパの文化に対する深い理解を根底に持ちながら、常に新たな表現を取り入れ制作に打ち込む努力・才能共に優れた画家であった。



鬼頭鍋三郎(きとう なべさぶろう1899年~1982年)

日本の洋画家。

1915年 - 岡田三郎助、辻永に師事。帝展に出品。
1923年 - 松下春雄と美術グループ「サンサシオン」結成。
1931年 - 光風会会員。
1934年 - 帝展特選。
1943年 - 陸軍大臣賞受賞。(戦後は日展に出品)
1952年 - 日展運営会参事。
1953年 - 中部日本新聞社文化賞受賞。
1956年 - 日本芸術院賞受賞。
1958年 - 日展評議員。
1963年 - 日本芸術院会員、日展理事。
1969年 - 日展常務理事。
1970年 - 勲三等瑞宝章受章。
1975年 - 日展顧問。
1982年 – 死去

日本芸術院賞受賞。光風会会員・日展顧問・日本芸術院会員。
上岡田三郎助と辻永に師事する。戦時中は従軍画家として勤しんでいた。戦後は光風会展・日展に積極的に参加し、バレリーナシリーズで飛躍の転機をつかんだ。その後、鬼頭の絵画作品の集大成的な作品である「舞妓」シリーズを展開した。作風は艶やかで女性特有の美しい曲線が見事で定評がある。舞妓の肌の白さを絶妙な明暗で表現している。
洋画タッチで日本独特の舞妓を描くということは当時としてかなり斬新であったため
鬼頭の海外からの評価も高かった。



木村荘八(きむらしょうはち1893年~1958年)

日本の洋画家、随筆家、版画家。

1893年 - 東京都で生まれる
1911年 - 葵橋洋画研究所に入る
1912年 - ヒュウザン会の結成に参加する
1915年 - 草土社を結成する
1918年 - 二科展、院展に出品する
1922年 - 春陽会創設客員として参加する
1924年 - 春陽会会員となる
1928年 - パンの会を発表する
1937年 - 永井荷風、大佛次郎の挿絵を担当する
1958年 - 死去
1959年 - 日本芸術院恩賜賞を追贈される

東京日本橋いろは牛肉店第八支店に生まれ、中学卒業後は第十支店の帳場として銀行員をしていた。幼少期より洋書・文書を読むのが好きで表現を中心とする芸術家になりたいと思うようになった。その影響を与えた長兄の承諾を得て、葵橋洋画研究所に入ったという。そこでは岸田劉生や高村光太郎などの後々活躍する画家と知り合い、ヒュウザン会を結成した。同時に、春陽会にも参加し後に事務所を引き継ぎ運営を支えるようになったという。ある時、盟友の岸田劉生が亡くなった。それからというもの、木村は挿絵画家に転向し、永井荷風の新聞連載「濹東奇譚』の挿絵を担当した。独特のタッチで情緒深く描かれた下町風俗が大衆の人気を集め名声を獲得した。美術の洋書・文書に関する翻訳や執筆をなど多忙な日々が続き脳腫瘍の発見が遅れ、脳腫瘍が原因で亡くなった。
没後に遺著『東京繁昌記(はんじょうき)』の文と絵に対して日本芸術院恩賜賞が贈られ、演劇や映画の時代考証、小唄や邦楽の権威でもあり、書籍の装丁にも優れていた。



木村忠太(きむらちゅうた  1917年~1987年)

日本の洋画家。

香川県高松市に生まれ香川県立工芸学校に入学するが病気のためこれを中退。画家を志して上京し洋画研究所に通うようになった。独立展に初入選し、独立賞受賞。高畠達四郎の推薦により帝国美術学校の本科に入学した。独立美術協会会員も認定。その後は渡仏し、以後パリに移り住んだ。具象画の先駆者としてフランスの画界にデビューを飾る。鮮やかな色彩と即興的な筆致で東洋的油彩画として注目を浴びた。日本で初めての個展を開き高い評価を獲得した。サロン・ドートンヌ出品作「ル・クロ・サンピエールの家」がパリ国立近代美術館買上げとなった時、サロン・ドートンヌ会員となる。パリの他にもニューヨーク、スイスの主要都市、東京などで個展を開催した。『木村忠太画集』が出版された。フランス政府よりシュヴァリエ・ド・ロルドル・デ・アール・エ・デ・レトル勲章というものが贈られた。



国吉康雄(くによしやすお 1889年~1953年)

日本の洋画家。

1889年 - 岡山に生まれる。
1906年 - 岡山県立工業学校染繊科で染織を学び、渡米する。
1907年 - 働きながらロサンゼルス美術学校夜間部に通う。
1910年 - ニューヨークに移り、ナショナル・アカデミー・オブ・デザインに学ぶ。
1917年 - 独立美術家協会展に出品。
1922年 - ニューヨーク、ダニエル画廊にて初個展開催。パスキンと交友。
1931年 - 一時帰国。東京と大阪で個展開催。
1939年 - 金門橋博覧会アメリカ部門一等賞。
1944年 - カーネギー・インスティテュートの合衆国絵画1994展で一等賞。
1948年 - ホイットニー美術館で回顧展開催。
1952年 - 第26回ヴェネツィア・ビエンナーレにアメリカ代表として出品する。
1953年 - 死去。

国吉自身は渡米の理由について父の助言だったと言っている。しかし実のところ、語学留学を目的とした一少年の冒険とも評されており、また当時は日本人のアメリカ移民が流行していた事も背景にあるといわれる。しかし同年はアメリカが帰化法を改正して、日本人移民1世のアメリカ国籍取得を事実上不可能にした年でもあった。
キャサリンとアメリカで結婚するが、アメリカ国籍を持たない国吉と結婚したため、当時のアメリカ法によりキャサリンもアメリカ国籍を剥奪されてしまう。
国吉のアメリカ生活はシアトルから始まり、鉄道工夫、農業労働者、ホテルの雑役夫をしながら生活をしていた。その後画学生となり国吉がダニエル画廊で開いた個展がアメリカメディアに大きく注目されて彼の作品の素朴さや独自性、モダニズムの繊細性と人間性が評価されていた。ダニエル画廊での個展は毎年続き、国吉は独特な「素朴派画家」として売り出していったという。当時の国吉について、ヨーロッパとも日本とも違うアメリカのモダニズムを生み出したという評価もあり、国吉はヨーロッパの模倣ではないアメリカ画家としてアメリカに受け入れられていった。



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