画家一覧

画家一覧

劉松年(りゅうしょうねん 生没年不明)

中国の宮廷画家。

画院学生だった劉松年は侍詔になってから張敦礼を師事して様々な山水画と人物画を描いた。作風としては巧みな技を活かした細かい人物描写と動物たちの生き生きとした姿が描かれており、羅漢という代表作では描かれた僧侶の装飾に「金泥」という金を混ぜた手法が使われており、当時の人々を驚かせた。



靳尚宜(1934年~)

中国の画家。

河南省に生まれる。1957年に優秀な成績で中央美術学院絵画学科を卒業し
大学院で修了後、中央美術学院で教師となり現在も教えている。
1980年代初頭にはアメリカで講義を行い、他にもヨーロッパや東洋諸国で
中国の伝統的な美術について広め、世界中を回っている。



青木繁(あおきしげる 1882年~1911年)

日本の洋画家。

1882年 - 福岡県久留米市に生まれる。
1899年 - 単身上京、画塾「不同舎」に入って主宰者の小山正太郎に師事した。
1900年 - 東京芸術大学 西洋画科選科に入学し、黒田清輝から指導を受ける。
1902年 - 群馬県の妙義山や信州小諸方面へスケッチ旅行をする。
1903年 - 白馬会8回展に出品した『神話画稿』は白馬会賞を受賞する。
1904年 - 美術学校を卒業する。
1905年 - 茨城県筑西市に滞在中、たねとの間に長男の幸彦(福田蘭童)が誕生した。
1907年 - 父・廉吾の危篤の知らせを聞いた青木は単身帰郷、程なく父は亡くなった。
1908年 -父亡き後の家や妻子を支えるような能はなく家族と衝突の末、放浪生活に。
1911年 - 福岡市の病院で死去。
1948年 - したがい、筑紫平野を見渡す久留米市兜山(通称「けしけし山」)に繁の歌碑が建立された。

青木は死の床において、妻子や家族に向けて不孝を詫びる旨の遺言を遺している。
彼の全盛期たる芸術家人生は東京芸大在籍時がピークでありこれ以降は全くの鳴かず飛ばずであった。その為、家庭を持つ者として支えることが出来ず福岡去ることになってしまった。作品には青木の描いた情景が肉筆によって心を抉るように再現されている。人間の肌の質感・暗がりでの影の明暗、共にキャンバスの中の世界を支える為に描かれているものとして成立している。人間としては未熟だったかもしれない青木だが、死後も親友の坂本繁二郎に支えられ、東京上野と福岡で遺作展が開催される。翌年には『青木繁画集』が発行されている。また、除幕式には坂本のほか、野尻たねや長男の蘭童も出席した。命日に行なわれるけしけし祭には、青木の短歌「我が国は 筑紫の国や白日別 母います国 櫨多き国」に蘭童が曲をつけた『母います国』が歌われるという。



青山熊治(1886年~1932年)

日本の洋画家。

1886年 – 兵庫県生野町に生まれる。
1904年 – 東京芸術大学 洋画科に入学。
1913年 – ヨーロッパへ遊学する。
1913年 - 「アイヌ」を発表。
1921年 – 第一美術協会を創立
1929年 – 大作「高原」を発表。
1932年 – 死去。

黒田清輝に師事し、その時代を代表する洋画家の一人として活躍した。青山熊治はルノアールやセザンヌの作品に影響を受けており、模写も多く残している。そこには人物デッサン、自然画の写生を数多く残されていた。落ち着いたトーンでドラマチックな表現がなされており、穏やかな作風の中に内なる情熱が熱く燃えている点が印象的である。
第1次世界対戦中、友人の協力も借りつつ混乱の中で旅行をしていたという。
命からがらやっとの思いで帰国。貧しい生活をしながら日本で暮らしていた。中央画壇で活躍していた青山はここを堺に一度表舞台から姿を消す。貧しく、絵が描けない状況が続く中、知人からの援助を受け、ようやく発表した作品が「高原」という作品。
なんと、その絵は500号にも及ぶサイズであまりの巨大っぷりに当時の人間は非常に驚いた、という。15年という長い沈黙の後、大戦中の旅行中に培った想いが込められていた。それは感嘆と共に大きな評価を得て院賞を受賞。46歳という若さで亡くなったものの、非常にドラマチックな人生を歩んだ画家であった。



朝井閑右衛門

日本の洋画家。

1901年 - 大阪に生まれる。
1919年 - 上京して本郷洋画研究所に学ぶ。
1926年 - 第13回二科展にて「廃園に於て」入選。
1934年 - 第21回光風会展にて「素描する人」、第15回帝展に「目刺のある静物」が入選。
1936年 - 光風会会友となる。文展で「丘の上」が文部大臣賞受賞。
1937年 - 光風会会員となる。
1947年 - 須田剋太、井出宣通らと新樹会を結成。
1950年 - 風光会を退会。
1962年 - 国際形象展同人となる。
1983年 - 死去。

朝井閑右衛門の絵画は鬱状態の時に描かれたものがほとんどである。双極性障害(躁鬱病)の人が躁的心情の時に描いた絵と鬱的心情の時に描いた絵では、作風が大幅に異なる。病名は双極性障害であり、そしてその躁的心情の時が彼のいちばん幸せな時であった。そして、その絵画は幸せにあふれるものである。彼は鬱に苦しみながらも作品づくりに勤しみ
時には周りの友人に気持ちを吐露するなど様々な葛藤を乗り越えてきたという。
作風がまるで別人のように違うものが並んでいるのはその為である。



浅井忠(あさいちゅう 1856年~1907年)

日本の洋画家

1856年 - 江戸の佐倉藩中屋敷に藩士・浅井常明の長男として生まれる。
1869年 - 黒沼槐山に花鳥画を学び槐庭の号を与えられ、この頃から才能を開花させる。
1875年 - 彰技堂で国沢新九郎の指導のもと油絵を学ぶ
1876年 -京都高等工部美術学校に入学、西洋画を学ぶ
1889年 - 忠が中心になって明治美術会を設立
1895年 - 京都で開催された第4回内国勧業博覧会に出品して妙技二等賞受賞。
1898年 - 東京芸術大学の教授となる。
1900年 - フランスへ西洋画のために留学。
1903年 - 聖護院洋画研究所と関西美術院を開く。
1907年 – 心臓麻痺の為、死去。

国沢新九郎に師事。フランスに留学中に様々な印象派の画風を取り入れて、自身の作品に反映させていた。また水彩画にも多くの佳作的な作品を残していった。代表作に「収穫」「春畝」などがある。関西美術院という後進の育成にも尽力した功績を持ち、浅井を尊敬する門下生は少なくない。特に津田青楓、安井曽太郎、向井寛三郎、梅原龍三郎らを輩出しており、教育者としても優れた人物であった。またかの有名な正岡子規にも西洋画を教えており、夏目漱石の『三四郎』に登場する深見画伯のモデルとも言われる人物であると言われている。



有島生馬(ありしま いくま 1882年~1974年)

日本の洋画家。

1882年 - 神奈川に生まれる。
1895年 - 父親が退官した後、学習院初等科に転校
1896年 -「睦友会」を結成して会報誌で文芸評論などを発表
1900年 - 肋膜炎を患い、学習院を中退して父の郷里である薩摩川内市で転地療養する
1901年 - 東京外国語大学イタリア語科に入学。
1903年 - 島崎藤村を小諸に訪ねた際、ピサロの絵を初めて見せられ衝撃を受ける
1910年 - 帰国し、武郎、弟・里見弴とともに『白樺』同人となりセザンヌを紹介する。
1935年 - 帝国美術院会員となる。
1936年 - 安井曽太郎らとともに一水会設立に参画。
1937年 - 帝国芸術院会員となる。
1974年 – 死去
志賀直哉、田村寛貞、黒木三次、三条公輝らと文芸サークル「睦友会」では中心的存在として活躍していた。近所の書店で見つけた『近松研究』を読んだことから近松門左衛門など日本の古典文学に夢中になり、当地で出会った日本人神父から見せられたローマの宗教美術からイタリアで絵を学びたいと思うようになる。洋画は元々藤島武二に師事し、二科会を創立していた。しかし、抽象派に反発してのち一水会を創立した。「白樺」の創刊に加わり、小説には『蝙蝠の如く』『嘘の美』などがある。また翻訳・美術随筆にも腕をふるうこともあった。文化功労者。



石井柏亭(いしい はくてい、1882年~1958年)

日本の洋画家、版画家

1882年 - 東京都台東区上野に生まれる。
1892年 - 日本美術協会や青年絵画共進会に作品を出品
1897年 - 浅井忠に入門し、油絵を学ぶ
1900年 - 結城素明らが自然主義を標榜して結成した无声会に参加。
1902年 - 太平洋画会が結成され、すぐに参加。
1904年 -東京芸術大学美術学部 洋画科に入学するが、眼病のため中退。
1907年 - 山本鼎とともに美術雑誌『方寸』を創刊、代創作版画運動の先駆者となる。
1913年 - 「日本水彩画会」を創立
1929年 - 『中央美術』を創刊
1935年 - 帝国美術院会員となり二科会を辞す。
1937年 - 帝国芸術院会員
1949年 - 日展運営会理事
1958年 - 死去。

代表作である「東京十二景」は伊上凡骨が下絵を彫っており、この2つのシリーズは浮世絵木版画の形を取っており、新版画に分類されるものである。特に「東京十二景」シリーズでは、女性が一人いて上部のコマ絵には東京の風景が描かれていた。
三代歌川豊国による錦絵「江戸名所百人美女」という作品を模して制作された作品であり、青果堂という画廊から1枚25銭で販売された。なお、「東京十二景 よし町」に描かれたモデルとなった人物は五郎丸という芸者であった。技術面においては山本鼎ほど多彩ではなかったが、水彩のタッチを生かした木版風景画を数々残していた。
二科会を創立し、後進の育成にも力を注いでいた。



猪熊弦一郎(いのくま げんいちろう、1902年~1993年)

日本の洋画家。

1902年 - 香川県高松市に生まれる。
1922年 - 東京藝術大学に進学。藤島武二教室で学ぶ。
1926年 - 帝国美術院第7回美術展覧会に初入選。
1938年 - フランスに遊学、かの有名なアンリ・マティスに学ぶ。
1948年 - 『小説新潮』の表紙絵を描く。
1950年 - 三越の包装紙「華ひらく」をデザインする。
1951年 - 東日本上野駅に大壁画「自由」を制作。
1989年 - 丸亀市へ作品1000点を寄贈。
1991年 - 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館開館。
1992年 - 所有するすべての作品などを丸亀市に寄贈する趣旨の文書提出。
1993年 - 死去。90歳。

志を同じくする伊勢正義、内田巖、小磯良平、佐藤敬、三田康、中西利雄、脇田和、鈴木誠と新制作協会を結成し、発表の舞台としていた意欲的な洋画家。
パリでの勉学を目指し日本を発つが、途中滞在したニューヨークに惹かれそのまま留まることとし、約20年間も滞在し、制作に明け暮れていた。日本に一時帰国中、病に倒れることもあったが、作品作りを止めることはなかった。ニューヨークのアトリエを引き払った後は冬をハワイでその他の季節は東京で制作するようになる。
上野駅の壁にも壁画を描いたが、慶應義塾大学大学ホールにも壁画「デモクラシー」と名古屋丸栄ホテルホールに壁画「愛の誕生」を描き、2回毎日美術賞を受賞した。
日本のモダンアート先駆者とも呼ばれており「絵を描くには勇気がいる」というのが口癖で、ニューヨークで絵についてとても長く探求し続けた画家。絵が上手すぎることが悩みなほど才能に溢れた彼の作品はセンスにあふれており、見る者に刺激と感動を与える。



今西中通(いまにしちゅうつう 1908年~1936年)

日本の洋画家。

1908年 - 高知県高岡郡窪川町に生まれる。
1927年 - 城北中学を中退し上京。川端画学校に学ぶ
1930年 - 協会研究所、独立美術研究所に移り、里見勝蔵、前田寛治に学ぶ。
1931年 - 独立美術協会展に出品。
1935年 - 独立美術展でD賞授賞。
1936年 - 同会会友。
1940年 肺結核になり療養生活を送る。
1947年 独立展に出品し会員に推されるが、同年肺結核のため永眠。

主に抽象画で有名な画家。「絵は手で描くものではないな」と豪語しており、絵を心で映し出すことを前提としている。作風にはキュビズムなどが盛り込まれており、リアリティのある写実的な世界観とは逆方向の表現路線で作品を描き続けた。
中通が死して30年、彼が学んだ独立美術研究所時代の先輩・林武画伯が美術雑誌「求美」に幻の画家と題して今西中通思い出の記事を掲載したことによって紹介されたことがある。
彼の生き様も、その崇高なる創作観念も支持する者は多かったと言える。
巨匠と呼ばれた画家の多くは凄まじい絵画を描いた。それは、「苦悩」という状況下での作品だからという解説がある。しかし、今西中通は体調が悪くても、精神的に病んでいても常に穏和な作品である。前述の「絵は手で描くものではないな」という言葉ひとつにも彼の性格が窺われる。作品には画家の性格・精神が表れる。そして、画家の性格・精神は幼少期の環境に大きく左右される。また、性格・精神は遺伝的要因もあるのだ。



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