画家一覧

日本画家

斎藤与里(さいとう より 1885年~1959年)

日本の洋画家。

1885年 – 埼玉県に生まれる。
1905年 - 京都に出て、浅井忠氏、鹿子木孟郎氏に学ぶ
1906年 - 鹿子木孟郎氏とともにパリに留学。
1908年 - 帰国。文筆活動を行い、「白樺」などで後期印象派画家を初めて日本に紹介した。
1912年 - 岸田劉生、高村光太郎らとフュウザン会を創立。
1915年 - 第9回文展に初出品した「朝」が初入選。
1916年 - 第10回文展に出品した「収穫」 が文展最初の特選に選ばれる。
1927年 - 第8回帝展でも「水郷の夏」が特選に選ばれる。               1959年 - 加須市の名誉市民第1号に推挙される。同年、死去。

フュウザン会という若手画家たちのグループを結成した後、大阪美術学校の創立に参加した。また、美術団体の槐樹社結成に参加し、機関誌『美術新論』の主幹として活躍、同社解散後は東光会を組織し会頭となるなど画家として、評論家として明治末から大正期の近代洋画の進展に大きな役割を果たしました。画家としての活躍に加えて、与里の功績として忘れることのできない事項が、この評論活動である。この頃の与里は、新芸術の紹介者としては、当時、評論を専門 としていた高村光太郎にもまして制作と文筆の両方で多くの青年たちに強い感銘を与えた。



里見勝蔵(さとみかつぞう 1891年~1981年)

日本の洋画家。

1895年 - 京都生まれ。
1917年 - 二科会展初入選。
1919年 - 東京美術学校西洋画科卒業。
1921年 - 渡欧。ヴラマンクに出会い,師事する。
1925年 - 二科会展樗牛(ちょぎゅう)賞受賞。
1930年 - 独立美術協会創立。
1953年 - 渡欧。2年間滞在。
1954年 - 国画会に会員として招かれる。
1974年 - 写実画壇創立。
1981年 - 死去。

関西美術院で鹿子木孟郎に、また東美校西洋画科に学ぶ。安井曽太郎・セザンヌに傾倒、フォーヴィズムの影響も受ける。マチス、ドラン、ブラック、ブラマンクらフォーヴィズム隆盛期のパリ画壇にあって、ブラマンクに師事しその薫陶を受けた。
二科展・院展で活躍する一方、前田寛治・佐伯祐三らと1930年協会を設立。のち児島善三郎らと独立美術協会を創立した。戦後は国画会会員となった。作風は鮮烈な色彩、奔放な筆触により、写実的なフォルムに生命の躍動を表現した。渡仏中に前田寛治、小島善太郎らと交友、佐伯祐三をプラマンクに紹介したことでも知られる。
「巴里の展覧会-ルオーの展覧会を観る-」を「中央美術」(105号)に投稿、これがわが国における最も早いルオー紹介となった。著書には『ブラマンク』等がある。



佐野繁次郎(さの しげじろう 1900年~1987年)

日本の洋画家。

1900年 – 大阪に生まれる。
1924年 信濃橋洋画研究所で小出楢重に師事。
1929年 二科展に「机」「明るい部屋」で初入選。
1931年 二科展で樗牛賞受賞。横光利一の「機械」の装丁を担当。
1937年 佐野繁次郎、渡仏しアンリ・マティスに師事。
1939年 米国経由で帰国。
1947年 二紀会展に出品。
1951年 再渡仏し、金山康喜、田淵安一と交流。
1952年 ピエール・デカルグ著『SANO』出版
1953年 日本に帰国。
1958年 グッゲンハイム国際美術展に出品。
1959年 サンパウロ・ビエンナーレ展に出品。
1987年 死去。

大阪市船場の筆墨商の家に生まれる。小出楢重に師事し、信濃橋洋画研究所に学び二科展に出品。昭和初期より横光利一の「寝園」の挿画や著作の装幀、挿画をはじめとして多数手掛ける。1937年に渡仏しアンリ・マティスに師事、ジョアン・ミロとも交流する。戦後は二紀会の創設に参加。パピリオ化粧品の重役としても活躍。パッケージデザインも手掛けた。文学者との交流も多く、1949年には舟橋聖一が佐野とその妻をモデルとする『花の素顔』を連載していたが、小説と同じように実際にも離婚騒ぎを起こしたことで話題となった。



佐分真(さぶりまこと 1898年~1936年)

日本の洋画家。

大正期昭和期に活躍した日本の洋画家。レンブラントの影響を受けリアリズムに傾倒した堅実な画風を築いた。長男は慶應義塾大学名誉教授でフランス文学者の佐分純一。
川端画学校を経て、東京美術学校西洋画科を卒業。1927~30年に渡仏し、ヨーロッパ各地を旅行、その間に光風会会員となる。帝展出品の『貧しきキャフェーの一隅』が特選となる。重厚な写実的画風で知られ、その後も帝展特選を重ねたが、昭和11年4月23日自殺した。



清水登之(しみず とし 1887年~1945年)

日本の洋画家。


幼少より絵を描くことが得意であった。軍人を志し、士官学校を受験するが失敗。翌年20歳で単身渡米し苦学した。その後、シアトルにあるフォッコ・タダマの塾に学び本格的な絵画技術を修得する。更にニューヨークに出てナショナル・アカデミー・オブ・デザインに学ぶが、途中でアート・スチューデンツ・リーグに移り、国吉康雄らと出会う。その間にルネッサンス美術とアメリカのナイーブ・ペインティングに影響をうけた。長い間の願望であった欧州へ渡り、パリにアトリエを構え制作を行なった。その後中国を経て帰国、二科展に出品した。1930年、独立協会創立の際は林武、児島善三郎、高畠達四郎らとともに参加した。戦争中は従軍画家として戦地を描いたが、これ以降の制作の態度は日本の風土や生活を描くことを自らの主要な題材として制作を続けたが、太平洋戦争中に死去した。



白滝幾之助(しらたき いくのすけ、1873年~1960年)

日本の洋画家。

1873年 - 兵庫県に生まれる。
1890年 - 上京。山本芳翠の生巧館画学校に学び、天真道場で黒田清輝に学ぶ。内国勧業博覧会で褒状。
1996年 - 第1回白馬会展から出品。
1998年 - 東京美術学校卒。
1900年 - パリ万博に出品。
1903年 - 内国勧業博覧会で3等賞。
1904年 - 渡米。 
1905年 - 渡英。
1906年 - 渡仏しラファエル・コランに師事する。
1910年 - 帰国。
1912年 - 光風会創立に参加。
1913年 - 日本水彩画会の創立に参加。
1919年 - 帝展に出品。以降新文展など出品。
1922年 - 再渡欧。
1952年 - 日本芸術院賞恩賜賞。
1960年 - 死去。

上京時、築地の工手学校に入学したが、和田三造の兄、和田正造にすすめられ生巧館画塾に入り画家となる決心をする。やがて黒田清輝の天心道場を経て美術学校に入学、その後順調に卒業した。この間、第4回内国勧業博覧会に「待ち遠し」が入選、褒状を受け有栖川官家買上となっている。その後、セントルイス万国博覧会を機会に渡米し苦学しつつ、更に欧州に渡りパリ・ロンドンに滞在して修業、7年後に帰朝した。米国、英国の留学によって肖像画に興味をおぼえ研究を重ねたという。帰国後は文展に出品をつづけ、以後帝展、日展と戦後の晩年まで官展系の作家として、審査員として写実的作品を発表しつづけていた。白瀧の作品の1つである「夜明け」は、留学前の作品「尾瀬沼の雨」および再渡欧の作品「志賀高原風景」より、藤雅三「夕景」および黒田清輝「朝日」の作風に類似している。これらは、ラファエル・コランの影響が強いもので、外光派の作品が西洋の物まねと言われたことがよく分かる。鑑賞者が風景画を観るとき、その人の心はその風景のなかに入り込みむ。そのとき感じる温度及び湿度が重要である。白瀧幾之助「夜明け」は、さわやかな空気を感じるものである。また、吉田博「夕景の帰舟」(真贋不明)も味のあるものである。



菅野圭介(すがのけいすけ)

日本の洋画家。

1909年 - 東京生まれ。京都帝大中退
1935年 - 渡欧し、フランス・グルノーブルでフランドランに師事
1936年 - この年より独立美術協会展に出品
1943年 - 独立美術協会会員
1963年 – 死去。

1936年から18年のあいだ独立美術協会展に出品し、会員となる。画号を後年圭哉,恵介とした。作風としては単純化された構図と独特の限定された色彩との調和が特徴。



鈴木千久馬(すずき ちくま、1894~1980年)

日本の洋画家。

1894年 - 福井県に生まれる。
1921年 - 東京美術学校西洋画科卒、帝展に出品
1925年 - 帝展で特選。
1930年 - 帝展の同審査員になる。
1936年 - 文展委員になる。
1941年 - 創元会を創立。
1950年 - 日展運営会参事。
1957年 - 日本芸術院賞受賞。
1972年 - 本芸術院会員。
1974年 - 勲三等瑞宝章受賞。
1980年 – 死去

はじめ白馬会洋画研究所に学び、その後東美校で藤島武二に師事する。卒業後帝展で入選を重ねたのち渡欧、ヴラマンクのフォーヴィスム等に影響を受ける。帰国後大久保作治郎・中野和高らと創元会を結成、戦後は創元展・日展を中心に活躍した。日本的フォーヴとよばれる淡泊な味わいをもつ独特な画境を拓いた。日本芸術院会員、日展顧問。勲三等瑞宝章受章。出版物として『鈴木千久馬作品集』がある。



須田剋太(すだこくた)

1906年~1990年 埼玉県出身 日本の洋画家

1936年 文展で初入選。
1939年 第3回新文展で『読書する男』が特選。
1949年 - 抽象絵画の旗手長谷川三郎と出会い、国画会に入り抽象画の道へ進む。
1950年 - 森田子龍編集の「書の美」に論文を発表する。以後「墨美」や墨人会同人との交流を通して書に深く傾倒。
1960年 - 第1回個展。
1962年 - 西宮市民文化賞を受賞。
1971年 - 司馬遼太郎に同行しながら、「街道をゆく」の挿絵を描き始める。
1975年 - 郷里の吹上町文化賞を受賞。
1983年 - 「街道をゆく」の挿絵で第14回講談社出版文化賞を受賞。
1989年 - 埼玉県立近代美術館にすべての抽象の油彩画、グワッシュの合計293点を寄贈。
1990年 - 油彩画45点、グワッシュ320点、挿絵1858点の計2223点の作品を大阪府に寄贈。
1990年 84歳で死去。

力強い奔放なタッチが特徴の画家で、初期の頃は具象画の世界で官展の特選を重ねたが1949年以降抽象画へと進む。
司馬遼太郎の紀行文集「街道をゆく」の挿絵を担当し、また取材旅行にも同行した。
死期を感じ取り作品を散逸させないため大量の寄贈を行ったと言われている。



関根正二(せきねしょうじ)

1899年~1919年 福島県出身 洋画家

1913年 図案部の顧問だった結城素明と知り合い、深水のすすめで日本画を描く。また、本郷洋画研究所に通う。
1915年 前田夕暮門下の歌人村岡黒影らと文芸同人雑誌「炎」を始める。また第2回二科展に『死を思う日』を出品して入選。
1916年 第3回二科展 3点入選。
1917年 第4回二科展で『長野近郊』が入選。『三星』『子供』の制作に入る。
1918年 第5回二科で『信仰のかなしみ」が樗牛賞を受賞。
1919年 20歳死去。

大正期の洋画家。
14歳の頃から印刷会社に勤め、本郷洋画研究所に通い本格的な作画活動を行った。
20歳で死去するというあまりにも短すぎる生涯の中、制作された作品は少ないが、1918年に描かれた『信仰の悲しみ』は日本の近代洋画史を代表する傑作の一つと評され、2003年に重要文化財の指定を受けている。



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