画家一覧

洋画家

小林和作(こばやし わさく 1888年~1974年)

日本の洋画家。

1888年 - 山口県に生まれる。
1904年 - 京都市立美術工芸学校絵画科に入学。
1908年 - 日本画家の川北霞峰に入門。
1910年 - 第4回文展に「椿」を出品し初入選。
1913年 - 第7回文展に「志摩の波切村」を出品、褒状を受ける。
1918年 - この頃洋画に転向、鹿子木孟郎の画塾に通う。
1924年 - 第2回春陽会展に初入選。
1925年 - 第3回春陽会展で「伊豆風景」ほかが春陽会賞受賞。
1926年 - 第4回春陽会展で「軽井沢の春」ほかが春陽会賞受賞。
1927年 - 春陽会会員となる。
1934年 - 独立美術協会会員となる。
1953年 - 芸術選奨文部大臣賞受賞。
1971年 - 勲三等旭日中綬章受章。
1974年 - 死去。

「色彩の魔術師」とも謳われ、気品溢れる豊麗な画風と温情ある人柄で多くの人々から敬愛されていた。尾道転居後は逝去するまでの40年間に亘って多数の秀作を描いただけでなく、広島美術界の振興や発展に大きく寄与する指導的役割を果たした。若い画学生や地方画家にも援助を惜しむ事なく、和作の生涯は創作活動によって得た利益を社会全体の為に役立てる人生であったという。「天地豊麗」という言葉を好んで使っていたという。



古茂田守介(1918年~1960年)

日本の洋画家。

1918年 – 愛媛県に生まれる。
1946年 – 大蔵省に勤めていたが、妻・美津子のすすめで退職。
1948年 – 第12回新制作派協会展にて「踊る群像」「シュミーズの女」が入選
1949年 - 第13回新制作派協会展「工房」「うずくまる裸婦」「背を向ける裸婦」
1951年 – 第15回新制作派協会展「両架を配した裸婦」「裸婦と静物」が入選
1952年 - 第16回新制作派協会展「裸婦と街」「裸婦二人」が入選
1953年 - 第17回新制作派協会展「二人の裸婦」「母子」が入選
1955年 - 第19回新制作派協会展「静物」(1)(2)が入選
1956年 - 第20回新制作派協会展「作品」(1)―(5)が入選
1957年 - 第21回新制作派協会展「裸婦」(A)(B)が入選
1958年 - 第22回新制作派協会展「腰をかけた裸婦」「体をひねった裸婦」が入選
1959年 - 第5回日本国際美術展「干魚と水差」が入選
1960年 – 死去。

兄・公雄の影響で絵を描き始め、やがて猪熊弦一郎や脇田和に認められて本格的に絵画制作を始めた。戦中から戦後にかけて、画壇の流行であった抽象表現を主とするモダニズム絵画とは一線を画し、一貫して具象絵画の可能性を探求し続けた。
猪熊弦一郎、ついで脇田和、内田厳等に師事した。中央大学法科を中退し、大蔵省に勤務、翌年新制作派展に初入選。更に翌年外務書記生として北京大使館に勤務したが、2年後に帰国し、戦後に大蔵省を退官した。この年新制作協会に出品し新制作作家賞を受け、以後同会に連年作品を送り、同会々員となった。新制作協会の他造型版画協会、アンデパンダン、国際展、国際具象派展などの出品がみられ、個展を屡開催している。黄土色や暗褐色、くすんだ緑色等を主調とする静物画や裸婦は、独特の画風をもつものであった。



小山敬三(こやま けいぞう 1897年~1987年)

日本の洋画家。

1897年 - 長野県に生まれる。
1916年 - 父の反対を押し切り、慶應義塾大学理財学科を中退し、川端画学校で藤島武二に師事。
1920年 - 島崎藤村のすすめで渡仏。コラロッシでシャルル・ゲランに油絵を学ぶ。
1928年 - 帰国。
1929年 - 神奈川県茅ヶ崎市にアトリエを構える。
1936年 - 有島生馬、山下新太郎らと一水会を結成。
1959年 - 連作「白鷺城」で日本芸術院賞を受賞[1]。
1960年 - 日本芸術院会員。
1970年 - 文化功労者。
1975年 - 文化勲章を受章。
1987年 – 死去。

文化勲章を受け取った際に、生まれ故郷の小諸市に代表作を寄贈し村野藤吾設計による小諸市立小山敬三美術館が完成した。1985年には私財2億円を寄贈し小山敬三美術振興財団設立、中堅の洋画家を対象にした小山敬三美術賞の授与と油彩画修復技術家の留学奨励を行ったが、後の2006年に解散した。また、油彩画の技法、修復技術の研究の必要を認識し、最晩年に私財を投じて小山敬三美術振興財団を設立し、小山敬三記念賞による油彩画家の表彰、油彩修復技術者の海外派遣を行なうこととするなど洋画の発展に寄与するところが大きかった。浅間山を好んで描き「紅浅間」など重厚で高雅な風景画を多く残していたことが多かった。



斎藤義重(さいとう よししげ 1904年~2001年)

日本の洋画家。

1904年 - 東京に生まれる。(青森に産まれた、という説もある)
1933年 - アヴァンガルド洋画研究所に入る(1935年離籍)
1936年 - 第23回二科展(東京府美術館)出品、初入選
1938年 - 絶対象派協会を結成(2月)、九室会に参加(12月)
1957年 - 第4回日本国際美術展(東京都美術館)出品、K氏賞受賞
1958年 - 初個展「斎藤義重展」(東京画廊)
1960年 - 第3回グッゲンハイム国際美術賞展出品、優秀賞受賞
1963年 - 「現代絵画の動向―西洋と日本―」展(国立近代美術館京都分館)出品
1964年 - 第32回ヴェネツィア・ビエンナーレ出品 多摩美術大学教授に就任
1965年 - 「日本の新しい絵画と彫刻」展 出品
1974年 - 針生一郎、中原佑介らと「現代文化センター(CCC)」を開設
1978年 - 「斎藤義重展」(東京国立近代美術館)
1993年 - 「斎藤義重による斎藤義重展 時空の木―Time・Space, Wood―」
1999年 - 「斎藤義重展」(神奈川県立近代美術館)
2000年 - 大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2000、出品
2001年 - 死去。
2003年 - 「斎藤義重」展(岩手県立美術館、千葉市美術館、島根県立美術館ほか)

父の書斎でヨーロッパの美術・建築風景などの写真アルバムを興味深く見ていたという幼少期を経て、中学時代から絵を描き始める。16歳頃、ロシア未来派の亡命画家ダヴィト・ブルリューク等の作品展を見て、制作のあり方と表現に衝撃を受けた。1933年から1935年まで古賀春江、東郷青児らが主宰する、アヴァンギャルド洋画研究所に在籍。構成主義、ダダイスムなどから刺激を受けて制作する。二科展、絶対象派協会展、九室会展などに出品し1930年代以降の前衛美術運動のパイオニア的役割を果たす。1960 年代、ドリルを用いて合板の表面に素早く傷つける作風がはじまり、70年代、シンプルな造形と単色の合板レリーフによる、「四つの位置」や「反対称」シリーズを発表、さらに80年代は黒色に塗布された板を連結した「複合体」シリーズへと進展し、独自の構成主義的作品を制作した。2000年には越後妻有トリエンナーレに出品するなど、97歳でその生涯を終えるまで精力的に活動を続けた。



斎藤与里(さいとう より 1885年~1959年)

日本の洋画家。

1885年 – 埼玉県に生まれる。
1905年 - 京都に出て、浅井忠氏、鹿子木孟郎氏に学ぶ
1906年 - 鹿子木孟郎氏とともにパリに留学。
1908年 - 帰国。文筆活動を行い、「白樺」などで後期印象派画家を初めて日本に紹介した。
1912年 - 岸田劉生、高村光太郎らとフュウザン会を創立。
1915年 - 第9回文展に初出品した「朝」が初入選。
1916年 - 第10回文展に出品した「収穫」 が文展最初の特選に選ばれる。
1927年 - 第8回帝展でも「水郷の夏」が特選に選ばれる。               1959年 - 加須市の名誉市民第1号に推挙される。同年、死去。

フュウザン会という若手画家たちのグループを結成した後、大阪美術学校の創立に参加した。また、美術団体の槐樹社結成に参加し、機関誌『美術新論』の主幹として活躍、同社解散後は東光会を組織し会頭となるなど画家として、評論家として明治末から大正期の近代洋画の進展に大きな役割を果たしました。画家としての活躍に加えて、与里の功績として忘れることのできない事項が、この評論活動である。この頃の与里は、新芸術の紹介者としては、当時、評論を専門 としていた高村光太郎にもまして制作と文筆の両方で多くの青年たちに強い感銘を与えた。



里見勝蔵(さとみかつぞう 1891年~1981年)

日本の洋画家。

1895年 - 京都生まれ。
1917年 - 二科会展初入選。
1919年 - 東京美術学校西洋画科卒業。
1921年 - 渡欧。ヴラマンクに出会い,師事する。
1925年 - 二科会展樗牛(ちょぎゅう)賞受賞。
1930年 - 独立美術協会創立。
1953年 - 渡欧。2年間滞在。
1954年 - 国画会に会員として招かれる。
1974年 - 写実画壇創立。
1981年 - 死去。

関西美術院で鹿子木孟郎に、また東美校西洋画科に学ぶ。安井曽太郎・セザンヌに傾倒、フォーヴィズムの影響も受ける。マチス、ドラン、ブラック、ブラマンクらフォーヴィズム隆盛期のパリ画壇にあって、ブラマンクに師事しその薫陶を受けた。
二科展・院展で活躍する一方、前田寛治・佐伯祐三らと1930年協会を設立。のち児島善三郎らと独立美術協会を創立した。戦後は国画会会員となった。作風は鮮烈な色彩、奔放な筆触により、写実的なフォルムに生命の躍動を表現した。渡仏中に前田寛治、小島善太郎らと交友、佐伯祐三をプラマンクに紹介したことでも知られる。
「巴里の展覧会-ルオーの展覧会を観る-」を「中央美術」(105号)に投稿、これがわが国における最も早いルオー紹介となった。著書には『ブラマンク』等がある。



佐野繁次郎(さの しげじろう 1900年~1987年)

日本の洋画家。

1900年 – 大阪に生まれる。
1924年 信濃橋洋画研究所で小出楢重に師事。
1929年 二科展に「机」「明るい部屋」で初入選。
1931年 二科展で樗牛賞受賞。横光利一の「機械」の装丁を担当。
1937年 佐野繁次郎、渡仏しアンリ・マティスに師事。
1939年 米国経由で帰国。
1947年 二紀会展に出品。
1951年 再渡仏し、金山康喜、田淵安一と交流。
1952年 ピエール・デカルグ著『SANO』出版
1953年 日本に帰国。
1958年 グッゲンハイム国際美術展に出品。
1959年 サンパウロ・ビエンナーレ展に出品。
1987年 死去。

大阪市船場の筆墨商の家に生まれる。小出楢重に師事し、信濃橋洋画研究所に学び二科展に出品。昭和初期より横光利一の「寝園」の挿画や著作の装幀、挿画をはじめとして多数手掛ける。1937年に渡仏しアンリ・マティスに師事、ジョアン・ミロとも交流する。戦後は二紀会の創設に参加。パピリオ化粧品の重役としても活躍。パッケージデザインも手掛けた。文学者との交流も多く、1949年には舟橋聖一が佐野とその妻をモデルとする『花の素顔』を連載していたが、小説と同じように実際にも離婚騒ぎを起こしたことで話題となった。



佐分真(さぶりまこと 1898年~1936年)

日本の洋画家。

大正期昭和期に活躍した日本の洋画家。レンブラントの影響を受けリアリズムに傾倒した堅実な画風を築いた。長男は慶應義塾大学名誉教授でフランス文学者の佐分純一。
川端画学校を経て、東京美術学校西洋画科を卒業。1927~30年に渡仏し、ヨーロッパ各地を旅行、その間に光風会会員となる。帝展出品の『貧しきキャフェーの一隅』が特選となる。重厚な写実的画風で知られ、その後も帝展特選を重ねたが、昭和11年4月23日自殺した。



清水登之(しみず とし 1887年~1945年)

日本の洋画家。


幼少より絵を描くことが得意であった。軍人を志し、士官学校を受験するが失敗。翌年20歳で単身渡米し苦学した。その後、シアトルにあるフォッコ・タダマの塾に学び本格的な絵画技術を修得する。更にニューヨークに出てナショナル・アカデミー・オブ・デザインに学ぶが、途中でアート・スチューデンツ・リーグに移り、国吉康雄らと出会う。その間にルネッサンス美術とアメリカのナイーブ・ペインティングに影響をうけた。長い間の願望であった欧州へ渡り、パリにアトリエを構え制作を行なった。その後中国を経て帰国、二科展に出品した。1930年、独立協会創立の際は林武、児島善三郎、高畠達四郎らとともに参加した。戦争中は従軍画家として戦地を描いたが、これ以降の制作の態度は日本の風土や生活を描くことを自らの主要な題材として制作を続けたが、太平洋戦争中に死去した。



白滝幾之助(しらたき いくのすけ、1873年~1960年)

日本の洋画家。

1873年 - 兵庫県に生まれる。
1890年 - 上京。山本芳翠の生巧館画学校に学び、天真道場で黒田清輝に学ぶ。内国勧業博覧会で褒状。
1996年 - 第1回白馬会展から出品。
1998年 - 東京美術学校卒。
1900年 - パリ万博に出品。
1903年 - 内国勧業博覧会で3等賞。
1904年 - 渡米。 
1905年 - 渡英。
1906年 - 渡仏しラファエル・コランに師事する。
1910年 - 帰国。
1912年 - 光風会創立に参加。
1913年 - 日本水彩画会の創立に参加。
1919年 - 帝展に出品。以降新文展など出品。
1922年 - 再渡欧。
1952年 - 日本芸術院賞恩賜賞。
1960年 - 死去。

上京時、築地の工手学校に入学したが、和田三造の兄、和田正造にすすめられ生巧館画塾に入り画家となる決心をする。やがて黒田清輝の天心道場を経て美術学校に入学、その後順調に卒業した。この間、第4回内国勧業博覧会に「待ち遠し」が入選、褒状を受け有栖川官家買上となっている。その後、セントルイス万国博覧会を機会に渡米し苦学しつつ、更に欧州に渡りパリ・ロンドンに滞在して修業、7年後に帰朝した。米国、英国の留学によって肖像画に興味をおぼえ研究を重ねたという。帰国後は文展に出品をつづけ、以後帝展、日展と戦後の晩年まで官展系の作家として、審査員として写実的作品を発表しつづけていた。白瀧の作品の1つである「夜明け」は、留学前の作品「尾瀬沼の雨」および再渡欧の作品「志賀高原風景」より、藤雅三「夕景」および黒田清輝「朝日」の作風に類似している。これらは、ラファエル・コランの影響が強いもので、外光派の作品が西洋の物まねと言われたことがよく分かる。鑑賞者が風景画を観るとき、その人の心はその風景のなかに入り込みむ。そのとき感じる温度及び湿度が重要である。白瀧幾之助「夜明け」は、さわやかな空気を感じるものである。また、吉田博「夕景の帰舟」(真贋不明)も味のあるものである。



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