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中央区について

東京の都心を構成するの区の中核であり東京23区のほぼ中央に位置する。現在存在する全国の地名で『中央』を最初に使用したはしりが当区である。区内にはオフィス街・商業地である日本橋や高級ブランド街である銀座、他にも京橋、築地、月島といった歴史のある街を擁する。日本橋は五街道の起点であり、日本橋本町を含む一部地域は江戸時代には「江戸本町」と呼ばれる江戸で最初に整備された街であり、江戸の町人文化や経済・金融の中心として栄えた。江戸時代から両替商が多く存在した名残から、現在では東京証券取引所や日本銀行本店が所在するとともに、大手製薬会社やその他多くの大企業の本社が位置するオフィス街であり、千代田区の丸の内や大手町などとともに日本の金融・経済の中心地の一つである。日本橋三越本店は江戸時代から日本橋に店を構える呉服店の三井越後屋を起源とし、日本で最初の百貨店として知られる(三越は三井財閥のルーツと言われている)。他にも銀座や日本橋には江戸時代から続く老舗が今なお多く残っている。

面積は、東京特別区23区の中で、台東区に次いで2番目に小さい。人口は千代田区に次いで2番目に少ない。

文化的には、同じ江戸城の大曲輪、外堀の内側のエリアを共有する千代田区とは密接な関係にある。神田神社や日枝神社など共通の氏子地域の神社での地域間交流、共通の地区名などの共通点が多い。

河川の水面等が市街化調整区域であることを除き、区内は全域が市街化区域である。区内の77パーセント以上が商業地域に指定され、月島地区に準工業地域が、第一種住居地域や第二種住居地域が明石町や月島地区に存在する。

区域の西側は江戸時代には日本橋や京橋など下町として栄えた地域であり、東側は同時代からの埋め立てによって出来た地域である。現在、中央区は行政上、日本橋、京橋(銀座・築地などを含む)及び月島の3地域に区分されている。区内はほぼ平坦で、標高は1-3メートル。

中央区は第二次世界大戦終戦直後まで運河と水運の町であった。区内には京橋川・桜川・築地川・汐留川・三十間堀川・鉄砲洲川・箱崎川・浜町川・竜閑川などが縦横無尽に張り巡らされていた。これらの河川は戦後の残土処理や高速道路建設のため埋め立てられ(いわゆる暗渠化)、現在では往時の姿をほとんど残していないが、町や区界はこの河川に沿っていることが多い。

区の北端との区界は竜閑川跡、西端は外堀跡および日本橋川、南端は汐留川跡である。区の東端には江東区との境に隅田川が流れる。隅田川は下流で二股に分かれ(西側が本流、東側は「派流晴海運河」)、その中州には佃や月島、勝どき、豊海町、晴海がある。区の南東部は東京湾に面している。

画家について

・麻生三郎
東京都京橋区本湊町(現在の中央区湊)鉄砲洲の炭問屋麻生惣兵衛、喜代の三男として生まれる。実家は当時築地の居留区があった明石町にほど近く、下町でありながらモダンな雰囲気に影響され洋画を志したと述べている。

明治学院中等部在学中の1928年より、小林萬吾の設立した同舟舎洋画研究所にて本格的にデッサンを学びはじめ、1930年に太平洋美術学校選科に入学。ここで松本竣介や寺田政明らと出会い、長谷川利行や靉光との交流が始まる。1933年に中退し、個人活動を開始。1936年に寺田政明らとエコール・ド・東京を結成。翌1937年の第一回エコール・ド・東京展に作品を発表した。

1938年2月、突如としてヨーロッパに出発し、フランス、ベルギー、イタリア各地をまわる旅に出る。しかし折しも第二次世界大戦へ向けて状況が悪化し始め、約半年後の9月に帰国した。

帰国後は豊島区長崎にアトリエを構え、1939年には福沢一郎、北脇昇、寺田政明らと美術文化協会を結成。さらに1943年には寺田政明、松本竣介、靉光、糸園和三郎、井上長三郎、大野五郎、鶴岡政男と「新人画会」を結成。戦況が厳しくなり、軍部による抑圧の中、作品を発表し続けた。1944年に召集を受け入営するものの、身体虚弱の為に兵役不適とされてすぐに帰されたという。また空襲によりアトリエが焼失し、多くの作品が失われた。

戦後、松本竣介、舟越保武と日動画廊にて三人展を行った後、1947年より自由美術家協会に参加して戦後復興に尽力した。1950年頃から世田谷区三軒茶屋に自宅兼アトリエを構え、近所や少年期を過ごした隅田川界隈の素描作品を数多く残している。

1952年より1981年まで武蔵野美術学校にて教鞭をとり、後進の育成にあたった。1959年、第5回日本国際美術展優秀賞。1963年、芸術選奨文部大臣賞受賞。展覧会としては1973年に東京都美術館で個展を、1994年には三重県立美術館、茨城県近代美術館、神奈川県立近代美術館を巡回する「麻生三郎展」等が開催されている。

2000年4月5日 、死去。87歳没。墓地は神奈川県川崎市多摩区南生田の春秋苑。
2007年、『麻生三郎全油彩』(中央公論美術出版)が娘の麻生マユの編集により出版された。

・歌川広重
広重は、江戸の八代洲河岸(やよすがし)定火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として誕生。幼名を徳太郎、のち重右衛門、鉄蔵また徳兵衛とも称した。源右衛門は元々田中家の人間で、安藤家の養子に入って妻を迎えた。長女と次女、さらに長男広重、広重の下に三女がいた。文化6年(1809年)2月、母を亡くし同月父が隠居し、数え13歳で広重が火消同心職を継ぐ。同年12月に父も死去。

幼いころからの絵心が勝り、文化8年(1811年)15歳のころ、初代歌川豊国の門に入ろうとした。しかし、門生満員でことわられ、歌川豊広(1774年-1829年)に入門。翌年(1812年)に師と自分から一文字ずつとって歌川広重の名を与えられ、文政元年(1818年)に一遊斎の号を使用してデビュー。

文政4年(1821年)に、同じ火消同心の岡部弥左衛門の娘と結婚した。 文政6年(1823年)には、養祖父(安藤家)方の嫡子仲次郎に家督を譲り、自身は鉄蔵と改名しその後見となったが、まだ仲次郎が8歳だったので引き続き火消同心職の代番を勤めた。

始めは役者絵から出発し、やがて美人画に手をそめたが、文政11年(1828年)師の豊廣没後は風景画を主に制作した。天保元年(1830年)一遊斎から一幽斎廣重と改め、花鳥図を描くようになる。

天保3年 (1832年)、仲次郎が17歳で元服したので正式に同心職を譲り、絵師に専心することとなった。一立齋(いちりゅうさい)と号を改めた。また立斎とも号した。入門から20年、師は豊廣だけであったが、このころ大岡雲峰に就いて南画を修めている。

この年、公用で東海道を上り、絵を描いたとされるが、現在では疑問視されている。翌年から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものとなった。以降、種々の「東海道」シリーズを発表したが、各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けており、ともに秀作をみた。また、短冊版の花鳥画においてもすぐれた作品を出し続け、そのほか歴史画・張交絵・戯画・玩具絵や春画、晩年には美人画3枚続も手掛けている。さらに、肉筆画(肉筆浮世絵)・摺物・団扇絵・双六・絵封筒ほか絵本・合巻や狂歌本などの挿絵も残している。そうした諸々も合わせると総数で2万点にも及ぶと言われている。

安政5年没。享年62。死因はコレラだったと伝えられる。墓所は足立区伊興町の東岳寺。法名は顕功院徳翁立斎居士。友人歌川豊国(三代目)の筆になる「死絵」(=追悼ポートレートのようなもの。本項の画像参照)に辞世の歌が遺る。

・大木卓
明治32年7月4日に都内中央区で大木五臓円本舗の長男として生れ常盤小学校、府立第一中学校を経て、官立千葉医学専門学校を卒業し、薬剤師の免状を受ける。ついで一年志願兵として軍務に服し陸軍三等薬剤官(少尉相当官)に任官して除隊。家業の大木同名会社の副社長時代を経て大木製薬会社取締役会長となったが、かたわら白日会、自主連立展、光風会等へ出品して入選した。とくに太平洋画会では昭和30年(52回)より会員となって出品した。同会出品は昭和27年48回「さつき晴」、49回「凪」「補修船」、50回「湖畔」「外房風景」「照月湖(北軽井沢)」、51回「落之沢二景その一、その二」、52回「越中島橋」、53回「ロンドン郊外セルドンコートホテル」、「チューリッヒ・エンゲチャーチの塔」、「独乙コプレンツ駅前」、「風景」、「モンテカルロにて」、「パリーにて」、「ニースにて」、「香港風景」、54回「二右エ門島」、「五月の伊豆」、55回「海辺(波太)」、56回「蔵のある道」、57回「島の上から」、58回「山湖」、59回「残雪」、60回「清流」、「清潭」、61回「秋色」、62回「寝覚めの床(木曽福島)」、63回「雪の道」、64回「昇仙峡」、65回「静浦風景」、「滝」、「清潭」。
1969年3月2日死去した。享年70才

・岡田又三郎
昭和期の洋画家、日展理事。東京都出身。荒削りの大胆な技法で背景の省略された処理の巧みさと、伝統的な写実性を兼ね備えた風格ある画風が特徴。岡田三郎助、浦和画家の寺内萬治郎に師事。

1933年 東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)卒
1940年 東京美術学校(現・東京芸術大学) 卒
1944年 寺内萬治郎と門下生が集まり武蔵野会を結成。
1953年 「教会への道」で日展特選
1960年年から1963年まで渡仏し、1963年パリのル・サロン展銀賞受賞、同年サロン・ドートンヌ絵画部会員に推挙された。
1964年 フランスアカデミー賞受賞
1965年 パリのル・サロン展に「冬の箱根」を出展し金賞受賞
1971年 「大地の詩」で芸術選奨文部大臣賞受賞
1976年 第7回日展出品作「ともしび」で司馬遼太郎、江藤淳らと共に日本芸術院賞受賞
1983年 大宮駅の壁面にルイ・フランセンとの合作で巨大レリーフ「川の祭り」を作成
1984年 軽井沢のアトリエで急性心不全にて死去

・奥村土牛
現代日本の代表的な日本画家の一人。本名:奥村 義三(おくむら よしぞう)。号である「土牛」は、出版社を営んでいた父が寒山詩の一節「土牛石田を耕す」から引用してつけられた。院展理事長。芸術院会員。文化勲章受章。梶田半古、小林古径に師事。
刷毛で胡粉などを100回とも200回ともいわれる塗り重ねをし、非常に微妙な色加減に成功した作品が特徴とされる。<富士山図>(または「富士」)が著名で、皇居にも飾られている。
没後、作品に課せられた巨額の相続税に悩んだ子息が、比較的価値の低かったスケッチを焼却処分したことを告白し話題になった。このことは美術工芸品の相続税制の問題を世に問うことになった。

1889年 東京府東京市京橋区南鞘町(現・東京都中央区京橋一丁目)に生まれる
1900年 城東尋常小学校卒業
1905年 梶田半古の門を叩き、当時塾頭であった小林古径に日本画を師事
1907年 東京勧業博覧会に『敦盛』が入選
1920年 この年より約2年間、古径の画室で指導を受ける
1923年 中央美術社第5回展『家』にて中央美術賞受賞
1926年 この頃速水御舟に出会う
1927年 再興第14回院展『胡瓜畑』が初入選する
1929年 再興第16回院展で『蓮池』により日本美術院院友に推挙される
1932年 日本美術院同人
1935年 帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)日本画科教授に就任
1936年 第1回帝国美術展『鴨』で推奨第1位を獲得する
1944年 東京美術学校(現・東京芸術大学)講師
1945年 空襲で家が焼け、長野県南佐久郡穂積村へ疎開
1947年 帝国芸術院会員
1959年 日本美術院理事
1962年 文化勲章受章
1978年 日本美術院理事長に任命
1980年 東京都名誉都民
1990年 没、享年101。

・小貫政之助
大正14(1925)年1月10日、東京都京橋区に生まれる。昭和12(1937)年月島小学校を卒業して月島絵画塾に入り、同16年、太平洋美術学校に入学。19年同校を卒業する。27年西田勝、木内岬、木内廣と絵画彫刻四人展をサヱグサ画廊で開催。同年第16回自由美術展に「女人」を初出品する。28年、瀧口修造の推薦によりタケミヤ画廊で個展を開く。31年自由美術家協会会員に推挙され42年に同会を退くまで出品を続ける。以後、フォルム画廊での個展を中心に作品を発表し、47年フジテレビギャラリーで個展開催、53年、銅版画集『小世界』をフジテレビギャラリーより出版する。没後の64年、池田二十世紀美術館で「小貫政之助の世界展」が開催された。
1988年すい蔵がんの為、東京都立川市の立川病院で死去した。享年63。

・風間完
日本の挿絵画家である。美人画、風景画に加え、数々の新聞・雑誌の小説の挿絵を手がけ、1966年(昭和41年)の朝の連続テレビ小説「おはなはん」(NHK)のタイトル画などでも知られる。

1939年(昭和14年)に東京高等工芸学校を卒業後、2年間兵役に服し、病を得て帰還後、内田巖、猪熊弦一郎、荻須高徳に師事した。
1953年(昭和28年)、朝日新聞夕刊小説の邦枝完二「恋あやめ」で挿絵デビュー、翌年には新制作派協会会員となった。1957年(昭和32年)から2年間パリへ留学、グランド・ショーミエール研究所で学び、版画家ジョニー・フリードランデルに師事した。1967年(昭和42年)、再びパリに渡り、フリードランデル工房にて銅版画制作を行った。

風間は、東京・中野に自宅・アトリエを持っていた。

・狩野永悳
江戸木挽町に生まれる。本名は立信、幼名は熊五郎、晴雲斎とも号した。狩野宗家中橋狩野家・狩野祐清邦信の養子となり、後に宗家中橋家第15代となった。嘉永元年(1848年)幕府御用絵師となり、安政4年(1857年)法橋、翌年法眼に除す。徳川家斉から徳川家茂までの4代の将軍に仕え、弘化年間の江戸城本丸御殿再建における障壁画制作など、幕府御用を多く手がけた。
明治維新後も皇居造営の際に、皇后宮御殿御杉戸や小襖に多くの作品を描く。明治11年(1878年)に来日し日本美術の研究を始めたアーネスト・フェノロサに、古画の研究と鑑定法を教授する。甥の狩野友信と連書で、フェノロサに一代狩野姓を許し「狩野永探理信」の名を与えるなど、日本における美術史学の形成にも間接的に寄与した。明治17年(1884年)の第二回内国絵画共進会には審査員として「虎渓三笑図」を出品、銀賞を受ける。鑑画会には古画の鑑定委員として設立当初から参加しているが、フェノロサの関心が新画工の育成に移ると次第に離れていく。明治20年(1887年)明治宮殿杉戸絵を揮毫し、同22年(1889年)臨時全国宝物取調局臨時鑑査掛となる。明治23年(1890年)10月2日帝室技芸員となり、「狩野家鑑定法ニ就テ」(『国華』12号)を著したが、翌年77歳で亡くなった。戒名は永悳院殿晴雪斎立信日善大居士。墓所は池上本門寺。
弟子に、一時は養子となった武内桂舟、同じく養子となり中橋狩野家16代当主を継いだ狩野忠信、鑑画会の中心画家として活躍した小林永濯、田中(狩野)永雲。また、川辺御楯も最初永悳に学び、河鍋暁斎は晩年狩野派を継承するため、永悳に入門し直している。


・狩野栄信
狩野養川院惟信の子として江戸に生まれる。天明5年(1785年)11歳で奥絵師として勤め始め、享和2年(1802年)に法眼に叙す。文化5年(1808年)父惟信が死ぬと家督を継ぐ。同年、朝鮮通信使への贈答用屏風絵制作の棟梁となり、自身も2双制作する。文化13年(1816年)に法印となる。茶道を能くし、松平不昧の恩顧を受けたといわれる。息子養信の『公用日記』では、能鑑賞会などの公務をしばしばサボって息子に押し付ける、調子のよい一面が記されている。
こうした一方で画才には恵まれたらしく、現存する作品は秀作・力作が多い。中国名画の場面を幾つか組み合わせて一画面を構成し、新画題を作る手法を確立、清代絵画に学んで遠近法をも取り入れて爽快で奥行きある画面空間を作るのに成功している。更に家祖狩野尚信風の瀟洒な水墨画の再興や、長崎派や南蘋派の影響を思わせる極彩色の着色画、大和絵の細密濃彩の画法の積極的な摂取など、次代養信によって展開される要素をすべて準備したと言える。
弟子に菊田伊洲、菊田伊徳など

・狩野典信
幼名庄三郎、号は栄川、栄川院、白玉斎。白玉斎の号は一羽の雀が典信の部屋に飛び込み、置いてあった白玉を硯の中に落として飛び去ったという逸話に由来するという。僅か2歳で父・古信と浜町狩野家から養子入りし養父となっていた受川玄信(はるのぶ)を相次いで亡くし、以後母に育てられる。母妙性尼は水戸藩家臣・岡部忠平以直の娘で、この母が幼少の典信の代わりに公務を勤めたようだ。寛保元年(1741年)12歳の時、同朋格奥詰の岡本善悦を介して将軍徳川吉宗にお目見えし、画巻を献上する。吉宗は「栄川幼しといえども、はや衆人を越たり」と賞した上で、自身が名手と慕う狩野探幽を超えたければ探幽が学んだ古画に学べ、と指示した。宝暦12年(1762年)33歳で法眼中務卿、翌年奥絵師を仰せつけられ、安永2年(1773年)には表御医師並200石取となって、竹川町家は典信の代で初めて奥絵師となった。
典信は絵を好んだ徳川家治の寵愛深く、子の惟信や中橋狩野家の永徳高信と共に日々傍らに仕えたという。安永6年(1777年)、通常新たな屋敷を拝領すれば旧来の家屋敷は返却するのが習わしであるのに、従来の竹川町の屋敷はそのままに木挽町に新たな屋敷地838坪を拝領した。以後、時代を遡って狩野尚信の家系は、木挽町狩野家と呼ばれる。木挽町の屋敷は田沼意次の旧邸を分与されたものであり、ここから典信と意次は互いに裏門から往来し、意次の密議は常に典信の屋敷で計られたという伝承が生まれた。ただその一方で、『よしの冊子』では松平定信とも「御懇意にて」と記されている。新宅には他の狩野家より大きな画塾が設けられ、塾生の数も常に5、60人を下らなかったという。
安永9年(1780年)12月18日に法印となり栄川院を名乗る。同年11月、翌年の日蓮五百遠忌と母への報恩のため「日蓮聖人縁起絵巻」を、木挽町狩野家の菩提寺である池上本門寺に奉納した(戦災で消失)。寛政2年(1790年)新造御所の障壁画制作を主導するさなか、賢聖障子の下絵を完成させた直後亡くなった。この賢聖障子絵は典信と住吉廣行の共同制作として記録された(『禁裏寛政御造営記』)。法名は法壽院殿典信日妙大居士。池上本門寺に残る顕彰筆塚には、寡黙、真面目、清廉な人柄だったと記されている。
門人に鈴木鄰松や、津山藩御用絵師の狩野如水由信、後に浮世絵師になった鳥文斎栄之などがいる。また、弟子に狩野白珪斎という絵師がおり、この白珪斎の弟子が渓斎英泉だったという。

・岸田劉生
1891年(明治24年)、薬屋「楽善堂」を経営する実業家、岸田吟香の四男として東京銀座に生まれる。弟はのちに浅草オペラで活躍し宝塚歌劇団の劇作家になる岸田辰彌。東京高師附属中学中退後の1908年(明治41年)、東京の赤坂溜池にあった白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事した。1910年(明治43年)文展に2点の作品が入選している。
1911年(明治44年)『白樺』主催の美術展がきっかけでバーナード・リーチと知り合い、柳宗悦・武者小路実篤ら『白樺』周辺の文化人とも知り合うようになった。劉生自身生前は『初期肉筆浮世絵』、『図画教育論』や、没後に出された随筆『美の本体』(河出書房)、『演劇美論』(刀江書院)など、多くの文章を残し、これらは『岸田劉生全集』(全10巻、岩波書店)にまとめられた。
1912年(明治45年)、高村光太郎・萬鉄五郎・斎藤与里・清宮彬・木村荘八らとともにヒュウザン会を結成、第1回ヒュウザン会展には14点を出品した。これが画壇への本格的なデビューといえる。鏑木清方に日本画を学んで同展覧会を観覧に来ていた小林蓁(しげる)と翌年7月に結婚をする。(なお、ヒュウザン会展は2回で終了し、1913年(大正2年)の第2回展ではフュウザン会と改称していた)。劉生の初期の作品はポスト印象派、特にセザンヌの影響が強いが、この頃からヨーロッパのルネサンスやバロックの巨匠、特にデューラーの影響が顕著な写実的作風に移っていく。1914年(大正3年)に娘の麗子が誕生、1918年以降に彼女をモデルとした多くの「麗子像」を描く。
1915年(大正4年)、現代の美術社主催第1回美術展(第2回展以降の名称は「草土社展」)に出品する。草土社のメンバーは木村荘八・清宮彬・中川一政・椿貞雄・高須光治・河野通勢らであった。草土社は1922年(大正11年)までに9回の展覧会を開き、劉生はそのすべてに出品している。1915年に描かれ、翌年の第2回草土社展に出品された『切通しの写生(道路と土手と塀)』は劉生の風景画の代表作の一つである。
1917年(大正6年)、結核を疑われ、友人武者小路実篤の住んでいた神奈川県藤沢町鵠沼の貸別荘に転地療養の目的で居住。
1918年(大正7年)、高村光太郎に促された高田博厚が自画像を見てもらいに鵠沼を訪れる。岸田は自画像を褒めたが、傍らにあった麗子像を見て実力差を感じた高田は「あいつには一生かかってもかなわない」と絵画をあきらめ彫刻の道に進むこととなった。
1920年(大正9年)、30歳になったことを期に日記を没するまでつけはじめ、幅広い交友関係が窺われる。後年『劉生全集』や、『劉生日記』(各・岩波書店)にまとめられている。劉生を慕い、草土社の椿貞雄や横堀角次郎も鵠沼に住むようになり、中川一政らのように岸田家の食客となる若者もいた。1923年(大正12年)、関東大震災で自宅が倒壊し、京都に転居し後に鎌倉に居住。この鵠沼時代がいわば岸田劉生の最盛期であった。劉生の京都移住に伴い、草土社は自然解散の形になったが、劉生を含めメンバーの多くは春陽会に活動の場を移した。
1929年(昭和4年)9月末から、南満州鉄道(満鉄)の松方三郎の招きで生涯ただ一度の海外旅行に出かけ、大連・奉天・ハルビンなどに滞在する。劉生は満州で絵を売って資金を作り、ヨーロッパに行く算段を立てていたとされる。このため、劉生は満州で複数の絵を描いた。しかし、現地の暮らしになじめなかったこともあり、11月27日には満州を発って帰国の途に就いた。帰国直後、同行の画商田島一郎に伴われ、田島の郷里山口県徳山(現・周南市)、三週間滞在した。
しかし、12月14日に体調不良を訴え、2日の16日に医者から慢性腎臓炎による視力障害と診断されるも、彼は腎臓だけでなく胃・肝臓・心臓までも病に侵されていた。18日朝、彼は「暗い、目が見えない!」と訴え、日本画壇を支配していたフランス印象画の一画家をあげて「マティスの馬鹿野郎!」と叫び続けた。それから2日後の20日に、胃潰瘍と尿毒症のため、多量の吐血とともに38歳で永眠した。墓所は多磨霊園にある。徳山市民館前庭に岸田劉生記念碑が、1971年(昭和46年)12月4日に建てられた。現在は、文化会館前庭になっている。武者小路実篤「岸田劉生終焉之街」、川端康成「美」、梅原龍三郎「一世の偉友劉生兄」と刻まれている。
当時から潔癖症で知られており、汚物が腕に付着したことがあった時には「腕を切り落とせ」と言い張り、周囲を困惑させたことがある。病的な神経質でもあり、くしゃみをすればアスピリンを服用し、寒い時には布団を五・六枚掛けたり、トイレでは紙を一丈使っていたという。また、癇癪持ちで気に入らないことがあると当り散らすなど、社交的とはいい難い人物であった。
劉生が日本画家の甲斐庄楠音の作品を「デロリとした絵」と言ったことで、日本的な湿度のある退廃的な作品を「デロリ」と呼ぶようになったという。
晩年までパリに行くことが願望であったが、「パリに行った暁には、フランスの画家に絵を教えてやる」などと豪語していた。

・木村 荘八
牛鍋チェーン店のいろは牛肉店を創立経営した木村荘平の妾腹の八男として、東京市日本橋区吉川町両国広小路(現在の東京都中央区東日本橋)のいろは第8支店に生まれる。父の死後、浅草のいろは第10支店と京橋のいろは第3支店に移り、帳場を担当しながら兄・荘太の影響により文学や洋書に興味を持ち、小説の執筆などをして過ごす。著書『東京の風俗』所収の自伝的文章「私のこと」によると、旧制京華中学校4年生の頃から学校へはほとんど行かず、芝居見物と放蕩に熱中したという。1910年(明治43年)に同校を卒業した。

旧制中学卒業後の翌1911年(明治44年)、長兄の許可を得て白馬会葵橋洋画研究所に入学し画家を目差すこととなる。翌1912年(明治45年)、岸田劉生と知り合い親交を深め、斎藤與里の呼びかけで岸田らとともにヒュウザン会の結成に参加した。1913年(大正2年)にいろは牛肉店から独立し、美術に関する著作・翻訳を行う傍ら洋画を描き注目された。1915年(大正4年)、劉生たちと共に草土社を結成、1922年(大正11年)まで毎回出品する。二科展や院展洋画部にも出品を重ね、1918年(大正7年)に院展出品作『二本潅木』で高山樗牛賞を受賞した。

1922年、春陽会創設に客員として参加し、1924年(大正13年)に同正会員となりそこで作品の発表を続けた。1928年(昭和3年)に油絵『パンの会』を発表する。1936年(昭和11年)からは春陽会の事務所を引き継ぎ、会の運営に携わった。

1924年以降は挿絵の仕事が増し、1937年(昭和12年)には永井荷風の代表作『濹東綺譚』(朝日新聞連載)においても挿絵を担当し大衆から人気を博した。他に描いた挿絵は大佛次郎の時代小説で、幕末・明治初期の横浜新開地を舞台にした『霧笛』、『幻灯』、『花火の街』、『その人』に加え、『激流 渋沢栄一の若き日』、『鞍馬天狗敗れず』がある。

新派の喜多村緑郎を囲み、里見弴、大佛次郎、久保田万太郎等と集まりを持っていた。また、1945年(昭和20年)頃、加藤潤二の加藤版画研究所から新版画といわれる木版画「猫の銭湯」などを発表している。

晩年となった戦後は、文明開化期からの東京の風俗考証に関する著作(『東京の風俗』、『現代風俗帖』など)を多数出版、数度再刊された。多忙のため病気(脳腫瘍)の発見が遅れ、短期で悪化し1958年11月18日に東大病院において病没した。歿後刊行の『東京繁昌記』で、日本芸術院恩賜賞(1959年)を受賞した。

異母姉・木村曙や同母兄・木村荘太、異母弟・木村荘十はいずれも作家となった。異母弟・木村荘十二は映画監督である。

未来派及立体派の芸術(天弦堂、1915年)
近世美術(洛陽堂、1915年)
少年芸術史ニール河の艸(洛陽堂、1919年)
宗教改革期之画家デューラー(洛陽堂、1920年)
日本を見る(日本評論社出版部、1921年)
生活と美術(洛陽堂、1921年)
近代絵画(洛陽堂、1922年)
文芸復興期の先覚レオナルド(日進堂、1923年)
猫(新しき村出版部、1924年)
清談(新しき村出版部、1924年)
芸苑往来(中央美術社、1926年)
広重(アルス美術叢書第25編)(アルス、1927年)
風俗帖(双雅房、1943年)
近代插絵考(双雅房、1943年)
随筆美術帖(双雅房、1944年)
東京の風俗(毎日新聞社、1949年、冨山房百科文庫、1978年)
南縁随筆(河出書房[旧河出文庫]、1951年)
現代風俗帖(正・続)(東峰書房、1952年-1953年)
東京今昔帖(東峰書房、1953年)
花の生涯 画譜(龍星閣、1954年)
随筆女性三代(河出書房[河出新書]、1956年)
東京繁昌記(演劇出版社、1958年、復刻 国書刊行会、1987年、新編 岩波文庫、1993年)
絵のある手紙(中央公論美術出版、1970年)
東京風俗帖(青蛙房、1975年、新編 ちくま学芸文庫、2003年)
木村荘八全集 全8巻(講談社、1982年-1983年)
1 美術、2・3 挿絵、4・5・6 風俗、7 自伝的随筆、8 書簡・日記
木村荘八日記 校註と研究 明治篇(中央公論美術出版、2003年)

・駒井哲郎
油絵や色彩版画の作品も少数あるが、生涯にわたり一貫してエッチングを制作し、モノクロームの世界で、自己の内面、幻想、夢などを表現し続けた。作風は、パウル・クレーの影響が濃い抽象的・幻想的なもの、樹木や風景を繊細で写実的なタッチで描いたものなどがある。大岡信(詩人、評論家)、安東次男(詩人)ら文学者との交流も多く、安東とのコラボレーションによる詩画集『からんどりえ』(1960年)は、版画と詩を同じ紙に刷った、日本では初の試みと言われている。棟方志功、浜口陽三など、同時代の版画家に比べやや地味な存在ではあるが、日本美術界では長らくマイナーな分野であった銅版画の普及と地位向上に貢献した作家として高く評価されている。

駒井は1920年(大正9年)、東京府東京市日本橋区(現・東京都中央区日本橋)に製氷業者の子として生まれた。少年時代を品川区五反田、港区麻布などで過ごす。1933年(昭和8年)慶應義塾幼稚舎から慶應義塾普通部に進み、図画教師・仙波均平を知る。1935年(昭和10年)、慶應義塾普通部在学中に、当時「日本エッチング研究所」を主宰していた西田武雄(1895年-1961年)という人物のもとに日曜日ごとに通ってエッチングの技法を習得した。西田武雄は画商を営むかたわら、銅版画の普及に尽力し、『エッチング』という雑誌を自費出版に近い形で発行していた。少年駒井哲郎がエッチングに魅せられたのは、この『エッチング』誌に載っていたジャン=フランソワ・ミレーの版画を見たことがきっかけだったという。

駒井は1938年(昭和13年)、慶應義塾普通部を卒業し、東京美術学校(現・東京藝術大学)油画科に入学。当時の美術学校は予科1年、本科4年であったが、戦時下のため半年繰り上げて1942年(昭和17年)9月に卒業した。東京美術学校油画科では、卒業制作として自画像を描くことが慣例化しており、駒井の自画像も東京藝術大学に現存している。暗闇の中に白い顔だけが浮き出したような、特異な作風の自画像は、駒井の数少ない油絵作品の1つである。

第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)、第16回日本版画協会展に出品。入選して同会会員に推挙されている。1950年、 春陽会第27回展で春陽会賞を受賞。1951年(昭和26年)には『束の間の幻影』がサンパウロ・ビエンナーレ展で聖日本人賞を受賞。翌1952年、スイスのルガノ国際版画ビエンナーレでも国際次賞を受賞している。1953年(昭和28年)には資生堂画廊で初の個展を開催した。同時期に多分野の芸術グループ実験工房にも参加している。

1954年(昭和29年)から翌年にかけて渡仏。パリの国立美術学校でビュランの技法を学んでいる。ビュラン(「エングレーヴィング」と同義)とは、銅版画の技法の1つで、薬品で銅板を腐蝕させるエッチングとは異なり、「ビュラン」という一種の彫刻刀で銅板に直接線を彫っていく技法である。もっとも、帰国後の駒井は再びエッチングの技法に戻り、ビュランの作品をほとんど残さなかった。駒井は日本へ帰国後まもない1956年(昭和31年)、『芸術新潮』誌の3月号に「自信喪失の記」という文章を寄せ、西洋の版画美術のすばらしさに圧倒されたこと、熟練を要する「ビュラン彫り」の技術習得は30歳を過ぎてからでは困難であったことなどを述懐している。

1959年には、日本版画協会第27回展で日本版画協会賞を受賞、同年、第5回日本国際美術展でブリヂストン美術館賞を受賞。

駒井は1963年(昭和38年)、東京藝術大学講師となり、1971年(昭和46年)には同・助教授、翌年教授に就任している。1973年、自選による『駒井哲郎銅版画作品集』(美術出版社)を刊行。働き盛りの56歳であった1976年(昭和51年)、舌がんのため死去した。

2012年、福原義春が50年以上かけて収集した駒井哲郎の作品約500点が世田谷美術館に寄贈された。

・佐伯米子
東京府東京市京橋区銀座尾張町(現東京都中央区銀座)出身。旧姓は池田。東京女学館卒。川合玉堂に日本画を学ぶ。
1921年佐伯祐三と結婚。1923年夫とともにフランスにわたり、モーリス・ド・ヴラマンクに師事。1925年「アルルのはね橋」がサロン・ドートンヌに入選。
1926年2月帰国し、13回二科展に出品し、5点が入選した。
1927年9月再び渡仏。1928年8月、夫祐三と娘弥智子がフランスで相次いで死去。1928年10月帰国。
1946年三岸節子らと女流画家協会を創立。1949年より二紀会絵画部理事。1967年、第21回二紀展文部大臣奨励賞受賞。

・白井保春
明治38(1905)年1月24日、東京日本橋に生まれる。大正12(1923)年東京美術学校彫刻科に入学し、同年第10回院展に木彫「水辺」で初入選、翌年第11回同展に木彫「海」で、同14年第12回同展に塑像「裸婦」で入選を続け、エジプトやギリシアなど西洋古典彫刻に学んだ簡略な造形で注目された。昭和5(1930)年第17回院展に「女立像」「上田氏像」を出品して院友に推され、同8年第20回同展に「父の像」を出品して日本美術院賞を受ける。同展には昭和10年まで出品を続けた。また、昭和4年第10回帝展に「海」で初入選、同11年文展招待展に「婦人姿態」を出品、新文展には第1回展から無鑑査出品し、官展でも活躍した。戦後は昭和35年から太平洋美術展に出品し、同年会友に推挙され、翌年同会会員となった。同43年第64回同展に「トルソ」を出品して藤井記念賞、同49年同会会員秀作賞、同50年も「母子像」で同賞を受賞した。日本メダル協会にも属し、昭和53年芸術メダル協会文部大臣賞を受賞している。木彫のほか石、乾土を素材とする塑像も手がけ、作風も伝統的仏像、対象の科学的観察にもとづく写実的人物像、様式化を進めた裸体像など多様に展開した。
官展出品歴
第10回帝展(昭和4年)「海」、文展招待展(同11年)「婦人姿態」、第1回新文展(同12年)「童子」、第2回同展「観自在」、第3回同展「小兒の像」、紀元2600年奉祝展(同15年)「施無畏者」、戦時特別展(同19年)「猛進」
院展出品歴
第10回(大正12年)「水辺」、11回「海」、12回「少女半身像」「裸体習作」、15回(昭和3年)「座像試作」「少女像」、16回「水のほとり」、17回「女立像」「上田氏像」、18回「習作」「坐像」、19回「浴婦半身像」、20回「父の像」、21回「花筺」「肖像試作」、22回「婦人裸像」
1990年急性肺炎による呼吸不全のため、東京都練馬区の東武練馬病院で死去した。享年85。

・神保朋世
鰭崎英朋及び伊東深水の門人。本名は神保貞三郎。俳号は窓良子。牡丹園経営の父三吉、母マサの三男一女の長男として東京日本橋薬研堀に生まれる。1917年に朝日新聞社に入社した後、挿絵画家として知られていた英朋に師事、朋世の号をうけた。その後、本画の制作を志して1940年に深水にも教えを受けた。主に美人画を描きながら、社会主義への共感から大衆芸術に深い関心を抱き、挿絵の制作を中心とするようになり、雑誌『講談倶楽部』、『週刊朝日』、『週刊新潮』、『オール読物』などにおいて小説の挿絵を手掛けている。また、1926年、国民新聞連載の講談の挿絵など各種新聞の挿絵も描いており、第二次世界大戦戦前の1931年から『オール読物』において連載が開始されていた野村胡堂の「銭形平次捕物控」では、著者の胡堂が逝去するまで30年に亘って挿絵を描き続けた。ほかに邦枝完二の「振袖役者」の挿絵が著名である。1937年8月に「神保朋世版画研究会」を自宅に設け、『神保朋世木版画集』を私家版により出版している。これは第一集『春宵』、第二集『夜情』、第三集『雨後』と三集を刊行、全て彫は佐藤寿録吉、摺は猪村正之助が担当をした。木版画は「雨」などの美人画8点と「芭蕉翁之図」があるといわれる。俳句結社『窓』を主宰していた。著作に1967年芳賀書店刊行の『耽美うき世絵ばなし』がある。1994年3月10日午前8時20分、老衰のため東京都新宿区中落合の自宅で死去した。享年91。

・須田寿
東京に生まれる。1926年、東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科で和田英作に師事した。在学中の1930年に第十一回帝展に《裸婦》が入選し、それ以降、帝展、日展に出品を続けた。1949年には、官展系の日展に不満をもつ牛島憲之らと共に立軌会を結成し、その後同会を中心に発表をしていく。重厚なマチエールで描かれた暗い色調の都市、草原などの風景の中に、人物や馬、鳩などが象徴的に浮かび上がるように配された不思議な空間を持つ作品を多く制作している。

・月岡芳年
天保10年3月17日(1839年4月30日)、江戸新橋南大坂町(武蔵国豊島郡新橋南大坂町[現・東京都中央区銀座八丁目6番]。他説では、武蔵国豊島郡大久保[現・東京都新宿区大久保])の商家である吉岡兵部の次男・米次郎として生まれる。のちに、京都の画家の家である月岡家・月岡雪斎の養子となる(自称の説有り、他に父の従兄弟であった薬種京屋織三郎の養子となったのち、初めに松月という四条派の絵師についていたが、これでは売れないと見限って歌川国芳に入門したという話もある)。
嘉永3年(1850年)、12歳で歌川国芳に入門(1849年説あり)。武者絵や役者絵などを手掛ける。
嘉永6年(1853年)、15歳のときに『画本実語教童子教余師』に吉岡芳年の名で最初の挿絵を描く。同年錦絵初作品『文治元年平家一門海中落入図』(大判3枚続)を一魁斎芳年の号で発表。
慶応元年(1865年)に祖父の弟である月岡雪斎の画姓を継承、中橋に居住した。
慶応2年(1866年)には橘町2丁目に住し、同年12月から慶応3年(1867年)6月にかけて、兄弟子の落合芳幾と競作で『英名二十八衆句』を表す。これは歌舞伎の残酷シーンを集めたもので、芳年は28枚のうち半分の14枚を描く。一連の血なまぐさい作品のなかでも、殊に凄まじいものであった。明治元年(1868年)、『魁題百撰相』を描く。これは、彰義隊と官軍の実際の戦いを弟子の旭斎年景とともに取材した後に描いた作品である。続いて、明治2年(1869年)頃までに『東錦浮世稿談』などを発表する。この頃、桶町、日吉町に住む。
明治3年(1870年)頃から神経衰弱に陥り、極めて作品数が少なくなる。
1872年(明治4年/明治5年)、自信作であった『一魁随筆』のシリーズが人気かんばしくないことに心を傷め、やがて強度の神経衰弱に罹ってしまう。翌1873年(明治6年)には立ち直り、新しい蘇りを意図して号を大蘇芳年に変える。また、従来の浮世絵に飽き足らずに菊池容斎の画風や洋風画などを研究し、本格的な画技を伸ばすことに努め、歴史的な事件に取材した作品を多く描いた。
1874年(明治7年)、6枚つながりの錦絵『桜田門外於井伊大老襲撃』を発表。芳幾の新聞錦絵に刺激を受け、同年には『名誉新聞』を開始、1875年(明治8年)、『郵便報知新聞錦絵』を開始。これは当時の事件を錦絵に仕立てたもの。1876年(明治9年)、南金六町に住む。
1877年(明治10年)に西南戦争が勃発し、この戦争を題材とした錦絵の需要が高まると、芳年自身が取材に行ったわけではないが、想像で西南戦争などを描いた。
1878年(明治11年)には丸屋町に住んでおり、天皇の侍女を描いた『美立七曜星』が問題になる。
1879年(明治12年)に再び南金六町に戻り、さらに宮永町へ転居しているが、この時期、手伝いにきていた坂巻婦人の娘・坂巻泰と出会っている。
1882年(明治15年)、絵入自由新聞に月給百円の高給で入社するが、1884年(明治17年)に『自由燈』に挿絵を描いたことで絵入自由新聞と問題になる。また、『読売新聞』にも挿絵を描く。
1883年(明治16年)、『根津花やしき大松楼』に描かれている幻太夫との関係も生じるが、別れ、翌1884年(明治17年)、坂巻泰と正式に結婚する。
1885年(明治18年)、代表作『奥州安達が原ひとつ家の図』などによって『東京流行細見記』(当時の東京府における人気番付)明治18年版の「浮世屋絵工部」、すなわち「浮世絵師部門」で、落合芳幾・小林永濯・豊原国周らを押さえて筆頭に挙げられ、名実共に明治浮世絵界の第一人者となる。この頃から、縦2枚続の歴史画、物語絵などの旺盛な制作によって新風を起こし、門人も80名を超していた。この年、浅草須賀町に移る。
1886年(明治19年)10月、やまと新聞社に入社、錦絵『近世人物誌』を2年継続して掲載する。 1888年(明治21年)、「近世人物誌」を20でやめ、錦絵新聞附録とする。この時期までに200人余りの弟子がいたといわれる。
その後、『大日本名将鑑』『大日本史略図会』『新柳二十四時』『風俗三十二相』『月百姿』『新撰東錦絵』などを出し、自己の世界を広げて浮世絵色の脱した作品を作るが、それに危機を覚えてか、本画家としても活躍し始める。『月百姿』のシリーズは芳年の歴史故事趣味を生かした、明治期の代表作に挙げられる。また、弟子たちを他の画家に送り込んでさまざまな分野で活躍させた。
晩年にあたる1891年(明治24年)、ファンタジックで怪異な作品『新形三十六怪撰』の完成間近の頃から体が酒のために蝕まれていき、再び神経を病んで眼も悪くし、脚気も患う。また、現金を盗まれるなど不運が続く。5、6年暮らした浅草の自宅の家相がよくないと聞き、日本橋浜町に新築するため、本所亀沢町に仮寓する。
1892年(明治25年)、新富座の絵看板を右田年英を助手にして製作するものの、病状が悪化し、巣鴨病院に入院する。病床でも絵筆を取った芳年は松川の病院に転じるが、5月21日に医師に見放されて退院。6月9日、東京市本所区藤代町(現・東京都墨田区両国)の仮寓(仮の住まい)で脳充血のために死亡した(享年54、満53歳没)。しかし、『やまと新聞』では6月10日の記事に「昨年来の精神病の気味は快方に向かい、自宅で加療中、他の病気に襲われた」とある。
芳年の墓は新宿区新宿の専福寺にある。法名は大蘇院釈芳年居士。1898年(明治31年)には岡倉天心を中心とする人々によって向島百花園内に記念碑(月岡芳年翁之碑)が建てられた。

・鳥居清長
鳥居清満の門人。江戸本材木町(現在の日本橋)の書肆白子屋関口市兵衛の子。関氏。俗称は市兵衛(一説に新助)。屋号は白子屋。住んでいた場所から「新場の清長」とも呼ばれた。
明和4年(1767年)に細判紅摺絵でデビュー。19歳より清長を名乗り(初めの号は長兵衛とされる)、安永(1772年‐1781年)年間に110点程の細判役者絵を残している。安永7‐8年(1778年‐1779年)頃から次第に鳥居派風を脱し、当時流行していた勝川春章らの似顔絵的な役者絵の影響を受けて紅摺絵から細判の錦絵に変わるが、役者絵の制作はすくない。代わって中判の美人画と黄表紙挿絵の制作が増えてくる。黄表紙は安永4年(1775年)から描き始め、天明2年(1782年)まで120点余りの作に挿絵しており。この時期の作画の中心であった。

・橋本雅邦
雅邦の父の橋本養邦(はしもとおさくに)は武蔵国(埼玉県)川越藩の御用絵師であり、木挽町狩野家当主晴川院養信(せいせんいん おさのぶ)の高弟として同家の邸内に一家を構えていた。このため雅邦は天保6年にこの木挽町狩野家の邸内に生まれている。
慣習に従い5歳の頃から実父より狩野派のてほどきを受け、12歳の時正式に父と同じく養信に入門する。ただし養信はこの一月後に没したため、実際にはその後継者である勝川院雅信(しょうせんいん ただのぶ)を師としたと見てよい。この一年前に狩野芳崖も入門しており、7歳年下で穏和な人柄の雅邦と、激情家の芳崖と性格は正反対であったが、共に現状の狩野派への不満と独創的表現への意欲を共有し、生涯の親友となる。両者は早くも頭角をあらわし、安政4年(1857年)23歳で塾頭となる。芳崖、狩野勝玉、木村立嶽と共に勝川院門下の四天王と称され、特に芳崖とは「勝川院の二神足」「勝川院の竜虎」と呼ばれ、塾内の絵合わせでは共に源平の組頭を務めた。
安政7年(1860年)雅邦の号をもらって絵師として独立を許され、池田播磨守の家臣高田藤左衛門の娘・とめ子と結婚する。しかし当時既に絵画の需要は少なく、また明治維新の動乱に際しては一時藩主のいる川越に避難することになる。更に明治3年(1870年)に木挽町狩野家は火災で焼失、雅邦も財産のほとんどを焼失してしまう。妻は発狂し、雅邦は病妻を亡くなるまで世話した。翌年には出仕していた川越藩も廃止され、兵部省の海軍兵学校において図係学係として製図を行うようになった。この後狩野派の絵師としての活動はほとんど出来なくなり、一時は油絵を描くことさえ余儀なくされた。
転機となったのはアーネスト・フェノロサによる伝統絵画の復興運動であり、フェノロサの庇護を受けていた芳崖と共に新しい表現技法を模索するようになる。明治15年(1882年)の第一回内国絵画共進会では、『琴棋書画図』(MOA美術館蔵)が銀印主席を取り、同じく出品した『竹に鳩』(三の丸尚蔵館蔵)が宮内省の御用となっている。明治17年(1884年)にフェノロサが鑑画会を発足すると早い時期から参加し、盛んに制作を行うようになった。
明治19年(1886年)には海軍兵学校を辞し、文部省の絵画取調所に出仕するようになった。こうしてフェノロサ・岡倉天心の指揮下で芳崖と共に東京美術学校の発足に向けて準備を進めるが、開校を目前にした明治22年(1889年)に芳崖は死去、その絶筆である《悲母観音》の仕上げを任された。このため明治23年(1890年)の東京美術学校開校に際しては、芳崖の代わりに絵画科の主任となった。さらに同年に帝室技芸員制度が発足すると10月2日に第一次のメンバーに選ばれ、これにより名実ともに当時の絵画界の最高位に登り詰めた。
東京美術学校では雅邦四天王と呼ばれた下村観山、横山大観、菱田春草、西郷孤月の他、川合玉堂、橋本静水らを指導しており、その指導が近代美術に及ぼした影響は大きい。しかし明治31年(1898年)には天心が罷免され(美術学校騒動)、雅邦も職を辞し日本美術院の創立に参加した。
以後、雅邦は在野でありながらも画壇の重鎮として重んじられ、美術院の活動の傍ら後続の指導などを行っている。
明治41年(1908年)に胃癌のため死去した。法名は謙徳院勝園雅邦操居士。墓所は江東区平野にある、元浄心寺の塔頭・玉泉院(江東区登録文化財)。なお次男・橋本永邦、三男・橋本秀邦も日本画家になっている。

・馬淵聖
大正9(1920)年1月12日東京市京橋区南鍛冶町12番地(現中央区京橋2丁目6番地)に生まれ、第二東京市立中学校を経て、昭和16年12月東京美術学校工芸科図案部を卒業した。在学中の昭和15年光風会第27回展、造型版画協会展に初入選し、同17年造型版画協会会員となったが戦後の同25年退会する。戦後は同26年の第7回日展に「立秋」で初入選し、以後日展に出品を続けたのをはじめ、翌27年には日本版画協会会員となる。同31年光風会会員(42年評議員)となり、同35年には日版会の創立に参画し、同56年日版会会長となった。埴輪や果実を得意モチーフとして制作した。
1994年心不全のため神奈川県芽ケ崎市の長岡病院で死去した。享年74。

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