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福岡県について

"九州地方北部に位置し、九州地方の県では最も人口が多い。県庁所在地の福岡市は、九州地方で最大の人口を擁する都市である。福岡市と北九州市の2つの政令指定都市を抱え、いわゆる三大都市圏以外では人口密度が1,000人/km2を超える唯一の県である。

北部は日本海(響灘・玄界灘)、東部は瀬戸内海(周防灘)、筑後地方は有明海に面している。県の中心部を筑紫山地が連なっており、筑後川・矢部川・遠賀川流域、宗像地域、京築地域では平野が広がっており水田地帯が多い。

玄界灘の壱岐や対馬をはさんで大韓民国があり、同国南部の主要都市である釜山までは福岡市から直線距離で200km程度 である。また、中国の上海市までは同様に850km程度といずれも東京より近い。これらの事例のように、近隣諸国の主要都市がおおむね1,000km圏内に存在するため、博多港、福岡空港、北九州港、北九州空港などから韓国や中国、台湾などのほか東南アジアの主要都市への航路が多く設定され、これらの地域からの観光客が増加傾向にある。

福岡県の東西南北それぞれの端と、都道府県界の未確定部分に仮の境界線を入れて求めた重心は以下の位置である。北端は沖ノ島の割鼻、南端は三池港のKMアルミニウムの工場、東端は国道10号と国道212号の交差点の南東付近、西端は烏帽子島。また統計局の平成22年国勢調査によると、人口重心は飯塚市の内住にある。

福岡県は九州地方の中で一番人口が多い県です。
プロ野球チームの、「福岡ソフトバンクホークス」の拠点地としても有名ですしスーパーの「ダイエー」も全国的に名が知れています。

また、福岡空港は日本西部地域の拠点として位置づけされているので、製造企業やIT企業なども多くあり、国内外からも多くのビジネスマンが訪ます。
鉄道ではJR博多駅があり、博多駅周辺には大型のショッピングモールもあり、休日などには芸能人のイベントやファッションショーなども開催されることが多いため、市内外からも多くの方が訪れますし、観光スポットとしても有名です。
夜にも営業しているラーメン店などの屋台も有名です。
また、お土産としても有名な郷土料理は、「もつ鍋」や「辛子明太子」福岡県で全体的に楽しむことができる「豚骨ラーメン(博多ラーメン・久留米ラーメン)」がありJR博多駅前の売店でも購入することができるので、福岡県に訪れた方々が購入することも多いです。
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画家について

・青木繁
青木繁は現在の福岡県久留米市荘島町で、旧久留米藩士である青木廉吾の長男として生まれた。武士の系譜を引く父は厳格な人物で息子の画家志望を聞かされた時、「美術だと。武術の間違いではないのか」となじったという逸話が残っている。青木は同じ久留米生まれの洋画家坂本繁二郎とは同い年で小学校の同級生、そして終生の親友であった。同時代人の証言や本人による『自伝草稿』によれば、青木は歴山帝に憧れる早熟な文学少年であったとされる。絵画のほかに短歌もよくし、短い生涯に多くの文章を残している。

青木は1899年(明治32年)、満16歳の時に中学明善校(現福岡県立明善高等学校)の学業を半ばで放棄して単身上京、画塾「不同舎」に入って主宰者の小山正太郎に師事した。その後肺結核のため麻布中学を中退。1900年(明治33年)、東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科選科に入学し、黒田清輝から指導を受ける。1902年(明治35年)秋から翌年正月にかけて、久留米から上京していた坂本らと群馬県の妙義山や信州小諸方面へスケッチ旅行へ出かけている。これは無銭旅行に近い珍道中だったことが坂本の書簡などから窺えるが、青木はこの旅行中に多くの優れたスケッチを残している。1903年(明治36年)に白馬会8回展に出品した『神話画稿』は白馬会賞を受賞した。『古事記』を愛読していた青木の作品には古代神話をモチーフにしたものが多く、題材、画風ともにラファエル前派などの19世紀イギリス絵画の影響が見られる。1904年(明治37年)夏、美術学校を卒業したばかりの青木は、坂本や不同舎の生徒で恋人でもあった福田たねらとともに千葉県南部の布良に滞在した。代表作『海の幸』はこの時描かれたもので、画中人物のうちただ1人鑑賞者と視線を合わせている人物のモデルはたねだとされている。この頃が青木の最盛期であった。以後は展覧会への入選もかなわず、下降線をたどっていった。

1905年(明治38年)8月、今の茨城県筑西市に滞在中、たねとの間に長男の幸彦(福田蘭童)が誕生した。しかし、彼女とは最後まで入籍しなかった。1907年(明治40年)8月、父・廉吾の危篤の知らせを聞いた青木は単身帰郷するも、程なく父は亡くなった。画家としては天才と言われた青木であったが、父亡き後の家や妻子を支える才はなく、家族と衝突の末に1908年(明治41年)10月、郷里を離れて天草、佐賀など九州各地を放浪する生活に入った。この間にも創作を続け、『月下滞船』(1908年(明治41年))のような佳作もあるが、持病の肺結核が悪化して心身共に衰弱し、画家としてのピークは過ぎていた。1911年(明治44年)3月、福岡市の病院で死去した。死の床において、妻子や家族に向けて自らの不甲斐なさを詫びる旨の手紙を書き遺している。

青木の死後、坂本は遺作展の開催や画集の刊行に奔走。死の翌年である1912年(明治45年)には東京上野と福岡で遺作展が開催され、その翌年には『青木繁画集』が刊行されている。また、1948年(昭和23年)には遺言にしたがい、筑紫平野を見渡す久留米市兜山(通称「けしけし山」)に繁の歌碑が建立された。除幕式には坂本のほか、たね(当時は野尻姓)、長男の蘭童も出席した。命日に行なわれるけしけし祭には、青木の短歌「我が国は 筑紫の国や白日別 母います国 櫨多き国」に蘭童が曲をつけた『母います国』が歌われる。2003年(平成15年)には久留米市と地元企業、地域住民らの支援によって、老朽化の進んだ生家が復元整備され、青木繁旧居として一般公開された。館内では青木に関する写真パネルや解説パネル、作品の複製画などが展示されているほか、関連図書および映像資料を閲覧することができ]。

ハナ肇とクレージーキャッツの元メンバーで料理研究家の石橋エータローは蘭童の息子であり、青木の孫にあたる。

・大津英敏
学生時代は山口薫に師事。1970年代には『毬シリーズ』と呼ばれる幻想的な作品を制作していた。1979年の渡仏後、2人の娘を彼女をモデルにした『少女シリーズ』を描きはじめる。現在も家族を題材にした淡い色調の作品が多いが、風景画にも取り組んでいる。作風にはバルテュスの影響があるといわれている。また渋谷駅構内にはステンドグラスを使った壁画作品が設置されている。

1943年 - 熊本県熊本市で生まれる。後に福岡県大牟田市に転居し、高校卒業までを過ごす。
1969年 - 東京芸術大学大学院(山口薫教授)修了
1971年 - 第39回独立展で独立賞受賞
1979年 - 家族を伴って渡仏
1981年 - 帰国
1983年 - 第26回安井賞受賞(「KAORI」)
1988年 - 大津英敏展開催
1989年 - 多摩美術大学教授就任
1993年 - 第11回宮本三郎賞受賞(「宙・そら」)
2005年 - 第28回損保ジャパン東郷青児美術館大賞受賞
2007年 - 日本芸術院賞
2014年 - 多摩美術大学退任。同名誉教授

・織田廣喜
1914年 - 福岡県千手村(現嘉麻市)に生まれる。
1939年 - 日本美術学校西洋画科卒業。
1940年 - 二科展に初入選する。
1950年 - 二科会会員に推挙される。
1960年 - 初渡仏。
1968年 - 第53回二科展で総理大臣賞受賞。
1971年 - 第56回二科展で東郷青児賞受賞。パリで初の個展開催。
1992年 - 勲四等瑞宝章受章。
1995年 - 恩賜賞・日本芸術院賞受賞。日本芸術院会員になる。
1996年 - 碓井町立織田広喜美術館開館。
1997年 - 碓井町名誉町民の称号を受ける。
2003年 - 勲三等瑞宝章、フランス政府芸術文化勲章・シュヴァリエを受章。
2006年 - 二科会理事長。
2012年5月30日 - 心不全のため死去。98歳没。没後、従四位に追叙された。

・菊畑茂久馬
徳島県出身の父と、長崎県五島出身の母との間に長崎市に生まれる(本籍地は徳島県)。幼少期に福岡市に移る。福岡県立福岡中央高等学校卒業。絵画は独学。

1957年、前衛美術グループ「九州派」に参加して画家として頭角を現す。1958年より「九州アンデパンダン展」を主宰する一方で、1957年より東京の読売アンデパンダン展にも出展。

1961年には「現代美術の実験」展(国立近代美術館)の15人の出展作家の一人として選出され、1962年には南画廊(東京)で個展を開催。以後、前衛美術のホープとして注目された。

1962年、九州派を脱退。1960年代後半より発表から遠ざかる。

1964年、上野英信の紹介で筑豊の炭鉱画家・山本作兵衛の作品を知り衝撃を受け、当時ほとんど評価されていなかった作兵衛の作品を「美術」として評価する論文を書く。作兵衛の『筑豊炭坑絵巻』(1975年)の編纂に関わったり、1970年には作兵衛を東京に招いて自身が教鞭をとる美学校の生徒に作品を模写させたりするなど(その時の生徒の一人が南伸坊である)、作兵衛の絵の作品としての評価、ひいては世界記憶遺産への認定に大きな役割を果たす。

1970年に米国から日本に返還された戦争記録画についても論述。また福岡を中心に、数多くの公共空間に陶板壁画を制作。

1983年、絵画作品《天動説》シリーズを東京画廊で発表し、19年ぶりに画壇に復帰。

以降、《月光》、《舟歌》など大型の組作品を立て続けに発表。戦後美術思想の中心として「オブジェ」を捕らえ、その克服をめざした絵画を制作。

2020年5月21日、死去。85歳没。

1956年 第24回独立展(東京都美術館)
1957-1962年 九州派に参加(1960年洞窟派結成のため一時離脱)
1962年 個展(南画廊/東京)
1964年 個展(南画廊/東京)
1965年 New Japanese Painting and Sculpture(サンフランシスコ美術館、ニューヨーク近代美術館他)
1965年 第2回長岡現代美術館賞展(長岡現代美術館/新潟県長岡市)
1967年 九州・現代美術の動向展(福岡県文化会館)
1969年 第3回九州・現代美術の動向展(福岡県文化会館)
1970年 美学校(東京)講師〈~2001〉
1974年 菊畑茂久馬版画展〈天動説〉(画廊春秋/東京 他)
1978年 『フジタよ眠れ』出版(葦書房/福岡市)、『天皇の美術』出版(フィルムアート社/東京)
1979年 菊畑茂久馬版画展〈オブジェデッサン〉(天神アートサロン/福岡市)
1980年 雑誌『機関』(東京)復刊、以後不定期で17号(2001年)まで刊行
1981年 テレビ番組「絵描きと戦争」(RKB毎日放送/福岡市)のシナリオと構成を担当
1981年 菊畑茂久馬の版画“オブジェデッサン展(福岡市美術館)
1981年 1960年代―現代美術の転換期(東京国立近代美術館・京都国立近代美術館)
1982年 『戦後美術の原質』出版(葦書房/福岡市)
1983年 現代美術の動向II 1960年代―多様化への出発(東京都美術館)
1983年 菊畑茂久馬展 油彩天動説連作(第一部)(東京画廊/東京)
1984年 菊畑茂久馬展(天画廊/福岡市)
1984年 第3回東京画廊ヒューマン・ドキュメンツ’84/’85(東京画廊)
1985年 日本現代絵画インド展(ニューデリー国立近代美術館/ニューデリー)
1985年 現代美術の展望’85―FUKUOKA 変貌するイマジネーション(福岡県立美術館)
1985年 再構成:日本の前衛芸術1945-1965(オックスフォード近代美術館/イギリス)
1986年 『反芸術綺談』出版(海鳥社/福岡市)
1986年 菊畑茂久馬展 月光(東京画廊)
1986年 前衛芸術の日本1910―1970(ボンピドゥ・センター/パリ)
1988年 九州派展―反芸術プロジェクト(福岡市美術館)
1988年 菊畑茂久馬展(北九州市立美術館)
1989年 『絶筆―いのちの炎』出版(葦書房)
1989年 福岡市文化賞受賞
1993年 『菊畑茂久馬著作集』全4巻刊行開始(海鳥社)
1994年 SCREAM AGAINST THE SKY: Japanese Avant-Garde after 1945(グッゲンハイム美術館ソーホー/ニューヨーク)
1996年 福岡県文化賞受賞
1997年 西日本文化賞受賞
1998年 菊畑茂久馬1983-1998:天へ、海へ(徳島県立近代美術館)
1998年 福岡美術戦後物語(福岡市美術館)
2002年 ATTITUDE 2002(熊本市現代美術館)
2003年 九州力(熊本市現代美術館)
2003年 『絵かきが語る近代美術』出版(弦書房/福岡市)
2004年 第3回円空賞受賞
2007年 菊畑茂久馬と<物>語るオブジェ(福岡県立美術館)
2009年 ‘文化’資源としての<炭鉱>展(目黒区美術館/東京)
2009年 菊畑茂久馬―ドローイング(長崎県美術館)
2011年 菊畑茂久馬回顧展 戦後/絵画(福岡市美術館・長崎県美術館 同時開催)
2011年 第53回毎日芸術賞受賞(受賞年月日は2012年1月1日)
2012年 そら・うみ・かぜ 菊畑茂久馬の絵(福岡市美術館)
2012-13年 美術にぶるっ!ベストセレクション日本近代美術の100年 第二部 実験場 1950s(東京国立近代美術館)
2013年 Tokyo 1955?1970: A New Avant-Garde(ニューヨーク近代美術館)
2015年 菊畑茂久馬展「春の唄」(カイカイキキギャラリー/東京)
2016年 村上隆のスーパーフラットコレクション ―蕭白、魯山人からキーファーまで―(横浜美術館)

・古賀春江
1895年6月18日、福岡県久留米市の善福寺の住職(古賀正順)の長男として生まれた。善福寺は江戸時代初期からの歴史を持つ浄土宗の寺である。 古賀春江は、父・正順が53歳、母・イシが43歳の時の子供でただ一人の男子だった (古賀春江が生まれる前に3人の女の子をもうけたが、2人は早世した)。 松田実(後述)によると、そのために両親や姉の溺愛を受けて育ったという。 また、小さいときから病弱で神経質な子供だったともいう。 後に妻になる岡好江が残したメモにも、古賀は生来病弱で、子供のときから外に出ることを嫌い、 毎日読書や絵を描いて暮らしたこと、規則に縛られることを嫌い、孤独を愛したことなどが記されている 。

1902年(明治35年)4月に久留米日吉尋常小学校に入学、1906年(明治39年)3月小学校を卒業し、 4月には久留米高等小学校へ入学、1910年(明治43年)同高等小学校を卒業、同年4月に中学明善校へ入学、 この頃から久留米市の洋画家松田実(諦晶)に絵を習い始めた。 1912年(明治45年)、中学3年の時に、両親の反対を押し切って退学、洋画研究のために上京し太平洋画会研究所に通った。 翌1913年(大正2年)には、日本水彩画会研究所へ入って石井柏亭に師事した。 この年、当時雑司が谷に住んでいた坂本繁二郎を訪問した。

1914年(大正3年)、同居していた友人の藤田謙一が自殺したことに衝撃を受けて精神が不安定になった。このため、心配した父親が古賀を帰郷させた。 帰郷中も精神不安定な状態で、家を抜け出し阿蘇山で投身自殺をおこしかけ、 地元の人に止められたと言われている。 翌1915年(大正4年)1月に長崎に遊んだ後、2月に僧籍に入り、良昌と改名、春江を呼び名とした。3月には再び長崎に戻った。 長崎滞在中に、父の従弟の娘と恋愛関係になった。 2人は熊本の山鹿温泉に逃避行したが、まだ女学生だったため追いかけられて つかまり、2人は離されてしまった。 その後、久留米に戻ってきている間に、岡好江と恋愛関係になった。 岡好江は久留米ではよく知られた文学好きの女性で、 古賀より4か月ほど年上だった。 勝気で姉さん女房型の女性だったと言われている。 岡は当時、結婚に失敗して久留米に戻ってきていた。 双方の親達は結婚に反対だったが、結局、善福寺を継ぐことを条件に許された。後年好江は、古賀の女性問題や家計のやりくりで苦労させられた。 好江なくして古賀の画家としての大成はなかったと評する人もいる。

この年の冬に再度上京した。 翌年の1916年(大正5年)7月に父親を亡くし、 父の後を継ぐために宗教大学(後の大正大学)の聴講生になり、 学業の傍ら絵の制作に励んだ。同年には日本水彩画会員に推された。

1916年11月に岡好江と結婚し(結婚式をあげたのはもう少し先のことである)、引き続き宗教大学に通った。 翌1917年(大正6年)、太平洋画会展に「梧桐」(水彩)が入選した。 しかし、この年の9月に肋膜炎を患い神田長谷川病院に入院、11月に全快したものの、保養のために帰郷する車中でインフルエンザにかかり急性肺炎をおこし入院、一時危篤状態になった。 これが原因で大学を休学、翌1918年(大正7年)には宗教大学を退学し画業に専念する決心をした。この頃から油彩画に手を付け始めた。 一方、宗教大学に通っていた間は親からの仕送りがあったが、退学して家を継ぐことを放棄してしまったため、それも 滞りがちになった。以降、家計の問題は好江の一手にかかるようになった。

水彩画展や光風会展に出品し、1919年(大正8年)の秋、二科展に「鳥小屋」が初入選した。 翌1920年(大正9年)1月5日、古賀は岡好江と久留米で結婚式をあげたが、 9月に体を悪くし、再度帰郷した。 この後、1924年4月に上京するまではほとんど久留米と福岡にいた。 1921年(大正10年)1月、妻の好江が女の子を産んだが死産だった。 このことがきっかけとなって、「埋葬」に着手した。 水彩画のほうの「埋葬」は1922年(大正11年)春に完成、同年5月の来目展に「観音」と共に出品された。 1922年(大正11年)油彩画の「埋葬」(油彩・キャンヴァス、総本山知恩院蔵・京都国立近代美術館寄託)と「二階より」を二科展に出品し共に入選、「埋葬」は二科賞を受賞した。 「埋葬」と「二階より」は翌1923年(大正12年)にパリのサロン・ドートンヌで開催された二科展でも、 日本部の出品作品に選ばれている。 一方、神原泰、中川紀元、矢部友衛ら二科出身の画家13人で「アクション」を結成した。(この後「アクション」は1924年(大正13年)10月3日に解散する。) 1924年8月と10月に信州に旅行した際、当地の女性と親しくなり、 この女性が上京してきたので下谷に家を借りて同棲を始めた。 しかし、1925年(大正14年)に女性が病死したことで関係は終わった。

1924年から1925年にかけての古賀は、アンドレ・ロートからの影響を受けた作品(「魚市場」「肩掛けの女」など)を描いた。 この頃、日本の一部の画家の間でロートの様式が流行し、古賀もその中の一人だった。 石井柏亭によると、

【古賀はロートの構成の理論をよく呑み込んで、それを実施するに旨く日本のモチーフを利用した。 その頃実際に流行した粗い黒白のだんだらを持つ肩掛の柄は其斜線の平行によって画面に変化を与へることが出来た
??石井柏亭、「古賀春江」春鳥会刊、1934年】 という。

1926年(大正15年・昭和元年)に入ってからは東京に定住するようになり、 二科会会友に推され、 また、クレー風の絵をかきだすようになった。 翌1927年(昭和2年)の8月に母を亡くし帰郷、9月には東京に戻ったが、 11月になって神経衰弱を患い再び帰郷した。 翌1928年(昭和3年)5月には長崎へ転地し、そこで「生花」などを制作した。 この年、中川紀元の紹介で東郷青児を知り、更に東郷を介して同年暮れか翌1929年(昭和4年)初めに 阿部金剛を知った。 この時期を代表する絵として「煙火」(1927年、油彩・キャンヴァス、90.5×61.0cm、財団法人川端康成記念会蔵)が あげられる。 「素朴な月夜」(1929年、油彩・キャンヴァス、117.0×91.0cm、ブリヂストン美術館蔵)もこの時期の作である。 この頃はクレー風の絵を描いていたが、1929年になると画風が変わり、構成的なシュルレアリスムの絵が現れだす。 古賀の代表作の1枚「海」(1929年、油彩・キャンヴァス、129.0×161.0cm、二科会16会展出品、東京国立近代美術館蔵)が 描かれたのはこの年である。

1929年9月の二科展では、児島善三郎、里見勝蔵、小島善太郎、鈴木亜夫とともに鑑査に加わったが、 相当負担になったらしく、この後しばらく寝込んだ。 これ以降古賀は病気がちになった。 古賀は医者に診てもらっているが、古賀の病名に関しては、妻の好江が松田実に宛てた手紙の中で 「病名が余り香しくなかったものですから」と書いていたり、古川智次がエッセイ「古賀家の窮状」の中で同様に 「余り香しくなかった」と書いたのみで明瞭に述べていない。 実際は、古賀のかかっていた病気は梅毒である。

この頃、古賀のアトリエを訪ねた中野嘉一によると、シュルレアリスムの絵の他にも 写実的な風景画も混じっており、時々は写実的な絵も描いていたようだ、 ゴールデン・バットを1日十箱位も嗜むヘヴィー・スモーカーで、煙草をくわえながら絵を描いていた 、既に手の震えが始まっていて、シュルレアリスムの幾何学的な細い線を描く時などは 手が震えてうまくいかず困っていたことがあったという。

同年11月、一九三〇年協会に加入したが、12月には二科会会員に推挙されたので協会を脱退した。

1930年(昭和5年)からは舞台装置の制作や装丁・挿絵の仕事を始めるようになった。 古賀が挿絵・装丁などの仕事を始めたのは、家計の問題からだったとみられる。 この年には「窓外の化粧」(1930年、油彩・キャンヴァス、161.0×129.0cm、神奈川県立近代美術館蔵)他4点が 二科展に出品され、短い画論「超現実主義私感」が「アトリエ」誌1月号に掲載された。

1931年(昭和6年)、日本水彩画会委員(鑑査)になり、川端康成と知り合いになった。 また、生前唯一の画集「古賀春江画集」を第一書房から刊行した。 その他、「コドモノクニ」にイラストを発表した(12月号から翌1932年6月号まで)。 この頃、古賀は動坂に、川端は谷中桜木町にいて、電車通りを隔てて近くに住んでいた。 高田力蔵によると、川端との交遊のきっかけは互いに犬好きだったからで、 古賀にブルドックの世話をした瀬辺玄正という人物を介してかもしれない、という。

1932年(昭和7年)3月になると、強度の神経痛に冒され体が衰え出し、次第に厭人的になり代わって犬や小鳥を熱愛するようになり出した。 高田力蔵が中野嘉一に宛てた私信によれば、「昭和七年春、駿河台の某病院で脊髄液検査の結果、病巣を知った」 とあり、梅毒は1931年(昭和6年)頃から進行が 始まっていたらしい。 この頃古賀は、人嫌いになったことをうかがわせる文章を書いている。

【人間に顔や肉体がなかったら、どんなに気持が晴々するだらう。私自身人々の眼の前にえたい(えたいに強調点)の
知れない顔や肉体を曝して歩いてさぞ迷惑を掛けてゐるだらうと思ふ時出来るだけ人に逢はないですむやうにしたいと願ふ。

人間の顔が恐ろしくて人に逢へなくなる時私は犬達と話をする。犬は人間よりも直接に単純に話が出来る。
??古賀春江、「美術新論」昭和七年十月号】

1933年(昭和8年)に入ると古賀の病状はかなり悪化し、 丸善で高価な洋書を大量に注文する、ラクダのシャツを3ダースも買い込む、靴下を何ダースも買うなど 奇矯な行動が目立つようになり、友人にも気付かれるようになった[32]。 4月から二科展出品のために「文化は人間を妨害する」と「深海の情景」「サアカスの景」(絶筆)の制作を開始し、その他、同月には病床を抜け出して、日本水彩画会の仲間とともに群馬桧曾方面へ写生に出かけ、 帰京した後再度写生に出かけるなど熱心で、この時多くの水彩画を描いた。そして、これが最後の写生旅行になった。 5月には阿部金剛、東郷青児、峯岸義一らとアヴァン・ガルド研究会創設の話し合いをするなど絵画関係の活動は活発だったが、義兄が重病との知らせを受けて7月5日に久留米へ帰郷[35]した際、 病状は既に相当ひどい状態だった。

久留米に帰郷した古賀は、毎日のように松田実、昔の友人や坂本繁二郎を訪ねていて、友人たちはその時の古賀の様子に強いショックを受けている。 古賀は軽い躁状態にあったとみられ、松田も坂本も、 古賀の精神状態が異常であることに気付いている。 松田の回想によると、この時の古賀は

【だらしなく胸をはだけ、愛犬(白茶けたオークル色と黒褐色の霜降りまだら毛の中形ブルドッグ名はチェロ)を 曳連れではなく、引きずられて踉蹌(ルビ・よろ)け乍ら来る足取り。 来る度毎に何時も餡パンや果物を懐中しており、談話最中如何かしたはずみにそれが懐から転び出る、 周章狼狽懐え掻込む、『サーこれから白山町(赤線娼窟)え行くのだ』と言ってはフラフラと帰り行く有様、 焦点(ルビ・ピント)のぼやけた様な瞳差(ルビ・ざ)し。安定なく物怖する如く右顧左顧(ママ)しながら語る所作。 彼方此方と飛躍また飛躍して取止めなき話題、支離滅裂で意味をなさず判断に苦しむ言葉。 夢遊病者さながらに。

??松田実】

という状態だった。また、坂本繁二郎の回想では、

【ところが古賀君は見るからに疲労し、こみ入った話をかわす気力がない様子、
長い指は白くすけて小きざみにふるえ、目の色もどんよりと光を失って、とてもこの世の人とは思へぬ姿。 白いひとえの肩が薄く、いかにも影が薄くて私には不吉な予感がしたものです。

結局とりとめのない話題だけで、真夏の白い田舎道を帰る古賀君を見送りました。
??坂本繁二郎、「坂本繁二郎の道」(谷口治達著・求龍堂刊)第六章筑後】

と描かれている[39]。 同月14日に帰京したがその途中で発病、絶筆の「サアカスの景」は病身をおして完成させねばならなかった[2]。

最晩年の古賀の様子については、高田力蔵や川端康成[注 7]、阿部金剛[注 8]らがいくつかの文章を残している。 「サアカスの景」は、署名を高田力蔵に入れてもらったことが知られている[40]。理由は、古賀が手の震えにより整ったローマ字を書けなかったためである[41]。 高田力蔵によると、サインの代筆を頼まれた時「無銘でもいいではありませんか」と断ったが、 古賀が「サインがないと絶筆のようで嫌だ」というので仕方なく筆跡をまねて高田が入れた[42]。

以前から妻の好江や友人たちが説得して入院させようとしたが、古賀は病気を自覚していたにもかかわらず受け入れなかった[43]。 最終的に古賀を説得したのは川端康成で、生活に困窮していた古賀の入院費その他の面倒もみた[43]。

8月1日に東京帝国大学島薗内科に入院、 マラリア熱療法を受けた。 入院当初は詩作や作画をしていたが、マラリア療法処置後高熱が下がらず、 八月末には意識朦朧とし危篤状態にあった。 ブドウ糖の注射による栄養補給も困難になってからは、友人の協力による輸血で栄養補給したが 、9月10日に亡くなった。享年39歳。 1944年5月になって善福寺境内に古賀春江の供養塔が作られた。 生地の善福寺境内には石井柏亭の碑銘による墓碑がある。 阿部金剛の述懐[46]によると、善福寺にあった古賀の遺作は、 寺の住職が古賀家とは縁のない人に替わり古賀家と断絶したと同時に散逸してしまったようだ、という。事実、21世紀に入っても所在不明の古賀の絵は少なくない。

安井曽太郎が古賀の死後出版された「古賀春江画集」(春鳥会、1934年)の中で古賀春江について次のように書いている。

【古賀君と話してゐるといつもあの子供っぽい真劍さに動かされた。そしてそれと同じものを同君の繒からも、新舊作を問はず、どの繒からも受けた。古賀君の理智的で近代的な構圖や少し多彩過ぎる難はあってもその明るい色調は美しいものであったが、それ等に底力を與へるものはあの子供っぽい真劍さであった。それはひしひしと我々に迫って來た。
??安井曽太郎、「古賀春江画集」(春鳥会、1934年)】

その他、東郷青児は、古賀の叙情性を強調する文章を残している。

【古賀君は理智の機構を好み、冷ややかな哲学の後を追いながら、終生牧歌的な詩情を離れることが出来なかった。 そこに古賀の面白さがある。その矛盾から、死の間際に鮮か(ママ)に転換した。】

また、後に「サアカスの景」を評して、

【ハーゲン・ベックは、何かずばぬけた大きさが何の前ぶれもなく、生まれてきたようで不気味な感動を受けた。
??東郷青児、古賀春江「美術手帖」昭和二十四年九月号】

と書き残している。

・児島善三郎
紙問屋児島本家の第9代当主・児島善一郎、トヨの長男として、福岡市中島(現・博多区中洲中島町)に生まれる。幼名は義太郎。

1907年、福岡県立中学修猷館に入学。3年のとき、中村研一らと絵画同好会「パレット会」を創立し、油彩画を描いたり洋雑誌を購入するなどして西洋絵画を勉強する。

1912年、修猷館を卒業し、長崎医学専門学校薬学科(現・長崎大学薬学部)に入学するも同年中退し、1913年、画家を志して上京。1914年、岡田三郎助が指導する本郷洋画研究所に2ヶ月程学ぶが、東京美術学校の受験に失敗し、以後師につかず独学で学ぶ。1915年、帰郷したおりに結核に罹患。暫く郷里で療養生活を送るが、1920年には回復して再び上京する。この時期に福岡で結核療養中だった倉田百三と知遇になる。

板橋に居を構え制作を開始し、1921年、第8回二科展に『早春の下板橋付近』を出品し初入選。翌1922年の第9回二科展では、『裸女』、『代々木風景』が二科賞を受賞。同年、代々木初台にアトリエを竣工する。1923年、萬鉄五郎を中心とする円鳥会の結成に林武らと共に参加し、その第1回展に『若き女の首』など出品する。

1925年から1928年にかけてフランスに留学し、パリのシテ・ファルギエールにアトリエを借りる。西洋の古典絵画に親しみ、アンドレ・ドランのフォービズムによる量感あふれる裸婦の表現などから多くを学ぶ。滞仏中も二科展へ出品を続け、帰国後の1928年の第15回二科展に、古典的な趣のある『立てるソニヤ』等渡欧作22点を特別陳列する。同年、二科会会友となる。

1929年、1930年協会に参加し、1930年、二科会会員に推挙されるが、同年退会し、里見勝蔵、高畠達四郎、三岸好太郎、林武、福沢一郎らと独立美術協会を創立、日本独自の油彩画を確立することに意欲を燃やす。1931年、その第1回展に『独立美術首途(第二の誕生)』などを出品。そして、善三郎らが提唱する「日本的洋画」の主張(日本的風土に則したフランス・フォーヴィスムの受容)は広く画壇に波及するところとなる。

1936年、代々木から国分寺に転居し、ここで『箱根』、『東風』、『春遠からじ』などの作品を制作。1940年、紀元二千六百年奉祝美術展に『松桜図』を出品。1943年、第6回新文展審査員を務め、『上げ汐』を出品する。

戦後は、1946年、読売新聞社主催の新興日本美術展の審査員を務め、1950年、読売新聞社主催現代美術自選代表作十五人展に出品。1951年、第19回独立展で『アルプスへの道』を発表。荻窪にアトリエを移し、『犬吠岬』、『ミモザの花その他』、『バラ』などの作品を制作する。独自のフォーヴィズムから、日本の伝統的なフォルムと装飾的な表現の導入、写実への再確認などの展開を示しながら、「日本人の油絵」の創造を目指した。1952年、青年期に罹った結核が再発し、療養と制作の日々を送る。

1958年、週刊朝日に有馬稲子をモデルにした表紙画を描く。1959年、銀座・松屋で開催された朝日新聞社主宰の児島善三郎自選展に、初期作品から近作まで絵画、彫刻百二点を出品する。

1961年2月、千葉市の額田病院に入院。1962年3月22日、肝臓癌にて逝去。享年69。

・国武久巳
1958年 - 第6回世界観光ポスター展(ベルギー)特選受賞。
1954年~1959年 全国観光ポスター展に連続特選受賞
1959年 - 全国カレンダー展にて日本印刷工業会会長賞受賞。
1987年 - 全国カレンダー展にて大蔵省印刷局長賞受賞。
1989年 全国カレンダー展にて、部門特別賞受賞
1992年 - 全国カレンダー展にて通商産業省生活産業局長賞受賞。
1993年 全国カレンダー展 印刷時報社賞受賞
1994年・1996年 全国カレンダー展 部門特別賞受賞
1997年 全国カレンダー展 日本印刷新聞社賞受賞
1999年 全国カレンダー展 日本印刷産業連合会会長賞受賞
2002年・2004年・2006年 全国カレンダー展 日本印刷新聞社賞受賞
2012年 全国カレンダー展 実行委員会奨励賞受賞

・坂本繁二郎
1882年(明治15年)、福岡県久留米市に生まれる。同じ年、同じ久留米に生まれた画家の青木繁がいる。

坂本は10歳になると、地元久留米在住の画家・森三美に師事して絵を学んだ。高等小学校に上がる頃には、絵の腕前は相当なもので、「神童」と持てはやされたという。坂本の父・金三郎は久留米藩の中級武士であったが、坂本が4歳の時に死去していた。金三郎の長男で、やがて家長となるべき長兄・麟太郎が京都の第三高等学校に進学したため、二男の繁二郎は進学をあきらめざるをえず、高等小学校卒業後、5年ほどはもっぱら画作に時を過ごした。

前述の森三美は久留米高等小学校の図画教師をしていたが、他校へ転任するにあたり坂本を自分の後任として指名した。その結果、坂本は1900年(明治33年)、母校の図画代用教員となった。その頃、ライバルの青木繁は東京で絵の勉強をしていたが、1902年(明治35年)、徴兵検査のため、郷里に戻ってきた。青木は坂本に東京で描いた絵を見せたが、この時青木の画技の上達に驚いた坂本は自らも上京して絵を学ぶことを決意し、わずか数か月後には青木とともに上京して、小山正太郎の「不同舎」に入った。坂本の満20歳の時であった。

1907年(明治40年)、『北茂安村』が第1回文展に入選している。1912年(大正2年)、第6回文展に出品した『うすれ日』は、夏目漱石が高く評価したことで知られている。1914年(大正3年)には二科会創立に参加。

1921年(大正10年)に渡仏し、シャルル・ゲランに師事する。しかし、フランスに着いた坂本が魅せられたのは、名だたる巨匠たちの絵ではなく、その自然であった。かつて印象派を生み、育んだ明るい光と風に虜になった坂本は、その柔らかい色彩はより明るく、鮮やかさを増した。1923年(大正12年)の『ブルターニュ』は、物の形を単純化し、色彩を重ねることで表現され、写実を超えて見る者の想像力へ訴える画法へと進化を遂げた。坂本はこの画法を用いて肖像画にも挑み、同年の『帽子を持てる女』は優しくしかも強さをも秘めた存在感を持つ女性を描き、本場の画家たちから高く評価された。

1924年(大正13年)9月に郷里の久留米に戻り、以後は東京へ戻ることはなく、終生九州で制作を続けた。1927年(昭和2年)の『放水路の雲』は、フランスで身につけた手法で地元の風景を描いたものである。1931年(昭和6年)には友人の高校教師梅野満雄(青木繁作品のコレクターとしても知られる)の援助で、福岡県八女(やめ)の梅野宅の隣地にアトリエを建立。ここが以後の制作の拠点となる。

1942年(昭和17年)に第29回二科美術展覧会では、坂本の還暦記念特別陳列も開かれ、一つの部屋に坂本の21作品を一挙に展示され、それまで未発表であった1927年(昭和2年)に描いた『母の像』も公開された。

第二次大戦後は梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ洋画会の巨匠と見なされるようになる。1954年(昭和29年)、毎日美術賞、1956年(昭和31年)、文化勲章を受章。1969年(昭和44年)、87歳で没した。墓所は八女市無量寿院。

坂本は代表作『水より上がる馬』をはじめとして馬の絵をよくしたが、第二次大戦後の柿、栗などの静物や能面をモチーフにした作品、最晩年の月を題材にした作品もそれぞれ独自の境地をひらいている。

・タイガー立石
筑豊の炭鉱町に出生、少年時代を戦後復興から高度成長期の時代、映画、昭和歌謡など文化の中で過ごした。武蔵野美術短期大学への進学・上京を期に美術活動開始、最初は本名で活動し、画家中村宏と「観光芸術協会」を結成、わずか2年で解散するも中村ともどもアバンギャルドな作風・活動方針(雑踏の中で自作を掲げて歩く路上歩行展など)で一時代を築いた。

1968年にタイガー立石に改名、漫画家として活動。公私に渡り関わりが深かった赤塚不二夫に影響されたギャグタッチの作品を多く残した。ペンネーム・タイガーの由来は立石が寅年生まれだからで、生涯美術作品にも虎をモチーフにしたものが少なくなかった。

漫画家として活動が軌道に乗った矢先突然漫画家として活動を打ち切り、妻とイタリアへ移住。 「環境を変えることこそが創作意欲を刺激する。ひとところへの安住・現状への満足は拒否」というこのスタンスは立石の生涯最後まで貫かれたモットーであった。なお、立石はイタリア以外の国も含め計13年間ヨーロッパ滞在・活動継続したが、この間イタリアでは、コマ割り絵画(漫画のコマ割りだけでなくストーリー性も持ち込んだ)を発表、また美術・商業双方の建築・デザイン・イラストレーションなど仕事の実績を積んだ。なお、1971年にはオリベッティ社配下のエットレ・ソットサスのデザイン研究所に在籍している。

1982年の帰国の理由は「安住への拒否」であった。帰国後は絵本を上梓。1980年代の『たくさんのふしぎ』では、森毅や野崎昭弘の文による、数理をテーマとした絵本の絵を担当した、といった作品もある。1990年、ペンネームを立石大河亞(たていし たいがあ)に改名する。1990年代には作陶を開始、1995年に養老渓谷にアトリエ兼住居を移した。立石従来の作品殆どが絵画・漫画等「平面もの」だったので、立体作品に取り組みたいという意識があったのだろう。立体作品には上・横のいずれの方向からみてもあらゆる違った趣のある作品が多く誕生、もちろん従来からの絵画も充実させ、続々新作を発表。

1998年、肺がんのため56歳で死去。

・高島野十郎
福岡県御井郡合川村足穂(現・久留米市合川町)の醸造家髙島善蔵・カツの六男二女の五男として生まれた。足穂尋常小学校、御井高等小学校を経て県立明善中学に進む。(27期生)。長兄で詩人の宇朗は15期生、その無二の親友で画家青木繁は19期生。中学卒業後、東京美術学校進学を希望するも家業を継がず詩作と禅修行に没頭した「宇朗」に懲りて父親に許されず、野十郎は地元第五高等学校(熊本市)を敬遠、前年開校したばかりの第八高等学校(名古屋市)に進学する。初代校長はのちに文部省視学官、東京音楽学校長、女子学院院長等を歴任する大島義脩(当時38歳)であった。野十郎は第二乙類を選択、同校には動植物担当教授で“ハス博士”の大賀一郎がいた。1年のとき父善蔵病死。

卒業後は東京帝大農学部水産学科(4期生)進学が決まっていた。「傷を負った自画像」は同大時代の作品とみられる。1916年(大正5年)7月同大を首席で卒業するも、恩賜の銀時計授与を辞退、恩師からの金時計は受けたという。卒論は「魚の感覚」。2、3年大学に残り助手を務めた。翌1917年(大正6年)母カツも病死。1921年(大正10年)9月野十郎初の個展を開き、「椿」「けし」等を展示。1924年(大正13年)二度目の個展。

1929年(昭和4年)兄弟らの援助で北米経由欧州独・仏・伊へ旅立つ。ルネサンス期の独アルブレヒト・デューラーや伊レオナルド・ダ・ヴィンチ、仏ミレーなどに感銘を受けたとみられるが、本人によって語られた体験談の類は一切ない。1933年(昭和8年)帰国後久留米の実家に戻り、酒蔵をアトリエとし「椿柑竹工房」と名付け、1935年(昭和10年)に博多・中洲の生田菓子舗で滞欧作品展を開催、67点を展示。翌年上京し北青山に住む。1937年(昭和12年)、1941年(昭和16年)と個展開催。敗戦直前の1945年(昭和20年)5月、空襲により青山を焼け出され、福岡県八女郡豊岡村(現・八女市)の姉スエノを頼り、裏山の作業小屋をアトリエとする。

戦後1948年(昭和23年)再び上京、青山南町に知人の世話で住み着く。しかし昭和30年代に入り1964年東京オリンピックに伴う道路拡張計画に巻き込まれ都内のアパートを転々とし、1960年(昭和35年)千葉県柏市増尾にアトリエを設ける。古希老人の独り暮らしであった。これと前後してささやかな個展を開く一方、東北、秩父、小豆島、京都、奈良など各地を放浪、増尾のアトリエも立ち退きを余儀なくされるが、1971年(昭和46年)1月同地の知人伊藤家屋敷内のアトリエに落ち着く。傘寿を過ぎていた。

1975年(昭和50年)に入り体調を崩して病床につき、6月柏市の田中農協病院に入院。翌月退院後野田市の特別養護老人ホーム鶴寿園に入所するも、病魔に勝てず9月心不全で死去。享年86。野田市海福寺で葬儀。市川市立霊園に五輪塔が建立され、「不娶 寡欲 画道専一」と刻印されている。また、1988年(昭和63年)東京・目黒区美術館の野十郎展開催に合わせ、久留米市山本町耳納の曹洞宗観興寺に野十郎碑が建てられた。

野十郎は日頃ボロ着でも、町へ出るときは洗練された紳士の服装であったという。これは盃一杯の米も無駄にせず、着物は絹物は一生身につけずに木綿で通したが、最上の黄染めの反物を村一番の織り手に織らせて晴れ着とする凝った趣味の持ち主であった父善蔵の衣装哲学を受け継いだものといえよう。

仏心厚く、臨済宗から真言宗に親しみ、空海の「秘密曼陀羅十住心論」を座右の銘とした。枕元にあった遺稿「ノート」によると、「生まれたときから散々に染め込まれた思想や習慣を洗ひ落とせば落とす程写実は深くなる。写実の遂及とは何もかも洗ひ落として生まれる前の裸になる事、その事である」と深い精神性を湛えた独特の写実観を示している。「花も散り世はこともなくひたすらにたゞあかあかと陽は照りてあり」と「ノート」最終頁に綴られていたという。

・多賀谷伊徳
1918年 - 4月1日、福岡県芦屋町に生まれる。
1938年 - 第2回主線美術展に初入選する。池袋モンパルナスの一員となりシュールレアリスムの画家達と交遊を持つ。
1939年 - 第9回独立美術展に入選、同年、福沢一郎等が創立した美術文化協会に参加する。同年徴兵にて大刀位置一洗飛行隊に入隊し除隊まで戦地より美術文化展に出品を続ける。
1944年 - 第5回美術文化展で美術文化賞受賞。
1946年 - 美術文化協会会員となる。
1947年 - 前衛美術家が集まり結成された日本アヴァンギャルド美術家クラブに参加、有楽町アーニー・パイル芸術劇場内の図書館に出品して米国コレクターに注目を受ける。
1954年 - 末松正樹と共に渡欧、パリ個展開催、サロン・デ・レアリテ・ヌーヴェル展出品。岡本太郎の招きで二科会に参加。
1958年 - 九州有田で磁器壁画の制作に成功。
1960年 - 岡本太郎と共に二科を脱会、その後は欧州、東京年各1回の個展活動に入る。
1972年 - 年北九州市庁舎1階市民ホールの壁画完成。
1974年 - タガヤ美術館開館。
1977年 - 多賀谷伊徳作品集を刊行。
1981年 - 西日本文化大賞受賞。
1987年 - スウェーデン個展。
1988年 - 北九州市立美術館大個展後一線を退く。
1995年 - 4月24日午前10時55分、北九州市八幡西区萩原中央病院にて脳血栓で死去。享年77。

・竹中英太郎
福岡市上名島(現・福岡市中央区大名)の没落士族の家庭に生まれる。心臓逆位症で心臓が右、十二指腸が左にある珍しい体の持ち主であったと竹中労は伝えているが、金子紫はこの説を否定している。1歳で父を亡くし、極貧の中で育つ。11歳で熊本に移住。熊本中学夜間部に学びつつ警察で給仕として働いている時、押収された社会主義関係の文書を読んで社会主義者となる。1924年4月、熊本無産者同盟の設立に加わる。このほか、被差別部落出身ではないにもかかわらず熊本水平社の創立に参加したとの説もあるが、鈴木義昭はこの事実を確認できなかったとした上で、「『熊本無産者同盟』などを通して、側面から積極的に『熊本水平社』の活動に協力したものと考えられる。英太郎とともに『熊本無産者同盟』を結成した岩野猛、岩尾家貞はともに『熊本水平社』の創立メンバーでもある」と述べている。

1924年秋、革命運動には経済学の知識が必要との理由で上京。第一外国語学校英文科ならびに川端画学校に入門。学費を稼ぐ手段として挿絵や本の装丁のアルバイトを始めたことから挿絵画家となり、横溝正史が編集長をしていた当時の「新青年」にて、江戸川乱歩「陰獣」の挿絵を担当した。その後、「新青年」を中心に活躍。傑作の呼び声の高い横溝正史「鬼火」の挿絵のほか、甲賀三郎、大下宇陀児、夢野久作らの小説に作品を発表した。

1936年、二・二六事件を境に絵筆を折り、単身渡満。『月刊満洲』『コドモ満洲』の編集に従事するも、のち日本に送還され、東京品川で鉄工所を経営。

1942年、後妻つね子の郷里の甲府に疎開。1944年、山梨日日新聞社に入社し、新聞記者となる。戦後は山梨日日新聞労組委員長や日本新聞労連副委員長、地労委労働者側委員、山梨日日論説委員を歴任。県会議員補欠選挙に立候補して落選。印刷所経営の傍ら、地労委会長や家裁調停委員などを務め、中小零細企業の労使紛争解決に貢献。またテレビ山梨『日曜放談』にレギュラー出演した。

戦後は岩田専太郎や壺井繁治らによる中央画壇復帰の誘いを固辞し、もっぱら自らの楽しみとして絵筆を執っていたが、1967年には長男の労の頼みで『祇園祭』宣伝パンフレット用の作品を制作した他、1974年、労のプロモートによりマレーネ・ディートリヒが来日した際には、赤と青のディートリヒ、黒の素描、映画スチルをコラージュしたポスターを制作。ディートリヒはホテルの部屋に飾られたそれらの作品をいたく気に入り、帰国の際にポスターと黒の素描を持ち去ったという。

晩年は長女や孫のためにサービス会社「中部文教」を設立。1988年、東京新宿の街頭で虚血性心不全の発作を起こして急死。1989年の一周忌に、東京・弥生美術館および甲府・八百竹ギャラリーにて労の監修による回顧展が開催された。

・田崎広助
1917年、福岡県師範学校(現福岡教育大学)第二部卒業、坂本繁二郎、安井曾太郎に師事。関西美術院にも通った。

二科展出品後の1932年渡仏、留学中の1933年サロン・ドートンヌ賞受賞。1935年、帰国。

1939年、一水会の創立に参加。

戦後、広稜会を結成、また東郷青児らと日伯現代美術展(伯剌西爾、ブラジルのこと)を開催。

1949年より日展審査員、(以後1958年日展評議員、1967年理事、1978年顧問を勤める。)

1961年、日本芸術院賞受賞、1967年、日本芸術院会員。

1968年、勲三等瑞宝章受章。 1974年、ブラジル政府からコメンダドール章、オフィシエ章受章。

1975年、文化勲章受章、文化功労者。

田崎没後1986年、(昭和61年)軽井沢に田崎美術館が開館。

2017年、(平成28年)故郷八女市に田崎廣助美術館が開館。

・月本佳代美
福岡県北九州市にて生まれる。武蔵野美術大学造形学部油絵科を卒業後、科学雑誌出版社に勤務し、1999年に出版社を退社して月本事務所を設立、イラスト・CG製作を務める。2004年に第53回日経広告賞を環境部門で受賞

・寺田健一郎
1951年(昭和26年)二科展初入選。1959年(昭和34年)二科特選。その後会友となるが、1977年(昭和52年)退会。

一時期、西南学院中学校の美術担当講師をつとめ、1950年代谷川雁らの文学運動“サークル村”に参加。「午前」同人。食通で、西日本新聞に「昭和一ケタのくいしんぼ日記」「エカキの小休止」を連載するなど、随筆やテレビで幅広く活動。またがん手術の体験記「直腸切断」を出版。優しくシャイでいて強じんな博多町人の代表のような人だった。

・冨田溪仙
福岡県博多に生まれる。本名は鎮五郎(しげごろう)。字は隆鎮。別号に雪仙、渓山人など。冨田家はかつて福岡藩の御用を務め、渓仙が生まれた頃は麹屋町(現在の博多区川端)で素麺製造業を営んでいた。福岡藩御用絵師だった衣笠守正(探谷)に狩野派を学んだ後、京都に出て四条派の都路華香に師事。のち仙厓義梵、富岡鉄斎に傾倒。各地を旅し幅広い研鑽を積む。横山大観にみとめられ,大正4年日本美術院同人。昭和10年帝国美術院会員となる。京都で死去。駐日フランス大使であった詩人のポール・クローデルや俳人河東碧梧桐との交遊も知られている。

・中村研一
鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長(住友本店の技術職のトップ)となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡南郷村光岡(現在の宗像市光岡)に生まれる。洋画家の中村琢二は実弟。1909年、福岡県立中学修猷館に入学。修猷館在学中に、生涯の友となる三輪寿壮、日高信六郎らと出会い、児島善三郎、中村琢二らと、絵画同好会「パレット会」を創立し、西洋絵画を勉強する。また、福岡に滞在中であった青山熊治に指導を受けた。

1914年、修猷館を卒業し、美校受験を志すが許されず、第三高等学校の受験準備の名目で京都に出て、鹿子木孟郎の内弟子となる。1915年、画家志望に反対する父を鹿子木に説得してもらい、美校受験が許可され、上京し本郷絵画研究所に入所。同年4月、東京美術学校西洋画科に入学し、岡田三郎助の教室で学ぶ。1919年、第8回光風会展に、『お茶の水風景』を出品し初入選する。

1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞を受賞。1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学する。ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。

1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞。1929年、『若き日』が第10回帝展で特選を連続受賞。そして、1930年、『弟妹集う』が第11回帝展で帝国美術院賞を受賞する。1931年、36歳にして帝展の審査委員となり、その後も文部省美術展覧会(新文展)、日本美術展覧会(日展)などと改名した官展の審査員を歴任。1937年、ジョージ6世戴冠記念観艦式に参加する軍艦足柄に乗艦して渡英している。

戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作することとなり、1942年、シンガポールからインドシナへの旅行中に、コタ・バルに15日間滞在し、『安南を憶う』が第5回新文展で昭和奨励賞、野間美術奨励賞を受賞。 作戦記録画『コタ・バル』(東京国立近代美術館蔵、無期限貸与作品)が第1回大東亜戦争美術展に展示され、朝日文化賞(後の朝日賞)を受賞[2]。中村が描いたと確認できる戦争画は17点で、これは藤田嗣治の19点には及ばないもののトップクラスの点数であり、「戦争期に画業の一頂点をなした」とも言われている。

1945年5月、東京大空襲により代々木の住居とアトリエを焼失。戦後は、小金井市中町に転居し永住。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙された。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。妻をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。

1967年8月28日、胃癌により国立癌センターにおいて死去。享年72。 翌29日、政府は従四位勲二等瑞宝章を送ることを決定した。

1970年、GHQに接収されていた戦争画が永久貸与という形で日本に返還。この中には中村の『マレー沖海戦』も含まれていた。同画は国立近代美術館に保管された)

1989年、中村の作品を死後も守り続けてきた妻の富子が、それらを長く後世へ伝えたいと、「中村研一記念美術館」を独力で開館しており、後に小金井市へ寄贈され、改修などを経て、2006年に「中村研一記念小金井市立はけの森美術館」として開館した。

・中村琢二
鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の二男として、当時啓二郎が勤務していた佐渡金山があった新潟県佐渡郡相川町(現・佐渡市)に生まれる。洋画家の中村研一は実兄。1899年、愛媛県新居浜に移り、1906年より、福岡県の祖父母のもとで育つ。旧制東筑中学(現福岡県立東筑高等学校)入学後、福岡県立中学修猷館に転校。在学中に兄・研一や児島善三郎らが創立した絵画同好会「パレット会」に参加して、西洋絵画を勉強している。1916年、父の跡を継ぐべく第五高等学校理科に進むが、健康上の理由で中退し、第六高等学校英法科に入学して、1924年、東京帝国大学経済学部を卒業する。

1928年、フランス留学から帰国した兄・研一の勧めで画家を志し、1930年、『材木座風景』で第17回二科会展に初入選。同年から、兄の紹介で安井曽太郎に師事する。1937年、一水会が創立されるとこれに参加し、1938年、第2回一水会展に『母と子』などを出品して岩倉具方賞を受賞。1939年、第3回一水会展に『ボレロの女』などを出品して一水会賞を受賞。1941年、第4回文部省美術展覧会(新文展)で『女集まる』が特選を受賞する。

1942年、一水会会員となり、1946年、同委員となる。1953年、第15回一水会展出品作『扇を持つ女』で、芸能選奨文部大臣賞を受賞。1962年、第5回日本美術展覧会(日展)で『画室の女』が文部大臣賞を受賞し、1963年、同作品、及び第24回一水会展出品作『男の像』により、日本芸術院賞を受賞する。

1965年、紺綬褒章を受章。その後、1973年、日展参与、1980年、日展参事、1981年、日本芸術院会員、1982年、日展顧問を歴任した。

風景画、肖像画を主に描き、中間色を用いた穏やかな作風、明快な構図、軽妙な筆触を示した。

1988年1月31日、急性心筋梗塞のため横浜市金沢区の横浜南共済病院で死去。享年90。

・中山忠彦
9歳で大分県に疎開。1950年に15歳で県展に入選。

中津西高校(現・大分県立中津南高等学校)卒業後上京して伊藤清永に入門。アルバイトのかたわら三輪孝主宰の洋画研究所や英国王立美術学校に学ぶ。

1954年、日展に入選。

1958年、白日会会員に推挙される。

1965年の結婚以来、良江夫人をモデルにした美人画を描き続け、1996年日本芸術院賞受賞、1998年芸術院会員となる。

2002年、伊藤清永の後任として白日会会長に就任。

2009年、日展理事長に就任 (2013年に退任)。

2015年、日展理事を退任し、新顧問に就任。

2019年、旭日中綬章受章。

『中山忠彦画集』(ビジョン企画出版社、2006)がある。

・野見山暁治
福岡県穂波村(現飯塚市)にて、炭鉱経営者の子として生まれる。東京美術学校(現東京藝術大学)入学当時は故郷の炭鉱を制作の原風景とし、その後12年間のパリ生活を経て、抽象画へと変化。帰国後は東京芸術大学で教え、同大名誉教授となる。

1920年 福岡県穂波村にて出生。父親の野見山佐一は海老津鉱業、昭和炭鉱社長。
1938年 嘉穂中学校(現嘉穂高等学校)卒業。肺浸潤を患う。
1943年 東京美術学校洋画科卒業、直ちに応召、満州で発病し入院、その後帰国し入院
1945年、終戦まもなく退院し、傷痍軍人制度廃止に伴う一時金を得る
1946年、第2回西部美術展覧会で福岡県知事賞
1948年、妹の同級生だった内藤陽子と結婚
1952年、滞仏
1956年、サロン・ドートンヌ会員。妻・陽子29歳で夭折
1957年、ライ・レ・ローズのアトリエを彫刻家・高田博厚から譲り受ける
1958年、第2回安井賞受賞
1964年、帰国
1968年、東京芸術大学助教授
1972年 同大学教授就任
1978年、『四百字のデッサン』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞
1981年、芸大辞職
1992年、第42回芸術選奨文部大臣賞
1994年、福岡県文化賞
1996年、毎日芸術賞受賞
2000年、文化功労者に選ばれる
2014年、文化勲章受章
2017年、練馬区名誉区民に選定される
2018年、高田博厚展2018記念事業で堀江敏幸と対談 
画業以外ではKAITA EPITAPH 残照館(旧・信濃デッサン館)の館主窪島誠一郎と協力し、戦没画学生(とくに母校・東京美術学校から召集された者達)の遺作の収集・保存に奔走、それが「無言館」設立(1997年)へ直結した実績をもつ。

・藤田吉香
県立中学明善校(現福岡県立明善高等学校)卒

九州大学工学部造船科(専門部)卒 (1948年)

松田塾にて松田実に洋画の指導を受ける(1949年)

東京芸術大学美術学部芸術学科卒(1955年)

スペインの王立サン・フェルナンド美術アカデミーヘ留学(1962年-1966年)

国画会会員。京都造形芸術大学名誉教授。

群を抜く描写力と清澄な色彩で「静」でありながら、圧倒する存在感をもつ静物画が多数。

また、中央にモチーフを配し単色の背景というシンプルな画面構成であり、

抽象画的な感覚も持ちあわせながらも、古典的な技法にもすぐれ各所でその力量を窺うことができる。

昭和の一時代を築いた画家である。

・村石米齋
福岡県柳川市に、書道教諭の子として生まれる。福岡教育大学特設書道科を卒業後、九州大学文学部美学美術史研究室の研究生を経て、県立高等学校で書道教諭を勤めた。
学生時代より国宝等の模写などにより水墨画を独学で学び、数回の個展を経て、大徳寺興臨院に襖絵を納めた。
フィラデルフィア美術館に数点の書が収蔵されている。

1993 パリと東京にて個展
1994 大徳寺興臨院襖絵の制作を開始
2001 ロンドンにて開催されたJAPAN FESTA 2001に出展
2006 NHKハイビジョン特集『天才画家の肖像「雪舟 画聖と呼ばれた男」』に出演、「秋冬山水図(冬景図)」の実物大模写を行った
2008 大徳寺興臨院襖絵の完成
2008 NHK教育テレビジョン『新日曜美術館 王羲之「蘭亭序」なぜ書の最高峰といわれるのか』に出演、同書の臨書を行った

・矢野眞
福岡市博多生まれ。旧制中学校1年次在学中の1945年6月3日、神戸市で空襲に遭い、多数の焼死体を目の当たりにする。この時の体験がきっかけとなり、戦争犠牲者たちへの鎮魂の絵を描き始めた。

福岡県立修猷館高等学校在学中はトロンボーンを演奏した。高校卒業後、上京して東京藝術大学を受験するも失敗、行きつけの酒場のマダムに紹介されて会社に就職し、商業デザイナーとして活躍した。NHKの人形劇『ひょっこりひょうたん島』のバックなどを描いている。今日では、仏画家として国際的に評価が高い。代表作に「千手観音と二十八部衆」「薬師如来と十二神将」など。

妻の渋沢道子(澤道子)は詩人、作家で、澁澤龍彦の妹である。「絵で拝む日蓮聖人大曼荼羅」「千手観音と二十八部衆」など、妻との共作による著書もある。

・山本作兵衛
1892年(明治25年)、福岡県嘉麻郡笠松村鶴三緒(現・飯塚市)生まれ。7歳から父について兄とともに炭鉱に入り、立岩尋常小学校を卒業後、1906年(明治39年)に山内炭坑(現・飯塚市)の炭鉱員となった。以後、採炭員や鍛冶工員として、筑豊各地で働きながら、日記や手帳に炭鉱の記録を残した。福岡県田川市にある炭鉱事務所の宿直警備員として働き始めた60代半ばに、「子や孫にヤマ(炭鉱)の生活や人情を残したい」と絵筆を取るようになり、自らの経験や伝聞を基に、明治末期から戦後にいたる炭鉱の様子を墨や水彩で描いた。余白に説明を書き加える手法で1000点以上の作品を残した。主要作は画文集『炭鉱に生きる』(1967年)。「ヤマの絵師」として知られた。1984年(昭和59年)、老衰のため死去、92歳没。

美術教育を受けた経験は無く、水彩やデッサンの技術も稚拙であることから、アウトサイダー・アートの画家として捉えられることが多い。しかしアウトサイダー・アートの特徴である他者を顧みない独善性がみられず、炭鉱産業に支えられた日本の近代文化への批評的な視座を持っていたと評される。

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