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鳥取県について

鳥取県は、全国の都道府県で最も人口が少ない。また、全国どの政令指定都市と比較しても少なく、政令指定都市以外では最大の千葉県の船橋市や埼玉県の川口市、鹿児島県の県庁所在地の鹿児島市、東京都で唯一の中核市でもある八王子市よりも少ない。2010年(平成22年)の国勢調査で588,418人と、35年ぶりに60万人を下回った。
人口減少は続いており、2019年7月の鳥取県の推計人口は556,386人であった。
県外からの移住者は年間2,000人程度。休暇(バケーション)を楽しみやすい土地で仕事(ワーク)をしてもらう「ワーケーション」を掲げるなどして移住者誘致を図っている。

ただし、面積も小さいことから人口密度で見ると168.5人/平方キロメートルと37位で、鹿児島県・長野県のそれと近い。

鳥取県は、県内ほぼ全域が日本海側気候で、全域が豪雪地帯対策特別措置法に基づく豪雪地帯に指定されている(県内全域の豪雪地帯は国内最西端。ただし、特別豪雪地帯は指定されていない)。

春と秋は好天の日が多く、夏は南風によるフェーン現象で猛暑日となることもあるが、平野部でも熱帯夜は少ない。

冬は曇りや雨、雪の日が多いが、平野部の1月平均気温は4℃台と東京郊外や愛知県名古屋市、京都市と同じくらいであり、冷え込みは厳しくない。米子市などの西部沿岸部は平年の最深積雪は20センチメートル程度と比較的雪は少ないが、東へ行くほど降雪/積雪量は多くなり、鳥取市では中心部でも平年で40センチメートル以上の最深積雪を観測する。東部ではJPCZ(日本海寒帯気団収束帯)の影響を受けやすい鳥取市や、岩美町などの沿岸部のほうが智頭町などの内陸部よりも降雪量が多くなることがある。 特に大山周辺の内陸山地は山陰一の豪雪地帯となっており、冷え込みも厳しく?15°C以下にまで下がることもある。

鳥取県中部と西部はかつて伯耆国だった地域です。
中部は倉吉市を中心とし、三朝温泉をはじめとした温泉地が集まっています。
西部は米子市を中心に、境港市など含む地域です。
隣接する島根県との結びつきが強く、山陰地方の中心地としての役割もあります。
米子市は古くから商業都市として栄え、現在でも経済面で山陰地方屈指の都市です。
境港市は港町であると同時に漫画家の水木しげるの出身地として知られ、水木しげるロードやゲゲゲの鬼太郎をモチーフとした駅のレイアウトなど、特徴的な街づくりがされています。

画家について

・伊谷賢蔵
伊谷平蔵の二男として、鳥取市川端に生まれる。

大正13年(1924年)京都高等工芸(現京都工芸繊維大学)を卒業後、同校研究室と関西美術院で洋画の研究に専念し、そのころ黒田重太郎に師事した。

大正14年(1925年)春陽会、翌年二科展に入選し、以後、昭和18年(1943年)の二科展解散まで出品を続け、その間に二科会員となった。

昭和14年(1939年)に従軍画家として北支戦線に派遣され、翌年から華北交通嘱託として計6回中国を訪問。しかし、いわゆる戦意高揚のための戦争画ではなく、大同石仏や中国の民衆の質朴な暮らしを描いた。

昭和20年(1945年)11月、向井潤吉らの画友とともに行動美術協会を創設して画壇で活躍する一方、京都学芸大学美術家主任教授、京都精華短大教授を歴任して後進の育成に当たった。

昭和28年(1953年)、朝夕の要綱に染められた九州の山々を取材し、悠久の自然と対話するうちに、情熱と気魄に満ちた赤褐色に到達。「伊谷レッド」と呼ばれるようになった。

昭和45年(1970年)3月27日永眠。代表作は「大山」「阿蘇」「桜島噴煙」など。

・長谷川富三郎
1910年(明治43年)に兵庫県姫路市に生まれる。1929年(昭和4年)に鳥取県師範学校を卒業し、倉吉市の明倫小学校に勤務する傍、1934年(昭和9年)に倉吉の文化団体「砂丘社」同人になり油絵を描くようになる。

そのころに吉田璋也と出会い民芸運動に参加する。そして同運動に関わっていた柳宗悦、河井寛次郎らに師事するようになり、1940年(昭和15年)より棟方志功との交友が始まる。戦後、その棟方のすすめで板画を始める。1954年(昭和29年)には、柳宗悦、濱田庄司、バーナード・リーチを明倫小学校に招いて講演会を開催した。1966年(昭和41年)に教職を退き、「無弟」の号を使い始める。全国的に活動しながらも終生倉吉を本拠にし、鳥取県の芸術の振興に寄与した。2004年(平成16年)8月19日、敗血症のため死去。

・前田寛治
1896年10月1日、鳥取県東伯郡北条町(現・北栄町)国坂の豪農の次男に生まれる。1914年に倉吉中学(現・倉吉東高等学校)を卒業。第三高等学校(現・京都大学)の受験に失敗して画家を志し、美術教師の中井金三に1年間絵を学ぶ。さらに上京して白馬会葵橋洋画研究所で学び、1916年に東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学を果たす。学校では長原孝太郎と藤島武二に師事する。一方で在学中の1920年、恩師中井をリーダーとする倉吉の文化団体「砂丘社」の創立より参加し積極的に同人展に出品する。1921年、東京美術学校を卒業して研究所に進級し研究生となり、翌1922年から1925年までフランスに滞在し、パリの美術学校アカデミー・ド・ラ・グラン・ショーミエールに籍を置いてクールベの写実主義を研究する。また、このフランス滞在中には同郷のマルクス主義理論家である福本和夫と交友を持ち、影響を受けたとされる。帰国後、1926年にパリ時代の友人である佐伯祐三、里見勝蔵、小島善太郎たちと「1930年協会」を結成する。1928年6月に東京杉並区天沼にアトリエ兼自邸を建てて前田写実研究所を開設し、当地で後進達の指導をしつつ自身が目指す写実画の更なる探求をはじめる。帝展での特選を重ねて1929年に帝展審査員に選ばれ務めるが病に倒れ、都内の病院に入院する。その病室で絶筆となる大作「海」を完成させる。1930年4月16日、鼻孔内腫瘍により逝去。

・木山義喬
1885年(明治18年)1月9日、鳥取県日野郡根雨の油屋に生まれる。県立第二中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)に進学するが、家産が傾き中退。1904年(明治37年)、19歳のときに伯父を頼って日系移民の一大拠点であったサンフランシスコに移民する。木山は画才に優れ、ハウスボーイ(下男)や農業労働者など、雑多な仕事で生活を支えながらサンフランシスコの絵画コンクールに投稿を重ね、1915年(大正4年)から1920年(大正9年)の間に複数の受賞を得る。また「アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク(New York Art Students League / ニューヨーク画学生連盟)」から奨学金を獲得し、サンフランシスコで何度か個展を開催した。木山はサンフランシスコの日本人街である「シャッター通り」に自分のスタジオをオープンし、日本移民排斥の風潮が激化する1937年(昭和12年)まで在住した。同年日本に帰国し、再度の渡米を期すもののほどなく第二次世界大戦が勃発、木山は故郷の日野郡・根雨の旧制中学の絵画教師となって絵を描き続け、地域の文化振興に尽力した。出身地にほど近い鳥取県米子市で木山はいまだ郷土の先達の一人として記憶され、米子市美術館では不定期に木山の展示会が開催される。1951年(昭和26年)4月24日死去。66歳没。

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