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滋賀県について

滋賀県は旧称を近江国と言い、旧都である京都、奈良、大阪に近く、畿内と東国、北国を結ぶ要衝として、日本の歴史に大きく関わってきました。
滋賀県にも7世紀には近江京、8世紀には紫香楽宮が建設されています。
最澄が比叡山に延暦寺を創建し、歴史的な名僧を輩出し、日本仏教に大きな影響を与えました。
戦国時代織田信長は安土に城を築きました。
羽柴秀吉が賤ヶ岳の戦いで勝利し、その後を継ぎました。
江戸時代は井伊氏が彦根藩主として西国の抑えとなります。
商工業が発達し、近江商人が全国的に活躍しました。
明治維新後、大津県と長浜県が誕生し、やがて統合されて滋賀県が成立しました。
現在は西日本有数の工業県となっています。

文化財としては、滋賀県では2012年9月現在、1件の世界遺産(文化遺産)、55件の国宝、806件の重要文化財が指定されている。

国宝の指定件数は京都府・東京都・奈良県・大阪府に次ぐ5位、重要文化財の指定件数は東京都・京都府・奈良県に次ぐ4位で、特に国宝建築物22件は、奈良県(64件)・京都府(48件)に次ぐ3位に位置しており、4位の兵庫県(11件)以下を離している[62]。

近年多数の歴史的文化財や史跡・優れた景観を生かして、映画やドラマのロケ地として積極的に誘致活動が行われている。

滋賀県は、国内で一番を誇る湖、琵琶湖があり囲むように市街地があります。

滋賀県庁所在地は大津市で、イメージキャラクターはうぉーたんやキャッフィーです。
県内のいたるところに沢山自然が残されていて、全国屈指の環境先進県で有名です。
県内には平和堂の出店が多いのですが、最近はイオンや三井アウトレットパークなど大企業がこぞって出店を始めています。
広大な土地に大型商業施設して展開しているので、駐車場も広々としていてたくさんのお店が出店されているので、休日は特ににぎわっています。
家電量販店の出店も目立ち、地方都市の中でも最も栄えた県のウチの一つです。
県庁所在地でもある大津市は特に栄えていて、大津駅前にはパルコなど若者を中心としたファッションビルが目立ちます。
雪深い地域でもあり、冬のシーズンがくると山間部はスキー場となるので近隣の大阪などからたくさんの人が訪れます。
滋賀県には名神高速道路が通っているので、各地域へ移動する交通手段も整っていて便利です。

画家について

・茨木杉風
茨木杉風は、明治31年(1898年)2月8日に滋賀県蒲生郡八幡町(現滋賀県近江八幡市)の商家に生まれた。嫡男として家業である海産物商を継ぐところ、幼少時より絵が好きで大林千万樹に入門、後に大林より近藤浩一路を紹介され、大正9年(1920年)同人に師事した。近藤に師事すると共に太平洋洋画会研究所にも入り、洋学の勉強をした。 同年院展に『八木節』を出展し初入選し昭和5年日本美術院院友となり、翌年2月師である近藤と共に渡欧し毛筆でスケッチをして回ったと伝えられる。

昭和12年(1937年)院展が文展に参加したことに反発し、院友10人と共に新しい公募団体『新興美術院』を創設した。昭和51年(1978年)に死去する迄新興美術院の役員として活動し、昭和33年(1958年)日本学士院のアカデミア賞を受賞した。杉風は故郷近江・琵琶湖の風物を愛し画題によく用いた、昭和18年(1943年)新興美術院展出展作『近江八景』(六曲四双屏風絵)は代表作の一つ。中央画壇での栄達を求めず故郷に身を置いた画家であった。

・淡海槐堂
近江国坂田郡中村(現在の滋賀県長浜市)の下坂篁斎の子として生まれる。3歳のときに京都の薬種商武田家の養子となる。安政2年(1855年)に、醍醐家に仕えて功績が認められ、板倉姓を賜り、筑前守に任ぜられる。あわせて従六位を叙されている。

勤王の志に篤く、七卿落ちや天誅組・長州藩などを資金援助。坂本龍馬・中岡慎太郎にも惜しみなく支援を行っている。

禁門の変(1864年)ののち幕府に捕らえられ3年間獄中の身となる。のちに赦免され、慶応4年(1868年)3月に大津裁判所参謀や宮内中録に任ぜられと、淡海(おうみ)と改姓した。しかし、新政府と意見が合わずすぐに辞任。

明治3年(1870年)には位記を返上、槐堂を号し、多くの文人と交遊して文雅三昧に暮らした。享年58。

槐堂は、梁川星巌に就いて漢詩を学び、書画・篆刻も能くした。実弟江馬天江の編集した『高古印譜』に槐堂の自刻した印影が多く掲載されている。『円山勝会図録』にも名がみえ煎茶を嗜んだ。

坂本龍馬の誕生祝いに槐堂が自作して贈ったといわれる「梅椿図」は「坂本龍馬関係資料」のうちの1点として、日本の重要文化財に指定されている(京都国立博物館所蔵)。この掛け軸には近江屋で龍馬と中岡慎太郎が暗殺されたときの血痕が数カ所残されている。

槐堂は進取の気性に富み、長崎からカメラを取り寄せ自ら撮影に取り組んだ。安政6年(1859年)、槐堂が撮影した鳩居堂7代目当主熊谷直孝の肖像は京都市最古の写真とされる。

・小倉遊亀
1895年3月1日:大津市丸屋町に生まれる。
1913年:滋賀県立大津高等女学校(現・滋賀県立大津高等学校)入学。
1917年:奈良女子高等師範(現・奈良女子大学)卒業[3]。女子高で国文学を教えるかたわら、1920年より安田靫彦に師事。
1926年:「胡瓜」が院展に入選する。以後1998年に「椿三題」を出品するまで連続入選する。
1932年:女性として初めて日本美術院同人。
1938年:山岡鉄舟門下の小倉鉄樹と結婚、以後鎌倉に住んだ。
1976年:日本芸術院会員。
1978年:文化功労者に選ばれる。
1980年:上村松園についで女性画家として二人目の文化勲章を受章する。
1990年から1996年まで日本美術院理事長を務めた。
1999年:パリで個展を開催。
2000年:105歳の長寿を全うして鎌倉で没した。戒名は「大梅院天池遊亀大姉」。

・織田瑟瑟
安永8年(1779年)、近江国神崎郡(現在の滋賀県東近江市)川合寺で、知行700石を領する津田内匠貞秀の長女として誕生。名は政江。

津田家は織田信長の九男織田信貞を遠祖とし、豊臣秀吉より神崎郡内御園荘に領国を賜り川合寺に館を築いた。信貞は関ヶ原の戦いにおいて東軍に属し、以後は徳川家康に仕え旗本となった。代々江戸に住んでいたが、信貞の次男で高家旗本であった織田貞置の孫・織田長経(貞秀の父)が領国川合寺に隠棲し、津田姓を称したことから川合寺津田家は始まる。

幼い頃から絵を描くことに優れていたと伝えられている。父・貞秀に男子がなかったことから、政江が10代前半の時、縫殿助岐山なる風流人を婿に迎える。瑟瑟は京都に移り住み、やがて娘が生まれるが寛政6年(1794年)に娘は夭逝する。その後、京都鳴滝の女流画家で桜花の写生を得意とした三熊露香に入門し、本格的に絵を学ぶ。三熊露香への入門は瑟瑟自身が桜を描くことが好きであったことによる。画名を「瑟瑟」とし、これは風の吹く様、或いは深緑色を意味する。早くも寛政8年(1796年)と翌9年(1797年)京都の「東山新書画展」に夫と共に出品している(同目録)。ところが夫も寛政9年に死別する。

文化7年(1810年)の『近世逸人画史』には「平安人」と記載され京に住んでいたようだが、その後川合寺の本家に戻り、11歳年上の彦根藩士石居家の三男・信章を瑟瑟の婿養子津田信章として迎え入れた。しかし、文化10年(1813年)瑟瑟が35歳の時に夫・信章は病死し、その後は再婚せず、子の貞逸の教育に徹する。貞逸成人後の50歳前後で剃髪、妹の八千代と共に隠棲した。なお、貞逸も母同様の桜図が数点確認され、八千代も絵を良くしたという。また、瑟瑟に弟子がいたという所伝はないが、守山輝子という絵師が瑟瑟に類似した桜図を描いている作例があり、瑟瑟の弟子だと考えられる。

天保3年(1832年)に54歳で死去。墓は川合寺にある津田家の菩提寺・西蓮寺にあり、法名は専浄院殿天誉快楽名桜大姉。なお、墓は自分が写生し寺に移植した桜の下に設けるよう遺言したが、2018年現在はその桜はない。

・海北友松
浅井氏家臣・海北綱親の五男として生まれる(三男説もあり)。天文4年(1535年)2歳で父が戦死したのを切っ掛けに禅門に入り、京の東福寺で喝食として修行。このときに狩野派を学んだとされる。師匠は狩野元信とも狩野永徳ともいわれているがはっきりしない。天正元年(1573年)に浅井氏が滅亡し兄達も討ち死にしたのち、還俗し海北家の再興をめざしたが、豊臣秀吉に画才を認められたことから武門を去り、晩年は画業に専念した。

その画は宋元画、特に梁楷の影響を受け鋭く力のこもった描線と省略の多い画法(減筆法)によって独自の画境を開いた。作品は大画面の水墨画が多いが、金碧濃彩の屏風絵もある。八条宮智仁親王や亀井茲矩、もともと東福寺の退耕庵主だった安国寺恵瓊と親しかった。また、交流のあった斎藤利三(明智光秀の重臣)は本能寺の変後、三条粟田口で磔刑となった。この利三の遺骸は友人である友松や東陽坊長盛が夜間に奪い取り、長盛が住職をつとめる真如堂へ葬られた。後に息子の友雪は、利三の娘である春日局から褒賞を受けている。

墓所は京都府京都市左京区浄土寺真如町の真正極楽寺(真如堂)。友松夫妻の墓の横に斎藤利三の墓がある。

友松の作品は年記が乏しいため編年が困難である。ただし、署名の特に「友」字の変化と「友松」印の違いが僅かな手がかりとなる。はじめ「友」字が角張っていたのが次第に丸みを帯び、やがて第1画が直立し上へ長く突き出すと同時に、第3,4画も小さな円状になっていく。また「友松」朱文方印は、真四角な印と右辺が弧を描いて外側に張り出す印の2種類あり、前者のほうが先に使用されたと推測される。

・狩野山楽
浅井長政の家臣・木村永光の子光頼として近江国蒲生郡に生まれる。母は伝承では益田氏。のちの林鵞峰は「佐々木氏の末裔か」と記している。父・永光は余技として狩野元信に絵を習っていた。

浅井氏が織田信長によって滅ぼされてからは豊臣秀吉に仕え、秀吉の命により狩野永徳の養子となり狩野姓を名乗る。山楽はこの時、武士の身分を捨てることを躊躇し多くの役職を務めたという。天正年間には、安土城障壁画や正親町院御所障壁画(現南禅寺本坊大方丈障壁画)の作製に加わる。永徳が東福寺法堂天井画の制作中に病で倒れると、山楽が引き継いで完成させた。このことから、永徳の後継者として期待されていたことが伺える(天井画は明治時代に焼失し現存しない)。以後、豊臣家の関係の諸作事に関わり、大阪に留まって制作に励んだ。豊臣氏には淀殿をはじめとして浅井氏旧臣が多く、山楽が重く用いられたのも、浅井氏に縁のある山楽の出自が理由だと思われる。慶長末年には大覚寺宸殿障壁画制作に腕をふるっている。

あまりに豊臣家と深く関わったため、大坂城落城後、豊臣方の残党として嫌疑をかけられてしまい、男山八幡宮の松花堂昭乗の元に身を隠した。その後、九条家の尽力もあり、山楽は武士ではなく一画工であるとして恩赦を受け助命される。九条家との繋がりは以後代々受け継がれ、幕末まで続くことになる。駿府の家康に拝謁、京都に戻り徳川秀忠の依頼で四天王寺の聖徳太子絵伝壁画などを制作した。晩年は筆力の衰えを隠せず、弟子に代作させることもしばしばであった。長男・光教(孝)が早世したため、門人・狩野山雪を後継者とした。なお、380年の間謎とされてきた山楽の息子、伊織「狩野山益」であるが、知恩院塔頭の良正院本堂(重要文化財)襖絵を描いていた事が近年判明した。大阪芸術大学の五十嵐公一教授の調査による。福岡市美術館所蔵の源氏物語屏風に狩野伊織と署名、山益の落款。画風の一致。これにより同一人物であることが確定した。

狩野探幽(永徳の孫)らが江戸に移って活動したのに対し、山楽・山雪の系統は京に留まったため、「京狩野」と称される。永徳様式を最も良く継承しており、大画様式に優れた才能を魅せ、雄大な構図を持つ作品が多い。それらは永徳画に比べると装飾性豊かでゆったりとした構成を取る。こうした方向性は、後の絵師たちに強い影響を与えた。

・岸竹堂
彦根藩(現彦根市)代官役・寺居孫二郎重信の三男として彦根城下に生まれる。天保7年(1836年)数え11歳で地元の絵師で彦根藩士中島安泰に狩野派の手ほどきを受ける。天保13年(1842年)17歳の時、京狩野9代目の狩野永岳に入門するが、粉本主義の狩野派の指導法に疑問を感じ、翌年四条派の流れを組む岸派の岸連山に師事した。安政元年(1854年)29歳で連山の娘素子と結婚し、岸家の養子となる。この前後、二条城本丸御殿や御所造営に際して障壁画を描く。安政4年(1857年)有栖川宮に出仕し、安政6年(1859年)11月には連山の子・岸九岳が未だ幼少なため岸家を継ぎ、竹堂の歩みは順風だった。画風も円山派の長沢芦雪に私淑し、その構図法を学び一段と飛躍を見せる。

幕末の混乱期には、絵師としての生活が成り立たず困窮する。師連山も亡くなり、禁門の変で家を焼かれ、書き溜めた写生や模写の画稿も焼失してしまう。この時丹後岩滝の廻船問屋山家屋小室家を頼る。慶応元年(1865年)から足掛け3年丹後に滞在し、この地に多くの作品を残した。なお、丹後には後の作品も複数残っており、竹堂と丹後の関係は続いていたとも考えられる。生活のため旅亭を営んだり、蚊帳屋、蝋燭屋などを始めるも、どれもうまくいかなかった。明治6年(1873年)千總の西村總左衛門と出会い、京友禅の下絵を描いて糊口をしのいだ。竹堂の流麗な意匠により、千總の友禅は一世を風靡したという。

この成功で生活が安定した竹堂は、新たに大作にも取り組み始める。明治13年(1880年)6月、新たに設置された京都府画学校に教員に着任。明治17年(1884年)第二回内国絵画共進会に「晩桜図」を出品し3等銅賞、また同年の大阪絵画品評会に「池辺に菊図」で2等賞を受ける。翌年、髙島屋常設画工室が設置されると、田中一華らとこれを担当する。明治23年(1890年)第三回内国勧業博覧会では「猛虎図」六曲一双で二等銀杯を受賞、各展覧会の審査員になるなど京都画壇の指導的画家として活躍した。

しかし、サーカスで見た実物の虎に衝撃を受け(それまでは実物の虎を日本で絵師が直接見ることはなかったため、日本画の虎図は大型の猫のような風貌をしていた)、画風が一変。明治25年(1892年)6月には、「虎図」に執念を燃やして打ち込むあまりに「虎が睨んでいる」と発狂し、一時永観堂の癲狂院に入院する一幕もあったが、この仔虎を抱いた母虎の虎図はシカゴ万国博覧会で銅牌を受賞した。明治29年(1896年)6月30日には帝室技芸員となるが、翌年慢性胃炎のため72歳で没した。墓は京都上京区の本禅寺。墓碑銘は竹堂の死を悼んだ富岡鉄斎が誌した。

西洋絵画の陰影法や遠近法を採り入れた鋭い写生技術を持ち、粉本に頼ることがなかった。動物画・風景画、特に虎と桜を得意とした。弟子に西村五雲、加藤英舟、藤島清漣、浅江柳喬、吉谷清聲、吉岡華堂など。

・沢宏靱
沢宏靱は、明治38年(1905年)3月18日に滋賀県坂田郡長浜町神戸(現滋賀県長浜市元浜町)で、洋品雑貨商の父喜代吉と母民の次男として生まれ、日露支(ひろし)と名付けられた。大正9年(1920年)に、京都画壇の重鎮西山翠嶂の内弟子となり、東京の美術展での入選を目指し大正13年(1924年)上京し、昭和2年(1927年)に初めて帝展(現日展)に出展するが落選した。京都に戻り、西山翠嶂が主催する画塾『青甲社』に入塾し秋野不矩と出会う。

昭和6年(1931年)の帝展で「機」が初入選し以降4回連続入選を果たし、この間昭和7年(1932年)に秋野不矩と結婚し、昭和9年(1934年)師である翠嶂が校長を務めた京都絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)を卒業した。昭和15年(1940年)、大毎東日展で「斜影」が特選、昭和18年(1943年)第6回新文展(現日展)で「夕映」が特選となり、同時に野間美術奨励賞を受賞した。戦後昭和23年(1948年)、新しい日本画の創造を目指す「創造美術」(現創画会)の結成に上村松篁・山本丘人・秋野不矩等と共に創立会員として参加した。

沢は「創造美術」で意欲的に作品を発表し続け、写生を踏まえた叙情的な風景画を得意とし昭和30年代初めから海岸の岸壁・岩礁を描いた大作を出品、昭和50年代になると描く対象は岩礁から海原へと広がり晩年は伊吹山などの故郷の風景を手掛けた。この間、昭和32年(1957年)に秋野不矩との離婚が発表された。不矩との間には6人の子供がいた。昭和57年(1982年)9月27日死去した。

・島崎雲圃
島﨑家は近江国日野(現・滋賀県蒲生郡日野町)の出身で、島﨑七左衛門長男利兵衛が、下野国茂木(現・栃木県芳賀郡茂木町)に酒造業を興したことに始まる。その当主は代々「利兵衛」と名乗ったが、その三代目利兵衛が雲圃である。日野の高田敬輔に師事し絵画を学んだ。雲圃の作品は、茂木島﨑家を中心に、滋賀県内(日野町・野洲市)に伝えられている。絵画のほかには、刀剣を非常に好み、刀の真偽の鑑定をよくしたとも伝えられている。また天明4年(1784年)、日野町の地蔵堂近くから湧出する湧水(通称「若草清水」)の直ぐ傍に、これは蒲生氏郷が煎茶を点てるために用いた由緒ある水である旨を記した碑文を建てている。雲圃の没後に水戸にいた友人の立原翠軒は、日野の川原田墓地に「雲圃島﨑翁墓喝銘並序」と題し、雲圃の生涯を記した石碑を建てた。現在は、日野町大窪霊園の島﨑家の墓所の脇に移設されている。

雲圃の技法で特筆すべきは、没骨(もっこつ)法である。輪郭線を用いず、水墨や彩色によって制作する方法で、雲圃はこれを人物画に応用する努力を重ねた。弟子には下野で活躍した小泉斐や伸山操らがいる。小泉斐の弟子である島﨑玉淵は、七左衛門次男仙右衛門を祖とする遠縁にあたる。雲圃から数えて七代下の子孫が島﨑泉治商店を営んでいるほか、雲圃の孫に当たる代から分家した子孫が、栃木県那須烏山市で島崎酒造を営んでいる。

・高田敬輔
江戸時代の絵師。本名は徳左衛門隆久で敬輔は号。敬甫と書かれることもある。別号に眉間毫翁、竹隠斎、梅桃老人。清和源氏満政流尾張源氏高田氏族。高祖母が戦国武将浅井長政の一族である木村三郎左衛門の娘であり、このことから、京狩野初代狩野山楽(本姓木村)の一族である可能性も指摘されている。なお、高田家は、織豊期には織田信長の家臣だったが、本能寺の変後は、郷士として安土城跡にほど近い清水鼻(しみずばな、現在の滋賀県東近江市五個荘清水鼻町)に住み、その後日野(現在の滋賀県蒲生郡日野町)に移った。官位は正八位上豊前大目、絵師としての位は法眼。長男の正輔(号三敬)も町絵師で法眼、華道池坊三敬風の創始者。

延宝2年(1674年)、近江日野杉野神町に生まれる。初め日野椀販売、後に製薬を家業としたが、本人は絵画を能くし、京狩野四代目狩野永敬に師事。後に、画僧・明誉古?(みょうよ こかん)に雪舟の画法を学ぶ。狩野永敬の引き回しで仁和寺法親王の御所(御室御所)に出入りし、従八位上豊前大目の官位と藤原姓を賜る。これ以降、薬業では「高田豊前」、画業では「藤原敬輔」と称した。また仁和寺法親王から、享保20年(1735年)62歳で法橋、69歳で法眼に推免され、以後「高田法眼」と称した。晩年、一時期江戸神田に滞在し、8代将軍徳川吉宗にも拝謁して絵を献上、褒美として下賜されたと言われる享保雛が、現在も高田徳左衛門家に遺る。江戸本所羅漢寺において、見物人がひしめくなか短時間で巨大な涅槃図を描き、江戸中の評判になる。その後、故郷である近江日野に隠棲し、宝暦5年12月4日(1756年1月5日)82歳で没。亡くなる直前まで創作を続けた。

・張月樵
月樵は1765年(明和5年)、彦根城下表具師総兵衛の息子として生まれた。長じて京に上り、近江醒井(現米原市)出身の絵師市川君圭に南画を習い、次いで与謝蕪村を師とする松村月渓に師事し、月樵の号を与えられた。蕪村死去後、師である月渓が円山応挙の門に入る(応挙入門後月渓は呉春と号を改める)と、月渓の画風は蕪村風の精神性豊かな文人風の筆法と応挙の写生を追及した筆法が融合し、平明だが感情が溢れる画風を確立した。

月樵は応挙門下の長沢芦雪と特に親しく、応挙没後の1798年(寛政10年)頃、芦雪と共に美濃までの旅に出た。帰途、月樵は芦雪と別れ尾張名古屋に留まり、名古屋における南画中興の祖と言われる山田宮常の画風を追求した。名古屋菅原町(現名古屋市西区)の雲岳院に居住し、後に富士見が原(現名古屋市中区上前津)に寓居を求めた。1812年(文化9年)妻を娶り、翌年一子卯之助(後に月載、又は晋斎と号し絵師として父を継ぐ)をもうけた。

月樵は尾張徳川家の御用絵師として御用支配の役職を賜り、名字帯刀を許され、名古屋城内の杉戸・屏風・襖に覇気がある花鳥山水画を多く描いた。藩主から将軍家献上品として「孔雀と菊図」を描いたところ、江戸南画の大成者谷文晁の目にとまり、激賞を受けると共に江戸へ来るように再三手紙にて勧められたが、名古屋を離れることはなかった。1832年7月19日((旧暦)天保3年6月22日)名古屋にて没し、長栄寺(名古屋市千種区)に葬られる。

活躍したのが主に名古屋ということもあり、現代で言う都心的な評価は得られなかった絵師であるが、病床の正岡子規は「月樵ほどの画かきは余り類がないのであるのに、世の中の人に知られないのは極めて不幸な人である。又世の中に画を見る人が少いのにも驚く。」(『病牀六尺』)と高く評価している。

・月岡雪鼎
姓は源、本姓は木田、名は昌信。俗称を馬淵丹下といい、字を大渓といった。号に、信天翁、月岡山人、露仁斎、錦童、桃?など。近江国蒲生郡日野大谷村(現在の滋賀県蒲生郡日野町大谷)生まれ。大谷には「月岡山」という小高い丘があり、雪鼎はこの山の名称から「月岡」と号したと伝承がある。現在、この月岡山には雪鼎を顕彰する石碑が建てられている。一方、画号の「雪鼎」の由来は分かっていない。

父・木戸平四郎友貞は医者で、大坂に移住。雪鼎も家業の医者を継ぐも病気がちで断念する。その後、同郷の京狩野派の絵師・高田敬輔門下で、本格的な画法を学んでいたが、西川祐信の影響で「月下擣衣図」(絹本着色)などのような肉筆美人画も描く。現在、確認できる最初の作品は、宝暦3年(1753年)正月刊行の『絵本龍田山』で、宝暦年間に手がけた版本は確認出来るだけで30冊に及ぶ。仁和寺に申し出、明和2年(1765年)6月に法橋位を得る。この頃は大坂江戸堀2丁目に住み、隣人は国学者・江田世恭、大坂の文人サロン・混沌詩社を中心とする詩人や学者と交流を持った。作品も版本は減り、代わりに肉筆画が増えていく。安永7年(1778年)3月に息子・雪斎は法橋、自身は法眼に推免された。法橋位を得た年かまたは翌年から、行年書に9歳または10歳加算するようになる。以後、3幅対や屏風など大画面の作品を手掛けることが多くなり、富裕な人々からの注文が増えたと推測される。1775年、大坂浪華塩町の心斎橋筋に移住。享年77。

長男月岡雪斎、次男月岡雪渓も浮世絵師。門人に蔀関月、岡田玉山、墨江武禅、森周峰、桂宗信などがいる。また一説には月岡芳年は雪鼎の長男で、月岡雪斎の画系をひいているといわれる。

・中路融人
1933年(昭和8年)京都府京都市に酒の小売業を営む中路豊三・きみの子として生まれる。本名、勝博。6人兄弟の4番目であった。母は滋賀五個荘町の生まれで、幼時からしばしば滋賀を訪ねる。
1946年(昭和21年)京都市立第一商業学校(旧制、現京都市立西京高等学校)に入学。その後、学制改革に伴い、京都市立洛陽高等学校付設中学校に転入することになる。
1949年(昭和24年)京都市立洛陽高等学校付設中学校卒業。京都市立美術工芸高校絵画科(同校は京都市立美術工芸学校を1948年に美術工芸高校と改称し、旧制から新学制の切り替えに合わせ、この年に閉校が決まり、9月から京都市立日吉ヶ丘高等学校美術科となる。現京都市立銅駝美術工芸高等学校)に入学。同校では勝田哲・天野大虹・川島浩・奥村厚一らが教鞭を執っており、教えを受ける。初期に人物画を描いていたのは勝田の影響も少なくなかった。
1952年(昭和27年)京都市立日吉ヶ丘高等学校美術科卒業。デザイン事務所に勤務し、テキスタイルデザイナーとして働きながら、作品制作をする(以後18年間、勤務を続ける。のちに同事務所には中路を頼り竹内浩一ら後輩も入社)。このころ、《祖母の像》を描く。学校時代の模写の反故紙を用いた。
1954年(昭和29年)第10回日展に出品の《浜》が落選。3人の漁師を描き、モデルは後輩の國府克。晨鳥社に入塾し、山口華楊に師事。
1955年(昭和30年)第11回日展に出品の《牛》が落選。晨鳥社入会もあり、動物画に挑戦、2頭のホルスタイン牛を前と後ろから俯瞰するように構成的に描く。
1956年(昭和31年)第12回日展に《残照》が初入選。
1958年(昭和33年)社団法人第1回日展に《水郷》を出品、入選。
1960年(昭和35年)第3回日展に《舟》を出品、入選。
1962年(昭和37年)第15回晨鳥社展に《郷》を出品、京都府知事賞受賞。京展に《樹林》を出品、京都市長賞受賞。第5回日展で《郷》(株式会社石長蔵)が特選・白寿賞受賞。
1963年(昭和38年)第6回日展に《薄暮》を出品、無鑑査。セルジュ ポリアコフの抽象の影響をもろに受け、大胆な色面構成で描いた。西内利夫と二人展を開催。
1964年(昭和39年)第7回日展に《樹響》が入選。
1965年(昭和40年)第8回日展に《外川風景》が入選。
1966年(昭和41年)第1回日春展に《郷》が入選。第9回日展に《川のある風景》が入選。
1967年(昭和42年)第2回日春展に《晨》が入選。第20回晨鳥社に《月山》を出品。第10回日展に《麓》(株式会社石長蔵)が入選。
1968年(昭和43年)第3回日春展に《待春》が入選、外務省買上となる。第11回日展に《湖北》が入選。12月、晨鳥社の若手11名でグループ濤を結成、グループあすなろは後輩たちに譲る。
1969年(昭和44年)第4回日春展に《森》が入選。第22回晨鳥社展に《湖北》を出品。改組1回日展に《咲》が入選。
1970年(昭和45年)第5回日春展に《沼》が入選。第2回日展に《映》が入選。
1971年(昭和46年)第6回日春展に《閑日》が入選。第3回日展に《湖北》が入選。
1972年(昭和47年)第7回日春展《蒼》が入選。第26回晨鳥社展に《晨》を出品。第4回日展に《白湖》が入選。
1973年(昭和48年)雅号を本名の勝博から融人と改める。第8回日春展に《水辺》が入選。第5回日展に《湖北の樹》(佐久市立近代美術館蔵)が入選。11月、改号の御披露目を兼ね、京都大丸で初めての個展「湖北を描く」を開催。《木立》《湿地》など出品。第3回京都同時代展に《水辺》出品。
1974年(昭和49年)第9回日春展に《焔樹》を出品。外務省買上。第27回晨鳥社展に《湖北》を出品。第6回日展に《午後》を出品。
1975年(昭和50年)第8回グループ濤展に《川辺》を出品。第10回日春展に《冬田》を出品、奨励賞受賞。第28回晨鳥社展に《冬野》を出品、晨鳥社賞受賞。第7回日展で《冬田》(京都市美術館蔵)が特選となる。
1976年(昭和51年)第9回グループ濤展に《野の川》を出品。第11回日春展に《川》が入選。第29回晨鳥社展に《映》を出品。第8回日展に《冬韻》を無鑑査出品。日展出品依嘱となる。
1977年(昭和52年)日春会会員となる。第12回日春展に《朝霧》を出品。第30回晨鳥社展に《湖北》を出品。第9回日展に《閑》を依嘱出品。
1978年(昭和53年)第13回日春展に《靄》を出品。第31回晨鳥社展に《野》を出品。第10回日展に《映像》を依嘱出品。
1979年(昭和54年)3月、京都高島屋、東京高島屋、滋賀県立長浜文化芸術会館で個展「湖北を描く」を開催。《木立》など23点出品。雑誌『形象』68号に田中裕「作家研究 中路融人」が掲載される。第32回晨鳥社展に《初夏》を出品。日展新審査員となる。第11回日展で審査員をつとめ、《玄映》(滋賀県立近代美術館蔵)出品。日展新審査員展に《木立》を出品。
1980年(昭和55年)第15回日春展に《野の川》を出品。第33回晨鳥社展に《晨映》を出品。日展会員となる。第12回日展に《藁屋と木》を出品。
1981年(昭和56年)2月、第13回グループ濤展に《雪野》を出品。第16回日春展に《陽》を出品。第34回晨鳥社展に《閑》を出品。第13回日展に《樹想》を出品。
1982年(昭和57年)2月、第15回グループ濤展に《深緑の島》を出品。4月、明日の日本画展に《暮色》を出品。第35回晨鳥社展に《櫻》を出品。第14回日展に《伊吹山》(福井県立美術館蔵)を出品。師山口華楊と、パリでの「山口華楊展」の為に同行、パリ、トレド、シャトルなど写生。
1983年(昭和58年)京都府企画展で個展開催(3月、京都府立文化芸術会館。4月、東京銀座・松屋。4月、滋賀県立琵琶湖文化館)。《比叡雨情》《晩秋》《近江富士遠望》など23点出品。3月、師山口華楊没。第36回晨鳥社展に《湖映》を出品。第15回日展に《比叡聴雨》(京都市美術館蔵)を出品。
1984年(昭和59年)第19回日春展に《比良遠望》を出品。第37回晨鳥社展に《爽》を出品。第16回日展に《爽晨》を出品。
1985年(昭和60年)2月、第17回グループ濤展に《冬韻》を出品。3月、大矢紀、高橋常雄、室井東志生と異歩騎会結成。第1回展を東京・京都の高島屋で開催、《葦の里》《朝霧》《伊吹》など出品。第20回日春展《朝霧》を出品。晨鳥社副幹事となる。第38回晨鳥社展《爽》を出品。第17回日展《風声》(滋賀県立近代美術館蔵)を出品。
1986年(昭和61年)2月、第18回グループ濤展に《晨》を出品。'86四季の譜日本画に《野の川》を出品。3月、第4回江山会展に《朝靄》を出品。第21回日春展に《湖岸》を出品。第39回晨鳥社展に《梅津の櫻》を出品。第18回日展で審査員をつとめ《爛漫》(東京国立近代美術館蔵)を出品、文化庁買上となる。
1987年(昭和62年)3?4月、「現代日本画の俊英 中路融人展」(日本経済新聞社)が、東京・松屋銀座店、京都・大丸京都店で開催される。日春会運営委員となる。第22回日春展で審査員をつとめ《白嶺》出品。第40回晨鳥社展に《湖東》を出品。第19回日展に《白韻》を出品。
1988年(昭和63年)第23回日春展に《陽春》を出品。日展評議員となる。第41回晨鳥社展に《耀》を出品。第20回日展に《想》を出品。
1989年(平成元年)第24回日春展で審査員をつとめ《霧の日》出品。第42回晨鳥社展に《月山》を出品。第21回日展に《樹林》を出品。
1990年(平成2年)第3回異歩騎会展に《伊吹山》(東京オペラシティアートギャラリー蔵)など出品。第25回日春展に《五合目》を出品。第43回晨鳥社展に《山》を出品。第22回日展に《伊吹》を出品。
1991年(平成3年)第26回日春展で審査員をつとめ《春気》出品。第44回晨鳥社展に《湖北》を出品。第23回日展に《池映》を出品。
1992年(平成4年)『新現代日本画家素描集 中路融人―湖北賛歌』刊行(日本放送出版協会)。第45回晨鳥社展に《島(習作)》を出品。第24回日展で審査員をつとめ《気》を出品。この年、右手を骨折し、《島(習作)》《気》は左手のみで描いた。
1993年(平成5年)第28回日春展で審査員をつとめ《冬の日》出品。第46回晨鳥社展《仰》を出品。第25回日展に《雪山》を出品。第4回異歩騎会展に《富岳四題》《冬の雨》など出品。
1994年(平成6年)1月、東京東武美術館・京都大丸ミュージアムKYOTOで開催の「山口華楊と晨鳥社の人びと」に《冬田》《風声》を出品。第29回日春展に《朝靄》を出品。第47回晨鳥社展に《悠》を出品。第26回日展に《夕しじま》を出品。
1995年(平成7年)第30回日春展で審査員をつとめ《白い朝》出品。第48回晨鳥社展に《兆映》を出品。第27回日展で《輝》が文部大臣賞受賞。「文部大臣賞受賞記念 中路融人素描展」(銀座松屋、京都大丸)開催される。京都府文化功労賞受賞。
1996年(平成8年)第31回日春展に《朝靄》を出品。第49回晨鳥社展に、《映象》(京都市立西京高等学校蔵)を出品。第28回日展に《映象》(日本藝術院蔵)を出品。第5回異歩騎会展に《湖辺》《比叡》《山湖》《兆映》《朝霧》《早春伊吹》《薄日》など出品、これが同会の最終回となる。
1997年(平成9年)第32回日春展に《朝霧》を出品。前年の日展出品作《映象》が日本藝術院賞受賞。日展理事となる。晨鳥社会長に就任。第29回日展に《薄日》を出品。奈良県のため万葉歌「楽浪の比良山風の海吹けば釣する海人の袖かへる見ゆ」(巻9―1715槐本)に取材して《比良連峰》(奈良県立万葉文化館蔵)制作。
1998年(平成10年)第33回日春展で審査員をつとめ《余呉冬日》出品。京都市文化功労者として顕彰される。第51回晨鳥社展に《雪の余呉湖》を出品。第30回日展に《湖映》を出品。
1999年(平成11年)第34回日春展に《朝靄》を出品。第52回晨鳥社展に《浅間山》を出品。第31回日展で審査員をつとめ《山湖》を出品。五個荘町の名誉町民となる。
2000年(平成12年)第35回日春展に《霧の朝》を出品。第53回晨鳥社展に《櫻(習作)》を出品。第32回日展に《桜と島》を出品。
2001年(平成13年)第36回日春展で審査員をつとめ《春霞》出品。第54回晨鳥社展に《五月の頃》を出品。第33回日展に《朝霧》を出品。日本藝術院会員に任命される。
2002年(平成14年)第37回日春展に《朝霧の川》を出品。第55回晨鳥社展に《黄昏》を出品。第34回日展で審査員をつとめ《朝霧の比叡》を出品。日展常務理事となる。奈良県立万葉文化館主催の第一回奈良県万葉日本画大賞展で審査員をつとめる。
2003年(平成15年)第38回日春展に《霧の朝》を出品。第56回晨鳥社展に《望》を出品。現代作家デッサン・シリーズ「中路融人展」(銀座松屋、朝日新聞社主催)開催される。第35回日展に、《夕照》を出品。
2004年(平成16年)第57回晨鳥社展に《伊吹山》を出品。11月、個展「―近江十題―中路融人展〈日本画〉」(東京・ジェイアール名古屋・横浜・京都・大阪髙島屋、?12月)開催される。第36回日展に《望湖》を出品。
2005年(平成17年)第58回晨鳥社展に《湖映》を出品。第37回日展に《耀》を出品。
2006年(平成18年)第41回日春展に《霧の朝》を出品。第59回晨鳥社展に《緑雨》を出品。滋賀県文化賞受賞。第38回日展で審査主任をつとめ《霧の中》を出品。
2007年(平成19年)第60回晨鳥社展に《湖東の葦》を出品。10月、個展「中路融人日本画展―近江の四季燦燦と―」(日本橋・名古屋・新潟・松山・福岡三越、?2008年)。第39回日展に《冬の日》を出品。
2008年(平成20年)第61回晨鳥社展に《耀》を出品。日展審査主任を務め、第40回日展に《峠富士》出品。滋賀県文化賞受賞。8月2日?10月13日、奈良県立万葉文化館にて「山口華楊と晨鳥社の今―晨鳥社展60回・創立70年記念―」を開催。
2009年(平成21年)第44回日春展に《高原富士》を出品。第62回晨鳥社展に《桜》を出品。第41回日展に《桜みち》出品。
2010年(平成22年)1月15日?26日、東近江市立八日市文化芸術会館で「ふるさと近江の心象風景中路融人日本画展」が開催される。第63回晨鳥社展《夕しじま》を出品。10月30日?12月24日、奈良県立万葉文化館にて「平城遷都1300年記念特別展 中路融人展」が開催される。第42回日展に《雪の朝》を出品。
2012年(平成24年)、文化功労者。
2017年(平成29年)7月18日、ホジキンリンパ腫のため京都市内の病院で死去。83歳没。同日付で正四位昇叙。

・深田直城
深田直城は、文久元年7月14日(1861年8月19日)に近江国膳所藩(現滋賀県大津市)に生まれた。明治2年(1869年)京都へ移住し、明治8年(1875年)父の友人だった加島菱洲から洋画を習い、翌9年4月に森川曾文に師事し四条派を学ぶ。明治11年(1878年)18歳で独立し、明治14年(1881年)から明治19年(1886年)まで京都画学校に出仕し、後進の育成に努めた。明治19年(1886年)より居所を大阪に移し、大阪画壇の中心的人物の一人となった。大正3年(1814年)には西宮に転居している。

展覧会への出品歴を並べると、明治15年(1882年)第1回内国絵画共進会で入選、明治17年(1884年)には受賞。明治23年(1890年)第3回内国勧業博覧会では《鳴門図》が妙技三等、明治28年第4回内国勧業博覧会は《藤花山鶏図》で褒状、明治36年(1903年)地元大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会では審査員として《海底遊漁図双屏(海魚遊泳)》を出品している。明治40年(1907年)正派同志会展審査員、文展(現在の日展)の審査員などを歴任した。名は政孝、字は子簽、別号を秋月(棲)、対甲山房と称した。

海魚を最も得意としたと評され、鯉を描いた作品も多いが、風景画や花鳥画の優品も残る。 弟子に平井直水、中川和堂などがおり、長男の深田五城は菊池芳文にも師事し、花鳥画を得意とした。

・山元春挙
滋賀県滋賀郡膳所町(現在の大津市中庄付近)で生まれる。祖父は、戦前の修身教科書において勤勉な商人の鏡として紹介された高田善右衛門。

打出小学校卒業後、12.3歳で遠縁にあたる京都の日本画家野村文挙に入門、その後文挙が上京したため、明治18年(1885年)文挙の師森寛斎に学ぶ。翌年の京都青年絵画共進会に「呉孟」「菊に雀」を出品、一等褒状を受ける。明治24年(1991年)、竹内栖鳳、菊池芳文らと青年絵画懇親会を結成。同年、京都私立日本青年絵画共進会の審査員となり「黄初平叱石図」(西宮市大谷記念美術館蔵)を出品、二等賞銀印となる。明治27年(1994年)に師寛斎が亡くなり、同年如雲社の委員となる。明治32年(1899年)京都市立美術工芸学校の教諭となる。翌年、画塾同攻会(1909年に早苗会と改称)を組織し、展覧会を開く。明治34年(1901年)第7回新古美術品展に出品した「法塵一掃」が1等2席となり、春挙の出世作となる。

明治40年(1907年)文展開設にあたり、竹内栖鳳らと共に審査委員を命ぜられる。大正6年(1917年)6月11日帝室技芸員に任命される。同年、故郷の近くに別荘・蘆花浅水荘(国の重要文化財)を営み、のち庭内に記恩寺を建立、寛斎と父の像を安置した。大正8年(1919年)帝国美術院会員となる。この頃、地元膳所焼の復興を目指し、初代伊東陶山・岩崎建三らと新窯を開く。大正11年(1922年)パリ日仏交換展に「義士隠栖」(三の丸尚蔵館蔵)・「秋山図」を出品し、サロン準会員となる。大正15年(1926年)フランス政府より、シュヴァリエ・ドラ・レジョン・ドヌール勲章を授与された。昭和3年(1928年)大嘗祭後の大饗の席に用いる「主基地方風俗歌屏風」を制作する。昭和8年7月12日死去。享年63。15日従四位に叙せられた。戒名は奇嶽院春挙一徹居士。墓は等持院。

画風は、四条派の伝統を受け継ぎつつも西洋の刺激を受け、墨彩や色彩表現を豊麗さへと徹底的に純化した表現に特色がある。こうした画風は、千總など絵を享受する京の大店に支持された。明治天皇も春挙のファンで、亡くなる際、床の間に掛かっていたのは春挙の作品だったという。

・横井金谷
金谷は宝暦11年(1761年)近江栗太郡下笠村(現滋賀県草津市)に、父横井小兵衛時平と母山本氏との間に生まれ、幼名を早松と称した。明和6年(1769年)、母の弟円応上人が住職を務める大阪天満北野村の宗金寺に修行に入る。明和8年(1771年)には近隣の商人伏見屋九兵衛の娘と結婚を約し、また江戸への出奔を試みる。

安永3年(1774年)、芝増上寺学寮に入るため江戸に向かい、翌年には早くも五重相伝・血脈相承を修めたが、安永7年(1778年)品川・深川への悪所通いが露見し増上寺を追われ、高野聖に化けるなどして下笠に帰国した。安永8年(1779年)伏見光月庵主寂門上人や京小松谷龍上人に教授を受けに下笠より通い、また因幡薬師で龍山法印に唯識論を、六条長講堂に法相の碩徳大同坊の講義を聴聞するなど勉学に励んだ。そのかいがあって天明元年(1781年)京北野の金谷山極楽寺の住職となり、山号をもって雅号とした。この頃のことについて、金谷自らが書いた『金谷上人行状記』において、岡崎の俊鳳上人に随って円頓菩薩の大成を相伝し無極の道心者と言われる一方で、博打・浄瑠璃・尺八などの芸事に夢中であったと記載されている。

天明8年(1788年)、正月30日の天明の大火で極楽寺が消失し、負傷した金谷は翌月城之崎へ湯治に出た。翌年3月、長崎を目指し旅立ち、姫路の真光寺や赤穂の大蓮寺などで「円光大師(法然上人)絵詞」を描き、寛政3年(1791年)長崎からの帰途にも諸寺に立ち寄り絵詞を納め、翌年赤穂において浪士原惣右衛門の孫・原惣左衛門の娘ひさと婚姻した。ひさを連れ江戸へ旅立つが、名古屋において長子福太郎が誕生し、名古屋で3千石取りの藩士遠山靭負の援助を受け留まる。享和2年(1802年)法然6百年御忌報恩のため全国48寺に「円光大師絵詞」を納める。文化元年(1804年)7月、京醍醐寺三宝院門主高演大僧正の大峰入り(大峰山に登っての修行)に斧役として従い、8月その功により「法印大先達」の称号と「紫衣」を賜り、名古屋に帰宅した。

文化2年(1805年)東海道遊行の旅に出、諸寺に絵を納め、文政7年(1824年)故郷近江に戻り大津坂本に草庵「常楽庵」を結び、天保3年1月10日(1832年2月1日)大津坂本にて死去した。

・黒田重太郎
滋賀県出身。鹿子木孟郎、浅井忠らに師事し、1912年文展初入選。1923年二科会会員。1924年小出楢重らと大阪に信濃橋洋画研究所を創立、洋画家を育てた。1968年、関西美術院の初代理事長に就任。著書も多数あり、1969年日本芸術院恩賜賞受賞。染色家の黒田暢・元嵯峨美術短期大学学長は次男。画家の黒田アキは甥。

・野口謙蔵
1901年(明治34年)6月17日、野口謙蔵は滋賀県蒲生郡桜川村綺田(現東近江市綺田町)で造酒業を営む裕福な家の次男として生まれた。父は桜川村初代村長を勤めた野口正寛、母は近在の素封家岡崎銀兵衛の娘で屋恵と言った。祖父野口正忠は美術愛好家で漢詩家、柿村と号し滋賀・京都の多くの文人と親交厚く、富岡鉄斎は正忠との交遊から長く野口家に居候をしていた。伯父(野口正忠の長男)野口正章の妻野口小蘋は明治時代の人気女流画家であり、謙蔵は一流の画家・美術品に囲まれて育ち、幼い頃から絵を描くことが好きだった。

桜川尋常小学校に入学した謙蔵は色白で病弱から学校を欠席することもあったが、成績は優等で、特に読み方とつづり方が優れていたと伝えられている。1914年(大正3年)滋賀県立彦根中学校に入学し親元を離れ下宿生活を行い、社交的でありながら成績は常に十番以内であった。1917年(大正6年)陸軍大演習が滋賀県で行われた際には、彦根中学が明治天皇行幸の大本営となり、謙蔵が描いた水彩画「彦根城山大手橋」が天皇のお持ち帰りとなった。なお彦根中学では前田夕暮の門人米田雄郎(蒲生郡桜川村石塔の極楽寺の住職)に出会い、自然を愛する米田の影響を受け謙蔵は絵画研鑽を決意した。1919年(大正8年)東京美術学校西洋画科に入学し、従姉に当たる野口小蕙(野口正章・小蘋の娘)宅から通った。美術学校では黒田清輝、後に和田英作に師事し、和田からは終生指導を受けた。1924年(大正13年)東京美術学校を卒業し、故郷の風物が自身の画風確立に適していると信じる謙蔵は迷うことなく故郷蒲生に帰郷した。

美術学校卒業後、謙蔵は毎年帝展(帝国美術院展覧会(現日本美術展覧会))を目指し大作を作成したが自身の洋画に違和感を持つに至り、平福百穂の門に入り日本画の勉強を始め、一時期は洋画を一切省みることもなかった。その様な中で自分なりの洋画へのヒントを得たのか、1928年(昭和3年)第9回帝展で「庭」が初入選を果たし、以降第10回「梅干」・第11回「蓮」が連続入選し、1931年(昭和6年)第12回帝展で「獲物」・1933年(昭和8年)第14回帝展で「閑庭」・1934年(昭和9年)第15回帝展で「霜の朝」(現在謙蔵の代表作として東京国立近代美術館に収蔵)が連続して特選を受賞した。帝展が新文展(文部省美術展覧会)に名称変更した後も出品を続けた。なお、その間東光会展・槐樹社展にも出展、1933年(昭和8年)に開催された第1回東光会展には「けし」を出品、以降東光会展・槐樹社展にも出品を続けた。なお、新文展では審査委員として運営にも係わった。

1944年(昭和19年)43歳で死去する。

・ヒロ・ヤマガタ
1948年、材木屋の父のもと6人姉弟の3番目として産まれる。幼少の頃より画才を示す。
1955年、米原町立醒井小学校(現在の米原市立河南小学校)に入学。放課後には毎日美術の特別授業を受け、遊び場でもあった近所の寺の住職より老子・道教・禅などの教えを授かる。
1961年、米原町立河南中学校(現在の米原市立河南中学校)に進学。サイクリング好きが高じ、仲間と琵琶湖を周回するようになる。修学旅行では初めて東京に行き、都会の様子に衝撃を受け好奇心を刺激された。また、家業の手伝いで頻繁に入った山林では満天の星に魅了される。アマチュア天体観測家の父に感化され、自作望遠鏡で宇宙観測に熱中するようになる。詩の世界にも傾倒する。
1964年、滋賀県立米原高等学校入学。同校美術教師の日本画家・椙村睦親(すぎむらまさちか)に師事すると同時に、椙村先生の本棚で画家アンリ・ルソーの画集に出会い大いに影響を受ける。公募で多数の受賞を果たす一方で、大阪のネオン屋へ足を運んだり、蛍光灯を使った作品を制作するなど、光に対する好奇心も加速。
1967年、高校卒業と同時に椙村睦親へ入門するが、同年単身で上京。アルバイト先の画材屋で才能を見出され、広告会社でデザインやイラストの仕事に就く。仕事の合間にサイコロや米粒に自分の作品を描いてリフレッシュしていたと言う話は有名。
1972年、五海祐治、崔洋一、篠毅らと共同で「JIM」を渋谷に設立。

1972年、恋人を追いかけミラノへ渡るが実らず、その後パリへ渡り定住。ルーヴル美術館に日参しながら、作品制作に没頭。ヒエロニムス・ボスやピーテル・ブリューゲルの世界に衝撃を受ける。
1973年、パリの画廊と契約。同年、ウィーンで初の個展を開催。
以後、ロサンゼルスへ移住するまでパリを拠点に様々なサロンへ出展すると同時に、ヨーロッパ各地で個展を開催。この頃の作品は大半が水彩や油彩で、後に一世を風靡するリトグラフやシルクスクリーンなどの版画はほとんど制作されていない。また、渡仏中の間章をはじめ、スティーヴ・レイシーなどの音楽家、ブライアン・ガイシンなどの詩人らの仲間と共にジャズに熱中。オーガナイザーメンバーとして公演開催のため私財を投げ打ち奔走。当時たまり場だったカフェでは詩人のアレン・ギンズバーグやグレゴリー・コルソーとも出会う。1974年には、レーザーを使ったインスタレーションをパリ市内の劇場で初めて実施している。

1978年、ロサンゼルスの画廊と契約してロサンゼルスに移住。版画的技法のシルクスクリーンで、100色以上もの色を散りばめた鮮やかな多色作風により、一躍その名を馳せる。以降、アメリカ各地で個展を開き、アートEXPOへも出展するようになる。彼の作品の多くは、シルクスクリーンによる鮮烈な色彩が非常に印象的である一方で、作品中の細部の人物の顔など間近で見ないとわからないところまで緻密に描写され、繊細である。
1983年、「エア・ショー」が、レーガン大統領が名誉会長であった人類飛行200周年記念財団の公式ポスター作品に選ばれる。後に「ヤマガタ・ブルー」と称される鮮やかな青色の世界を確立。
1984年、ロサンゼルス市観光誘致キャンペーン公式作品を制作。同年、ロードアイランド州が、9月21日を「ヒロ・ヤマガタの日」に定め、同州のウォリック市より名誉市民の称号が贈られる。同年、東京で初の個展が開催される。
1986年、ロサンゼルス市名誉市民に選ばれる。同年、レーガン大統領の依頼で「自由の女神100周年記念」のための公式作品を制作。同年、エドワード・ケネディ議員の呼びかけでケネディ財団主催のアートを通じた障害者支援チャリティープロジェクト「ベリー・スペシャル・アーツ」に参加。同年、東京、大阪、名古屋、横浜、福岡で巡回展を開催。
1987年、ヤマガタ財団設立。ケネディ財団と共同で身体障害者のチャリティイベントを開催。同年、「自選山形博導画集」が出版。
1988年、「オーストラリア建国記念」「エッフェル塔100周年」などの公式作品、レーガン大統領肖像画を制作。同年、ジャック・ニクラスと共同でゴルフシリーズ開始。
1989年、東京、静岡、名古屋、大阪で巡回展を開催。エリザベス・テイラーとの友情を通じてアメリカン・ファンデーション・オブ・エイズ・リサーチ(英語版)への寄付を開始。サンフランシスコ地震被災者救済のために「ファイアー・ワークス」の全売上を赤十字社へ寄付。
1990年、アーノルド・シュワルツェネッガーがテキストを書いた英語版画集「YAMAGATA」が出版。「アメリカ移民200周年」、ベルリンの「フリーダム・キャンペーン」公式作品を制作。同年、メキシコシティ国立美術館(英語版)で個展開催。
1991年、「コロンブス新大陸発見500年記念」、世界陸上の公式作品を制作。同年、ニューヨーク映画記録保管所への経済支援を開始。同年、エイズ・チャリティー活動の一環としてエリザベス・テイラーと共に来日。
1992年、バルセロナ・オリンピックの公式作品を制作。同年、米国ウォルト・ディズニーアートクラシックインクと契約。同年、金閣寺をモチーフに、京都「遷都1200年祭」の公式作品を制作。同年、障害を持つ人々の芸術活動の振興を行う国際組織「ベリー・スペシャル・アーツ」に600万ドルを寄付。
1993年、ジーン・ケネディ・スミスと共に「ベリー・スペシャル・アーツ」のインターナショナル・アート・フェステバル(ブリュッセル)に参加。同年、ジャック・ニクラスと共同でゴルフシ新シリーズの制作を発表。同年、エイズ・チャリティー・イベントのため来日。
1994年、アレン・ギンズバーグらとビート・ジェネレーションに関するドキュメンタリー映画制作の企画を開始。同年、美しい自然のイメージをメルセデス・ベンツのヴィンテージ・カーに描き出し「アースリーパラダイス」としてロサンゼルス市立美術館で発表。なお、「アースリーパラダイス」は美術評論家サム・ハンターによる命名である。また、同展のためにアレン・ギンズバーグが『ヒロ・ヤマガタの聖霊 20世紀の自動車』と題する文章を寄稿(「アースリーパラダイス」の制作風景の模様を、映画監督ジョナス・メカス公式HPで見ることが出来る)。同年、「ヒロ・ヤマガタ全版画集」が出版。
1995年、米国オリンピック委員会の依頼でアトランタ・オリンピック全種目の作品を制作。同年「アースリーパラダイス」展を箱根、ヴェネツィア(アレン・ギンズバーグとの合同展)、モンテカルロ、モンテカティーニ、トリノにて開催。
1996年、「アースリーパラダイス」展をシカゴで開催。同年、カール16世グスタフ スウェーデン国王に招かれ「アースリーパラダイス」展をストックホルムで開催。
1997年、「アースリーパラダイス」展をカッセル(デニス・ホッパーとの合同展)、ウィーンにて開催。同年、「エタニティー・オア・ファット」展をロサンゼルスのフレッド・ホフマン・ファイン・アート・ギャラリー、シカゴART1997で開催。バクテリアやカビが増殖する過程を顕微鏡カメラで3か月撮影。ミクロの世界で描き出される色鮮やかな自然の営みを巨大パネルにした作品。また、大気中に拡散するガスの動きも同様に巨大な写真作品として展示された。同年、レーザー光線を用いたインスタレーション展「エレメントA」をフレッド・ホフマン・ファイン・アート・ギャラリーで開催。同年、アカデミー賞授賞式にて「アースリーパラダイス」のイメージとレーザーインスタレーションのコラボレーションを発表。同年、ホワイトハウスからの依頼で、アメリカ合衆国憲法制定200周年記念の作品「ウィ・ザ・ピープル」を制作。同作品のシルクスクリーンは記念の豪華装丁本に納められ、全世界のアメリカ合衆国大使館に配布された。
1998年、「アースリーパラダイス」展をローマで開催。同年、レーザーインスタレーション「スカルプター・オブ・ライト」展をLAファーストストリート橋にて開催。同年、自身が影響を受けた老子をテーマにしたNHKの番組取材で中国を初めて訪れ作品を描く。同年、日本の心をテーマにした「日本のエッセンス」の制作を開始。同年、作画を担当した80円切手「おもちゃのチャチャチャ」が郵政省より発行。また同年7月1日にニューヨーク・フォレストヒルズスタジアムで開催された日本のアーティストTHE ALFEEのコンサートの公式ポスターを製作。
1999年、「アメリカン・リップス」展をニューヨークのマルボロギャラリーで開催。同年、ビート・ジェネレーションに関する映画『ザ・ソース』(邦題『ビートニク』)のプロデュースが完成、ニューヨークとロサンゼルスの美術館で公開。同映画製作中の97年、アレン・ギンズバーグとウィリアム・S・バロウズが次々に他界(映画監督ジョナス・メカスが撮影したギンズバーグのお通夜の映像に、ヒロ・ヤマガタの姿も見ることができる)したため、一時期完成が危ぶまれた。映画は彼らの生前のインタビューも含めたビートに関する様々なドキュメンタリー映像資料と、ジョン・タトゥーロ(ギンズバーグ役)、デニス・ホッパー(バロウズ役)、ジョニー・デップ(ジャック・ケルアック役)らによる再現ドラマシーンとで構成されている。チャック・ワークマン監督の起用はヤマガタ自身のラブコールで実現したもの。同年、レーザーインスタレーション「ローマイヤーライツ」をローマイヤー彫刻美術館(ミズーリ州セントルイス)にて開催。同年、米国ホワイトハウス設立200周年記念の公式作品を制作。同年、テレビ朝日の番組取材でチベット(ピヤトンガ遺跡)を初めて訪れる。同年、「悠久のシルクロード」シリーズを制作開始。同年、東儀秀樹が音楽を担当したPlayStation用ソフト「YAMAGATA Digital Museum」が発売。
2000年、シンシナティ現代美術センター(英語版)で開催されたレーザーインスタレーショングループ展「アクティブ・ライフ」(オハイオ)に参加。 同年、レーザーインスタレーション「太陽系インスタレーション プロジェクト1」をヤマガタスタジオ(マリブ)で開催。同年、グラミー財団よりグラミー賞2000年公式アーティストに任命される。
2001年、レーザーインスタレーション「NGC6093」をニューヨークのエースギャラリーで開催。(映画監督ジョナス・メカスが撮影した「NGC6093」でのヒロ・ヤマガタインタビュー映像を、ジョナス・メカス公式HPで見ることが出来る。)レーザーインスタレーション「フォトン999」をフランク・ゲーリーがデザインしたグッゲンハイム美術館ビルバオ(スペイン)そのものをキャンバスにして開催。
2002年、レーザーインスタレーション「クウォンタン・インジェクション」をペパーダイン大学(マリブ)で開催。
2003年、レーザーインスタレーション「ART&SPACE宇宙芸術展-ヒロヤマガタとNASAの世界」を横浜国際客船ターミナル大桟橋ホールで開催。この作品はホログラムを巡らした立方体型の巨大な2つの建造物の中で、レーザーを大量に照射し、室内に吊るされた無数のキューブで反射させる屋内展示であった。入場者は偏光眼鏡でそれを観覧した。しかしこの展示は、宣伝の不備から一般的なヤマガタの版画作品を想起させてしまったため入場者数が伸び悩み、展示期間の最終日を待たずに終了。同年、レーザーインスタレーション「スーパーノヴァ3」展をCOSIコロンバス科学博物館(英語版)(オハイオ州)で開催。同年、「サンクトペテルブルク市政300周年記念イベント-音と光の夜」(ロシア)にレーザーインスタレーションで参加。同年、「ヒロ・ヤマガタ原画」展を沖縄で開催。
2004年、レーザーインスタレーション「クウォンタン・フィールドX3」をグッゲンハイム美術館ビルバオ(スペイン)にて開催。美術館に隣接する丘の上に設置した円盤型のオブジェから放たれるレーザーが、屋外に設置された2つの立方体型建造物の外壁を照らし出す等、インスタレーションのスケールが横浜を基盤にさらに大きくなった。
2005年、アフガニスタンのバーミヤーン仏教遺跡にて、破壊された大石仏像を復活させる試みとして、大掛かりなレーザー光線でそのイメージを取り戻すと言う過去最大規模のレーザーインスタレーション構想を発表。太陽発電をベースに蓄えた電力で日没後インスタレーションを実施し、余った電力は地元の農村の電化事業へ還元されると言う。約60億円の予算で展開する。同年、ロサンゼルスのゲッフェン現代美術館で開催されたガラパーティーにてレーザーインスタレーションを発表。同年、レーザーインスタレーションとエレクトリカルミュージックを融合させた「メットリッピン」(東京)に参加し「セオリー・シックス」を発表。同年、「アース・ウォーター・ファイアー・エアー・フェスティバル」(南アフリカ・ケープタウン)にレーザーインスタレーションで参加。同年、フランク・ゲーリーのドキュメンタリー映画スケッチ・オブ・フランク・ゲーリーがトロント国際映画祭(カナダ)で公開。同映画はカナダを皮切りに世界各地で上映。ヤマガタはエグゼクティブ・プロデューサーとして参画した。
2006年、ペインティング作品「エアー」展をロサンゼルスのトーランス・アート・ミュージアムで開催。空間に鮮烈に描き出してきたレーザーインスタレーションのパターンが、巨大なスケールのキャンバスにペインティングとして再構築されている。同年、インスタレーション「スカルプター・オブ・ライト」をBUSCHLEN MOWATT GALLERIES(パームデザート)で開催。
2007年、ペインティング作品「トランシエント」展をロサンゼルスのゲーリー・パートナーズにて開催。巨大キャンバスに貼られた皺交じりの和紙に描き出された水墨の濃淡な世界。近づき細部を凝視すれば鉛筆で書かれた細密画の世界が視覚に飛び込んでくる。走馬灯を眺めているような感覚に迷い込む作品も。

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