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杉並区について

元来この地域は武蔵国多摩郡であり、江戸時代から明治・大正時代も多摩地域に属していた。地理的に東京都区部の扱いになったのは、1929年(昭和4年)の世界恐慌後に東京市へ編入されてからである。

旧東多摩郡西半にあたり、城西地区と呼ばれる東京23区の西部に位置する。面積は34.02平方キロメートルで、東京23区の中では8番目である。自然が豊富な、閑静な住宅地域として発展してきた。JR中央線沿線(高円寺・阿佐ケ谷・荻窪・西荻窪駅周辺など)を中心として、地元住民だけでなく区外からの来街者を想定した個性的な中小店舗群も集まっている。

東京都内の6区市と隣り合う。北は練馬区、東は中野区、東南でわずかに渋谷区、南は世田谷区と隣接。西側には武蔵野市と三鷹市が位置する。

地形的には武蔵野台地上にあり、全体的になだらかな高台地域。特に高台に沿って、古来より甲州街道、青梅街道が南北の区境近傍に東西に通っている。

2005年時点の夜間人口(居住者)は522,582人。これに対して、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は439,379人で、昼は夜の0.841倍の人口になる。通勤者で見ると、区内から区外への通勤者は161,305人、区外から区内への通勤者は77,071人となっている。国勢調査では年齢不詳のものが東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳のものを含め、昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないので数字の間に誤差は生じる。

画家について

・浮田克躬
日展評議員、一水会会員の洋画家。昭和5(1930)年2月17日、東京都杉並区に江幡寛夫の長男として生まれる。実母が病身のため幼少期から母方の祖父浮田和民に養育され、のち両親離婚のため浮田姓を名のる。昭和19年第1回聖戦美術展を見て洋画家を志し、同17年神奈川県高座郡茅ケ崎尋常高等小学校尋常科を卒業して藤嶺学園藤沢中学校に入学し、同校の図画教師灘波秀二(新制作協会)および一水会の画家石川真五郎の指導を受ける。また19年より小林萬吾のもとで石膏デッサンを学ぶ。翌20年藤沢中学校を修了して東京美術学校油画科に入学。安井曽太郎、伊藤廉に師事し、25年同校を卒業。同年第14回新制作派協会展に「集荷場」で初入選、翌年第3回日本アンデパンダン展に「雪降る窓」「高原」を出品。29年より一水会運営委員の田崎廣助に師事し、同年より一水会展に出品。32年には一水会のほか日展にも入選。33年第20回一水会展に「場末の河」「ガード下の風景」を出品し安井奨励賞を受け、同年の第1回日展に「丘の工場」を出品して特選受賞。34年春北海道を初めて訪れ、その雪景色に画因を見出して以後、しばしば足を運ぶ。同年一水会会員となり、39年第26回一水会展出品作「龍飛岬」で会員佳作賞、翌40年同展に「冬(一)」「冬(二)」を出品し会員優賞を受賞する。42年3月、渡欧しフランスを中心に8ケ国を巡遊。以後たびたび渡欧、外遊し、西洋の都市を描いた堅牢で構築的な作品が多く描かれる。同年の第10回日展出品作「サンマルタン水路」で特選受賞、43年第3回昭和会展に「バスティーユの冬」を出品して昭和会賞を受賞。同年一水会会員に推挙される。また、49年日伯美術連盟評議員となって50年の第2回日伯現代美術展に際し渡伯。この後、西欧に加えて中南米の風景が描かれるようになる。56年第13回日展出品作「シシリーの家」で会員賞受賞。61年、前年の第17回日展出品作「城砦の島」で第4回宮本三郎記念賞を受けた。初期から風景画を中心とし、絵具を塗り重ねた重厚なマチエルを特色とする画面には、構図、色彩に対する鋭利な感性がうかがえる。61年5月、宮本三郎記念賞受賞を記念した浮田克躬展が行なわれており、年譜、文献目録等はその図録に詳しい。
1989年心筋こうそくのため東京都新宿区の東京医科大学病院で死去した。享年59。

・奥龍之介
1923年 東京生まれ。
1945年 東京美術学校油画(現・東京藝術大学)中退 。
1953年 日展初入選。光陽会運営委員、光陽会賞。
1967年 第10回安井賞候補新人展 に『異郷』を出品(国立近代美術館)。

・小野木学
1924年、北豊島郡巣鴨町(現・豊島区)に小野木秀雄・シヅ夫妻の四男として生まれる。軍事教練中に肺を患い、療養中に独学で油絵を学ぶ。のち農林省関連の施設に勤務するかたわら、絵画の勉強を続ける。1952年の第17回自由美術展で入選。翌1958年に自由美術協会会員となるが、1961年から翌1962年にかけてパリへ留学した後の1963年に退会。

1965年より版画の製作を開始。1969年、第8回リュブリャナ国際版画ビエンナーレ買上賞を受賞。1970年、第19回小学館絵画賞(現・小学館児童出版文化賞)を受賞。同年、ポプラ社より絵本『かたあしだちょうのエルフ』を刊行(文も本人)。

1976年に腎臓癌で逝去。享年52。生前の作品の多くは練馬区立美術館に所蔵されている。

・千住博
日本画の存在やその技法を世界に認知させ、真の国際性をもった芸術領域にすべく、絵画制作にとどまらず、講演や著述など幅広い活動を行っている。自然の側に身を置くという発想法を日本文化の根幹と捉え、自身の制作活動の指針としている。

代表作のウォーターフォールは1995年ヴェネツィア・ビエンナーレで名誉賞を受賞。
1997年より大徳寺聚光院の襖絵制作にとりかかり、2002年の伊東別院完成に引き続き、2013年に京都本院の襖絵が完成した。
2018年、高野山真言宗総本山金剛峯寺の大主殿2部屋の襖絵が完成。それを受けて富山県美術館を皮切りに国内の巡回展が開催される。
父は工学博士の千住鎮雄、母は教育評論家でエッセイストの千住文子。母の父方(角倉邦彦)祖先に角倉了以(すみのくら りょうい、天文23年(1554年) - 慶長19年7月12日(1614年8月17日))がいる。明治の医師角倉賀道(1857年4月14日 - 1927年5月17日)は近代酪農の祖であり天然痘撲滅に奔走した。弟は作曲家の千住明、妹はヴァイオリニストの千住真理子。
2007年より2013年3月まで京都造形芸術大学学長を務めた。ニューヨーク在住。

絵を描く行為の起源を旧石器時代の洞窟壁画まで遡り考え、当時人々は超自然的な存在と交信するために暗い洞窟の中で絵を描いたと考えている。本来洞窟内部の暗闇の中で宗教的な目的から描かれた絵が、次第に明るい方へと場所を移した結果、人々に見られるタブロー(絵画作品)としての意識が芽生えたのではないかと、画家の視点から考察している。

日本の芸術における最良のエッセンスの多くは、良寛、松尾芭蕉、紀貫之、藤原定家などの詩歌の世界に見出されると論じる『日本の芸術論』(安田章生著、創元社)から多くを学んだと語っている。

代表作の『滝』はそれ自体が絵の具を流しての「滝」なのであり、「滝の描写」ではない。ここに絵画のイリュージョンから抜け出せなかった歴史からの展開を試みているとし、またテーマと技法と手段が完全に一致した実証と述べている。

抽象絵画について、自分の場合どこそこの滝、という名所旧跡を描いているわけではなく、滝なる概念、上から下に水が流れるというシステムを画面の上に出現させるのが自分の作品だと語っている。

21世紀は9.11から始まったと考えている。20世紀後半、ショックやセンセーションをテーマにした現代美術がニューヨークやロンドンを席巻していたが、9.11テロの事件後、世界の価値観が一変したことを感じたと語っている。

「画家は常にインスピレーションが来る『危険』に満ちている」と語っている。

2009年まで、名前の博の右上の点は取っていた。理由として若い頃、自分の実力は点が一つ足りないくらいが丁度と心得て、人一倍頑張ろうと思ってあえて点を取っていたとしている。しかし50歳を過ぎて京都造形芸術大学の学長に推挙され、点が一つ足りない先生では学生も困るだろうし、そろそろ良いかなと思って普通の字に戻したとしている。

「宋元画は人類史上の頂点を極めた。比類ないレベルの絵画」と台北にある国立故宮博物院を30年近くぶりに訪れた際に語っている。

1958年1月7日、東京都杉並区和泉町で、工学博士の千住鎮雄と、エッセイストの千住文子の長男として生まれる。当時、父が学位論文を書き終えたときだったので、博士の博をとって名付けられた。3、4歳の頃から家中の壁や襖をキャンバスにして絵を描いていた。幼稚園の頃はピアノを習い、また小学校受験勉強として塾で絵の勉強を始める。

1964年慶應義塾幼稚舎に入学。6歳頃から兄妹3人でヴァイオリンを習い始める。美術部に所属し、運動会の駆けっこを描いた絵が学校代表で展覧会に出品される。父の仕事の関係で、4年生の時に6ヶ月間アメリカに家族で滞在する。車でアメリカ大陸を横断し、ヨセミテ国立公園、グランドキャニオン、ニューヨークシティ、ナイアガラの滝などを旅する。帰国後、横浜郊外に引っ越す。

1970年、慶應義塾普通部に進学。美術部、水泳部などに所属する。絵は好きだったが、当時は画家や漫画家になるつもりはなく、その気持ちは高等学校に進学してからも変わらなかった。慶應義塾高等学校時代のある日、所属していた美術部の部室に先輩が持ち込んだデザイン雑誌を目にし、永井一正、田中一光など日本発のグラフィックデザインに衝撃を受ける。同時期、建築の世界にも興味を持ち始め、美術系の大学へ進学することを決意する。
高校2年生の秋、美術の担任だった毛利武彦の勧めで日本画のグループ展に行き、岩絵の具と出合う。岩絵の具を使って絵を描きたいという強い思いから、日本画専攻の予備校に通い始める。
2年の浪人生活を経て、1978年に東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻に入学する。学部在学中の約4年間、鎌倉の美術予備校湘南美術学院にて教鞭を執る。

1982年、東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業。学部の卒業制作は、千住によれば「大いなる失敗」。「描きすぎて、本当につまらなくなってしまいました。でも、それで初めて“筆を置くとき”を知ったのです」と語る。
東京藝術大学大学院へと進み、1984年に修士課程修了作品『回帰の街』が首席で大学の買い上げとなり、どんな苦労をしても画家としてやっていこうと心に誓う。同大学院博士課程へと進み、稗田一穂に師事する。博士課程修了作品は東京大学買い上げとなる。卒業とともに作品を精力的に発表し始める。この時期、筆一本で生活できるようになるまで河合塾で予備校の講師をしていた。
大学卒業後の1980年代後半は、主として風景をモチーフにして絵を描く。「東京育ちのため、新潟の山並みに全部違う木が生えていたのを見て、初めは植えられたのだと思った。しかし人から自然に生えているということを教わり、本当に驚いた。必然的にそこでビルのテーマが終り、風景へと向かうようになりました。」と語っている。

1993年に発表した『フラットウォーター』に至る経緯として、「(大学を卒業後)ビルじゃない何かを描かなければいけないと思いながらも、しかし、それが何なのか分からない。焦りを感じつつ、そんな状態が約10年ぐらい続いていました。奈良の古寺からパプアニューギニアまで、本当に手当たり次第、何でも描きました。その中で最終的にハワイのキラウエア火山の溶岩が海に流れ込む『フラットウォーター』へ至り、さらに『滝』に出合った。そこで時間表現という私のテーマが整理整頓された」と語っている。『フラットウォーター』を発表した1993年6月、ニューヨークのマックスウェル・デビッドソン・ギャラリーでの個展が好評を博し、ニューヨークの美術誌『ギャラリーガイド』の表紙を飾る。

1995年のヴェネツィア・ビエンナーレに出品した『滝』は縦3.4メートル、横14メートルの大作で、題名は『THE FALL』だった。滝の意味ならば『THE FALLS』となる。『THE FALL』というのはアダムとイヴが楽園を追放されたという「墜落」の意味だと語っている。日本館は隈研吾の会場設計のもと、館内全域に水を張り、すべての作品が水面に反射するという会場構成だった。床に水を張る工事を請け負った現地作業員の仕事が、ガスバーナーなどを作品のすぐそばで使用するにもかかわらず、かなり大雑把だったため、作業員の不注意によって溶けたコールタールが滝の絵に付着した。その場にいた千住は、画面に付着したコールタールをとっさに左の素手で取り払って大火傷を負い、救急病院で治療を受ける事態となった。幸いにも利き手の右手が無傷だっため、無事修復作業を終え、初日を迎えることが出来た。6月10日の授賞式では、手に白包帯の姿で名誉賞の金色の楯を受け取っている。

1997年、大徳寺聚光院別院全襖絵の制作を大徳寺聚光院から依頼される。どんなに時間がかかってもいいから、と30代のまだ若い作家に依頼する聚光院の姿勢に恐れ入ったと語っている。また、自分を推薦した松井力に大変感謝しているという。

2003年、大徳寺聚光院別院のために描いた襖絵が「大徳寺聚光院の襖絵展」として東京国立博物館で日本で公開された。制作の様子はNHKテレビで『77面の宇宙』として放映された。制作を通して自分の限界をたびたび思い知らされたが、これに打ち克つ方法は、自分の過信を正し、本当の実力が如何ほどかを認め、正面からこれに立ち向かうことだったと語っている。

2003年、六本木のグランドハイアット東京の3階ホワイエに、幅25メートルの白黒の滝の作品を完成させる。オーナーである森ビルの森稔社長(当時)に「好きにしなさい」と言われ、「それでは」と言って本当に好きに制作させてもらった作品だと語っている。会場構成はインテリアデザイナーの杉本貴志。

2003年秋、ニューヨーク・メトロポリタン美術館の主任研究員を務めている小川盛弘から、1954年に戦後の日米友好関係の再構築を願う官民あげての努力により、日本からアメリカへの贈り物として、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の中庭に建造、展示された「松風荘」という日本建築の襖絵の制作を依頼される。「松風荘」は設計が吉村順三、第11代伊藤平左エ門により施工された書院造りの純日本建築。「松風荘」はMoMAの中庭で1954年から2年間で25万人が見学するほどの好評を博した後、フィラデルフィアのフェアモントパークに移転された。1976年、米国生誕200年祭を機に、フィラデルフィア市からの依頼に応じ、「松風荘」は日本からの基金によって修復工事が行われた。千住は20面に及ぶ全作品とその著作権を寄贈することを小川に伝え、襖絵の制作を引き受ける。

2004年、東京国際空港第2ターミナルの到着ロビーに幅14メートルの『朝の湖畔』、空港ショッピングモールの天井に畳60畳の天井画、空港エスカレーターホールの上には縦6メートル、横18メートルの和紙を用いた立体作品を制作する。建築家シーザー・ペリの信頼と日本空港ビルデングの門脇邦彦社長(当時)のバックアップの下、満足の行く仕事が出来たと語っている。この空港ターミナルのアートワークの仕事を依頼されたのは、ちょうど大徳寺聚光院別院の襖絵を終えたばかりの頃で、休む間もなくこの仕事に取り掛かることになったが、むしろそれで良かったと語っている。

2007年、「松風荘」の襖絵が完成する。これにちなみ、フィラデルフィア市が2007年4月27日をHiroshi Senju Dayと制定し、毎年フィラデルフィアでこの記念日の近辺に講演会が開催される。同年、京都造形芸術大学学長に就任する。2013年3月まで3期6年務める。

2009年、ベネッセアートサイト直島の「家プロジェクト」に参加、全長15メートルの「空(くう)の庭」という崖の作品を完成させる。崖の背景にはあえて銀を使用した。それは銀が経年変化で黒変していくためで、時間が作品を少しずつ変えていき、去年見た作品と今年見る作品では別の作品になっていくという「無常観を視覚化したもの」であると語っている。銀の使用については尾形光琳の「紅白梅図屏風」からヒントを得たと語っている。

2010年、APEC JAPAN 2010の会場構成を担当し、各国首脳が自分の絵の前で首脳会議を開き、その映像が広く世界に流れた。当時内閣総理大臣だった菅直人が、晩餐会のスピーチで全世界の首脳に自分を紹介してくれたことは、生涯忘れられない名誉なことだったと語っている。同年、東京国際空港国際線ターミナルのアートディレクションの一環として『ウォーターシュライン』と題する全長18メートルの滝の作品を制作する。作品は国際線の検疫、入国審査前の壁面に設置されている。清く美しい水のイメージを通して日本を世界に伝えていこうとするものと考えている。

2011年、軽井沢千住博美術館がオープンする。同年、水戸岡鋭治とともにアートディレクションを担当したJR博多駅がオープンする。公募により集まった3万点にのぼる一般市民が描いた葉や花、鳥の作品を、千住が描く木の枝で一つにまとめ、陶板のタイルに焼き付けるという巨大なアートプロジェクトである。

2013年、大徳寺聚光院に新しく増築された大書院等に、襖28面と床の間2ヶ所にわたる障壁画を完成する。完成までに10年の月日を費やした。1979年に『モナリザ』がルーブル美術館から貸し出されて日本で公開された際、『モナリザ』と引き換えにルーブルに渡った狩野永徳の国宝『花鳥図』はどこからどう見ても完璧に近く、千住は自分が依頼された大書院の襖絵が、廊下一本隔てただけで狩野永徳の国宝作品と接することの重圧に長い間苦しんできたと語っている。

1958年1月7日 東京都杉並区に生まれる。
1964年 慶應義塾幼稚舎に入学。
1970年 慶應義塾普通部に入学。
1974年 慶應義塾高等学校に入学。
1978年 東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻に入学。
1982年 東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業。
1984年 東京藝術大学大学大学院修士課程修了。修了制作東京藝術大学買上。
1987年 東京藝術大学大学院博士課程単位取得満期退学。修了制作東京大学買上。
1988年 ガレリアフォルニ(ボローニャ・イタリア)にて個展
1989年 オーストラリア・シドニーにあるマンリー市立美術館で個展。「ジ・エンド・オブ・ザ・ドリーム」を発表。
1990年 神奈川県立近代美術館で「収蔵作品による近代日本画の歩み展」に参加。
1993年 ニューヨークの美術誌「ギャラリーガイド」の表紙に選出される。ニューヨークのマックスウェルデビッドソンギャラリーで個展。「Flatwater」を発表。
1994年 山中湖高村美術館で 個展「千住博1980−1994展」。「星のふる夜に」に対し第4回けんぶち絵本大賞を受賞。第7回MOA岡田茂吉賞絵画部門優秀賞受賞。
1995年 創立100周年のヴェネツィア・ビエンナーレ絵画部門にて名誉賞を東洋人として初めて受賞。台湾台北市美術館で開催された「千住博展」はピカソに次いで2人目の会期延長となった。
1996年 彫刻の森美術館で個展。「千住博 Waterfalls & Glasses」展。
1997年より大徳寺聚光院の襖絵制作にとりかかる。
1998年広島市現代美術館収蔵「八月の空と雲」に対し紺綬褒章受章。
2000年 「ライフ」に対し河北倫明賞受賞。
2002年第13回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞受賞。同年ニューヨークのジャパンソサエティーとアジアソサエティーで行われた「ニューウェイオブティー」展に参加。同年韓国ソウル国立現代美術館で行われた「水墨の香り」展に参加。
2003年 大徳寺聚光院別院襖絵完成。東京国立博物館で一般公開。 グランドハイアット東京に高さ3メートル横幅25メートルの滝の壁画を制作。
2005年 第44回ミラノサローネ「レクサス・Lフィネス」にコラボレーションアーティストとして参加。アートディレクションと絵画を担当。福岡アジア美術館で個展「大徳寺聚光院別院襖絵七十七枚の全て」展を開催。
2006年 フィラデルフィア松風荘襖絵(ウォーターフォールシリーズ)完成。光州ビエンナーレ出品。ジャガー・ルクルト「レベルソ」誕生75年を記念した特別限定モデルの文字盤をデザインする。
2009年 ベネッセアートサイト直島・家プロジェクト参加。
2010年 APEC2010首脳会議の会場構成担当。2011年成都ビエンナーレ出品。
2011年までに東京国際空港(羽田)第1、第2、国際線ターミナルのアート・プロデュース/ディレクションを担当。アートディレクションを担当したJR九州博多駅が完成。「軽井沢千住博美術館」開館。
2013年 大徳寺聚光院京都本院の襖絵全てが完成。
2014年 オペラ『夕鶴』の舞台美術を担当。
2015年 第56回ヴェネツィア・ビエンナーレ「Frontiers Reimagined」展出品。シャンパーニュ委員会日本事務局より第7回ジョワ・ド・ヴィーヴル賞を作曲家の千住明、ヴァイオリニストの千住真理子と共に兄妹で受賞。故宮博物院南院プロジェクト完成(中華民国 台湾)。高野山真言宗総本山金剛峯寺の主殿2部屋の襖絵の制作を手がけることが決定。
2016年 3月1日から大徳寺聚光院創建450年を記念して、奉納した襖絵を狩野永徳の国宝障壁画、重要文化財の茶室「閑隠席」とともに2017年3月26日まで特別公開。。薬師寺東院堂にて予備校時代の師・武田成功のガラス作品と「水と光の幻想」展。平成28年度外務大臣表彰受賞。
2017年 第4回イサム・ノグチ賞受賞。
2018年 「高野山金剛峯寺 襖絵完成記念 千住博展 ―日本の美を極め、世界の美を拓く―」 を開催。2020年高野山金剛峯寺へ奉納する襖絵を、奉納に先駆けて展覧会で紹介。(巡回会場:富山県美術館、鶴岡アートフォーラム、秋田市立千秋美術館・秋田県立美術館、そごう美術館、北九州市立美術館分館、神戸ゆかりの美術館・神戸ファッション美術館、愛媛県美術館を巡回。)JCCIより日米特別功労賞(Eagle on the World Award)受賞。
現在、京都造形芸術大学大学院教授。2007年より2013年3月まで京都造形芸術大学学長を務めた。

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