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沖縄県について

"鹿児島県の薩南諸島を除く南西諸島の島々(沖縄諸島、先島諸島、大東諸島)から構成、東シナ海と太平洋に挟まれている。面積は2,281平方キロメートルで、日本の都道府県では小さい順に香川県、大阪府、東京都に次いで第4位であり、人の居住する日本最南端の地域を含む県でもある。また八重山郡与那国町は日本の最西端にある地方自治体であり、与那国島の北北西端にあるトゥイシが日本最西端の地点である。

県民人口の約9割が沖縄本島に集中し、さらに本島中南部に県人口の8割が集中している。那覇市中心部は三大都市圏に匹敵する人口密度である。

ほぼ全域が亜熱帯気候で、年間を通して温暖な気候であり、最高気温と最低気温の差も小さく標高の高い山も存在しないため、最低気温が摂氏10度以下になる事が珍しく、雪も滅多に降らず、氷点下になることもない。

海上輸送路(シーレーン)および軍事的要地(第一列島線)として重要な場所となり、多数の在日米軍基地が存在する。主な米軍施設として、嘉手納飛行場、普天間飛行場、キャンプ、バトラー等が存在する。

歴史的経緯(後述)から、宗教、文化ならびに風習、人名や方言、料理や食文化および産業、人口構成ならびに所得格差に至るまで日本列島主要四島との差異が大きい。俗に沖縄「県外」のことを「内地(ナイチ)」、沖縄県外の日本人を「内地人(ナイチャー)」と呼ぶ事がある。

日本では数少ない南の島である為、日本屈指のリゾート地となり、日本人の夏の観光先としては定番化した。特に2001年のテレビドラマ「ちゅらさん」の放送以後は、県外でも沖縄文化がブームを超えて身近なものとして定着し、県外からの観光客や移住者も大幅に増加した。沖縄県としても文化体験、沖縄料理、レジャー、マリンスポーツや戦争遺跡などを強みに観光分野に力を入れている。

沖縄県内の産業割合を見ると観光業を含む第三次産業が79.2%を占めている一方で第一次産業は5.4%、第二次産業は15.4%と低調している。沖縄は太平洋高気圧の南側に位置し、熱帯低気圧が発生する海域に近い為、台風発生シーズンの9月上旬から11月上旬までは沖縄の天候が荒れやすく、沖縄発着の旅客機が欠航が出やすい。しかし、9月は気温が高いにも関わらずオフシーズンとなる為、夏と殆ど同じ条件で安価に旅行する事が可能となる。

格闘技界においては空手の発祥の地(琉球唐手)として世界的に有名であり、多数の外国人門下生が県内の空手道場に入門し稽古している。ボクシングにおいては石垣市出身の具志堅用高を始めとして数多くの世界王者、名選手を輩出している。
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画家について

・大嶺政寛
那覇市久米町生まれ。沖縄県立第二中学校(現・沖縄県立那覇高等学校)在学時に、比嘉景常の薫陶を受けて西洋画を志す。1929年(昭和4年)沖縄県立第二中学校を卒業後、沖縄県師範学校本科二部に進み、1930年(昭和5年)に卒業する。以後、那覇尋常小学校や那覇市立商業学校(現・沖縄県立那覇商業高等学校)、沖縄県立第一高等女学校等で教鞭を執る。

1933年(昭和8年)、第10回春陽会展に入選。また、1939年(昭和14年)には文展入選。1943年(昭和18年)には第6回文部省美術展(新文展)にて『首里風景』が入選する。

1949年(昭和24年)、第1回沖縄美術展にあたり絵画彫刻部門の審査委員を務める。また同年、沖縄美術連盟幹事に就任する。

1951年(昭和26年)、琉球列島米国民政府より第2回国民指導員としてアメリカ合衆国視察に派遣される。

1953年(昭和28年)、春陽会会員に推挙され、1955年(昭和30年)には名渡山愛順とともに1955年協会を結成した[2]。

1956年(昭和31年)、沖縄美術家連盟を結成し、その第1回展を開く。

1967年(昭和42年)、第1回沖縄タイムス芸術選賞を受賞[3]。

1987年、77歳で死去した。

儀間比呂志
那覇市生まれ。1946-1951年大阪市立美術館研究所で絵を学び、1970年から木版画に専念。
1955年 堺市展にて会頭賞受賞。
1956年 沖縄で第一回展。
1958年 行動美術展にて激励賞受賞。
1959年 行動美術展にて新人賞受賞。
1962年 『琉球風物版画集』を限定出版。
1966年 行動美術展にて会友賞受賞。
1969年『儀間比呂志版画集・沖縄』
1971年『ふなひき太良』(岩崎書店)刊、毎日出版文化賞受賞。
1972年『へこき三良』(岩崎書店)。
1974年『儀間比呂志の沖縄』(講談社)刊。
1975年『鉄の子カナヒル』(岩波書店)刊。サンケイ児童出版文化賞受賞。『赤いソテツの実』『ねずみのハーリー』刊。
1980年中山良彦と沖縄戦版画集『戦がやってきた』(集英社)で沖縄タイムス社芸術選賞絵画部門大賞受賞。
1985年新川明と絵本『りゅう子の白い旗』刊。
1994年版画集『儀間比呂志の沖縄』(海風社)
1999年絵本『沖縄のわらべうた』(沖縄タイムス社)
2003年絵本『南風(ぱいかじ)よ吹け~オヤケ・アカハチ物語』
2009年ロックバンドMONGOL800と詩画集『琉球愛歌』を出版。

・金城次郎
那覇市生まれの陶芸家。国の重要無形文化財「琉球陶器」技能保持者(沖縄県で初の人間国宝)。

1925年、13歳で陶工として新垣栄徳に師事し、この年に民芸運動を展開していた濱田庄司と出会った。民芸運動の中心人物である柳宗悦の影響を強く受け、製作に反映させていった。太平洋戦争中は制作活動を中断するが、1946年に壺屋に自らの工房を開いた。

日常的な暮らしの中の日用品に「用の美」を見出そうという民芸運動に作品は合致し、数々の受賞をして名前を馳せていった。 1972年の沖縄返還の年に、都市化により登り窯から出る煙の公害問題が起きていた壺屋から、活動拠点を読谷村に移した。 1985年に沖縄県で初の重要無形文化財技能保持者(人間国宝)に選ばれた。 2004年に心筋梗塞のため死去。

作品は、素朴な作風の壺屋焼(上焼)で、壺、食器、酒器などの日用雑器が多く、また、魚や海老をモチーフにしたものが多い。笑っているように見える魚(笑う魚)などユーモラスな「魚紋」は金城次郎作品を代表する絵柄である。

3人の子はすべて陶芸家で、一族には壺屋焼陶芸家が多く、次郎の弟である敏雄の血筋を含め「金城一門」と呼ばれる。
1914年(大正元年)12月3日、那覇市与儀で出生。
1925年(大正12年) 新垣栄徳の製陶所に入門、壷屋の製陶に従事。
1945年(昭和20年) 沖縄戦終結。
1946年(昭和21年) 那覇市壺屋に工房を開く。新垣栄徳の窯を共同使用。濱田庄司、河井寛次郎らの指導の元で壺屋焼を守り発展に努める。
1958年(昭和33年) 「魚紋大皿」と「抱瓶」が、ルーマニア国立民芸博物館に永久保存となる。
1958年(昭和33年)12月、東京三越本店にて「沖縄壺屋三人展」開催。
1972年(昭和47年) 沖縄本土復帰。読谷村に移住。
1972年(昭和47年)11月21日、沖縄県指定無形文化財技能保持者に認定される。
1977年(昭和52年)11月10日、「現代の名工」として労働大臣表彰。
1978年(昭和53年)12月28日、高血圧で倒れ、4か月の静養。
1985年(昭和60年)3月23日、「琉球陶器」での重要無形文化財技能保持者(人間国宝)に認定、沖縄県功労章受章。
1993年(平成5年) 勲四等瑞宝章受章。
1997年(平成7年) 引退していたことが明らかになった。
2004年(平成16年) 死去。享年92。

・名嘉睦稔
1953年(昭和28年)、沖縄県の離島・伊是名村勢理客に生まれる。
幼少の頃から絵や工作が大好きだったボクネンは、画用紙が足りなくなると、伯母さんに頼んでセメント袋や肥料袋を切ってもらい画用紙代わりにしていた。茶色の紙を束にして小脇に抱え、何時でも何処でも絵を描いていたという。
更に、田んぼの片隅で一人黙々と何かをしているボクネン少年。農作業に忙しい大人達は、片目で見守りながら好きなようにさせていた。
作業を終えた伯母さんが近寄ってみると、粘土で馬や牛や魚など造形物を作って整然と並べていたという。あまりにも沢山の数だったので、「気持ちが悪いくらいだった」と伯母さんは後に話している。

1968年(昭和43年)、16歳中学卒業。島には中学校までしかない為、沖縄本島へ渡り、工業高校のデザイン科を受験。一浪して入学。

1972年(昭和47年)、工業高校を卒業し本土のデザイン専門学校へ通うも、高校時の授業内容の繰り返しに落胆。沖縄に帰る。

1974年(昭和49年)、デザインプロダクションに就職。広告や印刷業界でイラストレーションが注目され話題となる。クライアントの要望に合わせて、7、8 種類の絵を描き分けていた。

1979年(昭和54年)、工業高校時代の友人とデザインプロダクション「プロジェクト・コア」を設立。Tシャツブランド「HabuBox(ハブボックス)」を立ち上げ、得意なイラストを武器に観光業界に参入。

1982年(昭和57年)、『美童シリーズ』を主としたイラストレーションも精力的に制作する。その線描画は後にリトグラフやセリグラフィーの作品として世にでる。

1983年(昭和58年)、仕事の過程で初めて版画と出合い衝撃を受けた。「一生関わっていく」という確信があったという。そのころ、知人から棟方志功の版画集を譲り受け、更に衝撃を受ける。版画制作に没頭しそうな予感がして、多忙な会社経営などの諸事情により敢えて版画を封印する。

1985年(昭和60年)、セリグラフィー作品『レッド・シーサー』を皮切りに作品を量産する。

1987年(昭和62年)、環境が整い本格的に木版画を開始する。

1990年(平成2年)、初の個展開催、版画家ボクネンを世に知らしめる。それから数年後、木版画で裏手彩色という同じ技法から、「南の棟方志功」と呼ばれる光栄に授かる。

1999年(平成11年)、「日本の美100 選/棟方志功編」(NHK)出演。

2003年(平成15年)、「写真集棟方志功 飯窪敏彦」(文藝春秋)寄稿文掲載。

2012年(平成24年)、「極上美の響宴/棟方志功「飛神の柵」を彫る」(NHK)出演。

2015年(平成27年)、この年の時点で2000 点を超す作品を生み出し、現在も精力的に版画を彫り続けている。

・名渡山 愛擴
日本の画家、染織家。沖縄県那覇市出身。

父は画家の名渡山愛順。洋画家として沖縄の風景画を得意としたほか、沖縄の伝統的染織紅型を復興しようと名渡山工芸館を立ち上げている。光風会会員であり、新生美術協会会長も務めた。

2011年6月6日、肝臓がんにより那覇市内の病院で79歳で亡くなっている。

・名渡山愛順
那覇市松下町のかすり問屋の長男に生まれる。父が幼少時に死去したため、母の手一つで育てられた。

1918年(大正7年)、沖縄県立第二中学校に入学するが、生来病弱であったため、病気で2年間休学する。1922年(大正11年)、美術教諭として赴任してきた比嘉景常から西洋画と琉球文化の指導を受け、それが名渡山の進路に影響を与えた。中学卒業後1年の浪人を経て、1927年(昭和2年)、東京美術学校西洋画科に進み、和田三造、金山平三に指導を受ける。翌1928年(昭和3年)には帝展入選を果たした。1932年(昭和7年)に東京美術学校を卒業し、沖縄県立第二高等女学校で教職に就いた。1939年、『琉球復古調』で新文展に入選する。 太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)、いわゆる十・十空襲でそれまでの作品の大部分を焼失し、翌1945年(昭和20年)には大分県竹田に疎開した。終戦後の1946年に米軍占領下の沖縄に帰り、沖縄民政府の沖縄諮問委員会文化部芸術課の美術技官に就く。

1947年、沖縄美術家協会を結成し、また、首里西森のニシムイ美術村にアトリエを構える。

主に原色を用いて琉球衣装の女性をテーマに制作した。代表作の『郷愁』は、疎開先の竹田で故郷を思いながら描いたものである。


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