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千葉県について

千葉県は日本の関東に位置する都道府県の一つです。
関東の中でも茨城県の南、東京都の東に位置し、太平洋、東京湾、江戸川、利根川に囲まれています。
県庁所在地の千葉市から半径1000km以内に日本列島の大部分が収まるという地理的な意味で日本の中心に位置しています。
また、地理的な特徴としては非常に海抜が低く、標高500mを越す山地が存在しない日本でも唯一の都道府県です。
成田市にある、成田山 新勝寺は初詣客が明治神宮に次ぐ全国2位で年間1000万人を超える方々が訪れると言われています。
成田国際空港に近いこともあり、外国人観光客も多く訪れています。
信仰の地として、1000年以上の歴史があります。
ご利益スポットや運気アップのパワースポットと呼ばれており、護摩祈祷や交通安全や出世のご利益で有名となっています。

また、三方を海に囲まれているため、漁業が盛んで、特に銚子港は大変有名です。
特に伊勢海老は全国一の水揚げを誇ります。
首都圏の料理店への出荷が多く、地の利も大きいため、海産物が多く出荷され、重要な産業となっています。

画家について

菱川師宣

それまで絵入本の単なる挿絵でしかなかった浮世絵版画を、鑑賞に堪え得る独立した一枚の絵画作品にまで高めるという重要な役割を果たした。初めは無記名で版本の挿絵を描いており、初作は寛文11年(1671年)刊行の噺本「私可多咄」(無款)であるとされ、翌寛文12年(1672年)、墨摺絵本「武家百人一首」(千葉市美術館所蔵)においてその名前(絵師 菱川吉兵衛)を明らかにした。その後、次第に人気を博し、墨摺絵入り本・絵本を数多く手がけた。「浮世百人美女」、天和2年(1682年)刊「浮世続」(国立国会図書館所蔵)、天和3年(1683年)刊「美人絵づくし」(ボストン美術館所蔵)などに市井の女たちを描写し評判高く、生涯において100種以上の絵本や50種以上の好色本に筆をとっている。
祖父は藤原七右衛門と云い、京都在住であったが、父の吉左衛門は菱川を称し、安房国平郡保田本郷(現・千葉県鋸南町)に移住、道茂入道光竹と号した。師宣はここで暮らす縫箔師[2]の家に生まれた。俗称を吉兵衛、晩年は友竹と号す。明暦の大火(明暦3年)の後、万治年間に海路によって江戸に出て狩野派、土佐派、長谷川派といった幕府や朝廷の御用絵師たちの技法を学び、その上に市井[3]の絵師らしい時代感覚に合った独自の新様式を確立した。はじめは古版絵入り本の復刻の挿絵、名所絵などで絵師としての腕を磨いている。江戸に出て初めは縫箔を職として上絵を描いていたが、生来絵が巧みであったので遂に絵画を職としたのであった。江戸では堺町、橘町、人形町などに転住していた。また、京都へ行ったことも考えられる。
寛文後期から延宝前期には、無署名本がほとんどであったが仮名草子、浄瑠璃本、吉原本、野郎評判記、俳書などの挿絵を中心に活動し、画技の研鑽に励んだ。やがて延宝中期、後期になると絵入り本、絵本で吉原もの、歌舞伎もの、名所記などや風俗画その他で個性を現し、絵本や枕絵本を刊行、師宣様式の確立という大きな転換期を迎えた。枕絵本は延宝3年(1675年)刊行の無署名『若衆遊伽羅之縁』、同3、4年頃刊行の『伽羅枕』、延宝5年(1677年)刊行の『小むらさき』などが早期の作品である。『伽羅枕』では「絵師 菱河吉兵衛」、『小むらさき』では「大和絵 菱川吉兵衛」と署名する。延宝5年にはほかにも近行遠通撰の地誌絵本『江戸雀』十二巻12冊などの挿絵を描いている。
その後、延宝6年(1678年)刊行の役者絵本『古今役者物語』1冊、絵本『吉原恋の道引』や、元禄4年(1691年)刊行の絵本『月次(つきなみ)のあそび 』1冊、師宣没後の元禄8年(1695年)刊行の絵本『和国百女』三巻1冊などを著している。また天和元年(1681年)刊行の半井卜養の狂歌絵本『卜養狂歌集』二巻2冊の挿絵をしたことも知られている。これらを通して上部に文章、中・下部に絵という師宣絵本の基本形式が整ってきており、延宝8年(1680年)正月刊行の『人間不礼考』、同年5月刊行の『大和絵つくし』に至ると、上部3分の1乃至4分の1に文章、下部に絵という形式が確立される。当世絵本、風俗絵本の分野においての師宣の評価は動かし難いものとなったのであった。『大和絵つくし』は古代中世の故事、伝記、説話を大和絵で表現し、「大和絵師 菱川吉兵衛尉」と署名するなど、当世の大和絵師、菱川師宣の立脚点をも示した作品として記念碑的意味を持つものといえる。天和に入るとその活躍は一層目覚しいものとなり、悠揚迫らぬ美女群が画面一杯に闊歩する。この天和を挟んだ約10年間が師宣の最も充実した時期であった。天和2年(1682年)に大坂で井原西鶴の『好色一代男』が著されると、2年後の江戸刊行の際には師宣が挿絵を担当した。また、同じ天和2年刊行の絵本『浮世続』、『浮世続絵尽』(財団法人東洋文庫所蔵)、天和4年(1684年)刊行の絵本『団扇絵づくし』も知られている。
貞享3、4年頃からは円熟味と引換えに様式の固定化が目立つようになった。明暦の大火直後の再建の槌音も高い江戸市民の嗜好に、師宣ののびのびとして翳りのない明快な画風もマッチしていた。『吉原恋の道引』、『岩木絵つくし』、『美人絵つくし』などを見ても線が太く若々しいものであった。その好色的な図柄も開けっ広げで、健康的なのは時代の目出度さと思える。落款に「大和画工」や「大和絵師」という肩書きをつけているのも、その自負、自覚の表れである。また、絵図師の遠近道印(おちこち どういん)と組んで制作した『東海道分間絵図』(神奈川県立歴史博物館所蔵)は江戸時代前期を代表する道中図として知られている。大衆の人気を得た師宣は好色本を主に次々と絵入り本を刊行、やがてその挿絵が観賞用として一枚絵として独立、墨一色による大量印刷により、価格も安く誰でも買えるものになった。「吉原の躰」、「江戸物参躰」、「大江山物語(酒呑童子)」や、無題の春画組物など墨一色で、稀に筆彩された独自の様式の版画芸術が誕生し、ここに浮世絵が庶民の美術となったのであった。
師宣は屏風、絵巻、掛幅と様々な肉筆浮世絵も描いており、それらは江戸の二大悪所といわれた歌舞伎と遊里、隅田川や花見の名所に遊び集う人々や遊女であった。その大らかで優美な作風は浮世絵の基本的様式となっていった。なかでも、「見返り美人図」は師宣による一人立ち美人図であるという点で珍しい作例で、歩みの途中でふと足を止めて振返った印象的な美人画様式は、まさに榎本其角の『虚栗』において「菱川やうの吾妻俤」と俳諧で謳われたそのものであるとみられる。師宣は肉筆浮世絵では「日本繪」と冠していることが多い。
元禄7年(1694年)6月4日、師宣は江戸の村松町(現・東日本橋)の自宅で死去し、浅草において葬儀が行われた。終生故郷を愛した師宣の遺骨は房州保田の別願院に葬られた。菩提寺は府中市紅葉丘の誓願寺。法名は勝誉即友居士。
門人には、師宣の子、菱川師房、菱川師永、菱川師喜の他に古山師重、菱川友房、菱川師平、菱川師秀ら多数おり、工房を形作っていたといわれる。故郷の千葉県鋸南町には菱川師宣記念館がある。


安藤信哉

1897年 - 千葉県に生まれる
1929年 - 帝展初入選
1937年 - 文展特選
1939年 - 文展で無鑑査出品となる
1951年 - 日本水彩画会会員になる
1957年 - 日展審査員に就任。東京教育大学教授に就任、ろう者の美術教育に力を注ぐ
1968年 - 日展評議員に就任
1974年 - 日展参与に就任
1983年 - 死去。享年86(満85歳)


荒木淳一

13歳で油絵を描き始めるが、中学生の頃より自己表現の手段として文学を志し、1975年4月に愛知大学文学部フランス文学科に入学する。初めは小説家志望だったが、大学在学中に演劇に魅せられ劇作家志望に転向した。
1979年愛知大学卒業後ソルボンヌ大学文化学科に留学。パリではシネマテーク・フランセーズなどで映画三昧の日々を過ごした。小津安次郎、溝口健二、黒澤明、大島渚など日本の映画監督の作品の多くは当時日本映画プームだったパリで観た。また、フランス国内を始めスペイン、オランダ、ベルギー、西ドイツ、オーストリア、スイス、ギリシャなどを旅しそれらの国々の建築や美術、人々の生き方に多大のインスパイアーを受けた。
1981年帰国後本格的に油絵を描き始め、1986年より公募展に出品を始めた。1989年より成田禎介の描く風景画に惹かれ日展系の美術団体示現会展に出品、大内田茂士(1990年日本芸術院会員)に師事した。
1991年に示現会の会友に推挙され同人となるが、1994年大内田茂士没後の第47回示現会展後に同会を退会し無所属となった。
1992年の初個展以来、パリとポルトガル風景が主なモチーフだったが、1996年1月の浦和伊勢丹での展覧会以降「イタリアの風と光」「イタリア 煌めく光の中で」「イタリアの空と大地」などイタリア風景を中心とした展覧会が開催されるようになった。
1995年ギャラリーGKでの展覧会でオイルオンペーパーの作品が初めて発表された。
1996年~1997年評論家種村季弘のプロデュースにより西武百貨店5会場で展覧会が開催された。
2001年「日本におけるイタリア年2001」に因んで「イタリア2001年の旅」と題された展覧会がイタリア文化会館(イタリア大使館文化部)の後援により、4月の高岡大和を皮切りに翌2002年7月の大宮そごうまで全国23会場で開催された。
2007年の弘前中三より「黒猫のいる風景」が発表された。その後2009年沖縄リウボウでの展覧会よりオイルオンペーパーで描かれた黒猫のいる風景「黒猫百景」シリーズが始まった。
2001年のアート未来展出品以降個展主義を続けていたが、2012年の第44回ローマン派美術協会展に23年振りに出品、奨励賞を受賞し会友に推挙され同人となった。
2013年第45回ローマン派美術協会展にて特選を受賞し会員に推挙されたが翌年の第46回ローマン派美術協会展後に同会を退会し再び無所属となった。
2015年第38回白亜会展に出品し同人に推挙された。
2016年第39回白亜会展に出品し会員に推挙されたが固辞し再び無所属となった。


浅井忠

江戸の佐倉藩中屋敷に藩士・浅井常明の長男として生まれる。少年時代は現在の佐倉市将門町で1863年から1872年までを過ごし佐倉藩の藩校・成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身。父・常明は、この成徳書院の校長をしていたこともある)で四書五経などの儒教や武芸を学ぶかたわら、13歳の頃から佐倉藩の南画家・黒沼槐山に花鳥画を学び、「槐庭」(かいてい)の号を与えられ、この頃から才能の一端を現した。
1873年に上京。はじめは英語の塾で学んでいたが、1875年に彰技堂で国沢新九郎の指導のもと油絵を学び、1876年に工部美術学校に入学、西洋画を学び特にアントニオ・フォンタネージの薫陶を受けた。フォンタネージの帰国後、後任教師フェレッチの指導に飽き足らず、1878年11月に小山正太郎や松岡寿ら同士11人とともに退学し、十一会を結成。卒業後は、新聞画家としての中国派遣などを経て、1889年には忠が中心になって明治美術会を設立した。1894年、日清戦争に従軍。1895年、京都で開催された第4回内国勧業博覧会に出品して妙技二等賞受賞。1898年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の教授となる。その後、1900年からフランスへ西洋画のために留学した。
1902年に帰国後、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授・教頭となり、個人的にも、1903年に聖護院洋画研究所(1906年に関西美術院)を開いて後進の育成にも努力した。安井曽太郎、梅原龍三郎、石井柏亭、津田青楓、向井寛三郎を輩出しており、画家としてだけではなく教育者としても優れた人物であった。また、正岡子規にも西洋画を教えており、夏目漱石の小説『三四郎』の中に登場する深見画伯のモデルとも言われる。
1907年12月16日、リウマチにより入院中の東京大学病院において心臓麻痺のため死去。墓地は京都の金地院。


小林一枝

千葉県習志野市に生まれる[1]。1937年(昭和12年)には山梨県韮崎市へ移住し、山梨大学美術科において洋画を学ぶ。山梨大学卒業後は山梨において教員を務める傍ら制作を行い、峡北美術協会・1937年(昭和12年)に創設された山梨美術協会へ出品を行っている。1954年(昭和29年)には山梨美術展奨励賞を受賞する。1955年(昭和30年)には峡北美術協会会員となる。1959年(昭和34年)には第20回山梨美術協会20周年記念展で会員に推薦されている。
小林は二科会の織田廣喜の知縁を得て、織田の推薦で二科展に出展を行い、1959年(昭和34年)には初入選している。その後、二科展への出展は取りやめ、山梨美術協会展への出展を続けている。1967年(昭和42年)から1973年(昭和48年)にかけて4回の個展を開催している。1981年(昭和56年)には船岡賞を受賞する。
山梨県を拠点に活動を行った洋画家・佐野智子(1925年 - 1994年)は、山梨を拠点に活動を行う女性画家の奨励を目的に1977年(昭和52年)に二美会会員の桑原浜子・竹田春子とともに「三人展」を開始し、1979年(昭和54年)には小林と川口和子を加え第1回「女流五人展」を開催する。女流五人展はその後「九人展」に発展し、小林は第10回展まで出展を行っている。1992年(平成4年)には山梨美術協会の永年会員となる。中央画壇では1994年(平成7年)に創元会会員となっている。
2011年(平成23年)には山梨美術協会総会において会長・斎藤武士が退任したことにより、新会長に須田國生が就任し小林と手塚義彦を副会長に新体制が発足した。山梨美術協会会員のうち女性会員で役員となった人物は、2016年時点で小林のほか相談役を務めた竹田春子がいる。小林は同年11月に死去。
小林は織田廣喜の幻想的な画風に学び、画題には寺院や田園風景を好み、明るく優しい色彩で寺の参道や山門などを多く描いている。


櫻井慶治

1919年、千葉県印旛郡和田村(現千葉県佐倉市高崎)に生まれる。
千葉県立佐倉中学校(旧制、現千葉県立佐倉高等学校)、千葉師範学校(現千葉大学教育学部)を経て1949年に東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業。東京美術学校在学中の1947年と1948年に光風会展入選。1956年から1957年文部省留学生としてフランス留学。1956年から1964年まで絵画の研究の為、ヨーロッパを中心にイタリア、スイスなど各国を歴訪。1965年、再渡欧米、フランスでル・サロン銅賞・ヴィシー国際展グランプリを受賞。
1967年(昭和42年)第10回日展、1969年(昭和44年)改組第1回日展の2回で特選を受賞した。
日展審査員、評議員を経て2001年に日展参与に就任。内閣総理大臣より紺綬褒章を受章。さらに2005年にも天皇より紺綬褒章を受章。八千代松陰学園に30周年記念のために同校に自作品140点以上を寄贈し、校内に展示されている。勲三等、文化勲章を授与される。
2016年6月6日死去。


桜田精一

1910年 熊本県上益城郡津森村(現益城町)に生まれる。
1933年 日本美術学校洋画科を卒業。
1933年 38年まで朝鮮にて教壇に立つ。
1933年 朝鮮美術展覧会にて「早春の博物館」が特選・昌徳久宮賜賞を受章する。
1934年 朝鮮にて、長女・久美生まれる(洋画家桜田久美参照)。
1939年 帰国し上京する。
1940年 日本美術学校講師に就任。
1947年 光風会展にて「竹林」が光風特賞となる。
1949年 千葉県美術会を創設に参加。
1957年 58年まで約1年間渡欧する。
1965年 日展審査員(72年、78年、84年、87年、92年)に就任。
1974年 十柯会同人。
1976年 千葉県教育文化功労賞受賞。
1978年 日展出品作品「朝」が文化庁買い上げとなる。
1980年 日展評議員となる。
1982年 野田市文化功労表彰を受ける。
1986年 個人美術館《鳩聚苑》を建設する。
1987年 小山敬三美術賞を受賞する。
1987年 日展参与に就任。
1987年 「櫻田精一画集」を刊行する。
1991年 地域文化功労者文部大臣表彰を受ける。
1992年 勲四等瑞宝章を受章する。
1994年 紺綬褒章を受章する。
1999年 千葉県野田市で永眠。
2001年 熊本県立美術館にて「櫻田精一展」を開催。
2009年 千葉県立美術館にて櫻田精一展「生誕100年-響きあう光・水・風を描く-」を開催。


鈴木鵞湖

鈴木鵞湖は江戸時代末期に下総国千葉郡豊富村(現:千葉県船橋市金堀町)に生まれた。江戸に出た後は谷文晁、相沢石湖に学んだ。代表作の1つである『十六羅漢像図』は千葉県指定文化財になっている。
専門家の間では「近代美術の基礎を築いた」とも評されている。また、鵞湖の後を少したどると息子の石井鼎湖、孫の石井柏亭、石井鶴三と三代にわたってその資質を継ぎ、いずれも画壇で活躍している。
なお、石井姓は、鼎湖が養子にいったことによる。2005年に郷土に大きく貢献した鈴木鵞湖を研究する為の「鈴木鵞湖研究会」が金堀町に続く鈴木家を含めた有志で結成され、歴史に埋もれてしまっている郷土出身の画家の足跡を明らかにする為の活動が行われている。


吉橋秋月

1826年(文政9年)に船橋五日市に生まれる。1838年(天保9年)に江戸深川に出て、南画の3代目堤等琳に師事する。1845(弘化2年)船橋に帰住して画を教授する。葛飾北斎と同門とする説がある。宮本の西福寺に弟子達の建てた「吉橋秋月先生筆塚」の碑がある。


石井鼎湖

谷文晁の門人であった鈴木鵞湖の次男。江戸の生まれ。後に石井姓を名乗る。幼名は貞次郎、名は重賢。幼時より父に絵を学ぶ。安政6年(1859年)、仙台藩士の造船家三浦乾也の養子となる。文久2年松代藩士村上英俊よりフランス語を学びはじめ、翌3年(1863年)に石井家を継いだ。
明治3年(1870年)大蔵省に出仕し、紙幣や公債証書の下絵図案を作る担当する。明治7年(1874年)に紙幣寮に入って銅版画、石版画を習得、さらに松田緑山の開業にも参加、石版画の指導にあたった。明治28年(1895年)、印刷局を辞した。明治10年(1877年)には中丸精十郎に洋画も学び、明治17年(1884年)からは自ら創立に加わった精研会の展覧会に洋画を毎海出品。明治21年(1888年)日本美術協会第一部委員となる一方、翌22年(1889年)の明治美術会創立にも参加し評議員となる。明治23年(1890年)第3回内国勧業博覧会において「豊太閤醍醐花見」で妙技三等賞を受ける。日本美術協会の展覧会で受賞を重ね、明治29年(1896年)には特別賞を受賞、洋画壇で一定の評価を築いた。
また、川上冬崖、国沢新九郎にも師事していた。明治30年(1897年)には日本南画会の結成にも参加するなど、日本画、洋画双方にわたる幅広い活動を行い、歴史上の人物を取り上げた作品も多く制作した。享年50。墓所は護国寺共同墓地九通。法名は重誓院釈賢道信士。長男は版画家で洋画家の石井柏亭、三男は彫刻家の石井鶴三である。


永倉江村人

1881年、千葉県印旛郡臼井町(現在の佐倉市臼井)に旧佐倉藩士の永倉良輔の長男として生まれる。旧制佐倉尋常中学(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て、明治31年東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科本科に入学。
学生時代、考古学研究における先駆者として、「東京人類学会(現日本人類学会)」に寄稿したという。明治36年同科を卒業、同校研究科(現在の東京芸術大学大学院)に進むがすぐに退学し、同年に旧制福岡県立中学修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)図画教師に赴任。
翌年同校教師を免じられ、一年志願兵として軍役に服務。明治38年からは京都帝国大学福岡医科大学(現在の九州大学医学部)に標本描画嘱託として解剖教室に勤務、人体解剖図を専門に写実した。一時兵役のため休職ののち、大正2年まで勤務。
ついで九州日報社(現在の西日本新聞社)社友となり昭和の初めまで画筆をとる。その後西新町の自宅で画家、俳人、表具師などの文化人グループを結成。昭和26年1月25日、没。享年71。


後藤純男

1930年 千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)の真言宗豊山派の住職後藤幸男の子として生まれる。
1932年 埼玉県金杉村(現・松伏町)へ転居。
1942年 金杉小学校を卒業する。同年、父後藤幸男が母校で英語教員を勤めていた旧制豊山中学校(現日本大学豊山高等学校)に入学し片道2時間かけて通学した。
1945年 後藤幸男が粕壁中学の英語教員に転任すると一緒に旧制埼玉県立粕壁中学校(現春日部高等学校)第4学年へ転入する。
1946年 山本丘人に師事。 粕壁中学校卒業後、東京美術学校を受験するが入学は叶わなかった。
1949年 田中青坪に師事。
1952年 再興第37回日本美術院展覧会(院展)に初入選。5年間の教員生活を終える。
1954年 日本美術院院友に推挙。
1955年 約8年間の関西、四国における真言宗の寺を巡るスケッチ旅行を始める。
1965年 再興第50回日本美術院展覧会で日本美術院賞・大観賞を受賞。日本美術院特待に推挙。
1969年 再興第54回日本美術院展覧会で日本美術院賞・大観賞を受賞。
1974年 日本美術院同人に推挙。
1976年 再興第61回日本美術院展覧会で文部大臣賞を受賞。
1981年 ネスカフェ・ゴールドブレンド「違いがわかる男」のコマーシャルに出演。
1982年 中国の西安美術学院名誉教授に就任。
1986年 再興第71回日本美術院展覧会で内閣総理大臣賞を受賞。
1987年 北海道空知郡上富良野町にアトリエを構える。
1988年 東京藝術大学美術学部教授に就任。教授時代の門弟には、日本画家・絵本画家の後藤仁がいる。
1993年 真言宗豊山派の総本山長谷寺に襖絵「夏冬山水」を奉納。
1995年 パリ・三越エトワールにて「後藤純男展」を開催。
1997年 東京藝術大学教授を退官。北海道空知郡上富良野町に後藤純男美術館を開館。
1999年 千葉県銚子市の犬吠駅に後藤純男美術館を開館(2004年1月30日閉館)。
2002年 埼玉県北葛飾郡松伏町の名誉町民となる。
2006年 旭日小綬章を受章。
2014年5月10日 大分県玖珠郡九重町の九州芸術の杜内に常設で後藤純男リトグラフ館を開館(原画とリトグラフ)。
2016年 日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。東京藝術大学名誉教授の称を受ける。千葉県流山市の名誉市民第一号となる。10月、敗血症により死去。


後藤仁

1968年 兵庫県赤穂市生まれ。伯父はからくり人形師の後藤大秀。祖父は指物大工。
1983年 「第1回全国都市緑化フェア図画・ポスターコンクール」大阪府知事賞(最高賞)。
1984年 「太陽の日記念絵画コンクール」(審査委員長は岡本太郎)佳作賞。「旺文社主催全国学芸科学コンクール デザイン部門」旺文社賞(銀賞)。
1986年 「児童生徒美術展」(ビクトリア国立美術館/オーストラリア)。
1988年 大阪市立工芸高等学校美術科を首席で卒業。美術予備校の立川美術学院にて村上隆に学ぶ。
1995年 国重要文化財建造物等「金唐革紙」復元製作。以降、入船山記念館(呉市)、移情閣(神戸市)、旧岩崎邸(台東区)等の復元を手がける。ジャワ島・バリ島写生旅行、中華人民共和国(北京・西安)写生旅行。
1996年 東京藝術大学絵画科日本画専攻卒業、後藤純男に師事。後藤純男門下による「翔の会日本画展」(銀座松坂屋)に参加、以後2010年まで毎年開催。
1997年 イタリア・バチカン市国写生旅行。
1998年 NHK大河ドラマ「元禄繚乱」障壁画制作。
2000年 千葉銀行2000年度カレンダー作品採用。「三渓日本画賞展2000」入選(横浜三渓園)。
2002年 「新生展」入選(新生堂/東京都南青山)。「北の大地展」佳作(北海道)。
2004年 個展(新樹画廊目白)にインド大使夫妻、バチカン市国大使を招待。インド(北部・東部・西部)写生旅行。
2005年 タイ王国・カンボジア写生旅行。「名士寄贈書画工芸作品展」(毎日新聞主催。心斎橋大丸、のち毎日新聞ビル)以後2011年まで毎年出品。
2006年 ちばテレビ「ニュースC-MASTER」にて個展(ギャラリーアートサロン)取材・特集放映。
2007年 ベトナム写生旅行。NHK「にっぽん心の仏像」アトリエ取材・放映。「金唐革紙展」(大英博物館、ヴィクトリア&アルバート美術館/イギリス)。
2008年 中華人民共和国(貴州省・広西チワン族自治区)写生旅行。
2009年 ネパール・タイ王国写生旅行。「F展」大阪市立美術館館長奨励賞(大阪市立美術館)。
2010年 NHK「日曜美術館(遣唐使・美の遺産)」取材協力・放映。
2011年 タイ王国・ラオス写生旅行。
2012年 中華人民共和国(チベット・四川省)写生旅行。
2013年 絵本「ながいかみのむすめ チャンファメイ」を福音館書店より出版。絵本「犬になった王子 チベットの民話」を岩波書店より出版。
2014年 ミャンマー(ビルマ)写生旅行。絵本『犬になった王子 チベットの民話』がミュンヘン国際児童図書館「The White Ravens 国際推薦児童図書目録2014」に選定。
2015年 イタリア・ボローニャブックフェア Bologna Children’s Book Fair 2015に絵本『犬になった王子 チベットの民話』展示。
2016年 挿絵本「おしゃかさま物語」を佼成出版社より出版。スリランカ写生旅行。千葉テレビ「NEWSチバ930」アトリエ取材・特集放映。
2017年 学校法人桑沢学園 東京造形大学「絵本A・B」非常勤講師 就任。絵本「わかがえりのみず」を鈴木出版より出版。国立大学法人 東京藝術大学「デザイン科 アートアンドデザイン」非常勤講師 就任。絵本「金色の鹿」を子供教育出版より出版。
2018年 台湾写生旅行。中国(上海)写生旅行。
2019年 中日国際書画学術研討会、煙台職業学院書画芸術研究院 掲牌儀式・展覧会(中国山東省)。中華人民共和国(南京・揚州・西寧・敦煌莫高窟・上海)写生旅行。


栗原克実

1922 - 千葉県山武郡大網白里町生まれ
1982 - 国画展で、文部大臣奨励賞受賞
1982 - 千葉県野田市立第二中学校校長退官
1985 - 中国大使賞受賞
1985 - 日中水墨交流協会理事
1986 - 外務大臣賞受賞
1989 - 内閣総理大臣賞受賞
1995 - 中国・日本書画名家展
1995 - インド・日印国交40周年記念展
1995 - 国画水墨院会長
1996 - 韓国・ソウル国際書画展
1997 - 国画水墨院名誉顧問
1997 - 国際文化交流功労特別賞
1997 - 大分県杵築市に栗原克実美術館が開館
2003 - 死去


ロッカクアヤコ

1982年、千葉県に生まれる。高校卒業後はグラフィックデザインの専門学校のイラストレーション科に通い20歳で卒業した。周りの生徒が就職する中で卒業後は就職せず、デザイン・フェスタに参加してライブで絵を描くパフォーマンスを行った。この場で初めて筆を使わずに手で直接描く手法を思い付いたという。2002年(平成14年)からは路上での創作活動を始め、翌年にはGEISAI#4に参加する。その場で注目を集めたアヤコはスカウト賞を受賞した。
その後、ニューヨークへ訪れて国外の画廊の知見を得て帰国し、2006年(平成18年)に再びGEISAIに参加した。この頃からアヤコの作品はヨーロッパで紹介されるようになっていき、スイスでのアート・バーゼル出展時に行ったライブペインティングでは100枚以上の売り上げを記録した。2010年(平成21年)にベルリンへ移住した。
人気・評価ともに日本よりもヨーロッパで高く海外での活動が中心となっているが、2011年(平成23年)に東日本大震災が発生した際は日本に帰国して、東北地方の子供達に描かせた絵を用いての創作を行った。同年にはオランダロッテルダムのクンストハル美術館、翌年にはスロバキアのダヌビアナ美術館(スロバキア語版)で規模の大きな個展を開催、何千人もの来場者が集まった。2017年(平成29年)5月には東京都渋谷区の「GALLERY TARGET」でアクリル板を用いた立体作品の個展も開催している。
近年はアートオークション市場での人気も高く、想定落札価格を大きく超える結果を出し続け、2019年のArtprice社発表レポートでは、「女性アーティスト急上昇ランキング」において世界11位、「1980年以降生まれのアーティストのオークション売上ランキングTOP20」で世界第3位、「売上トップ500アーティスト」において368位となっている。
2020年10月末からは、千葉県立美術館で、国内公立美術館で初の大規模な作品展となる、個展「魔法の手 ロッカクアヤコ作品展」を開催。

















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