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千代田区について

港区・中央区とともに「都心3区」と呼ばれ、東京23区のほぼ中央に位置する。永田町や霞ヶ関を中心にさまざまな首都機能が集積し、日本の政治・行政・司法の中心地である。また、日本屈指のオフィス街である丸の内や大手町は東京の中心業務地区(CBD)の1つとして機能しており、3大メガバンクの本店や主要な大企業の本社が多数集積し、日本の金融・経済の中心の一端を担っている。区の東側には東京駅が位置し、日本の中央駅として多数の新幹線・在来線の起点となっている。区の中央に皇居があり、区全体の約15%を皇居の緑地が占める。区域は、「江戸城」の外濠の内側部分とほぼ一致しており、外郭を含めた城址にあたる場所である[2]。また、皇居西側に位置する番町は都心屈指の高級住宅街として名高い。

西部は武蔵野台地の東端にあたる麹町台や駿河台といった台地で、東部は沖積平野である。北部に神田川が東に向かって流れ、日本橋川が三崎橋付近から分かれて流れている。

千代田区は、現在の皇居に江戸城が置かれ徳川幕府の本拠地として政治の中心となり、明治維新後も新政府が大名屋敷跡に官庁街を開設して首都機能を置いて「東京」の中心地としており、日本の政治の中心が引き続き置かれることになった。古来より荒川や利根川(現在の古利根川、下流は隅田川がかつての水路)、多摩川の河口部に近く、日比谷入江があったことから、海と川を利用した水運の根拠地となり、関東地方における流通の中心地としての機能を果たしていたといわれている「江戸湊」も当地区にあった。

江戸時代には、掘割沿いに河岸と呼ばれる流通基地が整備され、現在の中央通りにあたる「通町筋」には「伊勢屋」の屋号を名乗る伊勢商人などの上方の商業資本が多く進出しており、問屋機能の集積が進んだ。

神田地区は、江戸時代から幕府御用の儒学者が集まった昌平校があり、民間の学者も多く住んで私塾が多数あった学問の盛んな地であったが、近代以降も私立大学や予備校などが多数立地する文教地区となっており、御茶ノ水界隈は日本最大の学生街となっている。こうした伝統の影響もあり、神田の一角にある神保町には世界最大級の古書店街である神田古書店街が形成され、出版社も多く立地している。

江戸時代の神田川の付け替えで分離され、江戸城の川を挟む形となった神田の北部は外神田と呼ばれるようになった[2]。江戸時代に火災の延焼を防ぐため、約9,000坪の広場が作られて遠江の秋葉神社が勧請されたことから、この地区は秋葉原と呼ばれるようになり、第二次世界大戦に露店商が集積し、そこから電気部品を扱う店舗が集まる「秋葉原電気街」が発達した。現在、秋葉原は電気街としての側面も持ちつつ、世界的に有名な「オタクの街」「サブカルチャーの街」として発展し、世界中から多くの観光客を呼び寄せている。

明治以降、国会・首相官邸・中央省庁・最高裁判所などの三権をはじめとする日本の首都機能、主要政党の本部など国家権力の中枢が千代田区に集中し、日本の立法・行政・司法の中心である。区内の永田町、霞が関といった地名は国会議員や官僚の代名詞である。

1891年に丸の内が三菱に払い下げられて政府機関などに隣接するオフィス街が建設され、政府との間での人脈構築や情報の収集しやすさから当地区に大手企業の本社が多数立地するようになり、経済面でも中心的な機能を果たすようになった[2]。このため丸の内には三菱グループの各社の本社が多数集積しており、その歴史的経緯から丸の内は「三菱村」とも呼ばれる(グループの御三家と呼ばれる三菱UFJ銀行、三菱商事、三菱重工業の本社は全て丸の内に位置している)。その結果、丸の内や大手町、日比谷は3大メガバンク(都市銀行)の本店や全国紙の新聞社をはじめ、大手製造業や大手総合商社などの巨大企業の本社機能が集積しているほか、経団連や農協などの経済団体の本部も集結している。

画家について

・石川滋彦
明治42(1909)年10月14日、東京都麹町区麹町4丁目5番地に洋画家石川欽一郎の長男として生まれ、少年期を湘南ですごす。昭和2(1927)年東京美術学校西洋画科に入学し岡田三郎助に師事。同校在学中の同4年第10回帝展に「湖畔の丘」で初入選。同7年同校を卒業して研究科に進学し、同11年に同科を終了する。同13年第2回新文展に「信濃の鍛冶屋」を出品して特選となり同14年第3回新文展には「迷彩する商船」を出品して2年連続特選となった。同14年光風会会員となる。戦中は海軍報道班員として南方に赴く。同22年光風会から新制作派協会に移り同年会員となり以後同展に出品。同27年日本の貨物船に乗り世界一周旅行をし、以後たびたび海外へ赴く。海や船を愛し、アムステルダム、ヴェネチア等水辺の風景を好んで描き、同61年「7月のアムステルダム」で第10回長谷川仁記念賞を受賞。明るく爽やかな緑色を基調とする穏健な画面を示す。同60年東京セントラル絵画館で、平成4(1992)年日動画廊で個展を開催。作品集に『石川滋彦・人と作品』(昭和50年刊)があり、著書に『日曜画家の油絵入門』(昭和37年実業之日本社刊)がある。また昭和17年東京帝国大学工学部講師、同22年学習院大学講師をつとめたほか東海大学教養学部などでも教鞭をとった。
1994年3月7日、腎不全のため東京都新宿区の国立国際医療センターで死去した。享年84。

・加藤一
東京・神田小川町生まれ。幼い頃から趣味として絵を描き続ける傍ら、生家の自転車を乗り回していた。旧制法政中学校から法政大学経済学部に入学し、自転車競技において活躍する最中に太平洋戦争で召集を受ける。復員後は法大を休学して東京美術学校(現・東京藝術大学)図案科に入学したが数か月で退学し、法大に復学して自転車競技を続けることになった。

大学卒業後から国民体育大会において短距離種目だけでなくロード種目においても優勝を重ねたことからヘルシンキオリンピックの代表候補に内定していた。しかし生家の課税問題で経済的にアマチュアとしての競技継続が難しくなり、プロの競輪選手として活躍する道を選んだ。1950年に選手登録を行い、当時のプロアマ分離制度により自ら五輪への道を絶った。

同年2月に川崎競輪場でデビューすると学士選手として注目を浴び、当初はその実力を発揮していたが、騒擾事件に巻き込まれたり落車事故で重傷を負ったりするなど数々の辛酸を味わったことから、1953年に選手としての現役を退く決意をした。

一方で学生時代から現役を退いた後も趣味として絵画の制作を続けていたが、やがて出会った親仏家の薩摩治郎八を通じて、フランス人自転車選手のルイ・ジェラルダンと知り合うようになり、その影響から再び画家への道を決意すると、1958年3月には彼らの仲介を得てフランスに渡り、その後現地にとどまり創作活動に打ち込むようになる。

1959年のサロン・ドートンヌにおいて入選を果たし、1970年には会員となった。画家としての実力が認知されてからは、数々の個展開催や受賞といった実績を残し、フランスでの活動を中心として日本との往復を続けた。その傍らで自転車競技に対し事務方としての貢献も行っていた。

晩年まで絵画に対する創作への意欲は衰えなかったが、2000年2月パリにおいて咽頭癌のため客死。75歳。

・小柴錦侍
明治22年日本に於ける石版印刷の創始者として有名な、小柴英の二男として、東京都千代田区に生れた。九段暁星中学を終え、明治44年東京高等工芸学校を卒業後フランスに留学、9年間同地に滞在し、大正9年帰朝した。フランスではモーリス・ドニのアカデミー・ランソンに入学し、更にルーブル美術館学校に学び、欧州各国の絵行脚等もしている。帰国後は帝展に宗教画を多く発表し、第2回帝展「美しき五月マリアの月」、第4回「花つみて主の御母にささぐ」第7回「卒世やさしいサンタ・マリア」等があり、いづれも特選になっている。日本では、松岡寿、満谷国四郎、和田英作等に教えをうけ、帝展の他、創元会にも出品がみられる。戦時中は、軽井沢星野温泉に疎開し、制作をつづけていた
1961年3月24日直腸癌のため死去し、東京四谷イグナチオ教会で葬儀が行われた。享年72歳。

・小畠鼎子
明治31年2月14日東京神田美土代町に生れ、大正4年東京府立第1高女(現白鳳)を卒業した。この年池上秀畝に師事し、後大正13年より川端竜子に就いた。昭和4年第1回青竜社展で「山百合」が初入選となり、その後第6回展「ペリカン」出品により社友となった。また昭和23年の第20回展では白孔雀と蘇鉄を描いた「白冠図」により社人に推された。この間14回展「睡蓮池」、19回展「山6月」等で奨励賞を受け、第25回展では、連続25回出品記念賞を、第35回展では連続35回出品により表彰された。画壇でも稀なこととされる35回連続出品の記録は、この年出品した「秋雨海裳」の制作を最後に終った。家庭の主婦として育児の傍ら続けられた画道精神を讃えた小文が、35回展の出品目録にみられる。作品は専ら花鳥が多く、美しい色感と、女性らしい素直な観照に特色がみられる。
宿痾の心臓病のため、1964年1月26日東京武蔵野市の自宅で死去した。享年65才

・佐多芳郎
大正11(1922)年1月26日、東京麹町に医師の長男として生まれる。昭和14(1939)年より日本画家北村明道に基礎を学び、翌15年より安田靫彦に師事、同16年にはその研究会である一土会に参加する。その後チフス等で療養を余儀なくするが、同19年に入営、終戦まで軍隊生活を送る。同25年の第35回日本美術院展覧会に「浪切不動」が初入選。翌年、『読売新聞』連載の大佛次郎『四十八人目の男』の挿絵を担当、その後、山本周五郎の『樅ノ木は残った』、池波正太郎の『鬼平犯科帳』といった数々の時代小説の挿絵を手がけた。同54年より宿願の絵巻物制作の準備に入り、翌年小下絵を制作、同60年に三巻からなる「風と人と」を完成させた。平成元(1989)年に日本美術院を退院。同4年、毎日新聞社より『風霜の中で 私の絵筆日記』を出版。
1997年12月16日午後5時17分、心筋こうそくのため横浜市港北区の病院で死去した。享年75。

・篠原有司男
東京麹町生まれ。父親は詩人、母親は日本画家だった。千代田区立番町小学校を経て、日本大学第二工業学校に入学。疎開先から東京に戻ると、麻布中学校に入学。在学中は画家の荻太郎に師事する。

1952年、東京芸術大学美術学部油絵科に入学、林武に師事。1957年、同校を中退。1958年、村松画廊で初個展を開催。1960年、「読売アンデパンダン展」で活躍していた吉村益信、赤瀬川原平、荒川修作らとともに「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」を新宿ホワイトハウスにて結成。短い活動期間に多くの伝説を残す。日本ではじめて頭を「モヒカン刈り」にして、週刊誌のグラビアで紹介された。

その後も「イミテーション・アート」や「花魁シリーズ」(1965年)などの「悪趣味」で「スキャンダラス」な作品を次々と発表。ボクシンググローブに絵の具をつけてキャンバスを殴りつけながら絵を描く「ボクシング・ペインティング」は有司男の代名詞となるが、これはマスメディア向けのパフォーマンスであり、芸術のつもりは毛頭なかったと、のちに赤瀬川との対談で明かしている。

1969年、ロックフェラー三世基金の奨学金を得て、妻と子供と共に渡米。以後ニューヨーク在住。1972年、段ボールを使ったオートバイの彫刻「モーターサイクル・ブルックリン」などを作り始める。1973年3月、現夫人で、現代美術家である乃り子(旧姓・島)と出会う。ただ、当時の米国ではマイノリティの芸術家はモダンアートの市場からは締め出される構造があり、制作の拠点をニューヨークに置きつつ、発表は日本で行なっていた。米国で本格的な再評価がなされるのは90年代以降である。

2007年、第48回毎日芸術賞を受賞。

2008年、ドキュメンタリーDVD『モヒカンとハンガリ ギュウとチュウ 篠原有司男と榎忠』(監督・青木兼治)が作られる。

2012年、ニューヨーク州立大学ニューパルス校ドースキー美術館で、初の回顧展が開催された。

2013年1月、篠原有司男・乃り子夫妻の日常を綴ったドキュメンタリー映画『キューティー&ボクサー』(監督:ザッカリー・ハインザーリング)がサンダンス映画祭ドキュメンタリー部門監督賞を受賞。12月21日、同ドキュメンタリーが日本で公開される。29都道府県で順次公開予定。

2019年12月、文化庁長官表彰。

・進藤武松
東京生まれ。東京物理学校中退。1929年構造社彫塑研究所に入所。斎藤素巌に師事。1934年「構造賞」受賞、1938年文展特選。1952年日展特選、朝倉賞、川合賞。1961年日展評議員。1968年日本彫刻会理事。1973年日本芸術院賞。1975年日展理事。1980年日本彫刻会委員長(-1990年)。1983年日本芸術院会員。1984年日展顧問、日本彫刻会常務理事。1985年勲三等瑞宝章、紺綬褒章受章。1987年日展常務理事。

写実的な女性裸体像などで知られる。1993年、「悲しき口笛」を歌う12歳の美空ひばりの等身大ブロンズ像を制作した。

・鏑木清方
鏑木 清方は、明治期から昭和期にかけての浮世絵師、日本画家、随筆家。なお、姓は「かぶらぎ」でなく「かぶらき」と読むのが正しい。
近代日本の美人画家として上村松園、彼の門下より出た伊東深水と並び称せられる。清方の作品は風景画などはまれで、ほとんどが人物画であり、単なる美人画というよりは明治時代の東京の風俗を写した風俗画というべき作品が多い。

・酒井抱一
酒井 抱一は、江戸時代後期の絵師、俳人。 権大僧都。本名は忠因(ただなお)、幼名は善次、通称は栄八、字は暉真(きしん)。ほか、屠牛、狗禅、鶯村、雨華庵、軽挙道人、庭柏子、溟々居、楓窓とも号する。また俳号は、ごく初期は白鳧・濤花、後に杜陵(綾)。狂歌名は、尻焼猿人。屠龍(とりょう)の号は俳諧・狂歌、さらに浮世絵美人画でも用いている
尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風を、俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案し江戸琳派の祖となった。

・高畠達四郎
1895年10月1日、東京市神田区の雑穀問屋に生まれた。四男三女の末子。東京女子高等師範学校幼稚園では同級生に鈴木信太郎(仏文学者)がいた。1908年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業、1913年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。第七高等学校(現・鹿児島大学)文科と海軍兵学校に合格したが入学しなかった。1年後の1914年には慶應義塾大学理財科(現・経済学部)に入学したが、中退して本郷洋画研究所に入所[1]。1919年の光風会展で初入選を果たした。

1921年に神戸から渡仏し、パリではアカデミー・ランソン(英語版)に通った。中山巍、福沢一郎、大石七介とともにロルヌ街32番地のアトリエに住み、後には鈴木伸太郎も迎えた。モイーズ・キスリングらのエコール・ド・パリの影響を受けた。1928年に7年のフランス生活を終えて帰国すると、梅原龍三郎の勧めで国画会に出品したが、1930年には独立美術協会の結成に参加し、以後独立展を主要な活動の場とした。1952年2月に毎日芸術賞を受賞。

1976年6月26日、東京都港区の自宅で死去。80歳。墓所は東京都文京区の伝通院。

・堀文子
永田町小学校(現・千代田区立麹町小学校)、東京府立第五高等女学校(現・都立富士高等学校)、女子美術専門学校師範科日本画部(現・女子美術大学芸術学部美術学科日本画専攻)を卒業[1]。府立第五高等女学校時代に自宅近くで二・二六事件に遭遇した。

女子美術専門学校在学中の1938年に第2回新美術人協会展入選。1940年に女子美術専門学校を卒業し新美術人協会会員。『キンダーブック』(フレーベル館)、『ふたば』などで挿画や装幀を描き生計を立てる。

29歳の時に外交官の箕輪三郎と結婚するも43歳のときに死別。

1961年から1963年にかけ世界放浪の旅へ出る。旅の中でアンフォルメル、シュルレアリスムの影響を離れ、日本画の持つ色彩や顔料の美しさに回帰する。

1967年に神奈川県大磯に転居。1974年創画会の結成に参画。

1974年に多摩美術大学日本画科教授に就任。その後、多摩美術大学客員教授として日本画の指導を行う。1999年に多摩美術大学客員教授を退任。

1981年に軽井沢にアトリエを構える。1987年にイタリアアレッツォにアトリエを構える。1992年にアレッツオ市で堀文子個展を開催。1995年にアマゾン川、マヤ遺跡・インカ遺跡へスケッチ旅行。1999年に創画会を退会。

2011年に女子美術大学より名誉博士の称号を得る。

2000年、82歳の時に幻の高山植物ブルーポピーを求め、ヒマラヤ山脈の高地を踏破(「アーティストたちの挑戦 ヒマラヤ 高き峰をもとめて 日本画家 堀文子」(NHK収録/放送、2000年)。2001年に解離性動脈瘤で倒れて以降、長期間の取材旅行に出かけられなくなったことから微生物に着目し、海中に生きる命をモチーフとする作品を発表。これらの作品は画文集や個展で発表された。

自然の中に存在する命や花鳥をモチーフとする作品を多く制作し「花の画家」と呼ばれた。専門の日本画の他、装幀、随筆でも多くの作品を発表した。神奈川県大磯町に在住していた(2012年時点)。

2019年2月5日午前0時56分、心不全のため平塚市内の病院で死去。100歳没。

洋画家の内海信彦は甥である。

アルビレックスチアリーダーズに2003年から2010年まで所属していた堀文子は、同姓同名の別人である。

・武者小路実篤
東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に、藤原北家の支流・閑院流の末裔で江戸時代以来の公卿の家系である武者小路家の武者小路実世(さねよ)子爵と勘解由小路家(かでのこうじけ)出身の秋子(なるこ)夫妻の第8子として生まれた。上の5人は夭折しており、姉の伊嘉子、兄の公共と育った。2歳の時に父が結核で死去。

1891年(明治24年)、学習院初等科に入学。得意科目は朗読と数学で、体操と作文が苦手だった。同中等学科6年の時、留年していた2歳年上の志賀直哉と親しくなる。同高等学科時代は、トルストイに傾倒、聖書や仏典なども読んでいた。日本の作家では夏目漱石を愛読するようになる。1906年(明治39年)に東京帝国大学哲学科社会学専修に入学。1907年(明治40年)、学習院の時代から同級生だった志賀直哉や木下利玄らとつくった「十四日会」で創作活動をする。同年、東大を中退。翌年には処女作品集『荒野』を自費出版した。1910年(明治43年)には志賀直哉、有島武郎、有島生馬らと文学雑誌『白樺』を創刊。彼らはこれに因んで白樺派と呼ばれ、実篤は白樺派の思想的な支柱となる。「白樺」創刊号に「『それから』に就いて」を発表し、漱石から好意的な手紙を得た。そこでは「夏目激石氏は真の意味に於ては自分の先生のやうな方である、さうして今の日本の文壇に於て最も大なる人として私かに自分は尊敬してゐる」と述べており、以後漱石の依頼で「朝日文芸欄」に執筆するなど、親密な交流を続けた。文学上の師を持たない主義であったため、いわゆる漱石門下とは区別されることが多いが、事実上の弟子とする見解もある。1913年(大正2年)、竹尾房子と結婚。1916年(大正5年)には、柳宗悦や志賀直哉が移り住んでいた現在の千葉県我孫子市に移住した。

理想的な調和社会、階級闘争の無い世界という理想郷の実現を目指して、1918年(大正7年)に宮崎県児湯郡木城村に、村落共同体「新しき村」を建設した。実篤は農作業をしながら文筆活動を続け、大阪毎日新聞に『友情』を連載。しかし同村はダム建設により大半が水没することになったため、1939年(昭和14年)には埼玉県入間郡毛呂山町に新たに、村落共同体「新しき村」を建設した。但し実篤は1924年(大正13年)に離村し、村に居住せずに会費のみを納める村外会員となったため、実際に村民だったのはわずか6年である。

この両村は今日でも現存する。同村のウェブサイトでは、実篤が村外会員になって文筆活動に専念した事を好意的に受け止めている。実際に実篤が村民だった頃の活動は離村後の彼の執筆に多大な影響を及ぼしたといわれており、また同村にとっても実篤が事実上その象徴的役割を果たしたことは否めず、両者は今日に至るまで言わば持ちつ持たれつの関係にあると見ることもできる。

1922年(大正11年)、房子と離婚し、飯河(いごう)安子と再婚。翌年の関東大震災で生家が焼失。『白樺』も終刊となった。この頃からスケッチや淡彩画を描くようになる。また油絵も描き、1929年(昭和4年)には東京・日本橋の丸善で個展も開いた。執筆依頼がほとんどない「失業時代」で、トルストイ、二宮尊徳、井原西鶴、大石良雄、一休、釈迦などの伝記小説を多く執筆した。

1936年(昭和11年)、4月27日からヨーロッパ旅行に出発。12月12日帰国。旅行中に体験した黄色人種としての屈辱によって、実篤は戦争支持者となってゆく。1937年(昭和12年)、帝国芸術院に新設された文芸部門の会員に選出される。1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦後、実篤はトルストイの思想に対する共感から発する個人主義や反戦思想をかなぐり捨て、日露戦争の時期とは態度を180度変えて戦争賛成の立場に転向し、日本文学報国会劇文学部会長を務めるなどの戦争協力を行った。

1946年(昭和21年)3月22日には貴族院議員に勅選されるが(同年8月7日に辞職)、同年9月には太平洋戦争中の戦争協力が原因で公職追放された。1948年(昭和23年)には主幹として『心』を創刊、『真理先生』を連載。1951年(昭和26年)、追放解除となり。同年に文化勲章を受章した。晩年には盛んに野菜の絵に「仲良きことは美しき哉」や「君は君 我は我なり されど仲良き」などの文を添えた色紙を揮毫したことでも有名だった。 1955年(昭和30年)、70歳で調布市仙川に移住、亡くなるまでこの地で過ごした。

1976年(昭和51年)4月9日、東京都狛江市にある東京慈恵会医科大学付属第三病院で尿毒症により死去。満90歳だった。

・村山知義
東京市神田区(現・東京都千代田区)末広町において、父知二郎、母元子の長男として生まれる。父は海軍軍医、1910年(明治43年)に沼津で内科病院を開業中死去した。

1913年(大正2年)、東京の私立開成中学校に入学する。母の師であった内村鑑三に師事し、キリスト教に心酔。中学2年のとき、母が勤める婦人之友社より刊行の『少女之友』に短編「二人の伝道師」を掲載。なお母の元子はこのころ同誌上に多くの短編を発表している。1915年(大正4年)、水彩画が日本水彩画会展に入選。1918年(大正7年)、旧制高校入試準備中、反戦を主張するキリスト教への信仰から同級生に身体的な暴力を受け、また学内で同期であった戸坂潤らの影響によりショーペンハウアー、ニーチェなどを紹介され、熱中、最終的にはキリスト教を棄教する。この体験については、のちの『演劇的自叙伝』において、1933年(昭和8年)のプロレタリア演劇運動からの転向体験と類似したものとして回想されている。同年9月、第一高等学校入学。文芸部委員になり学内誌に小説を発表。1920年(大正9年)『子供之友』(婦人之友社)に童画を発表、以後数年続く。一高の寮には、後にライバルとなる久保栄も在籍していた。1921年(大正10年)一高を卒業し、東京帝国大学哲学科入学。6月雑誌『まなびの友』(婦人之友社)の編集。ベルリン大学で原始キリスト教を学ぶつもりで暮れに東大を退学。

1922年(大正11年)1月、処女出版の童話画集『ロビン・フッド』(婦人之友社)刊、ベルリンへ出発する。表現派、構成派の美術、演劇、舞踊に魅せられ学業を断念した。秋、ミュンヘンの万国美術館に2点入選する。1923年1月帰国し、直後の2月19日付『読売新聞』には早速「構成派と触覚主義―ドイツ美術界の新傾向―」を寄せた。5月、自宅の上落合にて個展「村山知義、意識的構成主義的小品展覧会」開催。7月の初め、門脇晋郎、大浦周蔵、尾形亀之助、柳瀬正夢らと前衛美術団体マヴォ結成。7月28日から8月3日まで、マヴォ第一回展覧会が浅草の伝法院にて行われる。7月機関誌「Mavo」創刊。

9月1日の関東大震災で都市機能の壊滅に遭遇し、バラック建築の設計にも関わった。マヴォ理髪店、バー・オララ、吉行美容室(吉行あぐりの店)などが知られ、今和次郎のバラック装飾社とともに震災後の建築界で異彩を放った。1924年?10月、映画館葵館の緞帳制作。1924年11月芸術論集『現在の芸術と未来の芸術』(長隆舎書店)刊。12月築地小劇場公演のゲオルグ・カイザー作、土方与志演出「朝から夜中まで」の舞台装置制作、日本最初の構成派の舞台装置で、村山がはじめて手がけた演劇上の仕事である。この年岡内籌子(村山籌子)と結婚。1925年7月今東光らと『文党』創刊。この頃より次第に前衛芸術運動からは遠ざかった。

1925年(大正14年)9月池谷信三郎、河原崎長十郎 らと心座結成、旗揚げ公演のカイザー作「ユアナ」翻訳、演出。12月日本プロレタリア文芸連盟創立大会に出席、美術部員となる。15年1月、心座第二回公演で自作「孤児の処置」(『テアトル』1926年3月)演出。また1926年の2月には、『現在の芸術と未来の芸術』の続編に位置づけられる『構成派研究』(中央美術社)を刊行。2月、3月、共同印刷争議への資金カンパのためプロ連美術部員として街頭で似顔絵を描く。3月、日活映画、村田実監督、横光利一原作『日輪』のセットとコスチューム担当。4月JOAKから自作ラジオ・ドラマ『出帆第一日』演出。11月自作『勇ましき主婦』(『演劇新潮』1926年10月)を新劇協会で演出。

前衛的な芸術家とプロレタリア運動家と狭間に位置しながらも、1926年(大正15年)10月「無産者新聞」創刊1周年記念の「無産者の夕」の舞台装置を柳瀬と担当、プロ連の他の同志の試みに強い感動をうけ、マルクス主義に接近する。同月スタンダードな戯曲の公演をめざす左翼的劇団前衛座の創設に参画、その同人となる。翌11月旗揚げ公演、ルナチャルスキー「解放されたドン・キホーテ」の装置を柳瀬と担当、また劇中、「ムルチオ伯」を演じた。同月最初の小説集『人間機械』(春陽堂)刊。1927年(昭和2年)2月文芸戦線社同人。5月心座で自作「スカートをはいたネロ」(『演劇新潮』同年5月、6月 原始社刊)の演出、装置担当後、心座脱退。6月プロ連後進の日本プロレタリア芸術連盟分裂にさいし労農芸術家連盟に参加。同時に前衛座も分裂、佐々木孝丸らと前衛座を労芸所属劇団に改組、「スカートをはいたネロ」などを演出。以後プロレタリア演劇運動で戯曲、演出、装置の3部門にわたり活躍する。ついで同年11月労芸脱退、蔵原惟人らと前衛芸術家同盟を創設。同時に前衛座を前芸所属の前衛劇場と改組、旗揚げ公演で自作「ロビン・フッド」(同年10月脱稿 発表誌未詳)の演出、装置を担当した。 同年、初山滋、武井武雄、川上四郎、岡本帰一、深沢省三、清水良雄らとともに「日本童画家協会」を結成。

1928年3月前芸はプロ芸と合同、4月全日本無産者芸術連盟(ナップ)を結成し、プロレタリア文学運動の中心的な組織が生まれた。これに応じ前衛劇場もプロ芸のプロレタリア劇場と合同、左翼劇場を結成。その第一回公演で自作「進水式」(『文芸公論』1927年4月)の演出、装置担当。9月国際文化研究所の創設に参画、その所員。同年暮れナップの全日本無産者芸術団体協議会(ナップ)への改組に応じ、1929年2月、その傘下団体として東京、左翼劇場を中心に日本プロレタリア劇場同盟(プロット)が結成、その中央執行委員。7月「暴力団記」(『戦旗』1929年7月 1930年1月 日本評論社刊)が佐野碩演出、左翼劇場で上演(検閲により『全線』と改題)。「暴力団記」は、1923年に京漢鉄道の労働者の組合結成にたいし軍閥が暴力団などを使って弾圧、ゼネストをもって立ち上がった組合の指導者が虐殺された中国革命運動史上で著名な「二・七惨案」に材を取った戯曲。佐野の演出もあり大きな成果をあげ、蔵原惟人は「現代日本のプロレタリア戯曲の最高を示すもの」と評価、村山の代表作のひとつとなった。10月国際文化研究所がプロレタリア科学研究所と改組、その中央委員。1930年2月藤田満雄、小野宮吉脚色の徳永直原作「太陽のない街」を演出する。

1930年(昭和5年)5月治安維持法違反で検挙、12月保釈。翌年5月日本共産党入党。蔵原らとともに日本プロレタリア文化連盟(コップ)結成のため努力。10月コップ成立に応じ劇場同盟は演劇同盟(プロット)と改称、その中央執行委員長、コップ中央協議会協議員。1932年4月「志村夏江」(杉本良吉演出)の舞台稽古の朝検挙される。1933年12月、転向して出獄、1934年3月懲役2年執行猶予3年の判決に服す。5月転向文学のはしり「白夜」(『中央公論』)発表。演劇運動に対する国家権力の弾圧が激しくなり、東京左翼劇場は中央劇場と名称を改称しその改名披露公演三好十郎作「切られの仙太」を上演(1934年5月12日~31日築地小劇場)した。だが、権力の抑圧でプロットは解散決議をせざるをえなくなる(6月)。結局7月15日プロットは解散、左翼劇場(中央劇場)も解体された。  出獄後の村山は、新劇団の再編成を考え、まず「新劇の危機」(『新潮』1934年9月)を発表、「新劇団大同団結の提唱」(『改造』1934年9月)をする。既存の演劇集団――新築地劇団・前進座・美術座などはこの提唱に反対する者多く、結局村山の主張する単一劇団は出来なかった。当初新協劇団は俳優と制作だけという構成であった(9月)。その後再編されて演出家(村山・久保栄)、俳優(小沢栄(のち小沢栄太郎)・滝沢修・伊達信・松本克平・原泉子・細川ちか子・伊藤智子ら)で11月に出発した。創立公演は村山(久保も参画)脚色「夜明け前・第一部」(久保栄演出)で、多くの観客動員があった。以後新協劇団の中心人物の一人として演出面で活躍。代表的なものは久板栄二郎「断層」(1935)「どん底」(1936)、久板「千万人と雖も我行かん」(1938)、本庄陸男原作「石狩川」(1939)など。この期には「夜明け前」の第一部、第二部(『テアトロ』1934年11月 1936年3月)、「石狩川」(『テアトロ』1939年11月)など、脚色の仕事はあるが戯曲の創作はほとんど見られない。ただ「白夜」などのほかに、大衆的な長編小説『新選組』(1937年11月 河出書房)、上下巻本の『天国地獄』(1939年3月、4月 有光社)を執筆している点にひとつの特徴が見られ、この線は戦後も『忍びの者』5部作(1962年10月 1965年3月 1967年1月 1967年6月 1971年7月 理論社)という形で現れる。またこの期には新派の井上正夫が脱皮をねらって井上正夫演劇道場を1936年4月に結成、その指導、協力を求められ、以後新派、歌舞伎の演出も行い、戦後も続けられている。村山を先頭とする新協劇団の活動は戦時体制下の良心の灯であったがゆえに、1940年8月村山らは逮捕、新協は解体された。1942年6月保釈され、1944年控訴院判決が下された(懲役2年執行猶予5年)。1945年3月朝鮮へ、7月満州へ行く。

敗戦により1945年12月帰国。翌年2月新協劇団を再建、ふたたびその中心人物として活躍したが、戦前の新協がもっていた力は持ちえず、しかも共産党の「五〇年問題」の影響で薄田研二らが脱退、中央芸術劇場を創設。1957年新劇訪中使節団の一員として、中国、朝鮮を訪問。1959年2月新協劇団と中央芸術劇場は合同し、東京芸術座を結成。その主宰者となった。なおこの間、1960、1966年の2度、訪中新劇団団長として中国訪問。1965年の日本民主主義文学同盟の結成に参加、副議長を務めた。

1960年から発表した小説『忍びの者』シリーズは、当時の忍法ブームの一翼をになった。

また戯曲を集大成した『村山知義戯曲集』上、下(1971年3月 1971年6月 新日本出版社)を刊行。1974年、演出400回を記念してテアトロ演劇賞受賞、あらためてその超人的、多面的な活躍ぶりを人々に印象づけた。

1970年に直腸癌を患い、摘出手術を受ける。1974年には横行結腸癌となり、手術を受けた。1977年3月22日、渋谷区千駄ヶ谷の代々木病院で死去。76歳没。

『演劇的自叙伝』(1970年2月、1971年8月、1974年5月、1977年4月 3巻までは東邦出版社、4巻は東京芸術座発行)が4巻まで刊行。第5巻は村山の死によって、未刊のままになっている。また、『村山知義戯曲集』未収録の作品『ベートーヴェン・ミケランジェロ 戯曲』(新日本出版社、1995年)が刊行されている。21世紀になって、1920年代の著作、『構成派研究』『現在の芸術と未来の芸術』が本の泉社から復刻再刊された(2002年)。

・渡辺崋山
渡辺崋山は、江戸時代後期の武士、画家。三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士であり、のち家老となった。通称は登(のぼり・ただし一部の絵には「のぼる」と揮毫)、諱は定静(さだやす)。号ははじめ華山で、35歳ころに崋山と改めた。号は他にも全楽堂、寓画堂など。贈正四位。

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