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荒川区について

東京都の北東部に位置する。東西に細長く、北側の区境は隅田川に一致する。区内はほぼ低地で平坦であるが、日暮里地区の一部は山手台地となっている。

河川名の「荒川」を由来とする。1965年(昭和40年)3月24日に河川法制定に伴い荒川放水路が荒川本流となる前は、現在の隅田川が荒川本流であった。

なお、当初東京市では区役所設置予定地を区名として採用することを原則としていたことで、旧三河島町が区役所設置予定地であったことから「三河島区」(みかわしまく)が最初の区名原案だった。

東京都の北東部に位置する。東西に細長く、北側の区境は隅田川に一致する。区内はほぼ低地で平坦であるが、日暮里地区の一部は山手台地となっている。

2005年に夜間人口(居住者)は191,163人であるが、昼間人口(区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計)は184,021人で、昼間人口は夜間人口の0.963倍の人口になる。通勤者で見ると区内から区外への通勤者は152,183人、区外から区内への通勤者は47,835人となっている。他の区に比べると昼夜間人口の変動は少なめである

画家について

・小松崎邦雄
日暮里に生まれ、9歳の時、浦和で料亭を営んでいた叔母の縁で浦和市高砂町に転居。浦和中学校(現埼玉県立浦和高等学校)に入学し、2年生だった14歳の時に高田誠につきデッサン、油彩を学んだ。

東京芸術大学油画科に入学すると高田の師であった安井曾太郎の教室に入った。翌年に安井が退職したため林武の教室に入った。大学卒業後、同大学油絵専攻科に進み、一水会への出品が始まった。東京芸術大学講師も務めた。

1931年(昭和6年) - 東京市荒川区日暮里に出生。その後9歳で浦和市高砂町に転居。
1954年(昭和29年) - 東京芸術大学油画科を卒業、同大学油絵専攻科に進学。一水会第16回展に初出品し、初入選。
1956年(昭和31年) - 東京芸術大学油絵専攻科を修了。一水会第18回展に出品し、一水会賞を受賞。
1957年(昭和32年) - 一水会会員となる。
1960年(昭和35年) - 一水会会員優賞を受賞。
1961年(昭和36年) - 長男が誕生。浦和市仲町に転居。
1992年(平成4年) - 心不全のため浦和市立病院で死去。

・佐藤晨
昭和期の日本画家。東京都荒川区日暮里に生まれる。

1944年岩手県に疎開、1954年同地で岩手県立岩谷堂高等学校卒業。その後、東宝映画宣伝部に入社して同社の直営館関係の宣伝業務に携わりながら、独学で油絵、ペン画を書きためて美術の道に進む。1956年多摩美術大学日本画科に入学し、在学2年の秋に、新制作展(現在の創画会)に「黒い風景」を初出品・初入選。緻密で繊細な描写によって文学色の濃い幻想的な作風で伝統的な日本画の世界に新風を吹き込む。1983年に雅号を佐藤昌美から佐藤晨に改名。1987年から創画会会員。

1965年新制作春季展 春季展賞
1966年新制作春季展 春季展賞受賞
1966年新制作展 新作家賞受賞
1969年新制作展 新作家賞受賞
1970年新制作春季展 春季展賞
1970年新制作展 新作家賞受賞
1971年新制作春季展 春季展賞
1971年新制作展 新作家賞受賞

・建畠覚造
1919年東京生まれ。彫刻家・建畠大夢の長男で、1941年に東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科を卒業し文展に出展、特選を受賞するなど若い時期から期待された。

彼は彫刻を構成する実体とそれをとりかこむ何もない空間との関係に関心を持ち、アカデミックな具象彫刻から前衛的な抽象彫刻へ移行していった。イギリスの抽象彫刻家ヘンリー・ムーアの胴に穴の開いた彫刻などの影響を受け、1950年には、彼の所属していた行動美術協会に彫刻部を結成した。

1953年から1955年までフランスに留学、サロン・ド・メなど多くの展覧会に参加。帰国して金属などを組み合わせた幾何学的な造形を行い、1950年代の日本の抽象彫刻のパイオニアの一人として活躍した。

彼は情緒的な制作態度や惰性を排除し、明確で論理的な思考による彫刻を作ろうとした。彼は、一方では彫刻の構造を純粋・厳密な状態にまで推し進め、無駄をそぎ落とした無機な形態をつくり、そこから造形の可能性を見ようとした。その一方で、そうした純粋な造形を超え、自分の人間像・生活・幻想など有機的ものを彫刻に定着させようとした。彼は理論と理屈を推し進めた無機的な造形と、自分の実感から来る生活感など有機的なものを彫刻の上で統合しようとし、結果、純粋で端正でありながらユーモアもある作品を作ってきた。ブロンズのみならず鉄、アルミ、プラスチック、アクリル、セメントなどあらゆる素材を取り入れ、1980年代は合板に取り組んだ。

1959年から多摩美術大学教授として彫刻を指導し、生涯にわたり、高村光太郎賞、中原悌二郎賞、長野市野外彫刻賞、ヘンリー・ムーア大賞展特別賞、芸術選奨文部大臣賞など内外の多数の賞を受け、2005年には文化功労者として顕彰された。また各地の広場や学校にモニュメントやパブリック・アートが設置されている。

長男の建畠朔弥は同じ彫刻家で日本大学芸術学部美術学科教授、次男の建畠晢は詩人・美術評論家で、国立国際美術館長を経て京都市立芸術大学学長。

・舟木徳重
日展評議員の洋画家舟木徳重は、大正7(1918)年1月18日に東京は日暮里町に生まれ、昭和17(1943)年に東京美術学校油画科を卒業。同年の第29回光風会展に「自画像(夏)」が初入選。戦後も同会に出品をつづけ、同23年の第34回展に「S君」、「静物」を出品、光風賞を受賞、翌年から会員となり、同会の評議員をつとめたのち、同41年に退会。一方、日展には、同21年の第2回展から出品し、同27年の第8回に、コスチュームの女性を手堅い描写でまとめた「黒衣」が入選、岡田賞を受賞。以後、無鑑査、出品委嘱による出品をつづけ、同39年に会員、同51年に評議員となった。平成5(1993)年の第25回展に、ナイーヴな表現ながら、陽光に映える半島が黄色に描かれ、空も海ものどかなひろがりが感じられる「春の海」が最後の出品となった。
1995年、肺がんのため東京都東村山市の東京白十事病院で死去した。享年77。

・毛利武彦
大正9年(1920年)に彫刻家毛利教武の子として東京に生まれ、東京美術学校日本画科に学びました。戦後は山本丘人に師事し、創造美術から新制作協会日本画部をへて創画会会員として活躍、画壇を代表する作家のひとりとして高く評価されました。人間や自然に深く入り込んで存在の神秘を象徴的に捉えようとした作品は、命ある物への深い共感と東洋山水画がもつ孤高の精神への志向が見て取れます。
本展は、毛利の初期から近作までの代表的な作品と写生など約20点によって、その芸術の軌跡をダイジェストでたどるものです。

・毛利武士郎
日本の彫刻家。東京都出身。同じく彫刻家である毛利教武の息子。1943年、東京美術学校を卒業。第2次世界大戦後の日本の彫刻を牽引。アート・クラブ会員。ロンドン国際彫刻コンクールで受賞。70歳で東京を離れて富山で活動。著名な作品に「シーカランス」があり、現在の富山県黒部市栗寺には、「シーラカンス毛利武士郎記念館」が所在する。

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