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徳島県について

県北部は粟が多く収穫されたことから「粟国」(あわのくに)、県南部は「長国」(ながのくに)であったが、後に統合され、令制国では阿波国(あわのくに)と呼ばれていた。
那賀川や吉野川、四国山地、紀伊水道をはじめとする自然が多く残っており、鳴門の渦潮や祖谷渓、大歩危・小歩危などの観光資源や、約400年の伝統がある阿波踊りなどの文化を有する。産業では農作物(すだち、にんじんなど)と養鶏が盛んである。
2020年3月現在、他の都道府県には政令指定都市又は中核市、施行時特例市などに指定された都市があるが、徳島県は何れもない唯一の県である。

県北部の徳島平野を除いては全体的に山地の多い地形で、特に徳島平野以南に峙える四国山地は西日本でも有数の険しい山岳地帯となっている。この山々は昔から現在に至るまで四国内の物流や交流の大きな障害となって来た。その一方で、山間部からは吉野川、勝浦川、那賀川など、水量の豊富な河川が多数流れ出しており、豊かな水資源をもたらしてくれている。河川が少なく水不足に陥りやすい隣の香川県とは対照的であるが、逆に治水に長年悩まされている。また那賀川下流域ではほぼ毎夏、工業用水などの渇水が深刻化している。なお徳島県内で最長の河川は吉野川ではなく那賀川である。

画家について

・青木成実
徳島県阿南市出身。
7歳から絵画教室に通いはじめ、18歳まで洋画家の渡辺記世に師事。
2010年、全国規模の美術団体である国画会の国展で初入選。
2011年、鳴門教育大学大学院芸術系(美術)コースを修了後、第85回国展絵画部奨励賞を受賞、国画会の会友となる。
2013年、第87回国展絵画部奨励賞を受賞。
2016年5月、青木成実油絵展をそごう徳島店美術画廊にて開催。
2017年5月、第91回国展絵画部会友賞受賞。準会員となる。 同年10月、AWA現代アート展2017阿波市長賞受賞
2018年2月、第2回青木成実油絵展をそごう徳島店美術画廊にて開催。 同年7月、青木成実油絵展を三越日本橋本店美術サロンにて開催。
2019年7月、青木成実油絵展を高松三越本館美術画廊にて開催。
2020年2月、青木成実油絵展をそごう徳島店美術画廊にて開催。 同年7月、青木成実油絵展を高松三越本館美術画廊にて開催。
また、アンモデルエージェント所属のモデルとしても活動しており、中四国のファッションショーなどに出演しているほか、四国放送のテレビ番組にコメンテーターとして出演するなどしている。

徳島県阿波踊り協会所属・奴連の女踊りリーダーでもあり、2013年度徳島市阿波おどりポスターに採用された写真のモデルでもある
鳴門教育大学在学時は美術を学ぶ一方で軽音楽部に所属しており、当時の先輩で友人でもあるチャットモンチーの福岡晃子は個展を訪れた際に、「とにかく美しい絵ばかり!なんで軽音部だったんだろう…笑」と評している。

・伊原宇三郎
1894年伊原安蔵・カメの三男として生まれる。1916年東京美術学校西洋科に入学する。1917年光風会第5回展覧会、太平洋会第14回展覧会に入選する。同年この頃から2年半にわたり、月刊誌「家庭料理講義録」に当時有名だった榎本小太郎の料理を表紙、口絵、挿絵に描く。1920年満州旅行で取材した「明装」が第2回帝展に初入選する。1921年美術学校を首席で卒業。卒業制作した「よろこびの曲」は文部省買上げとなるなど早くからその資質を認められる。1924年芥川賞受賞作家の由起しげ子と結婚、三男一女を儲けた。

1925年農商務省の海外実習練習生として渡仏。ピカソら同世代の画家たちに共感をよせる一方、ルーヴル美術館に頻繁に通いながら、ドミニク・アングルの「グランドオダリスク」といった古典絵画を模写する。こうしてモニュメンタルで古典の静かな香気が漂う画風が確立される。1927年第20回サロン・ドートンヌに「毛皮の女」が初入選。翌年第21回サロン・ドートンヌにも「横臥裸婦」「赤いソーファの裸婦(白衣を纏う)」が入選する。

1929年経済的な理由で帰国。一時兵庫県芦屋市に居住するが上京して阿佐ヶ谷に居を定める。同年第10回帝展に滞欧作「椅子に寄れる」を出品し、特選となる。翌年第11回帝展にも「二人」が特選となる。1932年東京美術学校講師となる。同年第13回帝展に「榻上二裸婦」を出品し、三度目の特選となる。1934年帝展審査員となる。戦時中は陸軍嘱託画家として台湾、香港、ビルマ(現・ミャンマー)、中国、タイ等に派遣され「バーモウ・ビルマ国家代表像」、「香港に於ける酒井司令官、ヤング総督、の会見」、「島田戦車部隊スリムの敵陣突破」などの戦争記録画の制作にもあたる。

戦後は、日展の審査員を務める。1949年日本美術家連盟の委員長として、作家の立場を守る努力をする。さらに1953年文芸美術国民健康保険組合を設立しその常務理事を務める。1953年フランス美術館(現・国立西洋美術館)設置準備委員会委員として美術館設置に尽力する一方、国際造形芸術連盟(IAA)日本国内委員会委員長として、美術家の国際交流と提携に努める。1956年ヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表として渡欧し、イタリア、フランス各地で制作する。1957年帰国。フランス滞在が新鮮な刺激となり、多くの公職を辞して画業に専念する。1960年フランス政府より芸術文化勲章オフィシェ章を授与される。この頃正力松太郎、三木武吉、石橋正二郎等のアトリエでの肖像画の制作のほか千葉、浜離宮、軽井沢、日光、京都等の写生旅行にも出かける。1966年勲三等瑞宝章を授与される。1971年紺綬褒章を授与される。1972年頃から体調をくずし、静養につとめながら制作。晩年は日本美術家連盟総会で名誉会員に推挙されるが、1976年糖尿病に肺炎を併発し没する。

・喜井黄羊
徳島県海部郡美波町(旧由岐町)出身。富岡鉄斎の流派を受け継いでいる日本画家で知られている。

関西芸術院を卒業後、1932年に矢野鉄山に師事。大阪美術協会常任委員監査、吹田市美術家連盟役員、吹田市展審査員、大阪美術家協会委員などを歴任。
文部大臣賞や大阪府芸術文化功労賞、吹田市文化賞、徳島県由岐町名誉町民、紺綬褒章などを受賞している。

・佐野比呂志
徳島県板野郡生まれ。徳島師範学校卒業。「素直大胆」を理念とし、 独立美術協会の独立展を中心に作品を発表、1955年に同会会友となる。師範学校卒業後は美術教師となり、1967年に徳島県教育委員会教育功労賞、公益財団法人美育文化協会指導者賞を受賞。1996年、徳島県の美術の発展と教育に尽力した功績により、徳島県文化賞を受賞した。

2013年11月1日、94歳で死去。

2019年8月29日、遺族である長女が佐野比呂志の生誕100年を記念して、徳島市徳島中学校及び徳島市富田中学校に作品を寄贈する。

・橋本シャーン
1973年に新劇俳優から画家、イラストレーターに転向。その後1979年から1989年までサンフランシスコに滞在。黒人の絵を描く。

1985年、作家の森瑤子との出会いがきっかけで、黒人の絵から大人の女性を描いた絵に画風が一変する。1992年には日本橋にある髙島屋で「橋本シャーン・アート展」を開催。その後、池袋にある西武百貨店と銀座プランタンでも開催された。

1993年の森瑤子の没後、淡彩スケッチで新境地を開く。旅のスケッチとエッセイの仕事を中心に、高島屋、朝日新聞、紀伊国屋書店、他、挿絵、ポスター、装画などの仕事多数。エッセイの仕事も多く、週刊読売、サンデー毎日、旅行誌などに連載する。

個展は、東京日本橋・高島屋、銀座プランタン、池袋・西武、川崎BEビル、代官山・ヒルサイドテラス、広島・福屋、ギャラリー新宿高野、徳島そごう、など。1998年に「橋本シャーンのスケッチ教室」開設。

2010年には大谷焼の田村栄一郎との合作をおこなった。

2019年8月22日、死去。

・林雲渓
徳島県麻植郡鴨島町(現吉野川市)出身の南画家。日本画家。

1984年(昭和59年)に南画に優れた功績を挙げた第一人者として徳島県文化賞を受賞。

四国八十八箇所11番札所である藤井寺本堂の天井絵には雲渓の描いた雲龍が描かれている。30畳ほどの大きさがあり、繊細な線と睨みをきかせた迫力のある顔が薬師如来を守つているかのように見える。

現在、鴨島町の吉野川市立森山小学校に雲渓の記念碑が建てられている。

・林鼓浪
1887年7月9日、徳島県徳島市安宅町に生まれ、後に両父母が本家である徳島市西大工町の商人宿「岩崎屋」の夫婦養子となったことにより岩崎屋に入籍する。1898年3月、徳島市新町小学校を卒業する。1907年、神戸・大阪において演劇・活動写真関係の手伝いをする。また、幼少期に守住貫魚の高弟である森魚淵(1830-1909)に絵画を教わり、郷土研究を吉田東洲(1856-1916)に教わった。

1910年、眉山保勝会の役員として眉山公園の絵画を描く。1917年、芸術写真愛好家達とともに「徳島ベスト会」を創立する。1922年、鳥居龍蔵が城山の貝塚を発見した際に、原住人生活の画を描く。

1927年11月1日から11月7日にかけて、光慶図書館(現・徳島県立図書館)にて展覧会を開く。

1930年5月25日に阿波郷土研究会を創立し、同年11月15日に光慶図書館光読会を創立する。

1950年6月、徳島市史談会会員、徳島県文化財保護委員(後に徳島県文化財専門委員)となる。

1952年11月3日、徳島県教育委員会から教育功労者として、1953年5月3日、徳島県知事から、1955年11月16日、全国社会教育協会から社会教育功労者として、1960年11月2日、文化財保護委員会から文化財功労者として表彰される。

1964年5月31日から6月3日にかけて、丸新百貨店ギャラリーにて作品展を開く。

1965年10月20日、徳島市から徳島市人間文化財(第一号)に指定される。同年11月25日、急性肺炎により死去。享年78歳。正六位に叙せられる。同年11月27日、下助任町の弘誓寺において検番葬(富街葬)が行われる。同年12月26日、勲五等瑞宝章が追贈される。

1966年6月3日から6月5日にかけて、徳島県立博物館にて遺作展が開かれる。同年11月25日、徳島市立文化センターにて「林鼓浪を偲ぶ会」が開催される。1969年9月23日、弘誓寺に墓碑が建立される。

・広島晃甫
徳島県徳島市に生まれる。1907年(明治40年)に香川県立工芸学校を卒業。1909年(明治42年)に白馬会洋画研究所に入り、後に画家の萬鉄五郎らとアブサント会を興す。1912年(明治45年)に東京美術学校日本画科を卒業。その後、長谷川潔、永瀬義郎と共に日本版画倶楽部を結成。

第1回帝展、第2回帝展で特選になり名が知られるようになる。帝展審査員、新文展審査員などを歴任した。

・吹田文明
1947年(昭和22年)に徳島師範学校(現徳島大学)を卒業。1948年、徳島県の研究生として東京芸術大学に派遣され、萬鉄五郎に師事する。その後、数々の賞を受賞。

1969年(昭和44年)に多摩美術大学教授に就任。1994年(平成6年)に日本版画協会理事長に就任。2004年(平成16年)に日本美術家連盟理事長に就任。

ニューヨーク近代美術館、ポーランド国立美術館、シアトル美術館、オレゴン大学美術館、スイス国立美術館、メキシコ近代美術館、シカゴ美術館、東京国立近代美術館などの美術館に作品が所蔵されている。

・正木茂
1910年7月2日、徳島県美馬郡脇町(現・美馬市)に生まれる。1929年、大阪市立商業学校を卒業する。1947年8月、脇町中学校助教諭となり、1953年3月休職。その後、徳島新聞の挿絵画家として活躍する。

大阪の川上拙以に入門し、契村と号して日本画を学ぶ。のちに油絵に転向し、東光会に入選する。東京へ出向し、東向会会員となる。「阿波の踊り子シリーズ」で第12回日展に入選し、特選候補にもあがる。日展会友。

1980年、東京で没する。70歳。

・前田半田
文化14年(1817年)に医師である前田養拙の子として京都府で生まれた。中島来章から日本画を学ぶ。その後、貫名菘翁・山本梅逸を師として、京都を中心に活躍していく。明治5年(1872年)に前田暢堂から前田半田と改名したとされる。田能村直入に入門した児玉果亭に画法を説いている。

明治11年(1878年)に62歳で去る。

・守住貫魚
阿波国・徳島城下の富田掃除町(現在の徳島県徳島市明神町)で、徳島藩の鉄砲方・庄野(または新居見)幸次郎延知の子として生まれる。文政7年(1824年)16歳で江戸に出て、住吉広行の弟子で藩の絵師・渡辺広輝に入門する。その頃、広輝は「光格上皇修学院に幸する儀仗図」の制作にとりかかっていたが、入門した貫魚に助手として手伝いを命じ、貫魚の技が優れているのに驚き、文政12年(1829年)1月、貫魚は広輝から「輝」の一字を与えられ、輝美と号した。天保4年(1833年)幕府御用絵師板谷広当の「日光縁起絵巻」制作を手伝った際、板谷家の本家にあたる住吉広定(のち広貫に改名)にその実力を認められ、翌年その門に入る。さらに天保6年(1835年)、一橋公の命を受けてその寝殿の障壁画を描いた。これが一橋徳川家のお気に入りとなり、将軍徳川家斉の目にもとまり、幕府の絵師に取り立てるべき内命があった。この年の12月、貫魚は広定より「定」の字を授かり、定輝と号することになった。

阿波藩主蜂須賀斉昌は、一橋公の要望があったものの貫魚の技を惜しんで断り、天保7年(1836年)に貫魚を帰国させる。広輝の死後、弘化元年(1844年)、貫魚は正式に阿波藩の御用絵師となった。 以後60歳まで仕える。隠居した12代藩主蜂須賀斉昌に随行して、各地の名所旧跡や古物を写した。これらに関しては特に、藩命による「全国名勝絵巻」10巻(徳島県指定文化財)や、アメリカから帰ってきた漂流者初太郎の記録「亜墨漂流新話」の挿絵を、模型を制作して描いたことなどが知られている。

安政元年(1854年)、師の住吉広定が弘貫と改号したため自身も貫魚に改名する。「貫」は弘貫の一字を、「魚」の字は藩主に与えられたという。翌年八月、弘貫の依頼により、京都御所紫辰殿の賢聖障子に「朝賀の図」を補写した。

明治に入り廃藩置県後は藩から離れ、明治5年(1872年)から同12年までの間、徳島市の大麻比古神社(徳島市明神町)、金毘羅神社(同勢見町)、国瑞彦神社(同伊賀町)等の神官を歴任した。しかし、画家として身を立てるべく一念発起して、明治14年(1881年)に息子・勇魚が住む大阪に移る。翌年の第一回内国絵画共進会に「船上山遷幸図」を出品して銅印を受賞し(他には今尾景年、川端玉章、田能村直入)、更に明治17年(1884年)には「宇治川先登図」(個人蔵)と「登龍図」の二点を出品し、3194点中ただ一人金賞を受賞した。このとき貫魚は76歳であり、まさに遅咲きだが、見事に才能が開花したといえよう。浪華画学校では皇国画教員として後進の指導にあたり、明治21年(1888年)に竣工した皇居明治宮殿の障壁画の制作にも取り組んだ。貫魚はこの時、杉戸に「田舎機織り図」と「棕櫚図」を、小襖に「虫撰び図」を描いた。明治23年(1890年)、日本美術協会第三回展覧会に「紫式部石山に月を観る図」(石山寺蔵)を出品し金牌を受領した。さらに、この年10月2日、宮内省から橋本雅邦、高村光雲らとともに帝室技芸員に選ばれた。明治25年(1892年)2月26日、大阪市東区谷町の自宅で老衰のため84歳の生涯を閉じた。墓は徳島市伊賀町の神葬墓地にある。

息子に守住勇魚、次女に守住周魚がいる。弟子に関しては、貫魚自身が書き残した「門弟名面」という記録によれば総勢70数名と非常に多く、小沢輝興、林半窓、村瀬魚親、岸魚躍、森魚渕、原鵬雲、小沢魚興、三好賢古、上田魚行、森崎桃春、森崎春潮などが知られている。

・湯浅桑月
謡曲家・湯浅小太由の次男として、徳島市幟町に生まれる。住吉派の佐香美古に日本画を学び、兄弟子に山本鼎湖、須木一胤がいる。19歳の時大阪へ出て深田直城、中山芦月に師事した。さらに土佐、狩野、円山、南宗の諸大家と交流し、一派を立てる。1904年(明治37年)徳島に帰り、大工町に住み画筆を揮う。画風は新しい写生派の日本画で、人物、花鳥、山水、その他いずれも達筆、徳島県内に多くの作品が残っている。

幸流の小鼓を生駒信近に学び、奥義を伝えられた。大正九年、大島寿太郎を迎え、能の研究団体「喜陽会」を組織し研究を重ね、1927年(昭和2年)教授の免状を得る。

1927年(昭和4年)7月16日没。52歳。


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