現代アート作家一覧
欧米の現代アート作家一覧
アニッシュ・カプーア(Anish Kapoor)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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アニッシュ・カプーア(Anish Kapoor )は、インド、ボンベイ(現ムンバイ)出身の現代彫刻家。同世代の彫刻家の中で非常に注目されているうちの1人である。ロンドンに在住している。作品はシンプルな形状の立体であるが、表面に光を反射する金属や光を吸収する染料などを用いており、見る者の視覚に強い影響を与えている。
カプーアの母はバグダードのユダヤ人共同体出身のユダヤ人で、父はパンジャーブの家系に生まれたインド海軍の水路学者だった。カプーアは1954年に生まれデヘラードゥーンで教育を受けた後、1971年から1973年にかけてイスラエルに渡りキブツで働きながら電気工学を学び、イギリスに移ってロンドンのホーンゼイ芸術大学(Hornsey College of Art, 現在のミドルセックス大学)、チェルシー・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザインで学んだ。トニー・クラッグ、リチャード・ディーコンらとともに、1980年代初頭のニュー・ブリティッシュ・スカルプチャーと呼ばれる新しい彫刻の傾向の代表的作家のひとりと数えられるようになった。1990年、ヴェネツィア・ビエンナーレではイギリス代表として出展し2000年賞を受賞した。また翌1991年、ターナー賞を受賞している。
彼の個展はロンドンのテート・モダンやヘイワード・ギャラリー、スイスのバーゼルにあるクンストハレ、スペイン・マドリードのソフィア王妃芸術センター、カナダのオタワ、ベルギー、フランスのボルドー、ブラジル、ニューヨーク近代美術館、イタリアのミラノ、ビルバオのグッゲンハイム、オランダなどで開かれたことがある。また、日本では名古屋市にあったコオジオグラギャラリーで早くから発表していた為名古屋市美術館に個人蔵の作品が寄託されているほか、金沢21世紀美術館など各地の美術館に作品が恒久設置されている。また、宝飾メーカーのブルガリから「B.zero1」と名付けられたアクセサリーのシリーズを出している。
2003年、大英帝国勲章CBEを受章した。
パブリックアートの仕事も多い。シカゴの市街地には『クラウド・ゲート』というステンレス製の大作が設置されている。東京都立川市の安田火災ビル北側にも「山」という作品がある。2012年のロンドン・オリンピックにあたっては、 オリンピック・パークに建つ高さ115メートルの展望塔で、イギリスでも最大のパブリックアート作品である『アルセロール・ミッタル・オービット』を設計した。
2015年8月、中国新疆ウイグル自治区カラマイ市の巨大なステンレス製オブジェがクラウド・ゲートの盗作であるとして訴える意向を示した。
- 代表作
- クラウド・ゲート
山
アルセロール・ミッタル・オービット
B.zero1
アルベルト・ジャコメッティ(Alberto Giacometti)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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ジャコメッティは、スイスのイタリア国境に近いボルゴノーヴォ(現在のグラウビュンデン州ブレガリア谷マローヤ地区)のイタリア系の家に生まれ、近郊のスタンパの村で育った。父のジョヴァンニ・ジャコメッティ(1868年 - 1933年)はスイス印象派の画家であった。また、1歳違いの弟ディエゴ(1902年 - 1985年)は兄の助手およびモデルを務め、後には家具製作者となった。スタンパ村には、家族と暮らした自宅横の納屋を改修したアトリエが残っている。
ジャコメッティは高等学校卒業後、1919年にジュネーヴ美術学校に入学するが、入学後数日で絵画には見切りをつけ、ジュネーヴ工芸学校のモーリス・サルキソフ(1882年 - 1946年)の下で彫刻を学んだ。1920年にヴェネツィア、1921年にはローマに滞在した後、1922年パリに転居し、アカデミー・ドゥ・ラ・グランド・ショミエールでロダンの弟子アントワーヌ・ブールデルに学んだ。
1920年代半ばから弟のディエゴと共同でアトリエを構え、1927年前後からパリのサロン・デ・テュイルリーで作品を発表しはじめた。この頃のジャコメッティは、写実的な彫刻にはあきたらないものを感じ、キュビスム、シュルレアリスム、原始彫刻などの影響を受けた作品を制作した。パリではピカソ、エルンスト、ミロらの画家、シュルレアリスム運動の主唱者アンドレ・ブルトンらのほか、ジャン=ポール・サルトル、ポール・エリュアールらの文人とも交友があった。1932年作の『午前4時の宮殿』はこの頃の代表作で、シュルレアリスムの絵画を立体に移したような作品である。
1935年、それまでのシュルレアリスム的作風を放棄して、再び人物モデルを写生する伝統的方法に戻り、シュルレアリストのグループからも離脱した。第二次世界大戦中の1942年、いったん故国のジュネーヴに戻り、戦後の1946年、再度パリに移住する。
ジャコメッティは大戦前にも細長い人物像を作っていたが、大戦後の1950年頃から作られはじめた人物像は、肉付けも凹凸もなく、「彫刻」としての限界と思えるほどに細長いものである。サルトルは、これらのジャコメッティの人物像を、現代における人間の実存を表現したものとして高く評価した。なお、古代イタリアのエトルリア文明にも細長く引き伸ばされた人物彫刻があり、それとの関連も指摘されている。
1962年、ヴェネツィア・ビエンナーレでジャコメッティのために1室が与えられる。このように晩年には国際的に高く評価されるようになった。また晩年には絵画、版画など平面芸術への回帰もみられる。版画集『終わりなきパリ』は1958年から1965年にかけて制作した石版画150点を収録し、ジャコメッティ自身によるテキストを付したもので、晩年の代表作である。1966年、スイスのクールで没した。
1998年10月から発行されている、スイスの現行第8次紙幣の100フラン紙幣に、彼の肖像が描かれている。紙幣の裏面は「歩く男」である。
1950年半ばにフランス留学した哲学者の矢内原伊作と深い親交を結び、矢内原をモデルにして作品を制作した。ある年には、矢内原にモデルを務めてもらうためだけに、日本からパリへ矢内原を呼び寄せることもあった。矢内原は、ジャコメッティのアトリエでの様子について詳細な記録を残しており、それらを矢内原と宇佐見英治らが創刊した文芸誌『同時代』にて発表し続けた。(それらは後に『ジャコメッティ』(みすず書房)等にまとめられた)
また同誌には、ジャコメッティが書いたエッセイも、同人らによって翻訳され、いち早く掲載された。 矢内原による記録は他に、『完本ジャコメッティ手帖(1・2)』 (みすず書房)にまとめられている。
2017年、映画『ジャコメッティ 最後の肖像』がイギリスで製作された。日本では2018年に公開。
他にも、デイヴィッド・シルヴェスター『ジャコメッティ 彫刻と絵画』(武田昭彦訳、みすず書房、2018年)がある。著者は親交のあった美術批評家でモデルともなった。
- 代表作
- 午前4時の宮殿
裸婦立像
女性立像
ヴェニスの女I
ジャン・ジュネ
石碑I
終わりなきパリ
腕のない細い女
歩く男
アレックス・カッツ(Alex Katz)
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- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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アレックス・カッツは、ニューヨークのブルックリン区で生まれた。1928年、家族でクイーンズ区のセント・オールバンス(St. Albans)に引っ越した。1946年から1949年にかけてニューヨークのクーパー・ユニオン(Cooper Union)で、1949年から1950年にかけてメイン州スカウヒーガンのスカウヒーガン絵画彫刻学校(Skowhegan School of Painting and Sculpture)に学んだ。1954年、カッツの最初の個展(絵画展)がニューヨークのロコ・ギャラリーで催された。1974年、ホイットニー美術館は「Alex Katz Prints」展を、さらに1986年にはアレックス・カッツ回顧展が巡回された。
画家としての最初の10年間、カッツは1000枚の絵を破棄したことを認めた。1950年代以降、カッツは美術家として成長し、自身が「考えられる以上に不変の」絵を描くことを試みるという意味で、より自由な作品を創作することを試みた。カッツの作品はシンプルに見えるが、カッツによれば、それらはより縮小されていて、自分の個性に合っているということである。
1994年、クーパー・ユニオン美術学校は、カッツに寄贈された10点の絵画を売却したことでもたらされた基金とともに「Alex Katz Visiting Chair in Painting」を作った。
ファイドン・プレス(Phaidon Press)は2005年にCarter Ratcliff、Robert Storr、Iwona Blazwick共著の図解概説書『Alex Katz』を出版した。
ここ10年カッツの美術は広く世界に受け入れられ、現在多くの若い世代の芸術家に影響を与えている。2007年、カッツはニューヨーク州美術館(New York State Museum)で個展を開いた。
80歳になったカッツは小さな美術界での最小限の名声から飛び出し、主要なアメリカ合衆国の画家と見られるようになった。カッツは仲間の美術家たちからより尊敬を受け、若い発展途上の美術家たちはカッツを偶像視している。
2007年、カッツの作品展がシカゴのリチャード・グレイ・ギャラリー、ニューヨークのロバート・ミラー・ギャラリーとペース・ウイルデンスタイン(ギャラリー)で催された。
1954年以降、メイン州リンカンヴィル(Lincolnville, Maine)のサマーレジデンスで、カッツは地元のコルビー大学との関係を深めている。コルビー大学は1984年にカッツに名誉博士号を授与した。1996年10月、コルビー大学美術館は、カッツが寄贈した400点以上の油絵、コラージュ、版画をおさめた新棟をオープンさせた。
カッツの作品は、テート・モダン、ニューヨーク近代美術館も所蔵している。
- 代表作
- ジェニファーとマシュー
Brisk Day
レッド・スマイル
アントニー・ゴームリー(Antony Gormley)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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ゴームリーは7人の子供たちの末子として、ロンドンのハムステッドに生まれた。ノース・ヨークシャー州のアンプルフォース・カレッジに入学。1968年から1971年にかけて、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで、考古学、人類学、美術史の学位を取得すると、スリランカおよびスリランカに渡り、仏教を3年間学ぶ。1974年にロンドンに戻ると、セントラル・セント・マーチンズ・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザインおよびゴールドスミス・カレッジに通い、1977年から1979年までスレイド美術大学、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの彫刻の大学院課程を修了。
ここ25年間、ゴームリーは、人体とは記憶と変化の「場所」であるとする、ラディカルな研究を通して、そして、自身の体をモデルに・ツールに・素材に使って、彫刻における人間像に新しい生命を与えてきた。1990年以降は、『アロットメント』、『クリスタル・マス』、『アナザー・プレイス』、『ドメイン・フィールド』、『インサイド・オーストラリア』、最近の『ブラインド・ライト』といった大規模なインスタレーションの中で、集団の肉体および自他の関係性を切り開くための人間の条件に関心を広げている。
ゴームリーは自身の作品を、「我々全員が生きている状況の反対側で、その場所を具体化する試み」だと述べている。彼の作品の多くは、彼自身の肉体、あるいは「私が永久に持ち続けるであろう物質の最も新しい体験、および、その内側で私が生きている物質世界の唯一の部分」から取られた鋳型をベースにしている。彼の作品は、人体を「物」としてではなく「場所」として扱おうとしていて、その制作過程は、全人類共通の条件を識別するために、個々の肉体の「場所」を取り囲むことである。作品は象徴ではなく、印 ―― 時間の中のリアルな肉体のリアルなイベントの痕跡なのである。
ゴームリーの作品の展示は広範囲にわたっている。ホワイトチャペル・ギャラリー、テート・ギャラリー、ヘイワード・ギャラリー、大英博物館、ホワイト・キューブなどイギリス国内はもとより、コペンハーゲンのルイジアナ近代美術館、ワシントンD.C.のコーコラン・ギャラリー、ダブリンのアイルランド近代美術館、ドイツのケルン芸術協会といった世界各地の美術館で、これまで個展が開かれた。2007年8月19日からもヘイワード・ギャラリーで、彼の代表作といえる『ブラインド・ライト』が展示されている。
また、ヴェネツィア・ビエンナーレ、カッセルのドクメンタ8といったグループ展にも作品を出品している。『フィールド』という作品は、アメリカ、ヨーロッパ、アジアを巡回している。2006年のシドニー・ビエンナーレではゴームリーの『アジアン・フィールド』がフィーチャーされた。この作品は、100トンの赤粘土から、350人の中国村民が、5日間かけて手作りした18万個の小さな粘土製小立像のインスタレーションだった。この年はさらに、ペニー・ウールコック監督の映画『Exodus (Margate Exodus)』(2007年)のクライマックスである、高さ25mの『ザ・ウェイスト・マン』の炎上を行った。この映画は、聖書の中の、ユダヤ民族の奴隷からの解放を描いたもので、アート・エンジェル社からの委嘱であった。
『エンジェル・オブ・ザ・ノース』ならびに、グリニッジのテムズ川沿いにある近作『クアンタム・クラウド』は、イギリス現代彫刻の最も名高い例に挙げられている。ゴームリーの重要なインスタレーションの1つ『アナザー・プレイス』は、マージーサイド州クロスビー・ビーチにディスプレイされたまま、現在も恒久的に残されている。
ゴームリーは1994年にターナー賞、1999年にサウス・バンク賞ビジュアル・アート部門、2007年にはバーンハード・ヘイリガー賞彫刻部門を、それぞれ受賞している。また、1997年には大英帝国勲章(OBE)を贈られた。さらに、王立英国建築家協会、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、同大学ジーザス・カレッジの名誉フェローで、2003年からはロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの会員でもある。また、大英博物館、バルティック現代美術センターの理事でもある。
- 代表作
- フィールド
サウンドII
アイアン:マン
アナザー・プレイス
クアンタム・クラウド
エンジェル・オブ・ザ・ノース
タイム・ホライゾン
インサイダー
イヴェント・ホライゾン
不動山
アンリ・マティス(Henri Matisse)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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1869年、フランス・ノール県のル・カトー=カンブレジ (フランス語 Le Cateau-Cambrésis) に、豊かな穀物商人の長男として生まれる。その後一家はピカルディ地域圏のボアン=アン=ヴェルマンドワへと移動し、彼はそこで育った。1887年、父の命でカトー=カンブレジの裁判所の管理者の資格を得るためにパリへと出て法律を学び、翌年法科資格試験に合格した。その後しばらくはサン・カンタンの法律事務所の書記として働いた。
1889年、盲腸炎の療養中に母から画材を贈られたことで絵画に興味を持った。後に本人のいうところでは「楽園のようなもの」を発見したマティスは、画家に転向する決意をする。この決意は父親を非常に失望させた。まず1891年にパリの私立美術学校であるアカデミー・ジュリアンに入学し、絵画を学びつつ官立美術学校であるエコール・デ・ボザールへの入学を目指した。ボザールへの入校は許可されなかったが、熱意を評価した教官ギュスターヴ・モローから特別に個人指導を請ける事ができた。この時、ボザールに入校してモローの指導を受けていたジョルジュ・ルオーとは生涯の友情を結ぶ。1896年に国民美術協会のサロンに4点出品、うち1点は国家買上げとなる。
1898年にはアメリー・パレイルと結婚した。同年、印象派の画家カミーユ・ピサロの勧めを受け、ロンドンでターナーを研究した[3]。
マティスの初期の作風は写実的なものを志していたが、次第にポール・セザンヌ、ポール・シニャック、フィンセント・ファン・ゴッホ 、ポール・ゴーギャンら後期印象派の影響を受け、自由な色彩による絵画表現を追究するようになる。『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』(1905年)、『ダンスI』(1909年)など、大胆な色彩を特徴とする作品を次々と発表し、モーリス・ド・ヴラマンク、アンドレ・ドランらと共に野獣派と呼ばれるようになる。しかし、フォーヴィスムとしての活動は1905年から3年ほどの間だけで、それ以降は比較的静かで心地の良い作品を描くようになる。(そのころのマティスの言葉:『私は人々を癒す肘掛け椅子のような絵を描きたい』)本人は、フォーヴィスムと呼ばれ見なされることをひどく嫌った。
1910年代に入ると、幾何学的構成による抽象的・構築的傾向が見受けられ、キュビスムの影響や、第一次世界大戦による厳しい内省的感情の反映が見受けられる。
1917年から30年ごろにかけては、おもに南フランスのニースを制作の場として活動。この時期、優美で官能的なオダリスクをはじめ、開放的な作品を制作。通常この頃のマティスの活動は「ニース時代」と区分される。
線の単純化、色彩の純化を追求した結果、切り絵に到達する。マティスにとってはさみは鉛筆以上に素画に適した道具だったのである。『ジャズ』シリーズなど切り絵の作品を多数残している。
晩年、南仏ヴァンスのドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂の内装デザイン、上祭服のデザインを担当。この礼拝堂はマティス芸術の集大成とされ、切り紙絵をモチーフにしたステンドグラスや、白タイルに黒の単純かつ大胆な線で描かれた聖母子像などは、20世紀キリスト教美術の代表作と目される。
また、緑好きが高じて一風変わったアトリエを作った。テーブルの上に所狭しと並べられた多様な花。身の丈を越す巨大な観葉植物など、まるで植物園のようであった。さらに大好きな鳥を多い時には300羽も飼っていたと云われている。草花が満ち溢れ、鳥たちが憩うアトリエから数々の傑作を生み出した。巨匠が晩年辿りついた癒しに満ちた世界。名画誕生の舞台となった緑いっぱいのアトリエであった。
そして体力がなくなっていったマティスは油絵から切り紙絵へと変更する。アシスタントに色紙を作ってもらい、はさみで切り抜いて作品を作り上げていった。体調の変化で作品にも変化が現れ、自然から受ける感覚、感触をダイレクトに現すようなことができるようになっていった。形を見るというより、花や植物から感じる安らぎを心の目で見ると、はさみを使うという身体的な動きを通して機能化して表現、生命そのものの記号になるように求めていったのである。
1954年11月3日、ニースで没す。
- 代表作
- 帽子の女性
緑の筋のあるマティス婦人
赤のアトリエ
かたつむり
アローラ&カルサディーラ(Allora & Calzadilla)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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プエルトリコを活動拠点とする、アローラ&カルサディーラは、一つの対象に対する徹底的なリサーチとこれに基づく鋭い解釈、そしてクリエイティヴなアプローチで、我々に見えてくる世界とそれに対しての我々の応答を作品化しつづけるアーティストのデュオです。
1995年より共同制作開始。サンファン(プエルトリコ)拠点。政治的な衝突や緊張を、徹底的なリサーチと卓越した解釈で映像・彫刻・パフォーマンス化する作品で広く知られる。近年は、宇宙・地球規模の変動と人類学的なテーマを重ね合わせる叙事的な映像作品や、鑑賞者の経験を重視する音楽パフォーマンスが多い。第54回ヴェネツィア・ビエンナーレ(2011)アメリカ合衆国館代表。ドクメンタ13(カッセル、ドイツ、2012)や光州ビエンナーレ(2004、2008、2014)など国際展への参加多数。ニューヨーク近代美術館(2010)、フィラデルフィア美術館(2014-15)などで個展。
- 代表作
- Lifespan
Body in Flight
アリス・ニール(Alice Neel)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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学校を出た後1918年から、タイプを学び公務員試験に合格し、2年間、軍の事務職として働きながら、フィラデルフィアの工業デザイン学校の夜学で学んだ後、1921年にフィラデルフィア女子デザイン学校(Philadelphia School of Design for Women、後の Moore College of Art and Design)に入学した。初年度は自らの貯金から学資をまかなったが、その後の3年間は州の奨学金が得られた。1926年に卒業し、夫のキューバ人画家、エンリケス(Carlos Enríquez)とともにしばらくキューバで暮らした後、ニューヨークへ移った。離婚や精神的な疾患の中で、スパニッシュ・ハーレム地区の人々の人物画を描いた。
2006年に映画監督となった孫のアンドリュー・ニール(Andrew Neel)によって伝記映画が作られた。
- 代表作
- Ballet Dancer
Blanche Angel Pregnant
アンドリュー・ヴィッカーリ(Andrew Vicari)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
- アンドリュー・ヴィッカーリは20世紀後半から21世紀初頭にかけて主にフランスで活躍したイギリス生まれの画家です。著名人の肖像画を描いて人気を博し、中東を中心に世界中で高く評価され、サウジアラビアの公認王室画家にも指名されています。2004年にはイギリスで最も富裕な画家となっただけでなく、長者番付の18位にランクインしていることなどからは、ビカリ作品の人気の高さがうかがえます。
- 代表作
- 精霊降臨祭の行進
ジッダの宮殿
青い黄昏
クウェートの略奪
アンディ・ウォーホル(Andy Warhol)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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チェコスロバキア共和国ゼムプリーン県(現・スロバキア共和国プレショウ県)ストロプコウ郡ミコー村(現・ミコヴァー村)から移民したルシン人の父オンドレイ(アンドレイ)と母ユーリア(ジュリア)の三男として、米ペンシルベニア州ピッツバーグで生まれる(出生日や出生地には諸説ある)。移民前の元の姓はヴァルホラ(スロバキア語:Varchola,ルシン語:Вархола)。2人の兄(ポール、ジョン)がいた。ルシン人の両親は敬虔なルテニア東方典礼カトリック教徒で、彼自身も同様に育ち生涯を通じ教会へ通った。
体は虚弱で、肌は白く日光アレルギーであり、赤い鼻をしていた。早い時期から芸術の才能を現した。肉体労働者だった父アンドレイは1942年、アンディが14歳のときに死去、その後は母のジュリア一に育てられた。アルバイトをし地元の高校に通う。カーネギー工科大学(現在のカーネギーメロン大学)に進学し広告芸術を学び1949年に卒業。
1950年代、大学卒業後はニューヨークへ移り『ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』など雑誌の広告やイラストで知られた。1952年には新聞広告美術の部門で「アート・ディレクターズ・クラブ賞」を受賞し、商業デザイナー・イラストレーターとして成功するが、同時に注文主の要望に応えイラストの修正に追われ、私生活では対人関係の痛手を受けるなど苦悩の時期でもあった。彼は後に、ただ正確に映すテレビ映像のように内面を捨て表層を追うことに徹する道を選ぶこととなる。この間に、線画にのせたインクを紙に転写する「ブロッテド・ライン (blotted line)」という大量印刷に向いた手法を発明する。
1960年 (32歳)、彼はイラストレーションの世界を捨て、ファインアートの世界へ移る。『バットマン』、『ディック・トレイシー』、『スーパーマン』など、コミックをモチーフに一連の作品を制作するが、契約していたレオ・キャステリ・ギャラリーで、同様にアメリカン・コミックをモチーフに一世を風靡したロイ・リキテンスタインのポップイラストレーション作品に触れて以降、この主題からは手を引いてしまった。当時アメリカは目覚ましい経済発展のさなかにあった。
1961年 (33歳)、身近にあったキャンベル・スープの缶やドル紙幣をモチーフにした作品を描く。ポップアートの誕生である。
1962年 (34歳)、はシルクスクリーンプリントを用いて作品を量産するようになる。モチーフにも大衆的で話題に富んだものを選んでいた。マリリン・モンローの突然の死にあたって、彼はすぐさま映画『ナイアガラ』のスチル写真からモンローの胸から上の肖像を切り出し、「マリリンのディスパッチ(英語版)」等、以後これを色違いにして大量生産しつづけた。ジェット機事故、自動車事故、災害、惨事などの新聞を騒がせる報道写真も使用した。
1964年(36歳)からはニューヨークにファクトリー (The Factory、工場の意) と呼ばれるスタジオを構える。ファクトリーはアルミフォイルと銀色の絵具で覆われた空間であり、あたかも工場で大量生産するかのように作品を制作することをイメージして造られた。彼はここでアート・ワーカー(art worker; 芸術労働者の意)を雇い、シルクスクリーンプリント、靴、映画などの作品を制作する。ファクトリーはミック・ジャガー(ローリング・ストーンズ)、ルー・リード(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)、トルーマン・カポーティ(作家)、イーディー・セジウィック(モデル)などアーティストの集まる場となる。
1965年(37歳)、「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」(The Velvet Underground; 以下 V.U. と略) のデビューアルバムのプロデュースを行う(バンドの詳細は同項目を参照のこと)。
ウォーホルは V.U. の演奏を聴き共作を申し込み、女優兼モデルのニコを引き合わせ加入させる。1967年3月発売の彼らのデビュー作『The Velvet Underground & Nico』(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ)では、プロデュースとジャケットデザインを手掛けた。シルクスクリーンによる「バナナ」を描いたレコードジャケットは有名となった。前衛的音楽のためアルバムはあまり売れなかったが、後に再評価された。ウォーホルは V.U. の楽曲を映画のサウンドトラックとしても用いた。セカンドアルバム制作の頃にはウォーホルとの関係も終わる。彼らとの関係は、映画『ルー・リード: ロックン・ロール・ハート / Lou Reed: Rock and Roll Heart』に描かれている。またウォーホルの死後、メンバーのリードとケイルは再結成し『Songs For Drella』(1990年)という追悼アルバムを作成した(Drella はドラキュラとシンデレラを足した造語であり、彼らによるウォーホルの印象を表したという)。
芸術の世界の外では、アンディ・ウォーホルはこの時期に名声や有名人について語った言葉 ("15 minutes of fame") で有名になった。1968年にウォーホルは「未来には、誰でも15分間は世界的な有名人になれるだろう」と述べた。1970年代末に彼は「60年代の予言はついに現実になった」と話したが、マスコミからこの言葉について毎回尋ねられることにうんざりし、このフレーズを「15分で誰でも有名人になれるだろう (In 15 minutes everybody will be famous.)」と言い換え、以後回答を断るようになった。
1968年6月3日 (40歳)、ウォーホルはラディカル・フェミニズム団体「全男性抹殺団(S.C.U.M. /Society for Cutting Up Men)」のメンバーだったヴァレリー・ソラナス(Valerie Solanas)に銃撃される。ソラナスはファクトリーの常連であり、ウォーホルに自作の映画脚本を渡したり、彼の映画に出演したことがあった。三発発射された弾丸のうち、最初の二発は外れ、三発目が左肺、脾臓、胃、肝臓を貫通した。彼は重体となるが、一命をとりとめた。ソラナスは逮捕の上裁判にかけられたが、事件時に統合失調症を患っていたと診断され、「危害を加える明確な意図はなかった」として3年間精神病院に入院した。ソラナスは退院後もフェミニズムの活動を続けたが、1988年に肺炎により52歳で死去した。この事件は『アンディ・ウォーホルを撃った女 / I Shot Andy Warhol』として1995年に映画化された。
1970年代から1980年代は社交界から依頼を受け、ポートレイトのシルクスクリーンプリントを多数制作する。1970年には「ライフ」誌によってビートルズとともに「1960年代にもっとも影響力のあった人物」として選ばれる。1972年、ニクソンの訪中にあわせて毛沢東のポートレイトを制作した。同年、母がピッツバーグで死去。世界中で個展を開催するようになる。
1974年 (46歳)、初来日。1982年から1986年にかけては災害や神話をモチーフとした一連の作品を作成する。最後の作品は1986年のレーニンのポートレイトなど。このレーニンのポートレイトは後にロシアの政商で有名なボリス・ベレゾフスキーに渡ることになる。
1983年から1984年にかけて、日本のTDKビデオカセットテープのCMに出演。『イマ人を刺激する』と題して、ブラウン管にカラーバー映像が映されたテレビを右肩に持ちながら「アカ、ミドォリィ、アオゥ、グンジョウイロゥ…キデイィ(キレイ)」とたどたどしい日本語を発するだけであったが、視聴者に強烈なインパクトを与えた。拡大したカラーバー映像を背景に、猫の格好をした女性が寄り添うバージョンもあった。
1984年にはカーズのアルバム「ハートビート・シティ」からのシングル「Hello Again(ハロー・アゲイン」のミュージック・ビデオを手掛けたが、内容が過激なため放送禁止になってしまった。
1987年2月21日、ニューヨークのコーネル医療センターで胆嚢手術を受けるも翌22日、容態が急変し心臓発作で死去。58歳。生涯独身だった。ピッツバーグの洗礼者聖ヨハネ・カトリック共同墓地に埋葬されている。
派手な色彩で同じ図版を大量に生産できるシルクスクリーンの技法を用い、スターのイメージや商品、ドル記号など、アメリカ社会に流布する軽薄なシンボルを作品化した。古典芸術やモダニズムなどとは異なり、その絵柄は豊かなアメリカ社会を体現する明快なポップアート、商業絵画としても人気を博した。しかし、そこにはアメリカの資本主義や大衆文化のもつ大量消費、非人間性、陳腐さ、空虚さが表現されていると見ることもできる。普遍性を求めた彼の作品は、彼自身や大衆が日々接している資本主義やマス・メディアとも関連しており、また事故や死のイメージも描かれた。
彼は自身について聞かれた際、「僕を知りたければ作品の表面だけを見てください。裏側には何もありません」と、徹底し「芸術家の内面」をなくし表面的であろうと努めた。彼は有名なものへの愛情を隠さず、スターや政治家や事故、流行品をしばしば画題に取り上げ、それが有名で皆も自分も大好きだからだと理由を述べた。また彼自身がアメリカの有名人物になってからも、ペースを乱すことなく有名人を演じ、作品を制作し続けることを理想とした。
- 代表作
- Boy with Flowers
Self-Portrait
Truman Capote
キャンベルスープ缶
The shot marilyns
小さな電気椅子
アンドレアス・グルスキー(Andreas Gursky)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
- 1955年1月15日、東ドイツライプツィヒに生まれ、幼少時に西ドイツに移住した。1977年から1980年まで、エッセンのフォルクヴァング芸術大学にてヴィジュアルコミュニケーションを専攻し、1980年から1987年まで、デュッセルドルフ美術アカデミー写真科に在籍した。ベルント&ヒラ・ベッヒャー(英語版)夫妻に師事し、1980年代後半から作家活動を開始。パノラミックな視点からとらえた巨大な写真が有名。1999年に撮った写真「ライン川 II (Rhein II)」がニューヨーク・クリスティーズの「Post-War & Contemporary Art Evening Sale」で430万ドル(約3億3400万円)で落札され、地球上に存在する写真の中で史上最高額の値段が付けられた。2010年よりデュッセルドルフ芸術アカデミーの自由美術学科を担当している。
- 代表作
- Rhein II
99セント
ピョンヤン I
F1 ピットストップ IV
カミオカンデ
V&R
カタール
イサム・ノグチ
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
-
1907年、ノグチが3歳の時に母レオニーと来日し、米次郎と同居する。そして米次郎は武田まつ子と結婚し、ノグチは野口勇として森村学園付属幼稚園に通学する。1年後に神奈川県茅ヶ崎市に転居して地元の小学校へ転入し、その年に母レオニーがアイリス(ノグチにとっては異父妹)を出産する。1913年からは野口勇に代わりイサム・ギルモア(ギルモアは母の姓)を名乗り、横浜市のセント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジへ転入し、茅ヶ崎の自宅の新築設計を手伝うなど数々の建築作品に携わった。学校に通う中、ノグチは1915年での1学期間休学し、母親の個人教授を受けながら茅ヶ崎の指物師について見習い修行していく。学校を卒業した後、1918年6月には母の意思で単身でアメリカへ送られ、インディアナ州ローリング・プレーリー(英語版)のインターラーケン校に7月に入学するが、8月に同校は閉鎖する。エドワード・ラムリー(英語版)が父親代わりとなり、C・マック宅に寄宿し、ラ・ポート高校に通学しトップの成績で卒業する。卒業写真に残したノグチの言葉は、「大統領になるよりも、僕は、真実こそを追求する。」であった。
ノグチの胸に母が植えつけた願望、「アーティストになりたい」というノグチのために、ラムリーはスタンフォード在住の彫刻家ガッツォン・ボーグラムに助手としてノグチを預けた。
1923年に、ボークラムとノグチとは馬が合わず、ノグチはニューヨークへ移りコロンビア大学医学部に入学し、日本から帰米してきた母と暮らすようになる。そこでノグチは医学部に在籍しつつ、レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の夜間の彫刻クラスに通い、入学してすぐに初の個展を開催した。
ノグチはナショナル・スカルプチャー協会(英語版)の会員に選ばれ、ナショナル・アカデミー・オブ・デザインに出品する。美術学校の校長オノリオ・ルオットロ(英語版)からは彫刻に専念することを勧められる。
1925年、ノグチはニューヨークで活躍していた日本人の舞踏家伊藤道郎のダンス・パフォーマンスに仮面を制作した。これがノグチにとって初めての演劇関連のデザインであった。2年後にグッゲンハイム奨学金を獲得し、パリに留学する。6ヶ月間、彫刻家コンスタンティン・ブランクーシに師事してアシスタントを務め、夜間の美術学校に通うが、1年後に奨学金の延長が認められずニューヨークに戻り、アトリエを構える。翌年、個展を開いた。
ノグチは1930年から1931年にかけて、パリを経由して日本に渡航した。
1935年に在米日本人芸術家の国吉康雄、石垣栄太郎、野田英夫らと共にニューヨークの「邦人美術展」に出品する。
第二次世界大戦の勃発に伴い、在米日系人の強制収容が行われた際には自らアリゾナ州の日系人強制収容所に志願拘留された。しかし、アメリカ人との混血ということでアメリカ側のスパイとの噂が立ち、日本人社会から冷遇されたため、自ら収容所からの出所を希望するも今度は日本人であるとして出所はできなかった。ノグチは後に芸術家仲間フランク・ロイド・ライトらの嘆願書により出所、その後はニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにアトリエを構えた。
終戦後、ノグチは1947年にジョージ・ネルソンの依頼で「ノグチ・テーブル」をデザイン・制作するなど、インテリア・デザインの作品に手を染める。
1950年に再来日し銀座三越で個展を開き、その時に日本では著名な建築家である丹下健三、谷口吉郎、アントニン・レーモンドらと知己になる。1年後にまた来日し、リーダーズダイジェスト東京支社の庭園の仕事の依頼を受け、また当時の岐阜市長の依頼で岐阜提灯をモチーフにした「あかり (Akari)」シリーズのデザインを開始
同年、山口淑子(李香蘭)と結婚する(1955年に離婚)。鎌倉の北大路魯山人に陶芸を学び、素焼きの作品制作に没頭する。この頃に魯山人の邸宅敷地内にアトリエ兼住まいも構えた。同年、広島平和記念公園のモニュメント(慰霊碑)にノグチのデザインが選ばれたが、原爆を落としたアメリカの人間であるとの理由で選考に外れた。しかしノグチのデザインの一部は、平和公園にある丹下健三設計の「原爆慰霊碑」に生かされている(丹下はこのプロジェクトにノグチの起用を推挙した)。また、戦災復興都市計画に伴い計画され、平和公園の東西両端に位置する平和大橋・西平和大橋のデザインはノグチの手によるものである。ノグチは後年、アメリカ大統領の慰霊碑を設計したこともあるがこちらは日系であるとの理由で却下された。
1961年からはアメリカに戻り、ニューヨーク州のロングアイランドシティにアトリエを構え、精力的な活動をし始める。まずはアメリカの企業IBM本部に2つの庭園を設計し、幼少の頃住んでいた神奈川県にある横浜のこどもの国で遊園地の設計が実際の計画に移された。
そして1968年にホイットニー美術館において大々的な回顧展が開催され、1年後の1969年にシアトル美術館にて彫刻作品『黒い太陽(ブラック・サン(英語版))』を設置する。また、東京国立近代美術館のために『門』を設置する。この年、ユネスコ庭園への作品素材に香川県の庵治町(現・高松市)牟礼町で産出される花崗岩の庵治石を使ったことをきっかけに牟礼町にアトリエを構え、「あかり (Akari)」シリーズを発表する。ここを日本での制作本拠とし、アメリカでの本拠・ニューヨークとの往来をしながら作品制作を行う。
1970年には大阪で行われた日本万国博覧会の依頼で噴水作品を設計し、4芸術協会主催によるパーム・ビーチ彫刻競技会にて作品『インテトラ』が2等受賞した。同時期に、東京の最高裁判所の噴水を設計し、設置する。
1984年からロング・アイランド・シティにあるイサム・ノグチ ガーデンミュージアムが一般公開される。同年、コロンビア大学より名誉博士号を授与され、ニューヨーク州知事賞を受賞する。1年後に1986年開催のヴェネツィア・ビエンナーレ(第42回)のアメリカ代表に選出され、同年日本の稲森財団より京都賞思想・芸術部門を受賞、1987年にはロナルド・レーガン大統領からアメリカ国民芸術勲章を受勲する。
1988年に勲三等瑞宝章を受勲し、北海道札幌市のモエレ沼公園の計画に取り組んだ。これは公園全体を一つの彫刻に見立てた「最大」の作品であったが、ノグチはその完成を見ることなく同年12月30日、心不全によりニューヨーク大学病院で84歳の生涯を閉じた。母レオニーの命日に1日だけ先んじ、ノグチもその天命をまっとうした。
1年後にはノグチの遺志を継ぎ、和泉正敏が制作した遺作『タイム・アンド・スペース』が完成し、香川県の新高松空港に設置された。
1999年には制作の本拠地であった高松市牟礼町にイサム・ノグチ庭園美術館が開館した。ノグチがマスタープランを手がけてから16年後の2004年にモエレ沼公園は完成し、翌2005年にグランドオープンした。モエレ山、プレイマウンテン、テトラマウンド、ノグチデザインの遊具のエリア、さくらの森、テニスコートや野球場などを含む188ヘクタールの広大な公園である。
2010年11月20日に松井久子監督によるノグチの母を題材とした日米合作映画『レオニー』が公開された。
2013年8月、宮本亜門原案・演出による舞台『iSAMU~20世紀を生きた芸術家 イサム・ノグチをめぐる3つの物語~』が3年の創作期間を経て上演された。(PARCO劇場ほか)。
- 代表作
- 1970年大阪万国博覧会の噴水
ベンジャミン・フランクリンのためのモニュメント
フィリップ・A・ハート・ プラザの噴水
イェール大学バイネッケ稀覯本・手写本図書館の沈床園
赤い立方体
モエレ沼公園
イヴ・クライン(Yves Klein)
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- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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イヴ・クラインは、単色の作品を制作するモノクロニズムを代表するフランスの画家。アーティストとしての活動は晩年のごく数年である。
クラインは1948年からモノクローム(単色)のみによる絵画作品の制作に取り組み始めた。オレンジや金、ピンク、青などの色を用いて創られたそれらのモノクローム絵画は、作品ごとに画面が平坦か凹凸があるか、明るさによるグラデーションがあるかそのようなグラデーションのない全くの斉一な一色かの違いはあるものの、一作において一色のみを画面全体に塗るという方針では一貫している。もっともクラインのそのような方針はなかなか理解されず、1955年にはオレンジのモノクローム絵画を展覧会に出品しようとして拒否されている。後述のインターナショナル・クライン・ブルーによってもモノクローム絵画の制作は行われた。単色にこだわるクラインの姿勢は、のちの『人体測定』シリーズにおける単色の色使いにも及んでいる。
1957年特に「青」を宇宙の神秘的なエネルギーに通じる最も非物質的で抽象的な色だとして重用し、自ら理想的な顔料を開発した。
黄金よりも高貴な青「インターナショナル・クライン・ブルー」(International Klein Blue, IKB)と呼ばれる深い青色(右の画像は近似色)の特許を取得し、ミラノで『イヴ・クライン-モノクロームの提案、ブルーの時代』のタイトルで行われた個展で、この顔料をキャンバス一面に塗布した青色の絵画の作品群を発表した。また、海綿で作ったレリーフや彫刻にIKBを染みこませ青色にした作品も発表している。
1958年、パリのイリス・クレール画廊において全く何も展示しない『空虚』展を開催し、物議を醸す。IKBで印刷された案内状や、画廊への途中にIKBで塗られた物が置かれるなど、会場までには青色が手がかりとして残されていたが、画廊の中は何もない真っ白であった。
彼は、画廊に来るまでの外側に青色の可視的な物質を拡散させた代わりに、画廊内部では青色は「非物質化」されているとした。不可視化され画廊内部に充満した「見ることのできない青色の空間」と、画廊までの道で青色に浸透してきた観客の心の内側が、この空間で重ね合わせられるだろうと述べている。
展覧会後、観客をカフェに招いたクラインは、ジンにコアントロー、メチレンブルーを加えた真っ青なカクテルを振る舞ったと言われる。こうして彼は青色の絵画を展示し壁面に浮遊させ、青色を海綿に浸透させ、ついには青色を拡散させて充満させたことになる。
- 代表作
- 宇宙進化
人体測定
火の絵画
空気の建築(構想)
エミリー・ジャーシル(Emily Jacir)
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- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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エミリー・ジャーシル(Emily Jacir)は、パレスチナの現代アート作家。ベツレヘム出身。
サウジアラビアで育ち、高校よりイタリアのローマで暮らす。現在はアメリカの市民権を獲得しており、パレスチナのラマッラとニューヨークを往復しながら作品制作を行っている
2007年に第52回ヴェネチア・ビエンナーレに出展した『Material for a Film』は40歳以下の部門の金獅子賞を獲得し、2008年ヒューゴ・ボス賞も受賞した。
- 代表作
- Material for a Film
カール・アンドレ(Carl Andre)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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1935年 、マサチューセッツ州クインシーに生まれる。
1950年代よりコンスタンティン・ブランクーシの彫刻に影響を受け、『ピラミッド』(1959年)など木を組み合わせた立体作品を制作。
1958-59年、フランク・ステラとアトリエを共有し、当時のステラの直線や単色などの最小限に純化された画面構成に影響を受け、作品にとりいれるようになる。
1966年、耐火レンガをつなげて床に1列に置いた『レヴァー(てこ)』を発表。以後ブロックのほか金属、石など、素材を加工しないでそのまま床に広げた作品を発表し、彫刻の形態と配置に新しい可能性を開き、後の美術に影響を与える。アンドレの作品は、常に展示される空間を考慮して、現場で構想されており、展示空間のサイズ、採光などと関連を持った、サイトスペシフィックなインスタレーション作品となっている。前衛的な詩の作品も発表し、ヴェトナム戦争に反対する運動にも積極的にかかわるなど政治的な関心も強い。
1978年には、アート・エージェンシー・トウキョウ(東京・南青山)にて個展を開催、初来日。105枚のアルミニウム板を、入口から右側に1枚、次に左に2枚、次いで再度右に3枚と置いてゆき、14個の形態を作り出す作品『14個のアルミニウム基数第X番』を発表した。
- 代表作
- ピラミッド
レヴァー(てこ)
14個のアルミニウム基数第X番
カラ・ウォーカー(Kara Walker)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
- Kara Walkerは人種、ジェンダー、セクシュアリティ、バイオレンス、アイデンティティなどをテーマに活動を行うアメリカ人コンテンポラリーアーティストであり、画家。代表的な作品として、黒い切り絵のタブローを、部屋全体に展開したインスタレーションが知られている。現在はニューヨークを拠点に活動し、ラトガース大学、大学院美術科の教員を務める。
- 代表作
- Darkytown Rebellion
A Subtlety
カウズ(KAWS)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
- 1974年ニュージャージー生まれ。1990年代初めにグラフィティアーティストとして頭角を現し、その後93年から96年まで School of Visual Artsで学ぶ。×印の目のキャラクターを用いた作品で広く知られ、ユニクロをはじめとする著名ブランドとも数多くコラボレーション。これまでフォートワース現代美術館やユズ美術館(上海)など世界各国で個展、グループ展を開催。
- 代表作
- RESPONSE ABILITY
NYT
ACTIVITY TRAP
キース・ヘリング(Keith Haring)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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ストリートアートの先駆者とも呼べる画家で、1980年代アメリカの代表的芸術家として知られる。シンプルな線と色とで構成された彼の絵は日本でも人気があり、キースの作品をプリントしたTシャツがユニクロやスポルディング等から販売されることもあって広く知られている。
1980年にニューヨークの地下鉄構内で使用されていない広告掲示板に黒い紙を張り、その上にチョークで絵を描くというサブウェイ・ドローイングと呼ばれる活動を始めた。そのシンプルな線でリズミカルに書かれた絵はニューヨークの通勤客の間で評判となり、キースの名が知られるようになった。グレイトフル・デッドのファンであるデッドヘッズであった。
ニューヨークの画商トニー・シャフラジの支持もあって、数回の個展を開催して知名度を上げる。その後、ニューヨークのマンハッタン、シドニー、メルボルン、リオデジャネイロ、アムステルダム、パリなどで壁画を製作するなど公共空間での活動を多く行なった。ベルリンでは、ベルリンの壁の有名なチャーリー検問所の壁に絵を書いている。
ジャン=ミシェル・バスキアやアンディ・ウォーホルとも親交が深かった。
社会貢献活動を多く行ない、AIDS撲滅活動や恵まれない子供たちへの活動で知られている。特にキース自身がHIV感染者だったこともあり、作品を通じてHIV感染を防ぐメッセージを出すなどし、AIDS撲滅活動に積極的に関わった。Act Against AIDS(AAA)の最初のポスターを描いた。
彼の生涯最後の作品は、イタリア・ピサ中央駅そばの教会の壁にかかれた「Tuttomondo」。
1990年2月にエイズによる合併症のため、31歳で死去。
2012年5月4日、キースの生誕54年を記念して、Googleのホームページのロゴが「キース・ヘリング」バージョンとなった。
- 代表作
- Tuttomondo
ラディアント・ベイビー
ギムホンソック(Gimhongsok)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
- ギムホンソック(Gimhongsok)は1964年生まれ。ソウル大学校で彫刻を専攻し、87年の卒業後はドイツ・デュッセルドルフ美術アカデミー大学院で学ぶ。コンセプチュアル・アートの様式に影響されることなく、これまで映像、パフォーマンス、インスタレーション、ペインティング、スカルプチャーなど、数多くの表現手段を大胆に用いて作品を制作。日常的な形状に抽象的な意味合いを吹き込み、変化する経済や文化の体系下で、アートがどのように存在できるのか探究している。
- 代表作
- これはうさぎです
パブリック・ブランク
ギレルモ・カルサディーヤ(Guillermo Calzadilla)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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1995年よりジェニファー・アローラ共同制作開始。サンファン(プエルトリコ)拠点。政治的な衝突や緊張を、徹底的なリサーチと卓越した解釈で映像・彫刻・パフォーマンス化する作品で広く知られる。近年は、宇宙・地球規模の変動と人類学的なテーマを重ね合わせる叙事的な映像作品や、鑑賞者の経験を重視する音楽パフォーマンスが多い。第54回ヴェネツィア・ビエンナーレ(2011)アメリカ合衆国館代表。ドクメンタ13(カッセル、ドイツ、2012)や光州ビエンナーレ(2004、2008、2014)など国際展への参加多数。ニューヨーク近代美術館(2010)、フィラデルフィア美術館(2014-15)などで個展。
- 代表作
- Lifespan
Body in Flight
クレア・タブレ(Claire Tabouret)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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1981年 フランス生まれ
現在はロサンゼルスとパリを拠点に活動している。
パリのエコール・デ・ボザールで学びます。
タブレの作品は、ロサンゼルスカウンティ美術館(LACMA)をはじめとしてピノー、アニエスベーなどの主要なコレクションになっています。また2017年にはオノ・ヨーコとローマのヴィラメディチ、および上海のYuz博物館に展示しました。 彼女は少女や若い女性の被写体を鋭く捉え、その中に彼女自身を投影しています。彼女の被写体は一見エレガントでとても穏やかに見えますが、随所にその闇が見え隠れし、見ている側に違和感を感じさせます。
- 代表作
- Lockdown Self-portraits
Make up シリーズ
The Rain
ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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ドレスデンに生まれる。地元の芸術アカデミーで1951年から1956年まで絵画を学ぶが、東ドイツの共産主義体制に制約を感じ、ベルリンの壁によって東西ドイツの行き来が禁止される寸前の1961年、西ドイツのデュッセルドルフに移住。デュッセルドルフ芸術大学に入学。独自の作風を展開していく。1971年からデュッセルドルフ芸術大学教授を15年以上にわたり務めた。2012年、競売大手サザビーズがロンドンで行った競売で、エリック・クラプトンが所有していたリヒターの抽象画『アプストラクテス・ビルト(809-4)』が約2132万ポンド(約26億9000万円)で落札された。生存する画家の作品としては当時史上最高額。
初期の頃から製作されているフォト・ペインティングは、新聞や雑誌の写真を大きくカンバスに描き写し、画面全体をぼかした手法である。モザイクのように多くの色を並べた「カラー・チャート」、カンバス全体を灰色の絵具で塗りこめた「グレイ・ペインティング」、様々な色を折りこまれた「アブストラクト・ペインティング」、幾枚ものガラスを用いて周囲の風景の映り込む作品など、多様な表現に取り組んでいる。これらの基礎資料であるかのような五千枚以上のドローイングや写真からなる数百を越えるパネルからなる作品として『アトラス』がある。これはアビ・ヴァールブルクの『ムネモシュネ・アトラス』の影響を受けた物である。初期の作品は主として油彩であったが、近年ではエナメルや印刷技術を用いたものが多くなっている。
日本には瀬戸内海のほぼ中央に浮かぶ無人島の豊島(とよしま=愛媛県上島町)「ゲルハルト・リヒター 14枚のガラス/豊島」が展示されている。この作品は、190センチ×180センチの透明な14枚のガラス板が、連続してハの字を描くように少しずつ角度を変えて並ぶ作品。全長約8メートルで、リヒターによるガラスの立体作品としては、最後にして最大のもの。
また、高知県立美術館に「ステイション」が所蔵されている。
- 代表作
- ドクメンタ
Panorama
アプストラクテス・ビルト(809-4)
ゲオルグ・バゼリッツ(Georg Baselitz)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
- ゲオルク・バゼリッツは、因習の打破を常に指向してきた画家だ。初期には、人物や動物の体を切断し、不自然にくっつけた「破損絵画」シリーズを展開。1969年からは、モチーフから自動的に連想される「意味」や「解釈」を拒絶するため、人物や風景の上下を逆転させて描く「さかさま絵画」の手法にたどり着く。取り上げるモチーフは、美術史やロシア社会主義、自身の生い立ちなど実に多様で、近年は彫刻や木版画なども手がけている。美術史に造詣が深く、200点に上るアフリカ彫刻のコレクションでも知られている。メキシコ、パリ、ロンドンなど、世界中で個展が開かれており、2004年にはボンで大規模な回顧展を開催。
- 代表作
- 破損絵画
さかさまの森
画家の家
昨日の写真
サイ・トゥオンブリー(Cy Twombly)
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- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク(美術学生連合)で美術を学ぶ。1951年には、ロバート・ラウシェンバーグのすすめでブラック・マウンテン・カレッジ(英語版)に進み、ロバート・マザウェル(英語版)に師事。同年に、ニューヨークのThe Kootz Galleryで最初の個展を開催している。
1953年には、暗号制作者としてアメリカ陸軍に従軍。この経験は彼のその後の作品に影響を与えたとされる。
1957年からはローマに定住し、イタリアで作品を制作していた。
2011年7月5日、ローマで死去。83歳没。
2015年5月『サイ トゥオンブリー:紙の作品、50年の軌跡』展が、東京・品川の原美術館で開催され、約70作品が展示された。
2015年11月、米ニューヨーク(New York)で 競売大手サザビーズ(Sotheby’s)主催のオークションで7053万ドル(約87億円)の値が付いた。
2016年4月、DIC川村記念美術館にて、サイ・トゥオンブリーの写真-変奏のリリシズム-が開催され絵画3点、彫刻4点、ドローイング4点、版画18点を展示された。
- 代表作
- Untitled
Blackboard
ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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1912年、ワイオミング州コーディに生まれた。1928年、ロサンゼルスのマニュアル・アーツ・ハイスクールに学び、1930年からニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグでも学んだ。ここで当時全盛だったアメリカン・シーン派(地方主義)(英語版)の画家トーマス・ハート・ベントンの指導を受けた。1935年から1942年にかけて、WPA(公共事業促進局)の連邦美術計画の仕事をした。これは、ニューディール政策の一環として、新進の画家に公共建築の壁画や作品設置などを委嘱したもので、マーク・ロスコ、ウィレム・デ・クーニングなど、のちに有名になる若い画家たちが参加した。ポロックも壁画で参加することになり、かねてから尊敬していたメキシコ壁画運動の作家ダビッド・アルファロ・シケイロスらの助手を務めた。巨大な壁という広い空間に、絵筆ならぬスプレーガンやエアブラシで描く現場に衝撃を受けたという。
またこの頃からアルコール依存症が始まり、ユング派の医師による精神分析の治療を受けた。
第二次世界大戦中に戦禍を避けてアメリカに避難していたシュルレアリスト達との交流や、かねてから尊敬していたパブロ・ピカソやジョアン・ミロらの影響により、しだいに無意識的なイメージを重視するスタイルになった。1943年頃から、キャンバスを床に広げ、刷毛やコテで空中から塗料を滴らせる「ドリッピング」や、線を描く「ポーリング」という技法を使いはじめる。はじめは遠慮がちに使っていたが、1947年から全面的に展開する。このころ、批評家のクレメント・グリーンバーグが「いくら称えようとしても称えるための言葉が存在しない」と最大級の賛辞を贈る一方、雑誌や新聞によってからかい半分の取り上げられ方をしている。床に置いて描くことはインディアンの砂絵の影響などによると言われる。
彼は単にキャンバスに絵具を叩きつけているように見えるが、意識的に絵具のたれる位置や量をコントロールしている。「地」と「図」が均質となったその絵画は「オール・オーヴァー」と呼ばれ、他の抽象表現主義の画家たち(ニューマン、ロスコら)とも共通している。批評家のハロルド・ローゼンバーグ(英語版)は絵画は作品というより描画行為の軌跡になっていると評し、デ・クーニングらとともに「アクション・ペインティング」の代表的な画家であるとした。
アメリカを代表する画家と呼ばれるようになったプレッシャーや、アルコール依存症の再発、新たな画境が開けないなどの理由で、1951年ごろから混迷期に入った。黒いエナメル一色の作品を描いたり、具象的な絵を描いたり、色彩豊かな抽象に戻るなどの模索を繰り返した。そして1956年8月11日22時過ぎ、ニューヨーク郊外で若い愛人とその友人を巻き添えに自動車事故を起こし、44歳で死亡した。生き残った同乗者によると、ポロックは酒に酔い、ヒステリックに笑いながら猛スピードで車を飛ばしていた、という。
ポロックの生涯は、『ポロック 2人だけのアトリエ』(2000年)として映画化されている。原作はピュリッツァー賞を受賞した小説で、エド・ハリスが監督、主演、制作を務めた。
- 代表作
- 五尋の深み
緑、黒、黄褐色のコンポジション
収斂
カットアウト
No. 5, 1948
ジョン・ケージ(John Cage)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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カリフォルニア州のロサンゼルスに生まれる。父のジョン・ミルトン・ケージ・シニアは発明家で、母方の叔母と叔父には音楽家がいる。父は1912年に潜水艦を建造して当時の世界記録を更新したが、ガソリン・エンジンだったため兵器には採用されなかった。ケージは家族の転居によって多くの学校に通い、サンタモニカでピアノを習いはじめる。ロサンゼルスのハイスクールを優秀な成績で卒業し、クレアモントのポモナ・カレッジに入学するが、学業に興味を失い渡欧の計画を立てる。
1930年にパリで建築家エルノ・ゴールドフィンガーに建築を学んだのち、マジョルカではじめて作曲を行なうが、当時の作品は現存していない。31年にアメリカに戻り、ピアニストのリチャード・ビューリックに頼み込んで音楽を学ぶ。
のちにヘンリー・カウエルの紹介でアルノルト・シェーンベルクに師事し、1934年から1937年にかけて南カリフォルニア大学のシェーンベルクのクラスで学んだ。音楽の師であるシェーンベルクに弟子入りするとき「一生を音楽に捧げる気があるか」と問われた。ケージは「はい」と答え、シェーンベルクのもとで2年間音楽を学んだ。その後、シェーンベルクはケージに「音楽を書くためには、和声の感覚をもたなければならない」と言った。それを聞いたケージは自分が和声の感覚を全くもっていないことをシェーンベルクに告白した。すると、シェーンベルクは「それは君にとって音楽を続けることの障害になるだろう。ちょうど通り抜けることのできない壁につきあたるようなものだ」と伝えると、ケージは「それなら、私は壁に頭を打ち続けることに一生を捧げます」と答えた。
1933年から、現存する最初の作品を創る。1937年の文章「音楽の未来 クレイド」(『サイレンス』所収)では、電気楽器の可能性、ノイズの重視、実験的音楽センターなどのアイディアを述べている。
初期の作品はシェーンベルクの音楽を継承するかのような、音列処理やリズム処理のある作品が多数を占める。1930年代の『クラリネットのためのソナタ』やピアノのための『メタモルフォーシス』、いまや打楽器のレパートリーである打楽器合奏の為の第1から第3までの『コンストラクション』がこれにあたる。後者ではウォーター・ゴングなどの新しい奏法の発想が芽を出し始めている。
1940年に、グランドピアノの弦に異物(ゴム・木片・ボルトなど)を挟んで音色を打楽器的なものに変化させたプリペアド・ピアノを考案し、『バッカナル』で初めてこの楽器を用いる。このころからアイディアが最優先する発明作品が増え、居間にある全ての物体を叩いて音楽を作る『居間の音楽』、ピアノの蓋を閉めて声楽を伴奏する『18回目の春を迎えた陽気な未亡人』などを作曲した。
1942年にマックス・エルンストの招きでニューヨークに出て画家たちと親交を持ち、1944年、のちに生涯のパートナーとなるマース・カニンガムとの最初のジョイント・リサイタルを行なう。45年からの2年間、コロンビア大学で鈴木大拙に禅を2年間学び、東洋思想への関心も深める。1948年にはノースカロライナ州のブラック・マウンテン・カレッジで教鞭をとり、同じく教師であったバックミンスター・フラーや、生徒のロバート・ラウシェンバーグと交友を持つ。この時期の代表作である『プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード』(1946年 - 1948年)はピエール・ブーレーズから称賛され、彼との手紙のやり取りが始まるものの、後に偶然性の音楽のあり方を巡って両者は決裂した。
1951年、ハーバード大学で無響室を体験する。ケージは無響室に入ったときに体内からの音を聴き、沈黙をつくろうとしてもできないこと、自分が死ぬまで音は鳴り、死後も鳴りつづけるだろうと考えた。この体験は作風に大きな影響を与える。1954年に、ストーニー・ポイントで菌類学の勉強をはじめる。1950年代初頭には中国の易などを用いて、作曲過程に偶然性が関わる「チャンス・オペレーション」を始め、貨幣を投げて音を決めた『易の音楽』(1951年)などを作曲。演奏や聴取の過程に偶然性が関与する不確定性の音楽へと進む。やがて、それまでの西洋音楽の価値観をくつがえす偶然性の音楽を創始し、演奏者が通常の意味での演奏行為を行わない『4分33秒』(1952)などを生み出した。
ケージの作品で最も有名なもののひとつである『4分33秒』は、曲の演奏時間である4分33秒の間、演奏者が全く楽器を弾かず最後まで沈黙を通すものである。それはコンサート会場が一種の権力となっている現状に対しての異議申し立てであると同時に、観客自身が発する音、ホールの内外から聞こえる音などに聴衆の意識を向けさせる意図があったが、単なるふざけた振る舞いとみなす者、逆に画期的な音楽と評する者のあいだに論争を巻き起こした。この時期には、芸術運動のフルクサスとも関わりをもっている。
同じころには、任意の42枚のレコードをテープに録音した『心像風景第5番』も現われた。この他、ラジオを楽器に見立てて構成した『ラジオ・ミュージック』(1958年)、声楽の可能性を大幅に拡張し、ルチアーノ・ベリオの『セクエンツァIII』やディーター・シュネーベルの合唱曲『AMN』に影響を与えた『アリア』、独創的な図形楽譜の集合体である『ピアノとオーケストラのためのコンサート』などがある。
1960年代には、プラスチック板を自由に組み合わせて楽譜を作り演奏する不確定性音楽の『カートリッジ・ミュージック』(1960年)、『0分00秒』(1962年)、チェンバロを録音して変調し更に生のチェンバロと合わせる『HPSCHD』(1969年)などを発表し、著書『サイレンス』を出版した。
1962年には来日公演を果たしている。『0分00秒』の初演は東京の草月ホールでケージ自身により行われた。1963年、ニューヨークにてエリック・サティの『ヴェクサシオン』を上演する。世界で初めてサティの指示どおりに840回の反復を行ない、演奏は18時間にわたった。また、サティの『ソクラテス』から派生したピアノ曲『チープ・イミテーション』(1969年)を作曲している。この作品は『ソクラテス』のリズムだけを残し、音高をチャンス・オペレーションに基づいて新たに作曲したものである。
この頃には日本やヨーロッパからの委嘱が増える。『エチュード・オーストラルズ』(1975年)は南天球の星座図を元に作曲されており、リズム・調性を無視し残響で表現をした。ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』に基づくラジオ劇『ロアラトリオ』は、ケージの集大成的な作品であり、『フィネガンズ・ウェイク』に登場する場所で偶然に録音された音や小説の中で言及されている音、アイルランドの伝統音楽、小説から構成されたメソティクスを朗読するケージの声が重ねられてゆく。80年代のオペラ作品『ユーロペラ』I~Vは、過去のオペラのアリアがチャンス・オペレーションの手法でコラージュされる。
その他、日本との思想的・精神的かかわりが強調された『Haikai・IとII』や『RENGA』、様々な奏者によって演奏される『龍安寺』、史上最長の演奏時間で知られ、ドイツのハルバーシュタットで機械による演奏が続いているオルガン曲『Organ2/ASLSP』(1987)などがあるが、『ASLSP』は「AS SLOW AS POSSIBLE(できるだけ遅く)」の意味であり、ブキャルディの廃教会にて、2000年から2639年にかけて演奏される予定になっているが、全く聴かない方法もあるため、古典的な意味の長大な楽曲とはとらえられない。
晩年は、ナンバー・ピースと呼ばれる題目が数字だけの作品が増える。ナンバー・ピースに属する作品は、タイトルの数字が楽器または演奏者の数(パート譜の数)を示し、その右肩の小数字が、その数のために書かれた何番目の作品なのかを示している。ピアノのための『One』などの独奏曲から、『Seven』や『Eight』などのアンサンブル曲、『101』や『103』、『108』などの巨大編成のオーケストラ曲まで、様々な作品が書かれた。中には、1人のカメラマンのための『One11』(一種の映像作品。この作品は『103』との「同時演奏」が可能。つまり、『103』は映像作品『One11』の一種のライヴ・サウンドトラックである)のような特殊な作品、笙のために書かれた作品もある。
1989年には日本の稲盛財団により京都賞思想・芸術部門を授けられている。京都賞受賞時に「絶対に正装はしない!シャツとジーンズで出る」と言い張り、関係者との間でトラブルになった。このとき、「日本の伝統衣装、たとえば羽織袴なら」というスタッフのアドヴァイスに好意を抱き、羽織袴着用での受賞となった。亡くなる直前に未完のままになっていたヴァイオリンソロのための「フリーマン・エチュード」を完成させ、ピアニストと歌手と演出家のための「ユーロペラ5」を作曲し、そのレコーディングには生前のケージも立ち会って監修していた。
晩年には、チャンス・オペレーションを用いた展覧会「ローリーホーリーオーバー サーカス」を構想していたが、1992年8月12日、脳溢血のためにニューヨークで死去した。79歳没。この展覧会は死後の1993年に実現し、日本では94年から95年にかけて水戸芸術館で開催された。
- 代表作
- 表面
シリーズ
ニュー・リバー・ウォーターカラー
食べられるドローイング
ジャン・フォートリエ(Jean Fautrier)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
-
パリに生まれた。母は未婚であり、苗字は母から受け継いだ。幼少時代は祖母によって育てられ、1908年に祖母が亡くなると、母と共にロンドンに移住した。1912年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツに入学したが、堅苦しい指導に不満を抱き、スレード美術学校に転校した。しかしフォートリエはそこでも同じような失望を経験した。
フォートリエはテート・ギャラリーの作品、とりわけジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの作品に強い影響を受けた。フォートリエ自身の作品は、1922年にサロン・ドートンヌに初めて展示された。その2年後の1924年にはパリで個展を開いた。この頃の作風は「表現主義風」とされる。
1928年には、絵画制作と平行して、ガリマール出版社が企画したダンテ『神曲』の挿絵入り本のために版画を制作したが、結局出版されることはなかった。それから1933年までは絵画と彫刻の制作に時間を費やしていたが、金欠に陥ったため、1934年から1936年の間ティーニュ(英語版)(フランスのリゾート地)で生活し、スキーのインストラクターをしたりジャズクラブを立ち上げたりして生計を立てた。
1937年、フォートリエは創作活動を再開し、1943年には22の彫刻作品を残した。また同年ゲシュタポに捕まり、パリから逃走してシャトネ=マラブリーに避難。避難先で連作『人質』を制作した。この作品は1945年に展示され、サルトルなどから「最も戦後的な画家」という賛辞を受けた。戦後の作品は抽象性を強め、また絵画の大きさも小さくなる傾向にあった。絵の具のかたまりを押しつぶしたような作品は「鉱物のような人間像」「戦争をくぐりぬけて得た非情な人間観」が表現されていると評される。
1964年にシャトネ=マラブリーで死去。1989年には、パリ市立近代美術館で回顧展が開かれた。また2005年には、ピエール・ジアナダ財団が主催した回顧展が、スイスのマルティニーで開かれた。
- 代表作
- Blue Lake II
Flayed Wild Boar
The Trees
Large Nude from the Front
Large Tragic Head
人質
The Key
彼の美しい目
永遠の幸福
シーソーのシステム
ジャン・デュビュッフェ(Jean Dubuffet)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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1901年7月31日、セーヌ=マリティーム県のル・アーヴルに生誕し、ジャン=フィリップ=アルチュール・デュビュッフェと名付けられた。父母の家業はワインの卸売りであった。1908年に、リセ・フランソワ一世校に入学。ジャンの晩年の『駆け足の自伝』によれば7-8際の頃に母と旅行し、そこで田園で女性が風景を描いているのを見て、帰ってから真似て描いたという。ジャンの父は無神論者で、ジャン自身は旧友の影響で聖体礼儀を受けたがまもなく自身の判断で信仰をやめた。16歳には文学に目覚めボードレールの『悪の華』に感動したが社交的な性格でもあり、またル・アーヴル美術学校の夜間課程に通った。翌1918年7月、国際バカロレア第二次試験に合格したがジャンの自由は制限されており、法律を学ぶか父の会社で会計を習うかの選択肢を父に突きつけられ、法律を学ぶということでパリに行くことにした。9月末にパリへ向かい、ジャンは学生街カルティエ・ラタンに部屋を借り、画塾のアカデミー・ジュリアンに通うが伝統的な指導に嫌気がさし、古い芸術感を拒む時代の雰囲気を嗅ぎ取ってはいたが、どういうスタンスをとればいいのかいまいち掴めなかった。1921年には知人を介してアンドレ・マッソンに出会い、そのアトリエは俳優アントナン・アルトーや、民族学者ミシェル・レリス、作家マルセル・ジュアンドーなど才能ある若者のたまり場であった。この時期の作品には「ジョルジュ・ランブールの肖像」などがあり『アヴァンチュール』誌にて発表されたこともあった。
ジャンは1927年にポーレット・ブレと結婚し、1929年に娘が生まれるとジャンは血族とは何らつながりを持たず自らでワイン会社を設立した。事業が軌道に乗ると絵を描きたい衝動が再び影を見せるようになり、1933年にはアトリエ用の部屋を借りた。そうして余暇で絵を描いてきたが1942年には、ジャンはただ絵を描きたいという望みのままに、信頼するリッチェールに会社の経営権を譲った。ジャンの絵はほどなくして注目が得られたが、絵を売りたくないというジャンは画廊の経営者であるルネ・ドルーアンに説得されて、その画廊で1944年10月20日から約1か月「ジャン・デュビュッフェの絵画とデッサン」展が開催され、発表した作品は数日で売却予約が完売した。購入者には小説家のアンドレ・マルローも居た。しかし、異様な個性、不器用で無個性などジャンの芸術を侮辱する反響も大きく、そのためにも注目を集め会期が延長された。
1946年、パリのルネ・ドルーアン画廊で「ミロボリュス・マカダム商会、厚塗り」という奇妙な題名の個展を開く。マカダムとは、道路のアスファルト舗装工法の基礎を築いた人物の名前である。実際、この個展に展示された作品群は、砂、アスファルト、ガラス片などを混入した、まるで道路の表面のような厚塗りの画面に子供の落書きのような筆致で描かれたもので、見る人を困惑させた。この「厚塗り」展は、同じ頃にドゥルーアン画廊で相次いで開かれたフォートリエの「人質(オタージュ)」展(1945年)やヴォルスの個展 (1947年) とともに、第二次大戦後の西洋美術の新たな出発を告げるとともに、アンフォルメルなどの1950年以降の新たな美術の流れの原点に位置するものと言える。
1959年2月、パリ市立近代美術館の館長からポーランドで開くフランス絵画展への招待を受け、イギリスからも招待を受けたが、後者では芸術に勲章を与えるという考え方に反対であり「芸術の本当の使命は壊乱なのです」と断っている。国外のデュビュッフェ展が開かれるようになり、フランスでも、パリ装飾美術館(フランス語版)で1960年12月から約3か月のフランスでは最初で最大の「デュビュッフェ回顧展」が開催され402点の作品が集められた。本来、近代美術館が手掛けてよいものであったが、そのいくつかの出来事を経てジャンとの仲がよくなかったのである。
1967年にはペンを執ることも多かったジャンの文章をまとめた2巻の『案内書とその後の全著作』がガリマール社より発売される。
1981年には近代美術館でデュビュッフェ生誕80年記念「小像のある風景」と「心理=光景」の展覧会が開催され、カタログの序文は「伝統破壊者デュビュッフェ」であった。
1923年には、デュビュッフェはハイデルベルク大学附属病院のプリンツホルンの著書『精神病者の芸術性』を入手しており、フランスとスイスの精神病院を訪ねて作品を探した。そうして、アドルフ・ヴェルフリの遺作、アロイーズ・コルバス、ルイ・ステーに出会った。1945年には、アール・ブリュット(生の芸術)と呼んだ、強迫的幻視者や精神障害者の作品には、精神の深淵の衝動が生のままでむき出しに表出されており、ルネッサンス以降の美しい芸術(Beaux-Arts)に対して反文化的だとみなしていた。
1945年7月には、スイスのベルン近郊の精神病院にある小美術館を訪れ、アドルフ・ヴェルフリやハイリンヒ・アントン・ミュラー(英語版)の作品にも出会い感動し、この頃は作品を写真に納めることを目的としていた。ローザンヌではルイ・ステーの作品に出会い、ジュネーヴでも患者の作品を集めた小美術館を案内してもらい、バーゼルでは刑務所に寄った。旅先から、8月28日付の画家ルネ・オーベルジョノワへの手紙で「アール・ブリュット」という言葉をはじめて記し、旅から帰った9月にはフランス南部のロデーズにある精神病院を訪れ、1945年末には画廊経営者のドルーアンを連れて2度目のスイス探訪を実現し、自らのために独学で作品を生み出す多くの者が存在することをジャンは思い知った。紹介者を通し営利目的もないジャンは好意的に捉えられ、収集の目的はなかったジャンの元には多くの作品が寄贈されコレクションとなっていく。人間の持つ芸術衝動について大勢に知ってもらいたいと思っていたところドルーアンから画廊の地下の提供があり、ここを「生の芸術センター」(フォワイエ・ダール・ブリュット)とし、1947年11月15日に開館した。最初の企画展は、作者も時代も不明の溶岩や玄武岩の彫像であった。精神障害者の芸術が焦点となる以前は、民衆的石像や児童画、民族の仮面や落書きなども並べられたのである。1948年にはセンターを永続的な研究所としようと、コレクションの保管先をユニヴェルシテ通りへ移し、「無償と非営利の団体」であるアール・ブリュット協会を設立した。そうして1951年には100人の作者による1200点のコレクションが出来上がっていた。しかし、資金不足などにより協会は解散する。
デュビュッフェのコレクションは、1967年にパリ装飾美術館にて初めて展示され公的に認知された。ジャンにとってゆかりのある美術館で、4月から6月まで「アール・ブリュット選抜展」が開催されたのである。ジャンは蒐集したコレクションの永続的な管理を引き受ける場所を探しはじめ、スイスのローザンヌ市長と契約を交わし、1976年2月にベルジュール通りにアール・ブリュット・コレクションが開設された。
洗練された芸術に対する「生の芸術」は、芸術的なものとみなされるものの認識を再構築しており、美術界という制度の中で規範に従った美術作品以外のものを含めて美術の種類として理解するということであり、1960年代以降、そうした領域の芸術への関心は広まってきた。
1985年5月12日、パリの自宅で死去した。6月にはパリ市立近代美術館は弔意で27作品を展示し、9月には記念切手が発行された。
日本でのデュビュッフェ展は1978年にフジテレビギャラリーにて、1982年に西武美術館と国立国際美術館にて、1997年に5つの美術館にて開催されている。
- 代表作
- 愉快な夜
ご婦人のからだ
作品
二人の脱走兵
はばたき
ジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
-
ロバート・ラウシェンバーグとともにアメリカにおけるネオダダやポップアートの先駆者として重要な役割を果たした代表的な作家。ダーツの標的、アメリカ50州の地図、数字や文字などを「描いた」作品がよく知られる。
ジョーンズは1930年、ジョージア州オーガスタに生まれた。少年期をサウスカロライナで過ごした後、1949年、ニューヨークに出る。徴兵されて陸軍に入り、1952年に除隊。1954年頃から、国旗、数字、標的などを題材にした絵画を発表し始める。ほぼ同世代の美術家ラウシェンバーグとは、同じビルに入居していた親友だと見られていたが、晩年のインタビューではゲイカップルであったことを示唆している。
ラウシェンバーグの作品がしばしば二次元の枠をはみ出ているのに対し、ジョーンズは標的や地図のようなもともと二次元的な事物を平面に描くことにこだわった。三次元の事物を二次元の平面に再現する「イリュージョン」としての絵画はここでは否定され、絵画自体が「もの」であることが強調され、平面的な「オブジェ」と化しているのである。手法として古代の絵画技法であるエンカウスティーク(エンコスティック)というユニークな技法が用いられその作品に独特のメチエを与えている。
また、ジョーンズはビールの缶をブロンズで本物そっくりに鋳造し彩色した「彫刻」も手掛けている。
- 代表作
- Target with Four Faces
Map
Flag
False Start
Painted Bronze
Three Flags
White Flag
ジャン=ミシェル・バスキア(Jean-Michel Basquiat)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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プエルトリコ系移民の母親とハイチ系移民の父親の間に生まれ、幼い頃から絵を描き、芸術的な活動をするように母親から奨励されていた。17歳の頃から地下鉄、スラム街地区の壁などにスプレーペインティングを始める。活動を続けるうちに高校を中退したバスキアは、Tシャツやポストカードを売りながら生計を立てていた。徐々に彼の描いたスプレーペインティングは評価され、キース・ヘリング、バーバラ・クルーガーの助力でニューヨークで個展を開くようになった。また、絵の中に描かれる王冠は彼のトレードマークとなっている。一時結成していたノイズバンド「GRAY」の名は交通事故のさい母親が病室に持ち込んだ本が由来している。
1983年にはアンディ・ウォーホルと知り合い、作品を共同制作するようにもなる。1987年のウォーホルの死まで2人の互いに刺激しあう関係は続いたが、バスキアは徐々にヘロインなどの薬物依存症に陥り、妄想癖が見られるようになった。そしてウォーホルの死によりさらに孤独を深めると共に、ますますヘロインに溺れていった。
1988年、ヘロインのオーバードースにより27歳で死去。
- 代表作
- 無題(頭蓋骨)
無題(黒人の歴史)
黒人警察官のアイロニー
ジェフ・クーンズ(Jeff Koons)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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ペンシルベニア州ヨークで生まれた。10代の頃はサルバドール・ダリを崇拝し、ニューヨークのセント・レジス・ホテルまでダリに会いに行ったほどだった。シカゴ美術館附属美術大学およびメリーランド・インスティテュート・カレッジ・オブ・アート(en:Maryland Institute College of Art)に進み、絵画を学んだ。卒業後は、ウォールストリートの商品仲買人をやり、1980年代に美術家として認められると、ニューヨークのハウストン通りとブロードウェイの交差点に位置するソーホー・ロフトにファクトリー風のスタジオを持った。そこでは30人のスタッフがクーンズの複数の作品のそれぞれの制作に割り当てられた。これはアンディ・ウォーホルのファクトリーおよび、多くのルネサンス美術家がやったことに似ていた。
クーンズの初期の作品は抽象彫刻の形式を取り、その中で最も知られているものは1985年の『スリー・ボール・50/50・タンク(Three Ball 50/50 Tank)』で、これは半分までホルムアルデヒドを満たしたガラス張りの水槽の中に3つのバスケット・ボールを浮かべたものである。
クーンズは、公的ペルソナ、つまり世間から見たジェフ・クーンズ像を深めるのに、イメージ・コンサルタントを雇った。当時の現代アート作家たちにとっては、聞いたこともないやり方だった。具体的には、主だった国際的な美術誌に作品に囲まれた自分の写真を全面広告として掲載した。紹介記事やインタビューでは自分のことを三人称で語った。
1986年、ウサギのおもちゃを巨大にしたステンレス鋼製の『スタチュアリー(Statuary)』を制作し、それから『バナリティ(Banality)』シリーズを1988年まで続けた。その1つ『マイケル・ジャクソン・アンド・バブルス(Michael Jackson and Bubbles)』(1988年)は、ペットのチンパンジーのバブルスを抱いている歌手マイケル・ジャクソンの、金粉を施した等身大の座像で、世界最大の陶器と公表された。3つ作られた内の一つが、3年後にニューヨークのサザビーズでロット・ナンバー7655として競りにかけられ、約560万ドルで落札された。それはこれまででクーンズの作品についた最高値の3倍の値段だった。
1991年にクーンズは、ハンガリー生まれでイタリアに帰化したポルノ女優で、1987年から1992年まで女優業と国会議員の二足のわらじを履き続けたチチョリーナことシュターッレル・イロナと結婚した。絵画・写真・彫刻から成る『メイド・イン・ヘヴン(Made in Heaven)』シリーズは夫婦のセックスを露骨に描いたもので、それまで以上の論争を引き起こした。1992年に息子ラディックをもうけるが、その直後、結婚は破局した。二人は共同親権に同意するも、シュターッレルは子供を連れてニューヨークからローマに逃げた。1998年、アメリカ合衆国は結婚の解消とクーンズの単独親権を認めるが、母子はそのままローマで暮らしている。このことについて、クーンズはこう語っている。「まったく、あの経験は僕に社会への責任を意識させてくれた。僕は人情を解する気持ちを失っていたんだ。今、僕は、もっともっと、コミュニケーティングとシェアリングの行為に責任を感じていて、美術家としてできるだけ寛大であろうと努めている」。なお2008年になって、シュターッレルは養育費未払いでクーンズを告訴した。
この時期、1992年にクーンズはドイツのバート・アーロルゼン(en:Bad Arolsen)での展覧会のための作品制作を委嘱された。そして生まれたのが、高さ12.4mの、鉄の骨組みに種々の花々を植え込み、それを子犬(パピー)のウエスト・ハイランド・ホワイト・テリアの形に刈り込んだトピアリー彫刻『パピー(Puppy)』である。1995年に彫刻はいったん解体され、シドニーのポート・ジャクソン湾の現代美術館に、より長持ちするようステンレス鋼製の骨組みと内部に灌漑システムを備えたものとして再建された。1997年にはソロモン・R・グッゲンハイム財団が購入し、スペインのビルバオ・グッゲンハイム美術館のテラスに移された。その除幕式の前、庭師に変装した3人組が彫刻の近くに爆薬を仕掛けた植木鉢を置こうとしたが、ビルバオ警察によって未遂に終わった。以降、『パピー』はビルバオ市の象徴となった。2000年の夏にはニューヨークのロックフェラー・センターで展示された。メディア界の大立て者ピーター・M・ブラント(en:Peter M. Brant)とその妻でスーパーモデルのステファニー・シーモアは、コネチカット州にある別荘に『パピー』の精密な複製を所有している。
2001年、クーンズは『イージーファン=イーサリアル(Easyfun-Ethereal)』という絵画のシリーズに専念した。。
2007年11月14日、サザビーズのオークションで、クーンズの『ハンギング・ハート(Hanging Heart)』が2360万ドルで競り落とされた。これは存命の美術家の作品につけられた最高額だった。競り落としたのはガゴーシアン・ギャラリー(en:Gagosian Gallery)で、前日(11月13日)のクリスティーズのオークションでも、クーンズの彫刻『ダイアモンド(ブルー)(Diamond (Blue))』を1180万ドルで購入していた。
- 代表作
- ラビット
バルーンドッグ
マイケル・ジャクソンとバブルス
パピー
ジェームズ・タレル(James Turrell)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ。1965年にポモナカレッジで知覚心理学(ガンツフェルドの研究を含む)で学士号を取得、同校で数学、地質学、天文学を学び、カリフォルニア大学アーバイン校大学院で芸術の研究を行った後、1973年にクレアモント大学院大学で芸術修士号を取得した[1]。
1960年代後半から作品の発表を続け、世界中の美術館での個展を多数行っている。日本では1995年に水戸市の水戸芸術館での個展を皮切りとし、1998年には埼玉県立近代美術館・世田谷美術館他で巡廻展が行われた。
飛行機の免許も持っており、高空の青い光など、その飛行体験からも作品のインスピレーションを得ている。
作品は、たとえば暗い壁に光を投射して、触れそうで重さもありそうな「光のかたまり」が壁から飛び出ているように見せたり、天井が開いた部屋で空の光の色が時々刻々と変わっていくさまを見せ、それに補色の光を加えて空の色を濃くしたり変えたり、また真っ暗闇の部屋の中に観客を入れて、暗さに慣れてきた頃に光のスクリーンが見えはじめる、といったものがある。
彼の作品は、屋内に設置され、プロジェクターなど人工の光や、天井などからの自然光を使った作品
『ソフト・セル』や『ガスワークス』など、人間一人が入り、感覚を遮断したり操作したりする作品
光を感じることのできる場所作り(『ローデン・クレーター』)に大別できる。彼は光と知覚をコントロールしてそれを完璧に体験するために、インスタレーション方法や展示空間にも細心の注意を払ってきた。多くの場合は、展示場所に合わせて作品を新しく制作したり形を変えたりする。また、光を発生させたり個人体験型の巨大機械を作るなどしているが、技術の使用を強く打ち出すテクノロジー・アートやメディア・アートには分類できない。彼の場合、使用する機械や技術はあまり高度でなくても、知覚に対して最大の効果をあげることができるからである。
近年では、美術館に作品を恒久展示することが増えてきた。ニューヨーク市のP.S.1コンテンポラリー・アート・センター(現在はニューヨーク近代美術館の一部として運営されている)に1986年に作品を恒久設置したのを皮切りに、ドイツやイスラエルなどの美術館に、空を見るための天井が開いた部屋などの作品が据え付けられている。日本でも、新潟、金沢、香川、熊本など彼の作品を常に体験できる場所が増えた。
- 代表作
- Outside In
Light Bath
Blue Planet Sky
ガスワークス
アフラム、ペール・ブルー
ジェニファー・アローラ(Jennifer Allora)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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1995年よりギレルモ・カルサディーヤ(Guillermo Calzadilla)と共同制作開始。サンファン(プエルトリコ)拠点。政治的な衝突や緊張を、徹底的なリサーチと卓越した解釈で映像・彫刻・パフォーマンス化する作品で広く知られる。近年は、宇宙・地球規模の変動と人類学的なテーマを重ね合わせる叙事的な映像作品や、鑑賞者の経験を重視する音楽パフォーマンスが多い。第54回ヴェネツィア・ビエンナーレ(2011)アメリカ合衆国館代表。ドクメンタ13(カッセル、ドイツ、2012)や光州ビエンナーレ(2004、2008、2014)など国際展への参加多数。ニューヨーク近代美術館(2010)、フィラデルフィア美術館(2014-15)などで個展。
- 代表作
- Lifespan
Body in Flight
ジョナサン・チャプリン(Jonathan Chaplin)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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チャプリンは1987年生まれ。名門ロードアイランド・スクール・オブ・デザインを卒業。2018年にニューヨークのギャラリーHOLEでの初個展「Material Memory」で一躍脚光を浴び、デジタルテクノロジーを駆使した新世代のアーティストのひとり.
チャプリンは、自身の絵画に必要なあらゆる物理的な要素を、あらかじめ3Dプログラムを駆使したコンピュータ上でシミュレートするという手法を用いて作品を制作。スケッチを基礎とする絵画の伝統を否定しているように見えるが、チャプリンはセザンヌやピカソ、レジェ、マティスといったアーティストの作品を研究対象とし、自身の特徴的なスタイルで再解釈した作品を多く描いている。
- 代表作
- Performance
ジュリアン・オピー(Julian Opie)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
-
オピーは当初、鋼鉄の形状とゆるく描いた塗装の絵をユーモラスに組み合わせた金属彫刻のシリーズを制作し、1980年代イギリスのアートシーンで影響力のある人物として登場した。
彼の作品の特徴は、人物や風景を単純化することである。平面作品において、人物は黒く太い線で縁取られ、クローズアップした人物の顔では、目は小さな黒い点で表現される。風景においても、木々や山々の形状は単純化され、色彩もコントラストのはっきりとした配色がなされている。
評論や紹介文などでは、黒の線画と最小限のディテールでレンダリングされた人々のポートレートや人体の歩行アニメーションがこの作家の特徴的な作品群である、とされ、 作品テーマについては、「美術史との係合、新技術の利用、人体への執着」そして「一つのアイディアをさまざまな媒体(素材)上に展開する」と描写されている。
オピーが描く人々のほとんどが、様々な職業に就く一般の人々である。みな点と線だけの顔だが、とても個性が光っている。水戸芸術館現代美術センター学芸員の高橋瑞木は「人間の眉、鼻の穴、口、顔の輪郭、そして髪型と最小限の要素で持って、個性を描き分け、まさに究極の『省略の美』といえる」と語る。
また彼自身は作品へのアプローチについて尋ねられ次のように語っている。 「まず、写実的に作ろうとすることが公平に確信できる(と感じられる)ひとつの判定基準です。あとは、その作品を自分の部屋に欲しいか?それとたまに自問するのは、もし神が、自分の作品をひとつ提出するのを許可したら(制作中の作品が)それに値するか?」。
制作方法も独特でモデルをアトリエに招き入れると、なるべく表情をつけずにポーズや目線、顔の角度を変えながら、写真を撮る。その数は一人当たり、数千枚である。次に特徴が出ていると思える写真を何枚かコンピューターに取り込み、顔のパーツを正確にトレースする。その後、眉や口の形、目鼻の位置関係、顔の角度など個性を現す最も効果的な部分を残し、徹底的に簡略化する。このようにして出来上がった作品はシンプルだが、とてもポップなものとなる。モデルの個性が凝縮されたオピーにしか描くことのできない唯一無二の顔となる。また近年では、人物の全身を側面から表現した作品が多く、はっきりとした輪郭線と透明感のある平明な色彩による表現は以前のままながら、顔はただ丸く描かれ、単純化、簡略化の傾向を強めている。
活動の場は美術界のみに留まらず、イギリスのバンド、ブラーのベスト盤『ザ・ベスト・オブ』のジャケットデザインなども手掛けている。
また、浮世絵のコレクターとしても知られており、喜多川歌麿や歌川広重らの作品を所蔵し、浮世絵展のためキュレーターとして広重作品を選定したり、葛飾北斎に影響を受けた作品を制作している。
- 代表作
- Walking in London
Towers 1
3 stone sheep
ジデカ・アクーニーリ・クロスビー(Njideka Akunyili Crosby)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
- 非凡な才能を持つコラージュ作家ジデカ・アクーニーリ・クロスビーは、家の中を背景にしたポートレイトを通して、現代的異文化社会の1コマを肉感的に描き出す。何層にもなった絵の中の人物を間近で見ると、その作品は彼女の幼少期に頃にナイジェリアで撮影された写真が混ざり合ったものであることがわかる。
- 代表作
- Her Widening Gyre
ジョセフ・コスース(Joseph Kosuth)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
-
1965年から1967年にかけて、ニューヨークのスクール オブ ヴィジュアル アートに学び、同時期ウィトゲンシュタインの哲学に影響を受けた。
在学中に言葉をメインとする作品の制作を開始。はじめは辞書や類義語辞典に記された定義を扱っていたが、のちに文学、哲学、精神分析のテキストにおける意味の問題へと関心を広げた。 1970年から数年間、イギリスの「アート・アンド・ランゲージ」グループに参加した。
コスースの最も有名な作品は、「椅子、その椅子の写真、辞書の「椅子」の項目を拡大したもの」の3つを一緒に展示する『1つおよび3つの椅子』(en:One_and_Three_Chairs)(1965年)である。3つの椅子を提示していると同時に、プラトン的なイデア(視覚化できないもの)としての1つの椅子を表現しようとしている。
1969年、有名なエッセイ『哲学以後の芸術』を発表した(「ステュディオ・インターナショナル」誌)。そのなかで彼は次のように述べた。
二十世紀は、「哲学の終焉、そして芸術の始まり」と呼んでも良いような時代をもたらした。
芸術の機能をひとつの問いとして最初に提出したのはマルセル・デュシャンである。(中略)「別の語法で語り」、なおかつ意味のある芸術を提出することが可能だという認識を与えるに至った事件は、マルセル・デュシャンの最初の自立させた「レディ・メイド」だった。この自立させた「レディ・メイド」を機に、芸術はその焦点を言語の形態から語られている内容へと移行させた。(中略)この変化──「外観」から「概念」への変化──は「現代」美術の幕開き、そして「概念」芸術の始まりだった。
デュシャン以降の個々の芸術家の「価値」は、彼らが芸術の本質をどの程度問うたかによって量ることができる。言い換えると、「彼らが芸術の概念に何を加えたか」、あるいは彼らが登場する前に何がなかったのかということである。
豊田市美術館にパブリックコレクションがある。ファーレ立川には、石牟礼道子の『椿の海の記』(1977年)とジェームズ・ジョイスの『若い芸術家の肖像』の一節を刻み込んだ『呪文、ノエマのために』(1995年)がある。
- 代表作
- 1つおよび3つの椅子
FIVE WORDS IN FIVE COLORS
ジャン=ピエール・カシニョール(Jean-Pierre Cassigneul)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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カシニョールの幼少期、身近にあったものは、まず彼の父親が経営していた高級仕立服を扱う洋裁店のモデルの女性たちであり、そのファションショーやクリスマスなどは彼にとってはお洒落に着飾った女の子たちと過ごすパーティを意味していた。
そして父方の祖母の住まいがあったドーヴィル地方の豊かな自然と環境が彼を育んだ。
1948年、カシニョール13歳の夏、ドーヴィルの海岸で「砂の芸術」コンクールに参加して一等賞となり、それを報道する新聞に「審査員は、驚くべき芸術的感覚を備えたこの少年に万場一致で一等賞をあたえることに決めた」との記事が掲載された。
後にカシニョールはこの時のエピソードを、幾度となくモデルとなり画家の良き理解者となる日本の女優、黒柳徹子に話して、「一等賞といっても子供だから」と言ったので、黒柳が「何を作ったの」と聞くと、笑いながら「女の人!」と答えたという。
パリの版画技師シャルル・ソルリエは「当時の少年は中世の城を作るのが普通であったが、カシニョールの場合、その年齢ですでに女性を芸術の対象としていた」と述べており、「砂浜に横たわる女」を13歳の少年が砂で作るという「この思いもよらぬ発想こそ、もうそこにはカシニョールは自分の進む道を見つけていたのだ」とソルリエは評しているが、カシニョール本人は「当時は絵は描いていなかったが、大した確信は持っていなかった。」とソルリエに語っている。
その後、カシニョールはパリ美術学校に5年間学び、1959年にサロン・ドートンヌ会員に選ばれたが、1960年徴兵猶予の期限が切れて2年間兵役を務めた。
ドイツ、アルジェリアと過ごしてフランスに戻ったが、両親の経済状況にはあまり変化はなく、この時期からカシニョールは意欲的に絵画に専念しだして、後に代名詞となる大きな帽子をかぶった女性を主題とする絵を描き始めたとされる。
1963年、カシニョールは初めて、若い画家サロンに出品したのを皮切りに、画家としての道を歩み始めるが、その頃はまだ懸け出しの画家にすぎなかった。
1964年にはパリのレヌアール通りにアトリエを構えていたが、そんなカシニョールのもとへ、日本の画商、爲永清司が訪れて、短い時間だけの思量で、そこで紹介された絵の大部分の購入を決めた。
その後のパリにおいて、カシニョールは画廊オーナーの経済的不況などに遭遇したが、カシニョールの絵は、フランスの印象を好む日本の美術愛好家の好評を得るようになり、爲永はそのニーズに応えるようにカシニョールの絵の購入を続けていた。
1965年、カシニョールは版画、リトグラフの第一号「後ろ姿」の制作を行う。これはわずかに3枚のみが刷られた。
リトグラフという表現方法に出会ったカシニョールはかなりの時間をかけてその研究を行い、1967年に6種類のリトグラフをパリ、デジョベール工房にて制作、発表する。
この1967年が事実上、カシニョールがリトグラフ制作を始めた年である。
リトグラフは版画である性質上、通常は60枚から250枚程度が刷られるため、その分、1点限りの油絵より廉価となり、資力のある美術愛好家の範囲を超えて、様々な多くの人々にカシニョールの作品を届けることが可能となった。
また、カシニョールの才能を確信していた日本の画商、爲永清司の画廊は、すでにこの1967年にカシニョールにリトグラフを依頼しており、カシニョールの版画レゾネに序文を寄稿しているシャルル・ザルベールは、そしてこれ以降、「カシニョールのリトグラフは鋭い鑑識眼と知性を備えた日本の美術愛好家を魅了して成功を収め行ったのだ」と評している。
そして、パリの版画技師シャルル・ソルリエが専門誌に寄稿した記事の中で「奇妙なこと」と述べているように、パリで生まれたフランスの画家、カシニョールはこのような経緯を皮切りに、「真っ先に日本で大きく受け入れられてから、アメリカを経由してフランスへと、その存在を知らしめることになり、現代絵画史におけるしかるべき場所にこの画家を位置づけるようになった」とソルリエは結論している。
1988年、講談社より主に日本国内向けに発行された画集の冒頭の序文において、カシニョールは「わたしにとって何より優先するのは喜びであり、絵とはまさしく喜びの源である」と述べている。
美術評論家の多摩美術大学客員教授、武田厚はカシニョール作品について、そこに「描かれた内容はいつの場合も身近にあるような公園、花々、海などがエレガントな女性と組み合わされ、今日の風俗画のような類のもののように見えてはいるが、そうとは呼べない夢のような世界を醸し出しており、それが人々をおしなべて慈悲と幸福の感情に浸らせるようなところがある」と評している。
日本の美術評論家、植村鷹千代はカシニョール芸術を「芸術的イメージによる以外には実現できない非現実的イメージを独自の優れた感性と洗練された技術によって絵画的現実に入念に仕上げられ、そこに現代人の感覚がもとめる女性美像の理想像が情熱を込めて絵画化されている。」と評している。
シャルル・ソルリエは専門誌に寄稿している記事の中で、カシニョール作品に登場する女性を「古き時代の、女性が男性とは違う人生を歩んでいた今とは違う別次元にタイムスリップするようで、そのような世界では女性は聖なるものであり、望むものであり、苦しめるものであり、悪でもある、そして自らがそれを知っていて交わる人々を魅惑するのだ」と述べており、そして「ああ、そんな時代もあったのだなぁ、というような思いにふける人のみが、そんな昔のことを夢見ることができるのだろうが、恐らくカシニョールもそのような一人で、我々は彼の絵によって女性の美に改めて気づかされ魅せられるのだ」とソルリエは評している。
また、カシニョールの画集、リトグラフと版画Ⅰの巻頭にメッセージを寄せているロジェ・パスロンは「カシニョールにとって芸術の最も美しい動機、それが女性だった」と述べている。
また1993年4月30日に第1刷が発行された講談社のカシニョール画集(文:ジャック・ベルジェ)の書籍タイトルは「魅せられた夢」となっており、カシニョールが描く世界が掲載されるこの画集には、この副題が採用されている。
しかし、カシニョール本人はテーマとしている女性などの画題は実はそれほど重要ではないと自身の画集の序文で述べている。それは、もし他にも大切なことがあるとするならば、例えばある有名な絵があるとして、それを説明するために、「果物の砂糖煮の盛り皿と、林檎3個がテーブルにのっているところを描いた絵」があるとはいわず、ここに「セザンヌが一点ある」というだけで十分に伝わると説く。
カシニョールのリトグラフの中に日本の屏風の形となっている4枚が連続した特別に大きいリトグラフが存在する。(リトグラフと銅版画Ⅱ 136~137ページの図版) 。その3枚目にこの絵のメインとなる女性が絵が描かれており、この作品を例に、先述したロジェ・パスロンはその画集Ⅰの巻頭メッセージにおいて、この女性像を、「スマートな容姿に、しとやかな気品が漂い、神々しくもあって、この世のものではないだろうとさえ思う。しかし全体を良く見ると、誰しもが知っているであろう風景の中にその女性はいて、間違いなく現実の女性であることが判明する。だが、このような女性の姿はカシニョール作品以外の、どのような芸術作品の中にも近代史上、存在していない。」と評している。
女優、黒柳徹子はカシニョールの画集に届けた「カシニョールさんのこと」と題したメッセージにおいて、「多くの画家が活躍している中にあって、どんなに多くの絵があろうとも、その中にカシニョールの絵があれば、それは専門家でなくともすぐに見つけ出すことが出来る。これは本当に素敵なことだが、このような独自の画風を生み出すために、カシニョールさんは大変な苦労をされたことが想像できる」と評している。
- 代表作
- 後ろ姿
カサブランカ
ティータイム
緑のブレスレッド
スボード・グプタ(Subodh Gupta)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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スボード・グプタ(Subodh Gupta)は、インドの現代アート作家。ビハール州パトナ出身。
1989年パトナ芸術工芸大学卒業。1990年からニューデリー在住で作品制作を行っている。
1999年福岡アジア美術トリエンナーレ、2000年光州ビエンナーレなどの国際展に出品している。
- 代表作
- 弾丸
オーケー・ミリ
ソフィ・カル(Sophie Calle)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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1953年、フランスのパリに生まれる。
1979年、7年間の世界各地の放浪の末、パリに戻る。
1988年、自身の記憶や感情を扱った「自叙伝」シリーズの制作を開始。
1998年、ポール・オースターの小説「リヴァイアサン」をもとにした作品「ダブルゲーム」を発表。
2000年、ドイツ各地を巡回する「ソフィ・カルの真実」展を開催。
2007年、ヴェネツィア・ビエンナーレのフランス代表となる。
2009年、ホワイトチャペル・アート・ギャラリーで大型個展。
2010年、ルイジアナ近代美術館で大型個展。
代表作に、ヴェネツィア・ビエンナーレに出品した「ご自愛ください」シリーズがある。この作品は恋人からの別れのメールを他者に分析させるプロジェクトで、彼女の作品には自身や第三者の個人史や私生活を対象としつつも単なる事実の集積として提示するのではなく、日常あるいは特定の人物を少し変わった視点から捉え、ある場所に残された誰かの所持品・風景などを強調することで、存在やその歩んできた歴史が確かなものだという前提に揺さぶりをかけるものである
- 代表作
- 自叙伝シリーズ
ご自愛くださいシリーズ
ダニエル・アーシャム(Daniel Arsham)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
- アメリカ・オハイオ州生まれのダニエルは、“フィクションとしての考古学(Fictional Archeology)”をコンセプトに彫刻作品からペインティング、インスタレーション、映像作品まで手掛ける38歳のアーティスト。生まれながらに色覚異常(色盲)を持つことから、作品の多くが白と黒を基調とし、素材に石灰や火山灰、ガラス、黒曜石を使用するなど、デカダンな作風で知られる。しかし、近年では色覚補正メガネをはじめとした医療の発達とスタジオチームの手助けもあり、フルカラーの作品も発表。「パブリックスクール(PUBLIC SCHOOL)」のランウエイセットを手掛け、「アディダス オリジナルス(ADIDAS ORIGINALS)」とコラボレーションしたスニーカーを発表するなど、ファッションブランドやデザイナーとも関係が深い。
- 代表作
- Hiding Sitting Figure
Glacial Rock Eroded Leica III Camera
Untitled_holding hands(paint)
ダミアン・ハースト(Damien Hirst)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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ハーストはイングランド西部のブリストルで生まれ、北部の都市リーズで育った。ハーストが12歳の時に父親が家を出てしまい、その後万引きで逮捕されるなど荒れた生活を送るしかしリーズのLeeds College of Artに入学して学ぶ機会を得る。その後ロンドンの建築現場で2年間働いた後、更に1986年から1989年までロンドン大学のゴールドスミス・カレッジでも学んでいる。在学中の1988年、荒廃したビルを会場に、学生たちによる自主企画展覧会"Freeze"を主催し、その際にイギリスの大手広告代理店サーチ・アンド・サーチの社長チャールズ・サーチ(美術コレクターとして有名で、後のサーチ・ギャラリーのオーナー)に、共同出品していた学生たちと共に見出された。
1991年に初の個展を開く。そのときまでには、巨大なガラスケースや死んだ動物、薬品瓶などを作品に使用して生や死を省察するスタイルは確立されていた。同時に、白いキャンバスにカラフルな色の斑点を規則的に配する"スポット・ペインティング"も描いている。この"スポット"は、覚醒剤の錠剤の暗示であると言われている。
輪切りや腐敗状態で放置された動物を扱う作品は、不可避である生や死を考える意図があったが、残酷さへの批判や芸術品には見えないなどという多くの非難も呼んだ。イギリス国中にその悪名がとどろくようになったハーストは、1993年イギリス代表として国際美術展覧会ヴェネツィア・ビエンナーレに出展、縦に真っ二つに切断された牛と子牛をホルマリン漬けにした作品"Mother and Child, Divided"を出した。この作品で1995年にはターナー賞を受賞している。
2000年代までにはイギリスでも最重要の芸術家とみなされるようになり、オークションや新作の販売価格は、現存する美術家の中でも最も高価な内の一人に入っている。
- 代表作
- In and Out of Love
The Physical Impossibility of Death in the Mind of Someone Living
Pharmacy
A Thousand Years
Away from the Flock
Arachidic Acid
Hymn
Mother and Child Divided。
Two Fucking and Two Watching
The Stations of the Cross
The Virgin Mother
チャック・クローズ(Chuck Close)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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1940年、ワシントン生まれ。アメリカの画家、写真家。写真のように絵を描くphotorealist(ハイパーリアリズム)、とくに巨大なポートレートで有名になった。1988年に脊椎動脈損傷により麻痺を引き起こしたが、特殊な器具により、筆を腕に結びつけ、ニューヨークのロングアイランドで制作を続けている。現在も車椅子生活を余儀なくされている。
5歳で父親にイーゼルを買ってもらい、絵を描き始める。11歳のときに父親を亡くし、その年にシアトルの美術館でジャクソン・ポロックの絵に出会う。「こんなもの芸術であるはずがない」と激怒するも、数日後にはポロックのように自分の絵に絵の具をたらしていた。その後、本格的に絵を学び、ワシントン大学とイエール大学で学位を取得。
クローズがポートレートを描くのは、彼が相貌失認証(人の顔を認識出来ない。ブラッド・ピットも確か同じ症状を抱えているはず)だからである。ポートレートの作成は、彼の顔の認識と記憶に役立つという必要に迫られた側面もあった。
クローズは1970年代に筆を封印した。「何かをしない、という選択は、何かをするという選択より結果的に面白い。それまでしてきたことを封印することは、あなたを新たな方向へと後押しすることになるだろう」と述べている。
この言葉通り、彼は、絵画のあらゆる可能性を模索した。とくにエアーブラシの技術はのちのインクジェットプリンター開発のヒントとなったことが知られている。
- 代表作
- Big Nude
Nancy
Big self-protrait
Phil
Leslie 1972
Mark
Georgia
Fanny/Fingerprinting
Lucus II
Self-Portrait
Arne
President Bill Clinton
Lorna 2006
Cindy 2006
Shirley 2007
Susan
Nat
Phil
デビッド・チョー(David Choe)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
- デビッド・チョー(David Choe)は1976年、ロサンゼルス生まれ。現在活躍中のもっとも多様性に富んだアーティストの一人であり、MOCA(ロサンゼルス現代美術館)で個展を開催したもっとも若いアーティストである。あらゆる場所に(キャンパスや人体、見知らぬ国の壁など)、あらゆる形で(美術やポスター、壁画、玩具、絵本など)表現ができる彼の作品は数々の賞を獲得したが、世界中をヒッチハイクで旅した経験が、彼の作品の世界と物語をさらに深く広げ続けている。
- 代表作
- SHIBUYA GIRL
LIQUID SKULL
TOKYO GIRL
デイヴィッド・ホックニー(David Hockney)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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1937年、イギリスのブラッドフォードに生まれ、ブラッドフォード・カレッジ・オブ・アート(Bradford College of Art)に学んでいる。その後学んだロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アート在学中にイギリスのポップ・アートシーンの立役者ピーター・ブレイク(英語版)と共に「若手現代芸術家展(Young Comtemporaries)」に出展した。その後ポップ・アート運動に参加するものの、初期の作品はフランシス・ベーコンの作品に似た表現主義傾向を残すものであった。
1963年からはホックニーは画商ジョン・カスミン(英語版)を通じて作品を発表するようになる。1963年にニューヨークを訪れ、アンディ・ウォーホールと出会う。その後1964年アメリカ合衆国カリフォルニア州を訪れ、その後そのまま長期間住むこととなるロサンゼルスで、当時まだ比較的新しい画材であったアクリル素材でプールを描いた作品群を制作することになった。1967年にはリヴァプールのウォーカー・アート・ギャラリーで開催される「ジョン・ムーアズ・リヴァプール」展で絵画賞(John Moores Painting Prize)受賞。
以後もロサンゼルスを拠点に制作を続けている。彼はカリフォルニア定住以前にも以後にもしばしば世界中を旅行し、ロンドン、ニューヨーク、エジプト、中国にも長期滞在したことがある。
作品は、アメリカ西海岸の明るい陽光を感じさせる華やかな色調で、室内風景、プールのある邸宅、人物などを描いたものが多い。母国での人気の理由の一つとして、英国人の多くが持っている米国へのあこがれと、英国をめでる気持ちの双方が作品に反映されていることがあるとの指摘もある[1]。油彩のほかクレヨン画や、数十枚のスナップ写真を貼り合わせたフォト・コラージュの作品にも優れたものがある。また、スカラ座やメトロポリタン歌劇場などのための舞台芸術も多く手がけている。
イギリスの勲章のコンパニオンズ・オブ・オーナー勲章(Order of the Companions of Honour)やメリット勲章を受章。
- 代表作
- We Two Boys Together Clinging
Peter Getting Out Of Nick's Pool
Beverly Hills Housewife
The Splash
A Bigger Splash
Mexican Hotel, Acatlan
Views of Hotel Well I
大きな室内、ロサンゼルス
A Bigger Grand Canyon
Fax Drawings
BMW Art Car,BMW 850CSI
デイヴィッド・チューダー(David Tudor)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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フィラデルフィア出身。10代で教会のオルガニストを務めた後、イルマ・ウォルペにピアノを、ステファン・ウォルペに作曲を師事する。1947年にニューヨークへ移った後、ピエール・ブーレーズの「ピアノソナタ第2番」の米国初演などを通じジョン・ケージと出会う。ケージが作曲した「4分33秒」を1952年8月にニューヨーク州ウッドストックにて初演した。1950年代を通じて、ウォルペの下で知り合ったモートン・フェルドマン、クリスチャン・ウォルフなど、ニューヨーク・スクールの作曲家たち、カールハインツ・シュトックハウゼンなど前衛作曲家の作品を多数初演した(そのほとんどはチューダーに捧げられたピアノ作品だった)。カイル・ガンは「ニューヨークスクールの第5メンバー」として捉えているほどである。その卓越したピアノ演奏技術(エスケープメントの完璧なコントロールを軸にした)、および図形楽譜の精密かつ創造的な読解能力により、多くの作曲家から単なるピアニストではなく「デーヴィッド・チューダー」という「楽器」として見なされるようになり、そのため彼を想定して書かれた音楽は、ピアノの可能性を拡張するばかりではなく、戦後の実験・前衛音楽の方向性を決定づけたといっても過言ではない。最も有名なものに、1958年にシルヴァーノ・ブッソッティによって書かれた「デイヴィッド・チューダーのための5つのピアノ曲」がある。この題名に関してブソッティは、「チューダー」の名は献呈ではなく楽器の指定であると主張、それに対してチューダーは作品へのアプローチを「ロボティクス」であると捉え、手袋を付けたり、ピアノの鍵盤を押さずに表面をタッピングしたりなどと、自分の身体とピアノとの関係性を改変させる新たな演奏方法を編み出すことで応えた。このアプローチについてチューダーはアントナン・アルトーの影響を受けたと後に語っている。
また同時期より、ボー・ニルソンの「クヴァンティテーテン」に指示されていたピアノのアンプリフィケーションをきっかけとし、楽器にエレクトロニクスを組み込むことをはじめた。アンプリフィケーションによって、それまで自身が開拓してきた(エスケープメント・コントロールによる)ピアノにおける音の持続時間の精確なコントロールは無効になったが、それをむしろ歓迎するかのように、エレクトロニクス特有の音世界を追求するようになる。こうした、ひとたび極めた技術を、別の方法論やテクノロジーの導入によってみずから打ち壊すという作業をチューダーは晩年までくりかえした。とくに、持続時間をはじめとするパラメーターの正確なコントロールが困難なフィードバック現象に関心を持ち、ケージの「ヴァリエーションズII」や「フォンタナ・ミックス」のリアライゼーションなどを通じてピアノを、フィードバックを発動させる装置として捉え直す作業に取り組んだ。1960年頃からケージが主張しはじめる「パラメーター計測の放棄」や、「オブジェクトからプロセスへの移行」にしても、このようなチューダー独自の探求に多分に影響されたものである(とはいえ、チューダーの取り組みはつねに具体的な「楽器」というオブジェクトを軸にするため、ケージのような「オブジェクトかプロセスか」という単純な二項対立に陥ることはなかった)。またチューダーがこの時期より展開した、個別のリアライゼーションのために新しい「楽器」を構築するという、従来の「作曲」・「演奏」の区分を大きくはみだす取り組みに対してケージは「サウンド・システム」の名を与え、60年代半ばになると「作曲とはサウンド・システムの構築である」と主張するようになる。とはいえ、実際のコンサートでは「作曲=ジョン・ケージ/サウンド・システム=デイヴィッド・チューダー」という、自身の主張に相反するような表記に徹したことにも、チューダーの特異な実践に対するケージ自身の戸惑いが窺い知れる。事実、「ヴァリエーションズV」など、この時期にケージが「作曲」したとされる作品の内実はチューダーが構築した「サウンド・システム」だった。
このような経緯を通じて、1960年代後半になるとチューダーは他人の作品より自分自身のライブ・エレクトロニクスを作曲することに焦点を置くようになる。初期の代表作である1966年の「バンドネオン!」は、バンドネオンを入力インターフェースとして用い、その音をコントロール・シグナルとしても使う(つまりバンドネオンの音をバンドネオンの音によって変調させる)ことによって、巨大なホワイト・ノイズ・ジェネレーターを構築しようとした作品であり、スピーカーからの出力音の他にライティングやローウェル・クロスによる映像システムもバンドネオンの音によって操作された。これがチューダーが「作曲家」を名乗った初の作品だったが、後になって1964年にストックホルムでラウシェンバーグが行なったシアター作品のための音楽である「フロレセント・サウンド」をはじめての作品だと主張するようになる。とはいえ、「バンドネオン!」で用いられた楽器の多くが、ケージの「フォンタナ・ミックス」や一柳慧の「アクティヴィティーズ・フォー・オーケストラ」のリアライゼーションで使用されたものと同じであったことからもわかるように、チューダーの活動における自作と他人の作品の演奏との線引きは、従来の作曲家・演奏者という区分に従うものではなかった。むしろチューダーの音楽の基本にあったのは、「ヴァリエーションズII」におけるアンプリファイド・ピアノをはじめとする「サウンド・システム」の制作に見られるように、(「デーヴィッド・チューダー」を含めた)数々の「楽器・部品」を組み合わせることによる、そのつどの「楽器」制作であり、60年代における活動形態の変化も、「演奏者」から「作曲家」への転身というよりは、「作曲家」という呼称を自らの特異な活動に引きつけて捉え直したと考えるほうが理解しやすい。一般的には、「チューダーがピアニストとしての活動は「もうやっても意味がない」と放棄してしまい、多くの前衛作曲家を落胆させた」と、考えられがちだが、じつはチューダーは1990年代に至るまでピアニストとしての活動をやめておらず、そのことは1978年から1992年まで、ピアニストのジョー・クベラに対し、主にケージの「易の音楽」を教えるピアノ・レッスンを行なっていたことや、80年代から90年代にかけてケージが大御所化するにあたり、「ヴァリエーションズII」や「ウィンターミュージック」などの電子ピアノ作品を度
演奏していることからもわかる。ちなみにクベラは自分がチュードアから受けたレッスンの詳細なメモを残しており、その分析からもピアニストとしてのチュードアが、たとえばケージ作品のリアライゼーションに際して、いかに狭義の「作曲家」だったケージとはまったく異なる角度からケージ自身の作品に取り組んでいたが判明している。
1970年代の作品では、バンドネオン!の成果を踏まえて、「楽器」のスケール的・概念的拡張を図るプロジェクトに携わる。1970年、日本万国博覧会にてE.A.T.が、ペプシ館のサウンド・システム担当、パヴィリオンをまるごと「楽器」として構想した。1974年から中谷芙二子などとともに、孤島全体を「楽器化」するアイランド・アイ・アイランド・イヤープロジェクトに取り組むが、自身が代表作であるとみなしていたこの作品は、十年の間に三島の調査を行なったものの、未完に終わった。その一方で、1972年に行われたケージとのヨーロッパ・デュオ・ツアーのために制作された「アンタイトルド(一柳慧へのオマージュ)」、それを発展させた1975年のトーンバースト、ゴードン・ムンマがチューダーに依頼されてペプシ館のために制作したモジュレーターのプロトタイプを使用したパルサーズ、彼の名を不朽のものにしたRainforestなどなど、1970年代を通じて多くの作品を発表する。これらはいずれも、諸々の電子楽器・機材をループ状に組み合わせることによって、外部の音源を用いずにエレクトロニック・フィードバックだけで音を発生させる、いわゆるノー・インプット形式の作品だった。この手法をチューダー自身は、一柳慧の「アクティヴィティーズ・フォー・オーケストラ」のリアライゼーションに取り組んでいたときに思いついたものだと説明しており、「アンタイトルド」が一柳へのオマージュとされたのはこのためである。しかしながら、機材の数が増え続けたため、実際のツアーにおける持ち運び、およびコンサートにおける操作可能性の両面で困難にぶつかり、「アンタイトルド」では60もあったとされるフィードバック・ループを徐々に減らしていった結果、「パルサーズ」の段階になって、音を生成させるフィードバック・ループと、そのようにして生み出された音を様々な仕方で変調させる、複数のパラレルな出力プロセシングという形式に落ち着いた。このことによって、チューダーの関心も、ノー・インプットによる音響の生成から、単一の音源をできるかぎり異なった仕方で変調させることに移っていき、1978年の「ウェザリングズ」からは外部の音源が使用されるようになった。とはいえ、「インプット(入力)される外部音源」の有無はどのスケールで「楽器」を捉えるかに左右される問題であり、そもそもバンドネオン!やペプシ館のように会場全体を「楽器」として構想し、自らをそのような楽器の一部品として考えていたチューダーにとって、音源の使用も楽器「内部」の出来事であり、したがって依然としてノー・インプットであることに変わりなかった、と見ることもできる。
電子音楽の多くはマース・カニンガム舞踊団の舞踊音楽として作曲された。典型例は「Neural Synthesis」で、1990年代最先鋭であったバイノーラルシステムを導入し、ステレオ音源とセットで売るという試みもなされた。
- 代表作
- 4分33秒
易の音楽
ドナルド・ジャッド(Donald Judd)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
-
1928年、6月3日、ミズーリ州、エクセルシア・スプリングス(Excelsior Springs)に生まれる。
1946年、アメリカ合衆国陸軍に入隊し、1947年まで大韓民国に駐留する。
除隊後、ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで、短期間美術を学ぶ。
1948年から1949年まで、ヴァージニア州のウイリアム・アンド・メアリ・カレッジで哲学を学ぶ。
1949年から1953年まで、コロンビア大学で哲学を学び、学位を取得。その間も絵画制作を続け、1950年代は抽象表現主義に影響を受けた絵画作品を制作していた。
1957年から1962年まで、コロンビア大学で美術史家のメイヤー・シャピロのもとで美術史を学び、学位を取得。
1957年、ニューヨークで最初の個展を開く。抽象表現主義の絵画が展示された。
1959年から1965年にかけて、『アート・ニューズ』、『アート・インターナショナル』、『アーツマガジン』各誌で、前衛美術についての作品批評を行う。絵画の終焉を主張し、美術評論家としての高い評価を得る。
1960年代にはいると幾何学的な要素が強くなり、金属の物体を画面にはめ込むレリーフ状の作品を製作。
1962年頃から床に直接置く立体作品を制作するようになる。
1963年、1964年の個展では、カドミウム・レッドに塗られた木を基本にした箱状の立体作品が直接床に置かれた。
1964年から金属やプレキシグラスが用いられるようになり、形態はさらに純化され、直線的な箱型の作品を繰り返し制作する。
1965年から制作されるようになった「積み重ね(スタック)」と呼ばれるシリーズは、壁に直接同型の薄い箱状の立体が縦一列に並べられるものであった。これがジャッドの代表作となり、箱状の立体が反復的に複数並べられる作品は数多く製作されている。
1965年、自らの芸術作品が従来の絵画や彫刻とは異なるゆえんを論じたテクスト、『明確な物体(スペシフィック・オブジェクト)』を発表。
1968年、ニューヨークのホイットニー美術館で、回顧展が開催される。
1971年、戸外に置かれる円形の作品を制作。また、この年からテキサス州マーファ(Marfa)を訪れ始める。
1972年頃から素材に合板を用い始める。
1977年、テキサス州マーファに移住。
1979年、DIA美術財団の援助を受け、テキサス州マーファの陸軍基地跡の廃屋を含む砂漠の土地(1.4 ㎢)を、自作や他の作家の作品を恒久設置する場所にするために買い取る。
1980年代には特殊な錆付けをしたコールテン鋼を用いるようになる。
1994年、2月12日、ニューヨークにて悪性リンパ腫により死去。マーファの土地建物は一部をチナティ・ファンデーション(The Chinati Foundation)が、また別の一部をジャッド・ファンデーションが管理している。チナティ・ファンデーションにはジャッドや他のミニマルアートの作家たちの作品が展示されており、これらの作品は一般公開されている。また、ジャッド・ファンデーションはジャッドのドローイングやライティングなどのアーカイブ、また彼が個人所有していた自宅やスタジオ・スペースなどを管理している。
- 代表作
- 無題
BOX
ナム・ジュン・パイク(Nam June Paik)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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1932年7月20日、日本統治時代の京城(現在のソウル)で、繊維業を営む裕福な家庭に生まれる。1949年、朝鮮戦争の戦禍を逃れて一家で香港に移住。翌1950年、日本に移住。1956年、東京大学文学部美学・美術史学科を卒業。在学中から20世紀音楽に興味を持つ。卒業論文は『アーノルト・シェーンベルク研究』。大学の同窓生に山口昌男・宇波彰がいる。
1956年にドイツに渡り、ミュンヘン大学で音楽史を学ぶ。カールハインツ・シュトックハウゼンと出会い、大きな影響を受ける。またフライブルク高等音楽院でヴォルフガング・フォルトナーに作曲を学ぶ。
1958年から1963年、ケルンの西部ドイツ放送協会(WDR) 電子音楽スタジオに勤務。内科画廊の宮田氏の紹介でジョン・ケージと知り合い、大きな影響を受ける。1959年、デュッセルドルフのギャラリー22でパフォーマンスアート『ジョン・ケージへのオマージュ』『テープレコーダーとピアノのための音楽』を初演。1960年、ケルンのアトリエ・マリー・バウエルマイスターでパフォーマンス『ピアノフォルテのためのエチュード』を初演。
1961年、ジョージ・マチューナスと知り合い、フルクサスに参加。ヨーゼフ・ボイスら、多くのフルクサス・アーティストと交流する。とくにボイスとの友情は終生のものとなる。
1962年、ケルンを中心に活動した破壊的なハプニング・グループ「デ・コラージュ」に参加。中心人物のヴォルフ・フォステルとともに機関紙を編集・発行。ハプニング『TVデ・コラージュ』はパイクに大きな影響を与えた。
1963年、ヴッパータールのパルナス画廊で、最初の個展『音楽の展覧会-エレクトロニック・テレビジョン』を開催。画像を歪めたり白黒反転させたりした13台のテレビ受像機によるインスタレーションを展示し、世界初のビデオ・アート展と位置づけられる。日本で若い技術者の阿部修也と出会い、彼の協力で動く立体作品「ロボットK-456」を製作し、翌年の『ロボット・オペラ』にて発表。以後、阿部はパイクの最大の技術協力者となる。
1964年、アメリカに移住。女性チェリストのシャーロット・モーマンと出会う。ニューヨーク・ジャドソンホールでの『第2回ニューヨーク・アバンギャルド・フェスティバル』で彼女との初共演パフォーマンス『ロボット・オペラ』を初演。以後、彼女はパイクの最大の共演者となる。
1965年、ニューヨークのニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチで個展『NJパイク-エレクトロニックTV実験、3台のロボット、2つの禅箱、1つの禅缶』を開催。ニューヨーク・ボニーノ画廊で個展『エレクトロニック展』を開催。発売されたばかりでまだ画質が低く高価だった個人用ビデオテープレコーダをいち早くアートの世界に持ち込み、ビデオ・アート流行の先鞭をつける。
1968年、ニューヨーク・ボニーノ画廊で個展『エレクトロニック・アートII』を開催。
1969年、ニューヨーク・ハワード・ワイズ画廊での展覧会『クリエイティブ・メディアとしてのTV展』で、シャーロット・モーマンとのパフォーマンス『参加するTV』『生きた彫刻のためのTVブラ』を初演。『エレクトロニック・オペラ第一番』(1968 - 1969) を制作。『9/23 ディビッド・アトウッドとの実験』(ボストンのテレビ局、WGBHで放送)を制作。
1970年、4時間の衛星中継番組『ビデオ・コミューン』(WGBHで放送)を制作。『エレクトロニック・オペラ第二番』を制作。
1971年、ニューヨーク・ボニーノ画廊で個展『エレクトロニック・アートIII』を開催。そこで行ったパフォーマンスを元に、ビデオテープ作品『シャーロット・モーマンとパイク/阿部ビデオ・シンセサイザー』を制作。
1973年、『ジョン・ケージに捧げる』『グローバル・グルーヴ』(WGBHで放送、のちビデオテープ作品として再編集)を制作。
1974年、ニューヨーク・ボニーノ画廊で個展『エレクトロニック・アートIV』を開催。
1975年、ニューヨーク・マーサ・ジャクスン画廊で個展『空中の魚 空を飛ぶのはもはやしんどい 魚 さあ飛べ魚よ もう一度』を開催。サンパウロ・ビエンナーレで「アメリカのビデオ・アート」に作品を出品。『組曲二一二』『ナム・ジュン・パイク TV編』を制作。
1976年、ニューヨーク・ボニーノ画廊で個展『空飛ぶ魚』、ルネ・ブロック画廊で個展『月は最古のTV』を開催。ケルン芸術協会で大規模な個展『ナム・ジュン・パイク 一九四六-七六/音楽・フルクサス・ビデオ』を開催。
1977年、ビデオ・アーティスト久保田成子と結婚。ハンブルク美術大学で教鞭をとる。『ドクメンタ6』に参加し、『TVガーデン』を発表。シャーロット・モーマン、ダグラス・デイヴィス、ヨーゼフ・ボイスらと衛星中継パフォーマンスを行う。
1978年、デュッセルドルフ州立美術アカデミーで教鞭をとる。同校でヨーゼフ・ボイスとのパフォーマンス『ジョージ・マチューナス追悼・ピアノ・デュエット-ボイスとパイク』を初演。東京のギャルリー・ワタリ(現・ワタリウム美術館)で個展『ジョン・ケージに捧げる』を開催。『パイクによるマースによるマース』『メディア・シャトルモスクワ/ニューヨーク』『中国では切手の裏をなめてはいけない』を制作。
1980年、ギャルリー・ワタリで個展『VIDEAいろいろ』を開催。『レイクプラシッド80』を制作。
1981年、ギャルリー・ワタリで個展『ナム・ジュン・パイクがヨーゼフ・ボイス、ジョン・ケージ、マーク・カニンガムに捧ぐ』を開催。『マイ・ミックス81』を制作。
1982年、ニューヨークのホイットニー美術館が『ナム・ジュン・パイク回顧展』を開催。「ロボット K-456」が自動車にはねられて史上初の交通事故犠牲ロボットになるというパフォーマンスを行った。『アランとアレンの不平』(ニューヨークのテレビ局・WNETで放送)を制作。アラン・カプロー、アレン・ギンズバーグとの共作で、プロデュースは久保田成子。
1983年、パリ、エリック・ファブル画廊で個展『天のランデブー』を開催。
1984年、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』にちなみ、ニューヨーク・パリ間衛星生中継番組『グッドモーニング・ミスター・オーウェル』(ニューヨーク・WNET/パリ・FR3)を企画制作。アメリカ・フランス・西ドイツ・韓国で放送される。日本で初の作品集『ナム・ジュン・パイク タイム・コラージュ』(ISSI PRESS) が出版される。出版記念会で高橋悠治、坂本龍一、細野晴臣とパフォーマンスを行う。東京都美術館では6月14日 - 7月29日の会期で大規模な個展『ナムジュン・パイク展:ヴィデオ・アートを中心に』を開催。同時期に西武美術館で個展を開いていたヨーゼフ・ボイスとともにパフォーマンスを行う。
1986年、東京・ギャルリー・ワタリで個展『パイク/ワタリ二重奏』を開催。福井・曹洞宗大本山永平寺に参禅し、『メイド・イン・永平寺』『永平寺讃歌』を制作。ニューヨーク・東京・ソウルを衛星中継した番組『バイ・バイ・キップリング』(ニューヨーク・WNET/日本・JCTV)を企画制作。日本ではテレビ朝日で録画放送された。
1987年、ベルリンの芸術アカデミー会員に選ばれる。『ドクメンタ8』に参加。
1988年、ソウルオリンピックのために依頼されたビデオ・インスタレーション作品『多いほどよい(朝鮮語版)』を制作(現在は、韓国・果川市の韓国国立現代美術館に展示)。『ラップ・アラウンド・ザ・ワールド』を制作。
1990年、フィラデルフィアの街頭に『ビデオ・アーバー』が設置される。
1992年、ソウルの美術館と画廊で、大規模な『ナム・ジュン・パイク回顧展』が開催される。
1993年、ヴェネツィア・ビエンナーレに、ハンス・ハーケらとともにドイツ館代表として参加。ドイツ館は「金獅子賞」を獲得した。東京・ワタリウム美術館で個展『パイク地球論』を開催。
1994年、ニューヨークのホイットニー美術館、ザ・ハーワード・ワイズ・ギャラリーで『TV・アズ・アクリエイティブ・メディウム展』、フロリダのフォートローダーデール美術館で『エレクトロニック・スーパー・ハイウェイ展』を開催。
1995年、光州ビエンナーレ(光州)でシンシア・グッドマンと共同で『インフォアート'95展』を企画。
1996年、コペンハーゲン国立美術館で『ビデオ・スカルプチャー、エレクトロニック・アンダーカレンツ展』を開催。イースターの日に脳梗塞で倒れ、妻の献身的な介護、リハビリ活動を経て以後車椅子生活となる。このリハビリの際の様子や、韓国への帰省を久保田成子が記録したビデオ作品『Trip to Korea』『Sexual Healing』がある。
2000年、米韓で大規模な回顧展。
2004年、ビデオテープ作品『グローバル・グルーブ2004』『ワン・キャンドル』を制作。
2006年1月29日午前6時ごろ、アメリカ合衆国フロリダ州マイアミの別荘で死去。妻と看護師が見守るなか、静かに息を引き取ったという。73歳であった。葬儀では、パイクが初期のパフォーマンスでジョン・ケージのネクタイをハサミで切ったことにちなみ、参列者たちはこぞって自分のネクタイを切り、パイクの棺に納めた。韓国では、パイクが朝鮮戦争を逃れて出国したことや、米国に帰化していることで複雑な感情を抱く人が少なくなかったが、白南準美術館が着工する直前に伝えられた死去の報には、多くの国民が悲嘆にくれたという。美術館は後に2008年にソウル南郊の龍仁市にオープンした。
2007年、韓国放送公社 (KBS) は開局80年を記念し、7月27日 - 12月30日、汝矣島にある同局内の特別展示ホールで、パイクの作品をあつめた展覧会「Nam June Paik - Rhapsody in Video」を開催した。
- 代表作
- TV Garden
Robot K-456
One Candle
Sistine Chapel
ニキ・ド・サンファル(Niki de Saint Phalle)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
- ニキ・ド・サン・ファル(Niki de Saint Phalle)は、フランスの画家、彫刻家、造形作家、映像作家。本名カトリーヌ・マリー=アニエス・ファル・ド・サン・ファル(Catherine Marie-Agnès Fal de Saint Phalle)。ファッション・モデルとして活躍した後、アートセラピーとして絵を描き始め、芸術表現による自己解放として射撃絵画を制作。挑発的・攻撃的な作品、特に社会における女性の役割を批判的に表現する作品(主にアサンブラージュ)から、やがて、女性性を肯定・強調する《ナナ》シリーズへと転じた。ストックホルム近代美術館の企画として制作した巨大なナナ像の《ホン》が大きな成功を収めて以来、《ナナ》やモンスター、神話・伝説に基づく鳥、蛇などをモチーフにした大規模な彫刻作品《ゴーレム》、《ノアの方舟》、《ストラヴィンスキーの泉》、《太陽神》、《守護天使》、《カリフィア女王の魔法の輪》などを次々と発表。1998年に、トスカーナ(イタリア)で20年以上かけて制作・造園した彫刻庭園《タロット・ガーデン》が完成。2000年に高松宮殿下記念世界文化賞(彫刻部門)を受賞。同年から亡くなる2002年まで、シュプレンゲル美術館(英語版)(ハノーファー、ドイツ)とニース近現代美術館(フランス)に多くの作品を寄贈した。映像作品として《ダディー》、《夜より長い夢》がある。
- 代表作
- ナナシリーズ
ノアの方舟
ストラヴィンスキーの泉
太陽神
守護天使
バーネット・ニューマン(Barnett Newman)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
-
ニューマンはロシア系ユダヤ移民の子としてニューヨークに生まれた。ニューヨーク市立大学で哲学を学んだ後、父親の服飾業を手伝った。1930年代から絵を描き始めた。そのころの作品は表現主義風だったというが、後に彼はそれらをすべて処分した。
1940年代には最初はシュルレアリスムを試しながら、やがて独自のスタイルを築きあげた。その画面は、ニューマンが「ジップ zip」と呼ぶ細い縦線で巨大な色面が区切られるのが特徴である。ジップを用い始めたころの作品では、色面はまだらになっていたが、やがて色面は単色で平坦なものになった。ニューマン自身は1948年以降の「ワンメント Onement」シリーズによって自己のスタイルが確立されたと考えていた。
生涯を通じて、ジップは彼の作品の主役であった。1950年代の作品には、「ワイルド The Wild」(203cm×4cm、ニューヨーク近代美術館)のように、ジップそれ自体が作品となったものもある。ニューマンはまた、ジップの3次元版とでもいうべき彫刻もいくつか制作している。
ニューマンの絵画は純粋に抽象的に見えるうえ、当初は「無題」とされた作品も多かった。彼はのちにそれらの作品に題名を与えたが、それらが示唆するものは、しばしばユダヤ的な主題であった。例えば1950年代に制作された「アダムとイヴ」がそうである。「ウリエル」(1954年)もそうだし、また「アブラハム」(1949年)というとても暗い絵画は、聖書の登場人物でありまたニューマンの父(1947年に没した)の名でもある題名を与えられている。
「十字架の道行 The Stations of the Cross」シリーズ(1958年-1964年)はモノトーンの連作絵画である。この連作はニューマンが心臓発作から回復してすぐに制作されたもので、一般にはニューマンの画業の頂点を示すものとして認識されている。この連作は「レマ・サバクタニ(なぜ我を見捨て給う)」という副題がつけられている。十字架上のキリストが叫んだ言葉である。ニューマンはこの言葉が、彼の時代にとって普遍的な重要性を備えていると感じていた。
ニューマンの晩年の作品は「誰が赤、黄、青を恐れるのか Who's Afraid of Red, Yellow and Blue」シリーズに見られるように、純粋で鮮やかで色を巨大なカンヴァスの上に用いるものが多くみられる。「アンナの光」(1968年)は幅7.1m、高さ2.3mあり、彼の作品中最も大きい。題名は1965年に没した彼の母の名に由来している。晩年は「シャルトル Chartres」(1969年)をはじめシェイプト・カンヴァス(四角形以外のカンヴァスを用いた絵画)や、滑らかな鉄片を用いた彫刻にも取り組んだ。初期の油彩と異なり、晩年の作品にはアクリル絵具が用いられた。
彫刻作品では、ピラミッドの頂点にオベリスクを逆さに立てた「ブロークン・オベリスク」が良く知られている。リトグラフの作品には、連作「18 Cantos」(1963-64年)などがあり、また数は少ないがエッチングの作品もある。
ニューマンは1950年代のニューヨークでの活動において、他の美術家と共に、ヨーロッパ絵画の様式に拠らない独自の抽象表現を築き上げたことで、一般的には抽象表現主義の美術家として認識されている。しかし、クリフォード・スティルやマーク・ロスコら他の抽象表現主義の美術家が用いたような表現主義的な筆触を拒絶し、はっきりした輪郭と平坦な色面を用いたことからすると、ニューマンの作品はポスト・ペインタリー・アブストラクションやミニマリズムの嚆矢と見ることができる。
ジャクソン・ポロックのように話題性に満ちた人物と比べると、ニューマンの生前の評価は低かった。クレメント・グリーンバーグはニューマンを熱烈に支持したが、晩年になるまで彼の作品が真剣に取り上げられることは少なかった。しかし、彼はより若い世代の画家に対しては大きな影響を与えてきた。
ニューマンは1970年、心臓発作のためニューヨークで没した。
- 代表作
- ワンメント
十字架の道行
アンナの光
バーバラ・クルーガー(Barbara Kruger)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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1945年、アメリカ・ニュージャージー州の最大都市ニューアークにて生を授かったクルーガーはニューヨークにある名門学校のパーソンズ美術大学へと進学し、そこで沢山のアートを学んだ。中でも当時の60年代より賑わい始めたグラフィックデザインに没頭した彼女は雑誌から本のカバー、写真の編集に至るまで様々なデザインでそれを生業とした。また見解は深く、デザイナーとしての他、美術雑誌などで映画やテレビ、音楽についてのコラムを書いていた経緯をもつ。
幅広い知識を兼ね備えた彼女はいつしかポエトリーリーディング(詩を朗読するアート)に興味を抱き言葉への関心を深めた。それから現代社会が渦巻く問題へと着眼点を置き、権力、アイデンティティ、セクシュアリティといった文化的構造に端を発し、自らが呼びかけるスローガン的なタイポグラフィの形へと歩みを進めた。
- 代表作
- それが私たちのやり方だ
ザ・ドロップ
バリー・マッギー(Barry McGEE)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
- バリー・マッギーは1966年、カリフォルニア州サンフランシスコに生まれました。サンフランシスコ・アート・インスティテュートより絵画・版画の学士号(美術)を取得し、これまでに世界中の美術館や諸機関において個展を開催しています。
- 代表作
- 陰鬱そうな男の顔
Bill Daniel`s Mostly True
ブルース・ナウマン(Bruce Nauman)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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1941年、日本軍による真珠湾攻撃の前日、インディアナ州フォートウェイン市に生まれる。幼少期は、父の転勤のたびにアメリカ中部の田舎を転々とする。ナウマン自身は自分の幼年期について、「故郷といえるような懐かしさを覚える場所が無い」と回想している。
ミルウォーキーの高校時代(1957年-1960年)には、学校のオーケストラでベースギターを演奏していた。クラシック、バルトーク・ベーラなどの近代音楽、フォークソングなどを幅広く好んでいた。1960年からウィスコンシン大学で数学と物理学を2年間専攻する。1962年の秋から専攻を美術に変更し、その後2年間は絵画を学ぶ。この頃は、半抽象的な油絵(リチャード・ディーベンコーン風の風景画)を描いていた。ウィスコンシン大学卒業後は、カリフォルニア大学デービス校で美術を学ぶが、すぐに絵画製作から離れ、立体作品を手がけるようになる。この時期に実験的な映画を友人と撮影している。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、ウラジミール・ナボコフの小説、サミュエル・ベケットの戯曲などを愛読。ジョン・コルトレーンのジャズ、スティーヴ・ライヒ、テリー・ライリーなどのミニマル音楽にも傾倒する。
1966年、デーヴィス校を卒業した後、サンフランシスコへ移住。元雑貨店だった家屋に自分のスタジオを持つ。このスタジオで2年足らずのうちに、多くの初期の傑作を生み出した。同年、ロサンゼルスで初個展。サンフランシスコ美術大学で教鞭を執る。1968年、前衛舞踏家メレディス・モンクと出会い、影響を受ける。同年、レオ・キャステリ・ギャラリーでニューヨークでの初個展。さらにはデュッセルドルフのコンラート・フィッシャー・ギャラリーでヨーロッパ初個展。この年にはカッセル・ドクメンタにも参加している。 1969年、カリフォルニア州パサディナ市へ移住。1972年、ロサンゼルス、ニューヨーク、ヨーロッパで回顧展が開催される。
1979年、ニューメキシコ州に移住後、1981年に西ドイツなどで、さらには1986年、オランダなどで回顧展が催される。1992年、カッセル・ドクメンタにビデオ作品で参加。 1993年、彫刻を対象とするイスラエルのウルフ賞を受賞。1994年から1995年までニューヨーク近代美術館などで大回顧展が開催される。1999年、ヴェネツィア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞。2004年、第16回高松宮殿下記念世界文化賞の彫刻部門を受賞する。同年、ロンドンのテート・モダンのタービンホールを、多くのスピーカーを使って、様々な声が交差する、言葉の作品で満たす作品「Raw Materials」を展示。また、米誌タイムで「最も影響力のある世界の100人」に選ばれる。
- 代表作
- 100生きて死ね
The True Artist Helps the World by Revealing Mystic Truths
Clown Torture
フランク・ステラ(Frank Stella)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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フランク・ステラ(Frank Stella)は、アメリカ・マサチューセッツ州出身の画家・彫刻家。戦後アメリカの抽象絵画を代表する作家である。
マサチューセッツ州、ボストン郊外モールデンに生まれ、プリンストン大学で美術史を学んだ。初期にはミニマル・アート風の作品、シンメトリカルな色面構成の「ハード・エッジ」(色面の輪郭が目立つ作風)風の作品を手がけていたが、80年代以降大きく作風を変え、さまざまな色彩を施された、さまざまな形態の破片・ねじ曲げられた平面・立体物が、大画面に貼り付けられたりそのまま組み合わされて壁面や床に置かれたりした、2次元の枠を超えて炸裂する絵画とも立体ともつかないダイナミックな作品を制作している。川村記念美術館がステラ作品の世界的なコレクションで知られている。
- 代表作
- トムリンソン・コート・パーク
アカハラシキチョウ5.5X
フェリックス・ゴンザレス=トレス(Felix Gonzalez-Torres)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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フェリックス・ゴンザレス=トレスは1957年キューバ・グアイマロ生まれ。公共の場に個人史を持ち込み、身近な問題に対する気づきをもたらす作品で知られる。ニューヨークのプラット・インスティチュート、ホイットニー美術館のインディペンデント・スタディー・プログラムで社会の諸問題を芸術に組み込むポストモダンの理論を学んだ後、87年より前衛集団「グループ・マテリアル」に参加。中心メンバーであるダグ・アッシュフォード、ジュリー・オルト、ティム・ロリンズらとともに、様々なアーティストとコラボレーションし、展覧会を通じてジェンダーや政治問題などに関するメッセージを投げかけた。
アンドレア・ローゼン・ギャラリーでの初個展で単独活動を開始。長方形の紙を積み上げ、その紙を来場者が持ち帰ることを許可し、見る側が介入することで変化が起きるインスタレーション《無題(ブルー・ミラー)》(1990)によって評価される。翌年、パートナーのロス・レインコックがエイズで他界。制作においても転機となり、恋人たちの痕跡が残るベッドの写真をニューヨーク街の24ヶ所の看板に設置した野外作品《無題》(1991)、自身と恋人レインコックの2人分の体重と同等のキャンディーを床に敷き詰め、観客に持ち帰ることを許可するインスタレーション《無題(偽薬)》(1991)など代表作を発表する。95年、グッゲンハイム美術館で大規模回顧展を開催。その翌年、エイズにより死去。日本では、ファーレ立川で、「永遠の時の流れ」をテーマに飛行する鳥の写真を拡大した看板作品《ただそれだけの景色》を見ることができる。
- 代表作
- 無題
ブルー・ミラー
偽薬
フリーダ・カーロ(Frida Kahlo)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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フリーダは1907年7月6日、メキシコシティの近郊にあるコヨアカンで父ギリェルモ・カーロと母マティルデ・カルデロン=イ=ゴンサレスの三女として生まれた。
1904年に両親が建てたフリーダの生家である「青い家」は現在はフリーダ・カーロ記念館として公開されている。
父親のギリェルモは1871年にドイツ南部のバーデン=バーデンに誕生した、ハンガリー系ユダヤ人であった。職業写真家のギリェルモは自身の母の死去を契機に1891年にメキシコへ渡航した。1921年のメキシコ独立百年祭の記念に出版された写真目録の製作に携わり、メキシコで最初の公式写真家としてその地位を確立している。
しかし、1910年のメキシコ革命の勃発により安定した生活は終わりを告げた。フリーダはこの頃の状況について、「私の家ではとても困難なもとで暮らしを立てた」と回顧している。
出産の影響で母親が衰弱していたため、幼年期は乳母によって育てられ、母親の愛情とは疎遠であったことが日記や対談などから伺える。
6歳になった頃に急性灰白髄炎にかかり、およそ9か月にわたって寝たきりの生活を送った。この影響で右腿から踝にかけて成長が止まって痩せ細り、これを隠すためにズボンやメキシコ民族衣装のロングスカートなどを好んで着用していた。父親は足がもとに戻るようにあらゆるスポーツをフリーダに習わせたが、足が元に戻ることはなかった。
リハビリを兼ねて父親はフリーダを良くハイキングに連れて行っており、そこでフリーダに自身の趣味であった水彩画や職業としていたカメラの手ほどきをほどこした。こうした経験は、画家となった後年のフリーダに大きな影響を与えた。1951年に制作された『父の肖像』の下縁に書かれた献辞には「私は父ギリェルモ・カーロを描くものなり。父はハンガリー・ドイツ系の出にして、芸術家であり、職業写真家である。心ひろく、知的で、その人となり貴く、勇敢にして、60年の長きにわたっててんかんに悩めるも、休みなく働き、ヒットラーにはむかった。敬愛する娘フリーダ・カーロ」とあり、若き日の父親への感謝の念を贈っている。
1922年、ドイツ人上級実業学校を卒業すると、ソカロにあるメキシコの最高教育機関とされる国立予科高等学校へ進学した。女性として国立予科高等学校に入学したのはフリーダを含めてこの年に入学した35人が初めてであった。
フリーダはカチュチャスと呼ばれるグループに入り、国民社会主義的考えに傾倒し、文学に熱中した。メンバーには後年様々な分野で活躍した人物も含まれており、作家オクタヴィオ・ブスタマンテ、ミゲル・N・リラ、作曲家アンヘル・サラス、ジャーナリストアレハンドロ・ゴメス=アリアスなどがいる。
フリーダは1925年頃まで父親の友人であった広告デザイナーフェルナンド・フェルナンデスにスケッチを習っており、いくつかの習作が残されている。こうした経験から絵画に対する関心が高まり、次第に画家への道を目指すようになった。
また、フリーダは活動を通じてカチュチャスのリーダーであったアレハンドロと恋仲になり、将来について互いに語り合うようになっていた。
1925年9月17日、通学に使用していたバスが路面電車と衝突し、多数の死傷者が出る事故が発生した。フリーダも生死の境をさまよう重傷で、3か月の間ベッドの上での生活を余儀なくされ、その後も事故の後遺症で背中や右足の痛みにたびたび悩まされるようになった。痛みと病院での退屈な生活を紛らわせるために本格的な絵を描くようになったという。
フリーダの事故により、アレハンドロとの仲は自然消滅のように破綻し、その孤独感はフリーダを絵画へさらにのめり込ませる一因にもなった。1926年から1928年の間にフリーダは十数枚の作品を制作している。通常の生活が送れる程度に回復した1928年、フリーダは知識人や芸術家の集う活動サークルに参加し、メキシコ共産党へ入党する。
そこで写真家ティナ・モドッティの紹介で画家ディエゴ・リベラと出会った。リベラの絵に感嘆したフリーダは闘病時代に描いた自分の作品を見せ、リベラに意見を求めた。リベラは後にこの時の出来事を「カンバスにはものすごい表現力が示されていた」と語っており、フリーダの感性に大きな感銘を受けた。
これを契機に二人の仲は急速に接近し、1929年8月21日、フリーダは21歳年上のリベラと結婚した。年の差やリベラの外見上の印象から、フリーダの両親からはあまり祝福されなかった。なお彼女は両性愛者であり、米国の画家、ジョージア・オキーフと関係があったとも言われている。
二人は最初メキシコシティ中心部にあるアパートを借りて住んでいたが、リベラにコルテス宮殿の壁画作成の仕事が入ったため、同年にクエルナバカ市へと移っている。
翌年11月、リベラに今度はカリフォルニア美術学校(現サンフランシスコ芸術大学)から壁画作成の依頼があり、サンフランシスコへと居を移した。その後も仕事の都合でニューヨーク、デトロイトなどを転々とした。
リベラのこうした無節操な仕事の選び方はメキシコ共産党の反感を買い、1929年に党員資格を剥奪された。この時、フリーダもあわせて離党手続きを行っている。
1930年にフリーダは妊娠したが、事故の影響で骨盤や子宮に損傷を受けていたことから流産となった。1932年、1934年にも流産している。
これらの出来事は彼女に深い影を落とし、その後の作品に大きな影響を与えることとなった。 1933年12月、メキシコに戻った二人は、知人の建築家ファン・オゴールマンに頼んでメキシコシティの南郊外サン・アンヘルに家を建てて貰い、そこに落ち着くこととなった。
1935年、リベラが妹のクリスティナと関係を持ったことにショックを受けたフリーダは、サン・アンヘルの家を出てメキシコシティ中心街に居を移した。この年に発表した『ちょっとした刺し傷』はフリーダの心理状況をつぶさに反映している。
同年の終わりごろにはサン・アンヘルの家に戻ったが、フリーダはリベラへのあてつけのようにアメリカ人彫刻家イサム・ノグチと関係を持った。1936年7月にスペインで内戦が勃発するとフリーダは共和国側を支援するために同調者を募り、連帯委員会を創設して政治活動に再びのめり込むようになった。
同年、ノルウェーがモスクワの外圧によって追放した革命家レフ・トロツキーの庇護をメキシコ政府に申請している。翌1937年にメキシコへ渡ってきたトロツキーと妻ナタリア・セドヴァを「青い家」へ迎え入れ、1939年まで住居を提供した。フリーダとトロツキーは短い間ながら関係を持ち、トロツキーの誕生日で、ロシア革命の記念日でもある11月7日に制作した『レオ・トロツキーに捧げた自画像、あるいは、カーテンのあいだ』を贈っている。この作品はトロツキーを支持していたフランスの詩人アンドレ・ブルトンの目に留まり、親交を深めるきっかけとなった。
1938年にフリーダにとって最初となる大規模な個展を海外で催すこととなった。この個展を見たバートラム・D・ヴォルフは、直後ヴォーグ誌に発表した論文でフリーダの作品が他のシュルレアリスムの画家の作品と異なった独自の世界観を持っていると評価している。 同年ジュリアン・リーヴィ(の招待を受け、ニューヨークのジュリアン・リーヴィ・ギャラリーで再び個展を開いた。それまで自分の作品を不特定多数に見せるという経験を持たなかったフリーダはこうした評価に困惑を隠せずにいたようで、友人のルシエン・ブロッホに宛てた手紙の中で「人は私の作品の何を見たいのかしら」と綴っている。
1939年、映画俳優のエドワード・G・ロビンソンがフリーダの絵を大量に購入したことを契機としてアメリカへ旅立つ機会が増えていった。フリーダの成功はアメリカでも驚きを持って報道され、ニューヨーク現代美術館の館長アンソン・グッドイヤー、ジャーナリストクレア・ブース・ルース、写真家のニコラス・ムライなど多方面の著名人から絵の注文が舞い込むようになった。
フリーダはアンドレ・ブルトンが企画した「メキシコ展」を支援するため、1939年にパリへと旅立った。ここで複数のシュルレアリスト達と親交を結びたいと考えたことがその一因となっていたが、考え方の違いによりパリの芸術家たちと深い親交を持つことはなかった。加えて戦争の影響によって展覧会は経済的成功に至らず、その後に予定していたロンドンでの展覧会は中止になった。 しかしながらフリーダの作品は好意的に評価され、ルーブル美術館は展示された『ザ・フレーム』を買い上げている。
フリーダの成功と精力的な活動によって次第に夫婦間の熱は冷めていき、1939年11月6日リベラとの離婚が成立、フリーダは生家である「青い家」へと戻った。
孤独を忘れようとフリーダは作品制作に没頭し、経済的にも自立しようと努めた。 1940年9月、再び脊椎の痛みに悩まされ始め、加えて右手が急性真菌性皮膚疾患にかかったため、作品制作が続けられなくなり、治療のためサンフランシスコへと向かった。
医師の指導のもと治療を続け、健康状態が安定した頃、フリーダはリベラへ再婚の提案を行った。経済的に自立させること、性的関係は結ばないことなどフリーダが提示したいくつかの条件を飲み、リベラは提案に合意し、1940年12月8日、サンフランシスコで二人は2度目の結婚をした。 サン・アンヘルはアトリエとして使用することとなり、二人は「青い家」で生活を行うこととなった。
1940年代に入ると、メキシコ内においてもフリーダの名は知られるようになり、様々な賞を受賞し、複数の委員会委員に選出され、講師の委嘱や雑誌の寄稿などを求められるようになった。
1942年には文部省が支援したメキシコ文化センターの会員に選出され、メキシコ文化の振興と普及を目的とした展示会の企画や講演、出版物の発行などに広く携わった。また同年、文部省の管轄下にあった絵画と造形の専門学校「ラ・エスメラルダ」の教員にも選ばれ、週12時間の授業を受け持つことになった。
フリーダの型破りな講義は好評を博したが、数か月後には健康上の問題から学校へ通うことが困難となり、自宅での講義に切り替わった。フリーダは受講していた生徒たちの中から才能ある若人を得、油絵の指導や作品展示機会の獲得に尽力した。
1940年代の終わりごろになるとフリーダの健康状態はさらに悪化し、入退院を繰り返すようになった。
1950年には右足の血液の循環が不足して指先が壊死したため、切断手術を行っている。 作品制作が再開できるようになるのは1950年11月ごろに入ってからで、ベッドの上に特製の画架を取り付け、寝たままで制作できるよう整備した。
1951年以降は痛みのため鎮痛剤無しでは生活がままならなくなり、特徴であった緻密なテクニックを駆使した作品を作り上げる事も難しくなった。
1953年8月には右足の痛みが鎮痛剤では耐えられないほどになったため、主治医は膝までの切断を取り決めた。以後フリーダは義足を使用することにより歩くことができるようになったが、リベラが「彼女は生きる気力を失った」と語っているように、ふさぎこむ事が多くなった。
1954年2月の日記にフリーダは次のように綴っている。「6か月前、脚を切断され、一世紀にもおよぶと感じられるほどの長く、耐えがたい苦痛に見舞われて、私は時々正気を失った。いまだに自殺したくなる時がある。ディエゴだけがそんな私を思いとどまらせてくれる。なぜなら、私がいなくなれば、彼がさびしがるだろうと思うから。」
しかし、同年の7月13日、フリーダは肺炎を併発して死去した。日記に自殺のことがたびたび出ていることや、前夜にリベラへ8月21日の銀婚式の贈り物を手渡していたことなどから自殺ではないかという憶測も流れた。
死後、フリーダの棺は国立芸術宮殿のホールに安置され、翌日までに600人を越える人々が別れのあいさつに訪れた。火葬されたのち、フリーダの遺灰は先征服期に作られた壺に入れられて「青い家」に安置されている。
1958年7月12日、「青い家」はフリーダの残した作品や民芸品、奉納画や絵のコレクション、使用した絵画道具や手紙、日記などを展示する博物館、「フリーダ・カーロ記念館」として開館された。
- 代表作
- レオ・トロツキーに捧げた自画像
モーゼ、あるいは、創造の核
事故
フィリップ・ガストン(Philip Guston)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
- ジャクソン・ポロックら抽象表現主義の画家たちと同時期に活動した、米国で最も偉大な現代画家の1人と称されるガストンだが、美術大学を3ヶ月で退学。以来イタリアやメキシコに留学し、独学で絵画史を研究した。活動初期は現実をありのままに捉えるリアリズムの絵画を描いていたが、次第に具体的な題材を持たず感情を表現する抽象表現主義へと転向。その後の作品では、コミカルな具象表現が見受けられる。なかでも、特に政治問題を積極的に題材とし、たとえば白人至上主義団体(KKK)や、ホロコーストなどをテーマやモチーフとしてを作品を制作した。
- 代表作
- Bombardment
Gladiator
Drawing for Conspirators
Martial Memory
ベティ・サール(Betye Saar)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
-
ベティ・サールはかつて公民権運動が隆盛を極めた60年代のアメリカで頭角を現したアメリカ人現代アーティストである。
廃材などを素材に用いるアッサンブラージュやコラージュ作品を特徴とし、魔力や超自然的な精神世界を題材にすることもあれば、ストレートな主張でオーディエンスの胸を打つこともある。
代表作の一つである彫刻、「ジェマイマおばさんの解放」(1972年)では、アメリカの人気パンケーキブランドのマスコットキャラクターとして知られる、黒人女性の片手にライフルを添えることで、過去の奴隷制度への批判や黒人女性のエンパワーメントを込めている。
- 代表作
- ジェマイマおばさんの解放
ベルナール・ビュッフェ(Bernard Buffet)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
-
ビュフェは1928年、パリで生まれた。多忙の工場経営者の父のもとに生まれ、父親との関係は希薄であった。心の支えであった母を10代で亡くし、ひとりキャンバスに向かうことが多かった。1943年、パリ国立高等芸術学校に入学。1948年、パリで最も権威のある新人賞・批評家賞を受賞する。この頃からビュフェは天才画家としても有名であった。硬質で鋭く太い針金のような輪郭線、モノトーンに近い色彩を特色とする独自の様式を築き、その画面には人物の不安げな表情などとあいまって第二次大戦後の作者の不安で荒涼とした心象風景が表されている。女性像のモデルは多くの場合、後の妻のアナベルである。ビュフェは油彩画のみならず、優れた版画も多く制作している。1971年にはレジオン・ドヌール勲章を受章し、1974年にはアカデミー・フランセーズ会員となる。最愛の妻であるアナベルと生涯を添い遂げる間も、ビュフェの孤独が癒えることはなかった。晩年にはパーキンソン病を患い、ビュフェは1999年に自ら命を絶った。享年71。
ビュフェはあまりにも早い時期に名声を得すぎたためか、後年の作品にはややマンネリ化の傾向が指摘されるなど厳しい見方もある。日本には早くから紹介され、静岡県長泉町にはビュフェの作品のみを収蔵・展示するベルナール・ビュフェ美術館が1973年開館した。
- 代表作
- 青い闘牛士
カルメン
アナベル夫人像
アルフォーヴィルの教会
マーク・ロスコ(Mark Rothko)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
-
1903年、当時ロシア帝国領だったラトビアのドヴィンスクにユダヤ系の両親のもとに生まれた。彼の父ヤコブ・ロスコビッチは薬剤師で知識人だったため、彼の子供達に宗教よりも政治や社会について教えた。ロシアではユダヤ人に対する偏見から非難や迫害があり、幼少期のロスコもまた、そのような環境に対して恐れをいだいていた。
父ヤコブ・ロスコウィッツの収入は決して高いものではなかったが、家族は非常に優れた教育を受けていた(ロスコの妹は当時を思い出し、「私たちは本を読む家族だった」と語っている)。
ロスコ自身もロシア語の他にイディッシュ語、ヘブライ語を話すことが出来た。ロスコがまだ幼い頃、父は正統派ユダヤ教に改宗し、その影響から兄弟の中で一番末の子だったロスコは、他の年上の兄弟が公共の教育をうける中、5歳の頃からヘデルへ通いタルムードについて学んだ。
1903年から1906年にかけ反ユダヤ襲撃ポグロムが盛んとなり、また、ヤコブ・ロスコウィッツは彼の息子がロシア帝国陸軍に招集されることを恐れていたため、アメリカへ移住することを決意する。マークと母、そして姉のソニアはまだロシアに残っていた。1910年に父が父の兄を頼って単身で渡米し、その2年後長男モイーズと次男アルバートが続いて渡米をする。その数か月後1913年の冬にエリス島に到着し、父と兄たちがいるアメリカ合衆国オレゴン州ポートランドに移住した。エリス島からポートランドへ向かう汽車のなか、彼ら3人は胸に「われわれは英語がしゃべれません」というバッジをつけていたという。
父ヤコブは1914年3月に結腸癌で死に、家族は経済的な基盤を失うことになる。姉ソニアはレジのオペレーターをし、マーク自身も叔父の倉庫の一つで働きながら、新聞売りをしていた。進学したリンカーン高校では文学、哲学、社会学などに興味を示す一方、ギリシャ神話にも親しむようになる。1921年6月にポートランドのリンカーンハイスクールにて優秀な成績をおさめる。マークは、4つ目の言語である英語を学び同時にユダヤ人コミュニティーセンターで積極的な活動メンバーの一人となり、政治的議論を得意としていた。マークは父のように、労働者の権利や女性の権利などの問題について情熱を注いだ。彼は活動家のエマ・ゴールドマンの講演を聴きに西海岸のレクチャーツアーに参加した一人でもある。
1921年に奨学金を得てイェール大学へ進学する。大学では心理学を学び、ゆくゆくは法律家かエンジニアを目指していた。しかし新入生の終わりに奨学金の更新が出来なかったためウェイターや配達員をしながら勉強をしていた。マークは、イェールの学生の多くがエリート主義で差別主義者であることを知り、彼と彼の友人アーロン・ディレクターは学校の古風なしきたりやブルジョア趣味を風刺する風刺雑誌『イェール・サタデー・イブニング・ペスト』を発行する。いずれにしても、マークの性格は勤勉な学生よりも常に独学の人であった。ある学生が当時のマークについて「彼はほとんど勉強をしていないように見えたが、熱心な読書家だった」と語っている。2年の終わり1923年に彼は中退し、46年後に名誉学位を授与されるまで戻ることはなかった。
1923年秋にニューヨークガーメント地区に移住する。ロスコ本人によると、彼は友人を訪ねるためアート・スチューデンツ・リーグを訪れた際、ヌードデッサンのようすを見て美術の世界に入ることを決心したという。だが2か月程で辞め、ポートランドに帰省。ジョゼフィーン・ディロンが主宰する劇団で役者の修行をする。同じ劇団にはクラーク・ゲーブルが所属していた。
1925年再びニューヨークに移り、パーソンズ美術大学に入学してグラフィック・デザインを学んだ。その時の彼の指導講師の一人は画家のアーシル・ゴーキーだった。ゴーキーの威圧的な性格を考えると、二人はあまり親しくなったとは考えにくいが、おそらくこれがロスコにとって前衛との初めての出会いであった(ロスコはゴーキーの指導について「要求が厳しく、管理的だった」と振り返っている)。
また、その秋彼はアート・スチューデンツ・リーグで行われているキュビズムの作家マックス・ウェーバーのコースをロシア系ユダヤ人の仲間とともに受けている。ウェーバーはフランスの前衛芸術運動の一端を担っていたため、現代美術の生き証人として学生たちは彼の教えを熱望した。ウェーバーの指導の下、ロスコは美術を宗教的、感情的な表現の道具として見るようになり、この時代のロスコの作品はウェーバーからの影響を明らかに受けている。数年後、ウェーバーは元学生であるロスコの展覧会を訪れたとき、彼の作品を賞賛し、ロスコもまたその賞賛を非常に喜んだ。
ニューヨークでの活動は、豊かな芸術的な雰囲気の中で彼を確立させた。モダニズムの画家たちはニューヨークのギャラリーで多くの展示を行い、また市の美術館などは新進アーティストのスキルや知識の育成をするための非常に貴重な場所でした。ロスコの初期に重要な影響を与えた作家に、ドイツ表現主義、パウル・クレー、シュールレアリスム、ジョルジュ・ルオーの絵画がある。
1927年、ルイス・ブラウン著『絵入り聖書』のイラストの仕事を受ける。731ページにも及ぶ大著のため、ロスコはメトロポリタン美術館の古代美術コレクションを参照し、古代装飾模様やブラウン本人のイラストからヒントを得てイラストを完成させる。しかし、ブラウンはロスコの絵を手抜きとみなし、契約の解消をする。
1928年他の若いアーティストとともにオポチュニティギャラリーにて展示を行う。彼の絵画は暗く、不気味で、内面の表出だけでなく都市の風景が描かれており、多くの批評家や仲間から評価された。
ささやかな成功はあったが、ロスコは自身の収入をまかなわなくてはならなかったので、1929年から1952年までセンターアカデミーで教師として粘土彫刻を教えていた。この期間にロスコは15歳年上の作家ミルトン・エイブリーの周囲の若い作家、バーネット・ニューマン、ジョセフ・ソルマン、ルイス・シャンカー、ジョン・グラハム(英語版)と一緒にアドルフ・ゴットリーブに会った。エレイン・デ・クーニングによると、ロスコに「プロ作家としての人生」のひらめきを与えたのはエイブリーであったという。エイブリーの豊かな色彩と形態における知識を使い描かれた自然の絵画は、ロスコに凄まじい影響を与えることになる。しばらくしてロスコの絵画は1933年 - 1934年の《水浴》や《浜辺の風景》などにみられるようにエイブリーと良く似た主題と色を使っている。
ロスコ、ゴットリーブ、ニューマン、ソルマン、ジョン・グラハム(英語版)、そして彼らの良き師エイブリーは一緒にかなりの時間を過ごしていた。ジョージ湖 (ニューヨーク州)やグロスター、マサチューセッツで休暇をともに過ごし、日中は絵を描き午後はアートについての議論をおこなった。1932年にジョージ湖を訪れた際は、その年の秋に結婚することになるジュエリーデザイナーのエディス・サッチャーと出会う。
1933年、ポートランド美術館でドローイングと水彩画による初の個展を開催する。ロスコはこの展示に際し、彼のセンターアカデミーのこどもたちの作品も展示するという、非常に珍しい展示をおこなっている。この頃の作風はサルバドール・ダリ、ジョアン・ミロなどのシュルレアリスム絵画の影響の濃いものであった。ロスコの家族は、絶望的な経済状況から、アーティストになるというロスコの決意を理解することができなかった。家族は深刻な財政的挫折を被っていたが、ロスコの経済に関する無関心に当惑させられていた。ロスコの家族はマークがより現実的なキャリアを見つけないことで彼の母を苦しめていると感じていた。
ニューヨークに戻ったとき、ロスコは現代美術のギャラリーでの初の東海岸の個展があった。そこでは、いくつかの水彩とドローイング、それと主に肖像描いた15点の油絵を展示しました。このとき展示された油絵は、批評家の目に留まるものでした。ロスコの豊かな色面は、エイブリーの影響を超え発展されているものになっていた。1935年の後半にロスコは、イリヤ・ボロトウスキー、ベン・シオン、アドルフ・ゴットリーブ、ルー・ハリス、ラルフ・ローゼン、ルイス・シャンカー、ジョセフ・ソルマンとともに「ザ・テン」を結成する。その使命は当時のアメリカ美術界の昔を懐かしむ風潮やヨーロッパの美術に重きをおく保守的な価値に対して抗議することだった。当時のロスコのスタイルは、晩年の彼の有名なスタイルへ発展しつつあったが、色による深い探求にも関わらず、まだ神話や寓話のシンボルから影響を受けシュルレアリスム的な絵画を描き、別の形式の革新を探求していた。
ロスコの作品は、特に結成したアーティストのグループの仲間うちからは好評を得ていた。1937年のはじめ、ゴットリーブやソルマンを含む芸術家協会は、自分たちで組織したグループ展を市のアートギャラリーで行うことを望んでいた。前年である1936年のフランス、ギャラリー・ボナパルトで行ったグループ展では、いくつかの肯定的な批評を得ていた(ロスコの絵についてはある批評家が「本物の色の価値を提示した」と述べた)。その後、1938年にニューヨークのマーキュリー・ギャラリーで「ホイットニーへの反逆者たち展」を行う。これはマーキュリー・ギャラリーの近くでもあり、グループの活動を一部の事柄とみなし、アメリカン・シーンやリージョナリズムを推し進めていたホイットニー美術館への当てつけであった。また、この時期のロスコは、エイブリーやゴーキー、ポロック、デ・クーニングのようにニューディール政策によって始まった公共事業促進局(WPA)の事業の一環である連邦美術計画(FAP)に雇われた時期でもあった。
1936年になって、ロスコは、子供達の作品と現代絵画の作品との類似性について、決して終わることのない本を書き始めた。ロスコによると、現代作家は原始美術より影響を受けており、その中で「子供の芸術は自身を原始へ変換し、唯一子供は彼自身の模倣を生み出す。」ので子供たちの作品と、比較することができるとしている。本稿で彼は、「事実として、通常の描くということはすでに学術的であり。我々は色から始める。」と述べている。ロスコは、色面を彼の水彩や都市の風景で使っている。
ロスコの仕事は、神話的主題を含んだ長方形の色面と光と再現表象から成熟された。そして、その後彼の最後の仕事になるロスコ・チャペルによって結実される。しかし、素朴な人と陽気な都市風景、初期の水彩画、そして卓越した色面へと移行する長い期間は、ロスコの人生のなかで二つの重大な出来事によってはさまれています。それは、第二次世界大戦の開始とフリードリヒ・ニーチェを読んだことでした。
1937年の夏、ロスコは妻エディスと離婚する。彼らは数か月後に和解したが、まだ彼らの関係は緊張した状態のままだった。1938年2月21日、ロスコはヨーロッパで台頭してきたナチスの影響から、アメリカも国内のユダヤ人を突然の国外追放するかもしれないという恐怖にかられ、またWPAの応募資格がアメリカの市民権を要求していたためアメリカの国籍となる。ヨーロッパとアメリカにおける反ユダヤ主義に対する懸念から、1940年「マーカス・ロスコビッチ」から「マーク・ロスコ」に名前を短縮した。「ロス」ではまたユダヤ系の意味を持つので出自の分かりにくい「ロスコ」とした。
アメリカ現代絵画は、その概念的な袋小路に達することを恐れていた。ロスコもまた、都市や自然の風景以外の主題の探求を意図した。彼は彼自身の形態や空間、色への関心の高まりを満たす主題を求めていた。戦争による危機は直接この探求に影響を与えた、なぜなら、ロスコは新しい主題は、社会的な影響力を持ち、現在の政治性や価値を超越することができると主張していた。彼は1949年のエッセイの中で「ロマンはとても素早い」と書いている。彼はこうも主張する「古代の芸術家は‥必要な仲介者、怪物、ハイブリッド、神そして半神半人の集団を作るということが分かった」それはちょうど、現代人がファシズムと共産主義のあいだで見つけたものと同じ方法でもあった。ロスコは「怪物や神なくして、芸術でドラマは生まれない」とものべている。
ロスコの神話の使い方は、現代の歴史の解説し物語るものではなかった。ロスコとニューマン、ゴットリーブはジークムント・フロイトやカール・グスタフ・ユングの著書を読み、特に、フロイトやユングの夢に対する理論や元型無意識にたいして議論した。彼らは特定の歴史や文化を越えた、人間の意識に働きかける神話的シンボルに対して理解していた。ロスコは後に彼の芸術のアプローチを自身の「神話における劇的な主題」に対する研究による「改革」と呼んだ。ロスコは伝えられるところによると、1940年に描くことを完全に止め、ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』とフロイトの『夢判断』に没頭した。
ロスコの新しいビジョンは、現代人の精神性へ呼びかけ、創造神話に要求されるものへ対応することだった。この期間のロスコにおける哲学的な影響はフリードリヒ・ニーチェの『悲劇の誕生』であった。ニーチェはギリシア悲劇が限りある人生への恐怖から救うことに役立っていると主張した。この時から、ロスコにとって現代美術におけるトピックの探求は目標ではなくなった。そして、この時から彼の芸術の目標は現代人の精神的な空虚を和らげるという目標を持った。ロスコはこの空虚は現代に神話が不足していることが起因していると考えた、これは、ニーチェによると「子どもの心の成長と-成熟した人間の人生との戦い」において対処出来るとされていた。ロスコは彼の芸術により神話的イメージやシンボル、儀式などで無意識のエネルギーが解放される可能性について信じていた。彼は自らを「神話の創造者」と考え「陽気な悲劇は私の芸術の唯一の源である」と語った。
独自のスタイルを確立するのは1940年代の末ごろである。クレメント・グリーンバーグらの高い評価により、一躍有名になった。そしてニューヨークのシーグラム・ビルディングにあるフォーシーズンズ・レストランの壁画を依頼され、約40枚の連作(シーグラム壁画)を制作した。しかし友人に譲った作品が売りに出されるという事件をきっかけに、自分の作品が世間に理解されていないと考えるようになり、前渡しされた購入金を全額返却して納入を拒否した。その後、いくつかの美術館が作品の買い取りを申し出たが、ロスコが全部を一つの空間で展示することにこだわったため難航し、結局彼の死後、世界の3つの美術館(ロンドンのテート・モダン(テート・ギャラリー)、ワシントンD.C.のフィリップス・コレクション、千葉県佐倉市のDIC川村記念美術館)にわかれて収蔵された。
DIC川村記念美術館には、マーク・ロスコ専用の 「ロスコ・ルーム」 が用意されており、7点のシーグラム壁画による静謐な空間を体験することができる。
晩年には、ヒューストンの美術館メニル・コレクションの近郊にある「ロスコ・チャペル」の壁画に取り組んだ。
彼は壁に自分の作品だけを展示し他人の絵を並べてほしくないと望んだ。
1970年に病気(大動脈瘤)や私生活上のトラブルなどの理由で自殺。66歳であった。
- 代表作
- ナンバーシリーズ
通りの風景
ポートレイト
地下鉄の風景
マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
-
デュシャンはニューヨーク・ダダの中心的人物と見なされ、20世紀の美術に最も影響を与えた作家の一人と言われる。コンセプチュアル・アート、オプ・アートなど現代美術の先駆けとも見なされる作品を手がけた。
デュシャンが他の巨匠たちと異なるのは、30歳代半ば以降の後半生にはほとんど作品らしい作品を残していないことである。彼が没したのは1968年だが、「絵画」らしい作品を描いていたのは1912年頃までで、以降は油絵を放棄した。油絵を放棄した後、「レディ・メイド」と称する既製品(または既製品に少し手を加えたもの)による作品を散発的に発表した。1917年、「ニューヨーク・アンデパンダン展」における『噴水(泉(男子用小便器に「リチャード・マット (R. Mutt)」という署名をした作品))』が物議を醸した。その後、『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』という通称「大ガラス」と呼ばれるガラスを支持体とした作品の制作を未完のまま1923年に放棄し、ほとんど「芸術家」らしい仕事をせずチェスに没頭していた。なお、チェスはセミプロとも言うべき腕前だった。1963年には、服を着たデュシャンがヌードのen:Eve Babitzと対局しているシュールな写真作品を発表している。
彼のこうした姿勢の根底には、芸術そのものへの懐疑があり、晩年の1966年、ピエール・カバンヌによるインタビューの中でデュシャンは、クールベ以降絵画は「網膜的になった」と批判しており、「観念としての芸術」という考えを述べている。
「芸術を捨てた芸術家」として生前より神話化される傾向のあったデュシャンに批判的な声(ヨーゼフ・ボイスによる「デュシャンの沈黙は過大評価されている」など)もあったが、死後、ひそかに制作されていた遺作(『(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ』)が発表され、周囲を驚かせた。 墓碑銘に刻まれた「死ぬのはいつも他人ばかり」という言葉も有名。
1887年、ノルマンディー地方セーヌ=マリティーム県ブランヴィル=クレヴォンの裕福な家庭に生まれる。父は公証人。マルセルは7人兄弟の3男であった。兄のガストンとレーモンはともにマルセルより10歳以上年長で、それぞれジャック・ヴィヨン、レーモン・デュシャン=ヴィヨンの名で、美術家として知られている。他に姉が1人(早世)と妹3人がおり、すぐ下の妹シュザンヌはデュシャンのモデル及び協力者として知られている。
マルセルは兄らの影響で少年時代から絵を描き始める。高校を卒業後、1904年、パリに出てピュトー派の兄らと合流。兵役終了後、アカデミー・ジュリアンで絵画を学んだ。初期には印象派やフォーヴィスム風の作品や、『階段を降りる裸体』(1911年、1912年、1916年制作の3バージョン)のようなキュビスムと未来派の影響を受けた絵画作品もある。
1911年、連続写真を思わせる『汽車の中の悲しげな青年』を制作。この年、フランシス・ピカビアと知り合い、影響を受ける。翌1912年、出世作『階段を降りる裸体No.2』、『花嫁』などを描く。しかし、所属していたキュビスムを研究するグループの保守的な批判(『裸体は階段を降りるものではない』と題名の変更を求められた)に憤慨し、グループ展に出品していた作品を取り下げる。この1912年に油絵を複数制作後、油絵をほとんど放棄する。
1913年2月-3月、ニューヨークのアーモリー・ショー(アメリカにおけるヨーロッパ現代美術の最初の大規模な展覧会)では仲間からは批判を受けた『階段を降りる裸体No.2』を含む4点が展示された。それは、ヨーロッパの最新の芸術が輸入されてきたと(若干の誤解を伴って)スキャンダラスな話題を呼び、「屋根瓦工場の爆発」などと新聞で揶揄され、アメリカにおけるデュシャンの名を大きく広め、ニューヨークに移り住む大きな足がかりとなった。後半生にほとんど絵画作品を手掛けなかったデュシャンが有名であるのは、この『階段を降りる裸体No.2』によるところが大きい。
第一次世界大戦中の1915年に渡米し、ニューヨークにアトリエを構える。1919年、いったんフランスへ帰国。以後はアメリカとフランスを行き来しつつ、おもにアメリカで活動する。アメリカにはルイーズ&ウォルター・アレンスバーグ夫妻という、デュシャンのパトロンとなる人物がいた。以後のデュシャンの主要作品はほとんどがアレンスバーグ夫妻のコレクションとなり、フィラデルフィア美術館に寄贈されて一括展示されている。また、コレクターのキャサリン・ドライヤー、美術家・写真家のマン・レイとも親交を結んでいる。
1915年に制作が始められ、1923年に未完のまま放棄された、通称『大ガラス』は、デュシャンの仕事を語る上で欠かすことができない。これは、高さ約2.7メートルの2枚の透明ガラスの間に、油彩、鉛の箔、場所によっては「ほこり」で色付けをした作品である(マン・レイは大ガラスを撮った「埃の培養」という作品を残している)。上部の「花嫁」の領域と下部の「独身者」の領域に分けられるが、この作品の構想や各部分の表す意味については、難解で哲学的なメモ類(『グリーンボックス』など)が残っており、これらを分析することでデュシャンでなくとも「大ガラス」を再制作することが可能である(東京大学に瀧口修造、東野芳明監修のもと再制作された『大ガラス』があるほか、リチャード・ハミルトンによって作成されたロンドンバージョン、ウルフ・リンデによるストックホルムバージョンが存在する)。そのため、「ガラス」と「メモ」の両方を合わせたものが一つの「作品」であると考えられている。作者自身はこの作品について晩年のインタビューで「美学的に鑑賞されるものではなく、『メモ』と一緒に見るべきものである」「『美学の放棄』ということ以外には特別の考えなく作ったものだ」と言明している。なお、オリジナルの大ガラスにはひびが入っているが、このひび割れは意図的に入れたものではなく、1926年に輸送中の取り扱い不備により偶然生じたものだった。デュシャンは意図しない「偶然」によって、作品に新たな要素が付け加えられたことを喜んだ。
先述のように大ガラス以降、デュシャンは自らの作品をつくることに興味を喪失したかのようであったが、『トランクの中の箱(デュシャンのそれまでの作品をミニチュアのように一つのトランクに収めたもの)』などそれまでの作品のミニチュアコレクションとも言うべきものを作成したり、マン・レイ、キャサリン・ドライヤーとソシエテ・アノニム(株式会社という意味)を運営し、芸術作品の目利きをつとめるなどした。また、ダダやシュルレアリスムの展覧会にも展示会場のデザインなどで、散発的に協力しており、活動の中心を担うことはしないものの、常に周辺にいて、存在感を発揮した。
早い時期に油絵を放棄したデュシャンは、既成の物をそのまま、あるいは若干手を加えただけのものをオブジェとして提示した「レディ・メイド」を数多く発表した。1913年制作の『自転車の車輪』が、最初のレディ・メイドといわれている。レディ・メイドのタイトルの多くは、ユーモアやアイロニーを交えた地口や語呂合わせで成り立っており、一つだけの意味を成り立たせないように周到に練られている。デュシャンは、レディ・メイドについて明確な定義が自分でもできないと語っていた。
なかでも、普通の男子用小便器に「リチャード・マット (R. Mutt)」という署名をし、『泉』というタイトルを付けた作品(1917年制作)は、物議をかもした。この作品は、デュシャン自身が展示委員をしていたニューヨーク・アンデパンダン展に匿名で出品されたものの、委員会の議論の末、展示されることはなかった。後年、デュシャンは「展示が拒否されたのではなく、作品は展覧会の間じゅう仕切り壁の背後に置かれていて、自分も作品がどこにあるか知らなかった」とインタビューに応えている。デュシャンは自分が出品者であることを伏せたまま、展示委員の立場から抗議の評論文を新聞に発表し、委員を辞任した。最終的にはこの作品は紛失した(展示に反対した委員が意図的に破棄したのではないかと考えられている)。
後日、自身が編集に携わった雑誌「THE BLINDMAN」においてデュシャンは、アルフレッド・スティーグリッツが撮った『泉』の写真も含めて以下の様に言及している。
これは、レディ・メイドに関するデュシャンの考え方の一端を表しているとも考えられる。
こうしたエピソードはいかにデュシャンが、美術の枠を外そうとし、また拒否反応があったかという点を示しているとも言えるが、抗議文の発表など手際の良さも目立ち、予めこの事がおこるのを予期していたとも考えられ、「みるものが芸術をつくる」というデュシャンの考え方を端的に示した一流のパフォーマンスとも言える。デュシャンはこの後、ほとんど作品を制作発表しなくなる。
件の『泉』を含むレディ・メイド作品の多くはオリジナルは紛失している。『泉』は、スティーグリッツによって撮られた一枚の写真を残して紛失しており、現在目にすることのできるのは写真か複製に限られている。しかし、30年後にデュシャンに傾倒する若者が、別の市販の便器の展示許可を本人から得て話題となった。デュシャンが芸術は受け継がれていくものだと考え承諾し、「R. Mutt」のサインを入れた。現在、芸術としての公式の便器が数百点に上る。
『泉』は2004年12月、世界の芸術をリードする500人に最もインパクトのある現代芸術の作品を5点選んでもらうという調査の結果、パブロ・ピカソの名作『アヴィニョンの娘たち』を抑えて堂々の1位を獲得した(ターナー賞のスポンサーとジンの製造会社が実施)。『泉』の発表後、20世紀の多くの芸術家は「デュシャン以降、何が制作できるのか」という問いに直面しており、それに応えた作品が多く生まれている。
なお、『泉』という日本語題名については、誤訳であり、『噴水』と訳すべきであったという説もある。それは、レディ・メイドという性格上、泉という自然のものではなく人工のものとして扱うべきであるというのが理由である。また、デュシャンのエロティシズムに対する態度から決して性的なモノを拒否していたとは思われないというのがもうひとつの理由である。もしこの作品を邦題『噴水』として受容鑑賞するならば、その噴水のノズルは何か? それはこのオブジェの前に在ってしかるべき男性器であり、すなわち作品名からしてダブルミーニングではないか、というのが誤訳説である。
「噴水」とすべきという点については、別の主張もある。 デュシャンの「泉」に使われた便器は配管して水を流した場合、水が噴水のように上に噴出する。そこからこの作品の題名がFountain=噴水、と名づけられたという説である。
『泉』という日本語のタイトルがつけられていることから、この作品にはアングルの代表作『泉』となんらかの関係があると考え、この二つを結びつけて論じる人たちがいるが、デュシャンの『泉』の原題はFontaine(英語ではFountain)で、アングルの『泉』の原題La Sourceとは異なる。この2つは類義語ではあるが、日本人以外でこの二つの作品の関係を論じる人はいないようである。
2006年、パリのポンピドゥー・センターの企画展ギャラリーで行われた「ダダ展」で、従来よりポンピドゥー・センター内の国立近代美術館で普段はガラスケース内に展示されていた『泉』が、この企画展に移されケース無しで展示されていた。企画展終了の数日前、一人の男がこの『泉』をハンマーでたたき、国立近現代美術館所有の『泉』は破損した。警察発表によればこの男は「自分のやった事は芸術的パフォーマンスであり、デュシャンも理解したはずだ」と述べたという。
- 代表作
- 泉
チェスプレーヤーの肖像
汽車の中の悲しげな青年
階段を下りる裸体No.2
花嫁
Tu m'
モーリス・ルイス(Morris Louis)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
-
メリーランド州ボルチモア出身。メリーランド芸術大学を経て、抽象画家となる。一時はニューヨークで活動するも主にコロンビア特別区で活動し、絵画講師を務めながら自身の作品を制作した。
代表作は時系列で、ヴェール(1954年と1958-59年)、アンファールド(1960-61年)、ストライプ(1961-62年)の3タイプに分類される場合がある。自身で開発したステイニング(染めこみ)と呼ばれる技法が特徴とされ、「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」の代表的作家の一人といわれる。
アトリエでの制作過程は誰にも見せず、自身の口から語ることもなく、制作過程の記録も残されていなかったため、どのような手法で絵を描いていたのか詳細は不明とされている。
- 代表作
- ヴェール
アンファールド
ストライプ
ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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ボイスは1921年、ドイツ北西部のクレーフェルトに生まれ、オランダ国境に近い田園地帯の街クレーヴェで育った。彼は動物や植物などの自然に興味を持ち、鹿やウサギ、家畜の羊の群れと接する子供時代を過ごした。またチンギス・ハンの伝説や、クレーヴェ伯代々の白鳥崇拝の残るシュヴァーネンブルク(白鳥城)や当地の白鳥の伝説に影響を受けた。こうした伝説や動物たちは後の彼の作品にしばしば登場している。近くに住むアヒレス・モルトガット(Achilles Moortgat、1881年-1957年)のアトリエをよく訪ねるなど芸術に接する機会もあったが、医学の道を進むもうと考えていた。
1936年ごろ、ボイスはヒトラー・ユーゲントに加入した。後に彼は「誰もが教会に行くように、当時は誰もがヒトラー・ユーゲントに行った」と語っている。(Tisdall, Caroline. Joseph Beuys, London, 1979, p. 15.)またこの頃、焚書される書籍の中にあった彫刻家ヴィルヘルム・レームブルックの作品図版に強い衝撃を受けた彼は、以後生涯にわたりレームブルックを尊敬し彫刻の可能性を信じるようになった。1940年代前半からはデッサンを描き始めるが、そこでは北方や東方の神話、自然科学、ルドルフ・シュタイナーの人智学の問題に取り組んでいた。
おりしも第二次世界大戦が勃発した頃で、ボイスは1940年、ドイツ空軍に志願し、ハインツ・ジールマン(戦後西ドイツで野生動物のドキュメンタリー映画作家として有名になった人物)による訓練を受けた後、Ju 87(シュトゥーカ)急降下爆撃機に無線オペレーターとして搭乗し東部戦線で戦った。
彼が作品の中に顕著に脂肪とフェルトを使うようになった理由について、戦時中の体験が引用されることがある。1944年5月16日、クリミア半島上空で彼はソ連軍に撃墜され、ステップに墜落して軽症を負った。数日後もしくは翌日、彼はドイツ軍野戦病院(Feldlazarett)179号に収容され2週間の手当てを受けた。ボイスは後に、墜落後助かった理由について、遊牧民のタタール人(クリミア・タタール人)に助けられ、体温が下がらないように脂肪を塗られてフェルトにくるまれたという話を様々に語っており、この体験が個人的な転回点になったとしてタタール人や脂肪にまつわる作品を多く制作している。しかしタタール人による救助については確証がない。これは事実ではなく、自分と遊牧民や素材とを結びつけるための個人的な神話作りだとみなす見方が研究者の中にはある(クリミア・タタール人に対しスターリンが対独協力の罪で強制移住命令を出したのは1944年5月18日)。
負傷からの復帰後、彼は西部戦線で空挺部隊の降下猟兵(Fallschirmjäger)として戦い、鉄十字章や戦傷章金章を含むさまざまな勲章を受けた。戦争末期、彼はイギリス軍の捕虜となり、1945年8月にクレーヴェの両親の家に戻ることができた。
泥沼の東部戦線を体験し、頭に重傷を負って復員したボイスはクレーヴェで傷を癒しながらシュタイナーの人智学を研究し、水彩画やドローイングを描き始め、地元の画家に学んだ。1947年、彼はデュッセルドルフに移り、デュッセルドルフ芸術アカデミーで芸術の勉強を開始した。
戦後片田舎で芸術に集中した時期、および1947年から1951年までデュッセルドルフに出て芸術アカデミーで学んでいた時期、彼は後の彫刻作品のヒントとなるようなドローイングを多数描いていた。1961年、デュッセルドルフ芸術アカデミーの彫刻科教授になった彼は、この講座で様々なパフォーマンスを開始し学校内学校を開く。彼は、自分のクラスは入りたい者すべてに対し開かれるべきだと主張し、大学定員制のためアカデミーに入れなかった学生を自分のクラスに受け入れたが、アカデミー当局との衝突の結果、1972年、教授職を解雇された。これをきっかけに彼は大学を出て学外での社会運動に関わってゆくが、ボイスを解雇したことに対する学生の抗議を味方につけ、彼は大学との訴訟に入った。1978年、彼は勝訴し、教授には戻れなかったがかつての教室をそのまま使用することは許可された。彼はここを自ら主宰する自由国際大学のオフィスとした。
彼の講座から巣立った、または彼の授業に出た学生の中から多くの注目すべき美術家が現れた。その中には、ゲルハルト・リヒター、ジグマー・ポルケ、アンゼルム・キーファーら、ドイツ美術を支えるに至った画家たちがいる。
1962年、ボイスは短期間フルクサスのメンバーとなりナムジュン・パイクらと親交を持つようになった。フルクサスの作る、美術、音楽、文学など多くの芸術分野にまたがるイヴェント制作に関与することは、ボイスの作品制作をパフォーマンスアートへと導くことになった。フルクサスから離れた後、彼は「芸術が社会に対し何をなしうるか」という命題をもとに、シュタイナーから影響を受けた独自の彫刻理論をもって、多くのオブジェを制作しパフォーマンスを演じるようになった。こうしたパフォーマンスの際に、彼は演じやすいようにフィッシャーマン・ベストと帽子の姿をしたが、後のパフォーマンスでも、演者が誰か再確認させる意味で彼はこの衣装を着続け、これが彼のトレード・マークとなった。なおパイクと一緒に弾いたピアノ曲も残されている。
ボイスはシュタイナーの講演集にある「蜜蜂について」論じた文章から影響を受け、独自の熱理論と造形理論を形成した。彼によれば、蜜蜂はその熱によって蜜蝋(脂肪の一種)から幾何学的な巣を作り出す。混沌とした不定形の物質で、熱で溶け去ってしまうような脂肪が、熱の働きによって結晶質の秩序立った建築へと変わることに、(さらにまた熱で溶けて不定形へと流転しうるプロセスに、)彼は彫刻形成の原理を見た。
またこうした原理の根源には、熱という、永続的・潜在的なエネルギーであり、混沌として流出し流動する要素が存在する。不定形のものを秩序ある形にするのは、物理的な力ではなく、有機的で流動的なエネルギーである、ということが彼の彫刻理論の基礎にある。
ボイスは復員後の長期の療養以来、極めて感覚が敏感になってしまったが、こうした知覚によって、熱で燃えてエネルギーを発散し、しかもクリームのようにも固体にもなる脂肪という物質を発見した。同様にフェルトにも、熱を蓄える性質を持ち、しかもごわごわと厚ぼったい不定形な印象があることを見出した。こうして彼は、脂肪、フェルト、蝋、バッテリーなど、彫刻の素材にはなりそうもないものを、熱を蓄え、暖め、造形される物質として立体作品の素材にした。
また、熱のように造形力のあるエネルギーによって、不定形のものを秩序ある形態に変える、という彫刻理論は、やがて造形作品の制作だけでなく、パフォーマンスを通じた活動や、個人や社会を変える教育活動・社会活動へと拡張してゆく。そして人間の行う活動は労働あれで何であれすべて芸術であり、すべての人間は芸術家である、という認識へと至った。
ボイスは戦時中から復員後、1950年代末まで、人間や植物などを題材にした多くのドローイング(素描)を集中的に描いた。それらはときどきはっとするほどの完成度を見せながらも、人間や植物などを、崩れ落ちそうなほどの危うげなぎくしゃくした線で描いた落書きのような印象のものである。やがて、1960年代に入り脂肪やフェルトを素材にした立体作品が、またさまざまなパフォーマンスが現れる。
ドローイングも立体もパフォーマンスも、どれも粗悪な紙や廃棄物やありふれた物質などのみずぼらしい素材を使った、完成しているのかしていないのか定かでなく、多義的で理解しがたいものばかりである。しかし彼にとって造形的な作品は結果物や目的ではなく、より高次元の造形過程や意識生成過程の途中にできたものであった。作品は彼にとって想像をかき立てたり直観をよびおこしたりする物質を使っており、彼はその直観を受け手にも共有させ、送り手と受けての間の議論の出発点となる、問題定義のための装置として、また人間が自己を実現しうる新しい存在領域を形成するための手がかりとして機能させようとした。もっともこうした直観はボイスの思想体系の中で成り立っており、ボイスならぬ受け手の側では共有しかねるものであり、ボイスはそのことを否定せず、対話や説明でヒントを与え、議論のきっかけを作ろうとしていた。
また彼のわかりにくい作品は、論理的な人間の理性の部分ではなく、より原始的で直観的な、感性的な部分にダイレクトに訴え、受け手の中にイメージを喚起しようとした。彼によれば理性とは論理で検証できる、結晶のように凝縮した、量における思考のことであった。他方で直観とは、思考の拡大であり質による思考であった。直観の有機的な原理は理性的思考を包含しており、直観は理解のより高次な形式である、というのが彼の考えであった。さらに加えて「創造性」が理性と直観の橋渡しをするとし、創造性と直観によって人間は自分自身を糧として自律的に発展してゆけると考えた。
こうして彼は、芸術と科学や、科学と人間の間にできた亀裂を、神話的な作品や儀式のようなパフォーマンスで修復するシャーマンのような存在として活動することになる。
脂肪やフェルトの代表的な作品には、ごわごわしたフェルトでできた背広をハンガーで吊るした『フェルト・スーツ』(1970年)、脂肪を四角いギャラリーの隅の空間を埋めるように積み上げた『脂肪のコーナー』(1968年ほか)などがある。
パフォーマンスの中には、野うさぎの死骸を使ったものもいくつかある。たとえば観客をガラス壁の向こうに追い出して、ギャラリーの中で野うさぎの死骸を担ぎ、立てかけた絵の内容を野うさぎに教える『死んだうさぎに絵を説明する方法』(1965年)、同じく野うさぎの死骸を使い、十字架を描いて半分消した黒板に立てかけるなどした『ユーラシア』(1966年)などがある。『絵を説明する方法』では思考や言語の問題を、『ユーラシア』では東西文明、宗派の分裂、およびイデオロギーの断絶で分断されたユーラシアの再統合をめざした幾分理想郷的なアクションだった。『コヨーテ -私はアメリカが好き、アメリカも私が好き』(1974年)では、ボイスはニューヨークの空港到着後にすぐ画廊へと救急車で運ばれ、一週間、フェルトや新聞、干し草の積まれたギャラリーの中にこもって、アメリカ先住民の聖なる動物であるコヨーテとともにじゃれあったりにらみ合ったりするなど無言の対話を続けた。それ以外のアメリカを見ないままボイスは再度空港に運ばれてドイツに帰った。
1979年、ニューヨーク市のグッゲンハイム美術館で大規模回顧展が開かれ、彼の名声は高まった。1982年の現代美術展ドクメンタ7では、カッセル市に7,000本の樫の木を植えるというプロジェクトを開始し、まずメイン会場前に7,000個の玄武岩が設置され、その後賛同する市民や企業の寄付で樫の木が少しずつ増えていった。
また当時の同僚のナムジュン・パイクと一緒に仕事をしたせいでいくつかの音響作品も残している。
ボイスは人智学への接近を通じ、民主的で芸術的で霊的に動機付けられた社会という政治理論にたどりついた。彼は社会は一つの偉大な芸術的な総体であるべきだと信じ、人類の社会を意味あるものにして精神的な深みを与える鍵は芸術家が握っていると考えていた。
彼は1972年以後、急速に社会的、政治的活動を活発化させた。前年、彼は芸術アカデミーの学生らとデュッセルドルフ近郊のテニスクラブへ、森林を伐採しての拡張工事に抗議すべく行動を行い、自然保護運動を開始した。1972年に行われたドクメンタ5で、彼は『直接民主主義組織のための100日間情報センター』を会期中開設し、参加者たちと黒板に図解を書きながら討論を行った。(彼の思考を図解したこうした黒板は多く残っている。)また、この年に芸術アカデミーを放逐された彼は1974年に自由国際大学を開設、社会改革のための作業の情報センターとし、教育者として参加者に社会改革について講義しながら同時に教えられる立場にも回る教育活動を行った。こうした活動も、ボイスの中では彫刻であり、彫刻概念を拡大し、あらゆる人間は自らの創造性によって社会の幸福に寄与しうる、すなわち、誰でも未来に向けて社会を彫刻しうるし、しなければならない、という呼びかけに基づく「社会彫刻」であった。彼は文化における自由、政治におけるデモクラシーと自治、経済における友愛を理想とした。
1976年、連邦議会選挙で、『独立したドイツ人の運動連合』(Aktionsgemeinschaft Unabhängiger Deutscher)の候補として出馬した。この組織の目的は二つに分かれたドイツを統一し、NATOや東側の両方を拒否する中立国家とすることだった。この小さな組織は新しく生まれるドイツ緑の党に合流し、1979年にボイスは緑の党の欧州議会議員候補として立候補した。(もっとも、党は議席獲得に必要な5%の得票率が得られず、代表を出すことには失敗した。)1980年の連邦議会選挙ではノルトライン=ヴェストファーレン州の緑の党の名簿第一位の候補として立候補したが、またしても落選した。この間、ボイスはテレビ討論、イベント、選挙活動などで緑の党のために活動した。環境への働きかけおよび賛同者の募金により実現した1982年の「7,000本の樫の木」プロジェクトもボイスが長年続けてきた自然保護運動の延長上にあった。
1983年、1979年に調印されたSALT IIにもかかわらず西ドイツに核ミサイルが持ち込まれたことを受けて大規模な反核運動が起こったが、ボイスはこの運動の先頭に立っている。こうした活動から、ボイスは政治的敵対者たちから攻撃され、スキャンダルの渦中の人物であり続けた。
ボイスは1986年に死去したが、芸術と社会を関係させるその思想は今日まで多くの影響を美術家や建築家らに与えている。
1984年6月2日に「ヨーゼフ・ボイスと対話する学生の会」によるボイスと学生による対話集会が東京藝術大学の体育館においてが行われた。これは武蔵野美術大学視覚伝達学科研究室に在籍していた後藤充の発案に西武美術館が同意し、武蔵美学生と東京藝術大学の学生有志とで実行委員会を作り、それを東京藝大が支援したものである。発案から集会当日まで3週間という短期間で開催に至った。集会は通訳を介し休憩なしで3時間近くに及び行われた。参加人数は500人ほどであり、1984年当時発表されていた1000人は誤りである。数多くの対話集会を重ねて来たボイスの最晩年の、それも日本における唯一の対話集会となった。集会でボイスにより制作されたダイヤグラムの描かれた黒板は、現在東京藝術大学美術館に収蔵されている。
- 代表作
- 死んだウサギに絵を説明する方法
私はアメリカが好き、アメリカも私が好き
リチャード・ハミルトン(Richard Hamilton)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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ロンドン生まれ。スレード美術学校で絵画を学び、イギリスのオックスフォードシャーに在住、制作活動を行っていた。ポップアートの先駆的存在とされる。1957年から王立芸術大学(ロイヤル・カレッジ・オブ・アート)で後進の指導にあたった。
2008年、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞。
2011年9月13日、英国国内で死去。89歳没。死因は公表されていない。
- 代表作
- 今日の家庭を,こんなに違った魅力あるものにしているのは,一体何か?
我がマリリン
室内
釈放
フランシス・ベーコンによる芸術家の肖像
リチャード・プリンス(Richard Prince)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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リチャードプリンスは1949年にアメリカ合衆国のパナマ運河地帯で生まれました。
現在はニューヨークの北部にアーティストの妻Noel Grunwaldtと一緒に住んでいます。
1975年よりタバコの箱表紙になっているマルボロマンが馬に乗って荒野走る広告写真を下にした作品「無題(カウボーイ)」でデビュー。
広告やメディアによって流通しているイメージを作品に流用する「シミュレーショニズム」の作家と呼ばれています。
このテクニックは消費社会を批判する現代アートの手法として定着しています。
1985年からはキャンパスにジョークを書く「ジョークペインティング」シリーズや、エロティックな小説のカバーをインクジェットプリンターでキャンパスにプリントした上から絵の具を塗るシリーズを発表します。
2003年には「ナースペインティング」シリーズを制作しマークジェイコブスが手がけていたルイヴィトンとのコラボレーションを実現しています。
この1連のナースシリーズの作品はロックバンドグループのソニック・ユースのアルバムジャケットに用いられ「ソニックナース」としてリリースされました。
2015年には東京原宿のギャラリーにて「ニューポートレイト」シリーズを発表。
見ず知らずの他人のInstagramの画像をキャンバスにプリントアウトしました。
- 代表作
- 無題(カウボーイ)
ジョークペインティングシリーズ
ナースペインティングシリーズ
レイチェル・ホワイトリード(Rachel Whiteread)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
-
レイチェル・ホワイトリード(Rachel Whiteread)は、イギリスをリードする現代彫刻家のひとりです。
1963年にロンドンで生まれ、ブライトン大学でペインティングを、その後スレード・スクール・オブ・ファインアートで彫刻を学びました。
1993年に彫刻作品”house”で注目を集めることになりますが、これはロンドンのイースト・エンドにある立ち入り禁止になっているテラスハウスの室内空間にコンクリートを流し込み、原寸大のレプリカにしたもの。建物の内部空間を可視化した作品は、「空白/余白を可視化する」というのちに確立される彼女のスタイルの礎ともなりました。同年にはターナー賞を受賞しています。
それから徐々に国際的な賞賛を獲得するに至り、欧米でパブリック・ワークを手がけるようになりました。
- 代表作
- 給水塔
ハウス
浅い息
レギーレ・シューマン(Regine Schumann)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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1961年ドイツ、ゴスラー生まれ。
ブラウンシュワイ ク美術大学で絵画を学び、1989年にロラント・デルフラーからマイスター・ シューラリン資格を取得。2000年にはノルトライン・ヴェストファーレン州の奨学金を得て日本に滞在、現在はケルンを拠点に活動している。
ヨーロッパ、アメリカで発表を重ね、シュパルカッセ銀行、ライン州立美術館など数多くの企業、美術館に作品が収蔵されている。 彼女は製造業者との共同研究によって産み出される、蛍光顔料を混入させた オリジナルのアクリル板を使用し、シューマンは絵画とオブジェとの中間領域 に位置する作品を制作している。
混入させる顔料の量や、光を反射・吸収する度合いを調整したアクリル板を、画家が絵の具を重ねるように巧みに組み合 わせて作品を構成する。 太陽光や電球の光、あるいはブラック・ライト等、光の状況によって様々に姿を変えるその作品は、色彩と光、空間の関係を強調し見る人に意識させるとともに、刻々と変わる視覚、可視・不可視の同時性を体験させる。特にブラッ ク・ライトを照射することで発光し、周囲の空気に振動を与え、空間を色彩で満たして変容させ、身体で空間を触知できるような新しい経験を私たちにもたらす。人工的・工業的な素材や単純な形態を用いながらも、どこか遊戯的 な側面や詩的な叙情性をも併せ持つことがレギーネ・シューマンの作品の魅力といえる。
- 代表作
- Color Rainbow and Satin Brussels
Color Rainbow 3 Soft Cologne
Color Rainbow Pastel Aschaffenburg
レベッカ・ホルン(Rebecca Horn)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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レベッカ・ホルン(Rebecca Horn)は、ドイツのビジュアルアーティスト、インスタレーション・アート、映画監督。ヘッドフォンから垂直に突き出た大きなホーンを備えたボディスーツのようなアインホルン(ユニコーン)のような身体改造で、よく知られている。
映画「Der Eintänzer」(1978年)、「La ferdinanda: Sonate für eine Medici-Villa」(1982年)、「Buster's Bedroom」(1990年)を監督。現在、パリとベルリンを拠点とする。
- 代表作
- 逆向きのコンサート
アナーキーのためのコンサート
双子の鴉
青いため息
ダチョウの卵の反射鏡
ロバート・テリエン(Robert Therrien)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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1947年、アメリカ イリノイ州 シカゴで生まれる。ロサンゼルスを拠点とする芸術家。
大規模な彫刻で知られている。
彼の作品はテーブルや椅子、皿の積み重ねなど、日常生活からオブジェクトを作成する。
2019年死去。
- 代表作
- テーブルと4つの椅子
ロイ・リキテンスタイン(Roy Lichtenstein)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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リキテンスタインは1923年、ニューヨークに生まれた。1940年、オハイオ州立大学美術学部に入学。途中、兵役期間を含んで第二次世界大戦後の1949年、同大学で修士号を取得している。卒業後も大学にとどまり、1949年から1951年まで講師を務めた。初の個展は1951年、ニューヨークのカール・バック画廊で開催している。1950年代には製図工、大学講師などをしながら生計を立て、当時は最新の抽象表現主義風の作品を制作していた。
リキテンスタインの代名詞となっている、漫画のコマを拡大したような作品は1960年代初頭に登場する。彼は自分の子供にミッキーマウスの漫画を描いてやった時に、従来のいわゆる芸術としての絵画よりも漫画の方が強烈なインパクトと表現力を持っていることに気が付いたという。彼の作品では事物は全て太い輪郭線で囲まれた平面として表され、色は原則として三原色のベタ塗り、陰影はドットの大小や密度で表現されている。こうした通俗的、類型的な表現のなかに美を見出したところに彼の独創性があると言えるであろう。また赤・黄・青の三原色と白・黒に限定した色使いはモダニズムの抽象画家であるピエト・モンドリアンにも共通しており、漫画の平面性を強調した画面は同様に平面性を強調した抽象表現主義から連続しているところもあった。
後に漫画のみならず、古今の名画を同様の平面的な手法で描くシリーズや、絵具をぶ厚く塗った筆跡(ブラッシュストローク)のような平面性とは対極にあるものを漫画のように平面的に描くシリーズなども展開している。色使いも、後に三原色以外の色も使うようになり、また絵画の中に鏡面を取り入れたり、立体作品の制作なども手掛けるようになった。
1995年に京都賞思想・芸術部門(美術分野)を受賞した。
- 代表作
- ヘアリボンの少女
Look Mickey
ロバート・ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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1925年、テキサス州ポートアーサーに生まれた。父親はドイツ系アメリカ人とチェロキー族インディアンの混血、母親はイングランド系アメリカ人。ブルーカラーの家庭に育ち、第二次世界大戦中の1942年から1945年までは海軍に所属していた。終戦後、1947年から翌年初めにかけてカンザス・シティ美術学院(英語版)に学ぶ。1948年には一時パリに滞在し、アカデミー・ジュリアンに通った 。
1948年秋にアメリカに帰国したのちは、ノースカロライナ州のブラック・マウンテン・カレッジ(英語版)でジョゼフ・アルバースに学んだ。ブラック・マウンテン・カレッジでは、夏期の講師だったジョン・ケージやマース・カニンガムの影響も受けた。ケージもラウシェンバーグの作品に影響を受け、ラウシェンバーグの作品『ホワイト・ペインティング』は、ケージが『4分33秒』(1952年)を作曲するきっかけの一つになった。
1949年からニューヨークに住み、アート・スチューデンツ・リーグでも学んでいる。1951年頃から作品を画廊で発表し、1954年頃から「コンバイン・ペインティング」と呼ばれる一連の作品を発表し始める。1958年には親交のあったジャスパー・ジョーンズと同じくニューヨークの画商レオ・キャステリ(英語版)の画廊で個展を開き、やがてヨーロッパにも出品されて人気を呼んだ。
1964年、ヴェネツィア・ビエンナーレで最優秀賞を受賞した。同年には、カニンガムのダンス・カンパニーの美術監督として世界ツアーに参加し、日本では草月ホールで公開制作を行なった。1964年に世界各地をまわる中で、ラウシェンバーグは各地の素材を用いて制作をするというスタイルを確立した。1984年以降には世界の芸術家と共同制作して展覧会を行う「ラウシェンバーグ海外文化交流」(ROCI=ロッキー)を設立し、アメリカと政治体制が異なるソヴィエト連邦や中国など10カ国を訪問した。また、芸術家とエンジニアのコラボレーション組織であるExperiments in Art and Technology(英語版)(E.A.T.)の成立にも関わった。1992年にヒロシマ賞、1993年に国民芸術勲章、1995年にレオナルド・ダ・ヴィンチ世界芸術賞を受賞した。日本では、1998年に高松宮殿下記念世界文化賞(絵画部門)を受賞したことでも広く知られている。
2008年5月12日、フロリダ州キャプティバ島の自宅にて心不全のため死去した。
ラウシェンバーグ作品に共通する特徴として、越境性がある。コンバイン作品では、2次元用の素材と3次元の素材をともに使うことで、絵画や彫刻などの既存のジャンルを越境した。制作においては、世界各地で制作をすることで国家という境界を超えて活動した。また、日常と芸術という境界を超えて両方に関わろうとした。ダンスや音楽とのコラボレーションをカニンガムやケージと行った点や、芸術とエンジニアの協働を目指したE.A.T.の設立にもラウシェンバーグのジャンル越境性が表れている。
ラウシェンバーグはコンバイン作品においてマルセル・デュシャンのレディ・メイド(英語版)の概念を取り入れ、それまで前衛芸術に取り入れられていなかったアメリカの大衆文化を素材とした。1959年当時のラウシェンバーグは、自作について「絵画は日常と芸術の両方に関わっている。どちらも作り出すことはできない。(ぼくはその間のギャップで行為しようとしている)」と語っている。彼の創作において歯磨き粉や爪磨きなど様々な日用品が作品の重要な一部となったことにも、そのような姿勢が反映されているとされる。彼のコンバイン・ペインティングの典型的な作品は、抽象表現主義風の激しい筆致で塗られたキャンヴァスにケネディ大統領やアポロ宇宙船などのイメージを貼り付け(「バッファローⅡ」)、あるいは画面に交通標識、古タイヤ、鳥獣の剥製などの現実の物体を貼り付けたりしたもの(『モノグラム(英語版)』、『キャニオン(英語版)』)で、しばしば2次元の枠をはみ出している。
素材を区別せずに扱うラウシェンバーグの作風について、1968年に美術評論家のレオ・スタインバーグ(英語版)は「フラッドベッドな絵画面」と評し、ポストモダンという言葉が美術批評で使われるきっかけとなった。
- 代表作
- ホワイト・ペインティング
消されたデ・クーニング
ベッド
コカ・コーラ・プラン
モノグラム
キャニオン
ロバート・モリス(Robert Morris)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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1931年2月9日、ミズーリ州カンザスシティに生まれる。
1948年から1950年まで、カンサスシティのアートインスティチュートおよびカンサスシティ大学で学ぶ。機械工学を学んだ後、アートとアート批評に戻る。
1950年から1951年まで、サンフランシスコの美術学校で学ぶ。
1950年代、ダンサー兼振付師であった、妻のシモーヌ・フォーティとともに、サンフランシスコで暮らしていたモリスは、 しだいにダンスに興味を持つようになる。
1959年、ニューヨークへ転居。ジャドソン・ダンス・シアターとして知られる、前衛ダンスの連盟に、夫妻で参加。モリスは、このシアターのために、たくさんの作品の振り付けを行い、『アリゾナ』(1963)、『 21.3』 (1964)、 『Site』 (1964)、『 Waterman Switch』 (1965)などの作品を演出した。
1960年代、70年代の3つの主要なアート運動、ミニマル彫刻、プロセスアート、アース・ワークの定義において モリスは中心的役割を演じた。実際、モリスの最初のミニマリズム的オブジェ群は、彼が演出したダンス・パフォーマンスの小道具として作られ、続いて簡素な木製の箱のような形をした立体が作られたが、これらは、ジャドソン・ダンス・シアターが、 表現よりも機能を強調したことを反映している。
1964年と1965年に、モリスは、こうした、建築的な立体を、ニューヨークのグリーン・ギャラリーの全ての展示室に展示した。1960年代の後半、モリスは、より綿密な仕上げの、工業的な加工を、彼のミニマル彫刻のために探求し、アルミや鉄の網目のような素材を使用した。これらの工業的な製造と同様に、1960年代にモリスが制作した、ネオ・ダダ的な一連の彫刻群もまた、「芸術的な自己表現」という神話に挑戦するものだった。これらの作品には、彫塑された脳と、脳波を打ち出した紙から構成される、 皮肉に満ちた「自画像」も含まれていたし、その他の作品は、マルセル・デュシャンの科学っぽい知覚の実験や測定の作品から、直接に発想されたものだった。
1966年、ハンターカレッジ(ニューヨーク)でコンスタンティン・ブランクーシに関する論文で修士の資格を得る。その後、モリスは影響力ある批評エッセーを書き続けた。その中の4つは、彼の最も重要な仕事とみなされている。すなわち、タスク志向のダンスについて(“Some Notes on Dance,” 1965)、ミニマル彫刻について (“Notes on Sculpture,”1966年にアートフォーラム誌に掲載され大きな反響を得る)、プロセス・アートについて (“Anti Form,” 1968)、アース・ワークについて (“Aligned with Nazca,” 1975)である。
1967年、ランド・アートの先駆的作品となった『蒸気(Steam)』を製作。
2018年11月28日に肺炎のため、ニューヨーク州キングストンにて死去。87歳没。
- 代表作
- Untitled
I-Box
鏡の立体
蒸気
Boustrophedons
ロバート・スミッソン(Robert Smithson)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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スミッソンはニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで絵画と素描を学んだ。彼が最初に発表した作品群は、ビーフケーキ・マガジン(beefcake magazines、筋骨隆々とした男性の肉体美を収録したフィットネス誌などで、その主な読者はしばしばゲイであった)のホモエロティックなイラストや写真、SF雑誌のイラスト、初期のポップアートなどに強い影響を受けたコラージュであった。
当初彼は自らを画家であるとしていたが、3年間の活動休止の後、1964年にミニマルアートの旗手として美術界で頭角を現した。活動再開後のスミッソンの作品群は初期の作品に共通して見られた肉体への関心を放棄しており、その代わりにガラス板やネオン管を使い、光の反射や鏡像などを追求していた。『Enantiomorphic Chambers』などはその代表作である。スミッソンの主な関心事は、結晶の構造やエントロピーの概念へと変わり、『Alogon 2』などこの時期の作品にその影響がうかがえる。スミッソンはミニマリストとされる美術家や、「プライマリー・ストラクチャーズ」の運動に関わっている美術家たち、例えば後に妻となるナンシー・ホルト、ドナルド・ジャッド、ロバート・モリス、ソル・ルウィットらとの親交を深めた。また彼は評論家として、アルゴリズムなどを芸術に適用すること(ジェネレーティブアート)に関心を持ち、そうした内容の評論や批評を「アーツマガジン」誌や「アートフォーラム」誌に寄稿し、この時期には作家としてよりも評論家としての知名度を高めた。彼は評論内で18世紀から19世紀にかけての造園設計などのランドスケープ・アーキテクトについても振り返っており、これは後の彼自身の作品に重要な影響を与えている。
この時期、スミッソンは美術商ヴァージニア・ドゥワンが経営するドゥワン・ギャラリー(Dwan Gallery)と契約した。以後ドゥワンはスミッソンの制作の熱心な後援者となった。
1967年、スミッソンはニュージャージー州の工業地帯の探索を開始し、掘り出された何トンもの土や岩をダンプトラックが運んでゆく光景に魅せられ、これと古代の記念碑とを等しくみなすような小論を書いている。ここからスミッソンは、特定の場所から持ってきた土砂や岩をギャラリーの中に「彫刻」として置き、時として鏡やガラスを加えるインスタレーション『non-sites』のシリーズを開始した。1968年9月には小論『精神の沈降:アース・プロジェクト』(A Sedimentation of the Mind: Earth Projects)を「アートフォーラム」に発表してランド・アートの最初の世代の芸術家達の活動紹介を行い、1969年にはアースワークス作品の制作にとりかかった。
作品のみならず、スミッソンは多数の理論や批評を残した。『A Heap of Language』は紙上の作品で、言語の物質性を見せようと模索した。論文『Incidents of Mirror-Travel in the Yucatan』では、ユカタン半島周辺を移動しながら、特定の位置に鏡による作品を一時設置していった旅(『ユカタン半島でのミラーの転置』)の記録である。紀行文であり、批評に関する反芻的思考でもあるこの文は、スミッソンが作品の要として「一時的」(temporal)なもの、一時的にしか存在しないということに関心を持っていたことを浮かび上がらせる。
スミッソンの「一時的」なものごとに対する関心は、「ピクチュアレスク」という理念を振り返る評論を通して深められた。1973年に執筆された『フレデリック・ロー・オルムステッドと弁証法的風景』(Frederick Law Olmsted and the Dialectical Landscape)は、ホイットニー美術館で開催されたセントラル・パークの設計者フレデリック・ロー・オルムステッドについての展覧会『フレデリック・ロー・オルムステッドのニューヨーク』(Frederick Law Olmsted's New York)を見て書かれた評論で、この展覧会を19世紀後半のセントラル・パーク設計に関する文化的・一時的コンテクストと見た。スミッソンはセントラル・パーク予定地の古写真を検討し、1970年代のニューヨーカーにとっては本能的に明白な、複雑で「自然な」セントラルパークのランドスケープをオルムステッドが造る前に存在した、人々にとっては価値がないと見られていた荒れた風景を再発見した。スミッソンは、広く普及しているセントラル・パークの理念に対し、これをニューヨーク市街の常に変貌している風景のなかで、変化に乏しく静的な関係しかもたない、ランドスケープ・アーキテクチャーにおける19世紀の時代遅れなピクチャレスクの美学と述べてこれに挑んだ。
スミッソンは18世紀から19世紀のピクチャレスクに関する書物を読み、サイト・スペシフィシティ(場所固有であること)の問題、弁証法的風景の層としての人間による介入、経験に基づく多様性、ピクチャレスクな風景に明白にみられるデフォルメの価値観などを論じた。さらにスミッソンはこの論考の中で、ピクチャレスクなものを区別するのは、それが実際の土地に基づくものであると述べた。スミッソンは、公園は「物理的な地域に存在する、進行中の関わりの過程」として存在することを述べ、セントラル・パークにが1970年代までの間に、オルムステッドの設計よりも風化し、植物が大きくなり、人間の活動による新しい介入(ゴミ、落書きなど)の層が重なる風景になったことに興味を示している。スミッソンは放置され荒らされた風景に「美」は見出さないが、これを人間と風景の間で絶えず変化する関係を示すものとして見た。彼は、セントラルパークの池を浚うというプロセス・アートの提案により、公園の動的な変化の中に自分自身を挿入することを目指した。
彼は、ピクチュアレスクな風景の中にある、反美学的で動的な関係の範囲の中の、奇形で醜悪なものに特に魅せられた。彼は「『アース・アート』にとって最適の場所(サイト)は、産業や、配慮のない都市化や、自然自らによる破壊によって混乱している場所である」と述べている。18世紀における「田園的」や「崇高」の特徴づけでは、地面の傷のようなものは均されてしまい、より美学的に心地良い地形に変えられてしまうだろうが、スミッソンの場合は、こうしたデフォルメのようなものが風景の視覚的な側面になる必要はないことになる。彼にとっては、自然にできたかまたは人間が作った一時的な傷のほうがより重要ということになり、オルムステッドの公園設計もこの地に介入した人間活動の一部ということになる。
オルムステッドが自作に取り入れた18世紀・19世紀のピクチュアレスクの議論を再び読むことで、スミッソンは反美学的・反形式主義的な理論の流れを露呈させ、ピクチュアレスクの理論的枠組みが物理的な風景とその一時的な文脈との間の弁証法であることを示し、これらの再解読と再評価でセントラルパークに近代美術およびランドスケープ・アーキテクチャーとしての重要性を意味付けられるとしている。スミッソンや他のアースワークの芸術家に対する「工兵のごとく土地を切ったり掘ったりしている」という批判に対し、彼はそうした意見は「土地に対する直接の有機的操作の可能性を無視している」と攻撃し、「われわれの風景の中にある矛盾に背を向ける」と述べている。
の他の論文では、スミッソンは美術作品とその環境の関係を探り、「サイト」(site)と「ノン・サイト」(non-site)の概念を導き出した。「サイト」は特定の野外の場所に置かれた作品で、「ノン・サイト」は美術館やギャラリーなど、置ける場所ならどこにでも置ける作品を指す。スミッソンの代表作『スパイラル・ジェティ』(Spiral Jetty)はサイトの作品の代表例で、一方スミッソンには特定の場所を写した写真(空中写真など)や地図などからなる「ノン・サイト」の作品もあり、しばしば元あった場所から移動させた物(石や土など)とともに展示された。1970年に制作された『スパイラル・ジェティ』は、ユタ州のグレートソルト湖にある長さ1500フィートの土砂・岩石・塩でできた長い突堤で、先端が渦巻状になっている。制作年の湖の水位が非常に低かったため、湖の水面が元通りに上昇する年には完全に水没する。
1973年7月20日、スミッソンはテキサス州でのプロジェクト『Amarillo Ramp』の予定地を調査していたときに、飛行機の墜落で死亡した。彼の早すぎる死や残る作品の少なさにもかかわらず、スミッソンの作品は現在も高く評価されている。
- 代表作
- 精神の沈降:アース・プロジェクト
スパイラル・ジェティ
Enantiomorphic Chambers
ロバート・ロンゴ(Robert Longo)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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ロバート・ロンゴ(Robert Longo)はアメリカ合衆国のニューペインティングアーティスト、映画監督である。ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン出身。
1976年、バッファローのホールウォールズで初の個展を開く。1979年、ヨーロッパ各地でパフォーマンスを行う。1986年、東京のスパイラルホールで「ロンゴ・イン・トーキョー」を開催した。1995年には「JM」で異分野である映画監督に初挑戦した。
- 代表作
- End of the Season
Model for "Dumb Running
ロデル・タパヤ(Rodel Tapaya)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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ロデル・タパヤは1980年フィリピンのリサール州モンタルバン(現ロドリゲス)に生まれる。フィリピン大学美術学校で学び、2001年ノキア・アート・アワード(アジア太平洋地域)でグランプリを獲得、ヘルシンキ美術デザイン大学に留学の機会を得て、さらにニューヨークのパーソン・デザイン学校でも学び、2011年にはシンガポールのシグネチャー・アート・プライズでグランプリを受賞、現在では、フィリピンのルソン島中部のブラカンを拠点に活動している。
タパヤの作品は、フィリピンに伝わる民間伝承をモチーフにしたものが多い。本作も天空界の一場面が描かれていて、現世は右下に切り離されて描き加えられている。フローラ(植物相)とファウナ(動物相)の神殿、葡萄の木の門、孤島のような場景に浮かぶ神秘のラグーン。そこに空から地上へとおりる神ルマウィグ、人類を創造するために皮膚を脱ぎ捨て表面の赤くなったメル、虹の上を傲慢にも馬で駆ける王バトハラ、雲のボートに乗っている長老のラオンと、鳥になったマナウル。神話の一場面を描くというより、神話世界とその登場人物たちを集めた作品になっている。西洋の巨匠たちの絵画のように、場面は神々の世界だが、熱帯植物とそれでできた家が描かれ、フィリピンの風土を作品に盛り込んでいる。植民地時代の近代化以前に存在し、現代文明のそこかしこに染み付いている神話世界が姿をあらわす。
- 代表作
- 早起きは三文の徳
婁正綱(Lou Zhenggang)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
- 幼い頃から父に書画を学び、70‐80年代の中国書画界の奇跡と言われる。1986年渡日、海外に滞在、長期にわたり国際芸術の舞台で活躍し、中国文化を伝える。30年来、中国、日本、米国などで27回の個展と3回の巡回展を開催。中国現代精神を持つ彼女の作品は国内外の重要美術館とコレクターに収蔵されている。婁正綱は絶えず自己鍛錬し、表現力の高い材料の探求と類まれな書画技術、彼女独特の美学的見解と深い人文的素養により、「生命と愛」「日月同輝」「心」「和合」「生生」「自然」などのシリーズ作品を創作。婁正綱の創作は水墨を媒介に、「宇宙」を想像空間とし「愛」を創作のインスピレーションに、現代的・個性的な抽象を創造、中国伝統絵画と現代芸術観念の結合を体現している。
- 代表作
- 生命と愛
日月同輝
心
和合
生生
自然
リチャード・セラ(Richard Serra)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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カルフォルニア大学バークレー校で学び、イェール大学で絵画を専攻した。アメリカのニューヨークにあるトライベッカ地区、そしてカナダのノバスコシア州ケープ・ブレトン島に制作と生活の拠点を置く。
1970年、第10回日本国際美術展「人間と物質」(東京ビエンナーレ)で上野公園内に埋めた円環状の作品「反転し合う直角、ヘクサグラムの基礎板を取り囲むために」は会期後、上野公園整備事業で掘り起こされたが、有志の学生らの手により多摩美術大学・八王子キャンパスに移動、再展示された。1981年にはマンハッタンの連邦ビル前広場に代表作となる「傾いた弧」を設置したが、景観論争が起こってこの作品は8年後に撤去されている。
1994年に第6回高松宮殿下記念世界文化賞彫刻部門、2010年にアストゥリアス皇太子賞芸術部門を受賞。
- 代表作
- Tilted Arc
Equal-Parallel/Guernica-Bengasi
Sculpture No. 3
Vectors
リチャード・ロング(Richard Long)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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1945年、イギリスのブリストルに生まれる。1966年にロンドン芸術大学セント・マーティンズ美術学校に入学、1968年に卒業する。在学中の1967年に発表した『歩行による線』で注目を集め、ヴェネツィア・ビエンナーレのイギリス館代表に選出された。
1976年、1979年、1983年、アート・エージェンシー・トウキョウ(東京)にて個展開催、来日し作品制作も行った。
1989年にはターナー賞を受賞した(それまでにも1984年、1987年、1988年にノミネートはされていたが受賞は逃していた)。
1996年には日本でも世田谷美術館、京都国立近代美術館で個展「山行水行」が催された。
2009年、高松宮殿下記念世界文化賞の彫刻部門を受賞。
1960年代から、画廊や美術館といった場所に束縛されない自然を対象にした作品を発表する。作品は、屋外の自然を歩行し、石を並べて写真を撮ったりそのときの歩行のメモを記録に残したりして制作・発表される。採集した石をギャラリーに幾何学的に配置する作品も多い。採集した石は切ったり削ったりはせず、そのままの状態で用いる。歩行する場所は、当初はイギリス国内であったが、やがて辺境などにも赴くようになる。
アメリカのロバート・スミッソンなどが重機を利用して大規模なランドアート作品を制作したのに対し、リチャード・ロングの作品は自然への干渉を最小限に抑えている点で対照的である。
こうした作品をつくるきっかけとしては、美術学校にあるような粘土や石膏といった素材ではなく、自然のものを使ってなにか作品がつくれないかと考えたことだとしている。
- 代表作
- 歩行による線
スイス花崗岩の環
コーンウォールの粘板岩の線
李禹煥(Lee U-Fan)
- 国別分類
- 欧米 現代アート作家
- 人物・来歴・経歴・その他
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日本の現代美術の大きな動向である「もの派」を理論的に主導したことで有名である。個展および国際展への出品多数。代表作は「点より」「線より」シリーズ。
直島に安藤忠雄とのコラボレーションによる李禹煥美術館を開館。釜山市立美術館敷地に「李禹煥ギャラリー(Space LeeUFan)」を開設している。
1956年、ソウル大学校美術大学を中退後、来日。
1961年、日本大学文理学部哲学科を卒業。
1969年、「事物から存在へ」が美術出版社・芸術評論募集に入賞。
1971年、評論集『出会いを求めて』(田畑書店)を出版、国内外の美術界に影響を与える。
2010年、香川県直島町に初の個人美術館である李禹煥美術館が開館。
2015年、釜山市立美術館敷地に2館目の個人美術館李禹煥ギャラリー(Space LeeUFan)を開館。
- 代表作
- 線より
点より
From Winds
With Winds