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港区について

区名に「港」とあるように、区域の東側は海岸・港南地区で東京港(東京湾)に面し、ベイエリアの一部である台場(お台場)を含む。東側は江東区と向き合い、北側は中央区、千代田区、新宿区と、西側は渋谷区と接する。南隣は品川区である。

千代田区・中央区とともに「都心3区」と呼ばれる。新聞社や放送局などのマスコミやIT企業などの本社や外資系企業の日本支店が多数立地しており、日本経済の中心の一端を担っている[2]。テレビ放送における民放キー局は全て港区に位置している[3]。虎ノ門や新橋、芝、港南などはオフィス街となっている。青山、赤坂、六本木、お台場などは商業エリアという面も強く、麻布や白金台、高輪といった多くの高級住宅街を擁し、様々な表情を持つ。赤坂御用地、迎賓館(赤坂離宮)をはじめとして芝公園、白金台の自然教育園など緑地も多い。東京のランドマークである東京タワーも位置している。駐日大使館や外資系企業も数多く立地しており、外国人居住者が人口の約1割を占める。

江戸時代は広大な武家屋敷と、町人町が混在していた。

東京都23区では一番一人あたりの所得が高い区である。

1947年(昭和22年)3月15日、当時の芝区、麻布区、赤坂区が合併して港区となった。この際、各町名にはかつて属していた旧区名が冠された(例・旧赤坂区一ツ木町→港区赤坂一ツ木町、元赤坂町・本芝など一部例外あり)。その後の住居表示実施により、現存しているのは旧麻布区の2町のみとなっている。

1979年(昭和54年)の13号埋立地の埋め立て工事が完成した事により隣接自治体に江東区が加わった以外、港区域にはあまり大きな変化はない。

2005年の夜間人口(居住者)は185,732人。これに対して、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は908,940人で、昼は夜の4.894倍の人口になる。

画家について

・大沢昌助
1903年(明治36年)9月24日、東京三田綱町に大沢三之助、みよ子の三人兄弟の二男として生まれる。
三之助は建築家辰野金吾の教えをうけ、後に東京美術学校図案科第二部(建築科)主任教授となる。昌助の兄と弟は建築家になった。三之助の妹(いと子)は福沢諭吉の長男一太郎に嫁いだ。
1923年(大正12年)(20歳) 4月、東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科に入学。長原孝太郎、小林万吾にデッサンを学び、三年次に藤島武二教室に入る。一級上に猪熊弦一郎、山口長男、荻須高徳、岡田謙三、牛島憲之、小磯良平、一級下に吉井淳二、久保守らがいた。
1928年(昭和3年)(25歳) 東京美術学校西洋画科を首席で卒業。
1932年(昭和7年)(29歳) 世田谷区玉川奥沢町2-666にアトリエを建て、転居。この年、国立音楽学校の一期生でピアニストの北村季美子と結婚する。(季美子の父北村季春は長野県歌「信濃の国」の作曲者)
1933年(昭和8年)(30歳) 大沢昌助油絵個展(日動画廊)開催、福沢一郎から励ましをうける。
1939年(昭和14年)(36歳) この年から児童雑誌『コドモノクニ』に童画を掲載。
1942年(昭和17年)(39歳) 二科賞受賞。
1943年(昭和18年)(40歳) 二科会会員に推挙される。
1945年(昭和20年)(42歳) 4月頃、強制疎開を受け、福沢方に転居。8月、父、三之助死去。この年、二科会再建に会員として参加する。
1946年(昭和21年)(43歳) 武井武雄、初山滋らによる日本童画会の創立に参加。
1954年(昭和29年)(51歳) 多摩美術大学教授となる(1969年まで)。
1961年(昭和36年)(58歳) 兜屋画廊で戦後初個展。
1965年(昭和40年)(62歳) 第4回国際形象展で愛知県美術館賞を受賞。多摩美術大学正面玄関にモザイク壁画を制作。第8回サンパウロ・ビエンナーレ展に出品
1973年(昭和48年)(70歳) 大沢昌助・村井正誠・山口長男展(夢土画廊)
1975年(昭和50年)(72歳) 麻生三郎・大沢昌助・柳原義達・山口長男展(ギャラリーセゾン)
1978年(昭和53年)(75歳) 大沢昌助・堀文子・建畠覚造展(神奈川県民ギャラリー)開催。
1981年(昭和56年)(78歳) 大沢昌助の世界展(池田二十世紀美術館)開催
1982年(昭和57年)(79歳) 二科会を退会。
1984年(昭和59年)(81歳) 大沢昌助個展(銀座アートセンターホール)開催、「隠喩(赤)」「隠喩(青)」
1991年(平成3年)(88歳) 8月、大沢昌助展(銀座、和光ホール)開催。9月、変身と変貌 大沢昌助展(練馬区立美術館)開催。東京都新都庁舎都議会本会議場前ロビーの大理石に壁面デザイン。
1995年(平成7年)(92歳) 第4回中村彝賞受賞。
1997年(平成9年)5月15日午前9時、急性心筋梗塞のため自宅で死去。享年93。9月、追悼 大沢昌助展(練馬区立美術館)。

・岡鹿之助
劇評家岡鬼太郎の長男として東京に生まれる、実弟に岡畏三郎(美術史家、2010年に96歳で没)。

鹿之助は自分の絵のマチエールが西洋絵画のそれに比べて劣ることに悩み、試行錯誤の末到達したのが彼の作風を特徴づける点描画法である。西洋近代絵画史において点描画法を用いる代表的な作家としてジョルジュ・スーラが挙げられるが、当時の鹿之助はそのころまだ無名に近かったスーラの作品は知らなかったという。スーラの点描法は、キャンヴァス上に並置された異なった色の2つの点が視る人の網膜上で混合し別の色を生み出すという、「視覚混合」の理論を応用したものであったのに対し鹿之助の点描はむしろ同系色の点を並置することによって堅固なマチエールを達成しようとするものである。鹿之助はこの技法を用いて、静けさに満ちた幻想的な風景画(雪景色を描いたものが多い)を多く残した。

1898年 東京府麻布区西町 劇評家の岡鬼太郎の長男として生まれる。
麻布中学校2年のときから、岡田三郎助に素描を学ぶ
1919年 東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学
1925年 パリ留学。藤田嗣治に師事
1940年 春陽会会員
1952年 芸術選奨文部大臣賞
1954年 最初の個展
1956年 『雪の発電所』が現代美術日本展最優秀賞を受ける(同作品は1957年、毎日美術賞)
1964年 日本芸術院賞受賞 
1969年 日本芸術院会員
1972年 11月に文化勲章受章
1978年 心筋梗塞による心不全のため東京都大田区田園調布の病院で死去、享年79

・岡本彌壽子
1909(明治42)年7月16日、東京青山に生まれる。1926(大正15)年東京府立第三高等女学校本科卒業。1930(昭和5)年女子美術専門学校高等師範科を卒業し、奥村土牛に師事、翌31年土牛の紹介で小林古径に入門する。34年第21回院展に「順番」が初入選し、以後終戦までの約10年間は横浜共立学園教諭として美術を教えながら制作、院展に出品を続ける。戦後は画業に専念。51年第36回「花供養」、52年第37回「秋雨」で奨励賞、53年第38回「無題」(後に「歩道」と改題)は佳作、55年第40回「猫と娘たち」、57年第42回「夕顔咲く」、60年第45回「聖夜の集い」、61年第46回「千秋」で奨励賞を受賞、62年第47回「初もうで」で日本美術院次賞を受賞。この間57年に小林古径が死去し、以降は再び奥村土牛に師事。さらに64年第49回「みたまに捧ぐ」、65年第50回「無題」(後に「集う」と改題)がいずれも奨励賞を受賞。67年第52回「花供養」は日本美術院賞・大観賞を受賞し、同人に推挙された。日常的な出来事を背景にした女性をテーマに、女性的な淡い色彩と繊細な描線からなるナイーブな画風を展開し、76年第61回「夢のうたげ(1)」は内閣総理大臣賞を、86年第71回「折り鶴へのねがい」は文部大臣賞を受賞した。88年に回顧展を横浜市民ギャラリーで開催。1992(平成4)年横浜文化賞、97年神奈川文化賞を受賞。
2007年6月25日、老衰のため亡くなられた。享年98歳

・川瀬巴水
1883年(明治16年)、東京府芝区(現港区)に糸組物(組紐)職人・庄兵衛の長男として生まれる。本名は文治郎。10代から画家を志し14歳の時、川端玉章門下の青柳墨川に日本画を学ぶ。次いで荒木寛友にも学び、25歳で父親の家業を継ぐが画家になる夢を諦めきれず、妹夫婦に商売を任せ、25歳で日本画家・鏑木清方の門を叩いたが、20代も半ばを過ぎた遅い始まりに難色を示され洋画家の道を進められた。その為当時、洋画家の集まりとして知られた白馬会葵橋洋画研究所に入り岡田三郎助から洋画を学ぶ。しかし洋画の世界では挫折を経験し27歳の時、一度は入門を断られた清方に再度入門を申し出て許されると2年の修行を経て1910年(明治43年)に「巴水」の画号を与えられる。

1918年(大正7年)、師の清方が得意とした美人画で行き詰まりを感じ始め、同門・伊東深水の版画「近江八景」に影響を受けて版画家に転向。当時浮世絵版画は衰退の一途を辿っていたが、幼い頃によく滞在した栃木県塩原[2]を描いた風景版画「塩原おかね路」、「塩原畑下り」を製作、数々の作品を新版画に力を入れていた渡辺版画店[3]より発表し始める。これらを第一作として終生、夜、雪などといった詩情的な風景版画を貫いた。始めは伊東深水の影響が大きかったが、次第に歌川広重や小林清親の風景版画を研究していき、技法的な工夫も見られる。また全国各地に取材しており、数量も多い。新版画家中、織田一磨による石版画の風景画に対抗するかのように、木版風景画で良く知られた存在である。

1920年(大正9年)、「旅みやげ第一集」完成。1921年(大正10年)、「東京十二題」、「旅みやげ第二集」完成。精力的に活動をしていた矢先1923年(大正12年)、関東大震災で被災、多くのスケッチを失い一時失意の底に沈んだ。1926年(大正15年)、「日本風景選集」完成。1929年(昭和4年)、「旅みやげ第三集」完成。1930年(昭和5年)、「東京二十景」完成。同年、東京府荏原郡馬込町平張975番地(現大田区南馬込3丁目17番地)に洋館づくりの家を建てる。1936年(昭和11年)、「日本風景集東日本編」完成。1939年(昭和14年)、朝鮮へ旅行、「朝鮮八景」完成。1944年(昭和19年)、栃木県塩原市に疎開。1948年(昭和23年)、東京都大田区内に引越す。1952年(昭和27年)、「増上寺の雪」が無形文化財技術保存記録の作品に認定された。1957年(昭和32年)、自宅において胃癌のため死去。行年74。墓所は世田谷区北烏山の万福寺。法名は釈明巴水信士。「旅情の版画家川瀬巴水を偲び」の碑もある。

・北代省三
北代省三(きただい しょうぞう、1921年-2001年)は、1940年代から1990年代にかけて活動した美術家・写真家。実験工房のメンバーのリーダー的存在であり、工業写真やグラフィックデザイン、航空関連の写真など、多くの分野で活躍を見せた。新居浜高等工業学校機械科(現愛媛大学工学部)出身[1]。多数の作品を制作しているが、「モビール」を題材とした作品などが特に有名。

・小林健二
東京都港区生まれの現代アーティストである。 20代からさまざまな表現手段や造形技術をもちいて作品を制作している。絵画を中心としながらも、詩、音楽、映像、写真などの表現媒体でも独自の世界を築いている。

・阪本文男
昭和10(1935)年2月14日、東京都港区に生まれる。19年に新潟県柏崎市に疎開し、同28年柏崎高校を卒業するまで居住。高校在学中絵画部に入り油絵を始め、同校で教鞭をとっていた国領經郎に学ぶ。29年東京芸術大学油画科に入学し、小磯良平教室に学んで33年卒業。34年第9回モダンアート協会展に「記号」で初入選。36年同会会友、38年会員となる。初期から抽象画を描いたが、この頃より人体の一部が幾何学的にモティーフの中に組みこまれる「ヘルマフロディトス」の連作を始め、42年国際青年美術家展に「ヘルマフロディトス-青い帯」を出品してストラレム優秀賞第一席を受賞。43年より安井賞展、現代日本美術展にも出品する。45年頃より水色を背景とし、紙のしわや乾いた花・果物、剥製の鳥などをモティーフとする独自の画風を展開。「アリスの遊び」「バラの座」などのシリーズを制作、発表する。58年、代表作となった「余白の系」を制作するが、59年に肺ガンで入院して以後入退院をくりかえしていた。枯れゆくものの中に存在の本質の顕在化を見出し、明快で乾いた幻想的作風を示した。没後の63年4月横浜市民ギャラリーで「阪本文男回顧展」が開催された。
1986年2月26日、肺ガンのため川崎市の市立川崎病院で死去した。享年51。

・島岡達三
1938年(昭和13年) 府立高等学校在学中に日本民藝館を訪れ、民芸の美に目ざめる。
1941年(昭和16年) 東京工業大学窯業学科卒業。
1954年(昭和29年) 益子町に築窯。
1964年(昭和39年) 日本民芸館賞受賞。
1980年(昭和55年) 栃木県文化功労章受章。
1994年(平成6年) 日本陶磁協会賞金賞受賞。
1996年(平成8年)5月10日 民芸陶器(縄文象嵌)で国指定の重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。
1999年(平成11年) 勲四等旭日小綬章受章。
2007年(平成19年) 12月11日没・享年88

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