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静岡県にお住いの方へ
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静岡県について

静岡県の第一次産業による収益の高い件であります。
静岡県の特産品といえば、お茶やミカンといった第一次産業の特産品が有名。
気候が良く作物の栽培に適した地域であることから、茶やみかんの栽培が盛んに行われてきました。
また、台風等の自然災害の影響を受けにくい地域なので、安定した生産をすることが可能な地域となっています。
お茶についてはすでにブランド化に成功し、国内外への販路が確率されております。

静岡県、北は富士山や赤石山脈、南は太平洋に挟まれた自然豊かな地域です。
特産品には、その豊かな自然を活かしたものが多く、浜名湖の天然うなぎ、箱根山のわさび、牧之原のお茶などが有名です。
また、静岡県の中心に位置する静岡市は、政令指定都市に認定されています。
静岡駅周辺には、大手百貨店が立ち並び、休日は県内外から多くの人が訪れます。
また、静岡駅周辺は連日、若者からお年寄りまで幅広い年齢層の人々が日々行き交っています。
今話題のお洒落なカフェから、老舗菓子店など静岡駅周辺は、グルメなスポットとしても有名です。
静岡県を代表する名物料理として、静岡おでんや富士宮やきそばが挙げられます。

静岡おでんは、濃い目のだしで煮込まれた、少し色黒いおでんで、地元焼津特産の削り節を沢山掛けていただきます。
静岡県はバイクや自動車産業が盛んな地域でもあるため、静岡県の中部から西部に掛けて、自動車関連会社が多く存在しています。

画家について

秋野不矩
1908年(明治41年) - 静岡県磐田郡二俣町に生まれる
1926年(大正15年) - 静岡県女子師範学校(後の静岡大学教育学部)卒業
1927年(昭和2年) - 石井林響に師事
1929年(昭和4年) - 西山翠嶂に入門
1932年(昭和7年) - 結婚
1937年(昭和12年) - 京都の女流日本画家の会「春泥会」結成に参加
1942年(昭和17年) - 市展の審査員に就任
1948年(昭和23年) - 創造美術を結成
1949年(昭和24年) - 助教授(京都市立美術専門学校)就任
1951年(昭和26年) - 新制作協会日本画部発足(創造美術を吸収合併)
1958年(昭和33年) - 離婚
1962年(昭和37年) - インド赴任
1964年(昭和39年) - 個展(東京高島屋美術画廊)
1966年(昭和41年) - 教授(京都市立美術大学)昇任
1971年(昭和46年) - インド・ネパール・アフガニスタン旅行(滞在3ヵ月)
1972年(昭和47年) - 画室(岡崎)がほぼ全焼
1974年(昭和49年) - 京都市立芸術大学定年退職、5月 渡印(滞在8ヵ月)、創画会結成、7月 京芸大名誉教授就任
1976年(昭和51年) - 画室(八瀬)を火事で焼失
1977年(昭和52年) - 4月 渡印(滞在8ヵ月)
1982年(昭和57年) - 10月 渡印(ナンダラ・ボース生誕祭列席、滞在3ヵ月)
1983年(昭和58年) - 天竜市名誉市民
1985年(昭和60年) - 2月 自選展(大阪・京都・東京池袋・浜松)、8月 京都市美術館評議員就任、京展審査員就任
1986年(昭和61年) - 作品展、3月 インド・スリランカ旅行(滞在1ヵ月)
1988年(昭和63年) - 個展(東京銀座・京都・大阪・浜松)、5月 渡印(滞在3ヵ月)
1991年(平成3年) - 7月 渡印(滞在1ヵ月半)
1992年(平成4年) - 10月 個展(東京佐賀町)
1993年(平成5年) - 10月 回顧展(静岡県立美術館)
1998年(平成10年) - 郷里に美術館(現浜松市秋野不矩美術館)が完成
1999年(平成11年) - 渡印(滞在40日)
2001年(平成13年) - 10月 永眠


石田 徹也
焼津市立小川小学校、焼津市立小川中学校、静岡県立焼津中央高等学校を経て、1996年、武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒業。
元々高校は美術系を希望していたが、親からの強い要望で普通高校に入る。本人は苦痛を感じていたという。
大学時代の友人に映画監督の平林勇がおり、共同で作品を製作していた。就職活動中に一社だけデザイン会社に行ったが、採用されず画家として活動する。
蒸気機関車やビニール袋、便器などといった日常生活で使用するものと一体化した青年を題材とすることが多い。
題材としている青年はほとんどが同じような顔をしており、作家本人と似ているが本人は否定している。
後期作品ではメッセージ性を抑制し、より抽象的な作風になっていくが、これにはテーマは押し付けるものではなく、観た人がそれぞれ好きに感じてくれればいいという意図がある。
2005年5月、踏切事故で死去。31歳没。
死後、2006年11月にクリスティーズが香港で開催したオークション『アジアの現代美術』に Lot. 496 として出品された『無題』(2001年)は、78万香港ドル(約1200万円)で落札された。
2012年5月に開催されたユナイテッドアジアンオークションに出品された「囚人」(Prisoner 1999)は予定落札価格の3倍以上の819,800USD(約9,230万円)にて落札された。
2009年、紺綬褒章を授与され、遺族が受け取る。
2019年にスペイン・マドリードの国立美術館で開催された個展が31万人を超える入場者を集める。


中村岳陵
1890年(明治23年)3月10日、静岡県下田市旧岡方村で中村筆助、俊夫妻の間に、九人兄姉の末弟、三男として生まれる。
下田尋常高等小学校卒業後上京、実姉・コウの嫁ぎ先であった医家に寄宿しながら、本所表町の明徳尋常高等小学校に入学。
1902年(明治35年)、池田孤邨門下の野沢堤雨に入門して琳派を学ぶが、慣れぬ都会暮らしで脚気を患い、一旦の帰郷を余儀なくされ、その間に父と堤雨を亡くす。
次いで1904年からは土佐派の川辺御楯に師事し、同年の日本美術協会展では「名和長年船上山に登るの図」が入選して画壇デビュー
翌年には御楯の別号である「花陵」より一字を譲り受けた画号「岳陵」を名乗り始める。しかし同年御楯は死去、その後は師の高弟の下で玄関番として修行するも長くは続かず、
再び姉の嫁ぎ先に身を寄せる。
1908年(明治41年)に東京美術学校日本画科・選科に入学、寺崎広業、結城素明に学び、横山大観の知遇を得る。
この一方で紅児会に入会したが、このことが、それまでもっぱら土佐派の画風を踏襲した武者絵を描いていた岳陵を西欧絵画に触れされることとなり、
イギリスの画家ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの影響が濃厚な「水神」が生み出された。
また他方巽画会にも出品、1911年(明治44年)の同会展では「空海」が一等褒状を得た。
1912年(大正元年)[元号要検証]、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科を首席卒業。
同年の第6回文部省美術展覧会(文展)で「乳糜供養」が官展初入選を果たすと、1914年(大正3年)の再興日本美術院第1回展に「緑蔭の饗莚」、翌1915年(大正4年)の
同・第2回展へは「薄暮」を出品、同年に同院の同人となる。院展へはその後も、平家物語を題材とした「輪廻物語」、源氏物語に取材した「浮舟」、同名の物語に拠った「竹取物語」、
白居易の詩に取材した「貴妃賜浴」など、古典的題材に取材した作品を出品した。この一方では1914年に今村紫紅らと赤耀会を設立、翌年の第2回展から同会の会展にも出品した。
1926年(昭和元年)[元号要検証]日本美術学校教授、1930年(昭和5年)に日本画家福田平八郎、山口蓬春、洋画家中川紀元、牧野虎雄らと六潮会を設立するが、
これ以降の院展への出品作は1931年(昭和6年)の第18回展への「婉膩水韻」、1933年(昭和8年)の第20回展へ「都会女性職譜」、1934年(昭和9年)の第21回展への「砂丘」、
1935年多摩美術大学教授[1]、1939年(昭和14年)の第26回展への「流紋」、1942年(昭和17年)の第29回展への「緑影」など、都会的風俗に因んだものやモダニズム的傾向の
濃厚なものが目立っている。特に「婉膩水韻」はレースの下着を脱ぎ捨てた全裸の女性が水中を泳ぐというその画題が物議をかもし、
連作である「都会女性職譜」に当初含まれていた「女給」には風紀上の問題があるとされ、岳陵自らが開会後一日で撤去する、など話題を生んだ。
1937年、文展審査員。1940年、法隆寺金堂壁画模写主任。1947年、帝国芸術院会員(同年末日本芸術院)、1949年、日展運営会理事、1950年、日本美術院脱退、
1958年、日展常務理事。1959年、大阪四天王寺金堂壁画を製作する。1961年、 朝日文化賞、毎日芸術賞受賞。1962年、文化勲章受章、文化功労者。
日本画に油絵の表現を取り入れた作品を制作し、代表作に「輪廻物語」「気球揚る」等。


松井冬子
1994年、女子美術大学短期大学部造形学科油彩画専攻卒業。
就職、4浪を経て、6度目の受験で東京藝術大学美術学部入学。2002年に東京芸術大学美術学部日本画専攻卒業。
2007年、東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程美術専攻日本画研究領域修了。博士論文「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」を
東京芸術大学へ提出し博士(美術)の学位を取得。
女性、雌に焦点を当て、幽霊画、九相図、内臓、脳、筋肉、人体、動物を題材に採った作品を発表している。絹本に岩絵具を用いて描く。

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