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熊本県について

"九州本島の中央部に位置し、福岡、大分、宮崎、鹿児島の各県と境を接する。海上で有明海を隔て長崎県とも接する。東部の阿蘇地方に日本第2位の阿蘇カルデラを持つ阿蘇山や九州山地の山々が聳え、西部は熊本平野が有明海に、八代平野および芦北地方のリアス式海岸が不知火海に面する。その間に宇土半島が突き出し天草諸島に続いている。中心都市である熊本市は、市域の70万人超の人口を支える水道水が全て地下水でまかなわれている世界でも稀有な都市である。

熊本という地名は、古くは隈本と書いた。隈本の由来には諸説あるが、菊池則隆に因むとする伝承がある。「隈本」の名が文献に見られるのは南北朝時代以降で、これを加藤清正が「隈」の字が畏(おそれる、かしこまる)の字を含むため武将の居城の名に相応しくないとして「熊」の字を充てたと言われている。なお「来熊(らいゆう)」「訪熊(ほうゆう)」「帰熊(きゆう)」と1文字で略するときは「熊(「ゆう」と音読み)」を使用する。
"

画家について

・井手宣通
1912年(明治45年) - 熊本県上益城郡御船町に生まれる。
1924年(大正13年) - 旧制御船中学校(現在の熊本県立御船高等学校)で、東京美術学校を卒業後すぐに赴任していた若き美術教師富田至誠の指導を受ける。
1930年(昭和5年) - 東京美術学校西洋画科に入学。藤島武二、小絲源太郎らに学ぶ[2]。
1935年(昭和10年) - 東京美術学校西洋画科卒業、同校彫刻科に入学。
1940年(昭和15年) - 東京美術学校彫刻科卒業。在学中に帝展(現在の日展)に初入選し画壇デビュー。
1947年(昭和22年) - 朝井閑右衛門、南政善らとともに新樹会創立。
1966年(昭和41年) - 「千人行列」で日本芸術院賞受賞。
1977年(昭和52年) - 日洋展創立。
1980年(昭和55年) - 熊本県近代文化功労者として表彰される。
1982年(昭和57年) - 勲三等瑞宝章受章。
1990年(平成2年) - 文化功労者として表彰される。
1991年(平成3年) - 日展理事長就任。
1993年(平成5年) - 死去。勲二等瑞宝章受章。

・牛島憲之
風景画の作品が多く、柔らかな線と穏やかな色彩を特徴とする。牛島の描くモティーフの種類はある程度限定され、同じ風景が数多く繰り返し描かれる。

熊本の裕福な地主の息子に生まれ、東京芸大の講師になるまで勤め人になったことが無かったという。日展に入選後も絵を売らず、また華やかな場に参列することも少なく、画家とは名誉ではなく描き続けることであるという立場を貫いた。家族には「絵の具とカンバスと、雨風しのげて目と手があれば、絵は描けるんだよ」と言い続けたという。

世田谷区在住であったが、多摩川近郊、特に府中によくスケッチに出かけた縁から、東京都府中市の府中市美術館に遺族が寄贈した作品100点が収蔵されている。

1900年 熊本県熊本市二本木町に生まれる。
1919年 旧制熊本中学校卒業後[4]上京し葵橋洋画研究所に学ぶ。この頃から歌舞伎に興味をもち、片端から観てまわる。
1927年 東京美術学校西洋画科卒業。岡田三郎助に師事。同年の帝展入選。以後、秀作美術展を中心に出品を重ねる。
1936年 主線美術協会を創立。
1946年 「炎昼」が第2回日展で特選となる。
1949年 立軌会を結成。
1954年 東京芸術大学講師となり1965年から教授。
1969年 芸術選奨文部大臣賞受賞。
1971年 熊本県近代文化功労者。
1981年 日本芸術院会員。
1982年 文化功労者となる。
1983年 文化勲章受章。

・浦田正夫
熊本県山鹿市生まれ。浦田家は祖父から続く画家の家系で、伯父に高橋廣湖がいる。松岡映丘らに師事。東京美術学校日本画科卒。1973年日展文部大臣賞受賞、1978年日本芸術院賞受賞、1988年芸術院会員。1993年、勲三等瑞宝章受章。

代表作に「蔓(かずら)」、「松」など。北関東や東北の自然を描いた。

・大塚耕二
熊本県菊池市隈府下町の大塚書店の次男として生まれる。旧制鹿本中学(現在の熊本県立鹿本高等学校)を卒業後、帝国美術学校の学生であった、坂本善三(後に抽象画家となる)に師事する。

1934年、帝国美術学校西洋画科(現武蔵野美術大学)に入学。

1935年、浅原清隆、小田正春、森堯之ら学生仲間と絵画グループ「表現」を結成、同年、創立者兼初代校長で後に政治家・衆議院議員へ転身する北昤吉と学生らの対立より起きた同盟休校事件(学生ストライキ)が発生し、帝国美術学校より多摩帝国美術学校(現多摩美術大学の前身)が分離独立。

1936年、から銀座の紀伊国屋画廊を拠点として展覧会を開催した。藤田嗣治の案内で、フランスの詩人で画家のジャン・コクトーが展覧会を訪れ、大塚耕二の作品を称賛した。それを受け、感涙し自信を深めた。同年、表現メンバーを中心に「映画研究会」を結成。同年、日本のシュルレアリストの象徴的存在の瀧口修造らとアヴァン・ガルド芸術家クラブの結成に参加した。

1937年、日中戦争勃発。日本のシュルレアリスムは開戦とともに日本政府に弾圧され始めた。

その年、第4回表現展および第7回独立美術協会に《トリリート》を出品、翌年も同展に出品した。「トリリート」は高い評価を受け、超現実主義絵画へ確立させた生涯の代表作となった。

1938年には「トリリート」はフランスの権威ある「シュルレアリスム簡約辞典」に<黄昏の隔世遺伝>の題名で作品図版とともに掲載[4]され、一躍有名になり画壇の話題となった(日本人では他に瀧口修造、瀧口綾子、山中散生、下郷羊雄、岡本太郎等が掲載された)。帝美校卒業後、美術文化協会の創立に参加し、第一会展に出品した「太陽と小鳥」は詩人でもある瀧口修造から「造形詩人の一人となった」と激賞を受けた。

1939年、帝国美術学校を卒業、独立美術協会展に出品。美術文化協会の創立に同人として参加した。

1940年熊本市の千徳デパートで個展。同年、美術文化第1回展に出品した。

1941年、太平洋戦争勃発。 瀧口修造は、その前衛思想が危険視され、治安維持法違反容疑で特高に逮捕された。シュルレアリストの象徴だった瀧口が捕まった事によって戦前、戦中のシュルレアリスムは終焉を迎えた。

大塚耕二応召、西部21部隊(熊本野砲隊)に入隊し、満州ハイラルに派兵。

1945年、フィリピンに派兵。 同1945年7月30日、フィリピン・ルソン島プログ山にて戦死、享年31歳。

将来の大器と嘱望されたが、僅か7年余りの短い画業が惜しまれる。 作品は、主に熊本県立美術館に収蔵されている。

2014年5月27日放送の開運!なんでも鑑定団(テレビ東京)の出張鑑定IN 熊本県菊池市(菊池市文化会館にて収録)に出場した江頭実市長が依頼した大塚耕二の油絵が本物と鑑定され、大塚作品の全国的再評価につながった。同年7月、「熊本─東京・画家たちの上京物語・坂本善三、大塚耕二、浜田知明の軌跡」展が熊本県立美術館にて開催された。

・堅山南風
上京まで
1887年9月12日、熊本県熊本市に三男として生まれる。1888年に母を、1893年に父をと早くに父母を失い、以後祖父によって養育された。1898年、熊本市立壺川小学校卒業を経て高木高等小学校に入学、1年時に写生した「ざくろ」が図画教師に称賛された。この頃、地元で鯉を描く画家として著名であった雲林院蘇山に傾倒していた。

1904年、生家破産により家を閉じ、西子飼町の源空寺に居候した。同年9月には養育を受けていた祖父が死去している。翌1905年より図書館に通い木版印刷書籍口絵を模写するなどしていた。翌々年1906年より地元画家福島峰雲に師事。

1909年、同郷の山中神風に連れられて上京した。このとき、上京する電車の車中にて「南風」の画号を自ら選んだ。号は『十八史略・尭舜篇』のうち「南風之詩」から取ったものだった。上京後、神風の紹介により高橋広湖門下となった。

文展初入選まで
高橋門下となって3年後の1911年まで第3回・第4回文展、第11回巽画会などに出品を続けるがいずれも落選し、生活困窮に陥っていた。これを見かねた師高橋が自身の職であった報知新聞連載小説「徳川栄華物語」の挿絵の画を代筆させたことで月額30円の手当を得ることとなった。またこの年、巽画会出品作「弓矢神」が三等銅牌受賞している。しかし高橋は翌1912年に急逝した。

師高橋死後の1913年にも巽画会、勧業展、日本画会展などに出品するが二等褒賞や落選を繰り返し、南風はスランプに陥っていた。この年に開催された第7回文展に出品した「霜月頃」が文展初入選、最高賞である二等賞を獲得、後に師事することとなる横山大観の激賞を受けた。また出品作「霜月頃」は旧熊本藩主、細川護立の買い上げとなったほか、南風自身も細川の庇護を受けた。

横山大観門下から関東大震災まで
1914年、前述の横山大観に師事した。この年日本美術院が再興されると文展出品を取りやめ、以後院展を作品出品先と定めた。翌1915年には妻を娶っている。

1915年に出品した第2回院展「作業」は労働者を群像を描いたものだったが、師横山により題材の品について叱責を受けた。翌1916年11月25日より絵画修業を目的として荒井寛方のインド旅行に便乗、カルカッタ周辺で2か月間、翌1917年2月よりブッダガヤ、デリー、またこれらの帰路にボンベイに立ち寄って周辺写生を行った。特にボンベイではエレファンタ石窟の仏教彫刻に感銘を受けた。しかし同年9月の第4回院展にインドの印象を作品として出品した「熱国の夕べ」は赤、緑など強い色彩を用いたことで色盲と酷評された。

1918年より健康を害し、また極度のスランプに陥っている。1920年には健康回復および気分転換のために弓道を開始した。またこの頃より花鳥画の制作を目的として東京近郊から山梨県にかけての写生旅行を行っている。これらのスランプ脱却活動は1922年第9回院展「桃と柘榴」にて横山に好評を受けるまで続いた。

1923年9月1日、関東大震災発生。当日は院展開催日だった。このときの震災の様子を南風は1925年作の「大震災絵巻」3巻に描いた。

日本美術院同人から初個展開催まで
1924年、日本芸術院同人に推挙される。1926年には東京府美術院評議員に任命された。同年12月には巣鴨から小石川区(現文京区)の細川邸内の一画に居を移した。

1927年頃より民謡踊りに熱中、同題材を求めて日本各地を旅行した。1928年には兄の借金返済のため郷里熊本にて画会を行うなどしている。

1929年9月、新築された日光東照宮朝陽閣の障壁画を揮毫するため、横山大観の推薦により中村岳陵、荒井寛方らと共に同年12月30日まで現地滞在し制作に携わった。

1930年4月にはイタリアのローマで開催された日本美術展覧会(ローマ展またはローマ日本美術展)に南風作「水温」「朝顔」「巣籠」が選ばれ出品された。

1931年には「美術新論」10月号に「苦難時代を語る」と題して寄稿している。また1936年頃より俳句を作り始め、武蔵野吟社に入社している。

1938年3月、東京と京都の画家広島晃甫、奥村土牛、小野竹喬、宇田荻邨、金島桂華、山口華楊、徳岡神泉などが集って結成された丼丼会に南風も結成メンバーとして参加、第1回展に出品した。同年9月より第2回文展に審査員として参加している。また1940年4月には自身初の個展を開催、自身の画塾「南風塾」を「翠風塾」と改称した。

日展出品時代
戦時中の1945年6月には横山大観と共に山梨県山中湖湖畔に疎開した。同年終戦後11月、南風の所属する帝国美術院が文部省主催の日本美術展覧会への参加要請を日本美術院が受諾したことで翌1946年3月開催の第1回日展に南風も作品を出品し、以降、日展と院展の双方に作品を出品するようになる。日展出品は1957年まで続けられた。

1951年、日展運営会参事に就任。1954年7月には奥村土牛、酒井三良などと箱根旅行に赴いた。1955年第40回院展に出品した武者小路実篤をモデルとした「M先生」は代表作に数えられる。

1956年3月、南風門と郷倉千靭門の門下生合同による塾展旦生会が結成された。またこの年、熊本県文化功労者に推挙された。

横山大観死去から妻死去まで
1958年、長年師事した横山大観が死去。同年4月、伊東深水と共に日本芸術院会員に推挙。また5月には日本美術院が財団法人となり、南風は当初監事に就任、のち理事となった。

1962年2月23日に発刊されたアメリカ合衆国のニュース誌タイムの表紙に、同誌依嘱により制作した南風の「松下幸之助像」が使用された。1968年10月には文化功労者に選出されている。

1969年、同郷の俳人中村汀女をモデルとした「新涼の客」が完成、第54回院展出品。同年熊本市名誉市民。1971年、妻死去。翌1972年、静岡県韮山町(現伊豆の国市)に別荘を購入したが、手狭であったため田方郡に別荘を新築し以後こちらによく滞在するようになった。

米寿以降
1975年、米寿を迎え熊本で「堅山南風米寿記念展」が開 催、「霜月頃」以下南風作品50点が展示された。この年ポリネシアのタヒチ島へ写生旅行に趣き、以降の作品は色彩が更に鮮明になった。

1978年1月4日より読売新聞紙上で自伝抄「思い出のままに」連載開始。

1980年12月30日、肺炎のため静岡県田方郡の別荘で死去。

・坂本善三
「グレーの画家」と呼ばれる。グレーと黒を主体にした独自の抽象画は、東洋の寡黙、沈黙の錬金術などとも評じられる。1986年のFIEST展(フランス、パリ)で、リトグラフィ「構成80」が専門家賞(Prix Professionnel)を受賞するなど、国際的にも評価が高い。

作品の収蔵は文化庁、栃木県立美術館、熊本県立美術館、福岡市美術館、北九州市立美術館、坂本善三美術館ほか。熊日社会賞、西日本文化賞、第1回長谷川仁記念賞、熊本県文化懇話会賞受賞。熊本県近代文化功労者。

熊本県阿蘇郡小国町には、坂本善三の作品など約500点を収蔵、展示する坂本善三美術館がある。

1911年 - 熊本県阿蘇郡小国町宮原に、坂本謙吉、イカの3男として生まれる。
1929年 - 大津中学校(現・熊本県立大津高等学校)卒業。本郷絵画研究所に入り、岡田三郎助に師事。
1931年 - 帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)西洋画科入学。第1回独立展出品。
1933年 - 東京日日新聞社において第1回個展開催。
1934年 - 帝国美術学校は、3年次終了で中退。
1935年 - 兵役に。1945年まで3度応集。
1946年 - 長い兵役の後、熊本に帰郷し、阿蘇坊中で制作。風景、静物をモチーフにした写実的な半具象の作品を描く。
1947年 - 第15回独立展、独立賞受賞。
1949年 - 独立美術協会会員となる。
1952年 - 熊本市に転居。
1957年 - ヨーロッパへ。フランス・パリを拠点に、スペイン、イギリス、ドイツ、イタリアなど各地を訪れる。
1959年 - 帰国。熊本市にて制作。作品が日本の風土や生活にねざした抽象画へと変化をはじめる。
1965年 - 第33回独立展で児島賞受賞。
1967年 - 第35回独立展でG賞受賞。
1968年 - 九州産業大学教授に就任。
1973年 - 熊本県美術家連盟会長となり、以後5期10年務める。
1978年 - 熊本県近代文化功労者として表彰される。
1985年 - 熊本県立美術館で「坂本善三展」を開催。
1986年 - FIEST展(パリ)で、リトグラフィ「構成80」が専門家賞(Prix Professionnel)を受賞。
1987年 - 熊本市で没。76歳。

・坂本寧
1930年(昭和5年)、熊本県菊池郡大津町に生まれる。1946年(昭和21年)より、絵を描き始める。熊本大学大学院医学研究科を修了した医師であり、熊本県宇城市で開業医として医業にたずさわりつつ作家活動を続けてきた。西孝親、坂本善三、海老原喜之助らに師事する。

特に坂本善三には、自身が10代の頃より善三が亡くなるまで長く師事した。善三の死後、坂本善三美術館の立ち上げに関わり、1995年(平成7年)、坂本善三美術館館長に就任する。なお、坂本善三と姓は同じであるが、血縁関係はない。抽象画、風景画、版画など幅広い制作活動を行い、熊本、東京、パリなど各地で個展を開催する。著作に、『善三先生と私』、『清六さんと私』がある。1960年 熊本大学 医学博士論文の題は「白血病及び白血病の骨髓に関する研究」。

日本での評価より海外での評価が高い。

1930年 - 熊本県菊池郡大津町に生まれる。
1946年 - 絵を描き始める。
1993年 - 熊本県立美術館分館にて個展。
1995年 - 坂本善三美術館館長に就任。
2005年 - ルーブル美術館で開催されたアール・パリ展に出品。
2006年 - つなぎ美術館にて企画展。
2010年 - 不知火美術館で個展。

・桜田精一
1910年 熊本県上益城郡津森村(現益城町)に生まれる。
1933年 日本美術学校洋画科を卒業。
1933年 38年まで朝鮮にて教壇に立つ。
1933年 朝鮮美術展覧会にて「早春の博物館」が特選・昌徳久宮賜賞を受章する。
1934年 朝鮮にて、長女・久美生まれる(洋画家桜田久美参照)。
1939年 帰国し上京する。
1940年 日本美術学校講師に就任。
1947年 光風会展にて「竹林」が光風特賞となる。
1949年 千葉県美術会を創設に参加。
1957年 58年まで約1年間渡欧する。
1965年 日展審査員(72年、78年、84年、87年、92年)に就任。
1974年 十柯会同人。
1976年 千葉県教育文化功労賞受賞。
1978年 日展出品作品「朝」が文化庁買い上げとなる。
1980年 日展評議員となる。
1982年 野田市文化功労表彰を受ける。
1986年 個人美術館《鳩聚苑》を建設する。
1987年 小山敬三美術賞を受賞する。
1987年 日展参与に就任。
1987年 「櫻田精一画集」を刊行する。
1991年 地域文化功労者文部大臣表彰を受ける。
1992年 勲四等瑞宝章を受章する。
1994年 紺綬褒章を受章する。
1999年 千葉県野田市で永眠。
2001年 熊本県立美術館にて「櫻田精一展」を開催。
2009年 千葉県立美術館にて櫻田精一展「生誕100年-響きあう光・水・風を描く-」を開催。

・清水ハルマン
1980年代初頭、現・水彩連盟理事長であり日展評議員・光風会理事である田中実に師事。師の田中をして「教える事は何もない」と言わしめた写実の技法にも長けた画家である。
1983年ケニア画廊新人作家登竜門にてプロの画家に。
以後、国際現代美術家協会代表理事審査委員 (i.m.a)、JIAS日本国際美術家協会会員、サロン・デュ・ブラン美術協会委員を経る。
現在保有の主なタイトル
ル・サロン(フランス芸術家協会)永久会員
ハプスブルク芸術友好協会宮廷芸術永久会員
フランス国立シャガール美術館協会正会員
ピカソ美術館協会正会員
国際美術審議会会員
世界創造芸術認定作家
重度の呼吸器疾患(喘息)を幼少時代から抱えていたが、犬と猫(現在自宅に12頭の犬と4匹の猫を飼っている)と暮らすようになってから、発作は全く起きなくなったという。
日本人離れした風貌のため、よくフランス系、ロシア系に間違えられるという。1996年から3年間レギュラーゲストを務めた関西テレビ制作のバラエティ「痛快!知らぬはオトコばかりなり」では「ドイツ語は全くわからないけれど、熊本弁はばんばん出る」という、外見とは違った親しみ易い素顔を時折披露していた。
「美術年鑑」(美術年鑑社)「日本紳士録」(交詢社)の自己紹介欄の趣味の項目に「テレビゲーム」と書くほどのゲーム好き。

・杉谷雪樵
現在の熊本市坪井裏鳥町で、杉谷行直の長男として生まれる。幼名は市(一)太郎。、号におよそ幕末期に用いた洞庭子など。父・行直はもともと鬢付油を扱う商家の出だったが、画業を志して、藩のお抱え絵師で当時の矢野派の中心的存在の一人・遠藤良行に入門、やがてお抱え絵師になった。父や主家筋に当たる矢野家六代目・良敬に画を学ぶ。伝記では、幼少期父が持っていた雪舟の画稿を手本に運筆を学んだとされる。しかし、現存する約1500点を数える画稿類を見ると、名手と呼ばれた先代矢野家当主・良勝の模写が多く、また当時細川家に所蔵されていた呂紀などの中国絵画に学んでいた様子が窺える。天保12年(1841年)頃から師から一字取って、敬時と名乗る。弘化2年(1845年)父が亡くなったため、杉谷家を継ぐ。安政3年(1856年)松井家10代当主・松井章之の江戸参府に随行、この旅が大きな転機となる。旅の中で写生を重ねると共に、見聞を広げ京都の四条派に心を動かされ、その帰途の大坂遊び、森一鳳の作品に感銘を受け、自らの画風を四条派に近づけようとしたという。後にこの体験をもとに初期の代表作「道中風景図巻」を描き、以後雪樵の号を名乗る。

明治維新以後は、他の御用絵師等と同様貧困に喘いだと言われるが、現存資料を見るとそうとも言い切れない。秩禄処分まではそれなりに安定した収入があり、その後も細川家や松井家からの仕事があったらしく、現在も永青文庫や松井文庫に多くの作品が残る。西南戦争で焼けたと言われる画稿類も、先述の通り多く現存している。明治初期には酷評していた南画も、後には「一つ南画を書いてみようかと言って」しばしば余興で手掛けている。更に、雪樵が他人に金銭を貸していたことを示す証文も残っている

明治20年(1887年)頃上京し、細川家に寄宿しながら画作をこなした。細川家の厚遇もあって画名は高まり、明治25年(1992年)に会員になった日本美術協会でしばしば褒状を受け、御用画の命を賜った。明治28年(1895年)の第四回内国勧業博覧会でも、「水墨山水図」で一等褒状を受ける。一方、松平春嶽の六女里子の絵画指導もしている。そして、明治28年東京の細川邸で、御用画揮毫中に亡くなったという。向島百花園には、今も杉谷雪樵芦雁画碑が残る。後に藤岡作太郎『近世絵画伝』では、地方における大家として足利の田崎草雲と共に高く評価している。現存する作品は、東京と熊本を中心に少なくとも150件以上、熊本県内を悉皆的に調査すればもっと見つかると推測される[1]。展覧会出品作は山水画が多く、これは雪樵自身が得意とした画題であったというのみならず、雪舟派としての自己の評価を自他共意識していたと見られる。弟子に、近藤樵仙など。

又ひ孫には、洋画家の安徳 瑛がいる。

・田代順七
教員を務める傍ら熊本在住者として初めて帝展入選を果たし、以後1985年まで、文展(文部省美術展覧会、現在の日展)、日展に連続出品。具象絵画団体東光会支部としての銀光会を結成し、熊本の洋画史をリードしながら郷土熊本の自然の美をテーマに一貫して具象絵画の世界を追求、熊本における美術振興に寄与した。

その絵画精神は自然観照にもとづく美学の実践であり、力強く表現されている。

画業60余年、とりわけ1950年代中頃から展開する「球磨川」「天草」そして晩年の「阿蘇」シリーズの作品は、田代芸術の写実観を如実に物語っている。

1900年3月13日 熊本県玉名郡築山村山田(現玉名市山田)に生まれる。
1918年 看板屋に入り独学で油絵を勉強。
1926年 玉名郡神尾小学校に図画専科正教員として勤務。
1933年 東光展初入選。
1934年 熊本在住者として初めて帝展入選を果たし、以後1985年まで、文展(文部省美術展覧会、現在の日展)、日展(日本美術展覧会)に連続出品。これを機に太田黒幸、松岡正直、米村潤之らと具象絵画団体東光会支部としての銀光会を結成する。
1936年 熊本市立高等女学校(現熊本市立必由館高等学校)教諭となる。(1960年退職)
1955年 「河畔」で日展特選。
1968年 熊本女子短期大学(現尚絅大学短期大学部)教授となる。(1975年退職)
1971年 熊本県美術家連盟が結成され初代会長となる。
1973年 熊本県教育委員会から第26回熊本県近代文化功労者として顕彰される。
1974年 地方文化功労者として叙勲(勲五等双光旭日章)。
1980年 熊本県文化懇話会から第8回芸術功労者として表彰される。
1985年 熊本県立美術館にて「田代順七展」開催。同展開催中に死去。
1996年 「熊本市所蔵品展-熊本の画家たち」(熊本県立美術館分館)。
2003年 絵画作品が20点熊本市に寄贈される。
2004年 「キュレーターズ・セレクション CAMKコレクションⅠ」(熊本市現代美術館)

・塔本シスコ
1913年(大正2年) - 熊本県下益城郡松橋町(現・宇城市)に9人弟妹の長女として生まれる。父はサンフランシスコ行きの夢を託し「シスコ」と名付けた。
1933年(昭和8年) - 塔本末蔵と結婚。
1943年(昭和18年) - 長男 賢一誕生。46年に長女 和子誕生。
1959年(昭和34年) - 夫 末蔵事故死。体調不良が続く。
1961年(昭和36年) - 軽い脳溢血で倒れ、手足と心のリハビリをかねて石を彫る。家にある画材で絵を描き始める。
1967年(昭和41年) - 熊日総合美術展に出品。
1969年(昭和44年) - 具現美術協会でカワチ賞・奨励賞を受賞。
1970年(昭和45年) - 長男 賢一と同居のため上阪。この頃から旺盛な制作がスタート。
1994年(平成6年) - 個展「塔本シスコはキャンバスを耕す」(滋賀県立八日市文化芸術会館、ハーモ美術館/長野)
1996年(平成8年) - 「芸術と素朴」(世田谷美術館/東京)
2000年(平成12年) - 「素朴って?ライフ&ビジョン」(愛媛県美術館)
2001年(平成13年) - 貧血で倒れ、その後認知症を発症するが、制作は意欲的に続ける。
2005年(平成17年) - 死去。享年92。
2006年(平成18年) - 「快走老人録」(ボーダレス・アートミュージアム NO-MA/滋賀)
2008年(平成20年) - 「ピクニックあるいは回遊」(熊本市現代美術館)、「マイ・アートフル・ライフ?描くことのよろこび?」(川口市アートギャラリー・アトリア/埼玉)
2009年(平成21年) - 「マイ・アートフル・ライフ?描くことのよろこび?」(京都造形芸術大学ギャルリ・オーブ/京都)
2011年(平成23年) - 「アンリ・ルソーと素朴な画家たち」(市立小樽美術館)他
2013年(平成25年)
「塔本シスコ生誕100年記念 シスコと生きる」出版
「塔本シスコはキャンバスを耕す」(くずはアートギャラリー/大阪府)
「生誕100年塔本シスコ展 この喜びは何だろう」(不知火美術館)
「CAMKコレクション vol.4 『来た、見た、クマモト!』」(熊本市現代美術館)
「アンリ・ルソーから始まる 素朴派とアウトサイダーズの世界」(世田谷美術館)
2014年(平成26年) - 「川崎市制90周年記念事業「岡本太郎とアール・ブリュット-生の芸術の地平へ」(川崎市岡本太郎美術館)

・富田至誠
旧姓松尾至誠。東京美術学校西洋画科、(現東京藝術大学油画専攻)卒業後すぐに、新設された熊本県立御船中学校、現在の熊本県立御船高等学校に図画教師(美術教師)として赴任。以後、学制改革により御船中学校が御船高等学校となった翌年(昭和24年)に病没するまでの間、同校で教鞭をとり続ける。 昭和6年11月の天皇行幸、陸軍大演習に際して休憩所に飾る天覧の絵を描くなど優れた画力を持ちながら、文展、帝展等の公募展には一切出展せず、生涯一美術教師を通す。

井手宣通・浜田知明ら、日本を代表する美術家や美術教師を多数育てる。

1897年(明治30年)鹿本郡来民町(現山鹿市鹿本町来民)に四男として生まれる。
1910年(明治43年)来民尋常小学校を経て、県立鹿本中学校(現熊本県立鹿本高等学校)に入学、図画を武藤直に師事。
1915年(大正4年)鹿本中学校を卒業後、熊本工業専門学校(現熊本大学工学部)に入学するも翌年自主退学し上京。
1917年(大正6年)東京美術学校西洋画科を受験し合格。
1922年(大正11年)東京美術学校西洋画科卒業後、4月に開校されたばかりの熊本県立御船中学校に図画教師として赴任。まもなく富田園生と結婚、富田姓となる。
1949年(昭和24年)5月31日病没。(享年52)

・中村鳳龍
中学時代、美術の教科書で初めてゴッホの作品を見て感銘を受け、ゴッホの影響で当時の美術の授業で制作する水彩画も力強いタッチの絵を描いている。 彼が中学生時代に描いた作品は学校関係の作品展等に複数回入選し表彰を受けている。

中学2年生の時、美大を卒業したばかりの女性教員が彼の美術の副担任となり、彼の作品を見て「油絵を学び将来洋画家にならないか」と強く勧められたが、当時の本人には全くその意志がないため断っている。

しかし、2001年に6時間以上に及ぶ手術を経験し療養中に人生観の見直しをしながら中学時代の美術教員の一言を思い出し、絵を描くことは天命と感じ2002年に絵画制作を開始する。

・野田英夫
1908年(明治41年)、カリフォルニア州サンタクララ郡アグニュー村(Agnew, 現・サンタクララ市)で、熊本県出身の日本人移民・野田英太郎とセキの二男(第二子長男?)として生まれる。英語名はベンジャミン・ノダ。当時、アグニューや近隣のアルビソなどサンノゼ郊外は、ベリーなどの農産物耕作に携わる日本人移民の中心地だった。

3歳のときに父の郷里熊本の叔父・羽島徳次に預けられ、熊本師範付属小学校、旧制熊本県立熊本中学校卒業後に帰国し、1929年にアラメダ郡のビードモント高校を卒業、アメリカ人家庭のスクールボーイとして働きながら絵を学び、カリフォルニア・ファイン・アーツを中退、1931年にニューヨークに出てウッドストック芸術村で開かれていたアート・ステューデンツ・リーグの夏季講座に参加し、同校教授アーノルド・ブランチ(英語版)や国吉康雄の支援を受け、壁画・テンペラ画を研究した。ここで知り合ったアメリカ人のルース・ケルツと同年に結婚し、ニューヨーク16th street のアパートで、貧しいながらもウォーカー・エバンスら若いアーチストらと交流しながら暮らした。共産党系の革命的作家集団「ジョン・リード・クラブ」に参加し、スコッツボロ事件(1931年に起こった黒人少年に対するでっち上げ裁判事件)を題材にした作品「スコッツボロの少年たち」で注目され、美術賞受賞や美術展出品、壁画制作などが続いた。当時アメリカでは公共事業促進局の連邦美術計画により、壁画などのパブリックアートの発注が盛んだった。

1933年(昭和8年)には、アメリカ共産党と関係をもちながら、ニューヨークでディエゴ・リベラの壁画制作の助手をつとめたが、翌年には再び来日、二科展に出品した。

一時アメリカに戻った後は、新制作派協会会員として活動したが、ルースと訪ねた黒姫で制作中に目の不調を訴え、翌年帝大病院で脳腫瘍のため早逝した。ルースはすでに帰国していたが日本の親族に看取られ、宇土郡不知火村永尾二本松(現・宇城市不知火町永尾)に埋葬された。版画家野田哲也は甥にあたる。

・野田哲也
1940年: 熊本県宇土郡不知火町(現・宇城市)に、校長の息子として生まれる。
1959年: 東京藝術大学美術学部絵画科油絵専攻入学
1963年: 東京藝術大学美術学部絵画科油絵専攻卒業
1965年: 東京藝術大学大学院絵画研究科油絵専攻修了 (在学中に小野忠重から木版を学ぶ)
1968年 : 作品として日記をつけはじめる[5]。東京国際版画ビエンナーレ 大賞受賞
1971年6月: 駐日イスラエル大使Moshe Barturの娘であるドリット・バルトゥールと結婚
1978年: 東京藝術大学美術学部版画研究室講師、81年 同助教授、91年 同教授
この間、客員芸術家としてカナダ、アルバータ大学('84)、オーストラリア、キャンベラ美術学校('90)、アメリカ、コロンビア大学('98)などで教える。
また、第5回英国国際版画ビエンナーレ('76)、第10回ソウル国際版画ビエンナーレ('96)、第2回中国現瀾国際版画双年展('09)などで国際審査員を勤める。
2007年3月31日: 東京藝術大学美術学部版画研究室教授を退任[7]
2010年 - 現在: 東京藝術大学名誉教授。
2010年12月 - 2011年1月: 文化庁文化交流使としてイスラエル、イギリスに派遣されロンドンメトロポリタン大学の公開講座などで日本の木版画を教える。

・浜田知明
1917年(大正6年)、熊本県上益城郡高木村(現・御船町)生まれ。教育者の次男である。旧制御船中学校(現在の熊本県立御船高等学校)では、東京美術学校を卒業後すぐに美術教師として赴任していた富田至誠に指導を受ける。16歳の時には飛び級で東京美術学校(現・東京藝術大学)油画科に入学し、洋画家藤島武二の指導を受けた。戦時色濃いこの時代にあって、1939年(昭和14年)の同校卒業と同じに日本軍(熊本歩兵連隊)に入隊し、中国山西省方面で軍務についた。1943年(昭和18年)に満期除隊するが、翌1944年(昭和19年)には再び入隊し、伊豆七島の新島で軍務についた。20歳代の大半を軍隊で過ごした、典型的な戦中派であった。戦地でもスケッチなどを残しているが、作家としての本格的なデビューは太平洋戦争後のことである。

第二次大戦後、浜田は郷里熊本に帰り、県立熊本商業学校の教員をしながら作品制作をしていたが、1948年(昭和23年)に東京へ出、自由美術家協会に所属して作品発表の機会をうかがっていた。浜田が注目を集めるのは1951年(昭和26年)の自由美術家協会展に出品した銅版画『初年兵哀歌』シリーズからである。浜田の代名詞ともなっているこのシリーズは1954年にかけて計15点が制作された。中でも1954年作の『初年兵哀歌(歩哨)』は高い評価を得、1956年のルガノ国際版画ビエンナーレで受賞している。

日本国内のみならず、1979年にはオーストリアのウィーン(アルベルティーナ版画素描館)とグラーツ(グラーツ州立近代美術館)、1993年にはロンドン(大英博物館日本ギャラリー)で回顧展を開催、2008年にはイタリアのウフィツィ美術館で日本人版画家として初めて展示、収蔵され、1965年にフィレンツェ美術アカデミー版画部名誉会員、1989年にはフランス政府より芸術文化勲章(シュヴァリエ章)を受章するなど、国際的にも活躍している。

「冷たく、暗い、金属的な感じ」を求めた結果、技法的には一貫してエッチング(腐食銅版画)を主体に作成し、アクアチント(松やにを防蝕剤に使った銅版画の一種)を併用することもある。核戦争のような人間社会の不条理や人間心理の暗部といった深刻なテーマを、ブラックユーモアにくるんで表現している。浜田は発表する作品を厳しく選別しており、発表する作品は平均して年間数点に過ぎない。また、初期の作品は大部分が本人によって破棄されたといわれている。1983年(昭和58年)からはブロンズ彫刻にも取り組み、新境地を見せている。98歳となった2015年時点でも創作意欲は衰えていないという。

2018年7月17日1時25分(JST)、老衰のため熊本市内の病院で死去した。100歳没。

・マナブ間部
1924年(大正13年) - 熊本県宇土郡不知火町(現・宇城市)の宿屋を営む父・宗一と母・ハルの間に生まれる。
1934年(昭和9年) - 10歳の時、両親と共に「ラプラタ丸」でブラジルへ移民。リンス市ビリグイのコーヒー農園で働きながら育つ。
1945年(昭和20年) - コーヒー農園が霜の為全滅したこともあり、仕事の合間に油絵具を使って厚紙や板きれに絵を描き始める。
1950年(昭和25年) - サンパウロ作家協会展に入選。徐々に注目を集める。
1951年(昭和26年) - ブラジルの国展に入選。同年新潟県出身のブラジル移民よしのと結婚。
1953年(昭和28年) - 画風が変わり、静物や人物をテーマにし、その物体の形をつよい線で描く画面構成となる。
1956年(昭和31年) - この年から約7年をかけて、間部曰く『非具象構成派』とする絵を描き続ける。
1957年(昭和32年) - 自らのコーヒー農園を売却しサンパウロ市に移住。専業画家となるが生活は苦しく、ネクタイの染色や看板描きでしのいだという。
1959年(昭和34年) - 4月、「レイネル賞展」においてレイネル賞受賞。同年9月、第5回サンパウロ・ビエンナーレ展で国内最高賞を受賞。その10日後には「第1回パリ青年ビエンナーレ展」受賞。この2つの受賞がアメリカ・タイム誌に『MABE黄金の年』として取り上げられ、世界的な知名度を上げた。このことがきっかけで絵も売れ始めたという。
1960年(昭和35年) - 6月、「第30回ヴェネツィア・ビエンナーレ」でフィアット賞を受賞。
1961年(昭和36年) - この年から1966年にかけて、ローマ、パリ、ワシントン、ヴェネツィア、ミラノの各都市を個展巡回。同年アルゼンチン・コルドバで開催された「南米ビエンナーレ」で絵画部1位入賞。
1979年(昭和54年) - 1月、故国の日本で開催された個展を終え、100点余の作品を積んだヴァリグ・ブラジル航空機が成田国際空港を離陸後に遭難(ヴァリグ・ブラジル航空機遭難事故参照)。代表作の大半を失う。間部はその後14年かけて喪失した1点1点を描き直したという。
1993年(平成5年) - 12月、日本経済新聞に『私の履歴書』を連載。
1997年(平成9年) - 6月、東京で開催された個展を最期に、9月、サンパウロ市内の病院で内臓疾患手術後の合併症のため死去。
2008年(平成20年) - 6月、ブラジル移民100周年を記念して、サンパウロ市に「マナブ間部日伯近代美術館」が開館予定。

・宮崎静夫
1927年(昭和2年)、熊本県阿蘇郡小国町に生まれる。1942年(昭和17年)下城尋常高等小学校を卒業した15歳の時、満蒙開拓青少年義勇軍に志願し満州に渡る。1945年(昭和20年)、シベリアに抑留され 4年間俘虜として過ごす。1949年(昭和24年)、帰国。

1957年(昭和32年)、熊本市の海老原美術研究所に入所し、海老原喜之助に師事する。1961年(昭和36年)、「ドラム缶のシリーズ」で、シェル美術賞佳作、熊日賞などを受賞する。1968年(昭和43年)より約1年間渡欧し遊学。1970年(昭和45年)より、戦争体験をもとにした「死者のために」シリーズを描き始める。

1998年(平成10年)、熊本県立美術館分館と島田美術館で回顧展を開催。2008年(平成20年)、熊本県芸術功労者として顕彰。2010年(平成22年)、第69回「西日本文化賞」を受賞する。作品は、熊本県立美術館、熊本市現代美術館、島田美術館、つなぎ美術館などに収蔵されている。

2015年(平成27年)4月12日、胃がんで死去した。

・宮崎精一
1912年 - 熊本県人吉市に生まれる。
1930年 - 日本美術学校入学。
1937年 - 第7回独立展入賞。
1940年 - 第17回白日展特選。
1944年 - 第14回独立展独立賞受賞。須田国太郎に師事。
1945年 - 人吉市に居住した海老原喜之助に師事。
1946年 - 坂本善三らと熊本県美術協会設立。
1948年 - 独立美術協会会員となる。
1954年 - 人吉球磨総合美展を創設。
1959年 - 渡欧。1年間。
1984年 - 熊日賞受賞。
1988年 - 熊本県近代文化功労賞。
1996年 - 人吉市で没。

・森本木羊子
1919年(大正8年)、大阪貿易学校英語科卒業し、上京。
浜村蔵六、野川鼎象に篆刻を、増原宗一に日本画を学ぶ。
1924年(大正13年)、貿易商に勤務。セイロン島コロンボ勤務。
ここでインド・セイロンの仏教美術に接し研究する
1935年(昭和10年)、大阪髙島屋に入社。美術部、呉服部勤務
柳宗悦、河井寛次郎、棟方志功らと知己を得て、民芸運動に傾注する。
1953年(昭和28年)、高島屋退職。木版画を始める。
その後
日本工芸館で棟方と合同版画展。
湊川神社拝殿の天上画「白馬」、「天馬」を献納。
西大寺山門扁額「勝寶山」を彫刻し、献納。
「みんげい」で河井武一と「押出版画と陶芸展」を開催。
「堂島日本工芸館」「たくみ」「中宮画廊」「りーち」で個展開催。
毎年、東大寺二月堂、修二会の紙手を寄進した。

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