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鹿児島県について

"鹿児島神宮(霧島市)に由来の「鹿児島」の語源は、天津日高彦穂々出見尊(山幸彦)が海神宮(わたつみ)に行く際に乗った舟が鹿児山で作られたという説、「神籠もる島」という説、「カゴ」は崖という意味で、四方が崖に囲まれている桜島は「カゴ島」と謂われ、鹿児島は桜島の古い名であるという説の諸説ある。

元々の令制国は、薩摩(さつま)国・大隅(おおすみ)国・多禰(たね)国の3カ国であった。

現在鹿児島市と鹿児島神宮は離れているが、鹿児島郡設置当初は天降川までが鹿児島郡内であった。

鹿児島県は、九州南部に位置し、奄美大島など605の離島を有しています。
最近では、はやぶさ2の打ち上げで話題になった種子島宇宙センター、世界遺産の屋久島など、自然や文化、観光、産業面において豊富な資源にも恵まれています。
火山が多いことでも知られており、錦江湾にある活火山の桜島は現在も頻繁に噴火を繰り返しています。
離島を含めると、県内の南北の距離が600kmに及ぶことから、積雪地域もあれば、亜熱帯地域もあります。
南国のイメージが強い鹿児島県ですが、市内でも積雪があることは珍しくなく九州の県庁所在地では最も積雪する回数が多いほどです。

また、鹿児島県は日本有数の農業県であり、日本における主要な産地となっている農産物としてサツマイモ、サヤインゲン、茶(鹿児島茶)があります。
養豚も鹿児島県の代表的な産業で、鹿児島といえば豚というイメージが定着しています。
近年では黒豚の飼育に力を入れる業者が増え、ブランド化も進められています。
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画家について

・黒田清輝
薩摩国鹿児島城下東千石馬場町(現鹿児島県鹿児島市東千石町)出身。薩摩藩士黒田清兼の子として生まれ、その後伯父の子爵黒田清綱(江戸時代の通称は嘉右衛門)の養子となる。1872年(明治5年)に上京。その後、平河学校(現・千代田区立麹町小学校)に入学[3]。平河学校では、学年は違うものの児童文学者の巖谷小波や商法学者の高根義人、能書家の宮島詠士らと親しくなり、その交流は終生続いた。卒業後は漢学塾二松學舍(現二松學舍大学)に通う。1878年、高橋由一の門人・細田季治につき、鉛筆画ならびに水彩画を学ぶ。上級学校進学を意識し、当時の受験予備校であった共立学校、すぐに築地英学校に転校、その後は東京外国語学校を経て、1884年2月2日横浜を出発し、フランスに滞在、1893年7月30日帰国。当初は法律を学ぶことを目的とした留学であったが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三、美術商の林忠正に出会い、1886年に画家に転向することを決意し、ラファエル・コランに師事する。

1891年には『読書』、1893年には『朝妝』(ちょうしょう)がフランスの展覧会で入賞した。同年、アメリカ経由で帰朝すると、美術教育者として活躍する。

1894年には芳翠の生巧館を譲り受け久米桂一郎と共に洋画研究所天心道場を開設し、印象派の影響を取り入れた外光派と呼ばれる作風を確立させた。1895年にはフランスで入選した全裸で立つフランス女性を描いた『朝妝』を内国勧業博覧会に出展して論争を呼ぶ。1896年には明治美術会から独立する形で白馬会を発足させる。

また同年には東京美術学校の西洋画科の発足に際して教員となり、以後の日本洋画の動向を決定付けた。1898年、東京美術学校教授に就任。1900年10月、白馬会展にて展示された『裸体婦人像』(静嘉堂文庫美術館蔵)が警察によって咎められ、絵の下半分が布で覆われる「腰巻事件」が起きる。

1905年から1920年まで東京高等商業学校(現一橋大学)講師を兼務し、同校教授を務めた久米らとともに仏語の教鞭を執った。また、一橋のお雇い外国人の子であったポール・ジャクレーに久米とともにデッサンや油絵を教えた。

1910年10月18日には洋画家として最初の帝室技芸員に選ばれ、また帝国美術院院長などを歴任した。1917年には養父の死去により子爵を襲爵する。第5回貴族院子爵議員互選選挙にて当選し、1920年に貴族院議員に就任している。1924年、尿毒症のため死去。

・東郷青児
1897年(明治30年) - 鹿児島県鹿児島市稲荷馬場町(現在の鹿児島市稲荷町)に生まれる[2]。幼少時に一家は東京に転居。余丁町小学校では林武と同級。
1914年(大正3年) - 青山学院中等部を卒業。青児の名前の由来はここからきていると言われている[3]。このころ日本橋呉服町に竹久夢二が開いた「港屋絵草紙店」に出入りし、下絵描きなどを手伝う。
1915年(大正4年) - 山田耕筰の東京フィルハーモニー赤坂研究所の一室で制作。日比谷美術館で初個展、この頃有島生馬を知り、以後師事。
1916年(大正5年) - 第3回二科展に初出品した『パラソルさせる女』により二科賞を受賞。
1920年(大正9年) - 永野明代(はるよ)と結婚。
1921年(大正10年)から1928年(昭和3年)までフランスに留学。国立高等美術学校に学ぶ。この頃の作品には、ピカソらの影響が見られる。長男の志馬誕生。
1924年(大正13年) - ギャラリー・ラファイエット百貨店のニース支店とパリ本店で装飾美術のデザイナーとして働く。
1928年(昭和3年) - 第15回二科展に留学中に描いた作品23点を出品、第1回昭和洋画奨励賞を受賞。
1929年(昭和4年) - 既婚のまま2月に中村修子と結婚披露宴を挙げる。3月に愛人の西崎盈子(みつこ)とメスで頸動脈を切り、ガス自殺をはかったが、救出される。一方で、宇野千代と同棲を始める。宇野の『色ざんげ』は東郷をモデルにした主人公が自らの情死未遂事件を語るというもので、のちに東郷は「この作品は最後の一行まで僕の話したことだ」と語っている。
1930年(昭和5年) - ジャン・コクトーの『怖るべき子供たち』を翻訳、白水社より刊行。
1931年(昭和6年) - 二科会入会。
1933年(昭和8年) - 宇野千代と別れ、妻の明代とも離婚。情死未遂事件の相手、みつ子と翌年結婚。
1938年(昭和13年) - 二科会に「九室会」が結成され、藤田嗣治と共に顧問になる。

娘・たまみ(1954年)
1940年(昭和15年) - みつ子との間に長女、東郷たまみ(のちに水谷八重子、朝丘雪路とトリオを組んで歌手デビューし、その後画家になり、二科会会長も務める)誕生。
1951年(昭和26年) - 歌舞伎座用の緞帳を制作。
1957年(昭和32年) - 岡本太郎と共に日活映画『誘惑』に特別出演(西郷赤児役)。日本芸術院賞受賞。
1960年(昭和35年) - 日本芸術院会員。
1961年(昭和36年) - 二科会会長に就任。
1969年(昭和44年) - フランス政府より芸術文化勲章(オフィシエ)を授与される。
1976年(昭和51年) - 勲二等旭日重光章授与[4]。東京・西新宿に東郷青児美術館(現在のSOMPO美術館)が開設。
1978年(昭和53年) - 4月25日、第62回二科展(熊本県立美術館)出席のため訪れていた熊本市にて、急性心不全のため死去。没後、文化功労者、勲二等旭日重光章、正四位追贈。
1983年(昭和58年) - 娘・たまみが艶福家であった父の性愛日記を公開[12]。同年、読売新聞の東郷番記者だった田中穣も伝記を出版し、夢二の妻たまきとの関係や二科会での帝王ぶりなどに触れた。

・藤島武二
薩摩国鹿児島城下池之上町(現在の鹿児島市池之上町)の薩摩藩士の家に生まれた。

はじめ四条派の画家や川端玉章に日本画を学ぶが、のち24歳の時、洋画に転向(日本画の作品は殆ど現存しない)。松岡寿・山本芳翠らに師事。1896年(明治29年)、1歳年上の黒田清輝の推薦で東京美術学校(現・東京藝術大学)助教授に推され以後、没するまでの半世紀近くにわたり同校で後進の指導にあたった。本郷駒込曙町(現・本駒込1丁目)で画塾も開いていた。1905年(明治38年)、文部省から4年間の留学を命じられ1月18日渡欧、フランス、イタリアで学ぶ。ただし、パリからローマに移った直後の事故で、フランス時代の作品の大半を失っている。1910年1月21日帰国後、5月13日教授に就任する。

黒田が主宰する白馬会にも参加。白馬会展には1896年(明治29年)の第1回展から出品を続け、1911年(明治44年)の白馬会解散後も文展や帝展の重鎮として活躍した。

1901年(明治34年)2月ごろから6年間担当した与謝野鉄幹・晶子が刊行した雑誌「明星」や、晶子の歌集『みだれ髪』の表紙では流行のアール・ヌーヴォーを取り入れている。ほかにも装丁本がある。

晩年は宮内庁からの2つの依嘱、昭和天皇即位を祝い学問所を飾る油彩画制作と、宮中花蔭亭を飾る壁面添付作品の制作が切っ掛けで風景画の連作に挑んだ。1934年(昭和9年)12月3日帝室技芸員。1937年(昭和12年)、最初の文化勲章受章者の一人となる。1943年脳溢血のため永眠。享年75。

・橋口五葉
かつて薩摩藩藩医で漢方医を勤めていた士族橋口兼満の三男として、鹿児島県鹿児島市樋之口町(現在の鹿児島市立甲東中学校に辺り、正門脇には石碑が立っている)に生まれた。本名・清。鹿児島県立中学造士館卒業。画号の五葉は、鹿児島の自宅にあり地域のランドマークになっていた、樹齢300年の五葉松にちなんだもの。少年時代は狩野派の絵を学んだが、1899年(明治32年)、数え19歳の時、画家を志して兄たちを頼り上京し、橋本雅邦に学ぶ。翌1900年(明治33年)第8回絵画共進会に橋口五葉の名で日本画3点を出品(現在全て所在不明)するが、遠縁の黒田清輝の勧めで東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科予備課程甲種に入学、翌年本科に入学。同学年選科に和田三造、二年選科に青木繁、熊谷守一、橋本雅助らがいた。在学中から展覧会へ出品、挿絵などで活躍しており、1905年(明治38年)に東京美術学校を首席で卒業した。

雑誌『ホトトギス』の挿絵を描いていた事や、五葉の長兄が熊本の第五高等学校で教え子だった関係で夏目漱石と知り合い、1905年(明治38年)、『吾輩ハ猫デアル』の装幀を依頼される。以来『行人』まで漱石の著作の装幀は五葉がつとめることになる。漱石以外にも、森田草平、鈴木三重吉、森?外、永井荷風、谷崎潤一郎、泉鏡花の作品の装幀を手がける。また、この時期の五葉は1907年(明治40年)に東京府勧業博覧会で出品作が2等賞を受賞し、同年の第1回文展では「羽衣」が入選を果たすなどして、画家としても次第に注目されるようになっていった。1911年(明治44年)、籾山書店の企画した叢書のためのデザインは、大正2年まで24もの名作の表紙を飾ることになる。その蝶をモチーフにあしらったデザインのために胡蝶本と愛称された。その他イラストでも活躍し、1911年(明治44年)「此美人」が三越呉服店の懸賞広告図案で第1等を受賞、懸賞金1000円を獲得し有名になった。この作品は、元禄模様の着物を着た女性が美人画の版本を手に座る姿を描いており、江戸回顧及びアールヌーボーの流行を反映している。

1915年(大正4年)、渡辺庄三郎を版元とする新版画の運動に参加、渡辺版画店より木版画「浴場の女(ゆあみ)」を制作版行。その後、喜多川歌麿、鈴木春信、歌川広重といった浮世絵の研究に熱を入れており、春信美人画の複製、『保永堂版東海道五十三次』の復刻などを行った。その一方でモデルを雇い、裸婦素描を繰り返し描いている。後に散逸、多くは外国へ流出してしまったが、その総数は3000点にのぼるといわれる。五葉はモデルに同じポーズを取らせ繰り返し描くことで、修正と純化を進め、版画へおこすべくただ一本の墨線へ纏め上げていく。その成果が結実したのが1918年(大正7年)からの私家版木版である。代表作として、「髪梳き」、「手鏡」、「手拭いを持つ女」、「夏装の女」、「かがみの前」などがあげられ、歌麿の美人大首絵を学び背景を雲母で塗りつぶす伝統技術をよく生かして、肉体表現に新しい感覚をみせた。なかでも、1920年(大正9年)版行の「髪梳き」には、青木繁の感化からロセッティらのラファエル前派の影響がみられ、油絵を学んだことが木版の上に新ロマン派の傾向及び写実的な影を落としている。浮世絵の美に惹かれ、その研究にも打ち込みながら、同年、独立して、一連の大判美人画、風景画を制作し始めるも翌1921年、10数点の作品を残したのみで、中耳炎から脳膜炎を併発して東京で急逝した。享年は数えで41。墓所は鹿児島市郡元町の市営露重墓地。

・和田英作
幼年期
1874年12月23日、鹿児島県肝属郡垂水村(現・垂水市)に生まれた。父親は牧師の和田秀豊、母親は川上トヨ。鹿児島生まれとするのが定説だが、1997年にフェルケール博物館で開催された「日本近代洋画の重鎮・和田英作展」では、東京生まれだとする新説が提示されている。和田秀豊はトヨの父親川上幸彦と親しかった。英作は三男四女の長男である。

3歳4か月だった1878年3月に家族で上京し、東京府麻布区の麻布仲ノ町に住んだ。父親は海軍兵学校で英語の教員を務める。5歳だった1879年にはスコットランド一致長老教会のヒュー・ワデルから小児洗礼を受けた。1880年には麻布学校初等科に入学、1883年には麻布学校中等科に進学したが、1884年には東京府立芝区鞆絵小学校に転校し、1887年に鞆絵小学校高等科を卒業した。

青年期

1887年には白金の明治学院予科に入学し、上杉熊松に洋画の基礎を学んだ。明治学院の同級には三宅克己、先輩には島崎藤村がいた。内国勧業博覧会で原田直次郎や曽山幸彦の絵を見たことで本格的に洋画を学ぶことを決め、1891年には明治学院を中退。上杉の紹介で曽山の洋画塾に入塾、同門には岡田三郎助、中沢弘光、三宅、矢崎千代二がいる。1892年には曽山が死去したため、原田直次郎の洋画塾・鍾美館に移り、1893年にはその傍らで久保田米僊に日本画を学んだ。

1894年には原田が病気療養に入ったため、同年秋には外光派の黒田清輝が開設したばかりの天真道場に移った。1894年には黒田が日清戦争に従軍しているため、実際には久米桂一郎の指導を受けている。1895年には第4回内国勧業博覧会に「海辺の早春」を出品して2等賞を得ており、この作品は久米の作風に近い印象派的な風景画の要素を持っている。1896年には白馬会の結成に参加。

東京美術学校(現・東京芸術大学)に西洋画科が開設されると、黒田の西洋画科教授就任にともなって、藤島武二・岡田三郎助とともに助教授に就任。これはヨーロッパ留学を見据えた一時的な人事であり、実際には生徒として黒田の指導を受けた。しかし助教授という立場で指導を受けることに気まずさを感じ、1897年2月には助教授を辞した

岡倉天心校長の取り計らいによって、生徒として西洋画科選科第4年級に編入学。すぐに卒業制作の創作を開始し、初の大作でありその後も代表作となる『渡頭の夕暮』を書きあげた。この作品は多摩川の矢口の渡しの一場面を描いたものであり、黒田の『昔語り』やフランス人風景画家のジャン=シャルル・カザンの影響が指摘される。翌1898年9月に自然主義作家の田山花袋が『新小説』に発表した『渡頭』は、和田の『渡頭の夕暮』から着想を得た作品である。

4年生は和田ただひとりであり、1897年7月には西洋画科初の卒業生となっている。10月には無給で西洋画科の教場助手となり、再び黒田らの指導を受けた。1896年から1897年には芝区愛宕町に住んだ[5]。

ヨーロッパ留学

1898年には麻布区市浜衛町に転居。絵の道に自信を失って自殺も考えたが、静岡県安倍郡清水町に赴いて写生に打ち込むうちに意欲を取り戻した。1897年にオーストリア出身の東洋美術研究家アドルフ・フィッシャーが新婚旅行を兼ねて来日すると、1898年9月以降には黒田の紹介でフィッシャー夫妻の通訳となり、夫妻に付き添って約半年間かけて近畿・九州・北陸などを巡った。フィッシャーはウィーンのある財閥の息子で、イタリアで美術を学んだのち、世界旅行の途中で日本美術に深く魅了され、蒐集家として3度めの来日だった(生涯に計7回来日し、蒐集品をもとに1913年にケルン東洋美術館を設立した)。

1899年5月には、フィッシャーから日本美術の作品目録作成を依嘱され、夫妻に伴って神戸港から日本郵船の備後丸で夫妻が暮らすドイツに渡り、ベルリン公使の井上勝之助の邸宅に居候した。同年秋には文部省から西洋絵画研究のため3年間のフランス留学を命ぜられ、1900年3月に文部省留学生としてパリに留学。アカデミー・コラロッシではラファエル・コランに木炭画と油絵を、ウジェーヌ・グラッセに装飾美術を学んだ。同年のパリ万国博覧会には旧作『渡頭の夕暮』と『機織』を出品し、前者で選外佳作賞を受けた。

1901年10月から1902年3月まで、約半年間パリ郊外のグレ=シュル=ロワンに暮らし、浅井忠と共同生活を行った。この時期には絵画だけでなく図案・漫画・表紙絵・俳句などの創作も行っており、黒田、岡田三郎助、浅井、竹内栖鳳らとともに同人誌『パンテオン会雑誌』の編集にも携わっている。留学時代には充実した創作活動を行い、アカデミックな洋画描法を習得した。1903年1月から2月にはルーブル美術館に足しげく通い、ジャン=フランソワ・ミレーの『落穂拾い』を模写した。1903年には1か月半かけてフランスとイタリアを巡歴し、1903年7月に日本に帰国すると、東京美術学校教授に就任した。1903年には第5回内国勧業博覧会に「こだま」を出品して2等賞を得ている。

日本帰国後

1904年にはセントルイス万国博覧会に『風景』を出品。1907年には東京府勧業博覧会審査員、第1回文展審査員、文部省美術審査委員会委員となり、33歳だったこの年には高橋滋子と結婚した。1908年には第2回文展に『おうな』を出品。春先から準備を進めた労作だったが、「和田氏はたしかに老耄の氣味がある、然らざれば餘りに無研究な畫だと思ふ、もし是でも研究があつたとすれば、其は餘りに皮相な研究である、色に於て形に於て、殊に顔面の陰の部分の透明性な色調に於て、(一寸透明に見えると感じたまゝで塗つてある、そして其以上に何ものをも見てない)」との酷評もあった。

1910年には東京美術及美術工芸品展覧会評議員、同展第2類出品鑑別委員、伊太利万国博覧会美術品出品鑑査委員となった。1911年には日本発の純洋式劇場である帝国劇場(同年開館)にて、客席天井に天女の壁画を製作した。1912年に第6回文展に出品した『H夫人肖像』は概して高評価を得たが、夏目漱石は「和田君はH夫人といふのをもう一枚描いてゐる。是も男爵同様甚だ不快な色をしてゐる。尤も窓掛や何かに遮られた暗い室内の事だから光線が心持よく通はないのかも知れない、が光線が暗いのではなくって、H夫人の顔が生れ付暗い様に塗ってあるから気の毒である」と評している。

1914年には東京大正博覧会の審査官となり、また赤坂離宮と東京駅の壁画を製作した。前年に赤坂離宮東の間の壁画制作依頼を受けていた和田は、紙巻煙草の高級産地であったエジプト・カイロ近郊の風景を題材とし、1914年7月に壁画を完成させた。この壁画は内装との調和性が傑作と称えられている。同年に開業した東京駅(中央停車場)帝室用玄関には、黒田の下絵を基にして和田が日本の産業を主題とする『海陸・殖産・興業』の大壁画を製作した。この壁画は太平洋戦争時に焼失している。慶應義塾図書館・旧館の階段正面に施されたステンドグラスは和田が原画を、小川三知が製作を担当し、1915年に完成した。慶應義塾大学図書館・旧館は太平洋戦争で焼失したが、小川の助手であった大竹龍蔵によって1974年にステンドグラスが復元された。

1914年には勲六等瑞宝章を受章。1919年には帝国美術院の会員となった。同年には慶應義塾大学に福沢諭吉演説像を製作し、三田大講堂の中央壁面に掲げられたが、この像は太平洋戦争時に焼失している。1937年には松村菊麿がこの像を模写しており、1960年に慶應義塾に寄贈されて三田演説館の演台に展示されている。和田は父親から聞いた話を基にして腕組みをした福沢の姿を表し、このポーズは今日まで福沢のイメージとして親しまれている。

1921年4月22日には日仏交換展の代表使節に命じられ、アメリカ経由でパリに渡る。勅任官としてフランス官設美術展覧会に日本美術を出品する活動を行い、1922年9月に日本に帰国した。1922年には勲四等瑞宝章を受章。1923年にはフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受けた(1928年に受章)。同年にはフランス美術展の準備委員、第2回朝鮮美術審査委員会の委員となった。1925年には鹿児島県庁舎の落成を記念して『富士(河口湖)』を鹿児島県に寄贈している。

東京美術学校校長

30年以上東京美術学校校長を務めた正木直彦が1932年に辞任すると、和田が後任の校長に就任。美術家出身の東京美術学校長は和田が最初にして最後である。東京美術学校では刑部仁や野口謙蔵などの後進を育てている。1933年には史蹟名勝天然記念物調査委員会の委員となった。1934年12月3日には帝室技芸員に命じられた。1936年には妹であるチマと青山彦太郎の息子青山新、新の妻青山茂と養子縁組を結んだ。

1936年には平生釟三郎文部大臣によって帝国美術院の再改組が行われたが、和田ら14人の連署によってこの再改組に反対し、帝国美術院会員と東京美術学校長を辞した。校長退任後には従三位に叙せられ、東京美術学校の名誉教授となっている。同年には明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に壁画『憲法発布記念式』を完成させ、さらには宮内省の命による『山本内閣親任式』を製作した。『憲法発布式』は今日の日本の歴史教科書に掲載されている。『山本内閣親任式』は1936年9月1日に昭和天皇に献上され、昭和天皇が暮らす吹上御所(吹上大宮御所)の大広間に掛けられた。

1937年に帝国美術院が廃止され、帝国芸術院が設立されるとその会員となった。同年にベルリン国立博物館のオット・キュンメル(ドイツ語版)が日本を訪れた際には、外務大臣官邸での茶会に招待された。1940年から1943年の夏季と冬季には、奈良県生駒郡法隆寺村の法隆寺金堂壁画(第5号壁画)の模写を行っており、模写用の照明として当時研究中だった蛍光灯を導入している。1943年には文化勲章を受章した。

知立疎開時代

1945年3月には麻布区笄町の自宅が強制疎開の対象となり、4月12日には愛知県碧海郡知立町(現・知立市)で駄菓子屋の離れを借りて疎開生活を始めた。知立町への疎開時代には東海道の松並木、小堤西池のカキツバタ、逢妻川などを作品に残している。知立在住時にはしばしば知立劇場で観劇し、近隣の碧海郡高岡村に住んでいた画家の岩月光金と交遊した。

疎開時代にも手紙を通じて東京の中央画壇との関係を維持し、芸術院美術部会議や日展の審査など必要があれば東京まで出かけて行った。1946年に新文展から名称を変更して日展が初開催されると、鑑査のために東京に赴いている。終戦直後で物資が乏しい時代ながら、疎開時代には年間約30点、計約170点の作品を残しており、風景画と静物画がほぼ同数であった。1951年には文化功労者に選ばれた。三保移住後の1952年にも知立を訪れ、未完だった『知立神社の杜』を完成させている。

三保移住後

富士山や羽衣伝説を描きたいという思いから、1951年8月12日には静岡県清水市三保(現・静岡市)に移り住んだ。11月11日には上野養生軒で和田、中沢弘光、三宅克己の3人の喜寿祝賀会が開催され、大阪と名古屋で喜寿店が開催された。1953年には日本芸術院の第一部長に選ばれた。1955年には清水市庁舎の落成を記念して『真崎からの富士』を清水市に寄贈している。1958年には膀胱癌と診断されて東京厚生年金病院に入院。4月には退院したが、1959年1月3日に清水市三保宮方にて死去した。死後には正三位に昇叙され、勲一等瑞宝章大綬を受けた。1月10日には明治学院講堂で葬儀が行われ、3月10日には東京多摩霊園に埋葬された。

・吉井淳二
1904年(明治37年) 鹿児島県曽於郡末吉町に生まれる
1922年(大正11年) 鹿児島県立志布志中学校(現在の鹿児島県立志布志高等学校)卒業
1929年(昭和4年) 東京美術学校洋画科卒業
1940年(昭和15年) 二科会会員就任
1961年(昭和36年) 同会理事就任
1965年(昭和40年) 日本芸術院賞受賞
1972年(昭和47年) 南日本美術展審査委員長就任
1976年(昭和51年) 日本芸術院会員就任
1977年(昭和52年) 勲三等瑞宝章に叙される
1979年(昭和54年) 社団法人二科会理事長就任
1985年(昭和60年) 文化功労者として顕彰される
1989年(平成元年) 文化勲章受章
2004年(平成16年) 3月6日、満100歳を迎える。11月23日、死去。
また、晩年の1988年には「福祉を拓き文化を創る」、通称「福祉に文化を」を理念として「絵と彫刻のある憩いの園」加世田アルテンハイムを創設した。郷里鹿児島県で社会福祉法人「野の花会」理事長を務めた。

・海老原喜之助
鹿児島県鹿児島市生まれ。県立志布志中卒業後、上京してアテネ・フランセでフランス語を学びながら川端画学校で絵画を学び『自画像』を制作した。1923年(大正12年)に19歳で単身渡仏し、パリで創作活動をしていた藤田嗣治に師事。同地から出品した作品が第10回二科展に初入選し、翌年にはサロン・ドートンヌに初入選を果たす。

1927年(昭和2年)にフランスの画商、アンリ・ピエール・ロシェと契約し、『窓(カンヌ)』『姉妹ねむる』『サーカス』を制作。翌年にはニューヨークで初めての個展を開き更にサロン・ド・レスカリエにも招待されるが、この頃からフランドル絵画に影響されて青を基調とした雪景の連作を描きはじめる。ベルギー人のアリス・エロジー・ベッケと結婚し息子二人をもうけるも1933年に離婚し、二児を引き取る。1934年(昭和9年)に帰国して日本で初個展を開催し、翌年には独立美術協会会員に迎えられる。同協会の主催する独立展に出品を続ける傍ら戦争画も手がけ、1940年(昭和15年)には日本大学専門部芸術科美術科(現日本大学藝術学部)講師となる。同年再婚し、自由が丘に転居。1943年に日大講師を辞して1945年6月に熊本県水俣市に疎開、そこで終戦を迎えた後、洋画家の宮崎精一を頼り人吉市に移るが暫くは絵筆を折った。

1950年(昭和25年)に第1回南日本文化賞に受賞して後に熊本市へ移転、翌年には海老原美術研究所(エビ研)を創立すると同時に第3回読売アンデパンダン展に『スタート』『殉教者』を出品して画業を再開した。その後は九州を本拠に創作活動を続けるものの、1966年(昭和41年)から断続的に渡仏。1968年(昭和43年)に藤田が死去した際には彼の葬式を取り仕切り、その後はヨーロッパのロマネスク美術を訪ね歩きながら創作活動を継続。『水より上る』を制作し帰国を目前とした1970年(昭和45年)9月19日に、癌のためパリで死去。行年66歳。熊本の小峰墓地にも墓がある。二児はそれぞれ写真家と画廊経営者となり、孫が姫路市で海老原喜之助オフィシャルギャラリーを経営している。

・床次正精
1842年(天保13年)薩摩藩の私領である宮之城領主・島津久治の御付人を勤める児玉家の三男児玉宗次郎実富として生まれる。1860年(万延元年)床次家の養子となり床次家を継ぐ。通称は正蔵。島津久光の次男島津久治の小納戸役を務める。床次家は本性は紀氏で武内宿禰の流れをくむ家系と称し源頼朝のころに大隅国に入り後、島津家の家臣になり鹿児島に移ったとされている。

床次は剣を新陰流に学び薩摩藩内では剣名は高かったと言われている[3]。また、7歳で日本画(狩野派)の能勢一清の弟子になり日本画を学び始めている。床次は洋画家として知られるが、日本画も職業にできるほどの腕前だったと言われる。

幕末、島津久光の命で長崎に赴きイギリス軍艦の視察をする。薩摩藩は薩英戦争でイギリス艦の力を思い知ったためである。このとき乗ったイギリス軍艦で見た油絵の写実性に床次は驚き、以降独学で洋画を学ぶ(後に一時、仙台で梶原昇に油絵を習うが、梶原昇の技法も大したことはなく、事実上独学)。

明治維新期には、禁門の変・戊辰戦争に藩兵として参加する。その後一時鹿児島に戻るが、1871年(明治4年)廃藩置県前の御親兵の一員として上京。1872年(明治5年)には司法省に入り検事補、1877年(明治10年)宮城県上等裁判所検事、1878年(明治11年)東京地方裁判所検事を歴任。1877年(明治10年)西南戦争が起きた際には宮城県上等裁判所検事として仙台に赴任していたが、西郷軍に参加しようと仙台を発つ。しかし床次が東京まで来た時に西郷がすでに敗れ城山に追いつめられている状況が伝わり西郷軍に加わることは断念し仙台に戻る。1879年(明治12年)来日中のグラント将軍(前アメリカ大統領)像を画いたことが新聞に載り画家として知られる。1880年(明治13年)裁判所を辞め画業に専念する。

知られているところでは1877年(明治10年)松島の絵を2点画き、1点を宮中に献上し、1879年(明治12年)グラント将軍像、1880年(明治13年)三田製紙所の図、1881年(明治14年)伊藤博文像、1882年(明治15年)勅命で日光名勝図、1887年(明治20年)西郷南洲像、1890年(明治23年)帝国憲法発布の式場・祝宴図など8画を画く。

一時はイタリアへ留学し本格的に絵を学ぼうとも考えたが、町田久成が企画した事業の連帯保証人となっていたことが仇となる。町田の借金を肩代わりする羽目となり、北豊島郡下谷に持っていた8000坪もの屋敷地を売り払い、一家は困窮する。1882年(明治15年)官職に復帰し宮内省御用掛、1884年(明治17年)農商務省御用掛、1889年(明治22年)以降はまた司法省に戻って検事・判事を務める。

・八島太郎
鹿児島県立第二鹿児島中学校から東京美術学校に進むが、軍事教練をボイコットしたため退学処分を受ける。その後、日本でイラストレーター・漫画で成功するが、日本の軍国主義に反対したため10回に渡り投獄される。友人であった作家小林多喜二が特高の拷問で死亡した際には、多喜二の死に顔をスケッチする。その後、1939年、芸術を学ぶためニューヨークに渡る。1943年、「The new sun(新しき太陽)」「ブラウン文庫 4827」を刊行したことにより、アメリカ合衆国で「野蛮なサルではない日本人もいる」という記事が載る。第二次世界大戦中は、戦時情報局(OWI)で働き、対日宣伝活動に加わる。沖縄侵攻作戦では、一人でも多くの日本人を救うため、命の重要さを説く詩を書き、戦略爆撃機から投下する沖縄の日本兵へ投降を呼びかけるビラの製作に携わった。

戦後、後に俳優として活躍する息子のマコ岩松をニューヨークに連れて行く。ニューヨーク・マンハッタンにおいて、Yashima Studioを立ち上げ、多くのアーティストたちと交流する。

1950年代初頭からは子供たちのための絵本の製作も始め、1955年に「Crow Boy(からすたろう)」、1958年に「Umbrella(あまがさ)」、1967年に「The Seashore Story(海浜物語)」でコールデコット賞次席。1972年、第23回フランスデヴィユ国際美術展でグランプリを受賞。

1994年、カリフォルニア州の自宅で85歳で死去した。

・桑水流みき
鹿児島県鹿児島市に生まれ鹿児島市立伊敷小学校、鹿児島市立河頭中学校、鹿児島県立鹿児島中央高等学校を経て、久留米大学医学部附属臨床検査技師専門学校に入学。卒業後、日本赤十字社福岡県血液センターにて臨床検査技師として働き1994年退職、渡米。en:Montgomery Collegeおよびen:Maryland Institute College of Artにて習学中にナショナル・ギャラリー・オブ・アートで感銘を受け画家を志す。海外受賞歴多数。帰国後、岡田征彦に師事、2003年(平成15年)以降、日本国内での展覧会や個展を中心に活動中。2010年(平成22年)久留米大学病院に作品寄贈、タイ赤十字認定ナイチンゲール芸術賞。2011年(平成23年)朝倉医師会病院に作品寄贈。2012年(平成24年)朝倉医師会病院緩和ケア病棟の個室や談話室の絵画を手がける。福岡文化連盟会員。日洋会会員。

・山下三千夫
1948年 鹿児島県坊津町に生まれる.
1967年 初個展
1975年 葦の画廊(東京)にて個展 フランス留学(~1976年)
1977年 山形屋画廊(鹿児島)にて個展。以降1年おきに同画廊にて開催。
1994年 神戸阪急にて個展
1996年 横浜そごう、神戸阪急にて個展
1998年 天神岩田屋(福岡)にて個展
1999年 横浜そごう、ギャラリーアクシズ(大阪)、阪急百貨店うめだ本店(大阪)にて個展
2000年 ギャラリーアクシズ(大阪)、神戸阪急にて個展
2001年 ギャラリーベルンアート(大阪)、JR大阪セルヴィスギャラリーにて個展
2002年 阪急百貨店うめだ本店(大阪)にて個展
2002年 ギャラリー東京映像にて個展
2004年 銀座で個展
2005年 近鉄百貨店阿倍野本店・京都店で個展
2006年 銀座・福岡で個展
2007年 瀧川画廊で個展
2012年 グループ展 GANKO展出展 なかお画廊
2013年5月 油彩画展 山形屋画廊
2015年5月 油彩画展 山形屋画廊
2015年10月 大阪高島屋 大阪店6階 ギャラリーネクスト
2015年10月 ~注目作家による~「私の中の宮澤賢治」展 仙台三越7階 アートギャラリー
2016年5月 -静謐なまなざし- 帝国ホテルプラザ アート・ギャラリー尾山
2016年10月 チューリッヒ ゴルドバハセンター
2016年11月 -山下三千夫の歩んだ不確実な時代- 児玉美術館
2017年5月 油彩画展 山形屋画廊
2017年8月 静謐のまなざし 山下三千夫の世界展 ギャラリー杉
2017年11月 山下三千夫の描く風景画の変遷展 児玉美術館
2018年1月 それぞれの静謐な人物 山下三千夫展 仙台三越 本館7階アートギャラリー
2018年5月 山下三千夫 小品展 ギャラリー澤 第2ギャラリー
2018年10月 山下三千夫 作品展-まなざし- トアギャラリー

・伊牟田經正
鹿児島県喜入町出身。小学生の頃から図画が得意だった。鹿児島県立甲南高等学校では美術部に所属し油絵を描き始め2年生の頃に画家を志す。また、彼が3年生の時に、同校文学部が機関誌『深海魚族』を創刊した際、頼まれて表紙絵を提供している。甲南高校卒業後に上京し、新橋の光風会美術研究所で学ぶ。デザイン会社、映画看板屋、ペンキ屋などを遍歴した後、レーシングカーのサインペインターをしながら絵画制作を続ける。

1962年、第48回光風会展で初入選。以後、光風会展と日展を中心に出品を重ねる(受賞歴は後述)。1970年に光風会会員となり、その頃から絵に専念。1971年~1984年、具象絵画の登竜門といわれる安井賞展に連続出品。その他、光風会と日展への出品と並行して、1972年~1974年新鋭選抜展、1974年日本国際美術展、1977年~1981年・1986年国際形象展、1976年・1986年文化庁現代美術選抜展、1979年~1982年明日への具象展、1985年具象絵画ビエンナーレ展、1985年インド「日本現代絵画展」、1986年パリ「日本の油絵30人展」などに出品。また、1981年に郷里鹿児島のデパート山形屋で個展を開催。1991年に日展会員となる。2004年に光風会理事、2007年に日展評議員にそれぞれ就任(日展評議員は2014年まで)。

著書に『増補新版 伊牟田經正の油彩画』(河出書房新社、1994年11月)がある。兄に国文学者の伊牟田經久がいる。

・安達真太郎
鹿児島県鹿児島市出身(出生地は兵庫県姫路市)。鹿児島市立松原尋常小学校と大牟礼南島が指導する鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業。

代用教員となるが、画家の夢をあきらめられずに上京して川端画学校に入る。住み込みで清水良雄に師事。清水にデッサンを教わった後東京美術学校も受験予定だったが、清水からもう充分実力がありわざわざ学校に通うのはもったいないといわれて取りやめる。画業のかたわら帝大植物園にて植物標本のスケッチの仕事を手伝う。この経験が画風の細密描写に生きていると言われている。太平洋画会、白日会、光風会などの各展に出品し、1927年以降は帝展(文展・日展)を中心に活躍。1929年に光風会賞を受賞し、1937年に光風会会員。1940年文展(日展)委嘱、光風会評議員。

1964年パリに遊学し、ヨハネス・フェルメール、ジャン・シメオン・シャルダン、ウィレム・カルフらフランス・オランダの作家の静物画を研究する。1966年、パリ市立近代美術館のパンチュード・ラ・リアリテに日本代表出品。1967年、能見三次と二人で日本写実派を結成し、細密描写絵画を提唱。1969年、日展と光風会を脱会。1971年、銀座の兜屋画廊で個展。1977年~1978年、サロン・コンパレゾンに招待出品。82歳で逝去。

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