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渋谷区について

千代田区・港区・中央区の「都心3区」に新宿区と渋谷区を加えて「都心5区」と言われることがある。ターミナル駅である渋谷駅周辺は新宿・池袋と並ぶ三大副都心の一角、および東京を代表する繁華街であるほか、新宿駅に近い代々木や千駄ヶ谷地区は新宿のオフィス街・繁華街と一体となっている。1970年辺りまでは、「若者の街」、「若者文化の流行の発信地」といえば、新宿であった。しかし、1973年に渋谷でPARCOの開店があり、日本における若者文化の歴史が大きく変化した。その流れは「新宿から渋谷、または渋谷区全体へ」と移り変わっていくこととなる。

原宿・表参道・青山は日本のファッションの中心として知られるほか、代官山や恵比寿には商業施設やファッション関連の産業が集積している。さらには、明治神宮や代々木公園などの広大な緑地を有しており、周辺には松濤や代々木上原といった高級住宅地も点在している。また同様に、高級住宅地として知られる広尾は麻布区に起源を持ち、現在でも麻布に近い地域性を持つ。一方で、甲州街道より北側の地区は中野区や新宿区に続く過密な住宅地となっており、ほかの街とは趣を異にする。渋谷スクランブル交差点は、若者の街の典型としてニュースなどで報道されることが多く、全国的に有名である。

2005年時点で夜間人口(居住者)は19万9280人であるが、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内残留人口の合計である昼間人口は54万2803人で、昼は夜の2.724倍の人口になる(東京都編集『東京都の昼間人口2005』平成20年発行132,133ページ)。国勢調査では年齢不詳のものが東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳のものを含め、昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないため数字の間に誤差が生じる。

渋谷区が初めて設置されたのは1932年(昭和7年)のことで、それまでの東京府豊多摩郡の13町が東京市に編入されることになり、同郡の渋谷町、千駄ヶ谷町、代々幡町の3町をまとめて「渋谷区」とされたものである。この際、豊多摩郡の残り10町は、2 - 4町ずつまとめられ、「中野区」「杉並区」「淀橋区」として再編された。

3町の合併後の区名が「渋谷」となったことについては、当時3町の中でもっとも発展していたのが渋谷町であり、そのためにその町名が区名として採用されたといわれる。

画家について

・高松次郎
東京都に生まれ、1954年に東京藝術大学絵画科(油画専攻)に入学。在学中は小磯良平に師事した。卒業後の1958年より第10回読売アンデパンダン展へ作品の出品を開始し、以後1959、1961、1962、1963年に出品している。はじめ前衛芸術に傾倒し、中西夏之、川仁宏らと共に、有名な「山手線事件」というハプニングを行った。また中西、赤瀬川原平らと芸術集団ハイレッド・センターを結成し、数多くのパフォーマンスを実践した。

作品はインスタレーションから絵画、彫刻、壁画、写真、映画にまで様々なスタイルに至り、多くの作品が抽象的かつ、反芸術的な色合いが濃いもので、実体の無い影のみを描いた作品「影」シリーズが脚光を浴び、石や木などの自然物に僅かに手を加えただけの作品、遠近法を完全に逆にした作品など、あえて「思考させる」「思考する」ことにより、作品と世界との間に新しい関係を作りだすことに成功し、1960年代以降の日本におけるコンセプチュアル・アートに大きな影響を与えた。

しかし1980年代に登場する「形」シリーズからは作品に飛躍的な展開が見られ、平面空間に線、面、色彩が溢れるようになる。高松は62歳で亡くなるまで20年間以上三鷹にアトリエを構え、病に倒れた後も亡くなる直前まで、このシリーズを追求し続けた。

1968年より多摩美術大学専任講師を務め、1972年から1974年まで東京藝術大学にて美術学部油画科非常勤講師を務めた。1981年「十代の会」の発起人の一人として同会創立に参加。

・高橋由一
高橋由一は、江戸生まれの日本の洋画家。幼名は猪之助、のち佁之介。名は浩、字は剛。明治維新後に由一を名乗る。号は藍川、華陰逸人。居庵号は、石蒼波舎、伝神楼。
近世にも洋画や洋風画を試みた日本人画家は数多くいたが、由一は本格的な油絵技法を習得し江戸後末期から明治中頃まで活躍した、日本で最初の「洋画家」といわれる。

・牧野邦夫
幼少期を小田原で過ごす。父母を早く亡くし、姉に育てられる。従兄の幻想小説家牧野信一から、「芸術家にだけはなるな」と諭されていたが、ゴッホやレンブラントに魅かれ17歳で画家を志す。川端画学校をへて東京美術学校油画科に学ぶ。伊原宇三郎、安井曾太郎に師事する。1945年学徒出陣し九州宮崎で終戦。戦後の1948年、東京美術学校を卒業。写実的な人物画で知られるようになる。1962年と1965年の安井賞候補新人展に入選。ガンにて死去。

児童文学作家の牧野節子は姪。

・松本竣介
1912年 (明治45年) 渋谷に生まれ、その後岩手県で育ったが17歳になる年に再び上京し、その後は東京で絵を描き続けた。 一方、文筆活動の活発だった画家でもある。中学にあがった時に聴力を失った。1944年(昭和19年)制作の作品以降、名前の文字を、本名の「俊介」から「竣介」に改めた。以下の文中では煩雑を避けるためすべて「竣介」と記述する。

松本竣介はかつて、「みづゑ」昭和16年4月号において発表した文章「生きてゐる画家」 と、戦後、画壇の民主化を提言した「全日本美術家に諮る」によって反戦抵抗の画家とみなされた時期があったが、戦中の国是だった高度国防国家建設に反対でなかったことや戦意高揚のポスターを描いたことがわかっており 、 現在はそのような視点に立つ人は少なくなった。

1912年(明治45年)4月19日東京渋谷に生まれた。父勝身、母ハナの二男である。2歳年長の兄彬がいた。1936年(昭和11年)に結婚する以前の旧姓は「佐藤」(松本禎子と結婚して松本姓となった)。竣介は父親がりんご酒醸造事に参加したのに伴い、満2歳の時に岩手県花巻へ、10歳の時に盛岡へ移った。盛岡は父勝身の故郷である。 実家が豊かだったので岩手師範付属小学校に通い、1925年(大正14年)小学校を首席で卒業、岩手県立盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)に1番の成績で入学した。入学式の前日に頭痛を訴えたが、無理を押して入学式に出席、翌日の朝に脳脊髄膜炎と診断された。この病気が原因で聴力を失った。初秋に退院し、10月から登校した。

父の勝身は竣介を陸軍士官学校に入れたいと思っていたが、竣介自身は技師になりたいと考えていた。耳が聴こえなくなったことで軍人への道が断たれたため、勝身は竣介の希望通り技師の道へ進ませることを考え、竣介にカメラ、現像・焼きつけの器具を買い与えた。しばらくは熱中していたが、やがてカメラに対する興味を失った。竣介が2年の時に、兄彬が卒業後上京し府立一中の補習科へ通いだした(彬の上京は東京外国語大学進学のためであった)。その時に、油絵の道具一式を求めて郷里の弟へ送った。これがきっかけで絵を描くようになった。中学2年の夏頃からスケッチに熱中するようになり、3年の時には学校に絵画倶楽部を作った。次第に絵の道を志すようになった。

1929年(昭和4年)3月20日、盛岡中学を3年で中途退学し、東京へ出た。小学校の恩師佐藤瑞彦が、当時は池袋にあった自由学園に勤めていたため、その尽力で佐藤の隣家に家を借りて生活するようになった。そこから太平洋画会研究所(のち「太平洋美術学校」に改称)へ通い始めた。当時、この研究所では授業料の未払いをめぐって画学生と経営者側で対立が続いており、1930年(昭和5年)晩秋に研究所から学校へ衣替えして、太平洋美術学校として再スタート、竣介は引き続きこの学校に通った。この研究所には靉光、井上長三郎、鶴岡政男も通っていたが(美術学校に衣替えしてからは通わなくなった)、当時は互いの面識はなかった[27]。太平洋美術学校では鶴田吾郎の指導を受けたが、今ひとつ惹かれるものがなかったようである。10月におきた世界恐慌のあおりで、勝身が経営する銀行が破産の危機にみまわれた。

美術学校に通っている間は、しばしば近くの茶房「りゝおむ」に集まって仲間と議論した。当時、竣介はフルポンのあだなで呼ばれていた。当時の竣介は、モディリアニの生き方に傾倒していた。「赤荳(あかまめ)」という名のグループを作って活動していたが、この名は、モディリアニをモデルにして書かれたジョルジュ=ミッシェル作の伝記小説「レ・モンパルノ(Les Montparnos)」(第三書院、1932年)の中に出てくる少女アリコ・ルージュを日本語に訳したものである。仲間の中にはマルクス主義者も混じっていて、階級的芸術論を説いてオルグしていたので、その理論を勉強するために「太平洋近代藝術研究会」と名付けた会を作って「線」という雑誌(第1号は昭和6年9月刊)を出した。竣介はマルクス主義的芸術論には共感できず「線」は2号で終刊した。

1932年になると、この頃池袋に林立しつつあったアトリエを仲間と共同で一軒借り、ここで絵画の制作を行うようになった。この時、モデルの岩本政代と恋愛関係になったが、それが原因で仲間の間にわだかまりができ、共同アトリエは5ヶ月で解散した。この共同アトリエの時期に郷里で徴兵検査を受けたが、耳が聞こえないので兵役免除になった。アトリエ解散後は兄の彬の新居で一緒に暮らすことになった。

父勝身はもとはキリスト教徒だったが、日蓮宗に改宗し、その後さらに生長の家の信者になった。また、父が熱心に勧めた影響で兄の彬も生長の家の熱心な信者になった。創始者の谷口雅春が芸術雑誌「生命の藝術」(昭和8年創刊)を出すことを彬に話したため、その編集を任せようと竣介を誘った。1930年頃のことである。

しかし、当初竣介はこの話には乗り気ではなく、編集を承諾したのはそれから3年後だった。兄とともに編集を始め、1936年まで続けた。この仕事場で、後の妻松本禎子と知り合った。1933年(昭和8年)には、共同アトリエ時代の仲間を介して靉光と知己を得た。

1935年、鶴岡政男らが作ったNOVA美術協会の展覧会に出品、すぐに同人に推薦された。同年秋、二科展に初入選した自分の絵(「建物」(1935年 油彩・板に紙 97.8×130.5cm 神奈川県立近代美術館蔵))を禎子に見せるため上野の美術館に行き、そこで初めて野田英夫の作品(「帰路」と「夢」)に触れ、その後しばらく影響を受ける。翌1936年の二科展に出品した「街」(油彩・板、131×163cm、大川美術館蔵)は野田の影響の濃い作品だった。また、1937年1月に野田英夫が急逝した際、限定500部で発行された野田の作品集(入手できたのは200番の作品集だった)を三円五十銭をはたいて買っている。

禎子との結婚話は、父の勝身を通して松本家の恒(禎子の母)に持ち込まれた。当初松本家はこの結婚に反対で、その雰囲気を察して勝身は、竣介を松本家の養子に出してもいいと申し出た。1936年2月3日、東京会館で生長の家の方式に則って結婚式が行われた。結婚当初は松本家に住んでいたが、間もなく別の借家に引越し、義母の恒、禎子の妹2人(泰子、栄子)と共に住んだ。借家は島津製作所の3代目社長島津源吉の夫人とみが建てたもので、130坪の土地にアトリエつき2階建ての瀟洒な洋館だった。

「生命の藝術」の編集に携わっていた間、竣介は生長の家の信者だったが、宗教団体へ衣替えした頃から嫌気が差し、教祖の谷口に手紙を書いて訣別した。ほぼ同時期に、父の勝身、兄の彬、妻禎子や松本家の恒も脱会した。

「生命の藝術」の編集をやめ、1936年10月、雑誌「雑記帳」を自分で編集して創刊する。資金は、彬の助力でまかなわれた。初版5千部で始めたがほとんど売れず、初版3千部まで縮小させるも資金的に維持できなくなり、「雑記帳」は1937年12月号、通巻14号で終了した。「雑記帳」には、無名の文人・画家ばかりでなく、現在でも著名な者も多数寄稿した。文人では、亀井勝一郎、佐藤春夫、瀧口修造、萩原朔太郎、室生犀星、三好達治、保田與重郎ら、画家では、池袋モンパルナスのグループの他には、里見勝蔵、東郷青児、藤田嗣治、安井曾太郎らが寄稿したり、絵を寄せている。一方、1937年4月には第1子が誕生したが、早産だったため翌日に亡くなった。

1939年初め、故郷の人などの好意で後援会ができ、絵を売るための画会ができた。東郷青児や北川民次が推薦文を書いてくれたが、絵はあまり売れなかった。代わりに、故郷の友人達が世話してくれた、グラフ雑誌のカットの仕事や、美容院・喫茶店・カフェーの壁画の仕事で生計を立てた。

1939年7月、長男の莞(かん)が生まれた。1940年夏、二科展で特待を受ける。同年10月、初の個展を開いた(銀座の日動画廊で3日間)。この個展には、「夕方」(1939年11月、油彩・板、53.2×72.9cm、個人蔵)、「茶の風景」(1940年3月、油彩・キャンヴァス、50.0×73.0cm、岩手県立美術館蔵)、「青の風景」(1940年、油彩・キャンヴァスボード、23.5×33.0cm、大川美術館蔵)、「落合風景」、「お濠端」(1940年7月、油彩・キャンヴァス、65.0×90.0cm、横須賀美術館蔵)、「黒い花」など30点を出品した。

おそらく1940年の年も押し詰まってから、麻生三郎が「みづゑ」1941年1月号を持って竣介のアトリエを訪ねた。この号では、巻頭11ページに渡って、秋山邦雄少佐(陸軍省情報部)、鈴木庫三少佐(参謀本部情報部員)、黒田千吉郎中尉(陸軍省情報部)、批評家荒城季夫による座談会「国防国家と美術―画家は何をなすべきか―」(司会は「みづゑ」の編集部員)が掲載されていた。竣介は既にこの号を読んでいたが、麻生とアトリエにこもって長時間ひそひそ話を行った。この時、麻生と何を話していたのかは、麻生も竣介も詳しく語っていないので詳細は不明である。その後「みずゑ」の社長に対して、反論を書きたいとかけあい、400字詰め原稿20枚の約束で話がまとまった。原稿は1ヶ月かけて書かれたあと「みずゑ」4月号に「生きてゐる画家」の題名で掲載された。タイトルは、石川達三の発禁小説「生きてゐる兵隊」を意識したものだと見られている。

この掲載後、竣介に尾行がつくようになった。「生きてゐる画家」へは、黒田千吉郎からの再反論「時局と美術人の覚悟」が「みずゑ」6月号に掲載された。ただし、「生きてゐる画家」を意識した文章ではあるものの松本竣介を名指しで批判してはいない。なお、「国防国家と美術」の全文が、文献に再録されている。

1941年5月、友人の彫刻家・舟越保武と故郷の盛岡のデパートで二人展を開く。同年、二科の会友に推される。この頃から、街を歩いて建物のスケッチをするようになる。また、藤田嗣治の技法を学ぼうとしていた。1941年9月、二科内のグループ九室会の航空美術展に「航空兵群」という絵を出品した。油彩で描いた戦争画は、これが唯一であるとみられる。2007年現在、「航空兵群」は所在不明であるため、当時の図版のモノクロ写真か複製でしか見ることができない。

1943年春、池袋モンパルナスのアトリエ長屋に住んでいた井上長三郎を訪ね、絵画グループ結成の相談をする。井上の他、 靉光、鶴岡政男、糸園和三郎、大野五郎、寺田政明、麻生三郎らとともに「新人画会」を結成、4月、銀座7丁目の日本楽器の2階にあった小さな画廊を借りて第1回新人画会展を10日間開き、竣介は「鉄橋付近」(1943年3月、油彩・カンヴァス、34.3×59.8cm、島根県立美術館蔵)「運河風景」(1943年3月、油彩・カンヴァス、45.5×61.0cm、大川美術館寄託)など5点を出品した。会の事務所は、竣介の自宅に置かれた。当時は、展覧会と言えば戦争画というのが当たり前になっていたが、この展覧会では風景画や人物画ばかりが出品された。このことから、太平洋戦争後の一時期、新人画会は、日本でただ1つのレジスタンス画家集団と評されたことがあった。しかし、麻生・糸園・井上・寺田らの文章やインタビューによれば、実際にはそのような意図はなかった。

10月、岩手の翼賛文化報国会が主催した戦意昂揚展に3点のポスターを出品した。11月には、第1回展と同様、日本楽器の入っていた画廊で第2回新人画会点を6日間開いた。この時何を出品したかは記録が残っていないが、「並木道」が含まれていたのではないかとされている。

1944年(昭和19年)2月、東京都美術館で開かれた独立美術の展覧会を見に行く。同じ月に、兄が働いていた巣鴨の理研科学映画で動画を描く仕事を得た。9月、第3回新人画会展を資生堂画廊で3日間開く。3号の板に描かれた「りんご」が出品されたことはわかっているが、その他にもあったかどうかはわからない。この時から、名前を俊介から竣介へ改めるようになった。 これは父勝身の勧めによるものである。一方、同9月、内閣情報局は美術報国会の主催または共催以外の展覧会を禁止する決定を下し、以後、新人画会の展覧会は開けなくなった。また、二科も解散した。その後、新人画会は解散したが、それがいつのことなのか詳しいことはわからない。唯一「全日本美術家に諮る」(次項参照)の中に、解散したことを記す記述が見られるのみである。

1945年(昭和20年)3月、出産日を翌月に控えた妻の禎子と義母の恒、長男の莞を郷里の松江に疎開させたが、自身は東京に残った。4月10日には長女の洋子が誕生した。5月25日、山の手地区が空襲を受け下落合一帯も焼け野原となったが、竣介の自宅周辺だけは被害を免れた。

敗戦後間もなく、柴田錬三郎が編集していた雑誌の依頼で表紙やカットを描いた。竣介は後に、風刺雑誌「VAN」にカットを描く仕事をしたが、この時の柴田との縁で依頼されたようである。1945年9月、郷里の友人が中学生のための通信教育の会社(育英社、1947年12月に解散)を設立したので、教材の制作や添削の仕事を始めた。同年、舟越保武と故郷の盛岡のデパートで二人展が開かれることになり、20点を仕上げて盛岡へ行く。知り合いが無理をして買ってくれたらしく、絵は存外に売れた。10月になると、戦争画論争が激しかった中、朝日新聞に「芸術家の良心」という一文を投稿した。この文章は不採用になったが、この中で、戦争画というテーマ自体は時代を超えた普遍性を持っていることを説いていた。

この頃、松本は麻生三郎や舟越保武と美術家組合の構想を練っており、二科の東郷青児や、行動美術の向井潤吉、美術文化協会の福沢一郎から会員になるよう誘いがあったが全て断った。翌1946年1月、「全日本美術家に諮る」と題して美術家組合の素案を印刷した冊子を、画家だけでなくその他の分野の著名人・知人へ送った。また、日本共産党への入党の勧誘もあったが、それは断った。

一方、当初は手伝う程度だった育英社の仕事だったものが、1946年2月1日からは毎日勤務するようになった。同年4月、息子の莞の入学式に間に合わせるためと家族の引き揚げの相談のために松江に出かけた。東京に戻ってからは、同年の11月に決まっている3人展のための制作に打ち込んだ。この頃から肋骨の痛みや喘息がひどくなり始める。

11月、銀座日動画廊で麻生・舟越との三人展を開き、20点の絵を出品する。この中には、4作目になる「Y市の橋」や「少年像」、風景画「落陽」「市内の橋」「{\displaystyle O}O工場地帯」が含まれていたが、最後の3作品は散逸した。

1947年正月には、家族を呼び戻した。この頃には、雑誌の表紙やカットの依頼が入るようになっていた。例えば、南北書園発行の書籍の装丁(小川未明の「僕の通るみち」や林芙美子「一粒の葡萄」、芹沢光治良「パリの揺籃」など)、「新岩手夫人」「生活者」などの雑誌の挿絵を描いていた。その後、麻生・鶴岡・井上らとともに、自由美術家協会に加入した。6月に、第1回美術団体連合展(毎日新聞主催)、7月に自由美術の展覧会、10月に岐阜で、麻生・舟越との三人展に出品した。岐阜での三人展の最中に、長女の洋子が尿毒症で亡くなった。12月に風邪をこじらせクルップ性肺炎にかかり体調を崩したが、翌年の正月には床上げした。

1948年(昭和23年)2月、自由美術の展覧会が終わってから、妻の禎子にパリ移住の意向を伝えた。ほどなくして、次女の京子が誕生した。3月になって胸の苦しみを訴えたが、5月の第2回美術団体連合展の制作を優先させた。その後さらに体調が悪化し、完成した絵を自分で会場に搬入することができず、義妹らによって持ちこまれた。また、展覧会へ赴くこともできなかった。

5月24日、高熱が出たので、友人の澤田哲郎が慶応病院の医者を連れてきた。診察の後、医師は妻の禎子を自宅まで連れて行き、結核であること、心臓が弱っていること、入院による長期療養が必要であることを告げた。入院のための費用が工面できなかったため、しばらくは自宅で療養し薬で落ち着いていたが、6月7日の朝に容態が急変し、翌8日午前11時に亡くなった。

享年三十六歳、戒名は浄心院釋竣亮居士、絶筆は「建物」(1948年5月、油彩・カンヴァス、60.5×73cm、東京国立近代美術館蔵)である。墓所は松江市奥谷町の真光寺で、妻禎子とともに眠っている。

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