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大分県にお住いの方へ
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大分県について

山地の占める割合が大きく、西部には九重連山、南部には祖母山・傾山がそびえる。このうち九重連山の中岳は九州本土の最高峰である。平野部は北部の中津平野、中部の大分平野、南部の佐伯平野など限られた地域に分布している。海岸部は、北部から西部で瀬戸内海(西部は周防灘(豊前海)と呼ばれる。)に面する。中部では豊後水道を挟んで四国地方に接しており、その最狭部の豊予海峡の幅は10キロメートルほどである。南部の日豊海岸にはリアス式海岸が発達しており、日豊海岸国定公園に指定された景観が楽しめる。

大分県は九州東部の豊後水道に面した所に位置する県で、全国的に有名な別府温泉や湯布院温泉がある県としても有名で多くの観光客が訪れています。
大分県の産業の1つとして地熱発電を行っており、この発電力に関しては国内では最大級です。
また、大分県では地熱発電を含む自然発電全体の自給率も日本一を誇る記録を持っています。
他には日本一の温泉地という事で県をあげてPR活動を行っています。

大分県の産業で他に盛んな産業は農林水産業、工業等で、農業では椎茸やカボスが県の名産品で、工業では昭和の高度成長期に県庁所在都市でもある大分市に大分臨海工業地帯を設けました。
この工業地帯では製鉄所や石油コンビナートや石油化学工業が中心となっています。
生活面での利便性に関しては、大分市は役所等を含む公立の公共施設、医療機関、教育機関、公共交通機関、商業施設等あらゆるものが揃っていますので利便性は高いです。
遠隔地から大分県へのアクセスは公共交通機関はJR九州の鉄道や大分空港を利用しての飛行機でのアクセス等があり、車では有料道路の大分自動車道等があります。

画家について

・赤木範陸
日本国内でのエンカウスティーク(独: Enkaustik、英: エンコスティック、仏: アンコスティック)技法研究の第一人者であり、画家。横浜国立大学で後進の指導にもあたっている。

美術評論家の米倉守、元ザルツブルク大学教授で美術史家のフリードリッヒ・ピール、レンバッハハウス美術館館長で美術史家のヘルムート・フリーデルらによる評論があり、それぞれに非常に高く評価されている。

その作品は、地塗りを施していない亜麻布を背景に用い、特殊に処理した蜜鑞でモチーフの暗部を亜麻布に染み込ませることで明暗を表現する画肌が特徴である。赤木はこの方法で古代のエンカウスティーク技法を自らの独自の絵画技法として完成させた。 また、赤木が試みたのは自らの作品への現代ドイツ芸術の抽象理論の導入であって、自らの作品自体の抽象化ではないと2001年の大分市美術館の回顧展図録の中で述べている。

赤木の初期の作品は卵黄テンペラ、鑞テンペラなどの様々なテンペラ技法や15世紀頃にフランドルで発明された混合技法等で描かれ、画風は年代により近年まで極端に変化している。1990年頃からエンカウスティークという古代の絵画技法を改良した、絵具を使用しない濡れ色の絵画作品を発表している。

・宇治山哲平
明治43年(1910年)、大分県日田市に生まれる。日田工芸学校で漆芸蒔絵の技法を習得し、日田漆器株式会社に入社。漆工や木工デザインを担当する。同時に独学で木版画を学び、様々な芸術賞に入選する。油彩画の制作を始めると同時にアトリエを奈良県天理市に構える。

1961年(昭和36年)、大分県立芸術短期大学(現大分県立芸術文化短期大学)教授となり別府市に移る。1971年(昭和46年)からは、同短大の学長を務めた。

没後20年となる2006年(平成18年)には、東京都庭園美術館で宇治山哲平展、大分県立芸術会館で宇治山哲平回顧展が開催された。

・高山辰雄
大分市に生まれる。1931年(昭和6年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学、1936年(昭和11年)に卒業している。在学中から松岡映丘の画塾に入り、師事した。美校の卒業制作「砂丘」は、砂の上に座るセーラー服姿の若い女性を俯瞰的に描いた洋画風の作品で、後の高山の作風を思わせるものはほとんどない。

高山は戦後まもない1946年(昭和21年)ころ、ゴーギャンの伝記を読んで感銘を受け、その後の作風にはゴーギャンの影響がみられるようになる。1946年、第2回日展に裸婦ふたりを描いた「浴室」を出品し、特選となる。1949年(昭和24年)には日展に「少女」を出品し、再び特選となる。この頃から独自の幻想的な画風が定着する。

1960年(昭和35年)に「白翳」で日本芸術院賞、1964年(昭和39年)に「穹」で芸術選奨文部大臣賞、1970年(昭和45年)には日本芸術大賞を受賞。

1972年(昭和47年)日本芸術院会員。1975年から1977年まで(昭和50?52年)日展理事長を務め、任期満了後は日展常務理事、顧問となる。1979年(昭和54年)文化功労者として顕彰。1982年(昭和57年)70歳の時に文化勲章を受章している。1983年(昭和58年)に大分市名誉市民に推挙され、1987年(昭和62年)には世田谷区名誉区民として顕彰される。1985年(昭和60年)には東京はじめ日本の5都市で「日月星辰-高山辰雄展1985」を開催。屏風絵の大作をはじめとする意欲作を出品し、健在ぶりを示した。

2007年(平成19年)9月14日午後4時19分、肺炎のため自宅で死去。95歳没。

出身地の大分県には高山にちなんだ「高山辰雄賞ジュニア県美展」(通称「高山賞」「高山展」)という名称の賞がある。

・田能村竹田
豊後国直入郡竹田村(今の竹田市)の岡藩儒医田能村碩庵の次男として生まれる。母は水島氏。禄高12人扶持であったがこれは武士の中ではかなり低く、更に藩の財政難で実際はこの6割程度しか俸禄を得られなかった。この為竹田は生涯にわたり生活資金の工面に苦労させられることになる。6歳で素読を始め、11歳で藩校由学館で入学。成績は極めて優秀だった。その詩才を見抜いた師の唐橋君山は詩文結社竹田社・米船社の同人に迎えた。翌年、宿痾となった耳病と眼疾を発病する。

寛政6年(1794年)、18歳のときに母と兄を亡くし、翌年田能村家の嫡男となり藩主にまみえた。20歳頃より淵上旭江門の地元画家に画を学び、君山の紹介で江戸の谷文晁に現在でいう通信教育まで受けている。22歳のとき由学館に儒員として出仕し最終的には頭取に出立している。医業を辞めて学問に専心することとなり、幕命により『豊後国志』の編纂に携わった。

享和元年(1801年)、編纂事業準備のため江戸に下向。その途次大坂の木村蒹葭堂を訪ね、江戸ではかねてより文通のあった谷文晁を訪問。文化2年(1805年)眼病の治療と儒学を学ぶため、途中博多、長崎、熊本、小倉、下関に立ち寄り京都へ約2年間遊学。その間村瀬栲亭に入門。大坂では浦上玉堂や岡田米山人・上田秋成らと知遇を得る。文化8年(1811年)、生玉の持明院で頼山陽と邂逅、以来親交を深める。またこの年秋には紀州にて野呂介石にも画法を指南されている。

文化8年は専売制度に反対して藩内に農民一揆が発生。竹田は農民救済・学問振興を含めた藩政改革を要求する建言書を藩に2度提出したが受け入れられず、病気療養の必要もあり文化9年(1812年)辞表を提出。翌年致仕は認められ、37歳で隠居となるが、休息料として名目上2人扶持の俸給を与えられており、周囲の竹田への信頼を物語る。それ以後豊後と京阪との間を行き来しながら、頼山陽をはじめ岡田半江・浦上春琴・菅茶山・青木木米などの文人たちと交流を持つ。文政9年(1825年)、50歳で長崎に遊歴。来舶清人や長崎派の画家から中国絵画の技法を学ぶ。天保6年夏、大坂の藩邸で亡くなった。享年59。画の弟子に高橋草坪や帆足杏雨・田能村直入(養継子)などがいる。

竹田は筆まめで多くの著作を著している。とりわけ『山中人饒舌』は日本の文人画史・画論として当時から広く読まれ、『屠赤瑣瑣録』では文事や文人趣味などを知る上での資料価値が高い。また『竹田荘師友画録』は師友となった104名の人物評伝を掲載している。

竹田は元末四大家や宋代の米友仁を敬慕。多くの人物との交流から様々な画風を学んだことで山水図・人物図・花鳥図とその画域を広げ、写実を通して文人画のエッセンスともいうべき写意を表現した。晩年は繊細で味わい深い画境に到達し旺盛に創作をした。

現在、竹田の作品は、出光美術館に約200点、大分市美術館に45点、竹田市歴史資料館に10点をはじめ、日本各地の24カ所の美術館・博物館に所蔵されている。

・福田平八郎
1892年(明治25年) - 大分市に文具店を営む父・馬太郎と母・安(アン)の長男として生まれる
1898年(明治31年) - 大分県師範学校付属小学校に入学
1910年(明治43年) - 県立中学校に上がるが数学が苦手で「数学のことを考えるだけで世の中が暗くなる気がして」、中学校3年の進級に失敗、京都市立絵画専門学校別科に入学する
1911年(明治44年) - 隣接する京都市立美術工芸学校に入学。卒業制作は同校の買い上げとなる
1918年(大正7年) - 京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)卒業
1919年(大正8年) - 第一回帝展に「雪」が入選
1921年(大正10年) - 第三回帝展に出品した「鯉」が特選となり、宮内省(現・宮内庁)が買い上げる。
1922年(大正11年) - 谷口テイと結婚
1924年(大正13年) - 帝展の審査員になり、京都市立絵画専門学校助教授に就任
1928年(昭和3年) - 中国旅行
1930年(昭和5年) - 中村岳陵、山口蓬春らと六潮会に参加
1932年(昭和7年) - 「漣」を発表。
1936年(昭和11年) - 京都市立絵画専門学校教授となる。
1947年(昭和22年) - 帝国芸術院(同年末日本芸術院)会員。
1948年(昭和23年) - 毎日美術賞受賞。
1949年(昭和24年) - 日展運営会理事。
1958年(昭和33年) - 日展常務理事。
1961年(昭和36年) - 文化勲章受章、文化功労者。
1969年(昭和44年) - 日展顧問。
1974年(昭和49年) - 没、従三位追贈。墓所は京都市左京区の法然院で、隣には谷崎潤一郎夫妻が眠っている。

・山田和宏
2020年 LE SALON D'AUTOMNE PR?SENTE SECTION JAPONAISE(La Galerie de l'Europe/フランス・パリ)
2020年 サロン・ドートンヌ2020(フランス・パリ)
2020年 第21回 日本・フランス現代美術世界展 招待出展(国立新美術館/東京)
2020年 14th International ARC salon exhibition at The Sotheby's(サザビーズNY/アメリカ・ニューヨーク)
2019年 14th International ARC salon exhibition at MEAM(MEAMヨーロッパ近代美術館/スペイン・バルセロナ)
2019年 サロン・ドートンヌ2019(シャンゼリゼ通り特設パビリオン/フランス・パリ)
2019年 第20回記念 日本・フランス現代美術世界展 招待出展(国立新美術館/東京)
2018年 サロン・ドートンヌ2018(シャンゼリゼ通り特設パビリオン/フランス・パリ)
2018年 第19回 日本・フランス現代美術世界展 招待出展(国立新美術館/東京)
2018年 日本・スペイン外交関係樹立150周年記念外務省公式認定事業スペイン美術賞展 招待出展(Antigua instituto culture center/スペイン・アストゥリアス州)
2017年 サロン・ドートンヌ2017(シャンゼリゼ通り特設パビリオン/フランス・パリ)
2017年 第18回 日本・フランス現代美術世界展 招待出展(国立新美術館/東京)
2017年 イタリア美術賞展 招待出展(The Farm Cultural Park/イタリア・シチリア島・アグリジェント)
2016年 サロン・ドートンヌ2016(シャンゼリゼ通り特設パビリオン/フランス・パリ)
2016年 第17回 日本・フランス現代美術世界展 招待出展(国立新美術館/東京)
2016年 コルシカ美術賞展 招待出展(Theatre Municipal/フランス・コルシカ島・バスティア)
2015年 第16回 日本・フランス現代美術世界展(国立新美術館/東京)

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