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長崎県について

"東に佐賀県と隣接する他は、周囲を海に囲まれている。対馬、壱岐、五島列島などの島嶼が971あり、その数は日本一である。また、海岸線の長さは4,137キロメートル (km) であり、北海道(北方領土を含む)に次ぐ2位(実質日本1位)。面積が北海道の約20分の1である長崎県の海岸線がこれほど長大であるのは、島嶼が非常に多いことに加え、リアス式海岸で海岸線が複雑に入り組んでいるためである。この地形的特徴により、長崎県全域に83箇所の港湾が点在しており、その数は国内の7.4%に及ぶ。なお、長崎県内には海岸線からの距離が15 km以上の地点はない。
水産業と観光業が盛んであり、毎年国内からだけでなく海外からも多くの観光客が訪れます。

「長崎」という地名の由来は、次のように長崎氏よりといわれている。長崎氏は桓武平氏千葉流(九州千葉氏)の流れを汲む氏族であり、長崎県の名の由来になったことで知られる。現在の長崎県庁舎付近の長い御崎に館を構え、長崎港界隈の深堀から時津までの広い範囲を領していた九州千葉氏の一族が、九州長崎氏を名乗ったことを起源とする説と、代々伊豆国田方郡長崎村を領し、その地名を苗字として、鎌倉の執権である北條氏の筆頭御内人である桓武平氏長崎氏の一人が九州に流れ(九州長崎氏)、長崎湾の奥を領して地侍になったと長崎甚左衛門純景がその系図で主張している説がある。少なくとも長崎小太郎重綱なる人物が、鎌倉初期の嘉禎3年(1237年)ごろには、長埼浦の地頭職を知行する御家人であったことが判明しており、南北朝期以降、長崎氏は桜馬場城(鶴城)に拠り、次第に勢力を拡大していった。 また、その他にも俗説として「訛り」に基づく言い伝えがある。地元では野母崎半島を「長い岬」と称していたが、長崎弁では「長か岬(ながか・みさき)」となり、さらにこれが「なんか・みさき」と転訛し、この語が約まって「長崎」になった、というものである。

中心地である長崎市には、新地中華街やグラバー園などの江戸時代に海外の国々と交流した証である歴史ある観光名所が数多く残っています。
山が多い県である為、高所に展望台が数多く存在し長崎の街をいたるところから見渡すことができます。
長崎県の夜景は世界に誇れるほど美しいものであり、稲佐山から見える夜景は世界三大夜景にも数えられています。
長崎県は、中心部から外れた所にも数々の観光名所があり、雲仙普賢岳付近には、温泉街や紅葉の名所など自然豊かで心を癒やすことができるスポットが数多くあります。
佐世保にあるハウステンボスは長崎県が誇る大型のアミューズメントパークであり、人気コミックとコラボレーションした子供も大人も楽しむことが出来るアミューズメントや季節ごとのイベントが多く存在しています。"

画家について

・岡本泰彰
2001年、イギリス・ロンドンに渡り独学で絵画制作を開始する。その後スペイン・バルセロナやカナダ・モントリオールに移住、制作。

2009年、アメリカ・ニューヨークに移り、2010年から2014年の間、Po Kim(英語版)(芸術家、 The Sylvia Wald and Po Kim Art Gallery 創設者)のアシスタントを務め、The Art Students League of New York と The National Academy Museum & School にて油絵、水彩画、ミックスドメディア、ドローイング、版画を学ぶ。

2015年には前年、同年に獲得した Xavier Gonzalez and Ethel Edwards Grant と Edward G. McDowell Grant を利用し、スペイン・グラナダにスタジオを構え、国内外を旅行しながら作品制作をした。

・樺島勝一
長崎県諫早市に生まれる。少年時代に鹿児島市に移る。高等商業学校に進学するも生来の吃音のため商人には向かないと考え中退、上京し画業にはいるが貧しいため美術学校に通う事もかなわず洋書の「ジオグラフィック・マガジン」のペン画を見て独自の細密描写の技法を確立した。

その後、朝日新聞東京本社の専属画工となり、1923年11月から「東風人」の筆名で織田小星と『正チャンの冒険』を朝日新聞に連載。主人公「正チャン」のかぶっている後ろ頭に玉のついた手製の帽子が「正チャン帽」と呼ばれて大流行した。

大正末期から昭和前期にかけて次々と「少年倶楽部」(講談社)などの少年雑誌が創刊され、なかでも人気を博していた山中峯太郎・南洋一郎・海野十三等の「軍事・冒険小説」に軍艦・戦車・飛行機・動物などの重厚で細密なペン画を提供し「船のカバシマ」などの異名を得た。

戦後はメカニックなイラストの世界は帆船や軍艦・プロペラ機がリアリティーを持つ時代からロケットや人工衛星・ジェット機・未来都市(「レトロフューチャー」参照)の時代に移り変わり、小松崎茂など新世代の挿絵画家に次第に席を譲っていくが晩年まで絵筆をにぎり続けた。

孫の椛島良介は集英社に入社し週刊少年ジャンプの編集者を務めた、『ジョジョの奇妙な冒険』の初代担当編集者。

・菊畑茂久馬
徳島県出身の父と、長崎県五島出身の母との間に長崎市に生まれる(本籍地は徳島県)。幼少期に福岡市に移る。福岡県立福岡中央高等学校卒業。絵画は独学。

1957年、前衛美術グループ「九州派」に参加して画家として頭角を現す。1958年より「九州アンデパンダン展」を主宰する一方で、1957年より東京の読売アンデパンダン展にも出展。

1961年には「現代美術の実験」展(国立近代美術館)の15人の出展作家の一人として選出され、1962年には南画廊(東京)で個展を開催。以後、前衛美術のホープとして注目された。

1962年、九州派を脱退。1960年代後半より発表から遠ざかる。

1964年、上野英信の紹介で筑豊の炭鉱画家・山本作兵衛の作品を知り衝撃を受け、当時ほとんど評価されていなかった作兵衛の作品を「美術」として評価する論文を書く。作兵衛の『筑豊炭坑絵巻』(1975年)の編纂に関わったり、1970年には作兵衛を東京に招いて自身が教鞭をとる美学校の生徒に作品を模写させたりするなど(その時の生徒の一人が南伸坊である)、作兵衛の絵の作品としての評価、ひいては世界記憶遺産への認定に大きな役割を果たす。

1970年に米国から日本に返還された戦争記録画についても論述。また福岡を中心に、数多くの公共空間に陶板壁画を制作。

1983年、絵画作品《天動説》シリーズを東京画廊で発表し、19年ぶりに画壇に復帰。

以降、《月光》、《舟歌》など大型の組作品を立て続けに発表。戦後美術思想の中心として「オブジェ」を捕らえ、その克服をめざした絵画を制作。

2020年5月21日、死去。85歳没。

・喜多迅鷹
長崎市生まれ。埼玉県立浦和中学校、第一高等学校を経て、1948年東京大学法学部卒。埼玉県立浦和高等学校、東京都立大学附属高等学校教諭のほか、東京都立大学 、横浜市立大学講師を務めたが、1971年、学園紛争を機に画業に転向。92年「東京を描く市民の会」創立に参加。94年「彩の国を描く会」を創立、主宰。2001年読売・日本テレビ文化センターで「ペン水彩」講座開講。2002年読売・日本テレビ文化センターで「模写による西洋美術史」講座開講。

・木村一生
1932年、長崎県長崎市生まれ。1951年、長崎県立長崎東高等学校卒業。東京芸術大学絵画科在学中の1955年に浜屋百貨店で初めての個展を開催。1957年、同大学を卒業後、1958年には読売アンデパンダン展に出品。1959年、モダンアート協会展に初出品し、翌1960年に同会会員となる。1989年の「木村一生の世界」展(池田20世紀美術館企画)をはじめ多数の個展を開催。また、1960年から1985年にかけて「新表現展」に出品するなどグループ展にも数多く参加。
1968年より多摩美術大学で後進の指導にも取り組み、1972年に助教授、1983年に教授就任。2003年に同大学を退官し名誉教授となる。

2015年9月15日死去。

・栗原玉葉
1883年(明治16年)4月10日、長崎県南高来郡山田村馬場(現在の雲仙市吾妻町)に上に5人兄のいる末娘として生まれる。1895年(明治28年)、郷里を離れ、長崎師範学校付属高等小学校に転校、ついで1901年(明治34年)に梅香崎女学校(現在の梅光女学院)に入学、プロテスタント系のミッションスクールであった同校在学中に洗礼を受ける。

1906年(明治39年)同校を卒業した後に上京、キリスト教の精神に基づく経営方針を掲げていた小林富次郎商店(ライオン株式会社の前身)が運営する小林夜学校の教員として勤務する一方で、画学生として女子美術学校(現在の女子美術大学)に学び、海老名弾正の本郷教会に属して伝道にも携わる。美術学校卒業後は郷里から呼び寄せた母親と同居、母校である同校の教壇にも立ち、日本画家・寺崎広業にも入門、さらに研鑽を深める。また、ある日、浜町の鏑木清方の所に玉葉が入門を願いに行ったが、清方から断られている。

1909年(明治42年)の第7回美術研精会展に「初夏」、1910年(明治43年)の第8回同展に「山水」を出品した後、1911年(明治44年)の第11回巽画会展で「幼き日」が三等銅賞、同年の第9回美術研精会展では「夏の夕」が四等賞状、1912年(明治45年)4月の第12回巽画会展でも「鈴蟲」が三等賞銅牌を受賞し画壇デビュー。1913年(大正2年)には日本精版印刷合資会社主催の懸賞広告図案画で島成園らとともに四等賞を得た。「夏の夕」は明治44年4月15日付の読売新聞で「鮮やかなものだ。美人画中最も傑出している」と賞賛された。

同年秋の第7回文部省美術展覧会(文展)に「さすらい」が入選となり官展デビューを果たし、翌1914年(大正3年)の東京大正博覧会美術館展では「お約束」が、同年の第8回文展に出品した「幼などち」「噂の主」(現在所在不明)はともに入選となり、「幼などち」は褒状も受賞した。彼女の作品には若い女性のほか、幼児の姿や行動などを画題としたものが多いが、これはすでにふれた本郷教会で、日曜学校の教師として幼児を指導していた経験に由来するものとされる。

1915年(大正4年)には彼女の創作活動を献身的に支援した母を亡くし、私生活上の危機に瀕するも、人形浄瑠璃「傾城阿波の鳴門」の登場人物である巡礼・お鶴を亡母への追慕の念を込めて描き、この年の第9回文展で入選となった。しかし翌1916年(大正5年)の第10回文展では落選となり、11月には朝鮮へ渡って同地の風俗を研究して帰国、1917年(大正6年)の第11回文展ではその成果ともいうべき双幅「身のさち 心のさち」が入選。翌1918年(大正7年)の第12回文展では双幅「春雨秋雨」と「朝妻桜」を出品、「朝妻桜」が入選となった。1920年(大正9年)3月には、故郷・長崎の県立図書館で「栗原玉葉女史近作画展覧会」が開催され、同年、東京で女性画家の創作グループ・月耀会の設立に参加。1921年(大正10年)第3回帝国美術院展覧会(帝展)で「清姫物語(想い、女、執着、眞如)」が入選、翌1922年(大正11年)5月には平和祈念東京博覧会展覧会に「葛の葉」を、第3回月耀社展に3部作「お夏」「乙女二代」「花合わせ」を出品するも、同年9月9日に40歳で病没。

・黒崎義介
1905年(明治38年) - 長崎県平戸市に醤油醸造業=黒崎源三郎・フミ夫妻の六男として誕生。
1924年(大正13年) - 平戸中学を中退し、上京後に川端画学校に入る。
1926年(昭和元年)[元号要検証] - 川端画学校を卒業。
1927年(昭和2年) - 中央美術展で入選。
1929年(昭和4年) - 童画を描き始める。
1931年(昭和6年) - 川端画学校で知り合った斎藤登喜子と結婚。芝公園内の登喜子の実家に住むが半年後小石川久堅町光円寺旧本堂に転居。
1932年(昭和7年) - 豊島区の池袋モンパルナスに借家、以後数回同地内で転居を繰り返す。
1933年(昭和8年) - 学校美術協会に1年ほど勤める。
1934年(昭和9年) - 新ニッポン童画会に参加し、「コドモノクニ」、「キンダーブック」などに挿絵を描く。
1939年(昭和14年) - 豊島区長崎2丁目に自宅を新築移転。
1941年(昭和16年) - 安田靫彦(大磯町在住)門下生となる。
1943年(昭和18年) - 大磯町に疎開(1945年まで)。
1946年(昭和21年) - 第31回復興院展に初入選。
1947年(昭和22年) - 童画研究会を主宰。
1952年(昭和27年) - 藤沢市鵠沼海岸に転居。
1959年(昭和34年) - 鵠沼公民館開設に協力、地域の児童のための絵画教室や成人のための墨絵教室を開いた。
1960年(昭和35年) - 藤沢市文化財保護委員を委嘱される。
1962年(昭和37年) - 日本児童ペンクラブ相談役。日本著作権協議会よりパリユネスコ会議に派遣され、これを機に欧米13カ国を5ヶ月かけて旅行する。
同年 - 日本童画会解散、日本童画家協会再結成。藤沢市民美術会創立に加わる。
1964年(昭和39年) - 藤沢市社会教育委員を委嘱される。現代美術家協会「現展」出品、後に名誉会員となる。
1965年(昭和40年) - 藤沢北ロータリークラブ創立。初代理事となる。
1969年(昭和44年) - ニューヨーク市で「日本むかし噺童画展」を開催。
1975年(昭和50年) - 鈴木鎮一と親交を持ち、幼児教育研究所設立。
1977年(昭和52年) - 時宗総本山清浄光寺(遊行寺)宝物館運営協議会委員長となる。
1978年(昭和53年) - 文部省児童文化功労賞受章。
1980年(昭和55年) - 伊豆山神社拝殿に天井画390枚を奉納。
1984年(昭和59年)8月12日 - 脳梗塞のため鵠沼海岸にて死去 享年79(戒名:童画院慈厚義介居士)。墓所:藤沢市大庭台墓園
没後、旧居は夫人によって社会福祉団体に寄贈され、障害者自立支援施設「よし介工芸館」となったが、後に藤沢市遠藤に移転した。
大分県豊後高田市にある「昭和の町」のシンボルマークには黒崎義介の童画が使われており、2005年には「昭和の町」内に黒崎義介の童画を展示する「昭和の絵本美術館」が開館している。

・古賀学
1993年、フリーペーパー「PEPPER SHOP」の編集、発行を目的として古賀学個人でペッパーショップを発足。1号につき1人のクリエイターを軸にインタビューを掲載。東京藝術大学や多摩美術大学、武蔵野美術大学ほか美術系大学や、Shop33(吉祥寺)、レントゲン藝術研究所(大森)などのギャラリーや店舗で無料配布された。村上隆、中ザワヒデキ、松本弦人、佐藤可士和、立花ハジメ、岡崎京子といった、当時のサブカルチャー著名人のインタビューをテーマとした同誌は、一部で熱狂的に支持された。1994年からはフリーペーパーから進化した有料の雑誌バージョンの「PEPPER SHOP」も発刊されている。

当時(DTP黎明期)、いちはやくデザインにDTPの手法を導入し、DTPデザインの先鞭となる。同時期から、村上隆の作品、および宣伝のデザインワークを担当し、ファインアートへのアプローチも開始している。以降、ペッパーショップは数人のスタッフを擁しグラフィックデザイナーとして活動を続けるが、現在は古賀のソロプロジェクト名として名を残している。

以降、装丁や、アートディレクション、「ガンダム占い」や「PaPETCH(パペッチ)」のデザインといったオタク系クリエイティブをベースに活動し、オタクカルチャーとグラフィックデザインの橋渡しとしてオリジン的役割を果たし、後進の世代、またオタク系デザインの流れに大きな影響を与えた。また、村上隆率いるGEISAI内のコンテンツ、学園祭実行委員会のデザインワークを担当するなど、ジャンルを超えたデザイナー活動を行う。

2002年より「水の中の女の子」をテーマにした映像作品を製作開始。2007年、NORISHIROCKSプロデュースによる「&a water」プロジェクトを発足。数々のショートムービーを発表、また、ミュージシャンとのコラボレーション作品や、クラブイベント、パーティーなどでVJ活動もスタート。新木場ageHaから、秋葉原MOGRAまで、音楽ジャンルにカテゴライズされないVJ活動を続けている。ほかにも現代美術家、グラフィックデザイン、アニメ、コミック、などさまざまなジャンルとの交流をベースに、その表現のフィールドは多岐にわたる。

・彭城貞徳
安政5年(1858年)に長崎に唐通事の家に生まれた。本名は森元貞徳。10代目唐通事になるべく教育をうけたが、明治維新によりその役目は終焉となる。明治5年(1872年)に上京、高橋由一に師事して洋画を学んだ。明治9年(1876年)に工部美術学校に入学。アントニオ・フォンタネージに師事した後、一時、玄々堂において石版製作に従った。明治26年(1893年)から明治33年(1900年)、アメリカ合衆国とヨーロッパに遊学、イギリスでは図案家として働いた。帰国後、鎮西学院などにおいて教え、画塾を開いた。晩年は家業の海産問屋に戻った。代表作に「和洋合奏之図」が挙げられる。昭和14年(1939年)、82歳で没す。

・辻利平
明治33年(1900年)、長崎県北松浦郡星鹿村(現・松浦市星鹿町)生まれ。大正11年(1922年)長崎師範学校卒業後に教師となる。その後、大正14年(1925年)に東京美術学校図画師範科に入学、昭和3年(1928年)卒業。大阪で大谷学園に勤務しながら斎藤与里に師事した。

昭和8年(1933年)に第1回東光会展でT氏奨励賞を受賞、第14回帝展で入選。昭和15年(1940年)に東光会会員となる。昭和41年(1966年)に第9回日展で菊華賞受賞、昭和45年(1970年)より日展会員。昭和41年(1966年)から夙川学院短期大学造形美術科主任教授、昭和48年(1973年)名誉教授。

紺綬褒章、松浦市名誉市民(1975年)、長崎新聞文化賞(1981年)などの栄誉を受けた。

昭和63年(1988年)4月15日、肺炎のため死去。87歳没。

・長岡秀星
1936年、長崎市に生まれる。1945年、長崎市山里国民学校在学中に長崎県壱岐郡郷ノ浦町へ転校。中学・高校と原爆投下前に疎開した壱岐島で暮らす。

1955年、壱岐高校3年生の時、小学館発行『中学生の友』の挿絵に送稿し採用される。武蔵野美術学校に入学するが、入学1ヶ月後に雑誌、出版物の仕事を始める。1958年、武蔵野美術学校を退学し、コマーシャルアーティストとして独立する。1963年に結婚。1967年、 大阪万国博覧準備グループに参加する。

1969年、妻の兄嫁の母から名をもらい長岡秀星をペンネームとする。

1970年、アメリカに移住、ハリウッドにアートスタジオ「デザイン・マル」を設立する。雑誌『ウエストマガジン』の表紙を担当した後、アルバムカバーや映画広告の仕事を手がける。カーペンターズなどのレコードジャケットも担当し、1976年、『ローリングストーン』誌最優秀アルバムカバー賞を受賞する。1981年、NHK出版社より画集『長岡秀星の世界 パート1』を出版する。また、株式会社ナムコからの依頼で『ボスコニアン』のポスター等も手がける。同年11月16日、NHK特集のドキュメンタリー番組『喜多郎&秀星 砂漠幻視行』が放映される。

1985年、画集『長岡秀星の世界 パート2』を出版。つくば科学博覧会の公式ポスターと政府出展館の展示物の制作を行う。故郷の長崎県関連の観光ポスターや壱岐焼酎「壱岐っ娘」(壱岐の蔵酒造)のラベルのイラストも手がけた。また、日本人初の「宇宙特派員計画」のための作品を制作し、1991年にTBSの宇宙特派員秋山豊寛がソビエト連邦の宇宙ステーションミールに作品を持参した。

2004年までアメリカを拠点に活動し、アメリカでの顧客として、ゼネラルモーターズ、フォード、クライスラー、フォルクスワーゲン、ロッキード、リーダーズダイジェスト、NASAなど、大手有名企業の名前が挙がる。

2015年6月23日、心筋梗塞のため神奈川県小田原市の病院で死去、78歳没

・野口弥太郎
東京生まれ。1920年、関西学院中学部卒後、川端画塾に学び、1922年、二科展で初入選。1926年、「一九三〇年協会」会員となる。1929年、フランスに渡り、サロン・ドートンヌに出品。1933年、帰国、独立美術協会会員となる。戦後、1949年から日本大学芸術学部教授。以後独立展に出品を続け、1962年、国際形象展同人。1964年、「セビラの行列」で毎日芸術賞受賞、1970年、日大を辞める。1972年、紺綬褒章受章。1973年、芸術選奨文部大臣賞受賞。1975年、勲三等瑞宝章受章、日本芸術院会員。

・林田重正
1918年 (大正7年)10月1日、長崎県北高来郡諫早村上ノ馬場(現諫早市上野町)に生まれる。父嘉八・母津枝。家業は地主。

1937年(昭和12年)3月(18歳)、県立諫早中学(現・県立諫早高等学校)を1年遅れで卒業。 小学生時代に結核を発症し中学は休みがちになるが、この間に歴史学・理科学・哲学等多数の本を独学で学び、また中学1年から油絵を図画教師石橋猛より手ほどを受けたり、レコードによりクラシック音楽に親しんだりした。

1938年(昭和13年)10月(20歳)、徴兵検査丁種に付き兵役免除。

1939年(昭和14年)3月、1937年頃より実践していた西式健康法で幾分か健康が恢復し画心抑え難い事を知った母ツエは、他の悩みを抱えていたこともあり、親類の野口彌太郎に“重正の画才の有無について”密かに相談の結果、一家を上げて東京市世田谷区世田谷に転居することを決断。

1939年(昭和14年)7月、新宿月光荘における独立美術協会夏講習会に参加し、海老原喜之助と親しくなる。

1939年(昭和14年)9月、杉並区高円寺にあった美術工藝學院純粋美術科に入学。同校において、実技を鳥海青児・福澤一郎・川口軌外・村井正誠・日高昌克に、西洋美術史を外山卯三郎に、日本美術史を田中一松に学ぶ。特に日高昌克を生涯の師として仰いだ。

1942年(昭和17年) 3月(23歳)、美術工藝学院閉鎖により卒業。

1942年(昭和17年)、結核治療のため続けていた西式医学研究所の西勝造の紹介により、憲兵と特高警察監視下の石原莞爾の知遇を得、反戦運動に協力する。

1942年(昭和17年)10月(24歳)、銀座紀伊国屋画廊で第1回個展開催。

1943年(昭和18年)(25歳)、敗戦まで、金石舎水晶研究所にて水晶遅延線の改良研究に従事。

1946年(昭和21年)(28歳)、読売新聞社主催新興日本美術第1回展に出品 佳作賞受賞。

1947年(昭和22年)(28歳)、戦時中一度途絶えていた、自由美術家協会復活を目指す難波田龍起等の呼びかけに応じ同会員になると同時に、森芳雄自宅を事務所にして、運営実務の協力開始する。

1948年(昭和23年)10月(30歳)、第12回自由美術展に出品。

1949年(昭和24年)10月(31歳)、第13回自由美術展に出品。

1949年(昭和24年)、日本美術家連盟洋画部会員になる。

1950年(昭和25年)10月(32歳)、第14回自由美術展に出品。

1951年(昭和26年)12月(33歳)、野口彌太郎との3人展等のため滞在中の長崎から、メニューヒン演奏会を聞く目的で訪れた佐世保で、偶然遠縁の富田治子に出会い直ぐ結婚。治子は婚約時すでに重い結核に冒されており、介護のため佐世保に3年間近く滞在することになる。

若い精神の高揚と、より良い治療法を東京で妻に受けさせる費用を捻出したかった為か、この年の作品展5回・新聞取材3回[* 22]・翌年も作品発表2回は、後年の「年1回程度の個展発表」やマスコミへの露出を避けた静かな発表態度とは全く異なるものに見える。

1952年(昭和27年)(33歳?34歳)、妻治子の病状がますます悪化する。

1953年(昭和28年)10月(35歳)、友人からの度重なる督促にも拘らず、10月9日開催予定の第17回自由美術展にも不出品が確定したため、3年連続不出品者扱い規定により、最初の除名者となる。この為、1968年に文芸春秋画廊で個展を開くまでの間、定期的な作品発表の場を持てない苦境に陥る。この時期以降の作品発表詳細は、“個展等作品発表歴”の項に記載。

1954年(昭和29年)3月(35歳)、ますます重篤に陥る妻治子を、前年に困難を押して東京に連れ帰る。ただし、感染を恐れ母津江以外の人には接触させず、重正自身が西式で治療しようと懸命の介護をするも、死去(24歳)。

1954年(昭和29年)6月(35歳)?(43歳)、傷心の重正を慰めるためと、生活安定を心配した親類の紹介により、三菱造船(株)社内誌「菱苑」の挿絵カット表紙等を描くことを約10年間続けることになる。ほぼ同時期に、日立製作所日立工場日立美術部の指導にあたる。

1958年(昭和33年)(40歳)、日立製作所意匠研究所非常勤嘱託として主として家電デザインを約3年間行う。この年、イエナ画廊で前川直・石森美津子・川村久子と4人展を行う。

1959年(昭和34年)4月(41歳)、個展等を通じてかなり以前より友人であった画家・川村久子と再婚。この年、長崎市で前川直・林田久子と3人展を行う。

1962年(昭和37年)(44歳)、日立家電販売(株)“日の出会”美術部の指導にたずさわり、会員とは長い付き合いになる。

1966年(昭和41年)(48歳)、外山卯三郎より後任依頼を受け、約4年間にわたり東上野坂東報恩寺において妻久子と共に、児童達に最初から油絵を教えることを多いに楽しむ。2人とも大変な子供好きであった。

1967年(昭和42年)(49歳)、美術評論家“菅貢“の推薦により、文芸春秋画廊を使用出来る事になり、1953年に自由美術家連盟除名以来ようやく安定した定期発表の場を得たことになる。

文春画廊に於ける作品発表を列記すると計15回に及ぶ。

1972年(昭和47年)1月(53歳)、永い確執のあった父嘉八死去(87歳)。

1972年(昭和47年)4月、妻久子が重いスランプに陥るようになり、以後病状は山谷をくりかえす。良い時は、2人展も行う。

1982年(昭和53年)(59歳)、久子の病状多少持ち直し、転居先を一緒にさがせるようになり、85年には2人展を行える程度には回復。

1984年3月(昭和59年)(65歳)、杉並区西荻北における約1年の仮寓を経て、千葉市稲毛区宮野木町に完成したアトリエ付き住宅に転居。重正は、その形から蓑笠舎(さりゅうしゃ)と名付けた。

1987年(昭和62年)10月(69歳)、愛蔵林田重正展(高山市内の愛好家が自己所有の絵を持ち寄って展示したもの)。

1989年(平成元年)7月(71歳頃)、再生不良性貧血により、日本医科大学病院に1年以上入退院後退院するも、徐々に体力が衰えていく。 同時に画筆の衰えも目立つようになるが、入院中にあっても常に看護士さんや自分の手足を対象にしてまでデッサンすることを止めなかった。

1994年(平成6年)4月(75歳)、病弱な重正を最後まで慈しんだ母津枝死去(96歳)。

1997年(平成9年)1月4日、再生不良性貧血の症状悪化により約1年の入院期間を経て、世田谷区瀬田の日産玉川病院において、中学以来の友人の長男 中嶋昭院長・妻 久子・姪 貝田嘉子に看取られて死去。78歳。 諫早市の廣福寺墓地に前妻・治子と共に眠る。 戒名・画楽重翁居士。

2001年(平成13年)12月 伊藤厚美が主宰するアスクエア神田ギャラリーに於いて、「林田重正展」(2001.12.01-12.15)が開催される。

2015年(平成27年)12月 諫早市美術・歴史館[* 33]に於いて特別企画展示「林田重正展」(2015.12.02-2016.01.11)が開催される。 未亡人・林田久子より同館に寄贈された林田重正の油彩・水彩等に、親類の中村晋・松原究より同時寄贈された作品等を加えた、計50点余りの油彩・水彩・素描等を関連資料と共に展示したものである。

・ヤマサキユズル
長崎大学教育学部卒。
1989年に初個展。
1991年より毎年個展を開催している。この年、上野の森美術館「日本の自然を描く展」で入選。
2000年頃から月の絵画に力を入れる。
2001年にはベルギーで海外初個展。
2002年「ナガサキ雑アート21」主催。月の美術館を開館。
以後も各地で個展を開くなどして活躍中。
シンガーソングライターでもあり、8月9日前後に長崎市で開催されている長崎原爆平和祈念「詩の夕べ」に毎年参加し、反戦平和の意思を自作の曲で表現している。

・山田正孝
1908年(明治41年)、長崎県長崎市に生まれる。

1933年(昭和8年)に大阪美術学校を卒業、同年第1回東光展に作品が入選。

1937年(昭和12年)より郷里長崎県に戻り、長崎市立商業学校の教諭を務める。

戦後の1950年(昭和25年)から1952年(昭和27年)にかけて3年連続で日展に出品した3部作「長崎の家」「長崎の丘」「長崎の庭」が全作入選した。

1966年(昭和41年)に東光会委員に推挙を受け、1969年(昭和44年)には東光会審査員を務める。

1975年(昭和50年)には長崎県美術協会の副会長に推挙された。

1995年(平成7年)死去。

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