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栃木県について

栃木県の気候は、おおむね太平洋側気候の特徴を表してます。
栃木県の夏は太平洋高気圧や南風の影響で高温多湿となります。
山地部では積乱雲が発生しやすく、雷が多い地域となっています。
冬は、二荒おろし、男体おろし、那須おろしと呼ばれる冷たく乾燥した強風が吹き少雨低湿となります。
このため冬は晴れる日が多くなり、日照時間が長くなっています。冬の晴天日には放射冷却の影響を受けて日の出前後に氷点下になることもあり、気温の差が激しくなります。

県内の一部は日光国立公園に指定されており、杉の木に覆われたこの公園には、火山である男体山がそびえ、その隣には男体山の噴火で形成された湖、中禅寺湖が水をたたえています。
この湖の東端にあるのが、絵のように美しい高さ 97 m の華厳の滝です。
栃木県西部に位置する日光市には日光東照宮があります。
金が精巧に散りばめられたこの神社には、江戸幕府初代将軍の徳川家康が祀られています。

画家について

刑部人

1906年 - 5月5日、栃木県下都賀郡家中村大字家中に生まれる。
1915年 - 9歳頃から、川端龍子、鶴田吾郎の主幹するスケッチクラブの通信講座を受ける。
1918年 - 父の東京転任にともない12歳で上京。この頃から、大森・新井宿に川端龍子を訪ねるようになる。
1922年 - 16歳頃から、日本画家の川端玉章が設立し、藤島武二などが主任を務めた本郷の川端画学校に通う。
1924年 - 東京美術学校西洋画科(現在の東京藝術大学美術学部油絵科)に入学する。
1928年 - 第9回帝展において「友人の肖像」が初入選となる。
1931年 - 美校の1年後輩だった画家・島津一郎[2](島津製作所3代目社長島津源吉の長男)の妹・鈴子と結婚し、東京都豊多摩郡落合町大字下落合(現在の新宿区中井)にアトリエを構える(国会議事堂、島津製作所東京支社などを手掛けた建築家 吉武東里設計)。
1940年 - 芝浦の東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部)助教授となる。
1943年 - 新文展無鑑査となる。
1946年 - 第1回日展(日本美術展覧会)に「冬の軽井沢」を出品し、特選となる。金山平三と山形県大石田への写生旅行に同行。
1948年 - 第4回日展に「渓流」を出品し、特選となる。
1951年 - 日本橋三越にて第1回個展を開催。以後、計27回開催。
1958年 - 新世紀美術協会に参加、第3回新世紀美術展に「渓流(奥入瀬)」を出品。
1967年 - 日展審査員に選ばれる。
1976年 - 70歳を記念し、日動画廊で「刑部人記念展」(銀座・名古屋)を開催。『刑部人画集』日動出版部)を刊行。
1978年 - 腎不全のため死去。享年71。勲4等瑞宝章を受ける。
1979年 - 栃木県立美術館にて回顧展「刑部人展」が開催される。全216点出品。
1987年 - 日動画廊にて回顧展「刑部人」(銀座・福岡)が開催される。
2004年 - 栃木県立美術館にて「刑部人展 昭和日本紀行」展が開催される。
2007年 - 那須野が原博物館にて「刑部人 自然との対話・限りなき風景の体現」展が開催される( - 2008年2月)。
2008年 - とちぎ蔵の街美術館にて「開館5周年記念展 アートリンクとちぎ2008 風景の旅人 刑部人展」が開催される。
2010年 - 日動画廊本店(東京・銀座)にて「刑部人展 -片雲の旅人-」開催。 日動画廊名古屋店にて「受け継がれし美-金山平三 刑部人 五月女政平」展が開催される(あいちトリエンナーレ パートナーシップ事業)。
2011年 - 日動画廊にて「金山平三・佐竹徳・刑部人 ~自然を謳う巨匠たち~」が開催される。
2014年 - 目白美術館オープン記念企画「刑部人展」が開催される(7月28日 - 8月15日)。
2015年 - 日動画廊にて「刑部人展」が開催される。
2018年 - 板橋区立美術館の20世紀検証シリーズNo.6「東京?沖縄池袋モンパルナスとニシムイ美術村」展にて刑部の絵が展示され、また義父母、島津源吉・とみの「落合文化村」形成への関わりについて紹介される(2月24日 - 4月15日)。
2019年 - とちぎ蔵の街美術館にて企画展「田中一村と刑部人 ―希望と苦悩のあいだ―」が開催される(1月16日 - 3月21日)。
2019年 - 目白美術館にて「刑部人展」が開催される。


小堀鞆音

下野国安蘇郡旗川村小中村(現・栃木県佐野市)で、農業を営む須藤惣兵衛の三男として生まれた。本名は桂三郎。父惣兵衛は、農業のかたわら晏齋と号し、近隣から幟の武者絵なども依頼された。長兄の勝三は長じて桂雲と号し、南画系の山水画を描いた。
15歳頃から父や兄から画事を学ぶ。初めは狩野派を学び、次いで歴史人物画から大和絵にすすむ。同時期、私塾で国学・漢学を学んだ。1883年に小堀菊次郎の養子となり家督を相続する。1884年、川崎千虎に土佐派の絵と有職故実を学ぶ。1889年、日本青年絵画協会に参加、1894年、日本絵画協会に参加する。1895年、東京美術学校助教授となるが、1896年、日本美術院創立に加わり正員となり、美校を退職。のち日本美術協会に出品、文展では第1回より審査員となる。1908年、東京美術学校に教授として復帰。1917年6月11日、帝室技芸員、1919年、帝国美術院会員。1929年、国宝保存会医院となる。1930年、勲三等瑞宝章を受章。1931年1月に東京美術学校を退き、明治天皇の業績を称える聖徳記念絵画館のための絵画制作を続けたが、同年10月に腫瘍のため死去。美術学校の教授職は自然主義派の平福百穂が継いだ。墓所は多磨霊園にある。
歴史画を得意とし、代表作に「武士」がある。この「武士」は弓を引く姿で描かれ、強弓で知られる源為朝の姿だと言われる。歴史画家折井宏光は本作の描写や表現、考証の深さが後の安田靫彦、前田青邨、松岡映丘らに決定的影響を与えたとしている。絵に格調高さを与えるため、鞆音は有職故実の研究にも情熱を注いだ。1901年、厳島神社所蔵の国宝「紺絲威鎧」「小桜韋黄返威鎧」の修理復元の際には関保之助と共に修理監督となり、更に「小桜韋黄返威鎧」の模作を3年がかりで制作している。また、勤皇家としても知られ、これに沿った多くの作品を残した一方、同じ小中村の出身で明治天皇への直訴を行った田中正造が1913年に亡くなった後には墓碑に刻む田中の全身画を描いた。
写真技術の発達により歴史画そのものの需要が低下し、さらに第二次世界大戦の敗北により日本の社会構造や価値観が大きく転換したことで、戦後も人気を博した多くの弟子達と比較すると小堀鞆音の作品が顧みられることは減っていたが、後述する孫の小堀桂一郎などの活動も受け、1980年代以降に再評価されて展示会などが開かれるようになった。1996年には小堀桂一郎が題字を書いた顕彰碑が佐野市小中町の生家跡に設置された。この顕彰碑から100mほど離れた場所に残る田中正造旧宅(生家)には、小堀の描いた田中像も模写した、田中の墓碑の複製が置かれている。
弟子に、安田靫彦、小山栄達、川崎小虎、磯田長秋、伊東紅雲、棚田暁山、尾竹国観など。長男の小堀稜威雄は洋画家。長女のツネは小笠原長生の弟で洋画家の小笠原丁の妻。比較文学者で小堀鞆音に関する顕彰活動も行っている小堀桂一郎は孫、その娘で宗教学者の小堀馨子は曾孫。孫の小堀令子は、遠縁の小山田二郎の晩年の妻で画家。


小杉放庵

栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)に二荒山神社の神官・富三郎の子として生まれる。父は国学者でもあり、1893年(明治26年)から1897年(明治30年)にかけては日光町長も務めていた。
1896年(明治29年)から日光在住の洋画家・五百城文哉の内弟子となるが、五百城に無断で出奔、上京して白馬会洋画研究所に入る。しかしこれに馴染めず、肺尖カタルをも患ったため帰郷。再び五百城の元に戻る。1900年(明治33年)に今度は許可を得て再度上京し、小山正太郎の不同舎に入門する。1902年(明治35年)に太平洋画会に入会し1904年(明治37年)に未醒の号で出品する。
なお、1903年(明治36年)からは国木田独歩の主催する近時画報社に籍をおいて挿絵を描き、漫画の筆もとっている。1904年から始まった日露戦争には、『近事画報』誌の従軍記者として戦地に派遣され、迫真の戦闘画や、ユーモラスな漫画的な絵などで、雑誌の人気に大きく貢献した。1904年11月に反戦詩集『陣中詩篇』を刊行した。また、同1905年には美術雑誌『平旦』を石井柏亭、鹿子木孟郎らと創刊した。
1908年(明治41年)に美術誌『方寸』の同人に加わり、この年から文展に出品し、第4回展で3等賞、第5回展で『水郷』、第6回展で『豆の秋』と題した作品が続けて2等賞となる。1913年(大正2年)にフランスに留学するが、当地で池大雅の「十便図」を見たことがきっかけで、日本画にも傾倒。翌年の帰国後は墨絵も描き始めるようになる。同年、再興された日本美術院に参加し、同人として洋画部を主宰する。また、二科会にも同時に籍を置いていた。
その後、絵に対する考え方の違いから1917年(大正6年)に二科会を、1920年(大正9年)には日本美術院を脱退し、1922年(大正11年)に森田恒友、山本鼎、倉田白羊、足立源一郎らとともに春陽会を創立する。1924年(大正13年)に号を放庵と改めたが、これは親友である倉田白羊が一時期使っていた「放居」という雅号から「放」の字を貰って付けたものである。なお、雅号は後に放菴と更に改めているが、その時期や理由については不明。
1925年(大正14年)、東京大学安田講堂の壁画を手がける。1927年(昭和2年)には、都市対抗野球大会の優勝旗である「黒獅子旗」のデザインを手がけた。
1929年(昭和4年)に中国へ旅行。1935年(昭和10年)に帝国美術院会員。第二次世界大戦中に疎開のため新潟県赤倉に住居を移し、東京の家が空襲で失われたため戦後もそのまま暮らす。ここで、新文人画ともいうべき独自の水墨画を残した。
1958年(昭和33年)、日本芸術院会員を辞任。1964年(昭和39年)、肺炎のため死去。墓所は日光市所野字丸美。


清水登之


栃木県下都賀郡国府村大字大塚(現・栃木市大塚町)で、清水藤十郎・ムラ夫妻の長男として生まれる。弟は東亜同文書院教授・外交官清水董三。(旧制)栃木県立栃木中学校から陸軍士官学校への進学を志し成城学校に転校。1906年に同校を卒業するも陸軍士官学校への受験に失敗し、翌年には単身アメリカ合衆国へ渡航する。暫くはシアトルで肉体労働に従事するが、1912年にオランダ人画家フォッコ・タダマが同地で開いていた画塾に入門した(同時期、洋画家の田中保や石垣栄太郎もここで学んでいる)。
1917年にニューヨークへ移り、デザインの仕事をしながらアート・スチューデンツ・リーグでジョン・スローンらの教えを受ける。一時結婚のため帰国した後、再渡米翌年の1921年に第34回アメリカ絵画彫刻展に「横浜夜景」が招待出品される。一旦は受賞が決まったものの、アメリカ人でなかったことを理由に受賞を取り消されてしまう。その後1924年に一家挙げてフランス・パリに移住し、三宅克己や藤田嗣治・海老原喜之助・清水多嘉示らパリ在住の画家たちと交わりながらサロン・ドートンヌで入選する栄誉に与った。
1927年に帰国してからは東京を拠点に活動し、1930年の第17回二科展で「地に憩ふ」により二科賞を受賞。その後は独立美術協会の結成に加わるが、1932年従軍画家となり戦争を題材として多くの戦争画を描く。最晩年は栃木の生家に疎開するも、6月に長男・育夫の戦死を知り終戦直後の12月に死去。


高橋由一

佐野藩(佐倉堀田藩の支藩)士高橋源十郎の嫡子として、江戸大手門前の藩邸で生まれる。家は代々新陰流免許皆伝で、藩内で剣術師範を勤めた。この頃婿養子だった父は母と離縁し、由一は祖父母と母に育てられる。天保7年(1836年)藩主堀田正衡の近習を務め、のち近習長となり図画取扱を兼務したという。
わずか数え2歳で絵筆を取って人面を描き、母たちを驚かせたという。12,3歳頃から堀田家に出入りしていた狩野洞庭、ついで狩野探玉斎という絵師に狩野派を学ぶ。しかし、当時は祖父について家業の剣術指南役を継ぐための剣術修行と藩務に忙しく、絵画修業は休みがちになってしまったため、探玉斎の門を退き以後独学で画を学ぶ。弘化4年(1847年)20歳の時に描いた廣尾稲荷神社拝殿天井画「墨龍図」は、狩野派の筆法で力強い龍を描いており、すでに日本画家として充分な力量を備えていた事が窺える。この頃になると、由一が絵の道に進むことを許さなかった祖父も、由一が生来病弱で剣術稽古も休みがちになっていったことを見て、ある時突然剣術の後継者は門人から選ぶので、武術を捨て画学の道に進むことを許される。親戚の紹介で文晁系に属する吉澤雪菴に師事するが、やはり藩の勤務が忙しく充分に学べなかったという。
ところが嘉永年間のある時、西洋製の石版画に接し、日頃目にする日本や中国の絵とは全く異なる迫真的な描写に強い衝撃を受ける。以後、洋画の研究を決意し、生涯その道に進むことになる。文久2年9月5日(1862年10月27日)に蕃書調所の画学局に入局し、川上冬崖に師事した。元治1年12月6日、開成所画学出役となった。本格的に油彩を学ぶことができたのは、慶応2年(1866年)、当時横浜に住んでいたイギリス人ワーグマンに師事したときで翌年にはパリ万国博覧会へ出展している。
明治時代に入り民部省の吏生や大学南校の画学教官など官職を務めるが明治6年(1873年)6月には官職を辞して日本橋浜町に画塾である天絵社を創設し(1879年天絵学舎と改称、1884年閉鎖)、弟子第一号の淡島椿岳や原田直次郎、息子の高橋源吉、日本画家の川端玉章、岡本春暉、荒木寛畝ら多くの弟子を養成する。天絵社で毎月第1日曜に展覧会をひらき、自作および門下生の作品を展覧した。明治9年(1876年)、工部美術学校の西洋絵画教師として来日した、イタリア人画家アントニオ・フォンタネージと交流を深め、作画の指示を仰いだ。
明治12年(1879年)に金刀比羅宮で開かれた第2回琴平山博覧会で、天絵舎に資金援助してもらうため、作品を奉納した。そのため、金刀比羅宮は由一の作品を27点収蔵しており、現在は金刀比羅宮境内にある「高橋由一館」に展示されている。
人物、風景などの作品もあるが、代表作として挙げるべきは『鮭』であろう。極端に縦長の画面に縄で吊るされ、なかば身を欠き取られた鮭のみを描いたこの作品は西洋の模倣ではない文字通り日本人の油絵になっていると評されている。明治12年(1879年)には元老院の依頼で明治天皇の肖像も描いた。1880年4月から8月まで主幹として美術雑誌『臥遊席珍』全5号刊行。
明治14年(1881年)より山形県令であった三島通庸の要請により、三島の行った数々の土木工事の記録画を描いている。代表的なものとして『栗子山隧道図西洞門』がある。明治18年(1885年)12月21日、「展画閣ヲ造築セン事ヲ希望スルノ主意」を元老院議長佐野常民に提出する。
明治27年自宅で逝去。法名は実際院真翁由一居士。墓所は渋谷区広尾の臨済宗祥雲寺。回想記に『高橋由一履歴』がある。洋画家の安藤仲太郎は甥。


田中一村

1908年 - 栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれる。父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)。若くして南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞、もしくは文部大臣賞)。父濔吉より「米邨」の号を与えられる。大正また10代にして既に蕪村や木米などを擬した南画を自在に描き得た。
1920年 - 米邨の落款で描いた枝垂れ桜に四十雀の図が、ローマ東京間の長距離飛行を達成したイタリア人飛行士に贈られた書画集(東京市内の小学児童の一校一名の作品を選んで貼付)に載る。
1926年 - 東京市港区の芝中学校を卒業する。東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。同期に東山魁夷、加藤栄三、橋本明治、山田申吾らがいる。しかし、学校の指導方針への不満や父の病気などが原因で同年6月に中退。趙之謙や呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を立てる。『大正15年版全国美術家名鑑』には田中米邨(たなかべいそん)の名で登録された。
1931年 - それまで描いていた南画と訣別。自らの心のままに描いた日本画「蕗の薹とメダカの図」は後援者には受け入れられなかった。
1938年 - 親戚の川村幾三氏を頼って、千葉県の千葉寺町に移る。
1947年 - 「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。この時、初めて一村と名乗る。
1948年 - 第20回青龍社展に「秋晴」「波」を出品。このうち「波」は入選するが、「秋晴」の落選に納得できず、「波」の入選を辞退。これを境に川端龍子と絶縁する。
1953年 - 第9回日展(審査員に東山魁夷が参加)に、「秋林」を出品(履歴欄に「松林桂月の門人」を名乗る)するが落選。(この年の12月25日、奄美大島が日本に返還される。)
1954年 - 第10回日展(審査員に加藤栄三、橋本明治が参加)に「杉」を出品するが落選。
1955年 - 九州・四国・紀州をスケッチ旅行して回る。
1957年 - 院展への出品を目指し、制作を開始する(この年、院展の監査台帳には出品の記録なし)。
1958年 - 第43回院展に「岩戸村」「竹」を出品するが落の選。中央画壇への絶望を深め、奄美行きを決意、家を売る。12月13日朝、奄美大島の名瀬港に到着。
1959年 -国立療養所奄美和光園の官舎に移り込み、小笠原医師との共同生活を始める。
1960年 -5月28日、千葉に一時帰郷する。翌年まで、岡田藤助の計らいで国立千葉療養所の所長官舎にアトリエと住居を与えられる。
1961年 -3月31日、見合いをするが、のちに自ら破談とした。4月22日、所長官舎を引き上げ、奄美に戻る。12月、名瀬市有屋の一戸建て借家に移り、農業を始める。
1962年 -名瀬市大熊にある 大島紬工場の染色工の仕事で生計を立てながら絵を描き始める。
1965年 -3月末、姉・喜美子の危篤を知らされ、千葉に帰る。5月16日、喜美子逝去(享年60)。遺骨を抱いて奄美に戻る。12月5日、川村幾三逝去。
1967年 -5年間働いた紬工場を辞め、3年間絵画制作に専念する。
1970年 -再び紬工場で働き始める。2年働いて個展の費用を捻出しようとしたが、結局個展の開催は実現せず、最後まで中央画壇に認められないままだった。
1972年 -紬工場を辞め、3年間絵画制作に専念するが、腰痛や眩暈などで三度も昏倒する。
1976年 -6月下旬、畑仕事中に脳卒中で倒れ、一週間入院する。その後名瀬市の老人福祉会館に通いリハビリに励む。姉・房子と甥・宏が来訪、奄美で描かれた一村の作品を預かり、千葉に持ち帰る。
1977年 -春、体調やや回復する。9月1日、和光園近くの畑の中の一軒家に移り、「御殿」と称する。同月11日、夕食の準備中に心不全で倒れ、死去。69歳没。墓所は満福寺。戒名は真照孝道信士。


松本哲男

松本哲男は日本画家、教育者。栃木県佐野市生まれ。日本美術院理事。

宇都宮大学教育学部美術科卒業。高等学校美術教諭を経て、今野忠一に師事。 宇都宮文星短期大学特任教授を経て、1999年(平成11年)から2002年(平成14年)まで文星芸術大学教授。
後、特任教授。 1993年(平成5年)4月から東北芸術工科大学芸術学部美術科助教授、1996年(平成8年)4月から同教授。2006年(平成18年)4月から2011年(平成23年)3月まで同学長。同年4月から名誉学長となっていた。
2012年(平成24年)11月15日に呼吸不全のため死去。


安藤勇寿

1951年(昭和26年)栃木県安蘇郡田沼町(現・佐野市)生まれ。
中央美術学園卒業。
1992年「第18回現代童画会展」新人賞受賞(その他、各賞を受賞)。
1995年「イタリア・ボローニャ国際絵本原画展」入選、同展ユニセフ選出画家。
2002年5月5日、故郷佐野市に安藤勇寿「少年の日」美術館を開館。
2005年、NHKテレビで全国に紹介され大きな反響を呼ぶ。




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