現代アート作家一覧

現代アート作家一覧

日本人現代アート作家一覧

愛☆まどんな
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
嫌われない程度に愛されたい女流美術家
美少女はみずからの愛を代弁する究極のモチーフ
コピーはそこに降りてくるもの「くさってもロリコン!」

作品は主に絵画、ライブペインティング、イラストなど。
自身の作品を落とし込んだプロダクトやコラボグッズなど。

無類のうさぎ好き!

1984  東京生まれ
2003 都立芸術高等学校美術科デザインコース 卒業
2004 美学校/会田誠バラバラアートクラス 卒業
2007「愛☆まどんな」始動
2012 愛☆まどんなプロダクション設立
代表作
彼女の顔が思い出せない
こうしていても時は過ぎない此処では
たぷんとぷんっ
ここでもまた愛された女の子
会田誠
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
1965年、新潟県新潟市に生まれる。父は社会学者で新潟大学名誉教授の会田彰。また本人によると、母親はフェミニストであった。 小さい頃は授業中に走り回るなど落ち着きがなく「いまでいう典型的なADHD(注意欠陥・多動性障害)」だったという。「基本的に飽きっぽくて同じ絵を繰り返し描くことができない」と本人が語っている。

新潟県立新潟南高等学校卒業後、代々木ゼミナール造形学校を経て、1989年東京芸術大学油画専攻卒業、1991年東京芸術大学大学院修了(油画技法材料第一研究室:佐藤一郎)。在学中に小沢剛、加藤豪らと同人誌『白黒』(1 - 3号)を発行。1993年、レントゲン藝術研究所で開催された「fo(u)rtunes part2」でデビュー。

2003年には、会田自身の制作を追ったドキュメンタリー映画『≒会田誠』(ビー・ビー・ビー株式会社)が公開。

2005年、写真「Girls Don't Cry 2003」の一つが香港クリスティーズにおいて9253ドル(約110万円)で落札された。

2012年11月10日には渡辺正悟監督によるドキュメンタリー映画『駄作の中にだけ俺がいる』が公開。

2013年、第8回安吾賞受賞。
代表作
河口湖曼荼羅

無題(通称:電信柱)
火炎縁蜚蠊図(かえんぜつごきぶりず)
火炎縁雑草図
あぜ道
デザイン
巨大フジ隊員VSキングギドラ
ポスター
無題(通称:駄作の中にだけ俺がいる)
美しい旗(戦争画RETURNS)
戦争画RETURNS
紐育空爆之図(にゅうようくくうばくのず)
題知らず
大皇乃敝尓許曽死米(おおきみのへにこそしなめ)
ミュータント花子
スペース・ウンコ
スペース・ナイフ
犬(雪月花のうち“雪”)
たまゆら
ジューサーミキサー
食用人造少女・美味ちゃん
新宿御苑大改造計画
切腹女子高生
人プロジェクト
大山椒魚
じょうもんしきかいじゅうのうんこ
?鬼
無題(通称:考えてませ~ん)
ヴィトン
727
滝の絵
万札地肥瘠相見図(原画)
灰色の山
1+1=2
ニトログリセリンのシチュー
Jumble of 100 Flowers
考えない人
電信柱、カラス、その他
MONUMENT FOR NOTHING Ⅳ
天野嘉孝
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
繊細で妖艶・幻想的な絵柄は、欧米でも人気を博し、ニューヨーク、ロンドン、パリ、リヨン、ケルンなどでも個展を開催してきた。

ファイナルファンタジーシリーズのキャラクターデザインが代表作として有名だが、『N.Y.SALAD』や『タイムボカン』など軽妙でコミカルなキャラクターを生み出してきたという一面も持ち合わせている。

趣味は音楽鑑賞。好きな画家はレオナルド・ダ・ヴィンチ。

1952年3月 - 静岡市生まれ
1967年 - 15歳の頃、吉田竜夫の自宅に居候しながら高校に通う形でアニメーション制作会社タツノコプロダクションに入社。動画、原画を経て、17、8歳の頃には作画監督とキャラクターデザインを兼ねる様になり、以降徐々にキャラクターデザイン専任となっていく。天野嘉孝名義で『タイムボカン』等のアニメのキャラクターデザインを手掛ける
1982年 - 独立
198X年 - 天野喜孝に改名
1987年 - 『ファイナルファンタジー』のキャラクターデザインを担当
1990年 - 『なよたけ』の舞台美術を担当(坂東玉三郎演出、日生劇場)
1992年 - 『楊貴妃』の舞台美術を担当
1993年 - 映像作品『天野喜孝 ~華麗なる幻想美の世界~』発売
1994年 - 『海神別荘』の舞台美術、衣裳デザインを担当
1995年 - アールビバン株式会社と版画作品の販売契約を結ぶ
2001年 - 映画『陰陽師』の衣裳デザインを担当
2007年 - 映画『ユメ十夜』の第7夜の監督を担当
代表作
ファイナルファンタジーシリーズ
タイムボカンシリーズ
眠れる森の美女が目覚めるとき
榎倉康二
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
父は洋画家の榎倉省吾。東京で生まれ、1966年に東京藝術大学美術学部油画科を卒業、1968年に同大学美術研究科で修士号を取得し、1975年から1995年に死去するまで同大学で教員を務めた。

榎倉は1970年代初頭から、紙、布、フェルト、革に油を染み込ませる手法で作品を制作する。時にギャラリーや野外スペースで壁や床を変色させるということも行っていた。当時のインスタレーションは現存しないものの、写真による展示作品の記録が残されている。
1970年には、リチャード・セラ、ヤニス・クネリス、ルチアーノ・ファブロ(英語版)、ブルース・ナウマンといった世界的に有名なアーティストらが出品する「第10回日本国際美術展 Tokyo biennale ‘70〈人間と物質 between man and matter〉」に、高松次郎、小清水漸とともに参加。油を染み込ませた藁半紙を、高さを変えて床に敷きつめた《場》(1970年) を出品した。

さらに、最も有名な作品の一つが《無題》(1970年) である。革でできた三角錐を部屋の角に置いたこの作品を通して、榎倉は隣接する壁との関係性を強調している。

1971年の「第7回パリ青年ビエンナーレ」に出品した《壁》という、パリのフローラル公園(英語版) の2本の木の間に、高さ3m、幅5mのコンクリート壁を築いた作品もまた、同じテーマを用いた榎倉の代表作 である。 この際に受け取った優秀賞の奨学金で、榎倉は 1973年から1974年までパリに滞在することとなる。

これらの作品群は、榎倉の世界の中に自分の居場所を確認する試みであった。彼はこう語っている。 「肉体と物との緊張感こそ私が探りたい事であり、そしてこの緊張感が自分自身の存在を自覚し得る証しだと思う」

1973年までに、榎倉康二、菅木志雄、李禹煥、関根伸夫、そして、小清水漸、吉田克朗といった作家達は「もの派」と呼ばれるようになった。

後に残らないインスタレーションの単なる記録としてのみならず、榎倉は作品としての写真も制作した。床の水たまり、机から滴り落ちる水、光の反射など、閾の存在といった、同様のテーマを用いたものである。《予兆-海・肉体(P.W.-No.)》(1972年) は最も象徴的な作品のひとつであり、打ち寄せる波に沿うように作家が海岸に体を横たえた様子を描いたものである。この作品についてキュレーターのサイモン・グルームはこう言及している。

「永遠に寄せては返す波が岸辺を洗う。世界に帰属するための媒体としての身体、あるいは、周囲の世界からの分離の気づきとつながりたいという我々の思いを、これ以上に痛切に表現した作品はない。」

1980年代から1990年代にかけて、榎倉は綿布にしみをつけるという行為を探求し続けた。しみの作品には《干渉》あるいは《干渉(STORY)》というタイトルをつけ、時系列に番号をふった。 多くは、キャンバス上で黒いペンキを塗った滑らかな部分/何も塗っていない部分を対比させた作品であったが、時には布の表面全体にペンキを浸した作品も存在する。また、油を浸した木材をキャンバスに押しつけたり、立てかけたりすることでキャンバス上にしみをつけるといった手法を用いることもあった。

加えて、砂や水が入った瓶、あるいは鉢植えを置いた小さな棚板がついた作品に取り組んだのもこの時期である。さらに、一重あるいは二重に重ねた布を斜めに壁に掛け、床に垂らした作品もこの時期に数多く制作した。
代表作
無題
二つのしみ
P.W.-No.40 予兆-海・肉体
予兆(布)
天野 喜孝
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
繊細で妖艶・幻想的な絵柄は、欧米でも人気を博し、ニューヨーク、ロンドン、パリ、リヨン、ケルンなどでも個展を開催してきた。

ファイナルファンタジーシリーズのキャラクターデザインが代表作として有名だが、『N.Y.SALAD』や『タイムボカン』など軽妙でコミカルなキャラクターを生み出してきたという一面も持ち合わせている。

趣味は音楽鑑賞。好きな画家はレオナルド・ダ・ヴィンチ。

1952年3月 - 静岡市生まれ
1967年 - 15歳の頃、吉田竜夫の自宅に居候しながら高校に通う形でアニメーション制作会社タツノコプロダクションに入社。動画、原画を経て、17、8歳の頃には作画監督とキャラクターデザインを兼ねる様になり、以降徐々にキャラクターデザイン専任となっていく。天野嘉孝名義で『タイムボカン』等のアニメのキャラクターデザインを手掛ける
1982年 - 独立
198X年 - 天野喜孝に改名
1987年 - 『ファイナルファンタジー』のキャラクターデザインを担当
1990年 - 『なよたけ』の舞台美術を担当(坂東玉三郎演出、日生劇場)
1992年 - 『楊貴妃』の舞台美術を担当
1993年 - 映像作品『天野喜孝 ~華麗なる幻想美の世界~』発売
1994年 - 『海神別荘』の舞台美術、衣裳デザインを担当
1995年 - アールビバン株式会社と版画作品の販売契約を結ぶ
2001年 - 映画『陰陽師』の衣裳デザインを担当
2007年 - 映画『ユメ十夜』の第7夜の監督を担当
代表作
ファイナルファンタジーシリーズ
タイムボカンシリーズ
眠れる森の美女が目覚めるとき
荒木経惟
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
1940年(昭和15年) - 東京府東京市下谷区(現・東京都台東区)三ノ輪で生まれる。
1959年(昭和34年) - 東京都立上野高等学校を卒業する。同期に立花隆と東八郎の夫人がいる。
1963年(昭和38年) - 千葉大学工学部写真印刷工学科を卒業後、電通に宣伝用カメラマンとして勤める。
1964年(昭和39年) - 写真集「さっちん」で第1回太陽賞を受ける。
1971年(昭和46年) - 電通で同僚の青木陽子と結婚する。
1972年(昭和47年) - 電通を退社してフリーになる。
1974年(昭和49年) - 東松照明、細江英公、森山大道、横須賀功光、深瀬昌久らと「WORKSHOP写真学校」の設立に参加する。
1988年(昭和63年) - 安斎信彦、田宮史郎と、三人の頭文字からなる事務所「AaT ROOM」を設立する。
1990年(平成2年) - 「写真論」「東京物語」で第2回写真の会賞を受ける。
1992年(平成4年) - 「空景/近景」で第4回写真の会賞を受ける。
1999年(平成11年) - 織部賞を受ける。
2008年(平成20年) - オーストリアより科学芸術勲章を受ける。
2011年(平成23年) - 安吾賞を受ける。
2013年(平成25年) - 毎日芸術賞特別賞を受ける。

代表作
左眼ノ恋
愛しのチロ
センチメンタルな旅・冬の旅
往生写集
男 ―アラーキーの裸ノ顔―
今井俊満
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
父俊雄と母綾野の次男。京都市に生まれ、幼い時に大阪市の船場安土町に転居。大阪市立船場尋常小学校を卒業すると、1941年に上京して旧制武蔵高等学校尋常科に入学した。武蔵高校在学中から絵を描き始め、荻太郎、梅原龍三郎、安井曾太郎などに師事。1948年に武蔵高校を卒業した。

高校卒業後の1948年10月には第12回新制作派協会展で入賞。1950年には東京藝術大学美術学部油絵科で1年間派遣学生として学び、1952年にはフランスに私費留学し、ソルボンヌ大学文学部に学ぶ。サム・フランシスやミシェル・タピエを知り、自身もアンフォルメル運動に参加した。1956年に日本橋・高島屋で開催された「世界・今日の美術展」の際には、アンフォルメル作品の出品を斡旋。日本で初めて本格的にアンフォルメルを紹介した展覧会であり、ジョルジュ・マチウ(英語: Georges Mathieu)、タピエ、フランシスらが日本を訪れている。

1962年、現代日本美術展優秀賞受賞、1979年、紺綬褒章受章。1983年にはフランスの芸術文化勲章オフィシエ受章。1995年にはレジオン・ド・ヌール勲章シュバリエ受章。1997年にはフランス芸術文化勲章コマンドール受章。2008年には文部大臣表彰。

1992年、急性骨髄性白血病を発症するものの、精力的な創作活動を続けた。2000年、末期がんで余命数ヶ月と告知され、同年12月、東京・銀座のギャラリーGANで「サヨナラ展」を開催。2002年3月3日、膀胱癌のために東京都中央区の国立がんセンター中央病院で死去。
代表作

東方の光
騎士
波の記録
国立国際美術館
春霞
秋草図
桜図
夏図
武蔵野図
竜田川図
冬図
波濤図(ヴェネツィア讃歌)
五木田智央
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
小中学生の頃は教員から「絵が漫画みたいだ」と称されることがしばしばあったが、『週刊ザ・プロレス』1984年10月23日号に自身の投稿したルー・テーズのイラストが掲載され、藤原喜明から「ドッカン特待生」の異名を与えられた。17歳の時には『闘魂スペシャル』(チャレンジ・スピリット'86記念号)で藤原の絵を描いて優秀作に輝いた。その他にも、プロレス関連の投稿イラストは枚挙に暇がない。国内外での個展、グループ展の他に、カルチャー、ファッション、ミュージックビジュアルなども多数手掛ける。初期は主に雑誌媒体などでイラストを発表していたが、2004年ごろからキャンバスに描くモノクロの絵が海外で注目を集める。一時期は生活のためにイラストレーターも行っていたが、あれこれと条件を付けられるため嫌になって行わなくなっていった。2017年の時点では、ニューヨークやロサンゼルスでの展覧会が『ニューヨーク・タイムズ』や『ARTFORUM』のアートレビューで高い評価を受けるなど、世界的評価を獲得する。『KAMINOGE』で『画画画報』を連載しているのをはじめとして、プロレスに関連した創作物も少なくない。

代表作
熟女天国
天国の美女
Precious Paul
イケムラレイコ
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
三重県津市生まれ。1970年代にスペインに渡り、スイスを経て1980年代前半よりドイツを拠点に活動。絵画や彫刻、ドローイング、写真、詩といった多岐に渡る表現を駆使し、この世に存在するものの生成と変化の諸相、そこに潜む無限の可能性を表現するという根源的な芸術の課題に対峙した作品群は国内外から高い評価を受けている。1991年~2015年 ベルリン芸術大学教授。2014年より女子美術大学大学院客員教授。2020年芸術選奨文部科学大臣受賞。
代表作
原風景
有機と無機
ドローイングの世界
生きものたち
少女
戦い
地平線
樹と山



うさぎ観音
コスミック・ランドスケープ
鵜飼結一朗
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
1995年生まれ 滋賀県在住 2014年から『やまなみ工房』に所属 彼が描くものは、休憩時間にいつも眺めている大好きな図鑑から選ばれた昆虫や動物、恐竜である。描き方は独特で、モチーフをひとつ描くと、その絵に重ねるように同じ対象の生物を次々と描き、重ねるにつれ絵に奥行が生まれる。表情や動きはそれぞれ違い、生物がまるで群れになって行動しているかのような錯覚を覚える。絵画だけでなく立体作品にも取り組む彼は、絵で描く生物をそのまま陶土でも表現し、粘土の固まりから飴細工のように手や足、尻尾を器用に伸ばし丁寧に成形していく。
代表作
妖怪

恐竜
ブロントザウルス
リソニックス
昆虫
お化け屋敷
ジャングル
ガイコツ
プテラノドン
荻須 高徳
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
荻須は1901年(明治34年)、愛知県中島郡(現・稲沢市)の地主の子として生まれる。愛知県立第三中(現・愛知県立津島高等学校)を経て、1921年(大正10年)に上京、小石川(現・文京区)にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事する。1922年(大正11年)には東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。1927年(昭和2年)に同校を卒業すると、9月に渡仏。1928年(昭和3年)、佐伯祐三らとモラン写生旅行を行い、佐伯の死にも立ちあう。

荻須は画家として活動期間の大半をフランスの首都パリで過ごした。初期の作品は佐伯祐三と同じく、ヴラマンクやユトリロの影響が見受けられ、パリの街角、店先などを荒々しいタッチで描いたものが多かったが、その後穏やかなタッチで造形性に富んだ構成でパリの都市風景を描くようになる。

荻須の画家としての最初の成功は1928年(昭和3年)のサロン・ドートンヌ入選であった。1934年(昭和9年)には最初の個展をジュネーヴで開催。この頃から、作風も佐伯と見分けのつかないようなものから、落ち着いた色調、静寂さを備えたものへと変化していく。サロン・ドートンヌ会員に推挙され、フランスでの地位を確立したかに見えたが、1940年(昭和15年)に戦況悪化のため一時帰国を余儀なくされる。この時サロン・ドートンヌ出品作がパリ市買上げとなった。帰国後は新制作派協会の会員となる。

終戦後の1948年(昭和23年)、日本人画家として戦後初めてフランス入国を許可され再び渡仏。以後死去するまでパリで制作活動を行うことになる。1982年(昭和57年)にはフランス国立造幣局が荻須高徳の肖像を浮彫にしたメダイユを発行。後に同国大統領となるシラク・パリ市長(当時)は「最もフランス的な日本人」と彼を評した。同年文化功労者に選定されたのを受けて10年ぶりに帰国したのが祖国の地を踏む最後となった。

1986年(昭和61年)10月14日、パリのアトリエで制作中に倒れ死去、84歳だった。死の一週間前ほどに同年の文化勲章受章が内定していたため、11月3日には死去日に遡って同章が授与された。

墓はパリのモンマルトル墓地にある。
代表作
広告塔
サン・タンドレ・デザール広場
モンマルトル裏
パリの屋根
金のかたつむり
大竹伸朗
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
1955年10月8日、東京都目黒区に生まれる。1957年、大田区南六郷に転居。六郷水門、多摩川、巨人軍練習場、江崎グリコ工場などが、当時の思い出とともに東京の原風景となる。物心ついた頃には身近にテレビがあり、昭和30年代に吹き替えで放映されていた「名犬ラッシー」、「うちのママは世界一」、「ポパイ」、「ブロンコ・シャイアン」、「とつげき!マッキーバー」等のアメリカのテレビ番組を好んで視聴し、大きな影響を受ける。

1962年、大田区立六郷小学校入学。この頃、漫画家になることを決意。第1作目は野球漫画「がんばれ!三ちゃん」。8歳年上の兄とともにレコード店に通い、アメリカン・ポップスや和製ポップス、民族音楽風の民謡などを聴き、音楽に興味をおぼえる。1964年、練馬区立谷原小学校に3年生の二学期に転入。担任を洋画家篠原昭登が受け持つ。その頃、『少年マガジン』に連載されていた漫画『紫電改のタカ』のカラー図版を用いて、初めてのコラージュ作品《「黒い」「紫電改」》を制作。1965年、練馬区谷原に転居。隣駅の西武池袋線富士見台駅近郊にあった虫プロダクションに絵を持って通い、スタッフから絵の指導を受けたりセル画を貰う。兄の影響でビートルズを知る。

1968年、練馬区立石神井東中学校入学。サッカー部に入る。兄を通じて海外のサウンドトラック・レコードやファッション、アート系の雑誌に影響を受ける。東京国立博物館の展覧会「レンブラント名作展」で油絵に興味を持ち、岡鹿之助の『油絵のマティエール』をテキストにして独学で油絵を始める。

1971年、東京都立大泉高等学校入学。サッカー部に入る。近所の絵画教室に週1回程度通う。兄に頼まれて購入した『現代の美術4 ポップ人間登場』(講談社)でアンディ・ウォーホル、デイヴィッド・ホックニー、ロナルド・B・キタイ(英語版)、アレン・ジョーンズ(英語版)、エドゥアルド・パオロッツィ、リチャード・ハミルトン、フランシス・ベーコンらの作品を知り、画家という存在に初めて強いリアリティを抱く。

1974年、東京芸術大学美術学部絵画科(油画)を受験し不合格となる。4月、武蔵野美術大学造形学部油絵学科に補欠入学。4月21日に同大学を休学して北海道別海町のウルリー牧場へ行き、同牧場で「無給、無休、住み込み」という条件で働く。年末、漠然と海外行きを決意する。1975年、1月から3月にかけて北海道内を撮影、スケッチして歩く。4月、東京に戻り、大学に復学。ボブ・ディランをモデルに、初めての立体作品《男》を制作。

1977年5月、大学を休学して渡英。ロンドンに滞在し、スケッチや写真撮影をする。6月、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートの卒業展でラッセル・ミルズ(英語版)の作品に出会う。8月、英国のポートベロー(英語版)の蚤の市で、マッチのラベルを貼り込んだノートブックと大量のマッチラベルを購入し、このラベルでコラージュ・ブックの制作を始める。11月、ラッセル・ミルズに面会し交際が始まる。12月、デイヴィッド・ホックニーに面会、翌年4月まで絵を見てもらうようになる。

1978年5月、帰国して大学に復学。リトグラフ、オフセットなど、印刷印画紙やフィルムによる作品に興味を持つ。ノイズ・ユニット「JUKE/19.」の始まりとなる音楽活動を、中学時代の後輩と開始。ブライアン・イーノのプロデュースにより同年に発売されたコンピレーション・アルバム『NO NEW YORK』に参加したバンドの殆どすべてから影響を受ける。

1979年9月、初めての香港旅行。10月、第4回ロットリング・イラストコンテストで最優秀賞を受賞。11月、作品を見てもらった黒田征太郎から紹介された『野性時代』のカットの仕事で、自身の名前が初めて活字となった。同月、池袋にオープンした「スタジオ200」のオープン記念ポスター装画に作品が採用される。これが最初のポスターの仕事となる。

1980年3月、武蔵野美術大学油絵学科を卒業。4月から8月までロンドンに滞在。6月、ノートルダム・ホール(英語版)にて、ブルース・ギルバート(英語版)、グラハム・ルイス(英語版)、ラッセル・ミルズ、大竹の4人でサウンド・パフォーマンスを行う。8月から10月にかけてパリと香港にも滞在。10月、「JUKE/19.」を結成。スタジオ録音、ライブ活動を始める。12月、1枚目のアルバム『JUKE/19.』を発売。

1981年、JUKE/19.としてシングル盤1枚とアルバム2枚を発表。JUKE/19.のライブも行う。

1982年、最初の印刷本となる「PSYCHEDELIC MAGAZINE LTD. vol.1 Presentation Issue」を刊行。9月、4枚目のアルバムを発表後にJUKE/19.は自然消滅。12月、初個展「大竹伸朗 個展」(ギャルリーワタリ、東京)。

1983年、ニューヨーク、香港、ロンドン、ナイロビなどに滞在。作品はカンヴァス下地に印刷物や紙を貼り込む手法が以前より更に強まる。

1984年3月、個展「大竹伸朗1983-1984」(ギャルリーワタリ、東京)。5月から9月にかけて京都を複数回訪れる。京都的な風景に愛憎入り混じる感覚を覚え、初めて「日本景」について考える機会になる。

1985年2月、個展「大竹伸朗 ペインティング/コラージュ」(コンコース・ギャラリー、ICA、ロンドン)。5月、個展「大竹伸朗 放浪する言語」(ジェノヴァ)。6月、ラッセル・ミルズとユニット「オンリー・コネクト」を結成、パフォーマンスを行う。

1986年、初の画集『《倫敦/香港》一九八〇』を用美社から出版。同書の豪華版が、同年の造本装幀コンクールで日本書籍出版協会理事長賞(豪華本部門)を受賞。1月と9月に個展「《倫敦/香港》一九八〇」(みゆき画廊およびヒルサイド・ギャラリー、東京)。3月、結婚。

1987年1月、個展「《倫敦/香港》一九八〇 PART Ⅱ」(みゆき画廊、東京)。5月、個展「《倫敦/香港》一九八〇」(ギャルリー・ダン、大阪)。7月、作品集『《倫敦/香港》一九八〇』の豪華版が、ADC最高賞を受賞。10月、個展「大竹伸朗展 E.Z.M.D. & ETCHINGS」(ギャルリー・ダン、大阪)。11月、個展「大竹伸朗展 1984-1987」(佐賀町エキジビット・スペース、東京)。

1988年1月、愛媛県宇和島市の造船所から廃船を譲り受けることになり、妻の実家が所有している倉庫をアトリエとして使うことになる。妻の実家に間借りして宇和島での制作を始める。夏までに、東京・石神井のアトリエを引き払う。9月、個展「キャンヴァシズム 夢と細胞 大竹伸朗新作展」(西武アート・フォーラム、東京)。第23回造本装幀コンクール、全日本製本工業組合連合会会長賞(豪華本部門第1位)受賞。ライプチヒ造本コンクール銅賞受賞。

1989年、「CANVASISM展」のカタログが、ニューヨークのADC第3回国際展で優秀賞を受賞。1月から3月、米国に滞在して作品を制作。11月、個展「大竹伸朗\America」(西武アール・ヴィヴィアン、東京)。

1990年4月、個展「大竹伸朗 Recent Works 1988-1990」(ギャルリーところ、東京)。個展「テンポラリー・ミュージアム第二期 大竹伸朗 Shipyard Works 1990」(寺田倉庫 Space T33、東京)。10月、武満徹と初めて会う。都築響一と共同で、版元「UCA」を設立。

1991年9月、個展「大竹伸朗の仕事 ECHOES 71-91」(ギャラリーところ、東京)。個展「大竹伸朗の仕事 ECHOES 55-91」(西武アート・フォーラム、東京)。個展「大竹伸朗の仕事 ECHOES 89+91」(ザ・コンテンポラリー・アートギャラリー、東京)。10月、個展「大竹伸朗の仕事 ECHOES 55-91」(なんばCITY・シティホール、大阪)

1992年、個展「大竹伸朗 1991-1992」(ギャラリーところ、NICAF92、横浜)。

1993年6月から7月、個展「〈ジャリおじさん〉〈東京サンショーウオ〉原画展」(東京アート・フォーラム/ザ・コンテンポラリー・アートギャラリー、東京)。7月、求龍堂『カスバの男』制作のため、都築響一とモロッコへ旅行。12月、個展「大竹伸朗 網膜」(ギャルリーところ、東京)。

1994年8月、個展「大竹伸朗の新作版画展 カスバの男 モロッコ日記」(西武アートフォーラム、東京)。9月、絵本『ジャリおじさん』が第43回小学館絵画賞を受賞。

1995年3月、個展「大竹伸朗 網膜」(高島屋コンテンポラリー・アートスペース、東京)。4月、個展「大竹伸朗展 X+Y=LOVE」(ストアデイズ、東京)。5月、ボアダムスの山塚アイと出会い、ユニット「パズル・パンクス」を結成する。8月から10月、米国アトランタに滞在しアーティスト・ブックを制作。9月から10月、「'95ブラティスラヴァ世界絵本原画ビエンナーレ」で絵本『ジャリおじさん』が金牌を受賞。10月、雑誌『頓智』に初の小説連載「覗岩テクノ」を寄稿。パズルパンクスとして小冊子付きCDブック『パイプライン ヤマンタカ日記』を刊行。

1996年11月、ヤマタカ・アイとの初のサウンド・パフォーマンス「パズルパンクス」ライブを行う(ラフォーレミュージアム原宿、東京)。このパフォーマンスのために、遠隔操作による自動演奏エレキギター(後の《ダブ平》)を制作。

1997年、宇和島駅で約一年前まで使用され駅舎改築で廃品となったネオンサインを譲り受ける。5月、個展「大竹伸朗 イン・プリント」(ナディッフ・ギャラリー、東京)。10月、個展「大竹伸朗 プリンティング/ペインティング」(CCGA現代グラフィックアートセンター、福島)。

1998年、個展「新津 あいまいで私が日本 大竹伸朗展」(新津市美術館、新潟)。4月、個展「大竹伸朗展」(コモンズ・ギャラリー、ハワイ大学マノア校美術学部、ホノルル)。4月、「都築響一 大竹伸朗 青山秘法館」(ナディッフ・ギャラリー、東京)。7月、個展「ネガな夜 大竹伸朗展」(西武アートフォーラム、東京)。

1999年2月、「時代の体温 ART/Domestic」に出品、遠隔操作による自動演奏バンド《ダブ平&ニューシャネル》とEYE(パズルパンクス)によるライブを行う。5月、個展「ZYAPANORAMA 大竹伸朗展」(パルコ・ギャラリー、東京)。夏頃、新潟のパチンコ店で廃品になった「自由の女神」像を下取りする。7月、個展「『既にそこにあるもの』を読むために 大竹伸朗と創作させるモノたち」(青山ブックセンター本店、東京)。

2000年2月、個展「大竹伸朗展 既景」(セゾンアートプログラムギャラリー、東京)。3月、札幌市生涯学習総合センター内の劇場緞帳が完成。6月、個展「大竹伸朗展」(ベイス・ギャラリー、東京)。8月、個展「ダブ景 大竹伸朗展」(KPOキリンプラザ大阪)。10月、個展「10・08 武満徹『SONGS』+大竹伸朗」展(ナディッフ・ギャラリー、東京)。

2001年4月、個展「大竹伸朗デジタルワークス「鼠景」」(エプサイト、東京)。9月、「THE STANDARD スタンダード」(直島コンテンポラリーアートミュージアム、香川)に参加し《落合商店》を発表。12月、『武満徹 SONGS』でADC賞を受賞。

2002年4月、個展「Man is basically good. 大竹伸朗展」(ベネッセハウス直島コンテンポラリーアートミュージアム、香川)。5月、個展「BLDG. 大竹伸朗新作展」(ベイスギャラリー、東京)

2004年6月、個展「大竹伸朗展『UK77』 写真、絵、貼 1977-1978年」(ベイスギャラリー、東京)。

2005年6月、個展「ON PAPER 大竹伸朗展」(ベイスギャラリー、東京)。

2006年9月、個展「旅景―TABI-KEI―」(ベイスギャラリー、東京)。10月、個展「大竹伸朗 全景 1955-2006」(東京都現代美術館)。個展「大竹伸朗と別海」(ウルリー牧場、北海道)。香川県直島の家プロジェクトの「はいしゃ」に作品「舌上夢/ボッコン覗」を発表。

2007年、個展「大竹伸朗と別海 2007年」(ウルリー牧場、北海道)。個展「大竹伸朗 路上のニュー宇宙」(福岡市美術館、広島市現代美術館)。

2008年、個展「貼/Shell & Occupy」、個展「貼貼/Shell & Occupy 2」、個展「貼貼貼/Shell & Occupyスペース3」(Take Ninagawa、東京)。

2009年、香川県直島で、銭湯「I♥湯(アイラブゆ)」をオープン。また、第2回「(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞」を受賞[6]。個展「貼貼貼貼/Shell & Occupy 4」(Take Ninagawa、東京)。

2010年、個展「#65」、個展「#65 | 2005 - 2010」(Take Ninagawa、東京)。

2011年、個展「大竹伸朗展」(佐賀町アーカイブ、東京)。

2012年、ドイツのカッセルで5年に一度開催される第13回ドクメンタに参加[5]。個展「大竹伸朗」(アートソンジェ・センター、ソウル)。

2013年、個展「’00-’12」(Take Ninagawa、東京)。個展「大竹伸朗: 憶速」(高松市美術館、香川)。個展「大竹伸朗展: ニューニュー」(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、香川)。個展「焼憶展」(INAXライブミュージアム 世界のタイル博物館、愛知)。

2014年、「大竹伸朗展 ニューニュー」ほかの成果により、平成25年度(第64回)芸術選奨文部科学大臣賞美術部門受賞。個展「大竹伸朗」(パラソルユニット現代美術財団、ロンドン)。個展 「既憶景」(宮浦ギャラリー六区、香川・直島)。

2016年、個展「Shinro Ohtake: Solo Exhibition」(シンガポール・タイラー・プリント・インスティチュート (STPI),シンガポール)、個展「時憶」(Take Ninagawa、東京)、個展「SHOW-CASE project No. 3」(慶應義塾大学 三田キャンパス、東京)。

2019年、宇和島市学習交流センター「パフィオうわじま」内ホールの緞帳が完成。同年4月6日オープンと共にお披露目される。
代表作
椅子
赤い水牛の角
ビーチのバー タンジールⅠ(仮)
モロッコ風景 モスク 人物(仮)
Marrakech July
秘宝館 I
カスバ風景(仮)
倫敦/香港
白いモスク、イスタンブール
夢と細胞
大西茂
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
1928年 岡山県高梁市に生まれる。  
1953年 北海道大学理学部数学科を卒業後、
同大学の研究室で数学研究を行う。  
1955年 第1回個展をなびす画廊で開催し、
美術評論家瀧口修造が序文を寄せる。  
1956年 国際主観主義写真展に出品する。  
1957年 第2回個展をタケミヤ画廊で開催する。
同年、『別冊アトリエ』(アトリエ出版社)、
写真雑誌「フォト35」(新日本写真会)に作品が
掲載される。  
1969年 墨象による作品集『連続体の論理(Logic of Continuum)』
がミシェル・タピエの序文を添えてイタリアで刊行される。  
1994年 岡山県高梁市で死去。
代表作
凍結
求道の幻想
冬鏡
雪色
空間1
空間2
超無限を求めて
大地
空間的直観
小沢剛
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
1965年東京都生まれ。
1989年、東京芸術大学絵画科油画専攻卒業。
1991年、東京芸術大学大学院美術研究科壁画専攻修了。
2002-03年、文化庁在外研修員としてニューヨークに滞在。
2012年より東京芸術大学美術学部先端芸術表現科准教授。
取り扱い画廊はオオタファインアーツだったが、現在はミサシンギャラリー。
代表作
地蔵建立
なすび画廊
相談芸術
醤油画
ベジタブル・ウェポン
尾形純
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
東京都大井で育つ。両親・兄の四人家族の次男。彫金家の祖父の影響から幼少より絵を描くことを好んだ。芝公園の正則高等学校を卒業後、1991年武蔵野美術大学短期大学部を卒業、和光大学人文学部芸術学科卒業を経て、東京藝術大学大学院美術研究科を修了。大学院の研究室では、坂本一道教授の研究室にて西洋の伝統的な絵画技法を研究。大学~大学院時代より東京中野にある絵画保存研究所で勤務、絵画修復の実務にあたる。大学院修了後、和光大学で非常勤講師として教鞭を執る。洋画の技法、状態の観察と修復技術についての授業を約十年に渡って務めた。大学での在任中、文化庁の在外派遣研修によりニューヨークへ留学。Rustin Levenson Art Conservation Associatesにインターンとして所属。絵画や壁画の技法、保存や修復の技術についてのさまざまな実務と研究に携わり、ニューヨーク大学美術学部コンサベーションセンターでの講義にも参加している。スタジオでの実務とニューヨーク市内での施設の実務作業はStudio Museum in Harlemで黒人芸術に触れながら修復作業に従事し、同じくハーレム (ニューヨーク市)にある歴史的な劇場でもあるHeckscher Theatre内の壁画の修復事業にも参加した。ニューヨークでの経験は帰国後から始まる作品の発表活動や事業の礎となった。

1998年に帰国し、主に国内のギャラリーで個展を軸とした発表活動を開始。作品はモノクロから始まり、やがて「茶の湯」や「日本庭園」から着想した古色、伝統色などから独自の色彩表現を追求。古来より日本の生活空間に存在してきた襖絵や軸、屏風に代わる現代の和をミニマルな抽象に表現。近年では公共的空間、ホテルやレジデンス、レストラン、病院など、人の集う空間、いわゆるパブリックアートの制作に注力し、多くのコミッションワークを手がけている。
代表作
紫仮山
紅仮山
小谷元彦
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
京都府生まれ。所属するギャラリーはANOMALY。東京芸術大学准教授。

東京芸術大学美術学部彫刻科卒業。同大学院美術研究科修了。
1997年 - 初個展「Phantom-Limb」(P-HOUSE)を開催。
2000年 - リヨン・ビエンナーレ
2001年 - イスタンブール・ビエンナーレ
2002年 - 光州ビエンナーレ
2003年 - ヴェネツィア・ビエンナーレでは日本代表として日本館で展示。彫刻をベースに写真や映像作品も発表。
2009年 - メゾンエルメス フォーラムにて個展「Hollow」
2010年 - 森美術館にて個展「幽体の知覚」開催。(静岡市、高松市、熊本市、以降巡回)
2011年 - 第25回平櫛田中賞を受賞
2012年 - 「幽体の知覚」にて芸術選奨新人賞美術部門を受賞
2012年 - Asian Cultural Council の助成にてニューヨークに9ヵ月滞在
代表作
Hollow:Duplex
幽体の知覚 Odani Motohiko Phantom Limb
Alexander McQueen Scarf
SP1 "Beginning"
Terminal Moment
小西紀行
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
小西紀行は1980年広島県生まれ。武蔵野美術大学院造形研究科美術専攻油絵コース修了。幼少期の自身も含めた家族、あるいは身近な人々のスナップ写真をもとに、主に群像形式の人物像を描画。画中の登場人物は揺れ動き、定まらない身体をとらえるかのように、大きくうねるような自由な筆致と、鮮やかで深い色彩で描かれる。そして人種・年齢・性別などの個性を示す要素がすべて剥ぎ取られたかのような、記号的かつ多角度的な身体・目鼻立ちを特徴とする。これまで参加した主な展覧会に「ノスタルジー&ファンタジー:現代美術の想像力とその源泉」(国立国際美術館、大阪、2014)、「絵画の在りか」(東京オペラシティアートギャラリー、2014)、ヨコハマトリエンナーレ2017「島と星座とガラパゴス」(横浜赤レンガ倉庫1号館、2017)など。
代表作
無題
岡崎乾二郎
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
東京都出身。父親は建築家、母親は発明家。多摩美術大学彫刻科中退。Bゼミスクール修了。

平面・立体での両面で多彩な創作活動を展開、「ART TODAY 2002 岡﨑乾二郎展」(セゾン現代美術館)をはじめ、内外でさまざまな展覧会を開いてきている。美術領域の表現を越えても建築および景観設計、8ミリ映画「回想のヴィトゲンシュタイン」(1988)から、地域再生計画「灰塚アースワーク・プロジェクト」(1994-)にいたるまで、その活動はきわめて広範囲に及ぶ。2002年のヴェネツィア・ビエンナーレ第8回建築展では日本館のテーマ展示「漢字文化圏における建築言語の生成」のディレクターを務めた。2007年には舞踏家トリシャ・ブラウンとのコラボレーション「I Love my robots」でも話題を呼んだ。また、主著『ルネサンス 経験の条件』(2001)のほか、編集・執筆にかかわった美術雑誌『FRAME』(第1-3号、1990-1991年)や共編著『批評空間 増刊号 モダニズムのハードコア』(1995)などは、美術の領域を超えて大きな影響をもった。『ルネサンス 経験の条件』は「歴史的な書物の誕生」[と浅田彰によって評された。近畿大学国際人文科学研究所の活動の一環として主任ディレクターを務めた四谷アート・ステュディウムは、新しい教育・創造活動の拠点として注目されていた。

2019年、『抽象の力 近代芸術の解析』で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。
代表作
手出しをするな。...わかるでしょう?
加藤泉
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
島根県出身。1992年、武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業。

初期より、胎児のような人間をモチーフとした油彩絵画作品を手がける。まず絵画作品で注目を集めるようになり、2002年よりイタリアやドイツでの美術展に作品を出展[4]。2004年頃からは立体作品も発表するようになった。

2005年にアメリカ合衆国ニューヨークのジャパン・ソサエティー・ギャラリーで行なわれた美術展「リトルボーイ:爆発する日本のポップカルチャー」 (Little Boy: The Arts of Japan's Exploding Subculture) に立体作品(「無題 2004」)と絵画作品を出展[5]、話題となる。2007年には第52回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際企画展 (it:LII Esposizione internazionale d'arte di Venezia) に招待され、絵画作品(『無題』2006年。国立国際美術館蔵)などを出展した。

その作風には「プリミティブな」「不思議な有機性を持つ」「力強く生命力に溢れた」「不気味な」「異形の生命体」、「幼形成熟したキモカワイイ裸の人と植物」といった表現がなされる。

2004年制作の無題立体作品(「無題 2004」、木彫・彩色、高橋コレクション蔵)の画像に対し、英語圏のインターネットコミュニティ(4chan等)のユーザーによって「SCP-173」として創作された不気味なストーリーが、共同創作サイト『SCP Foundation』の始まりとなった。加藤は自らの作品の画像をもとにしたストーリーについて、彫刻の作者名を示し二次創作物であることを明記すること、原作品のコンセプトと無関係であることに留意すること、利用を非商用に限ることを条件として、非積極的な容認 (reluctantly permit) の意向を示している。
2016年12月に富山県下山芸術の森発電所美術館にて、この世界に生きている-加藤泉×陳飛が開かれる。
2017年12月に東京のペロタンギャラリーにてパリのイデムで作成したリトグラフによる新作を発表する。
2018年8月に中国北京のRed Brick Art Museumにて個展が開かれる。
2018年10月にソウルのペロタンギャラリーにて個展が開かれる。
代表作
無題 2004年
無題 2006年
金氏徹平
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
1978年京都府生まれ。モチーフは主に日常的なイメージをはらむフィギュアや雑貨。現代社会で再生産され続ける情報のイメージを、リズミカルに反復と増幅を繰り返し展開させることで注目を集める。個々の物体が持つ本来の意味が無視されて繋げられることで、思いもしなかったダイナミックな表現がもたらされている。

1978 京都府生まれ
2003 京都市立芸術大学大学院美術研究科修了
代表作
横浜美術館での展示風景
白地図
White Discharge(Wrestlers)
Teen Age Fan Club
Games, Dance & the Constructions
川俣正
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
北海道三笠市出身の芸術家、造形作家。作品は日本のみならず、世界各国で展開されている。

作品制作スタイルについては、ワーク・イン・プログレスと呼ばれるプロジェクトを組み、現地で制作されることが特徴。国内でのワーク・イン・プログレス例としてはコールマイン田川(福岡県田川市)、ワーク・イン・プログレス豊田(愛知県豊田市美術館)、直島スタンダード2や越後妻有トリエンナーレ等がある。東京藝術大学教授などを経て、現在、フランス国立高等美術学校教授。2019年にフランス国立高等美術学校を定年退職している。

クリエイティブオフィスキュー所属のパーソナリティ・北川久仁子は従妹。

1953年 - 北海道三笠市の住友奔別炭鉱生まれ
1972年 - 北海道岩見沢東高等学校卒業
1979年 - 東京藝術大学美術学部油絵科卒業
1982年 - 第40回ヴェネツィア・ビエンナーレ
1984年 - 東京藝術大学大学院博士後期課程満期退学
1987年 - ドクメンタ8、第19回サンパウロ国際ビエンナーレ
1992年 - ドクメンタ9
1993年 - 第2回リヨン現代美術ビエンナーレ
1998年 - 第11回シドニービエンナーレ
1999年4月‐2005年3月 - 東京藝術大学美術学部先端芸術表現科教授
2000年 - 越後妻有アートトリエンナーレ / 日本文化芸術振興賞受賞
2002年 - 第4回上海ビエンナーレ、釜山ビエンナーレ
2003年 - ヴァレンシアビエンナーレ
2005年 - 横浜トリエンナーレ総合ディレクター
2007年 - フランス国立高等美術学校教授
2013年 - 芸術選奨文部科学大臣賞受賞
代表作
アパートメント・プロジェクト、宝ハウス205号室
アパートメント・プロジェクト、大手門・和田荘
アパートメント・プロジェクト、スリップ・イン・所沢4
アパートメント・プロジェクト、テトラハウスN-3 W-26
工事中
PS1プロジェクト
スプイ・プロジェクト
デストロイド・チャーチ
比燕荘
プロジェクト・オン・ルーズヴェルト・アイランド
コールマイン田川
椅子の回廊
椅子たちの旅
東京プロジェクト
Sur La Voie(道ゆき)
ブリッジ&アーカイヴ
日下淳一
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
神奈川県横浜市出身。電飾スーツなど奇抜な衣装を着て、美術展のオープニングパーティーや街頭へ出没するパフォーマンスで知られる。

「服装は外観だけでなく、精神的にも影響を及ぼす」「着替えることにより、人は変わっていくことができる」と唱え、囚人服のイメージが強い白黒縞模様で仕立てたビジネススーツや花柄の建築土木作業服、赤い白衣など社会通念を覆すような「衣」を発表したり、「制服は没個性を誘引する」とし、アロハシャツの生地やフェイクファーで仕立てた学生服などを発表。

1986年 東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1988年 同大学院美術研究科修士課程(榎倉康二研究室)修了。

在学中、ピエロ・マンゾーニの影響を受け、箱作品の制作に没頭する。

1994年開催の「人間の条件」展(スパイラル/ワコールアートセンター、キュレーター:南條史生)で、日下は衣食住をテーマとする3部作を発表。以降「衣」作品を中心に制作発表する。

1995年、日下の「衣」作品に関心をもったアパレルデザイナーたちと「アイディーブティック」[3]と称するユニットを結成。2004年までアイディーブティックを名乗った。

船上茶会「水面の灯」@スマートイルミネーション横浜2017
2011年~、東日本大震災からの復興を目的として開催された「スマートイルミネーション横浜」に、全身が光るスーツを着用して参加。以降、毎年秋に開催される同イベントで参加アーティストとして光る作品を発表している。

2014年~、茶道具の制作を始める。茶杓、薄器、香合、花入、茶箱、銘々皿、仕覆、数寄屋袋など種類は多岐に及ぶ。また、スマートイルミネーション横浜では2015年以降、毎年茶会を開いている。クルーザーのキャビンやデッキで横浜港の夜景を見ながら行う船上茶会や電気自動車の荷室に茶席をしつらえ「ゼロエミッション」をテーマにした茶会が知られる。
代表作
フィードバックシリーズ
電飾打掛スーツ
工藤哲巳
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
日本の現代アート作家。大阪に生まれ、、少年期を父の出身地青森で暮らし、1945年に父が早世した後、母の郷里岡山で高校までを過ごした。本名は工藤哲美。

祖父は青森県長橋村村長、父は画家の工藤正義[1]。岡山県立岡山操山高等学校在学中に小磯良平に師事。東京藝術大学では林武に師事した。その在学中から、東京都美術館で開催されていた読売アンデパンダン展に出展し注目を浴びた。東野芳明は1960年(第12回展)に出展された工藤の『X型基本体に於ける増殖性連鎖反応』を評し最初に「反芸術」の語を用いている。

1958年、東京藝術大学油画科を卒業。1962年、渡欧、パリを中心にヨーロッパ各地で活動。1987年、帰国、東京芸術大学教授に就任。1990年11月12日、結腸癌のため東京都千代田区の三楽病院で死去。
代表作
あなたの肖像
危機の中の芸術家の肖像
人間とトランジスタとの共生
草間彌生
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
松本駅近くで種苗業を営む裕福な家に生まれ、幼いころから草花やスケッチに親しむ。その一方、少女時代から統合失調症(医学博士西丸四方が診断)を[要出典]病み、繰り返し襲う幻覚や幻聴から逃れるために、それら幻覚や幻聴を描きとめる絵を描き始める。草間は現在に至るまで水玉(ドット)をモチーフに制作する事が多いが(ドット・ペインティング(英語版))、これは耳なし芳一が幽霊から身を守るために全身を経で埋め尽くした様に、彼女が恐怖する幻覚や幻聴から身を守るために、作品全体を水玉(ドット)で埋め尽くす儀式でもある、とされる。

1945年(昭和20年)、大戦下に疎開してきた画家らが立ち上げた「第一回全信州美術展覧会」で並み居る顔ぶれの中16歳で入選。松本高等女学校(現:長野県松本蟻ヶ崎高等学校)を卒業後、京都市立美術工芸学校(現:京都市立銅駝美術工芸高等学校)の4年生最終課程に編入して日本画を学び、翌年卒業。後に役立つ絵画技法を身につけるが、旧弊な日本画壇に失望。松本の実家へ戻り、寝食も忘れ毎日数十枚以上を描き、没頭する。

1949年(昭和24)、京都市立美術工芸学校絵画科を卒業。

1952年(昭和27年)、地元の松本市公民館(旧:松本市公会堂)で2度の個展を開く。1度目の折、精神科医の西丸四方[注 2]が立ち寄り感銘し絵を購入。関東精神神経医学学会で紹介するほか、知人でゴッホ研究で有名な精神科医・式場隆三郎が、東京日本橋の白木屋百貨店などのつてを紹介し縁を得る。2度目の個展では師と仰ぐ松澤宥に賛助出品してもらい、パンフレットに松澤宥と懇意だった当時著名な美術評論家瀧口修造らの寄稿文も掲載される。西丸博士と瀧口は、その後生涯にわたるよき理解者となった。

1954年(昭和29年)から翌年にかけ、東京で4度の個展。白木屋百貨店ほか、瀧口の関るタケミヤ画廊でも個展。瀧口がニューヨークの第18回国際水彩画ビエンナーレへ彼女を紹介し、渡米の糸口を作る。この時期、素描のほかにコラージュなども量産している。

1957年(昭和32年)に渡米する。活動の中心をニューヨークに置き、ドナルド・ジャッドやジョゼフ・コーネルらと親しくなる。絵画のみならず男根状のオブジェを既製品にはりつけた立体作品やインスタレーションを始め、ハプニングと称される過激なパフォーマンスも実行、1966年にはヴェネツィア・ビエンナーレにもゲリラ参加し、1960年代には「前衛の女王」の異名をとった。平和・反戦運動にも携わる。1968年(昭和43年)、自作自演の映画『草間の自己消滅』が第4回ベルギー国際短編映画祭に入賞、第2回アン・アーバー映画祭(英語版)で銀賞受賞。また、第2回メリーランド映画祭でも受賞。

1973年(昭和48年)、親友でパートナーのジョゼフ・コーネルが死去した。草間は体調を崩し日本へ帰国、入院した。1978年(昭和53年)、処女小説『マンハッタン自殺未遂常習犯』を発表、1983年(昭和58年)、小説『クリストファー男娼窟』で第10回野性時代新人文学賞を受賞するなど小説家としての活動も行っている。小説もその芸術創作と主題がリンクしており、少女時代の幻視体験をモチーフにしたものもある。

草間の活動が再び活発になったのは1990年代初頭である。1993年(平成5年)、ヴェネツィア・ビエンナーレに日本代表として参加。世界的に再評価熱が高まった。2009年には正方形の絵画群である「わが永遠の魂」シリーズの作成を始める。同年にauのiidaブランドの端末をプロデュース、2012年にはルイ・ヴィトンとの共同コレクション(マーク・ジェイコブスによるディレクション)を発表するなど、商業分野での活動も盛んに行なっている。


YAYOI KUSAMA MUSEUM 草間彌生美術館(2018年)
「草間彌生美術館」(東京都新宿区弁天町)が2017年10月1日に開設された。館長には建畠哲が就任。

現在の取扱代理画廊は、1980年代からオオタファインアーツ、2007年からVictoria Miro Gallery(英語版) 、2013年からDavid Zwirner(英語版)である。

1957年(昭和32年)ニューヨークへ渡る。
1973年(昭和48年)体調を崩し日本へ帰国。
1996年(平成8年)国際美術評論家連盟(英語版)から2年連続でベストギャラリー賞を受賞する。
2000年(平成12年)第50回芸術選奨文部大臣賞、外務大臣表彰を受ける。
2001年(平成13年)朝日賞を受賞する。
2002年(平成14年)紺綬褒章を受賞する。
2003年(平成15年)リヨン・ビエンナーレに参加。同年、フランス芸術文化勲章オフィシエ、長野県知事表彰を受ける。
2004年(平成16年)大規模個展が日本を巡回。
2005年(平成17年)「草間彌生全版画集(1974年(昭和49年)~2004年(平成16年))」を阿部出版から刊行される。
2006年(平成18年)旭日小綬章。ライフタイムアチーブメント賞。高松宮殿下記念世界文化賞。
2009年(平成21年)10月、文化功労者に選出される。
2014年(平成26年)安吾賞を受賞する。
2016年(平成28年)文化勲章を受章する 。女性画家では四人目。
2017年(平成29年)「草間彌生美術館」が開館。
2017年(平成29年) 名誉都民
代表作
集合-1000艘のボート・ショー
南瓜
花咲ける妻有
赤富士
愛はとこしえ
宇宙や人類の生命のありか
黒とかげ
レモンシュカッシュ
自画像
かぼちゃ
鴻池朋子
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
秋田県秋田市生まれ。秋田県立秋田南高等学校を経て、1985年東京芸術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業。

玩具と雑貨のデザインに携わり、1998年より絵画、彫刻、パフォーマンス、アニメーション、絵本などの様々なメディアを用いて、現代の神話(動物が言語を獲得するまでの物語)を、地形や場とのサイトスペシフィックなトータルインスタレーションで表現。人間学/動物学、おとぎ話、考古学、民俗学などと学際的に対話を重ね、エネルギーと芸術の問い直しを試みている。

2015年個展「根源的暴力」では現在のアートの美術体系を超えた視点から、芸術の始まりに立ち戻り「つくる」すべてのことを言及した。

2016年『どうぶつのことば~根源的暴力をこえて』(羽鳥書店)を上梓。2017年、個展「根源的暴力 Vol.2」で第67回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。

2018年、個展「ハンターギャザラー」(秋田県立近代美術館)では、東北と北海道で害獣駆除される動物の毛皮を画材とし、人間のものづくりの“原型”となる「狩猟採集」をテーマに原型の再編成を試みた。

2014年からは人々の物語を聞き取りし手芸で縫い上げる「物語るテーブルランナー」プロジェクトを国内外で行い200点近い作品が制作されている。

2019年の瀬戸内国際芸術祭では、元ハンセン病療養所の大島青松園にて、昭和8年(1933年)に患者たちがつくり、その後長い間閉ざされていた1.5キロの山の道を復活し、新たな官能的な森の創作が継続されている。

2020年、第62回毎日芸術賞受賞。
代表作
寝室に降る雪
遭難 不時着する森
遭難 不時着する森(舟)
風蕭々と窓を鳴らし愁雨凄凄たる夜
月はしばらく雲に覆われる
隠れマウンテン
後の部屋
我が家の瞳孔の内に潜むもの
8合目 私は怒っているのではなく、助けてと叫んでいるのに
山頂
リングワンデルング
ドリームハンティンググラウンド
影絵灯籠
ツギハギ小屋の語り
Where the Wild Things Are
皮トンビ
古吉 弘
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
吉古弘の作品は、フェルメールなどが活躍した19世紀ヨーロッパ絵画の古典的な技法で描かれています。現代アートが主流の現代において、吉古弘は、写実的絵画作品を黙々と描き続けていました。国内では数多くの個展を開催し、実力のある画家として頭角を現していましたが、主に国内で活動していました。しかし、世界のオークションにデビューすると、その評価は非常に高く、予想価格をはるかに上回る落札額となりました。現代の日本人画家が、ヨーロッパの古典的な技法で写実的に描いていることが高く評価され、今、吉古弘は世界中から熱い視線を浴びています。

古吉弘は、1959年広島市に生まれました。1980年、京都芸術短期大学を卒業。在学時にはフェルメールなどが活躍したオランダ絵画の古典的な技法を今日に継承する青木敏郎に師事しました。1995年から2011年まで日本橋三越本店にて隔年で個展を開催するなど、国内で多数の個展を開催しています。2000年小磯良平大賞展入選、2009年アメリカ合衆国アート・リニューアル・センターグランプリ「ベスト・イン・ショウ賞」を受賞し、海外からの評価が高い画家です。現在もなお作品を発表し続けています。
代表作
CHAZ (I)
GRETA (I)
JULIAN (IV)
CAMPBELL
LOUCA(V)
MAYA (I)
SAMANTHA (III)
SAMANTHA
少女
MIKI版画
塩田千春
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
大阪府立造形高等学校(現・大阪府立港南造形高等学校)、京都精華大学美術学部(現・芸術学部)洋画科卒業。同大学在学中の1993年からオーストラリア国立大学(ANU)キャンベラスクールオブアートに交換留学生として留学。1年間の留学中にはすでに、《一本の線》という並行線のみの大規模なドローイングや、空間に「絵を描くように」糸を張った作品も制作していた。

1996年、ハンブルク美術大学(HfbK)に入学。1997年から99年まで、ブラウンシュバイク美術大学(HBK)にてマリーナ・アブラモヴィッチに師事。1999年から2003年までベルリン芸術大学(UDK)にてレベッカ・ホーンに師事する。

2000年より現在まで、世界各地で個展を行うほか国際展にも多数参加している。また、オペラなどの舞台美術も多数手掛けている。

2008年には、平成19年度 芸術選奨新人賞、平成19年度 咲くやこの花賞 美術部門受賞。

2015年には第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展で日本代表に選出され「掌の鍵」を日本館で展示した。

2018年は第4回水と土の芸術祭2018に「どこへ向かって」を出品。

2019年6月、25年間の活動を振り返る大規模個展「塩田千春展:魂がふるえる」を森美術館したことを明かしている。

2020年、第61回毎日芸術賞受賞。多摩美術大学大学院教授。
代表作
どこへ向かって
手の中に
不確かな旅
静けさの中で
時空の反射
内と外
集積―目的地を求めて
行くべき場所、あるべきもの
外在化された身体
白髪一雄
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
兵庫県尼崎市西本町に生まれる。生家は呉服商。尼崎市立第三小学校(現尼崎市立明城小学校)に入学。その後、新設された尼崎市立竹谷小学校に編入して卒業。兵庫県立尼崎中学校(現兵庫県立尼崎高等学校)の在学時に絵画部に入ったことがきっかけで画家を目指すようになる。京都市絵画専門学校(現京都市立芸術大学)日本画科を卒業後、油絵に転向。大阪市立美術研究所に学ぶ。

1952年、金山明、村上三郎、田中敦子らと0会結成。また、同年に結成された現代美術懇談会に参加。1955年、具体美術協会に参加。

1971年、比叡山延暦寺で得度。1999年、文部大臣から地域文化功労者を表彰。2001年、「白髪一雄展 "アクション・ペインター"の代表作展」(兵庫県立近代美術館)が開催された。

2008年4月8日、敗血症のため死去。83歳没。
代表作
陽華公主
臙脂
作品Ⅰ
タジカラ男(お)
作品B
須田一政
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
1940年、東京市神田区に生まれる。若い頃にはウィリアム・クライン、リチャード・アヴェドン、アーヴィング・ペンの写真集を洋書店で眺め、特にペンの作品を好んだという。1959年(昭和34年)に東洋大学法学部へ入学し、同大在学中より東京綜合写真専門学校の一期生らによるプロ・アマ写真家によって形成された「ぞんねぐるっぺ」に入会、写真の虜となった。1961年(昭和36年)、東洋大学を退学して東京綜合写真専門学校に入学、本格的な写真技術を学んだ。同校卒業後の1963年(昭和38年)、『日本カメラ』誌の月例コンテストで霊場恐山に旅した記録写真を『恐山』と題して発表、同誌の年間最優秀作家賞を受賞した。これによりアマチュア写真家として高い評価を受けていた須田であったが、家業を継ぐ為に写真家としての活動を休止する。

1967年(昭和42年)、寺山修司主催の劇団『演劇実験室 天井桟敷』が設立されると、寺山の戯曲を好んでいた須田が劇団のスタッフ募集広告を見て応募し、専属カメラマンとして採用される。これにより写真活動を再開することとなった。ここでは「一つのものに盲目的に向かうときの熱気を学んだ。」という。1971年(昭和46年)以降はフリーランスの写真家として活動の場を移し、全国各地を旅行して目に留まった様々な風情を写真に収めた。1975年(昭和50年)から2年間に亘り、『カメラ毎日』誌に不定期連載された6×6センチ判でプリントされたシリーズである『風姿花伝』は、1976年(昭和51年)に日本写真協会新人賞を受賞した。この受賞により須田は新進気鋭の写真家として世間に認められるようになった。1980年代中頃からは香港や台北といったアジア各地へも足を延ばすようになり、様々な題材を作品として発表した。ナガセフォトサロンで開催した個展「物草拾遺(ものくさしゅうい))」等により、1983年(昭和58年)に日本写真協会年度賞を、ドイフォトプラザ渋谷で開催した個展「日常の断片」等により、1985年(昭和60年)に第1回東川賞国内作家賞をそれぞれ受賞した。1996年(平成8年)には自身の写真活動の集成として、写真集『人間の記憶』を刊行する。これにより、翌年に第16回土門拳賞を受賞した。2013年(平成25年)にはマネキン人形を題材とした作品も制作している。同年には大規模な回顧展「凪の片(なぎのひら)」が東京都写真美術館で開催された。

須田は自主ギャラリーの平永町橋ギャラリーを主宰したり、「須田一政塾」と称するワークショップを行うなど、次世代の写真家の育成にも積極的であった。また、大阪芸術大学教授や『アサヒカメラ』誌の月例写真コンテスト(モノクロ部門)の審査員も務めていた。晩年は人工透析を受けながらも写真を撮り続けている。2019年3月7日、老衰により千葉市内の病院で死去した。78歳没。

現実と非現実の間に漂う一瞬を捉えたその作品は、1970年代からオーストリアやニューヨークなどでも紹介され、国内のみならず海外での評価も高い。主な作品集に『風姿花伝』(1978)、『わが東京100』(1979)、『紅い花』(2000)、『風姿花伝(完全版)』(2012)、『私家版・無名の男女』(2013)、『Early Works』(2014)、『Childhood Days』(2015)、『Rei』(2015)がある。

1940年 東京生まれ
1962年 東京綜合写真専門学校卒業
1967年(1970年まで) 演劇実験室 天井桟敷(寺山修司主宰)専属カメラマン
1971年 フリーとなる
1976年 「風姿花伝」により日本写真協会新人賞受賞
1983年 写真展「物草拾遺」等により日本写真協会年度賞受賞
1985年 写真展「日常の断片」等により第1回東川賞受賞
1997年 写真集「人間の記憶」により第16回土門拳賞受賞
代表作
風姿花伝
物草拾遺
紅い花
恐山へ
東京景
凪の片
杉本 博司
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
銀座美容商事という美容院専門商品の卸売商店の長男として生まれ、立教高等学校(現・立教新座高等学校)、立教大学経済学部卒業。夏は家族で伊豆の海に行くことが多く、その途中の真鶴あたりの東海道線の列車から初めて海を見た際に水平線の鋭さに衝撃を受け、この水平線を数万年前の人と同じように見ていることに思いをはせたという。立教中学では鉄道模型に熱中し、鉄道写真を通じて写真との関わりを始めた。このころ、オードリー・ヘップバーンに夢中になり、『ローマの休日』を上映中の映画館でカメラを構え、オードリーが映っているシーンの写真を大量に撮ってノートに整理している。立教大学では広告研究会に属してポスターデザインの制作を行った。

大学卒業後、1970年にロサンゼルスのアートセンター・カレッジ・オブ・デザインで写真を学んだ。この間、一旦帰国し、シベリア鉄道経由でヨーロッパを放浪し、ロサンゼルスへ戻る旅もしている。卒業後の1974年にニューヨークに移り、当初は写真家のアシスタントなどを続けたが、1975年から写真作家として生きる道を選び、自分のスタジオを構えた。翌1976年、ニューヨーク近代美術館の写真部門が当時週1回行っていた、写真作家が作品を持ち込みキュレーターが評価するという写真持込・面接の日に、最初のシリーズである『ジオラマ』シリーズの1枚を持ち込み、これが評価されて買い上げられるという栄誉を得た。以後、ニューヨーク州の奨学金やグッゲンハイム奨学金など、1年単位の奨学金を得ながら写真作品を制作した。奨学金が終了したので、生活のために日本の古美術品や民芸品を売る古美術商ギャラリー「MINGEI」を当時の配偶者・杉本絹枝と1978年秋にソーホーに開業し、ニューヨークと日本を往復しながら古美術品を買い販売する生活を10年ほど続けた。ギャラリー閉店後も古美術の取引自体は1997年まで続け、現在に至るまで日本の古美術の収集を続けており、日本の古美術・古建築・古典文学への造詣が深い。

1977年、東京の南画廊で初個展。1981年には、ニューヨークのソナベンド・ギャラリーで個展。現在の妻の小柳敦子が経営する東京銀座のギャラリー小柳に所属し、2001年には、ハッセルブラッド国際写真賞を受賞、欧米など世界各地の美術館で個展を開催している。また、内装や能舞台、神社など建築に関する作品も手掛けている。2017年10月9日、構想10年建設10年の複合文化施設「江之浦測候所」が、神奈川県小田原市に竣工した。子供のころに列車から海を見た思い出の場所の近くの、水平線を見渡す丘の上に、日本の様々な時代の様式の建築や石庭やローマ劇場のような舞台を作り、古美術コレクションのギャラリーや茶室なども設け、「古代人が思い描いた生命のビジョンを自身の思想をからめながら再現し、現代人が改めて感性を育み、人生の意味を考える場所」にしようとしている。

2009年に高松宮殿下記念世界文化賞、2010年に紫綬褒章、2013年にはフランス芸術文化勲章オフィシェを受章。2017年、文化功労者。
代表作
345 IONIAN SEA SANTA CESAREA
360 SOUTH PACIFIC OCEAN TEARAI
342 ADRIATIC SEA GARGANO
Paramount Theater, Newark 2015
370 MARMARA SEA SILIVLI
歴史の歴史「放電場 057」
歴史の歴史「金銅鍍金舎利容器」
Various Archetypes
357 IONIAN SEA SANTA CESAREA
Guggenheim Museum, NY
333 ARCTIC OCEAN NORD KAPP
331 TASMAN SEA NGARUPUPU
337 IRISH SEA ISLE OF MAN
365 BLACK SEA OZULUCE
363 BAY OF BISCAY BAKIO
菅木志雄
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
菅木志雄は岩手県盛岡市で生まれ、1964年から1968年まで、東京の多摩美術大学絵画学科で学んだ。多摩美在籍中にジャン・ボードリヤール、ジル・ドゥルーズ、西田幾多郎、ナーガールジュナ、ヴァスバンドゥの著作を読みふけった。

この時期に大学で教鞭をとっていた二人の作家が、菅に大きな影響を与えている。その一人である斎藤義重は、菅をはじめとする学生に、モダニズムと欧米を中心とする芸術理論に対し脱構築的アプローチをとることを促した。そして、菅に影響を与えたもうひとりの教師は芸術家・高松次郎である。高松はだまし絵のような絵と彫刻をもって、当時の東京アートシーンの中核をなしており、菅の初期作品は高松のアプローチを反映しているといえるであろう。

1968年、 椿近代画廊(東京)での初個展に出展した《転移空間》は、赤く塗装した木材を使った自立する作品だが、箱が自らの重みで崩れていくような錯覚を見る者に与える。
視覚を操作する絵画や立体作品の制作と同時期に、菅は様々な素材を使った創作活動をはじめる。一例は、おがくず、綿、灰、プラスチックの粉末、土の層、が透明なアクリルの箱に入った《積層空間》(1968年)という作品である。

1968年後半には、素材、はかなさ、空間の探求が広義のムーブメントとして認識されるようになった。例えば、この時期に李禹煥は、初めて石と鉄板を配置した作品を発表している。また、関根伸夫は、神戸の須磨離宮公園で行われた第一回野外彫刻展で、地下2.7m、直径2.2mの円柱型の穴と、掘り起こした土をさらに同じ大きさで固めた土からなる《位相―大地》という作品を発表している。

1973年までに、菅木志雄、李 禹煥、関根伸夫、及び小清水漸、吉田克朗、榎倉康二は「もの派」として知られるようになった。

菅は、ものの現実と状況の相互依存に焦点をあてる行為を「放置」と呼び、「放置」という言葉を用いて自身の考えを述べるようになる。そして、「状況」の探求と存在の「アクティベーション」を進める中で、もの派のアプローチを象徴するような数々のインスタレーションの制作に取り組むようになる。

主なものに以下の作品がある。

《状況律》(1971年): 10個の平らな石を20mの長さのガラス上に配置し、それを山口県宇部市常磐公園の池に浮かべた作品である。
《等間体》(1973年): 壁に立てかけられた2本の分岐した枝先が、床に置かれた石に結ばれたロープを4点で支えているインスタレーション作品である。

《多分律》(1975年): 複数のコンクリート柱の上に、透明なプラスチックのシートが広げられ、それぞれの柱の上に石を乗せた作品である。

菅は、サイトスペシフィックなインスタレーション以外にも、壁や床に展示する小規模なアッサンブラージュ作品をたびたび制作している。素材を、縛る、結ぶ、積み重ねる、切る、貼付ける、塗る、テープで留める、くさびを打つ、立てかける、剥ぐ、釘をうつ、ねじでとめる、彫る、折る、たたむ…といった多様な行為によって、菅は作品を形作っている。
代表作
PROTRUSION #279
細空
補われた素材-52
周合離中
分間集立
側の界枝
Surroundings(周囲)
草地の縁状
田中功起
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
1975年、栃木県益子町生まれ。1998年、ウィーン芸術アカデミー短期留学。2000年、東京造形大学美術科絵画専攻卒業。2005年、東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了。ポーラ美術振興財団の助成を受けパリに滞在。2009年、文化庁新進芸術家海外研修制度によりロサンゼルスに留学。2013年、ヴェネツィア・ビエンナーレ日本代表。
代表作
秋の水鏡
Butterfly Flower 花蝶
10月の景色
紅い花
Effect 15
HANANOTAKI-II
Effect 17
神の島に続く空
雪の夜のあまいひみつ
碧のむこうに ~円形Ⅲ~
Untitled
ryoku
田中敦子
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
大阪府出身。1951年(昭和26年)、京都市立美術大学(現在の京都市立芸術大学)中退の後、大阪市立美術館付設美術研究所に学ぶ。同研究所に通っていた金山明の助言により抽象画に興味を持つようになる。1952年(昭和27年)、金山明、白髪一雄、村上三郎らと「0会」結成。1953年(昭和28年)から1955年(昭和30年)頃は、布に数字を書き、一旦裁断し再びつないだ作品を作る。

1955年(昭和30年)、吉原治良が主導する具体美術協会に金山明、白髪一雄、村上三郎らと共に入会。同協会の主要メンバーになる。同年、壁際の床に2メートル間隔で置かれた20個のベルが順に鳴り響く作品「ベル」を発表。1956年(昭和31年)、電球と管球を組み合わせ明滅する光の服に見立てた「電気服」(高松市美術館が再制作品を所蔵)を発表。翌年の1957年(昭和32年)、大阪市の産経会館で開催された「舞台を使用する具体美術」展で、田中は実際に舞台で着用しパフォーマンスをし、話題を集めた。1965年(昭和40年)、具体美術協会を退会。

絵画作品は、「電気服」などのオブジェと同様、色彩豊かな円と曲線が絡み合う前衛的作風で知られ、1993年には第45回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品、2001年(平成13年)は芦屋市立美術博物館と静岡県立美術館でそれぞれ大規模な個展を開き、絵画とオブジェで独特の精神世界を表現するなど国際的な評価を得ている。

奈良県明日香村のアトリエで絵画の制作を続け、ギャラリー HAM等で発表をしていたが、2005年(平成17年)12月3日、肺炎のため奈良市の病院で死去した。73歳。夫は画家の金山明。
代表作
To New York-Vancouver
Work
89a
89m
77R-'84
1980 - D4
Gate of Hell
Electric Dress
束芋
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
三人姉妹の次女として育つ。3歳の時に大阪府に転居。陶芸家である母の志音に姉妹と共に連れられ展覧会を巡り、絵筆を持たされた。6歳の時、束芋が毛筆で描いた仏画が母の手によって家に飾られ、6歳児の作とは思えないその出来映えで訪れた人を驚嘆させたという。

中学2年生の時、独学で陶芸の修行中だった母の独立に伴い兵庫県内の窯付きの家に転居した。中学校まではさほど勉強しなくとも好成績を保っていたが、1991年に西宮市立西宮高等学校理数コースに入学後は成績を落とす。3年生の夏、薬剤師を目指して薬科大学を志望するも、成績が芳しくなかったために美大志望に切り替える。1994年、京都造形芸術大学芸術学部日本画コースを受験したが不合格。宝塚の受験用の画塾に姉妹と共に通う。

その後、京都造形芸術大学芸術学部情報デザイン学科に推薦入試で落ち、一般入試でも不合格となるも補欠で合格、田名網敬一に師事した。最下位で入学したが、大学を出るときは絶対に一番になると決心したという。大学卒業後は広告代理店でグラフィックデザイナーとして働くつもりで就職活動を始めたが、履歴書に書ける内容が無い事から、何か賞を取って就職活動の武器にするつもりで制作に没頭し、卒業制作の「にっぽんの台所」で学長賞を受賞した。さらに1999年のキリンコンテンポラリーアワードの最優秀賞を受賞し、本作がデビュー作となる。そのため就職活動は休止し、制作に一旦専念することを決めた。

2001年、平成12年度咲くやこの花賞(美術部門)を受賞。2002年、26歳で出身校である京都造形芸術大学情報デザイン学科の教授に就任するも、「教授」という名称と自己の立場とのギャップに苦しみ後に辞任。同年、第13回五島記念文化賞美術新人賞を受賞。

2003年春からロンドンで1年間の研修生活を送り、グラフィックデザインを勉強する。そこで、グラフィックデザインの仕事は自分には出来ないと感じ、就職活動の再開を断念。2004年に第23回京都府文化賞奨励賞を受賞。また同年、第4回「詩のボクシング」全国大会のジャッジを務めた。

2005年にはニューヨークで個展を開催。同年、第12回日本現代藝術奨励賞を受賞。2006年、朝日新聞夕刊連載小説「惡人」(吉田修一)の挿絵を担当した。読者からは、意表を突くその色彩、絵柄が話題となった。同年10月から2007年2月、パリのカルティエ現代美術財団にて個展「TABAIMO」展を開催した。同年、ヴェネツィア・ビエンナーレのイタリア館の企画展に、招待作家としてドールハウスをモチーフにした作品「dolefullhouse」を出展した。2011年、「束芋:断面の世代」で芸術選奨新人賞美術部門受賞。
代表作
にっぽんの台所
にっぽんの横断歩道
ユメニッキ・ニッポン
にっぽんの湯屋(男湯)
にっぽんの通勤快速
にっぽんの御内
ユメニッキ・ニッポン
お化け屋敷
hanabi-ra
ギニョる
真夜中の海
ギニョラマ
公衆便女
FURO
土屋仁応
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
東京芸術大学美術学部彫刻科卒業後、同大学院美術研究科文化財保存学専攻にて仏教美術の古典技法と修復を学んだ。2007年に同専攻博士課程修了。その後仏教美術の技術を応用し、檜や樟を素材に水晶などの玉眼を施した木彫作品を発表。馬や羊などの実在の動物やユニコーンや麒麟、人魚などの幻獣をモチーフとした幻想的な作風であり、書籍装幀にも起用されている。

2007年 - ギャラリーイヴにて個展。
2008年 - 十和田市現代美術館 にて企画展示 「ワッと!どうぶつ What? アート展」参加。
2009年 - 日本橋高島屋美術画廊Xにて個展『深井隆プロデュース シリーズ 彫刻//新時代vol.3 土屋仁応展』開催。MEGUMI OGITA GALLERYにて個展『夢をたべる獏が夢みる夢』開催。
2010年 - 北海道立近代美術館にて特別展 「創造と回帰 現代木彫の潮流」参加。
2011年 - MEGUMI OGITA GALLERYにて個展『私的な神話』開催。
2011年 - 横須賀美術館にて 企画展 「集まれ!おもしろどうぶつ展」参加。
2012年 - MEGUMI OGITA GALLERYにて個展『聞耳の森』開催。
代表作
子犬

ネッシー
ぶた
千住 博
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
日本画の存在やその技法を世界に認知させ、真の国際性をもった芸術領域にすべく、絵画制作にとどまらず、講演や著述など幅広い活動を行っている。自然の側に身を置くという発想法を日本文化の根幹と捉え、自身の制作活動の指針としている。
大学卒業後の1980年代後半は、主として風景をモチーフにして絵を描く。「東京育ちのため、新潟の山並みに全部違う木が生えていたのを見て、初めは植えられたのだと思った。しかし人から自然に生えているということを教わり、本当に驚いた。必然的にそこでビルのテーマが終り、風景へと向かうようになりました。」と語っている[10]。

1993年に発表した『フラットウォーター』に至る経緯として、「(大学を卒業後)ビルじゃない何かを描かなければいけないと思いながらも、しかし、それが何なのか分からない。焦りを感じつつ、そんな状態が約10年ぐらい続いていました。奈良の古寺からパプアニューギニアまで、本当に手当たり次第、何でも描きました。その中で最終的にハワイのキラウエア火山の溶岩が海に流れ込む『フラットウォーター』へ至り、さらに『滝』に出合った。そこで時間表現という私のテーマが整理整頓された」と語っている[10]。『フラットウォーター』を発表した1993年6月、ニューヨークのマックスウェル・デビッドソン・ギャラリーでの個展が好評を博し、ニューヨークの美術誌『ギャラリーガイド』の表紙を飾る。

1995年のヴェネツィア・ビエンナーレに出品した『滝』は縦3.4メートル、横14メートルの大作で、題名は『THE FALL』だった。滝の意味ならば『THE FALLS』となる。『THE FALL』というのはアダムとイヴが楽園を追放されたという「墜落」の意味だと語っている[5]。日本館は隈研吾の会場設計のもと、館内全域に水を張り、すべての作品が水面に反射するという会場構成だった。床に水を張る工事を請け負った現地作業員の仕事が、ガスバーナーなどを作品のすぐそばで使用するにもかかわらず、かなり大雑把だったため、作業員の不注意によって溶けたコールタールが滝の絵に付着した。その場にいた千住は、画面に付着したコールタールをとっさに左の素手で取り払って大火傷を負い、救急病院で治療を受ける事態となった。幸いにも利き手の右手が無傷だっため、無事修復作業を終え、初日を迎えることが出来た。6月10日の授賞式では、手に白包帯の姿で名誉賞の金色の楯を受け取っている[5]。

1997年、大徳寺聚光院別院全襖絵の制作を大徳寺聚光院から依頼される。どんなに時間がかかってもいいから、と30代のまだ若い作家に依頼する聚光院の姿勢に恐れ入ったと語っている。また、自分を推薦した松井力に大変感謝しているという[1][11]。

2003年、大徳寺聚光院別院のために描いた襖絵が「大徳寺聚光院の襖絵展」として東京国立博物館で日本で公開された。制作の様子はNHKテレビで『77面の宇宙』として放映された。制作を通して自分の限界をたびたび思い知らされたが、これに打ち克つ方法は、自分の過信を正し、本当の実力が如何ほどかを認め、正面からこれに立ち向かうことだったと語っている[2]。

2003年、六本木のグランドハイアット東京の3階ホワイエに、幅25メートルの白黒の滝の作品を完成させる。オーナーである森ビルの森稔社長(当時)に「好きにしなさい」と言われ、「それでは」と言って本当に好きに制作させてもらった作品だと語っている。会場構成はインテリアデザイナーの杉本貴志[2]。

2003年秋、ニューヨーク・メトロポリタン美術館の主任研究員を務めている小川盛弘から、1954年に戦後の日米友好関係の再構築を願う官民あげての努力により、日本からアメリカへの贈り物として、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の中庭に建造、展示された「松風荘」という日本建築の襖絵の制作を依頼される。「松風荘」は設計が吉村順三、第11代伊藤平左エ門により施工された書院造りの純日本建築。「松風荘」はMoMAの中庭で1954年から2年間で25万人が見学するほどの好評を博した後、フィラデルフィアのフェアモントパークに移転された。1976年、米国生誕200年祭を機に、フィラデルフィア市からの依頼に応じ、「松風荘」は日本からの基金によって修復工事が行われた。千住は20面に及ぶ全作品とその著作権を寄贈することを小川に伝え、襖絵の制作を引き受ける。

2004年、東京国際空港第2ターミナルの到着ロビーに幅14メートルの『朝の湖畔』、空港ショッピングモールの天井に畳60畳の天井画、空港エスカレーターホールの上には縦6メートル、横18メートルの和紙を用いた立体作品を制作する。建築家シーザー・ペリの信頼と日本空港ビルデングの門脇邦彦社長(当時)のバックアップの下、満足の行く仕事が出来たと語っている。この空港ターミナルのアートワークの仕事を依頼されたのは、ちょうど大徳寺聚光院別院の襖絵を終えたばかりの頃で、休む間もなくこの仕事に取り掛かることになったが、むしろそれで良かったと語っている。

2007年、「松風荘」の襖絵が完成する。これにちなみ、フィラデルフィア市が2007年4月27日をHiroshi Senju Dayと制定し、毎年フィラデルフィアでこの記念日の近辺に講演会が開催される。同年、京都造形芸術大学学長に就任する。2013年3月まで3期6年務める。

2009年、ベネッセアートサイト直島の「家プロジェクト」に参加、全長15メートルの「空(くう)の庭」という崖の作品を完成させる。崖の背景にはあえて銀を使用した。それは銀が経年変化で黒変していくためで、時間が作品を少しずつ変えていき、去年見た作品と今年見る作品では別の作品になっていくという「無常観を視覚化したもの」であると語っている。銀の使用については尾形光琳の「紅白梅図屏風」からヒントを得たと語っている。

2010年、APEC JAPAN 2010の会場構成を担当し、各国首脳が自分の絵の前で首脳会議を開き、その映像が広く世界に流れた。当時内閣総理大臣だった菅直人が、晩餐会のスピーチで全世界の首脳に自分を紹介してくれたことは、生涯忘れられない名誉なことだったと語っている[2]。同年、東京国際空港国際線ターミナルのアートディレクションの一環として『ウォーターシュライン』と題する全長18メートルの滝の作品を制作する。作品は国際線の検疫、入国審査前の壁面に設置されている。清く美しい水のイメージを通して日本を世界に伝えていこうとするものと考えている。

2011年、軽井沢千住博美術館がオープンする。同年、水戸岡鋭治とともにアートディレクションを担当したJR博多駅がオープンする。公募により集まった3万点にのぼる一般市民が描いた葉や花、鳥の作品を、千住が描く木の枝で一つにまとめ、陶板のタイルに焼き付けるという巨大なアートプロジェクトである。

2013年、大徳寺聚光院に新しく増築された大書院等に、襖28面と床の間2ヶ所にわたる障壁画を完成する。完成までに10年の月日を費やした。1979年に『モナリザ』がルーブル美術館から貸し出されて日本で公開された際、『モナリザ』と引き換えにルーブルに渡った狩野永徳の国宝『花鳥図』はどこからどう見ても完璧に近く、千住は自分が依頼された大書院の襖絵が、廊下一本隔てただけで狩野永徳の国宝作品と接することの重圧に長い間苦しんできたと語っている。

1958年1月7日 東京都杉並区に生まれる。
1964年 慶應義塾幼稚舎に入学。
1970年 慶應義塾普通部に入学。
1974年 慶應義塾高等学校に入学。
1978年 東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻に入学。
1982年 東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業。
1984年 東京藝術大学大学大学院修士課程修了。修了制作東京藝術大学買上。
1987年 東京藝術大学大学院博士課程単位取得満期退学。修了制作東京大学買上。
1988年 ガレリアフォルニ(ボローニャ・イタリア)にて個展
1989年 オーストラリア・シドニーにあるマンリー市立美術館で個展。「ジ・エンド・オブ・ザ・ドリーム」を発表。
1990年 神奈川県立近代美術館で「収蔵作品による近代日本画の歩み展」に参加。
1993年 ニューヨークの美術誌「ギャラリーガイド」の表紙に選出される。ニューヨークのマックスウェルデビッドソンギャラリーで個展。「Flatwater」を発表。
1994年 山中湖高村美術館で 個展「千住博1980-1994展」。「星のふる夜に」に対し第4回けんぶち絵本大賞を受賞。第7回MOA岡田茂吉賞絵画部門優秀賞受賞。
1995年 創立100周年のヴェネツィア・ビエンナーレ絵画部門にて名誉賞を東洋人として初めて受賞。台湾台北市美術館で開催された「千住博展」はピカソに次いで2人目の会期延長となった。
1996年 彫刻の森美術館で個展。「千住博 Waterfalls & Glasses」展。
1997年より大徳寺聚光院の襖絵制作にとりかかる。
1998年広島市現代美術館収蔵「八月の空と雲」に対し紺綬褒章受章。
2000年 「ライフ」に対し河北倫明賞受賞。
2002年第13回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞受賞。同年ニューヨークのジャパンソサエティーとアジアソサエティーで行われた「ニューウェイオブティー」展に参加[12]。同年韓国ソウル国立現代美術館で行われた「水墨の香り」展に参加。
2003年 大徳寺聚光院別院襖絵完成。東京国立博物館で一般公開。 グランドハイアット東京に高さ3メートル横幅25メートルの滝の壁画を制作。
2005年 第44回ミラノサローネ「レクサス・Lフィネス」にコラボレーションアーティストとして参加。アートディレクションと絵画を担当。福岡アジア美術館で個展「大徳寺聚光院別院襖絵七十七枚の全て」展を開催。
2006年 フィラデルフィア松風荘襖絵(ウォーターフォールシリーズ)完成。光州ビエンナーレ出品。ジャガー・ルクルト「レベルソ」誕生75年を記念した特別限定モデルの文字盤をデザインする。
2009年 ベネッセアートサイト直島・家プロジェクト参加。
2010年 APEC2010首脳会議の会場構成担当。2011年成都ビエンナーレ出品。
2011年までに東京国際空港(羽田)第1、第2、国際線ターミナルのアート・プロデュース/ディレクションを担当。アートディレクションを担当したJR九州博多駅が完成。「軽井沢千住博美術館」開館。
2013年 大徳寺聚光院京都本院の襖絵全てが完成。
2014年 オペラ『夕鶴』の舞台美術を担当。
2015年 第56回ヴェネツィア・ビエンナーレ「Frontiers Reimagined」展出品。シャンパーニュ委員会日本事務局より第7回ジョワ・ド・ヴィーヴル賞を作曲家の千住明、ヴァイオリニストの千住真理子と共に兄妹で受賞。故宮博物院南院プロジェクト完成(中華民国 台湾)。高野山真言宗総本山金剛峯寺の主殿2部屋の襖絵の制作を手がけることが決定。
2016年 3月1日から大徳寺聚光院創建450年を記念して、奉納した襖絵を狩野永徳の国宝障壁画、重要文化財の茶室「閑隠席」とともに2017年3月26日まで特別公開。薬師寺東院堂にて予備校時代の師・武田成功のガラス作品と「水と光の幻想」展。平成28年度外務大臣表彰受賞。
2017年 第4回イサム・ノグチ賞受賞。
2018年 「高野山金剛峯寺 襖絵完成記念 千住博展 ―日本の美を極め、世界の美を拓く―」 を開催。2020年高野山金剛峯寺へ奉納する襖絵を、奉納に先駆けて展覧会で紹介。(巡回会場:富山県美術館、鶴岡アートフォーラム、秋田市立千秋美術館・秋田県立美術館、そごう美術館、北九州市立美術館分館、神戸ゆかりの美術館・神戸ファッション美術館、愛媛県美術館を巡回。)JCCIより日米特別功労賞(Eagle on the World Award)受賞。
現在、京都造形芸術大学大学院教授。2007年より2013年3月まで京都造形芸術大学学長を務めた。
代表作
ザ・フォール
大徳寺聚光院伊東別院襖絵
石橋
ザ・フォールズ
空(くう)の庭
天明屋 尚
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
天明屋尚は画号ではなく本名である。

レコード会社のアートディレクターなどを経た後、現代アート作家として活動している。

神話に登場する土着の荒神・国津神、南北朝期の婆娑羅、戦国末期の傾奇者、幕末の奇想絵師といった、日本のストリートに連綿と根づいてきた華美にして破壊的な美の系譜を「BASARA(ばさら)」と総称した独自のコンセプトにより作品を制作している。

2003年第6回岡本太郎記念現代芸術大賞展 優秀賞受賞。

2003年7月4日『ニューヨーク・タイムズ』紙アート欄の一面全面カラーで天明屋尚作「武闘派列伝 刺青マンの戦い」が掲載される。

2006年サッカーW杯ドイツ大会FIFAワールドカップ公式アートポスターでは、日本代表作家として唯一選出された。アンドレアス・グルスキー(ドイツ)、ルオ・ブラザーズ(中国)、サラ・モーリス(イギリス)など。

2006年6月ドキュメンタリー映画「≒天明屋尚」公開。渋谷を皮切りに順次全国映画館にて公開される。その後、DVD発売。

2008年に「RX-78-2 傾奇者 2005 Version」が、香港で開催されたクリスティーズのオークションで競売に掛けられ481万香港ドル(約6400万円)で落札された。他の作品も数千万単位で落札され、国際的に高い評価を獲得している。

2010年国際美術展である第17回シドニー・ビエンナーレに参加。

2010年8月に書籍『BASARA』と合わせてBASARA展を開催し、初の主催・企画・キュレーションをする。

2012年7月から2013年8月まで、コマーシャル・ギャラリー「TENGAI GALLERY」をプロデュース。

2014年1月からTENGAIプロジェクト始動。

2019年1月からTENGAIプロジェクトの活動拠点をギャラリーMUMONにシフト。
代表作
Japanese Spirit シリーズ 全15点
漢字紅葉図具羅富異帝杉戸絵 2連作
反骨諷刺絵巻、武闘派列伝シリーズ 全22点
現代日本若衆絵図 鎌倉 九人の侍
白虎
ネオ千手観音
ネオ千手観音[那羅延堅固王、密迹金剛力士]
神風(2003年)
新形百物語シリーズ 全10点
新形六怪撰シリーズ 全6点
蹴球之図[2006 FIFAワールドカップ公式アートポスター]
BUNSHIN
RX-78-2 傾奇者 2005 Version
イコン伝達装置 -本質の消失によるフォンタナ的考察 2連作
龍神来迎図
闘魂
鎧袖一触 容貌魁偉 英姿颯爽
思念遊戯
戸谷成雄
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
長野県生まれ、埼玉県在住。1975年愛知県立芸術大学大学院彫刻専攻修了。1974年に初個展を開催し、1984年から「森」シリーズ、1994年から「《境界》から」シリーズ、2000年頃から「ミニマルバロック」シリーズなど発表。チェーンソーで木材を削ることで成形する彫刻作品を手がけてきた。ポスト・ミニマリズム、もの派以降解体された「彫刻」の再構築と新たな可能性を探る戸谷の作品は、彫刻の定義や構造を骨組みとして提示しつつ、作家によって提示された概念である「表面」「境界」「関係」「影」「存在」といった問題に切り込んでいる。
代表作
「森」シリーズ
「《境界》から」シリーズ
「ミニマルバロック」シリーズ
堂本尚郎
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
1948年(昭和23年) - 第4回日展において、「畑のある風景」で初入選
1949年(昭和24年) - 京都市立美術専門学校(現:京都市立芸術大学)日本画科卒業
1951年(昭和26年) - 第7回日展特選
1955年(昭和30年) - 渡仏、グラン・ショーミエールで油画を始め、アンフォルメル運動に参加する。その後独自の抽象画へ発展する。
1979年(昭和54年) - シャトー・ムートン・ロートシルト のラベルデザインを担当する。
1983年(昭和58年) - フランス政府より芸術文化勲章シュヴァリエ章を受章
1994年(平成6年) - 紫綬褒章を受章
1996年(平成8年) - フランス政府よりレジオンドヌール勲章シュヴァリエ章を受章
2001年(平成13年) - フランス政府より芸術文化勲章オフィシエ章を受章
2007年(平成19年) - 文化功労者
2013年(平成25年)10月4日 - 急性心不全のため死去。85歳没。
代表作
眼(双生)
日曜日のシャルトル
魚の店
絵画
グリーン
ピンク
作品 60-2
[無題]
二元的なアンサンブル
絵画1961-No.17
1962-26
連続の溶解
二元的なアンサンブル
連続の溶解 64-10
連続の溶解
惑星W
惑星R
惑星B
双生
中西夏之
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
1935年、東京市品川区大井町生まれ。1954年、東京都立日比谷高等学校卒業。同窓に作家の坂上弘・文芸評論の権田萬治などがいる。1958年、東京藝術大学絵画科(油画専攻)を卒業。大学時代の同窓に高松次郎・工藤哲巳・磯辺行久など。1959年、シェル美術賞で佳作を受賞した。

1962年、高松次郎・川仁宏らと共に、山手線のホームや車内で卵型のコンパクトオブジェを用いた「山手線事件」のハプニングを行い、翌1963年、第15回読売アンデパンダン展に《洗濯バサミは攪拌行動を主張する》を出品、時代を代表する作品となる。同年、高松次郎・赤瀬川原平らと「ハイレッド・センター」(高・赤・中)を結成し、銀座の街頭や画廊などで日常に懐疑を突きつける多くのイヴェントを実践した。

1960年代から舞踏家の土方巽と交流をもち、周辺の瀧口修造や澁澤龍彦、シュルレアリスム系の画家や詩人たちと親交するほか、1965年、暗黒舞踏派公演『バラ色ダンス~澁澤さんの家の方へ』、1968年、『土方巽と日本人―肉体の叛乱』で主要な舞台美術・装置を手がけ、笠井叡や山海塾らとも協働を重ねる。近年はフランス・リヨン国立歌劇場でのペーター・エトヴェシュ作曲、天児牛大演出によるオペラ作品(『三人姉妹』(1998年)、『更級夫人』(2008年))などでも舞台美術を担当した。

初期には、砂を用いた絵画《韻》、連作廃品を溶接した《内触覚儀》、アクリル樹脂で身辺の事物を封じ込めたコンパクトオブジェなど物質的な要素の強い作品を制作し、1960年代以降も《正三角儀》や《山頂の石蹴り》など、幾何学的かつ身体感覚を強く反映した作品が多い。

1960年代後半からは「絵画」の制作を主軸とし、特に1970年代から、白、紫、黄緑といった色を基調とする、油彩の平面作品を発表。作家と現実空間との緊張関係を主題にした思考性の強い作品を数多く制作。現在まで精力的な取り組みを見せている。

1995年の神奈川県立近代美術館での個展以来、インスタレーション「着陸と着水」シリーズが続いている。

1996年より2003年まで東京藝術大学にて美術学部絵画科油画専攻教授を務めた。

2004年から2007年までは倉敷芸術科学大学で教授を務めた。

2016年10月23日、脳梗塞のため死去した。81歳没。
代表作
コンパクト・オブジェ

エマンディタシオン
l*字型‐左右の停止‐
2・1・2・3柵型四群一瞥と擦れ違い
汐留のための『4ツの月』
中村政人
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
村上隆と共に「中村と村上」展や「大阪ミキサー計画」などを活動を展開した後、コンビニの看板を作品化したシリーズやマクドナルドのMサインを作品化するなど、作品展開を進め、1998年よりアーティスト・イニシアティブ「コマンドN」を主宰。「氷見クリック」(富山県氷見市)、「ゼロダテ」(秋田県大館市)、「アーツ千代田3331」(東京都千代田区)などの社会芸術家である。

1963年 - 秋田県大館市に生まれる。
1987年 - 東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻を卒業。
1989年 - 東京芸術大学大学院美術研究科絵画専攻壁画を修了。
1992年 - 大韓民国政府招待奨学生として、弘益大学大学院西洋画科修士課程卒業。
2003年 - 東京芸術大学美術学部助教授。(2007年 - 同准教授)
代表作
QSC+mV
奈良 美智
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
青森県弘前市で出生後、青森県立弘前高等学校卒業まで弘前市で育つ。武蔵野美術大学を1年で中退して、1981年に愛知県立芸術大学美術学部美術科油画専攻に入学し、1985年に卒業、1987年に同大学大学院修士課程を修了した。

河合塾千種校美術研究所講師を経て渡独、1988年ドイツ国立デュッセルドルフ芸術アカデミー(Kunstakademie Düsseldorf)に入学、A.R.ペンク(A. R. Penck)に師事し1993年にマイスターシュウラーを取得し、アカデミーを修了した。1994年から2000年まではケルン近郊のアトリエを拠点に作品を制作した。1998年にカリフォルニア大学ロサンゼルス校にて非常勤客員教授を村上隆と共に3か月間務める。1995年には名古屋市芸術奨励賞を受賞した。

2000年にはドイツでの12年間の生活を終え帰国した。 2001年には日本における大規模な個展「I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」を横浜美術館で開始し、広島市現代美術館や吉井酒造煉瓦倉庫(弘前市)など開始国内の5ヶ所の美術館を巡った。 2005年からは土地が安いという理由で東京近郊の田園地帯に移転している。2006年度に武蔵野美術大学客員教授を務めた。2010年には米文化に貢献した外国出身者をたたえるニューヨーク国際センター賞を受賞。アジア人としてはヨー・ヨー・マに次ぐ受賞であった。2013年には芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。 2013年以降は Blum & Poe、Pace Gallery(英語版)で発表している。

音楽が好きで、作品制作も音楽を流しながら行う。少年ナイフ、bloodthirsty butchers、THE STAR CLUB、マシュー・スウィート、R.E.M.のCDジャケットを手がけており、ニルヴァーナのカート・コバーンを模したと思われるキャラクターやthee michelle gun elephantのCDジャケットをパロディー化した作品を描いたりしている。60~70年代の洋楽にも詳しく、マイナーレーベルのSSWやロック、またルーツミュージック(特にトラッドなどの白人ルーツミュージック)にも造詣が深い。手作りの小屋の内側を中学、高校時代に聴いていたレコードジャケットで埋めた作品もある。ミュージシャンとの交流も多くニューヨークでの展覧会オープニングにYO LA TENGOやデボラ・ハリーなどが来ている。

一人で作品制作を行ってきた奈良であるが、 「Yoshitomo Nara + graf A to Z」ではクリエイター集団「graf」と共同作業で展示会場作りからの創作活動の旅を行った。台湾、韓国、横浜へと移動したその展覧会の様子は、ドキュメンタリー映画 『NARA:奈良美智との旅の記録』(監督 坂部康二)として2007年に劇場公開され、後にDVDとして発売された。

カレーライスが好物で、2001年に漫画『おごってジャンケン隊』(現代洋子)にゲスト出演した際、当時のアトリエの近所にあるCoCo壱番屋をお薦めの店として挙げている。また、最近では松屋にもよく通っているとTwitterで述べている。

東北地方太平洋沖地震に関する活動の一つとして宮城県で開催されているARABAKI ROCK FEST.に2011年から連続して参加している。
代表作
fuckin’ politics!
Cosmic Eyes
ナイフ・ビハインド・バック(2000)
dead of night(2004)
あおもり犬(2006)
名和晃平
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
1975年 - 大阪府高槻市生まれ。
1998年 - 京都市立芸術大学美術学部美術科彫刻専攻を卒業。
2000年 - 京都市立芸術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了。
2003年 - 京都市立芸術大学大学院美術研究科博士(後期)課程彫刻専攻修了 博士号(美術)取得。
2004年 - 咲くやこの花賞 [美術部門](大阪市)
2005年 - アジアン・カルチュラル・カウンシルの助成によりニューヨークに半年滞在,京都市芸術文化特別奨励者。
2006年 - ダイムラー・クライスラー・ファウンデーション・イン・ジャパンによる,文化・芸術支援活動プログラム「アートスコープ」に参加 ベルリンに3ヶ月滞在。
2007年 - 京都府文化賞 奨励賞
2008年 - 六本木クロッシング2007(森美術館) 特別賞
2010年 - 京都造形芸術大学大学院特任准教授、総合造形コース主任に就任。
2016年 - アーティストの清川あさみと結婚[2]。10月18日、第1子男児誕生。
2017年 - 日本プロ野球パシフィック・リーグの2代目優勝トロフィーの制作プロデュースを担当。
代表作
PixCell
Black Field
Trans
Dune
Blue Seed
Silhouette
Catalyst
Moment
Rhythm
長谷川 潔
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
銀行家であった長谷川一彦の長男として神奈川県横浜市に生まれた。裕福な家庭に育ち、小学生の頃より父から論語の素読や書、日本画などを教わる。大阪在住の1902年(明治35年)に父・一彦が死去、東京の麻布に転居する。

長谷川は虚弱体質であったため、勤め人は無理だと判断され、好きであった美術の道へ進む。麻布中学校卒業前に母・欣子が死去する。1910年(明治43年)に麻布中学校を卒業した後、葵橋洋画研究所で黒田清輝から素描を、本郷洋画研究所で岡田三郎助、藤島武二から油彩を学ぶ。また、バーナード・リーチからはエッチング技法の指導を受けている。その後、1913年(大正2年)に文芸同人誌『仮面』に参加、表紙や口絵を木版画で製作する。日夏耿之介や堀口大學の本の装幀なども担当した。

1918年(大正7年)、版画技術の習得の為フランスへ渡航。翌年の4月4日にパリに到着するが、静養のため10月から南フランスに約三年間滞在。その間、版画技法の研鑽を積む。そしてパリに戻り、1923年(大正12年)からサロン・ドートンヌ等のサロンや展覧会に作品を出品。1925年(大正14年)には初の版画の個展を開き、高い評価を得る。翌年にはサロン・ドートンヌ版画部の会員となり、パリ画壇で確固たる地位を築いた。

しかし、1939年(昭和14年)に第二次世界大戦が勃発すると、長谷川の生活は一変する。フランス在住の多くの画家が帰国してしまう中、長谷川はフランスに留まるが、パリを離れることを余儀なくされる。その為サルト県にある斎藤豊作邸に疎開、その後もボルドー、ビアリッツなどを転々とする。一時パリに戻り製作を続けるが、経済的にも健康面でも苦しい日々を送った。1945年(昭和20年)にはパリ中央監獄、ドランシー収容所に収監されるも、知人の助力もあり約一ヶ月後に解放される。

戦後、再び創作を再開。銅版画に没頭し、様々な技法を最高の域まで高める。そして最後には自らが復活させたメゾチントに没頭、数々の名作を発表した。

1980年(昭和55年)12月13日、パリの自宅で老衰のため没。89歳。渡仏してから一度も日本へ帰ることはなかった。

1891年(明治24年)12月9日:誕生。
1898年(明治31年):横浜市戸部小学校に入学。
1902年(明治35年):大阪に移住。大阪市立愛日小学校に転校、卒業。大阪市東区第三小学校に入学。
1903年(明治36年):東京に移住。鞆絵高等小学校に転校。
1911年(明治44年):菱橋洋画研究所に入り黒田清輝に素描を学び始める。
1912年(明治45年・大正元年):本郷洋画研究所に入り岡田三郎助、藤島武二に油絵を学び始める。大森に転居。
1913年(大正2年):自画自刻の創作板目木版画や木口木版画・銅版画を製作し始める。『仮面』主催洋画展に「幕の女」など木版、ガラス版、銅版もよる作品12点を出品する。
1916年(大正5年):広島晃甫(広島新太郎)、永瀬義郎と共に日本版画倶楽部を結成。
1918年(大正7年):フランスに渡る。
1928年(昭和3年):春陽会会員。
1931年(昭和6年):日本版画協会創立会員。
1935年(昭和10年):フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受章。
1939年(昭和14年):第二次世界大戦勃発。
1943年(昭和18年):ミシェリーヌ・M・ビアンキと結婚。
1945年(昭和20年):パリ中央監獄、ドランシー収容所に収監される。
1964年(昭和39年):フランス芸術アカデミーコレスポンダン会員。
1966年(昭和41年):フランス文化勲章を受章。
1966年(昭和41年):現代日本美術展で特賞を受賞。
1967年(昭和42年):勲三等瑞宝章を授与される。
1980年(昭和55年):京都国立近代美術館で大回顧展「銅版画の巨匠・長谷川潔展」が開催された。
1980年(昭和55年)12月13日:死去する。遺言により、青山霊園の長谷川家の墓に埋葬された。
代表作
牧神の午後(ステファン・マラルメの牧歌)
南仏古村(ムーアン・サントゥー)
アレキサンドル三世橋とフランスの飛行船
竹取物語 挿絵
2つのアネモネ
一樹(ニレの木)
花(切子ガラスに挿したアネモネと草花)
狐と葡萄(ラ・フォンテーヌの寓話)
時、静物画
平川滋子
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
水、空気、太陽エネルギー、植物をコンセプトの基盤に置いて作品群を制作している。

2004年1月、《空気が危ない?Air in Peril》 プロジェクトを構想。 人間社会の大気汚染がもたらした欧州の森林の被害に関する欧州連合の報告書が、直接の発想の大本となった。《空気が危ない?》 プロジェクトは、大気汚染で被害を受けた森林が、エコシステムが低下して酸素を供給できなくなってきているらしいことを世界に訴えようとするもので、森林の光合成を助けようと光合成を視覚化する《光合成の木》、光合成で発生する《酸素分子》、新しい空気を生み出す動力メカニズムをかたちにした《風車》の三つのエレメントで構成されている。

《空気が危ない?》プロジェクトのキー・エレメントである《光合成の木》 は、構想の2年半後の2006年秋にフランス、アルジャントゥイユ市で初めて実現した。葉緑素ならぬ、太陽光線で色を変える人工の特殊ピグメントを混合したプラスチック・ディスク1500枚を、木の葉のように木に取り付け、大気中の二酸化炭素を吸収してわれわれに酸素を供給する植物の光合成を、人工的に毎日視覚化させてみせた。

地球を異常気象の危機に追い込んだ経済中心主義社会へのアイロニーを込めた作品、 《神々の滑り台》(2006年作、トンネル全長66m、インスタレーション高さ30m)は、日本の神々の中に現代の自然への恐怖を払拭する方法を見出したもの。

また2006年、ベルギー、リエージュ州の野外展企画テーマ『詩的空間』において、平川滋子は《羽根を持つ木》を制作した。欧州の楓の種子が、昆虫のような羽根を持ち、舞いながら遠くへ風に乗って運ばれることにインスピレーションを受けて、根を張った親木にも大きな羽根を持たせたもの。

1953年3月14日、福岡県久留米市生まれ。3歳のときに久留米市に石橋美術館が建設され、郷土の画家(青木繁や坂本繁二郎)の絵に魅了される。7歳のとき、家族とともに上京。以後数回、国内を移転するが、毎回異なる環境への対応へ心をくだく。

1971年、東京女子大学に入学し、日本史を選考。 卒業の翌年の1976年、東京藝術大学に入学して油画を修めた。

1983年、フランス政府給費留学生として渡仏し、パリ国立高等美術学校(エコール・デ・ボザール Ecole nationale supérieure des Beaux-Arts de Paris)に在籍してオリビエ・ドゥブレ (Olivier Debré) に師事する。 渡仏の翌年からサロンを手始めに活動を開始し、旺盛な仕事の中で、渡仏当初平面であった作品は、1985年には立体やインスタレーションへと急激な進展をみせた。

1985年、南仏カーニュの近代美術館主催 『国際絵画展』において、全会一致の審査員奨励賞受賞。

1987年、フランスのアーティスト・ステータス獲得。

1987年から1990年まで、サロン・ド・ラ・ジュヌ・パンチュール (Salon de la Jeune Peinture) の公募審査員を務める。

野外のインスタレーションに取り組むのは1989年、北フランス、トリ・サン・レジェでの企画が最初。全長36mの木のインスタレーションを制作。

1992年、イル・ド・フランス地域議会の1%プロジェクトで彫刻《浮島》を制作。 同年、アンリ・ゴーディエ・ブルゼスカ (Henri Gaudier-Brzeska) の生誕百年記念彫刻コンクールで入賞し、オルレアンの衛星都市、サン・ジャン・ド・ブレイの県立公園に浮いた芝生と水を張った池を点在させるインスタレーション《回転する楕円》を作った。また初めてのベルギーの個展で、それまでアトリエで行っていた反絵画ともいえる脱色作業を屋外に持ち出して行い、太陽光線の意外な力に目を開いた。植物、水、太陽光線という自然のエレメントに出会った年である。 同年、フランス文化省の芸術家用アトリエに入居。

以来、フランスを中心に、ドイツ(フライブルク市自然歴史博物館、同市市民ギャラリー)、ポーランド(BWA国立現代美術ギャラリー)、イギリスなどヨーロッパ各地で発表。仕事の移動のたびに、現地の環境や人々の出会いの中から手がかりを収集し、人間を包む環境にかかわるグローバルなテーマへと凝縮させつつ、空間を変容するスケールの大きい作品を作り続ける。

1997年、南仏のモンドマルサン市が企画するトリエンナーレで、野外インスタレーション《系統樹 / 死》、《変容 / 生》を制作。肉親の死にインスピレーションを受けて川沿いに制作したインスタレーション《系統樹 / 死》は全長130m。用いた約40個の木の切り株は、高さ2m以上、一個の重さ1トン近く、合計40トン以上を利用。泉水の中に松の木を12本立てた《変容 / 生》は、人間と荒々しい自然の共存を助けていき続けるモンドマルサンの人工の松林にインスピレーションを受けた作品。 フランスの美術批評家、ピエール・レスタニ(Pierre Restany)は、これらのサイトスペシフィック・インスタレーションを現場で見て、「ランド・アートの近代物質主義とネオ・ゼンのミニマリズムの境界」の仕事と形容した。

2000年、1999年年末にフランス全土を襲った大嵐と、その被害に対する人間のリアクションを題材にした作品群を、個展《アプロプリエーション》で発表。

2001年、人間と水との関係を《追われる水》と題したプロジェクトにまとめ、パリ近郊マラコフ市の企画個展で4つのインスタレーションを制作発表。

2003年、南仏エロー県県庁コミッションで、水と空気のインスタレーション《接続された空気&服従した水》を制作。モンプリエ市シャトー・ドー (Cháteau d'O) 公園敷地に展開。

2003年、日本文化庁在外研修特別派遣研修員として、初めて渡米し、ニューヨーク滞在。フランスで日本とフランスの二つのカルチャーを背負いつつ活動する自己の経験に根ざし、ニューヨークのバイカルチュラルなアーティストたちのメンタリティの持ち方や活動振りをインタビューして回った。国という各々の社会環境の違いを背景に、アーティストの活動と作品への考え方の違いを探って欧州とアメリカの現代文化比較に迫ろうとした。

2004年、初めてのエコロジカル・アートであるプロジェクト《空気が危ない?》を構想。

2004年、アメリカ、ニューヨーク州、アート・オーマイ (Art Omi International Artist Colony) で、アーティスト・イン・レジデンス。《酸素分子》を制作。

《空気が危ない?》プロジェクトのキー・エレメント《光合成の木》は、2006年秋冬、フランス、アルジャントゥイユ市の企画個展で実現。 引き続き、2007年夏、北フランスの鉱山歴史センター・炭鉱博物館 (Centre historique minier / Musée de la mine) で《光合成の木》の個展。

2007年秋冬、アメリカ、ニューヨーク州ジャメイカのジャメイカ・センター・フォー・アーツ・アンド・ラーニング (Jamaica Center for Arts & Learning) 企画、ジャメイカ・フラックス (Jamaica Flux) に《光合成の木》出品。

2006年 - 2007年、アメリカ、ニューヨークのポロック・クラズナー財団 (The Pollock-Krasner Foundation) からグラント収受。

2007年、東京藝術大学大学美術館主催、『パリへ、芸術家たち百年の夢』展に出品。
代表作
プロジェクト《ウォーター・フットプリント》、フランス、フィニステール
インスタレーション《忘れられた曼荼羅、瞑想の迷路》、フランス、ジュミエージュ
《火の天使、想像のセラフィム》、フランス、ブールカンブレス
《天の果実をつけた木》、フランス、ショーモン城
インスタレーション《空気の誘引》、フランス、ルーアン
プロジェクト《空気が危ない?》のキー・エレメント《光合成の木》、フランス、アメリカ、日本
《神々の滑り台》、フランス、ジュイ・アン・ジョザス
《羽根を持つ木》、ベルギー、リエージュ
《空気、肺》、フランス、ルワルド
《太陽系》フランス、メル
《酸素分子》アメリカ、ゲント
《接続された空気&服従した水》、フランス、モンぺリエ
プロジェクト《追われる水》、フランス、マラコフ
《五つの赤い宇宙》、東京大学数理科学研究科所蔵
《系統樹 / 死》、フランス、モンドマルサン
《変容 / 生》、フランス、モンドマルサン
《浮島》、1%フォー・アート
《回転する楕円》、フランス、サン・ジャン・ド・ブレ
《Dé-peindre》シリーズ
彫刻シリーズ
日比野克彦
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
1958年岐阜県岐阜市生まれ。 岐阜大学教育学部附属中学校を卒業。岐阜県立加納高等学校を卒業後、多摩美術大学美術学部グラフィックデザイン学科に進学(同級生にしりあがり寿がいた)。同大学に1年在学した後、東京芸術大学美術学部デザイン学科に再入学し、1982年に卒業。1984年、同大学大学院修士課程修了。1980年代に領域横断的、時代を映す作風で注目される。作品制作の他、身体を媒体に表現し、自己の可能性を追求し続ける。1986年シドニー・ビエンナーレ、1995 年ヴェネチア・ビエンナーレに出品。

近年では、館内の展示室だけでなく、様々な地域の人々と共同制作を行いながら、受取り手の感受する力に焦点を当てたアートプロジェクトを展開し、社会で芸術が機能する仕組みを創出する。2003年大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレにて[明後日新聞社文化事業部]を設立、同時に[明後日朝顔プロジェクト]を開始。2005年 水戸芸術館[HIBINO EXPO]、2006年岐阜県美術館[HIBINO DNA AND]、2007年金沢21世紀美術館「[ ホーム→アンド←アウェー」方式]、熊本市現代美術館[HIGO BY HIBINO]など個展を開催。

2012年[種は船~航海プロジェクト]を実施。2013年 瀬戸内国際芸術祭2013にて[海底探査船美術館プロジェクト「一昨日丸」]を発表。同年・翌年(2013・14年)「六本木アートナイト」にてアーティスティックディレクターを務める。2010年より4年の1度のサッカーW杯年に合わせ、「マッチフラッグプロジェクト」を開始。2014年もブラジル大会への熱い想いを胸にワークショップを実施し、スタジアムをスポーツとアートの交流の場とした。1995年から1999年まで東京芸術大学美術学部デザイン学科助教授、1999年から2007年まで東京芸術大学美術学部先端芸術表現科助教授/准教授を経て2007年10月より教授、2016年より美術学部長に就任。現在、日本サッカー協会社会貢献委員長。

2015年4月1日より、岐阜県美術館の館長に就任した。
代表作
PRESENT AIRPLANE
GRAND PIANO
NITO
保科豊巳
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
長野県東御市生まれ。日本もの派、榎倉康二、高山登の影響の中、東京芸術大学で学ぶ。同期生に川俣正、下級生の宮島達男、中村一美がいる。 ポストもの派世代に属し、木、紙、墨という素材を用いたインスタレーションや絵画制作を展開している。日本をはじめスイス、台湾、ドイツ、アメリカ、中国、などで作品発表を続けている。 東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。東京芸術大学大学院美術研究科修士課程絵画専攻修了。東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程美術専攻 単位修得退学。その後、明星大学芸術学科助教授、東京芸術大学美術学部専任講師、東京芸術大学美術学部助教授を経て2002年に文部科学省在外研究員として渡米。2006年から東京芸術大学美術学部教授。2009年に東京芸術大学美術学部副学部長。2013年に東京藝術大学美術学部学部長。2016年に東京藝術大学理事・副学長。

1982年「第12回パリビエンナーレ」パリ市立近代美術館
1984年「日本現代美術展」スイス国立博物館、ラス美術館ジュネーブ
1986年「日本現代美術展」国立台北現代美術館
2003年 第2回「大地の芸術祭」妻有トリエンナーレ展
2008年「国際メディアアートビエンナーレ」北京
2011年「釜山ビエンナーレ」韓国
2013年「HERE IS THERE THERE IS HERE-A Solo Exhibition」台湾
2014年 市原ビエンナーレ展「3D山水画プロジェクト」、上野の森美術館大賞展招待出品
2016年「RAIGHT OF DARKNESS」南京美術館、バングラデシュBIENNALLE
代表作
炎上する記憶
藤田 嗣治
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
1886年(明治19年)、東京市牛込区(現在の東京都新宿区)新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。父・藤田嗣章(つぐあきら)(1854-1941年)は、大学東校(東京大学医学部の前身)で医学を学んだ後、軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鷗外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。祖父の藤田嗣服は元田中藩士。兄の嗣雄(1885~1967)は朝鮮総督府や陸軍省に在職した法制学者・上智大学教授で、陸軍大将児玉源太郎の四女と結婚。また、義兄(姉たちの夫)に、父の元部下でのちに陸軍軍医総監となった中村緑野(中原中也の名づけ親)、芦原甫の養子・信之(医師)がいる。小山内薫は嗣治の従兄、舞踊評論家の蘆原英了と建築家の蘆原義信は甥にあたる。又、遠い親戚に千葉雄大がいる。

藤田は子供の頃から絵を描き始める。父の転勤に伴い7歳から11歳まで熊本市で過ごした。小学校は熊本県師範学校附属小学校(現在の熊本大教育学部附属小)に通った。1900年、高等師範附属小学校(現・筑波大附属小)を、1905年に高等師範附属中学校(現・筑波大附属中学・高校)を卒業。その頃には、画家としてフランスへ留学したいと希望するようになる。

1905年(明治38年)、森鴎外の薦めもあって東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)西洋画科に入学する。しかし当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされており、藤田の作風は不評で成績は中の下であった。表面的な技法ばかりの授業に失望した藤田は、それ以外の部分で精力的に活動し、観劇や旅行、同級生らと授業を抜け出しては吉原遊廓に通いつめるなどしていた。1910年に同校を卒業。卒業に際して製作した『自画像』(東京芸術大学所蔵)は、黒田が忌み嫌った黒を多用しており、挑発的な表情が描かれている。なお精力的に展覧会などに出品したが、当時黒田清輝らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選している。

1911年(明治44年)、長野県の木曽へ旅行し、『木曽の馬市』や『木曽山』の作品を描き、また薮原の極楽寺(木祖村)の天井画を描いた(現存)。この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子(鴇田とみ)と出会って、2年後の1912年に結婚。鴇田とともに榛名湖(群馬県)などを訪れた際に描いたと思われる油彩画『榛名湖』が2017年、鴇田の生家(千葉県市原市)の解体中の蔵から発見されている。

新宿百人町にアトリエを構えるが、フランス行きを決意した藤田は妻を残して単身パリへ渡航。最初の結婚は1年余りで破綻する。

1913年(大正2年)に渡仏し、パリのモンパルナスに居を構えた。当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地に過ぎず、家賃の安さで芸術家、特に画家が多く暮らしていた。藤田は、隣の部屋に住んでいて後に「親友」と呼んだアメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンらと知り合う。また彼らを通じて、後のエコール・ド・パリのジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、モイズ・キスリング、ジャン・コクトーらと交友を結びだす。フランスでは「ツグジ」と呼ばれた(嗣治の読みをフランス人にも発音しやすいように変えたもの)。

また、同じようにパリに来ていた川島理一郎や、島崎藤村、薩摩治郎八、金子光晴、岡田謙三ら日本人とも出会っている。このうち、フランス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた、大富豪の薩摩治郎八との交流は藤田の経済的支えともなった。

パリでは既にキュビズムやシュールレアリズム、素朴派など、新しい20世紀の絵画が登場しており、日本で「黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画」だと教えられてきた藤田は大きな衝撃を受ける。この絵画の自由さ、奔放さに魅せられ、今までの作風を全て放棄することを決意した。「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」と藤田は自身の著書で語っている。

1914年、パリでの生活を始めてわずか1年後に第一次世界大戦が勃発。日本からの送金が途絶え、生活は貧窮した。戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあった。そんな生活が2年ほど続き、フランス領内に侵攻していたドイツ軍が守勢に転じて大戦が終局に向かいだした1917年3月、カフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエと2度目の結婚をした。この頃に初めて藤田の絵が売れた。最初の収入は、わずか7フランであったが、その後少しずつ絵は売れ始め、3か月後には初めての個展を開くまでになった。

シェロン画廊で開催されたこの最初の個展では、著名な美術評論家であったアンドレ・サルモン(en:André Salmon)が序文を書き、良い評価を受けて、すぐに絵も高値で売れるようになった。翌1918年に第一次世界大戦が終結。戦後の好景気に合わせて多くのパトロンがパリに集まって来ており、この状況が藤田に追い風となった。

面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃に確立。以後、サロンに出す度に黒山の人だかりができた。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田の名声は高まった。

当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であり、画家仲間では珍しかった熱い湯の出るバスタブを据え付けた。多くのモデルがこの部屋にやって来てはささやかな贅沢を楽しんだが、その中にはマン・レイの愛人であったキキも含まれている。彼女は藤田のためにヌードとなったが、その中でも『寝室の裸婦キキ(Nu couché à la toile de Jouy)』と題される作品は、1922年のサロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こし、8000フラン以上で買いとられた。

このころ、藤田はフランス語の綴り「Foujita」から「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれ、フランスでは知らぬ者はいないほどの人気を得ていた。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られた。

2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚。リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、夫公認で詩人のロベール・デスノスと愛人関係にあり、その後離婚する。

1931年には、新しい愛人マドレーヌ(Madeleine Lequeux 1910-1936)を連れて個展開催のため南北アメリカへに向かった。ヨーロッパと文化、歴史的に地続きで、藤田の名声も高かった南アメリカで初めて開かれた個展は大きな賞賛で迎えられ、アルゼンチンのブエノスアイレスでは6万人が個展に訪れ、1万人がサインのために列に並んだといわれる。

その後、1933年に南アメリカから日本に帰国、1935年に25歳年下の君代(1911年 - 2009年)と出会い、一目惚れして翌年5度目の結婚をして、終生連れ添った。1936年旧友ジャン・コクトーが世界一周の旅で日本に滞在し時、藤田と再会し、相撲観戦や夜の歓楽街の散策を供にした。 (その時、藤田の案内で学生絵画グループ「表現」が銀座の紀伊国屋画廊で開催していた展覧会を訪れ、ジャン・コクトーが大塚耕二の作品を称賛した。)

1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として日中戦争中の中華民国に渡り、1939年に日本に帰国した。

その後再びパリへ戻ったが、同年9月には第二次世界大戦が勃発。翌年、ドイツにパリが占領される直前にパリを離れ、再度日本に帰国することを余儀なくされた。その後、太平洋戦争に突入した日本において陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画(下参照)の製作を手掛けた。南方などの戦地を訪問しつつ『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』(題材はノモンハン事件)や『アッツ島玉砕』(アッツ島の戦い)などの作品を書いた。

このような振る舞いは、終戦後の連合国軍占領下の日本において「戦争協力者」と批判されることもあった。また、陸軍美術協会理事長という立場であったことから、一時はGHQからも聴取を受けるべく身を追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていたこともあった。その後、1945年11月頃にはGHQに見いだされて戦争画の収集作業に協力させられている。こうした日本国内の情勢に嫌気が差した藤田は、1949年に日本を去ることとなる。

傷心の藤田がフランスに戻った時には、既に多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命しており、フランスのマスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様だったが、その後もいくつもの作品を残している。そのような中で再会を果たしたパブロ・ピカソとの交友は晩年まで続いた。1955年にフランス国籍を取得(その後、日本国籍を抹消)。1957年、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られた。

1959年にはランスのノートルダム大聖堂でカトリックの洗礼を受け、シャンパン「マム」の社主のルネ・ラルーと、「テタンジェ」のフランソワ・テタンジェから「レオナール」と名付けてもらい、レオナール・フジタとなった。またその後、ランスにあるマムの敷地内に建てられた「フジタ礼拝堂」の設計と内装のデザインを行った。1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいて、ガンのため死亡した。遺体は「フジタ礼拝堂」に埋葬された。日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。

藤田の最期を看取った君代夫人は、自身が没するまで藤田旧蔵作品を守り続けた。パリ郊外のヴィリエ・ル・バクル(フランス語版)に旧宅を「メゾン・アトリエ・フジタ」として開館に向け尽力。晩年には個人画集・展覧会図録等の監修も行った。2007年に東京国立近代美術館アートライブラリーに藤田の旧蔵書約900点を寄贈し、その蔵書目録が公開された。藤田の死去から40年余りを経た2009年4月2日に、東京にて98歳で没した。遺言により遺骨は夫嗣治と共にランスの「フジタ礼拝堂」に埋葬された。君代夫人が所有した藤田作品の大半はポーラ美術館とランス美術館に収蔵されている。

2011年、君代夫人が所蔵していた藤田の日記(1930年から1940年、1948年から1968年までで、戦時中のものは未発見)及び写真、16mmフィルムなど6000点に及ぶ資料が母校の東京芸術大学に寄贈されることが発表され、今後の研究に注目が集まっている。

2015年、日本・フランス合作の伝記映画『FOUJITA』(小栗康平監督)が公開され、2018年には『没後50年 藤田嗣治展』が東京と京都で開催されるなど、再評価の機運が高まっている。
代表作
にわとりとタマゴ
婦人像
父の像
自画像
朝鮮風景
スーチンのアトリエ
キュビズム風静物
巴里城門
トランプ占いの女
収穫
断崖の若いカップル
雪のパリの街並み
ル・アーヴルの港
パリ風景
モンルージュ、パリ
巴里風景
風景
聖誕 於巴里
二人の子供と鳥籠
ドランプル街の中庭、雪の印象
花を持つ少女
二人の女
聖母子
私の部屋、目覚まし時計のある静物
横たわる裸婦と猫
私の部屋、アコーディオンのある静物
寝室の裸婦キキ
ジュイ布のある裸婦
横たわる裸婦
エミリー・クレイン・シャドボーンの肖像
バラ
アントワープ港からの眺め
長い髪のユキ
裸婦
五人の裸婦
座る女性と猫
タピスリーと裸婦
室内、妻と私
人形を抱く少女
ヴァイオリンをもつ子ども
友情
ユキ(雪の女王)
横たわる裸婦(ユキ)
エレーヌ・フランクの肖像
動物群
10人の子どもたち
貝殻のある静物
ギターを持つ少年と少女
砂の上で
座る裸婦
舞踏会の前
横たわる裸婦(夢)
横たわる貴婦人
夢から醒めて

青衣の女
二人の女
2人の裸婦
横綱栃木山の肖像
アトリエの自画像
インク壺の静物
アンナ・ド・ノアイユの肖像
シュジー・ソリドールの肖像
猫のいる自画像
受胎告知・三王礼拝・十字架降下
ライオンのいる構図
犬のいる構図
争闘1
争闘2
座る女
欧人日本へ渡来の図
馬の図
二人の友達
三人の女
死に対する生命の勝利
調教師とライオン
横たわる裸婦と猫
仰臥裸婦
横たわる裸婦(マドレーヌ)
横たわる裸婦と猫
カーニバルの後
室内の女二人
婦人像(リオ)
家族の肖像
ラマと四人の人物
大地
メキシコに於けるマドレーヌ
力士と病児
空の上の空中戦
北平の力士
五人女
Y夫人の肖像
葡萄畑の女性、母と娘、ポプラ並木の女性と楽士、犬を抱く女性と楽士、貴婦人と召使い。女性と天使
ノルマンディーの春
野あそび
秋田の行事
一九〇〇年
那覇の客人

ディナー・パーティー
青いドレスの女
サーカスの人気者
猫のいる風景
ドルドーニュの家
カルポーの公園
猫(闘争)
人魚
哈爾哈河畔之戦闘
アッツ島玉砕
仏印風景
渡洋爆撃(空中戦)
仏印メコンの広野
サイパン島同胞臣節を全うす
無題
優美神
私の夢
カフェ
美しいスペイン女
占いの老女
姉妹
夢見る女
ジャン・ロスタンの肖像
校庭
家馬車の前のジプシー娘
河原にて
誰と戦いますか?
カルチェ・ラタンのビストロ
庭園の子供達
アージュ・メカニック(機械の時代)
花の洗礼
聖母子
EVE
キリスト降架
磔刑
アッシジ
聖母子
礼拝
マドンナ
舟越桂
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
小学3年生のころには父と同じように彫刻家になることを漠然と意識していた。学生時代(高校生時代)はラグビーの練習に明け暮れていたが、美術予備校の夏期講習に参加したことで彫刻家になる意思を固めた。浪人して東京造形大学彫刻科に入学したが、大学3年時には高校生時代のラグビー熱が再燃し、大学でラグビー部を立ち上げている。

その作品は多くの美術館に展示されているほか、国際的な現代美術展への出展も多い。また、書籍の装幀などに作品が使用されるなど、その作品は多くの人々の目に触れている。1989年より、母校である東京造形大学において客員教授を務めている。

1951年 - 東京芸術大学教授であった彫刻家・舟越保武の次男として生まれる。
1975年 - 東京造形大学彫刻科卒業。
1977年 - 東京芸術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了。
1986年 - 文化庁芸術家在外研究員としてロンドンに滞在。
1988年 - ヴェネツィア・ビエンナーレに出品して好評を博し、帰国後には東京・日本橋の西村画廊で凱旋個展を行った。
1988年 - 第43回サンパウロ・ビエンナーレ出品。   
1989年 - ~ 現在 東京造形大学客員教授。
1991年 - タカシマヤ文化基金第1回新鋭作家奨励賞受賞。
1992年 - ドクメンタIX(ドイツ・カッセル)出品。
1992年 - 第9回シドニー・ビエンナーレ出品。
1995年 - 第26回中原悌二郎賞優秀賞受賞。
1997年 - 第18回平櫛田中賞受賞。
2003年 - 第33回中原悌二郎賞受賞。
2006年 -「森に浮かぶスフィンクス」両性具有像を発表。
2009年 - 芸術選奨文部科学大臣賞、毎日芸術賞受賞。
2011年 - 紫綬褒章受章。
代表作
妻の肖像
夏のシャワー
山を包む私
水に映る月蝕
松井冬子
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
1994年、女子美術大学短期大学部造形学科油彩画専攻卒業。

就職、4浪を経て、6度目の受験で東京藝術大学美術学部入学。2002年に東京芸術大学美術学部日本画専攻卒業。2007年、東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程美術専攻日本画研究領域修了。博士論文「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」を東京芸術大学へ提出し博士(美術)の学位を取得。

女性、雌に焦点を当て、幽霊画、九相図、内臓、脳、筋肉、人体、動物を題材に採った作品を発表している。絹本に岩絵具を用いて描く。

2002年、学部の卒業制作で「世界中の子と友達になれる」(横浜美術館所蔵)を発表。
2004年、銀座スルガ台画廊で、L'espoir 2004 松井冬子展。
2008年、4月20日、NHK教育テレビジョン「ETV特集」で「痛みが美に変わる時~画家・松井冬子の世界~」が放送される。
2008年、「松井冬子展」が静岡県の平野美術館で開催。
2010年、フランス・パリのGalerie DA-ENDにて「松井冬子展」。
2011年、第62回NHK紅白歌合戦にゲスト審査員として出演。
2011年、12月17日から横浜美術館で「松井冬子展 世界中の子と友達になれる」が開かれる( - 2012年3月18日)
2015年、東京2020エンブレム委員会の委員に就任。
代表作
世界中の子と友達になれる
浄相の持続
松浦浩之
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
松浦浩之は 1964 年東京生まれ。2005 年に東京画廊で開催された個展『Super Acrylic Skin』で デザイナーからアーティストへと転身し、以降、絵画、立体、版画など作品の形式を広げな がら、国内外で作家活動を行っています。2017年、オランダの Volkenkund Museum(ライデン)と Tropen Museum(アムステルダム)で開催された展覧会『Cool Japan: World Fascination in Focus』では、高さ 4 メートルの大作<Uki-uki>(2012)を出品し、展覧会のメイン PR イメージとして使用されました。同展はその後ベルギーの Museum aan de Stroom(アントワープ)に巡回し、好評を納めました。

1964 東京生まれ。
1984 グラフィックデザイナーとして活動。
1999 現代アートとして作品の制作を開始。
2011 スイスの時計メーカーSwatchより「2011 Art & Collection」として初の 6デザインを発表。
2016 「高島屋のお中元・お歳暮」のキービジュアルを手がける。
2017 銀座ロフトにてポップアップショップ『HIROYUKI MATSUURA ART COLLECTION』展開
2018 カネボウ化粧品 CHICCA 10周年コラボレーション
代表作
Moonlight Gravity Year
Apple Year
松山智一
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
岐阜県高山市出身、少年時代をアメリカで過ごす。上智大学経済学部卒業後、2002年に再び渡米。ニューヨーク私立美術大学院プラット・インスティテュートコミュニケーションズ・デザイン科を首席で卒業。

これまでに日本、ニューヨーク、ワシントンD.C.、サンフランシスコ、ロサンゼルス等の全米主要都市、ドバイ、香港、台北、ルクセンブルク等、世界各地のギャラリー、美術館、大学施設等にて 個展・展覧会を多数開催。

アメリカ西海岸最大の美術館であるロサンゼルス・カウンティ美術館(LACMA)、サンフランシスコ・アジア美術館、マイクロソフトコレクション、ドバイの王室コレクション、中東が誇るBank of Sharjahコレクション、オーストラリアのPt.Leo彫刻庭園、アメリカのアンドレ・バラッツ・ホテルグループやコスモポリタン・ホテルグループなどに、多数の作品が所蔵されている。

2012年から2017年5月までの5年間、ニューヨーク私立美術大学スクール・オブ・ビジュアル・アーツ(SVA)のAdjunct Professorを勤めた。2013年4月、ハーバード大学からの招待を受けてアーティストプレゼンテーションを実施[2]。同年9月には同大学にて個展が開催された。

現在はニューヨーク・ブルックリンにスタジオを構えている。2019年9月にはニューヨークのハウストン・バウリー・ウォールに巨大壁画を完成させ、TBSの情熱大陸で特集された。2021年1月には、NHK BS1にて特集が組まれた。
代表作
Falling Passage
Fl-ye
Global Artist Collective skateboard deck (HUF x STORY x PEANUTS)
Jaded Sunshine
She's so sweet Ride
Running Even Deep
MADSAKI
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
1974年に大阪で生まれ、幼くしてニュージャージーに移り住んだMADSAKIは、1996年にニューヨークのパーソンズ・スクール・オブ・デザインでBFAを取得。以後、個人としてのキャリアを開始するまで、国際的なアーティスト集団であるBarnstormersのメンバーとして活動した。風刺が効いていながらも感傷的で、攻撃的でありながらも傷つきやすい面を持つMADSAKIは、2つの異なる文化を包含するアイデンティティに由来するフラストレーションや疎外感を表現し、アートの価値に対する批評を行う手段として、グラフィティの影響を受けた手法を用い続けている。
代表作
Tooth Brush 2017
Bottle 2017
Mirror 2017
Untitled from Marilyn Monroe 2 2017
You Fucking Cockaroach 2017
No More Breakfast at Tiffany’s 2017
Riders On The Storm 2017
Melting Pot Ⅲ 2017
宮島達男
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
「Art in You(芸術はあなたの中にある)」という考え方を基盤に、発光ダイオード(LED)を使用したデジタルカウンター等、LEDの作品を特徴とする美術家である。また、コンピュータグラフィックス、ビデオなどを使用した作品も手掛けている。

美術家を志望したのは佐伯祐三、青木繁の自然体で自由な生き方に憧れたことが発端で、東京都立小岩高等学校を経て1984年(昭和59年)に東京藝術大学美術学部油画科を卒業(学士)、1986年に東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻修了(修士)。

大学在学中には油絵を学んでいたが、油絵では自分の言いたいことを表現できないもどかしさがあると感じ、現在においても作品制作のテーマとなっている「それは変化し続ける」、「それはあらゆるものと関係を結ぶ」、「それは永遠に続く」の3つのコンセプトを形にする手段を模索していたところ、偶然LEDと出会う。1987年(昭和62年)には初めてLEDの作品を発表し、1990年(平成2年)にアジアン・カルチュラル・カウンシルの招きによりニューヨークに転居。同年、ドイツ文化省芸術家留学基金留学生としてベルリンに転居し、翌1991年(平成3年)まで居住。1992年(平成4年)の帰国後は茨城県守谷市に転居、以降は1993年(平成5年)にカルティエ現代美術財団アーティスト・イン・レジデンスプログラムによりパリに滞在した。

2006年(平成18年)に東北芸術工科大学副学長に就任。2014年(平成26年)に京都造形芸術大学副学長も兼任。2016年両校を退職。現在は両校の客員教授。
代表作
MEGA DEATH
HOTO
村上 隆
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
1962年(昭和37年)生まれ。東京都板橋区出身。本郷高等学校を経て、2浪ののち、1986年(昭和61年)東京藝術大学美術学部日本画科卒業、1988年(昭和63年)同大学大学院美術研究科修士課程修了(修了制作次席)、1993年(平成5年)同博士後期課程修了、博士(美術)。日本美術院同人で日本画家の村上裕二は弟。

自らの作品制作を行うかたわら、芸術イベント『GEISAI』プロジェクトのチェアマンを務め、アーティスト集団『カイカイ・キキ(Kaikai Kiki)』を主宰し、若手アーティストのプロデュースを行うなど、活発な活動を展開している。同集団は、アメリカのニューヨークにも版権を管理するエージェントオフィスをもつ。

日本アニメポップ的な作風の裏には、日本画の浮世絵や琳派の構成に影響されている部分も強く、日本画のフラット感、オタクの文脈とのリンクなど現代文化のキーワードが含まれている。中でもアニメ、フィギュアなどいわゆるサブカルチャーであるオタク系の題材を用いた作品が有名。アニメ風の美少女キャラクターをモチーフとした作品は中原浩大の「ナディア」に影響を受けたと本人も認めている。アニメーター・金田伊功の影響を強く受けており、自分の作品は金田の功績を作例として表現しているだけと話したこともある。

漫画原作者である大塚英志は、教授として就任した大学のトークショーにおいて「現代美術のパチモノの村上隆は尊敬はしないし、潰していく。我々の言うむらかみたかしは4コマまんがの村上たかしのことだ」と強く非難し、また、現代アート作家がサブカルを安易に取り上げることや、後述のリトルボーイ展の戦後日本人のメンタリティを無視した展示内容に強い不快感を示している。

一方、精神科医の斎藤環は、批判者の言説は「村上隆は日本のオタク文化のいいとこどりをしただけ」との単純な論理に依ると捉え、そのような論理は根本的に誤解であり不当な批判を行っているとして、厳しく非難している。また、村上の作品はオタク文化から影響を受けているだけでなく、それを昇華させてオタク文化に影響を与えてもいると述べている。

村上曰く、「マティスのような天才にはなれないがピカソやウォーホール程度の芸術家の見た風景ならわかる。彼らの行ったマネージメントやイメージ作りなどを研究し自分のイメージ作りにも参考にしている」。

自身に批判的なツイートを公式リツイートすることで、炎上商法・炎上マーケティングを行っていると、ツイッター上で公言している。

きゃりーぱみゅぱみゅの「PONPONPON」(2011年)のプロモーションビデオの発表以降、それに登場する「目玉」や「世界観」が自作品と類似性があると問い合わせがあり、2013年10月頃よりそれが急増したとして、2013年11月18日に、自身の作品は2000年に誕生したものであり、一切関係ないことを自身のサイトで公表した。

生来のアニメ好きが高じて、高校卒業後にはアニメーターを志した。尊敬しているアニメ監督は宮崎駿で、『未来少年コナン』や『ルパン三世 カリオストロの城』を観て、アニメーションの仕事に就きたいと思っていた。しかしながら挫折し、同じく以前から興味のあった日本画を習い、2浪の後に東京芸術大学に入学した。同大学では美術学部日本画科に学び、1986年(昭和61年)の卒業時には『横を向いた自画像』(東京芸大美術館所蔵)を製作・提出。

1988年(昭和63年)に東京芸術大学大学院修士課程の修了制作が、首席とならず次席であったために、日本画家への道を断念する。

1991年(平成3年)には、個展 『TAKASHI, TAMIYA』を開催、現代アート作家としてデビューした。同年、ワシントン条約で取引規制された動物の皮革で作ったランドセルを展示する「ランドセル・プロジェクト」を展開する。

1993年(平成5年)、東京芸術大学大学院の美術研究科博士後期課程を修了。「美術における『意味の無意味の意味』をめぐって」と題した博士論文をもって、同大学日本画科で初めての博士号取得者となった。

1994年(平成6年)にはロックフェラー財団のACCグラントを得て、「PS1.ART PROJECT」の招待を受けニューヨークに滞在した。 

1998年(平成10年)にカリフォルニア大学ロサンゼルス校美術建築学部客員教授。2001年(平成13年)にアメリカロサンゼルスで、展覧会『SUPER FLAT』展が開催され全米で話題となる。2005年(平成17年)4月、ニューヨークで個展 『リトルボーイ展』を開催。自身の作品の他、ジャパニーズ・オタクカルチャーや日本人アーティストの作品が展示され、またリトルボーイ展では「父親たる戦勝国アメリカに去勢され温室でぬくぬくと肥えつづけた怠慢な子供としての日本と、そうした環境ゆえに派生した奇形文化としてのオタク・カルチャー」、「それがゆえにオタク・カルチャーのきっかけはアメリカにもあるのだ」との考えが提示された。翌年2006年(平成18年)にリトルボーイ展はキュレーターに送られる世界で唯一の賞であるニューヨークの美術館開催の最優秀テーマ展覧会賞を受賞した。

2001年(平成13年)アート制作・映像制作や所属アーティストマネージメントなどを企画・運営・販売等、芸術事業の総合商社「有限会社カイカイキキ」と起業する。また、事業部としてアニメーションスタジオ「STUDIO PONCOTAN(スタジオ ポンコタン)」を立ち上げる。

2005年(平成17年)1月末よりPHS会社・ウィルコムのCMに出演。近年は六本木ヒルズのトータルプロデュースの一員やイメージキャラクター『ロクロク星人』のデザイン、フロアガイド冊子のデザインを手がけている。また『ルイ・ヴィトン ミーツ ネオ・ジャポニズム』と題し、高級ファッションブランド、ルイ・ヴィトンをクライアントとするコラボレーション製品などを発表。

2006年(平成18年)に「リトルボーイ展」の成果として芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞した。

2007年(平成19年)、カニエ・ウエストのアルバム『グラジュエイション』(Graduation)のジャケットデザインを担当。

2008年(平成20年)、米Time誌の"The World's Most Influential People - The 2008 TIME 100"(世界で最も影響力のある100人-2008年度版)に選ばれた。

2008年(平成20年)、GQ MEN OF THE YEAR 2008を受賞。

2010年(平成22年)に開催されたシンポジウム『クール・ジャパノロジーの可能性』では、「アート界における"クール・ジャパン"の戦略的プロデュース法――Mr.の場合」と題した講演を行った。講演では、日本のマンガやアニメ、および、それらを生み出した日本自体を肯定的に解釈し、それらの前提のもと、今日ではクール・ジャパンと呼ばれている観点を日本人作家作品によっていかに西洋アート界に体現させていけるか、とのテーマについて初期から漸進的に取り組んできた軌跡を発表した。

2010年(平成22年)10月に雑誌『SUPERFLAT』を創刊し、創刊号ではジェフ・クーンズとの特別対談や、村上隆、東浩紀、椹木野衣、黒瀬陽平、梅沢和木、藤城嘘、福嶋亮大、濱野智史らの記事が掲載される予定であった(未刊行)。

2016年(平成28年)3月に「村上隆の五百羅漢図展」の成果として平成27年度(第66回)芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。

総監督をつとめるアニメ「6HP/シックスハートプリンセス」が12月30日より放送され、1時間枠のうち22分を線画状態で未完成の第1話の放送にあて、残りは制作経緯や村上の謝罪といったドキュメンタリーの構成になることが明かされた。その後2017年9月には完全版が放送され、2017年12月23日には第2話が放送された。
代表作
Miss Ko2(KoKo)
HIROPON
My Lonesome CowBoy
Mr.DOB
お花
ゆめらいおん
シックスハートプリンセス
五百羅漢図
めめめのくらげ
森山大道
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
日本写真批評家協会新人賞、日本写真家協会年度賞、第44回毎日芸術賞受賞、ドイツ写真家協会賞受賞、ハッセルブラッド国際写真賞などを受賞。

日本のみならず、海外でも高く評価されている。アメリカ、イタリア、イギリス、フランス、オーストリア、ベルギー、ドイツ、中国、スペインなどでも個展を開いている。

東京工芸大学客員教授、京都造形芸術大学客員教授、専門学校東京ビジュアルアーツ顧問、専門学校名古屋ビジュアルアーツ特別顧問。 過去に、ワークショップ写真学校や東京写真専門学校(現 東京ビジュアルアーツ)の講師など、さまざまな写真教育活動に当たるなど、教育活動にも力を入れている。

1938年10月10日 大阪府池田町(現池田市)で生誕。森山家は島根県大田市の出。父親の転勤で各地を転々、広島、島根、千葉、東京など育ち、小学校5年の時、大阪に戻る。
1954年 平安高校二部(夜間部)に入学するが中退。
1958年 フリーの商業デザイナーとして、大阪市中央区平野町に事務所を設立。
1959年 岩宮武二のスタジオにアシスタントとして入る。
1961年 岩宮の紹介で写真家集団「VIVO」に参加するため上京するも、参加直前に解散。
1962年 VIVO解散後、細江英公の助手となる。
1963年 フリーの写真家となり、神奈川県逗子市へ移る。
1964年 横須賀に写真を撮りに通い続ける。
1964年 映画『飛べない沈黙』(1966年公開、黒木和雄監督)のスチル撮影を担当する。
1966年 主な撮影地を横須賀から熱海、新宿、浅草などに移す。
1966年 東京都渋谷に中平卓馬と共同事務所を開設。
1967年 「カメラ毎日」に発表した『にっぽん劇場』シリーズなどが評価され、日本写真批評家協会新人賞を受賞。
1968年 中平に誘われ、雑誌「プロヴォーク」に第2号より参加する。
1969年 「アサヒカメラ」「カメラ毎日」「朝日ジャーナル」「太陽」「デザイン」等の雑誌に写真を発表。
1970年 「アサヒカメラ」の表紙を担当すると共に、ドキュメンタリータッチの新聞広告を手がける。
1970年 「プロヴォーク」解散。
1971年 横尾忠則の誘いにより、ニューヨークに1ヶ月滞在。
1972年 「アサヒカメラ」4月号に森山大道特集『特別レポート 森山大道=その映像のナゾ』が組まれる。
1974年4月 細江、荒木経惟、東松照明、深瀬昌久、横須賀功光とともに、それぞれが教室を持つ、寺子屋スタイルの「ワークショップ写真学校」を開講。
1975年 東京写真専門学校(現専門学校東京ビジュアルアーツ)の専任講師として、総合写真ゼミを担当。
1976年3月 ワークショップ写真学校解散。
1976年6月 新宿に菊池大一郎、北島敬三、倉田精二、杉本建樹、徳永浩一、山崎和英らとイメージショップ「CAMP」を開設。
1977年6月 森山大道塾を開講(翌年3月に閉講)。
1978年 約3ヶ月間、札幌に住む。
1980年4月 海外で初となる個展をオーストリアのグラーツにて開催。ヨーロッパに1ヶ月間滞在し、古屋誠一とともに各地を巡る。
1981年 北島とともに「CAMP」を脱会。
1983年 「日本カメラ」A部大型白黒写真コンテストの年間審査員を務める。
1983年6月 『光と影』を対象に、[日本写真協会年度賞]受賞。
1987年6月 ギャラリー「room・801」を渋谷に開設。
1988年7月 「room・801」を「FOTO DAIDO」と改称。
1988年11月 パリを訪れる。
1989年2月 パリおよびモロッコのマラケシュを訪れる。
1992年 「FOTO DAIDO」を閉廊。
1994年 ギャラリー「プレイスM」に加わる。
1995年7月 阪神・淡路大震災支援イベント「HYOGO AID' 95 by ART」に参加し、オリジナルプリントを兵庫県立美術館に寄贈。
1998年10月 還暦を祝う「赤犬の会」を開催。
2000年3月 東京ビジュアルアーツの専任講師を辞退し顧問となる。
2000年4月 東京工芸大学客員教授に就任。
2001年9月 藤井謙二郎監督によるドキュメント映画『≒森山大道』公開。
2003年1月 第44回毎日芸術賞受賞。
2004年10月 ドイツ写真家協会賞受賞。
2005年4月 京都造形芸術大学情報デザイン学科客員教授に就任。
2009年 写真集『北海道』で第21回写真の会賞受賞。
2019年 第39回ハッセルブラッド国際写真賞受賞。日本人としては濱谷浩、杉本博司、石内都に次ぐ四人目の受賞。
2021年1月 2020年度朝日賞受賞。 
代表作
Stray Dog, Misawa, Aomori
Hatano. Kanagawa
Zushi
Hiratuka
元永定正
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
当初は西宮市の美術展出品を行っていたが、後に芦屋市で開催されていた芦屋市展に作品出品の主軸を移し、絵画分野に留まらず彫刻、写真などの出品を行った。
当時の芦屋市展には多くの抽象画が出品されており、これに影響を受けた元永が抽象画家に転向した後に同展8回展に
出品した抽象画「寶がある」は同展覧会主催の吉原治良に絶賛されたとされる。
また、芦屋市展には元永は渡米中の1967年20回展および阪神淡路大震災による影響で中止となった1995年48回展の2回を除き、2002年第55回展まで一貫して連続出品を続けた。
芦屋市展における元永の受賞歴は1953年第6回展出品作「黄色の裸婦」ホルベイン賞、1955年第8回展「寶がある」ホルベイン賞・日本油絵具賞(彫刻)がある。
同展主催の芦屋市美術協会が1955年7月に同市で開催した「真夏の太陽にいどむ野外モダンアート実験展」がきっかけとなり、
元永は具体美術協会主催の吉原治良の誘いを受け同会に入会した。
関西を主軸に活動していた具体美術協会に参加した元永は前例のない絵本づくりを志した。
活動初期は抽象画を用いた絵本に対し抗議の手紙が多かったことも2011年のインタビューで述懐している。
この当時から1971年に同協会を脱会するまで、元永は中心メンバーとして活躍した。
1957年には後に妻となる中辻悦子と西宮美術教室で出会っている。翌1958年より日本画のたらし込み技法にヒントを得、キャンバス上に絵の具を流した絵作りを開始している。
1960年からはアメリカ合衆国ニューヨークの画廊やイタリアのトリノにある国際美学研究センターと契約を結んだほか、翌1961年に東京の画廊で個展を開いたことをきっかけとして東京の作家および評論家と交流を持つことに繋がった[1]。
活動の幅を広げた元永は1964年第6回現代日本美術展、1966年第7回同展で連続で優秀賞を受賞している。
また同1966年、ジャパン・ソサエティの招聘により妻の中辻悦子を伴ってアメリカ合衆国ニューヨークへ渡米し、その際に同じく招聘された谷川俊太郎と知り合った。
1967年に帰国するまでにニューヨークで絵画技法に試行錯誤を重ね、新たな作風を確立した。
帰国後は1970年に大阪で開催された大阪万国博覧会の具体美術祭りに参加したものの、新規参加メンバーを多く加えた同協会の雰囲気に違和感を覚えたことを理由として
翌1971年10月に具体美術協会を脱退した。
なお、同協会は元永が脱退した翌年の1972年に主催の吉原治良が死去したことにより解散している。
色をつけた水を透明な袋に入れた「水の立体作品」が同協会時代の元永の代表作だった。
具体美術協会脱退直前の1970年より絵本制作活動を開始しており、自身初の絵本は英文の『ポアン・ホワンけのくもたち』で、
アクリルとエアブラシを用いたユーモラスな画風として1973年に刊行された。
1980年代以降は具体美術協会の再評価に伴い、国内外を問わず開催された関連展覧会に積極的に参加した。
また、絵本原画展も数多く開催し、2007年以降は妻の中辻悦子の作品も展覧した「もーやん えっちゃん ええほんのえ」展が各地を巡回した。
地元の三重県立美術館で元永の大規模な回顧展が1991年、2009年の2回に渡って開催されるなどしたほか、1980年代以降死去までに数多くの賞を受けた。
2011年10月3日、前立腺がんのため、兵庫県宝塚市の病院で死去。
88歳没。
代表作
オレンジの中で
いいろろ
さんかくさんしょくかさね
まるいあか
あみのうえにあかみどり
くろいかたちはういている
すうしきもある
Untitled
あみだだ
せんのまわりに
しろいひかりのたてとよこ
「い」
かさねいろだま
あかのうえ
しろいつつ
しろいはんまる
だんだんちぃちゃくちゃいろがむっつ
李禹煥Lee U-Fan
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
日本の現代美術の大きな動向である「もの派」を理論的に主導したことで有名である。個展および国際展への出品多数。代表作は「点より」「線より」シリーズ。

直島に安藤忠雄とのコラボレーションによる李禹煥美術館を開館。釜山市立美術館敷地に「李禹煥ギャラリー(Space LeeUFan)」を開設している。

1956年、ソウル大学校美術大学を中退後、来日。
1961年、日本大学文理学部哲学科を卒業。
1969年、「事物から存在へ」が美術出版社・芸術評論募集に入賞。
1971年、評論集『出会いを求めて』(田畑書店)を出版、国内外の美術界に影響を与える。
2010年、香川県直島町に初の個人美術館である李禹煥美術館が開館。
2015年、釜山市立美術館敷地に2館目の個人美術館李禹煥ギャラリー(Space LeeUFan)を開館。
代表作
Dialogue
From Winds
From Lines
Port of Call 1
やなぎみわ
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
兵庫県神戸市生まれ。京都市在住。現代アート作家の中ハシ克シゲに絵を教わり京都市立芸術大学工芸科に入学。同大学卒業、同大学院美術研究科修了。在学中より布を使った造形やインスタレーション(空間芸術)を制作。

1988年、京都で初個展。1993年、エレベーターガールをモチーフに生身の女性を使った作品を発表し、話題となる。1990年代後半より、写真・ビデオ映像等を使った作品で国内外の展覧会に参加。

2004年から2009年にかけて、ドイツグッゲンハイム美術館、原美術館、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、東京都写真美術館、国立国際美術館など個展のほか、国内外で多数の展覧会を開催。

2009年、第53回ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館代表となる。

2010年より舞台公演を手がけ、2011年から2012年にかけて、大正期の日本を舞台に新興芸術運動の揺籃を描いた「1924」三部作を美術館と劇場で上演。

2013年、脚本・演出・美術を手がけた戯曲「ゼロ・アワー 東京ローズ最後のテープ」を上演。同作は2015年1月~2月にかけてアメリカ、カナダにて計10公演が上演され、ニューヨーク・タイムズに劇評も掲載されるなど現地での注目を浴びた。                

台湾にて移動舞台車(ステージトレーラー)を製造し、2014年の横浜トリエンナーレで日本に初輸入。

2016年には、その舞台車で中上健次原作の「日輪の翼」を、熊野はじめ各地で上演。

2006~2011年、神戸芸術工科大学准教授、2012年からは京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)教授。
代表作
エレベーター・ガール
マイ・グランドマザーズ
フェアリーテール
ヤノベケンジ
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
「子供時代の記憶や関心」に基づいて、「現代社会と終末の未来を生き抜くためのサバイバル・マシーンである機械彫刻群」を、「妄想の力」によって制作してきたヤノベの根底にある体験は、自宅近くの大阪万博会場跡地で遊んだことという。6歳で茨木市に引っ越してきたときにはすでに万博は終了し、跡地は再利用の計画も曖昧なまま更地工事が続いていた。近未来的なパビリオンの残骸や、巨大ロボット・デメが放置されたお祭り広場で遊んだとき「未来の廃墟」のイメージを見たが、不思議と悲しくはなく、むしろ何もなくなったこの場所から何でも作り出せる、と胸の高鳴りを覚えたという。

少年時代から特撮(特に、怪獣の造形)に夢中で、怪獣のイラストをかいたり造型をしてはSF雑誌『宇宙船』などに投稿していたという。

1990年、京都のアートスペース虹で、生理食塩水を入れたタンクの中へ鑑賞者が浸かり瞑想する、体験型作品『タンキング・マシーン』(現・金沢21世紀美術館所蔵)を発表。同作で第一回キリンプラザ大阪コンテンポラリーアワード最優秀作品賞を受賞。その後、1992年水戸芸術館での個展「妄想砦のヤノベケンジ」では美術館へ住み込み、ユーモラスな形でありつつ後の放射能汚染された環境でも生き抜く機能のあるスーツ、サバイバル用の機械一式、それらを収納して移動する車両などを発表。以後「サバイバル」をテーマに終末的な環境下で使用するための機械彫刻シリーズを続け、1994年以降はベルリンへ移住し欧米でも精力的に制作・発表、主に日本のサブカルチャーとの関連でも取り上げられ、注目を浴びた。

阪神・淡路大震災とオウム事件は、妄想であったものが現実となったことでヤノベに転機を与えた。1990年代後半からは史上最後の遊園地計画、「ルナ・プロジェクト」を構想、その一環として「アトムスーツプロジェクト」を開始した。鉄腕アトムにどことなく似た形のガイガーカウンター付き放射能感知服を着用し、チェルノブイリ原発や周辺の放棄された都市の廃墟、大阪万博跡の万博記念公園、砂漠や海岸などを歩き、子供のころに感じた「未来の廃墟」へもう一度戻るための「時間旅行」を試みた。

開催後三十年を経て朽ちてゆく途中の大阪万博の残存物との出会い、チェルノブイリの激しい放射線量、遊園地・保育園・軍用車などの残骸の「現実の廃墟」のすさまじさ、そこでも生きている人々たちとの遭遇などの体験から帰って、以後テーマを「廃墟からの再生(リバイバル)」に転換してゆく。

チェルノブイリの保育園で見た人形と万博後の廃墟で見たロボットをモチーフにした大型ロボット、子供の命令だけで歌い踊り火を吐く巨大な腹話術人形型ロボットなどが制作されている。2003年、大阪万博の美術館だった国立国際美術館で、集大成的展覧会「メガロマニア」を開催。解体されたエキスポタワーから下ろされた朽ちた展望台の一部を使用し、展望台内で生えていた苔を育てるなどの作品を制作した。

2005年、豊田市美術館で個展「KINDERGARTEN」を開催。ヤノベの5歳の息子の声が登録され子供の命令しか聞かないという、高さ約7.2mのロボット人形「ジャイアント・トらやん」や、ヤノベ自身が乗っていた車と産業廃棄物で作った約3.7mのマンモスロボット、映画を見たりお菓子を食べたりして生き延びる子供用核シェルターという設定の作品「森の映画館」等を公開した。「この展覧会が、子供たちにとって何かのきっかけ作りになればうれしい」と、中日新聞の取材で訪れた子供記者達に語った。

2016年、第29回京都美術文化賞を受賞。

2011年に発生した東日本大震災と福島第一原子力発電所事故からの復興と再生への願いを託した像で、太陽を右手に持ち防護服を着た子どもがヘルメットを脱いだ姿となっている。モチーフは、チェルノブイリ近くの廃虚となった保育園の壁に描かれていた太陽の絵。2012年以降に数体制作され、世界各地に設置。日本国内では、茨木市南茨木駅前のほか福島市内の教育施設前に設置された。福島市のものは、放射能の風評被害を助長するなどの批判が相次いだため、2018年9月に撤去された。
代表作
トらやん
ミッキーマスク
マーキング・ドック
タンキング・マシーン
ビバ・リバ・プロジェクト ースタンダー
山口晃
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
1969年東京都生まれ。群馬県桐生市で育つ。群馬県立桐生高等学校卒業。私立美術大学を一年で中退後、1994年東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻卒業、1996年東京芸術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。1997年、会田誠に誘われ「こたつ派」展に参加。2001年に岡本太郎記念現代芸術大賞優秀賞を受賞。2013年に『ヘンな日本美術史』で第12回小林秀雄賞を受賞。

大和絵や浮世絵のようなタッチで、非常に緻密に人物や建築物などを描き込む画風で知られる。武士を馬型のバイクに乗せたり、現代の超高層ビルに瓦屋根を載せて描くなど、作品の多くが自由でユーモラスな発想で描かれている。書籍の装丁や広告のポスターの原画も数多く手掛け、成田空港の出発ロビーなどにパブリックアートとして作品が設置されている。2012年に平等院にある養林庵書院に襖絵が奉納された。

主要取り扱い画廊は、ミヅマアートギャラリー。
代表作
洞穴の頼朝
どぶ川のほとり
落馬
十字軍
今様遊楽
何かを造ル
胎内巡り
歌謡ショウ
東京 奨堕不楽乃段
東京 六本木昼
階段遊楽
百貨店 日本橋三越
東京 芝の大塔
成田国際空港 飛行機百珍圖
四天王立像「廣目天」「増長天」「持国天」「多聞天」
ラグランジュポイント
四季休息
渡海文殊
Tokio山水
ショッピングモール
前に下がる 下を仰ぐ
富士北麓参詣曼荼羅

山口歴
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
浮世絵や印象派の画家のポストカードを模写する幼少期を過ごす。7歳より西洋画を学び、欧米のグラフィティやポップアートにも感銘を受け、それら歴史上のアーティストのテクニックや表現技法に関心を持つ。
多元化した文化の影響による、ヒップホップの「サンプリング」というテクニックから着想を得て、独立した多色の絵具の筆跡を貼り合わせる「カットアンドペースト」という独自の表現手法で制作活動を行っている。 カットアンドペーストを用い、キャンバス作品に限らず、彫刻、ビルの壁面等、様々なスタイルの作品を制作する。
多色な独立した筆跡(しかし決して各々の筆跡が交わる事はない)の集積で形成される人物画や風景画は、自身を含む多元化した現代の人々や風景を表しています。
NYの人気ギャラリー 「REED SPACE 」で個展開催する等、現在注目されている若手アーティストです。

1984年 東京都に生まれる
2006年 個展"SHROOM HEADZ EXHIBITION", LEVI’S Arcuate, Tokyo
2007年 渡米、NY在住
2011年 グループ展"GROUPSHOW3", AISHO MIURA ARTS, Tokyo,
2011年 チャリティオークション"Art For Tibet III Gallery Show and Fundraiser Auction", Joshua Liner Gallery, New York
2012年 グループ展"POST DPI", Kaikaikiki Gallery HIDARI ZINGARO, Tokyo
2013年 グループ展"ART OF JOMON", hpgr GALLERY, New York
代表作
REVISUALIZE NO.7
ROOTS OF TEARS
Out Of Bound #87
ロッカクアヤコ
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
1982年~ 千葉県出身 日本の現代芸術家

2001年 独学の絵を描き始め、アーティストである村上隆が主催する「GEISAI」で注目を集める。
2006年 スイスでのアートバーゼル出展時に行ったライブペインティングで100枚以上を描き完売。現在では人気・評価ともに日本よりもヨーロッパで高く、海外での活動が中心。
2007年 国内初となる大規模な個展を開催

筆など一般的な道具を一切使わず、アクリル絵の具を使い、手で直接キャンパスや段ボールに描く独特のスタイルで行われるライブペインティングや色彩豊かな作品が特徴。
女の子をモチーフにカラフルでポップな作品が多い。
代表作
untitled
赤い服を着た女の子
なんだね わけてください
だれがゆめをみてるの?
はいおまたせ すごいばかせ!ありがとう
Yassan
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
埼玉県出身。GPS絵画の先駆者。

東京藝術大学美術学部先端芸術表現科を卒業。在学中は川俣正に師事。

2008年に日本列島を縦断して描いた処女作”MARRY ME (7,163.67km)”が、2010年、ギネス世界記録に認定される。この作品が、ギネス世界記録に”最大のGPS絵画”カテゴリーとして初めて登録される。

2015年、世界一周し5大陸にわたって”PEACE on Earth (60,794.07km)”を描く。ギネス世界記録に認定されていないが、現存する最大の作品である。

2019年、Googleのドキュメンタリーシリーズ Google Stories.で紹介される。
代表作
MARRY ME(Google Maps)
#PEACEonEarth(Google Maps)
「無名の土地への入口」への道(Google Maps)
初音ミク(Google Maps)
チーバくん(Google Maps)
境貴雄
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
東京藝術大学に在学中より和菓子や小豆を媒体とした作品を発表。作品のジャンルは彫刻、写真、パフォーマンスと多岐にわたっている。

2005年(大学4年次)に開催されたオオタファインアーツでの展覧会を機に本格的なアーティスト活動をスタート。テレビ番組やトークショーの出演、ラジオ番組のパーソナリティ、雑誌や新聞の掲載、伊勢丹やルミネといった商業施設でのイベント、ファッションブランドとのコラボレーションなど、アート界のみならず様々なメディアで活動している。また、ニューヨーク、ロサンゼルス、ロンドン、ソウル、台北でもイベントや展覧会を開催している。

作品のモチーフとなる和菓子は主に小豆、餅や団子、饅頭などの素朴なもの、鯛や花を意匠化した干菓子が中心である。それらを装飾的に貼り付けたり積み上げたりする造形は、邪気を払う呪術的な意味から由来し、社寺にて幸福を祈願するため神仏へ捧げる神饌や供饌、滋賀県に伝わる民俗宗教行事オコナイからの影響が大きい。小豆や和菓子をモチーフとした作品は、現代における「魔除けの造形」であり、差別や暴力のない平和な世界への祈りが込められている。
代表作
アズラー / AZURER
J-SWEETS
小豆の生活 / A LIFE OF AZUKI
篠原有司男
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
東京麹町生まれ。父親は詩人、母親は日本画家だった。千代田区立番町小学校を経て、日本大学第二工業学校に入学。疎開先から東京に戻ると、麻布中学校に入学。在学中は画家の荻太郎に師事する。

1952年、東京芸術大学美術学部油絵科に入学、林武に師事。1957年、同校を中退。1958年、村松画廊で初個展を開催。1960年、「読売アンデパンダン展」で活躍していた吉村益信、赤瀬川原平、荒川修作らとともに「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」を新宿ホワイトハウスにて結成。短い活動期間に多くの伝説を残す。日本ではじめて頭を「モヒカン刈り」にして、週刊誌のグラビアで紹介された。

その後も「イミテーション・アート」や「花魁シリーズ」(1965年)などの「悪趣味」で「スキャンダラス」な作品を次々と発表。ボクシンググローブに絵の具をつけてキャンバスを殴りつけながら絵を描く「ボクシング・ペインティング」は有司男の代名詞となるが、これはマスメディア向けのパフォーマンスであり、芸術のつもりは毛頭なかったと、のちに赤瀬川との対談で明かしている。

1969年、ロックフェラー三世基金の奨学金を得て、妻と子供と共に渡米。以後ニューヨーク在住。1972年、段ボールを使ったオートバイの彫刻「モーターサイクル・ブルックリン」などを作り始める。1973年3月、現夫人で、現代アート作家である乃り子(旧姓・島)と出会う。ただ、当時の米国ではマイノリティの芸術家はモダンアートの市場からは締め出される構造があり、制作の拠点をニューヨークに置きつつ、発表は日本で行なっていた。米国で本格的な再評価がなされるのは90年代以降である。

2007年、第48回毎日芸術賞を受賞。

2008年、ドキュメンタリーDVD『モヒカンとハンガリ ギュウとチュウ 篠原有司男と榎忠』(監督・青木兼治)が作られる。

2012年、ニューヨーク州立大学ニューパルス校ドースキー美術館で、初の回顧展が開催された。

2013年1月、篠原有司男・乃り子夫妻の日常を綴ったドキュメンタリー映画『キューティー&ボクサー』(監督:ザッカリー・ハインザーリング)がサンダンス映画祭ドキュメンタリー部門監督賞を受賞。12月21日、同ドキュメンタリーが日本で公開される。29都道府県で順次公開予定。

2019年12月、文化庁長官表彰。
代表作
タイムズスクエア
「篠原有司男自伝『前衛の道』」ポスター
「篠原有司男『前衛の道』」ポスター
手鏡
刈谷の嵐
一葉
『篠原有司男展 ギュウちゃん、“前衛の道”爆走60年図録』原画(表紙)
鈴木朝潮
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
1985年 - 東京芸術大学美術学部油画科卒業
1986年、中上健次-『十九歳のジェイコブ』表紙装丁に採用。
1987年 - 東京芸術大学油画大学院壁画研究室修了
1990年代初頭よりコンクリートを使ったオブジェ「雨の記憶」を発表。
1992年、第28回今日の作家展(横浜市民ギャラリー)。  同年、山崎豊子-『白い巨塔』表紙装丁に採用。
1990年代中盤から鉄条網を使ったオブジェ「剛針鋼網」を発表。
2000年代より「雨の記憶」「剛針鋼網」を使い銅版画を制作を行う。自作オブジェ写真でフォトエッチングの技法により銅版画を制作。
2005年 - 日本美術家連盟会員
2008年 - 日本版画協会準会員
2009年、浜口陽三生誕100年記念銅版画大賞展(ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション)で銅版画が入賞。
2010年代よりデジタル処理によるデジタル版画の制作ルアチント
2013年より新たなデジタルプリント手法「フレスコジクレー」の制作。
2014年、第十六回中華民国国際版画ビエンナーレに選ばれ、フレスコジクレー作品が台湾国立美術館に収蔵。
2016年、『版画芸術』No171、「デシタル版画の現在」にて6ページの特集。
代表作

アーティチョーク
アガパンサス
曽谷朝絵
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
神奈川県出身。東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了後、2006年に東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻にて博士(美術)取得。2014年、文化庁新進芸術家海外研修制度によりニューヨークに留学。

日常身近にあるものをモチーフにし、身体感覚を光と色彩に昇華する絵画、インスタレーション等で知られている。近年では従来の絵画作品《Bathtub》、《Circles》、《Airport》、《The Light》シリーズに加え、鮮やかな色彩で森のなかでざわめく草花や木々を連想させる《air》、「色が奏でる音の反響」をテーマにした《鳴る色》、「光が発する音」をテーマにした《鳴る光》、「創造の森」を視覚化した、映像インスタレーション《宙》(そら)などを新たに展開している。
代表作
虹の家

鳴る色
高松次郎
国別分類
人物・来歴・経歴・その他
東京都に生まれ、1954年に東京藝術大学絵画科(油画専攻)に入学。在学中は小磯良平に師事した。卒業後の1958年より第10回読売アンデパンダン展へ作品の出品を開始し、以後1959、1961、1962、1963年に出品している。はじめ前衛芸術に傾倒し、中西夏之、川仁宏らと共に、有名な「山手線事件」というハプニングを行った。また中西、赤瀬川原平らと芸術集団ハイレッド・センターを結成し、数多くのパフォーマンスを実践した。

作品はインスタレーションから絵画、彫刻、壁画、写真、映画にまで様々なスタイルに至り、多くの作品が抽象的かつ、反芸術的な色合いが濃いもので、実体の無い影のみを描いた作品「影」シリーズが脚光を浴び、石や木などの自然物に僅かに手を加えただけの作品、遠近法を完全に逆にした作品など、あえて「思考させる」「思考する」ことにより、作品と世界との間に新しい関係を作りだすことに成功し、1960年代以降の日本におけるコンセプチュアル・アートに大きな影響を与えた。

しかし1980年代に登場する「形」シリーズからは作品に飛躍的な展開が見られ、平面空間に線、面、色彩が溢れるようになる。高松は62歳で亡くなるまで20年間以上三鷹にアトリエを構え、病に倒れた後も亡くなる直前まで、このシリーズを追求し続けた。

1968年より多摩美術大学専任講師を務め、1972年から1974年まで東京藝術大学にて美術学部油画科非常勤講師を務めた。1981年「十代の会」の発起人の一人として同会創立に参加。
代表作
遠近法の日曜広場
遠近法のテーブル
ガラスの単体
日本語の文字

赤ん坊の影NO.387

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