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兵庫県について

兵庫県の観光でまず有名なのが、世界文化遺産の一つでもある姫路城です。
日本の木造建築として最高のものであるといった理由から、1993年の登録以降、多くの人たちが姫路城を訪れています。
その他に有名なのが、神戸の百万ドルの夜景です。
1995年の阪神淡路大震災以降復興をはたし、さらに美しくなった神戸の夜景を見られます。
また、神戸の町並みは外国のような町並みに似ています。
観光地として多くの人が兵庫県を訪れています。

兵庫県は関西地方の中でも観光名所が多くある事で有名な県となっています。
本州で唯一日本海と瀬戸内海の2つの海に面しているといった特徴があり北部と南部では異なる特産物や海の幸を楽しむ事が出来るといった魅力があります。
県庁所在地となっている神戸市は兵庫県の中で一番人口の多い市となっている事やオフィス街や繁華街となっている三宮駅周辺は複数の路線の駅がある交通アクセスの良い地域となっていて常に人で賑わっています。
神戸空港や新幹線の新神戸駅がある事で気軽に遠出が出来る環境が整っている等、不便に感じる事なく生活をする事が出来る県でもあります。

また、兵庫県は古墳の数が日本一位、遺跡の数が日本二位と様々な時代の歴史的な資料や建造物があり姫路城はユネスコの世界遺産に登録されている事で有名です。
黒田官兵衛や平清盛といった歴史の授業や大河ドラマにもなった武将の縁のある歴史めぐりを気軽にする事が出来ます。

画家について

伊藤 清永
第8回 槐樹杜展に出品した「祐天寺風景」が入選、これが伊藤の公募展初入選作品となる。
その後も1933年(昭和8年)の「朝の路次」が第10回白日会展白日賞および第14回帝展入選、1936年(昭和11年)「磯人」が文展監査展特選となった。
戦時中は応召に2度応じ、1945年(昭和20年)の終戦により34歳で日本に復員して後は兄に代わり実家吉祥寺の住職代理を務めた。
また1947年(昭和22年)には兵庫県立出石高等女学校(現兵庫県立出石高等学校)の図画教員嘱託として教職を務めている。
この年、絵画制作を一からやり直す意図で裸婦の制作に取り組みを始め、同年1947年、第3回日展出品作「I夫人像」は特選を受賞し、
また翌1948年第4回日展出品作「室内」も続けて特選受賞した。
その後も1950年まで4年連続して日展特選を受賞した。
1953年、後進の画家を指導する目的で「伊藤絵画研究所」を新築・開設した。
また1956年には日展審査員に就任し、翌1957年愛知学院大学教授に就任している。
1962年、51歳時にフランスのパリおよびオランダへ渡欧、2か国に滞在し制作を行った。
このときパリでパブロ・ピカソの画商であり評論家でもあるダニエル=ヘンリー・カーンワイラーと知り合いパリ滞在を勧められたものの、伊藤は断って帰国している。
このときの渡欧経験で培われた技術は伊藤の画風を変化させ、以後色彩豊かな柔らかい描線、女性の肌の美しさをあらわした裸婦やバラなどを描いた。
1976年、66歳で描いた第8回日展出品作「曙光」が日展内閣総理大臣賞および翌1977年の第33回(昭和51年度)日本芸術院賞恩賜賞を受賞した。
「曙光」は文化庁が買い上げ、日本芸術院が所蔵した。
また同1977年日展理事に就任。
1986年より白日会会長を務める。
同年、「巨匠の素顔」と題した伊藤のテレビ番組がフジテレビにて放映された。
翌1987年には出生地兵庫県出石町主催による「郷土が生んだ現代洋画壇の重鎮 伊藤清永展」が開催された。
1989年、出石町立伊藤美術館(現豊岡市立美術館「伊藤清永記念館」)が開館、伊藤は出石町名誉町民となった。
1991年文化功労者顕彰、同年日展顧問に就任。
1996年文化勲章受章、同受章を記念し翌1997年、読売新聞社主催による「鮮麗なる裸婦の輝き 伊藤清永展 文化勲章受章を記念して」が開催された。
また1997年には郷里児童を対象とする「伊藤清永賞子ども絵画展」が創設された。
2001年6月5日、長野県軽井沢町のアトリエで制作後に急性心不全により病院に運ばれ、そのまま死去。
90歳没。
急死により製作途中の「ばら」など作品数点が絶筆となった。

岩佐又兵衛
摂津国河辺郡伊丹(現在の兵庫県伊丹市伊丹)の有岡城主、荒木村重の子として生まれる。
誕生の翌年・天正7年(1579年)、村重は織田信長の家臣であったが、信長に反逆を企て、失敗する(有岡城の戦い)。落城に際して荒木一族はそのほとんどが斬殺されるが、
数え年2歳の又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺に保護される。
成人した又兵衛は母方の岩佐姓を名乗り、信長の息子・織田信雄に近習小姓役として仕えたという。
文芸や画業などの諸芸をもって主君に仕える御伽衆のような存在だったと考えられる。信雄が改易後、浪人となった又兵衛は勝以を名乗り、京都で絵師として活動を始めたようである。
大坂の陣の直後の40歳のころ、福井藩主・松平忠直に招かれて、あるいは後に岩佐家の菩提寺になる興宗寺第十世心願との出会いがきっかけで、北の庄(現福井市)に移住する。
忠直配流後、松平忠昌の代になっても同地に留まり、20余年をこの地ですごす。
寛永14年(1637年)2代将軍・徳川秀忠の招き、あるいは大奥で地位のあった同族の荒木局の斡旋で、3代将軍・徳川家光の娘・千代姫が尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度制作を命じられ、
江戸に移り住む。20年余り江戸で活躍した後、73歳で波乱に満ちた生涯を終える。
家は福井に残した長男・岩佐勝重が継いだ。また、長谷川等伯の養子になった長谷川等哲も又兵衛の子といわれる。

「虎図[2]」 墨画 東京国立博物館
「源氏物語・花の宴(朧月夜)図」 着色 所在不明
「源氏物語・野々宮図」(重要美術品) 淡彩 出光美術館
「?居士図[3]」(重要美術品) 着色 福井県立美術館
「老子出関図[4]」 淡彩 東京国立博物館
「伊勢物語・烏の子図」(重要美術品) 着色 東京国立博物館
「伊勢物語・梓弓図」(重要文化財) 着色 文化庁
「弄玉仙図」(重要文化財) 着色 摘水軒記念文化振興財団寺島文化会館蔵
「羅浮仙図」(重要美術品) 着色 個人蔵
「唐人抓耳図」 着色 所在不明
「官女観菊図[5]」(重要文化財) 淡彩 山種美術館
「雲龍図」 墨画 東京国立博物館
池田屏風(旧樽谷屏風)
旧岡山藩池田公爵家に伝わった着色・八曲一隻の腰屏風押貼絵を分割したもの。旧称「樽谷屏風」の名前の由来は不明。大正8年の売り立てで分割された。下に一扇目から順に、画題と現在の所蔵先を記す。
「貴人の雪見」 所在不明
「王昭君」 サンフランシスコ・アジア美術館(ブランデージコレクション)
「寂光院」(重要文化財) MOA美術館
「伊勢物語・花の宴」 所在不明
「伊勢物語・梓弓」 所在不明
「伊勢物語・五十三段」 出光美術館
「僧をたずねる武人」 所在不明
「職人尽・傘張りと虚無僧」(重要美術品) 根津美術館
「三十六歌仙絵」 紙本著色 36面 福岡市美術館
落款・印章は無いが、極端に誇張・変形された身体表現を用いて一人一人の個性が巧みに描き分けられており、福井時代初期の又兵衛作だと推定される。図上に書かれた和歌が全て削り取られているが、その理由は不明。上野精一旧蔵品。
「人麿・貫之像[6]」(重要文化財) MOA美術館
「和漢故事説話図」 福井県立美術館
「武者絵」 (重要美術品) 紙本着色 ニューオータニ美術館
「花見遊楽図屏風」 四曲一隻 個人蔵


王 少飛
湖南工?美???学院卒業
神戸大学大学院美術教育学研究科修士課程修了(1993年)
フランス国際賞
国連金賞受賞
新中国絵画芸術最高栄誉賞受賞(2009年)

「漁家の女」1986年
「紅夢」1988年
「宇宙共存」1989年
「王様と私」1991年
「魚の音楽」1994年
「楽しい我が家」2002年
「高い太陽」2007年
「夏の恋」2017年


大松 伸洋
日本の兵庫県出身。安室中学校を卒業後、イギリスに渡り美術を学ぶ。Woodhouse Grove School (GCSE)、ケンブリッジにあるCambridge Centre for six-form studiesを卒業(高校)。
イギリスではブラッドフォードに1年、ハローゲート(英語版)に2年、ケンブリッジに2年、計5年滞在している。
イギリスの高校卒業後、ロンドン芸術大学に合格していたが、ギャップホリデーを利用してニュージーランドに渡った。
多くの国々を訪れ地球の広さに感動し、サンフランシスコ、ニューヨーク、モスクワ、ネルソンなど各地を転々した後に帰国している。
日本に帰国後、具体のメンバーであった嶋本昭三に師事するため、宝塚造形芸術大学大学院メディア造形研究科基礎造形に進む。
大学院修士課程では、国境の存在意義をテーマに制作的研究を行う。大学院修了後、淡路島にアトリエを構え、移住して制作活動を行う。
2007年に銀座で開催されたみずほストリートギャラリー(みずほ銀行銀座中央支店)においては、福田繁雄より選出され、ショーウインドーを
使った鮮やかな球体と平面から構成されるインスタレーションの作品を発表する。
続いて、阪急三番街の南館地下2階のウインドーギャラリーで同じくインスタレーションの作品を制作する。
2010年から2013年2月まで横浜美術大学で専任助手として勤務。
2010年から2011年の間にモントリオールで2度、個展を開催する。作品は完売。
現在[いつ?]は日本国内・国外を問わず、作品の制作・発表を行っている。
兵庫教育大学大学院の博士後期課程研究科に通い、博士号取得にむけ準備を始めたが、福岡こども短期大学の専任講師に選出されたため退学。
2013年4月より、福岡こども短期大学の専任講師に就任、幼児美術(実技)。
2016年4月より、同大学の准教授に就任。
2017年9月、九州大学大学院 芸術工学府 博士後期課程を単位取得満期退学している。
2017年4月より、鹿児島県立短期大学にて助教に就任。
2019年4月より、高知学園短期大学の幼児保育学科、専任講師に就任、幼児美術(実技)

金山 平三
1883年(明治16年)兵庫県神戸区(現在の神戸市中央区)元町通3丁目に金山春吉、ひさの第四子として生まれる。
1905年(明治38年)9月東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科本科に入学する。主任教授である黒田清輝らに師事し、1909年(明治42年)3月東京美術学校西洋画科を首席で卒業する。
4月には同校西洋画科研究科に進み助手となる。しかし1911年(明治44年)2月15日付で退学し神戸へ帰る。
1912年(明治45年)1月20日に日本郵船平野丸で神戸港を出発して、パリに3月7日に到着する。28歳から31歳までの4年近くの間は、パリを拠点にヨーロッパ各地へ写生旅行に赴く。
そして1915年(大正4年)9月27日にパリを離れ、10月3日マルセイユ港から乗船し11月に神戸港に到着。帰国して神戸市神戸花隈町(現在の中央区花隈町)の自宅(1898年に転居)に戻る。
1916年(大正5年)10月には、第10回文展初出品の小豆島で描いた『夏の内海』が初入選かつ特選第二席になり、文部省買い上げとなる。
翌1917年には『氷辷り』が第11回文展の特選第一席になる。同年1月上旬に長野県下諏訪で描いた作品で、以後毎年2月にかけて同地で制作するようになる。
1919年(大正8年)9月に帝国美術院が創設されて、同院主催の帝国美術展覧会(帝展)が開催されることになり、36歳にして帝展審査委員(1924年には帝展委員となり、後に審査員となる)に選ばれる。
同年10月の第1回帝展には『雪』『花』を出品する。
また11月には牧田らくを入籍し、東京市小石川区大塚坂下町(現在の文京区大塚6丁目)に転居する。
1922年(大正11年)10月の第4回帝展に『下諏訪のリンク』を出品する。関東大震災が起きた1923年(大正12年)5月に初めて山形県北村山郡大石田を訪れ滞在する。
1925年(大正14年)4月東京府豊多摩郡落合町大字下落合(現在の新宿区中井2丁目)にアトリエが完成し転居する。1928年(昭和3年)10月の第9回帝展には『菊』を出品する。
1929年(昭和4年)10月の第10回帝展には大石田で描いた『東北地方の春』を出品する。1933年(昭和8年)10月の第14回帝展には房州千倉で制作した『風雨の翌日』を出品する。
しかし1935年(昭和10年)5月の帝国美術院改組を機に中央画壇から去り、翌1936年から官展不出品を1959年(昭和34年)まで24年間貫く。1944年7月1日帝室技芸員となり、
1945年には、皇太子(現在の明仁上皇)および義宮(現在の常陸宮正仁親王)に作品を献上する。
1945年(昭和20年)3月17日の神戸大空襲で実家が罹災し、作品が焼失する。
5月には最上川をはさんで大石田(現在の北村山郡大石田町の中心部)の対岸に位置する北村山郡横山村(1955年に大石田町と合併)に疎開する。
後にしばしば写生旅行をするようになる刑部人も同宿する。また大石田で斎藤茂吉と親交を結んだ。
1946年(昭和21年)10月には文部省より日展審査員に選ばれるが辞退する。1947年(昭和22年)2月横山村から大石田に移り、これ以降は大石田が生活の拠点となる。
1953年(昭和28年)2月、前年12月に開館した東京国立近代美術館で開催された「近代洋画の歩み-静養と日本」展に『夏の内海』と『下諏訪のリンク』が出品される。
1956年(昭和31年)5月、日本橋髙島屋において金山平三画業五十年展が開催され、多数の未発表作を含む240点が出品される。
1957年(昭和32年)2月には日本藝術院会員に任命される。1959年(昭和34年)3月には日展顧問を委嘱される。同年11月の第2回新日展には『渓流』を出品する。
1961年(昭和36年)6月には、最晩年の重要な支援者である故郷神戸の川崎重工業株式会社に自選作品100点(翌年38点追加)の永久保管を願い出て、同社によって嘱託として処遇されて、
夫妻でのヨーロッパ再訪旅行(9月 - 12月)の機会を得る。
1964年(昭和39年)6月に入院し、7月15日死去(享年81)。
遺志によって本葬儀は行われず、叙位・叙勲もすべて辞退している。
神戸市営追谷墓地に埋葬されている。

『自画像』 (1909年、東京藝術大学大学美術館蔵)[8]
『コンカルノーの城壁』 (1913年、東京国立近代美術館蔵)
『夏の内海』 (1916年、東京国立近代美術館蔵)[8]
『氷辷り』 (1917年)
『雪の湖』 (1920年、東京国立近代美術館蔵)
『さびれたる寛城子』 (1921年)
『下諏訪のリンク』 (1922年、個人蔵)[8]
『菊』 (1928年、東京国立近代美術館蔵)
『風雨の翌日』 (1933年、東京藝術大学大学美術館蔵)
『大石田の最上川』 (1948年頃、兵庫県立美術館蔵)[8]
『筒石の海岸』 (東京国立近代美術館蔵)
『下曽我の梅林』 (1934-45年、京都国立近代美術館蔵)
『一番桜』 (1954年、兵庫県立美術館蔵)[8]
『和井内の四月』 (1956年、東京国立近代美術館蔵)
『渓流』 (1956-64年、京都国立近代美術館蔵)
『渓流』 (1959年、兵庫県立美術館蔵)
『冬の諏訪湖』 (東京国立近代美術館蔵)


川勝 茂弘
1941年、兵庫県に生まれる。
1967年、新槐樹社展に初出品。
1970年、新槐樹社展にてクサカベ賞受賞、以降毎年出品している。
1971年、読売新聞社賞受賞。
1973年より大阪を中心に個展を開催している(17回)。
1984年、渡欧。以降、ヨーロッパ各地研修スケッチ旅行。


小磯 良平
1903年(明治36年)、旧三田藩の旧家で貿易に携わっていた岸上家の8人兄弟姉妹の次男として、神戸市神戸(現在の中央区)の中山手通に生まれた。
兵庫県立第二神戸中学校(現在の兵庫県立兵庫高等学校)では竹中郁と同級で、生涯の親友だった。東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科に進み、
猪熊弦一郎・岡田謙三・荻須高徳らの同級生と画架を並べる。在学中の1925年(大正14年)に「兄妹」が帝展入選、1926年(大正15年)「T嬢の像」が帝展特選を果たす。
首席で卒業後の1928年(昭和3年)、フランスに留学。ルーブル美術館のパオロ・ヴェロネーゼ「カナの婚礼」に衝撃を受け、群像表現を極めることを生涯のテーマとする。
帰国後の1936年(昭和11年)、「新制作派協会」(現・新制作協会)の結成に加わる。1938年(昭和13年)から1年間藤田嗣治らとともに陸軍省嘱託の身分で従軍画家として中国に渡り、
帰国後戦争画を製作した。1941年(昭和16年)に群像画の傑作「娘子関を征く」と「斉唱」を相次いで発表する。
良平自身は群像を書くため精力的に戦争画に取り組んだが、戦後は画集に収録しなかった。
戦意高揚のために戦争画を書いてしまったことに心が痛む、と晩年に語っている。
戦後は東京藝術大学教授などを務めて後進の指導にあたり、定年退官後も迎賓館(赤坂)大広間の壁画「絵画」「音楽」を制作するなど長きにわたり日本の洋画界に大きく貢献し、
同大学名誉教授の号を授与された。1992年(平成4年)に創設された「小磯良平大賞展」は国内最高賞金の公募展として知られている。
1933年(昭和8年)に神戸でキリスト教(組合教会系)の洗礼を受けており、1970年(昭和45年)には日本聖書協会の依頼により32点の聖書の挿絵を完成させた。
その他、1941年(昭和16年)出版の『東京八景』(太宰治)の装丁や1947年(昭和22年)に制定された「兵庫県民歌」楽譜の表紙画を手がけている。
1988年12月16日、肺炎のため神戸市東灘区の甲南病院で死去した。
享年85。

「T嬢の像」(1926年、兵庫県立美術館蔵)
「彼の休息」(1927年、東京藝術大学大学美術館蔵)
「日本髪の娘」(1935年、韓国国立中央博物館蔵)
「着物の女」(1936年、神戸市立小磯記念美術館蔵)
「練習場の踊り子達」(1938年、東京国立近代美術館蔵)
「斉唱」(1941年、兵庫県立美術館蔵)
「娘子関を征く」(1941年、東京国立近代美術館蔵)
「二人の少女」(1946年、神戸市立博物館蔵)
「働く人びと」(1953年、三井住友銀行蔵)
「婦人像」(1960年、神戸市立小磯記念美術館蔵) - 元宝塚歌劇団の八千草薫がモデルを務めた作品
「絵画」(1974年、赤坂迎賓館蔵、赤坂迎賓館の大ホールにて展示)
「音楽」(1974年、赤坂迎賓館蔵、赤坂迎賓館の大ホールにて展示)
「KOBE, THE AMERICAN HARBOUR」(1985年、兵庫県公館)

酒井 抱一
神田小川町の姫路藩別邸で、老中や大老にも任じられる酒井雅楽頭家、姫路藩世嗣酒井忠仰の次男(第4子)として生まれる。
母は大給松平家の出自で松平乗祐の娘里姫(玄桃院)。姫路藩主・酒井忠以の弟。抱一は兄に何かあった場合の保険として、兄が参勤交代で国元に戻る際、
留守居としてしばしば仮養子に立てられている。
安永6年(1777年)6月1日17歳で元服して1,000石を与えられるが、同年忠以に長男忠道が生まれると、仮養子願いも取り下げられてしまう。
古河藩主土井利厚などから養子に行く話も多くあったが、抱一は全て断った(理由は不明)。こうした複雑な環境が抱一を風雅な道へと進ませたと言えるかもしれないが、
江戸時代に同じ環境にあった大名子弟は多くいたにもかかわらず、今日文化史に名を残した者は増山雪斎や幕臣出身の浮世絵師鳥文斎栄之、水野廬朝などごくわずかしかおらず、
抱一の何かを表現したいという情熱は似た境遇の同輩とは一線を画している。
酒井雅楽頭家は代々文雅の理解者が多く、兄・忠以も茶人・俳人として知られ、当時の大手門前の酒井家藩邸は文化サロンのようになっていた。
一般に若い頃の抱一は、大名子弟の悪友たちと遊廓に通う放蕩時代と言われるが、兄の庇護のもと若い頃から芸文の世界に接近していく。
絵は武家の倣いで狩野派につき、中橋狩野家の狩野高信(1740-1794年)や狩野惟信に手解きを受けたようだが、酒井家は長崎派の宋紫石・紫山親子を頻繁に屋敷に招いており、
兄忠以には南蘋風の作品が残る。また、天明3-4年(1783年-1784年)の頃から浮世絵師の歌川豊春に師事し、師風を忠実に模す一方で、波濤の描き方には長崎派の影響が見える
肉筆美人画「松風村雨図」(細見美術館所蔵、豊春の「松風村雨図」(浮世絵太田記念美術館蔵)の模写)なども描いている。
抱一の肉筆浮世絵は10点ほど現存するとされ、それらは馴染みの遊女を取り上げながらも気品ある姿で描き、知人の大田南畝が狂詩を加賛している。
抱一の美人画は、初期の礒田湖龍斎風の作例や末期の鳥文斎栄之に通じる作品を除けば、豊春作と見紛うばかりの高い完成度を示すが、
自分独自の美人画様式を産み出そうとする関心はなく、遊戯的・殿様芸的な姿勢が抜けきれていない。
画号も新たに持たず、俳号や狂歌名を落款に使い回す態度もそれを裏付けている。
俳諧は元服と同じ時期ごろ大名の間で流行していた江戸座俳諧の馬場存義に入門。次第に江戸座の遠祖宝井其角を追慕し、其角の都会的で機知に富み難解な句風を、
抱一はあっさり解き自在に味読、自身の創作にも軽やかに生かした。書き始めたのは寛政2年だが、それ以前の句も含む句日記『軽挙館句藻』(静嘉堂文庫蔵)を晩年まで記し続け、
抱一の芸術を語る上で大きな柱となっている。後の文化9年(1812年)にここから自選した『屠龍之技』を刊行した。狂歌においても、当時全盛期を迎え後に「天明狂歌」と呼ばれる狂歌連に
深く交わり、狂歌本に抱一の句や肖像が収録され、並行して戯作の中に抱一の号や変名が少なからず登場する。その歌は必ずしも一流とは言えないが、しばしば狂歌本の冒頭に載せられ、
その肖像は御簾越しで美男子として描かれるなど、貴公子としてグループ内で一目も二目も置かれていたことを表している。
抱一が尾形光琳に私淑し始めるのは、およそ寛政年間の半ば頃からと推定される。
木村兼葭堂が刊行した桑山玉洲の遺稿集『絵事鄙言』では、宗達や光琳、松花堂昭乗らを専門的な職業画家ではなく自由な意志で絵を描く「本朝の南宗(文人画)」と
文人的な解釈で捉えており、こうした知識人の間での光琳に対する評価は抱一の光琳学習にとって大きな支柱になった。しかも、酒井家には嘗て一時光琳が仕えており、
その作品が残っていたことも幸いしている。
また、光琳在住以降も立林何帛や俵屋宗理など琳派風の絵師が活躍しており、琳派の流れは細々ではあるがある程度江戸で受容されていたことも大きい。
40代始めの抱一画は、水墨を主体とするものが多く一見派手さに欠けるが、よく見ると真摯な実験的な試みや地道な思考の後が窺える作品が多い。

文化3年(1806年)2月29日、抱一は追慕する宝井其角の百回忌にあたって、其角の肖像を百幅を描き、そこに其角の句を付け人々に贈った。
これがまもなく迎える光琳の百回忌を意識するきっかけになったと思われ、以後光琳の事績の研究や顕彰に更に努める。其角百回忌の翌年、
光琳の子の養家小西家から尾形家の系図を照会し、文化10年(1813年)これに既存の画伝や印譜を合わせ『緒方流略印譜』を刊行。
落款や略歴などの基本情報を押さえ、宗達から始まる流派を「緒方流(尾形流)」として捉えるという後世決定的に重要な方向性を打ち出した。
光琳没後100年に当たる文化12年(1815年)6月2日に光琳百回忌を開催。自宅の庵(後の雨華庵)で百回忌法要を行い、妙顕寺に「観音像」「尾形流印譜」金二百疋を寄附、
根岸の寺院で光琳遺墨展を催した。この展覧会を通じて出会った光琳の優品は、抱一を絵師として大きく成長させ大作に次々と挑んでいく。琳派の装飾的な画風を受け継ぎつつ、
円山・四条派や土佐派、南蘋派や伊藤若冲などの技法も積極的に取り入れた独自の洒脱で叙情的な作風を確立し、いわゆる江戸琳派の創始者となった。
光琳の研究と顕彰は以後も続けられ、遺墨展の同年、縮小版展覧図録である『光琳百図』を出版する。文政2年(1819年)秋、名代を遣わし光琳墓碑の修築、
翌年の石碑開眼供養の時も金二百疋を寄進した。抱一はこの時の感慨を、「我等迄 流れをくむや 苔清水」と詠んでいる。
文政6年(1823年)には光琳の弟尾形乾山の作品集『乾山遺墨』を出版し、乾山の墓の近くにも碑を建てた。死の年の文政9年(1826年)にも、
先の『光琳百図』を追補した『光琳百図後編』二冊を出版するなど、光琳への追慕の情は生涯衰えることはなかった。これらの史料は、当時の琳派を考える上での基本文献である。
また、『光琳百図』は後にヨーロッパに渡り、ジャポニスムに影響を与え、光琳が西洋でも評価されるのに貢献している。
文化14年(1817年)根岸の隠居所に『大無量寿経』の「天雨妙華」から「雨華庵」の額を掲げたのと同時期、抱一の制作体制が強固になり雨華庵の工房が整えられていく。
古河藩お抱えともいわれる蒔絵師原羊遊斎と組んで、抱一下絵による蒔絵制作が本格化するのもこの頃である。
「夏秋草図屏風」の通称でも広く知られる代表作の銀屏風 「風雨草花図」は、一橋徳川家がかつて所持していたもので、
俵屋宗達の名作に影響を受けた光琳の金屏風「風神雷神図」(重要文化財)の裏面に描かれたものである。
現在は保存上の観点から「風神雷神図」とは別々に表装されている。本作は、風神図の裏には風に翻弄される秋草を、雷神図の裏には驟雨に濡れる夏草を描き、
「風神雷神図」と見事な照応を示している。
晩年は『十二か月花鳥図』の連作に取り組み、抱一の画業の集大成とみなせる(後述)。
文政11年(1828年)下谷根岸の庵居、雨華庵[5]で死去。享年68。墓所は築地本願寺別院(東京都指定旧跡)。
法名は等覚院殿前権大僧都文詮暉真尊師。
門人に鈴木其一、池田孤邨、酒井鶯蒲、田中抱二、山本素堂、野崎抱真らがいる。


笹倉 鉄平
1973年 武蔵野美術大学商業デザイン科(現・視覚伝達デザイン学科)に入学。
1977年 同校卒業後、広告制作会社のグラフィック・デザイナーとなる。
1980年 フリーランスのイラストレーターとなり広告・出版物に多くのイラストを描く。また、森永製菓のパッケージイラストをおよそ10年間担当する。
1987年 毎日新聞カラー別刷り版にドイツのロマンチック街道沿いの風景を描いた「Romantic Gallery」シリーズを月一で連載。
1988年 前年シリーズの好評を以って、同紙面での連載としてフランスの街並みを描いた「ロマン色の街角」シリーズ掲載。
1990年 青山で初の個展。これより、画家としての活動に専念。
1991年 シルクスクリーンによる初の版画作品を発表(以降、現在までに180作以上がリリースされる)。
1992年 花の万博「フロリアード/1992」(オランダ開催)の記念版画が制作される。ニューヨーク・アートエキスポに出品。
1994年 神戸大丸にて個展。
1996年 小田急百貨店、新宿高島屋など各地で個展(以降、現在までに全国有名百貨店に於いて100を超える個展を開催)。
1998年 大丸ミュージアム・東京で初の美術館個展。
2000年 自身の絵画/版画作品、版権等の管理を行う、版元兼事務所(株)アートテラスを設立。
2001年 フィレンツェに架かる"ポンテ・ヴェッキオ"を描いた作品「祝福」が「イタリア.フィレンツェ.日本.文化経済交流協会」公認作品となる。
2004年 イタリア、マルケ州、レカナーティ市庁舎(他2会場)にて個展を開催。
2005年 フィレンツェ・京都姉妹都市締結40周年記念行事として、フィレンツェ市主催による個展を同市パルテ・グエルファ宮にて開催。
2006年 中国北京、国立中国美術館にて、劉長順氏との二人展を開催。
2006年 全笹倉鉄平 画集 ヨーロッパやすらぎの時間版画作品を所蔵し、企画展形式で作品展観する「版画ミュージアム」が神奈川県大和市に開館。
2007年 ニューヨーク・アートエキスポに出品。
2007年 油彩、水彩、スケッチ等の肉筆原画を中心に企画展形式で展観する「ちいさな絵画館」が兵庫県西宮市に開館。
2008年 パリと京都にて「日仏交流150周年」および、「京都市・パリ市姉妹都市盟約締結50周年」を記念した個展が、京都市の後援のもとそれぞれ開催される。
2015年 「京都・フィレンツェ姉妹都市提携50周年記念事業」の一環として、両市後援のもと、京都、フィレンツェそれぞれにおいて個展を開催。

菅井汲
1919年、神戸市東灘区に生まれる。本名は貞三。大阪美術工芸学校に学んだ後(病気の為に中退)、1937年から阪急電鉄宣伝課で商業デザインの仕事に就く。
中村貞以、吉原治良に師事。
1952年渡仏。
日本画を学んだこともある菅井の作品は、東洋的なエキゾティシズムをたたえたものとして、パリの美術界で高い評価を与えられた。
当初はアンフォルメルの影響を受けた、象形文字のような形態を描いていたが、1962年頃から作風は一変し、幾何学的な形態を明快な色彩で描いた「オートルート」のシリーズを制作するようになる。
菅井は無類のスピード狂であり、愛車のポルシェで高速走行している時に浮かぶビジョンが制作のモチーフになっているという。
1967年にはパリ郊外で交通事故を起こし、頸部骨折の重傷を負うが、一命はとりとめた。
1970年代からは、ほとんど円と直線の組み合わせから成る、より単純化され、無駄を省いた作品を描くようになった。
モチーフはほとんど機械的に組み合わされ、一つひとつのモチーフは正確に描かれる。
それは、高速走行中にもドライバーによって瞬時に把握される必要のある、道路標識にどこか共通したものがある。
彼の「無駄を省く」姿勢は実生活にも及び、朝食、昼食、夕食のメニューはそれぞれ決まっていて(たとえば朝食はコーヒーとチーズ、昼食はスパゲッティ・トマトソースとソフトサラミなど)、
同じメニューを1年365日、20年間食べ続けたという。
晩年には「S」字のシリーズを描き続けた、「S」は「スガイ」の「S」であるとともに、高速道路のカーブをも意味している。
菅井は「なぜ同じ絵を描き続けてはいけないのか」と問い、同じパターンを描き続けること行為自体に個性があると考えた。
リトグラフやシルクスクリーンの作品も多く残した。

侍(1960年、油彩、国立国際美術館)
朝のオートルート(1964年、油彩、東京国立近代美術館)
ハイウェイの朝(1965年、油彩、兵庫県立美術館)
まるい森(1968年、油彩、滋賀県立近代美術館)
フェスティヴァル・ド・バル(1971年、アクリル、国立国際美術館)
12気筒(全体)(1972年、アクリル、京都国立近代美術館)
空間「力学」(1983年、アクリル、国立国際美術館)

高橋玄輝
前田青邨を彷彿とさせる華麗な武者絵や、日本古代の人物たちを題材にした素朴な歴史画を中心に端正で味わいのある独自に境地を切り開き、武者絵の後世に残る画法を確立した。
青邨門下で院展系作家として、その俊才ぶりを遺憾なく発揮し、院展、京都中心の院展系作家尚院会展、現代美術京都秀作展、京都市美術展覧会等々に出品した。
昭和17年第29回院展で「義家と朗等光任」で初入選。その後昭和21年の第31回院展から、
亡くなる前年の昭和52年まで32回連続入賞、奨励賞及び白寿賞2回、無審査4回、昭和39年日本美術院より「特待」に推挙、
昭和40年第4回現代美術京都秀作展に於いて「四天王」が最優秀作に選ばれた。

髙橋 忠雄
932年 兵庫県加西市に産まれる
1960年 二科展彫刻(特選)受賞
1965年 二科展彫刻(金賞)受賞
1966年 二科会彫刻部「会員推挙」
1967年 - 1990年 二科展で審査員を勤める
1968年 米国ワシントン州立博物館に彫刻作品贈呈(地方自治体買上)
1969年 - 1981年 JR姫路駅前「しらさぎの群」他、姫路市内の彫刻モニュメント67点制作
1982年ライオンズクラブの依頼によりJR播州赤穂駅前にモニュメント"大石内蔵助像"制作
1983年 兵庫県立北条高等学校[緞帳]デザイン制作
1984年 加西市美術家協会2代目会長就任
1989年 詩集「加西石仏・石の音」発刊
1990年 二科会彫刻新会を退会、絵画に転向/芸術文化団体半どんの会「文化芸術奨励賞」受賞/大阪府立現代美術センターにて個展「水の指標」を開催/天理美術展「奨励賞」受賞/等迦展の審査委員となる
1991年 大阪府立現代美術センターで個展「幽玄の標」を開催
1992年 第14回エンバ美術コンクール入賞(入選作品展でエンバ美術館賞を受賞、作品が買い上げとなる)/現代美術白峰展で芸術選賞を受賞、審査員となる/大阪府立現代美術センターで個展を開催
1993年 ブラジルクリチバ市制300周年記念モニュメント制作/第15回エンバ美術コンクール入賞(入選作品展でエンバ美術館賞を受賞、作品が買い上げとなる)/彫刻作品"破調"が加西市の買い上げとなる/等迦展(瑛九賞)受賞。大阪トリエンナーレ「1996-絵画」に選出される/ABCギャラリーで個展を開催
1994年 春日水彩画展で「大賞」を受賞、作品買上となる
1996年 大阪トリエンナーレ「1996-絵画」に選出される/国際芸術交流展「96審査委員会賞」受賞/国際美術大賞展イタリー96「奨励賞」受賞/現代美術白峰展「文部大臣賞」受賞/氷上町立植野記念美術館に絵画1点が収蔵される/姫路市立美術館に作品が収蔵される
1997年 姫路市美術文化賞「芸術年度賞」受賞
1998年 阪急百貨店美術工芸サロンで個展「ー華ー高橋忠雄絵画展」を開催
1999年 氷上町立植野記念美術館主催「収蔵作家紹介シリーズ・高橋忠雄展~水と森~」が開催される
2000年 ニューアート・ZERO会結成(初代会長就任)

津高和一
1911年、現在の大阪府大阪市浪速区で誕生、幼少期に兵庫県西宮市(旧武庫郡)の津高家の養子になり、同地で育つ 。
1927年、16歳で詩人としての活動を始め、個人雑誌「貌」を創刊する。
1932年に日本軍に衛生兵として入隊、翌年にはハルピン陸軍病院に派遣されたが1936年、結核を患い療養、その間に詩誌「神戸詩人」に作品を発表した。
しかし治安維持法により詩人の道を断念[6] 、療養を終えた1938年頃から絵に興味を持ち、中之島洋画研究所で学ぶ。
1943年には召集で満州派遣。
1946年に行動美術協会展で作品を発表、1950年の行動美術関西展への出品で友山荘賞、翌年の行動展への出品で今泉篤男などから注目される。
さらに翌年の行動展への出品で行動美術協会会員となり、日本秀作美術展ベスト3選出。
1952年にサンパウロ・ビエンナーレ展に出品。1950年代初頭までは具象だったが、その後は独特の詩情ある抽象画へと転向した。
1956年の世界今日美術展日本現代美術六人の巡回展ベスト3に選出。
1960年にニューヨーク・グッゲンハイム賞美術展出品。
1962年から1981年まで毎年秋、自宅の庭で「対話のための作品展」を開催していた。
1965年に行動美術協会を退会する。
1976年に自宅開催の個展を「架空通信展」に改名、1978年には架空通信講座を始め、さまざまな芸物分野の講師を招いた。
1979年に3人のアメリカ巡回展―岡田謙三・津高和一・篠田桃紅開催。翌年から1985年まで架空通信運営委員会を発足、架空通信テント美術館展を西宮市の夙川河川敷で開催、
多くの現代作家による展示やシンポジウムが行われた。
1969年から1985年まで大阪芸術大学美術学科教授をつとめ、翌年には名誉教授となった。
1995年1月17日に起きた兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)で自宅が倒壊、はりの下敷きになって妻とともに死亡した。
83歳没。
遺体は地震の翌日の1月18日午前7時半頃に近所の住人が津高の右足が瓦礫の間から見えているのに気付き、通報を受けた西宮市職員が発見した。
西宮市大谷記念美術館で個展を開催する準備にとりかかっている最中の被災死であった。
作品はニューヨーク近代美術館、大英博物館、サンパウロ現代美術館、メキシコタマヨ現代美術館、兵庫県立美術館、西宮市大谷記念美術館、大阪芸術大学、東京国立近代美術館などに所蔵されている。
1958年の現代日本美術展優秀賞をはじめ、兵庫県文化賞、大阪芸術賞などを受賞している。

永田 禎彌
同月初日(1916年4月1日)に市制施行したところの同月24日に尼崎市にて生まれ、阪神間(現在の大阪市福島区や現在の西宮市、現在の宝塚市)で育つ。
中等学校在学時に田村孝之介に師事する。
旧制甲陽中学校卒業後、信濃橋洋画研究所において絵画制作の研鑽に励む。
その後、日華事変、太平洋戦争の間に二回召集され中国南部、現在のベトナム、シンガポール、マレーシア、タイそしてビルマと転戦したがその際にも軍の許可を受けて制作を続け、
1942年予備役のときには大阪市において開催された太平洋戦争美術展に作品を出展した。
そして、1945年8月再度の召集地である和歌山県御坊市で終戦を迎えて同年9月に復員。  
1946年、現在の三木市に移住する。
1947年から1971年3月まで現在の三木市役所に勤務しながら、製作活動をおこなう。
定年退職後はスペインやポルトガル、イタリア各地、スイス、ロンドンそしてパリ等へデッサン旅行に出かけ、その後は台湾にも行き精力的に制作活動に励んでいたが、
1992年の秋に自宅にて脳梗塞で倒れて左半身麻痺の後遺症がのこる。リハビリテーションで、歩行訓練を受けつつ利き手の右手で絵画制作に励む。
2008年6月24日(火曜日)の早朝に、運び込まれた三木市内の病院にて死去する。

成田 亨
1954年、美術学校卒業後、友人に誘われ[要出典]、映画作品『ゴジラ』(東宝、本多猪四郎監督)にアルバイトとして参加。
怪獣ゴジラに壊される建物のミニチュアを制作。以後、美術スタッフとして、各映画会社の特撮作品に携わる。
1955年、彫刻作品で「第19回新制作展」に入選した。
1956年武蔵野美術学校彫刻研究科(現大学院)を修了、映画監督の下に弟子入りする。1962年第26回新制作展新作家賞を受賞。
1965年春、円谷特技プロダクションの契約社員となり、特撮テレビ映画『ウルトラQ』(1966年、TBS)の第2クールから美術監督を務める。
続く『ウルトラマン』(1966年、TBS)、『ウルトラセブン』(1967年、TBS)、『マイティジャック』(1968年、フジテレビ)でも、怪獣やレギュラーメカのデザインを手がけた。
これらキャラクターデザインに関しては、後にその著作権を巡り、円谷プロと争うことになる。
1968年、円谷プロを退社。
『ウルトラセブン』、『マイティジャック』の美術監督を中途降板した後、青森市で個展を開催。
その後、大阪万博の「太陽の塔」内部の「生命の樹」の施工のプロデュース、映画の美術監督などを経て、全国各地で個展を開催する。著書・作品集多数。
晩年は、幼少期に過ごした尼崎市を度々訪問し、市域を流れる武庫川の土手に自身がデザインした『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』、『突撃! ヒューマン!!』の
等身大三身一体像を建立するために、地域の活動グループと共に奔走するが願いは叶わなかった。
2002年2月26日、多発性脳梗塞により死去。
芸術家として、個展などで作品の販売も行っていた。
その際、注文を受けると展示した作品個体そのものではなく、後日そっくり同じものを新たに製作し、
それを客に届けるという形を採っていた(無論、全くのコピーではないため若干の個体差はあるが、作品としてのクオリティは同等まで仕上げていた)。
そのため、全く同じ構図・同じ彩色の作品が複数存在しているものがあり、贋作容疑がかかることもある。
個人作品として、作品名に著作キャラクター名を冠さないでウルトラマンや怪獣を描いたこともある。
その際のウルトラマンにカラータイマーは存在しない。

橋本関雪
楠木氏一門の橋本八郎正員の後裔である[2]橋本海関・フジ夫妻の子として神戸市に生まれた。 
父・海関は橋本文水(播磨明石藩儒)・マサ夫妻の子で学問所詰儒者を務めていた。
父から漢学を学び1903年(明治36年)、竹内栖鳳の竹杖会(ちくじょうかい)に入り1913年(大正2年)と1914年(大正3年)の文展で二等賞。
1916年(大正5年)と1917年(大正6年)の文展で特選を受賞。帝展審査員を務め1934年(昭和9年)12月3日、帝室技芸員に選ばれる。
1935年(昭和10年)に帝国美術院、1937年(昭和12年)に帝国芸術院会員となる。1940年(昭和15年)、建仁寺襖絵を製作。
1945年(昭和20年)に没し、画号の由来となった逢坂の関のあった滋賀県大津市の別邸・走井居(月心寺)の墓地に眠る。

琵琶行(1910年) 白沙村荘 橋本関雪記念館蔵 
遅日(1913年) 足立美術館蔵
南国(1914年) 姫路市立美術館蔵
猟(1915年) 白沙村荘 橋本関雪記念館蔵
寒山拾得(1917年) 林原美術館蔵
木蘭(1918年) 白沙村荘 橋本関雪記念館蔵
意馬心猿(1928年)京都国立近代美術館蔵
長恨歌(1929年) 京都市美術館蔵
玄猿(1933年) 東京芸術大学大学美術館蔵
暮韻(1934年) 宮内庁三の丸尚蔵館蔵
唐犬図(1936年) 大阪市立美術館蔵
防空壕(1942年) 東京国立近代美術館蔵
香妃戎装(1944年) 衆議院蔵

東山魁夷
船具商を営んでいた父・浩介と妻・くにの次男として神奈川県横浜市の海岸通に生まれる。
父の仕事の関係で3歳の時に兵庫県神戸市西出町へ転居。兵庫県立第二神戸中学校(現:兵庫高校)在学中から画家を志し、東京美術学校(現:東京芸術大学)日本画科へ進学した。
結城素明に師事。在学中の1929年第10回帝展に『山国の秋』を初出品し、初入選を果たす。
1931年に美術学校を卒業した後、1933年、ドイツのベルリン大学(現:フンボルト大学)に留学。
1934年日本とドイツとの間で交換留学制度が始まり、第1回日独交換留学生(日本からのドイツ学術交流会最初の留学生)として2年間の留学費用をドイツ政府から支給されることになり、
11月ベルリン大学文学部美術史科に入学したが、父危篤の報を受け奨学金支給期間を1年残したまま日本に帰国した。
1940年には日本画家の川﨑小虎の娘すみと結婚。同年、東北地方へのスケッチ旅行で足を延ばした種差海岸(青森県八戸市東部)の風景とそこにいる馬に
取材した『凪』を紀元二千六百年奉祝美術展に出展した。種差を題材にしたと思われる作品は生涯で17点ほどあり、馬も東山作品のモチーフとなった。
太平洋戦争に前後して、画業でも家庭でも苦難が続いた。1941年には母が脳出血で倒れて療養生活に入り(1945年11月死去)、事業に失敗した父は翌1942年に急死。
1945年4月には母と妻を伴って高山(岐阜県)へ疎開するも、7月には召集令状を受けて入営。
熊本県で爆弾を抱えての対戦車体当たり攻撃の訓練を受けるうち終戦を迎えた。
召集解除後は小虎、母、妻が疎開していた山梨県中巨摩郡落合村(現:南アルプス市)に一旦落ち着く。
1945年11月に母が死去すると千葉県市川市に移った。市川では、馬主として知られる同地の実業家である中村勝五郎から住居の提供など支援を受けていた。
1946年の第1回日展には落選し、直後に結核療養中だった弟が死去。東山魁夷は当時の境遇を「どん底」と回想しつつ、「これ以上落ちようがない」と思うとかえって気持ちが落ち着き、
「少しずつでも這い上がって行く」決意を固めた。
1947年の第3回日展で、鹿野山(千葉県君津市)からの眺めを描いた『残照』が特選を得て日本国政府に買い上げられたことから世評が高まり、風景を題材とする決意を固め、
独自の表現を追求した。1950年に発表した『道』は、前方へとまっすぐに伸びる道それだけを描く作品で、単純化を極めた画面構成に新機軸が示されている。
制作前には種差を再訪し、中村が紹介したと思われるタイヘイ牧場に投宿して写生した。
1953年、大学の同窓・吉村順三設計による自宅を建て、50年以上に亘りその地で創作活動を続けた。
北欧、ドイツ、オーストリア、中国と海外にも取材し、次々と精力的に発表された作品は、平明ながら深い精神性を備え、幅広い支持を集めた。
同年に日展審査員となり、以後、歴任した。1956年、『光昏』で日本芸術院賞。1960年に東宮御所(『日月四季図』)、1968年に落成した皇居宮殿の障壁画を担当した。
1961年、吹上御所御用命画『万緑新』。1962年、イタリアのローマ日本文化館に『緑岡』。1965年、日本芸術院会員、日展に『白夜光』。1968年、皇居新宮殿壁画『朝明けの潮』、
文化財保護審議会専門委員。1969年、毎日芸術大賞、文化勲章、文化功労者。
1970年、東京国立博物館評議員。
1973年、自然環境保全審議会委員。
1974年、日展理事長に就き、翌1975年に辞任した。
1970年代には約10年の歳月をかけて制作した奈良・唐招提寺御影堂障壁画『黄山暁雲』は畢生の大作となった。
千変万化する山の姿を墨の濃淡を使い分け、鮮やかに描き出した。東山は黄山を「充実した無の世界」と表現した。混沌とした自然の移ろいにあらゆるものを生み出すエネルギーを感じ取った。この計画を手がけたことにより国内での知名度と人気はさらに高まり、国民的日本画家とも呼ばれるようになった。画集のみならず文章家でもあり画文集など、著作は数多い。川端康成とも親交が深かった[7]。
ドイツ留学中に知ったドイツロマン主義の画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒを日本に初めて紹介したのも彼である。
また、瀬戸大橋のライトグレー色を提案したことでも知られる[8]。
1975年、フランスのパリ吉井画廊で唐招提寺障壁画習作展、ドイツのケルン日本文化会館で同習作展。
1976年、パリ吉井画廊で京洛四季習作展。1977年、パリ唐招提寺展に障壁画を出陳。
1978年、中華人民共和国の北京と瀋陽で東山魁夷展、パリで『コンコルド広場の椅子』原画展。
1979年、ドイツのベルリンとライプチヒで東山魁夷展。
1980年、第二期唐招提寺障壁画制作。
1981年、唐招提寺鑑真和上像厨子絵『瑞光』を制作・奉納。東京国立近代美術館で東山魁夷展。
1982年、国立国際美術館で東山魁夷展。
1983年、ドイツのミュンヘン、デュッセルドルフ、ブレーメンで東山魁夷展。
1984年、西ドイツ最高栄誉であるプールルメリット学術芸術院会員に選ばれ、ボンで会員章を大統領臨席の下で授与。
1986年、日中文化交流協会代表団団長として訪中。
1988年、京都市美術館、名古屋市美術館、兵庫県立美術館で東山魁夷展。
1990年、東京の日本橋髙島屋でベルリンハンブルクウィーン巡回展帰国記念東山魁夷展。
1995年、東京、京都、長野で米寿記念東山魁夷展。
1996年、長野県内高等学校106校に東山魁夷画集図録を贈呈。
1997年、神戸、福岡で、米寿を迎えて-東山魁夷「私の森」展。
1999年、老衰のため90歳で死去、従三位、勲一等瑞宝章。
生前、日展への出品作など代表作の多くを東京国立近代美術館と長野県に寄贈。
長野県は長野県信濃美術館に「東山魁夷館」(谷口吉生設計)を増設し、寄贈された作品の常設展示にあてている。
その他、少年時代を過ごした神戸市にある兵庫県立美術館、祖父の出身地である香川県坂出市の「香川県立東山魁夷せとうち美術館」にも、版画を中心とする作品が寄贈されている。
戦後の復員直後から死去するまで暮らしていた千葉県市川市には、自宅に隣接して市川市立「東山魁夷記念館」が開館した。
また、美術学校時代のキャンプ旅行の途中、激しい夕立に遇った際に温かいもてなしを受けたことに感謝して後に寄贈された約500点の版画を収蔵する「東山魁夷 心の旅路館」が、
岐阜県中津川市(旧長野県木曽郡山口村)にある。
2000年、福岡、東京、名古屋でパリ展帰国記念東山魁夷展。
信濃美術館で東山魁夷館10周年記念展東山魁夷の世界。
2004年、横浜美術館で東山魁夷展ひとすじの道。
2005年、坂出市沙弥島で香川県立東山魁夷せとうち美術館開館記念展。
市川市で市川市東山魁夷記念館開館記念特別展。
2008年、東京、長野で生誕100年東山魁夷展。
2018年、東京、京都で生誕110年東山魁夷展。

『残照』(1947年、東京国立近代美術館収蔵)
『道』(1950年、東京国立近代美術館収蔵)
『光昏』(1955年、日本芸術院収蔵)
『青響』(1960年、東京国立近代美術館収蔵)
『白夜』(1963年、北澤美術館収蔵)
『曙』(1968年、北澤美術館収蔵)
『年暮る』(1968年、山種美術館収蔵)
『花明り』(1968年、個人所蔵)
『白馬の森』(1972年、長野県信濃美術館・東山魁夷館収蔵)
『濤声』『山雲』『黄山暁雲』(1975年、唐招提寺障壁画)[9]
『朝明けの潮』(1968年、皇居新宮殿壁画)
『夕星』(1999年、長野県信濃美術館東山魁夷館蔵) 絶筆
『春雪』(木版画、1986年)
『秋思』(リトグラフ、1991年)
『秋宵』(リトグラフ、1998年、日本経済新聞社発行)

松岡映丘
明治32年(1899年)に東京美術学校日本画科に入学し、ここでは川端玉章、寺崎広業らの指導を受ける。
また在学中に小堀鞆音や梶田半古、吉川霊華らの「歴史風俗画会」に参加している。明治37年(1904年)に首席で卒業する。
映丘の画号は在学中に兄井上通泰に付けられたもので、『日本書紀』「天岩戸再生の条」で美の形容して「映二丘二谷」から取られている。
翌年、神奈川県立高等女学校と当時併設されていた神奈川女子師範学校の教諭を務めた。明治41年(1908年)、東京美術学校教授の小堀鞆音の抜擢で同校助教授に就任する。
1912年の第6回文展において「宇治の宮の姫君たち」が初入選すると、以後官展を舞台に活動した。
1916年には「金鈴社」の結成に参加。1920年に、大阪堺出身の門人で、大阪では島成園門下だった林静野と結婚。
静野の画業はよくわかっていないが、夫に勝るとも劣らない作品が残っている。
1921年には自ら「新興大和絵会」を創立し、大正・昭和にかけて大和絵の復興運動を展開した。
この会は1931年には解散したが、『絵巻物講話』(中央美術社)や、編著『図録絵巻物小釈』(森江書店、1926年)を著し、1
929年には『日本絵巻物集成』(雄山閣)や『日本風俗画大成』(全10巻・中央美術社、復刻国書刊行会)の編纂を行った。
1928年秋に昭和天皇御大典を奉祝した記念絵画を納めている。1929年、第10回帝展に出品した《平治の重盛》で帝国美術院賞を受けた。
1930年に帝国美術院会員に選ばれた。
1935年の帝展の改組で画壇が大きく揺れ、映丘は長年勤めた母校東京美術学校を辞し、同年9月に門下を合わせ「国画院」を結成した。
1937年には帝国芸術院会員となるが、1938年に死去。
56歳没。

元永定正
当初は西宮市の美術展出品を行っていたが、後に芦屋市で開催されていた芦屋市展に作品出品の主軸を移し、絵画分野に留まらず彫刻、写真などの出品を行った。
当時の芦屋市展には多くの抽象画が出品されており、これに影響を受けた元永が抽象画家に転向した後に同展8回展に
出品した抽象画「寶がある」は同展覧会主催の吉原治良に絶賛されたとされる。
また、芦屋市展には元永は渡米中の1967年20回展および阪神淡路大震災による影響で中止となった1995年48回展の2回を除き、2002年第55回展まで一貫して連続出品を続けた。
芦屋市展における元永の受賞歴は1953年第6回展出品作「黄色の裸婦」ホルベイン賞、1955年第8回展「寶がある」ホルベイン賞・日本油絵具賞(彫刻)がある。
同展主催の芦屋市美術協会が1955年7月に同市で開催した「真夏の太陽にいどむ野外モダンアート実験展」がきっかけとなり、
元永は具体美術協会主催の吉原治良の誘いを受け同会に入会した。
関西を主軸に活動していた具体美術協会に参加した元永は前例のない絵本づくりを志した。
活動初期は抽象画を用いた絵本に対し抗議の手紙が多かったことも2011年のインタビューで述懐している。
この当時から1971年に同協会を脱会するまで、元永は中心メンバーとして活躍した。
1957年には後に妻となる中辻悦子と西宮美術教室で出会っている。翌1958年より日本画のたらし込み技法にヒントを得、キャンバス上に絵の具を流した絵作りを開始している。
1960年からはアメリカ合衆国ニューヨークの画廊やイタリアのトリノにある国際美学研究センターと契約を結んだほか、翌1961年に東京の画廊で個展を開いたことをきっかけとして東京の作家および評論家と交流を持つことに繋がった[1]。
活動の幅を広げた元永は1964年第6回現代日本美術展、1966年第7回同展で連続で優秀賞を受賞している。
また同1966年、ジャパン・ソサエティの招聘により妻の中辻悦子を伴ってアメリカ合衆国ニューヨークへ渡米し、その際に同じく招聘された谷川俊太郎と知り合った。
1967年に帰国するまでにニューヨークで絵画技法に試行錯誤を重ね、新たな作風を確立した。
帰国後は1970年に大阪で開催された大阪万国博覧会の具体美術祭りに参加したものの、新規参加メンバーを多く加えた同協会の雰囲気に違和感を覚えたことを理由として
翌1971年10月に具体美術協会を脱退した。
なお、同協会は元永が脱退した翌年の1972年に主催の吉原治良が死去したことにより解散している。
色をつけた水を透明な袋に入れた「水の立体作品」が同協会時代の元永の代表作だった。
具体美術協会脱退直前の1970年より絵本制作活動を開始しており、自身初の絵本は英文の『ポアン・ホワンけのくもたち』で、
アクリルとエアブラシを用いたユーモラスな画風として1973年に刊行された。
1980年代以降は具体美術協会の再評価に伴い、国内外を問わず開催された関連展覧会に積極的に参加した。
また、絵本原画展も数多く開催し、2007年以降は妻の中辻悦子の作品も展覧した「もーやん えっちゃん ええほんのえ」展が各地を巡回した。
地元の三重県立美術館で元永の大規模な回顧展が1991年、2009年の2回に渡って開催されるなどしたほか、1980年代以降死去までに数多くの賞を受けた。
2011年10月3日、前立腺がんのため、兵庫県宝塚市の病院で死去。
88歳没。

横尾 忠則
1936年 - 兵庫県多可郡西脇町(現在の西脇市)に成瀬光政とツヨの次男として生まれる。
1939年 - 2-3歳の頃に、呉服商であった叔父の横尾誠起と輝恵夫妻の養子に入り、かわいがられて育つ。幼いころから絵本の模写をしていた。
1941年 - 5歳にして「講談社の絵本」、石井滴水の『宮本武蔵』の巌流島の決闘を模写。画才を現す。
1943年 - 西脇国民学校(現・西脇市立西脇小学校)に入学]。漫画を描くようになり『漫画少年』誌に投稿。
1945年 - 9歳。1月より神戸の空襲が開始され3月と6月の空襲は被害が甚大であった。西脇は空襲を免れたものの、西脇から神戸や明石の空が赤く染まるのが見えた。
1946年 - 母とともに大阪の鶴橋の闇市に米や織物を売りに行くが、大阪市内の空襲跡の風景に衝撃を受ける。
1948年 - 『漫画少年』に漫画を毎月投稿。
1949年 - 新制西脇中学に入学。
1950年 - 南洋一郎、鈴木御水の『バルーバの冒険』、山川惣治の『少年王者』や江戸川乱歩の少年ものなどに熱中。
1952年 - 16歳。兵庫県立西脇高等学校に入学。「郵便友の会」を作る。通信教育で挿絵を学び、油絵やポスター制作を開始する。高校学園祭のために、ポスターを初めてデザイン。エリザベス・テイラーにファンレターを送り返信があったことが地元紙で報じられる。朝鮮特需により西脇の繊維工業が活況[3]。
1954年 - 18歳。武蔵野美術学校出身の教師の影響で油絵を始め、県主催の絵画展などに相次ぎ入賞。
1955年 - 武蔵野美術学校受験のために上京するが、前述の教師の助言もあり断念。西脇市織物祭のポスターが1等入選。郵便局員志望だったが、加古川の成文堂印刷所に入社。
1956年 - 神戸新聞にカットを投稿していた常連5人にて神戸の喫茶店で個展を開催。そこで神戸新聞宣伝技術研究所にスカウトされ神戸新聞社へ入社。
1957年 - 灘本唯人らのデザイングループ「NON」に参加。神戸新聞会館勤務だった谷泰江と結婚。
1958年 - 22歳。第8回宣美展で奨励賞を受賞。会員に推挙される。
1959年 - 23歳。神戸新聞社を退社。大阪のナショナル宣伝研究社に入社。
1960年 - ナショナル宣伝研究社の東京の移転とともに上京。日本デザインセンターに入社。安保反対のデモの後でタクシーのドアで指をはさみ骨折。
1961年 - 25歳。京都労音のポスターを制作する。
1962年 - 26歳。大和証券DMのイラストでADC賞銀賞受賞。細江英公、寺山修司らと知り合う。
1963年 - 27歳。東京ADC賞銅賞を受賞。
1964年 - 長女誕生。ハイレッド・センターのシェルター計画に参加。宇野亜喜良、原田維夫と「スタジオ・イルフィル」結成(翌年、解散)。和田誠、篠山紀信らと東京オリンピック期間中に
ヨーロッパ旅行。灘本唯人、宇野亞喜良、山口はるみ、和田誠らと東京イラストレーターズ・クラブを結成(70年解散)。
1965年 - 吉田画廊の個展にて三島由紀夫と出会う。後に共に仕事をする。
1967年 - 寺山修司の「天井棧敷」に参加。ニューヨーク近代美術館に作品がパーマネントコレクションされる。
1969年 - 主役として出演した大島渚監督の映画『新宿泥棒日記』が公開される。
1970年 - 写真をはじめる。大阪万博でせんい館のパビリオンの建築デザインを担当。ロンドンを旅行。足の動脈血栓で入院、左足切断の危機を東洋医学で免れる。
これを機に1-2年間の休業宣言。11月25日、三島由紀夫が自決。その3日前に横尾は三島に電話をしたが、その日は楯の会のメンバーと5人と、
パレスホテルで自衛隊市ヶ谷駐屯地乱入のリハーサルを行っていた日であった。
そうとは知らず横尾は「こんな雨の中、遅くまでごくろうさんです」といった。
この電話では様々な話をしたが最後に三島は、「インドは死を学ぶところではない。むしろ生を学ぶところだよ。インドへ行けるものとそうでない者がいて、タイミングもある。
君もそろそろインドへ行ってもいいな」といった。三島の死は横尾にインド行きを決意させる。
1972年 - ニューヨーク近代美術館で個展を開催。
1974年 - 篠山紀信とインド旅行。この後何度もインドを訪れるようになり精神世界に興味を深める。
1981年 - 渋谷西武で大規模な個展。
1982年 - 南天子画廊でペインティングの近作をまとめた個展。横尾忠則の「画家宣言」ととらえられた。画家としての活動が活発になっていく。
1984年 - ベルギー国立20世紀バレエ団(英語版)(モーリス・ベジャール主宰)ミラノスカラ座公演「ディオニソス」の舞台美術を担当。
1987年 - 兵庫県文化賞を受賞し、兵庫県公館に作品が展示保存される
1995年 - 毎日芸術賞受賞。
1997年 - ニューヨークADC賞金賞受賞。
2000年 - ニューヨークADC名誉の殿堂入り。
2001年 - 紫綬褒章受章。
2002年 - これまでで最大規模の個展「横尾忠則森羅万象」開催。多摩美術大学大学院教授に就任(2004年まで)。
2004年 - 紺綬褒章受章。故郷のそばを走るJR加古川線電化開業、それにあわせ、ラッピング電車のデザインをし、同線で運行開始される。
2004年 - この年から、多摩美術大学大学院客員教授(博士課程)に就任。
2008年 - 初の小説集『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞受賞。
2010年 - 神戸芸術工科大学大学院客員教授に就任。
2011年 - 旭日小綬章受章。
2012年 - 常に時代と共振する斬新なグラフィックデザイン・絵画の制作により2011年度朝日賞受賞。
2012年 - 11月3日 神戸市灘区に横尾忠則現代美術館開館。
2013年 - 6月27日 西脇市名誉市民称号受章。
2013年 - 7月 豊島横尾館開館。
2015年 - 高松宮殿下記念世界文化賞絵画部門受賞。
2016年 - 『言葉を離れる』で第32回講談社エッセイ賞受賞。
2018年 - 9月から翌年3月、西脇市岡之山美術館で特別展・「横尾忠則 西脇幻想」展開催予定。


和田三造
1901年(明治34年)、東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科選科に入学。
青木繁、熊谷守一、児島虎次郎、山下新太郎らと同期であった。1902年(明治35年)、八丈島への渡航途上、暴風雨に会い漂流ののち伊豆大島へ漂着しており、
これが後の『南風』制作の契機となった。
1904年(明治37年)、東京美術学校を卒業し、1905年(明治38年)、白馬会10周年記念展で『牧場の晩帰』、『伊豆大島風景』を出品して、前者で白馬会賞を受賞し注目される。
1907年(明治40年)、第1回文部省美術展覧会(文展)に出品した『南風』が2等賞(最高賞)を受賞。
『南風』は、明治浪漫派の風潮下で生まれた記念碑的な作品とされる。
この絵の中で小船の上に立つ逞しい男のモデルは、和田が中学時代に通っていた玄洋社が運営する柔道場「明道館」の2代目館長河野半次郎といわれる。
更に、翌1908年(明治41年)の第2回文展においても、『?燻』で2等賞(最高賞)を連続受賞し、無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。
1909年(明治42年)、文部省美術留学生として渡欧。
フランスを中心にヨーロッパ各国を巡歴し、洋画とあわせて工芸図案の研究も行う。
その帰途、1914年(大正3年)、インドやビルマ(現・ミャンマー)で東洋美術を研究し、1915年(大正4年)に帰国。1917年(大正6年)、文展審査員となる。
以後、文展や、文展が改称した帝国美術院展覧会(帝展)に出品する一方で、装飾工芸や色彩研究にも力を入れ、1920年(大正9年)、染色芸術研究所、1925年(大正14年)、
日本染色工芸協会をそれぞれ設立している。
1923年(大正12年)からは、本格的に日本画の制作に取り組んでいる。
翌1924年(大正13年)、日本と朝鮮の双方の羽衣伝説を題材とした、朝鮮総督府庁舎の大壁画『羽衣』を制作している。
1927年(昭和2年)、帝国美術院(現・日本芸術院)会員となる。
同年、わが国における色彩の標準化の必要性に着目し、日本標準色協会を創立。
和田の色彩研究の成果は、『色名総鑑』(1931年)などに表れている。
その後、1938年(昭和13年)には西宮にあった品川清臣による京都版画院という版元で『昭和職業絵尽』シリーズの第1作として「洋楽師」と「巡礼」という木版画を発表。
この『昭和職業絵尽』は第1集、第2集各24枚(合計48枚)を版行しており、以降、戦後に入って1956年(昭和31年)、
続編として『続昭和職業絵尽』シリーズ24枚を発表した。なお、これらの作品は新版画に分類されている。
1932年(昭和7年)には東京美術学校図案科教授に就任し、1944年(昭和19年)まで務めている。
1936年(昭和11年)に開催が決まった1940年東京オリンピック(開催中止)のポスターを描いた。
1945年(昭和20年)、日本標準色協会を日本色彩研究所に改組し、理事長に就任。1951年(昭和26年)には、ここで日本初の綜合標準色票『色の標準』を完成する。
1953年(昭和28年)、大映映画『地獄門』で、色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、この作品で、1954年(昭和29年)の第27回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞する。
なお、『地獄門』は、同年の第7回カンヌ国際映画祭においても、その色彩の美しさを高く評価され、パルム・ドール(グランプリ)を受賞している。
晩年は、油彩画の他、工芸や水墨画にも活躍し、1958年(昭和33年)、文化功労者に選ばれている。
1967年(昭和42年)8月22日、誤嚥性肺炎のため東京逓信病院で死去。
享年84。

『大島を望む』(1907年)東京国立近代美術館
『南風』(1907年)東京国立近代美術館(重要文化財[5])
『大葬』(1933年)聖徳記念絵画館
『按摩さん』(1936年)京都市美術館
『雨の隅田川』(1937年)東京国立近代美術館
『興亜曼荼羅』(1940年)東京国立近代美術館
『けしの花』(1960年)福岡市美術館
『神将』 東京都現代美術館
『古城の羅稜』 東京国立近代美術館
『雪景色』 『静物(菊)』 但陽美術館
『鶴渡る』(年代不明)紙本著色 六曲一双 姫路市立美術館





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