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岡山県について

瀬戸内の気候と地勢を背景に古代より独自の文化圏としての歴史を有し、現代でも中国・四国地方の交通網の要衝として発展を続けている。県庁所在地の岡山市は2009年4月1日、全国で18番目の政令指定都市に移行した。山陽本線、山陽新幹線、1988年に開通した瀬戸大橋、中国自動車道、1997年全線開通した山陽自動車道をはじめとして西日本の交通の大動脈が県を縦断している。

古代、沿岸域から内陸地域にかけては「吉備国」として、現在の広島県東部に位置する備後地方や香川県島嶼部などと併せて大和朝廷に並ぶほどの勢力を持っていた。江戸時代初期には岡山に池田氏、津山に森氏が外様大名として入封し、城下町を形成した。特に池田綱政は日本三名園の後楽園を造成し、閑谷学校を開くなど、文化・教育面に多大な功績を残した。笠岡、井原は徳川家康の従兄弟で有力譜代大名の水野勝成氏の領地となり広大な新田開発が行われた他灌漑事業、産業育成により地勢が大きく変貌した。倉敷には寛永19年に代官所が置かれ、江戸幕府直轄の物資集積地として船舶輸送中継も担う天領として発展した。

県内を南北に流れる3つの一級河川(高梁川・旭川・吉井川)による潤沢な水源、温暖で長い日照時間、江戸時代から昭和戦後期にかけて瀬戸内海の大規模な干拓で広い農地[1]が形成された事を背景として、水稲や麦、果樹の生産が盛んである。特に白桃、マスカット・オブ・アレキサンドリア、ピオーネなどは生産量日本一であり、品質の高さから国内外に向けて高値で出荷されている。県北の標高1,200メートルに位置する蒜山高原では、ジャージー牛の大規模な放牧が行われており、チーズ、ヨーグルト、アイスクリームなどに加工されている。

県南西部の井笠地方(井原市、笠岡市など)は明治の府県統合まで県内の大部分とは別の道を歩んできた地域である。現在でも両市は県境を越えた広島県福山市のベッドタウンであり、通学通勤に加え日常的な買い物や通院による越境が多く見られ県域を越えた結びつきが非常に強い。なお井笠地方は岡山県内にありながら経済圏、生活圏は広島県東部と一体的であり福山都市圏を構成する。

戦前までは一次産業と紡績などの軽工業が県の主要産業であったが、戦後は水島地区の川崎製鉄(後に合併によりJFEスチール倉敷地区となる)、笠岡地区の日本鋼管(後のJFEスチール福山地区)と県内に大規模な二つの銑鋼一貫製鉄所が建造されるなど臨海部を中心に重工業化が進み工業県へと変貌した。両製鉄所はいずれも世界有数の生産量を誇り、特に福山地区の年間粗鉄生産能力は1200万トン規模と国内最大であり単独の製鉄工場としては世界上位である。水島臨海工業地帯は全国総合開発計画(全総)に合わせて指定された新産業都市「岡山県南地域」の中核となり県を挙げて開発が進み国際コンテナターミナル、石油化学コンビナートが整備され、自動車等の加工組立型の企業群も進出した。笠岡地区は全国総合開発計画において備後工業整備特別地域に指定され、沿岸部の埋立により大規模な国際港湾、製鉄を含む工場群が建造された。港湾輸出入額では水島港が中四国1位、福山港が2位と中四国の上位2港を岡山県の港湾が占めている。なお笠岡港は港則法・関税法・検疫法・入国管理法・港湾運送事業法の各法上福山港に含まれ、JEF福山製鉄所の敷地は県境を跨ぎ笠岡市から福山市にかけて広がっている。

近年では瀬戸内市で2019年4月運転開始予定の「瀬戸内 Kirei 太陽光発電所建設プロジェクト」や、真庭市の木質バイオマス発電事業や日本最大の257.7メガワットの太陽光発電所となる作東メガソーラー発電所など自然エネルギーを活用する再生可能エネルギーの推進が県下全域で進められている。

県庁所在地における快晴日数の多さや降水量1ミリ未満の日数が全国最多であることから、1989年から「晴れの国 おかやま」を県のキャッチフレーズとしている。

県北部には、三本の一級河川(旭川・高梁川・吉井川)の県内源流ともなっている中国山地の山岳地帯がそびえている。標高500 - 1,000メートルの中央部には鍾乳洞などのカルスト地形が見られる吉備高原の高地が連続的に広がり、南部には三大河川によって形成された裾野の広い岡山平野が広がっている。岡山平野にはかつて瀬戸内海に浮かんでいた小さな島が丘陵地として残り、干拓で江戸時代につながった児島半島が県の南端部にある。県南西部には国営笠岡湾干拓事業として1650haと全国有数の規模の大干拓地域が造成された。

おもな山地としては蒜山(標高1,122メートル)や後山(標高1,345メートル)などがあり、おもな湖沼としては、奥津湖、恩原湖、湯原湖、児島湾奥の締切堤防化によって人工的に造られた児島湖などがある。

兵庫県とは山地および備前市の取揚島で、鳥取県とは山地で、広島県とは山地および市街地で、香川県とは海上および玉野市の井島(石島)で隣接している。

画家について

・雪舟
備中国に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護を受け周防国に移る。その後、遣明船に同乗して中国(明)に渡り、李在より中国の画法を学んだ。

現存する作品の大部分は中国風の水墨山水画であるが、肖像画の作例もあり、花鳥画もよくしたと伝える。宋・元の古典や明代の浙派の画風を吸収しつつ、各地を旅して写生に努め、中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立した点での功績が大きい。後の日本画壇へ与えた影響は大きい。

作品のうち『天橋立図』『秋冬山水画』『四季山水図巻』『破墨山水図』『慧可断臂図』『山水図』の6点が国宝に指定されており、日本の絵画史において別格の高評価を受けているといえる。この他に『花鳥図屏風』など「伝雪舟筆」とされる作品は多く、真筆であるか否か、専門家の間でも意見の分かれる作品も多い。弟子に周徳、等悦、秋月、宗淵、等春らがいる。

応永27年(1420年)、備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれる。生家は小田氏という武家とされている。幼い頃近くの宝福寺に入る。当時、文芸で身を立てるには、寺に入るのが唯一の道であり、室町時代は禅僧が学問・文芸の分野を担っていた。10歳頃に京都の相国寺へ移り、春林周藤に師事して禅の修行を積むとともに、天章周文に絵を学んだ。禅にも絵にも、当時最高の師を持ったということは、雪舟もまたよほどの人物だったに違いない。ことに水墨画は禅とともに起こった芸術である。描くことはまた、禅の修行でもあった。

享徳3年(1454年)頃、周防国に移り、守護大名大内教弘の庇護を受け[2]、画室雲谷庵(山口県山口市天花【てんげ】)を構える。寛正6年(1465年)頃、楚石梵琦(そせきぼんき)による雪舟二大字を入手し、竜崗真圭に字説を請。この頃より雪舟を名乗ったと考えられている。

長禄元年(1457年)、拙宗等楊から改号したと推定されている[2]。拙宗と雪舟が同一人物であることを示す確実な史料はないが、拙宗と雪舟の活躍時期が重ならないこと、両者の溌墨系山水画を詳細に比較検討した結果、共に飛躍がありつつも共通性が認められることから、同一人物説が定説となりつつある。

拙宗の真筆とされる作品は十数点が現存している。拙宗が雪舟の若い頃の号とすると、のちに風景画が多くなるのに対して、渡明前は仏画や人物画が多い。「拙宗」期を含むと、雪舟の現存作品数は約50点とされる。

応仁元年(1467年)に遣明船で明へ渡航。各地を廻り、約2年間本格的な水墨画に触れ、研究した。天童山景徳禅寺では「四明天童山第一座」の称号を得る(以後、雪舟の作品の署名には度々この称号を書き入れている)。更に北京に赴き、政府の建物に壁画を書いて、大いに評判になったという。弟子に送った『破墨山水図』にある文面に、「明の画壇に見るべきものはなく、日本の詩集文や叙説を再認識した」と書かれている様に、明の時代の画家よりも夏珪や李唐等の宋・元時代の画家に興味を持ち、模写して勉強した(『彷夏珪山水図』『彷李唐牧牛図』はいずれも重要文化財)。中国大陸の自然は、雪舟に深く影響した。「風景こそ最大の師」と悟った様に、彼は帰路、揚子江を下りつつ貪欲に各地の風景を写生した(雪舟の書いた風景画の景観は、中国の各地に現代も残っている)。

文明元年(1469年)に帰国し、周防国のほか豊後国や石見国で創作活動を行う。文明13年(1481年)秋から美濃国へ旅行。文亀元年(1501年)頃には、丹後国の天橋立に赴き『天橋立図』を残している。日本美術史を研究する学習院大学教授の島尾新は、雪舟が各地を訪れたのは単なる漂泊ではなく、足利義尹を擁しての上洛など大内氏の軍事・外交政策のための地理調査と関連があると推測している[2]。『天橋立図』は天橋立そのものだけでなく周辺の寺社が詳細に描かれている。このため同地にある籠神社の別当智海や、丹後の支配者で大内氏と連携していた一色義直の依頼で制作された可能性が指摘されている。

没年は確実な記録はないが永正3年(1506年)に87歳で没したとするものが多い。文亀2年(1502年)とする説もある[2]。命日も8月8日(『古画備考』)、9月16日(雪舟伝)など諸説あり、最期の地は石見国益田の大喜庵とされ、雪舟と親交があったとされる益田兼堯の子孫・益田牛庵(元祥)執筆の『牛庵一代御奉公之覚書』には次の記述がある。

「雪舟(中略)極老候而石見之益田へ罷り越され彼地落命候(後略)」
(雪舟…老い極まり石見益田へ参り彼の地で落命する…)。

雪舟の生涯には謎とされる部分が多い。墓所と伝わる場所も複数箇所ある。

・浦上玉堂
延享2年(1745年)、岡山藩の支藩鴨方藩(現在の岡山県浅口市)の藩邸に生まれる。玉堂は播磨・備前の戦国大名であった浦上氏の末裔で、系図上では浦上一族の浦上備後守の曾孫とされるが、実際はさらに代は離れているようである(「浦上家系図」では備後守は宗景の孫とされるが、実際は同時代の人物である)。

若年より、学問、詩文、七絃琴などに親しむ。鴨方藩の大目付などを勤める程の上級藩士であったが、琴詩書画にふける生活を送っていたことから、周囲の評判は芳しくなかったらしい。[要出典]50歳のとき、武士を捨て、2人の子供(春琴と秋琴)を連れて脱藩(妻はその2年ほど前に亡くなっていた)。以後は絵画と七絃琴を友に諸国を放浪、晩年は京都に落ち着いて[1]、文人画家として風流三昧の生活を送る。特に60歳以降に佳作が多い。代表作の「凍雲篩雪(とううんしせつ)図」は川端康成の愛蔵品として知られる。

・岡本豊彦
安永2年7月8日(1773年8月25日)、備中国窪屋郡水江村(現在の岡山県倉敷市水江)にある裕福な「酒屋」岡本清左衛門行義の庶子として生まれる。しかし、実際に豊彦が生まれたのは、水江の岡本家ではなく、倉敷の向市場町にあった教善寺という真宗の寺であったといわれる。母が隣の中島村から岡本家に女中奉公に来た時に豊彦は生まれ、庶子故に母の実家で少年時代を送った。水江の岡本家に引き取られて少年期を過ごしたという説もとなえられている。

幼い頃から絵を描くことが好きで、4・5歳ごろ白神皞々と共に、黒田綾山より絵を習い、10歳か11歳の頃に綾山の門に入る。

寛政3年(1791年)、19歳で黒田綾山の師である福原五岳の門に入る。寛政9年(1797年)豊彦25歳の時に、父・清左衛門の死をきっかけに、妻子をともない京都へうつる。西阿知遍照院の住職、大圓和尚の世話で、当時高名であった松村呉春門下に入る。同門には松村景文・柴田義董・小田海僊などがいる。

豊彦は呉春門下で研鑚を積み(呉春の作品はすべて模写したと伝えられる)、実質的に四条派を作り上げることになる。呉春が与謝蕪村から学んだ俳諧的文芸や南画的文学と、円山応挙から学んだ写生画風を一緒にした、親しみやすく情趣的な画風を豊彦も受け継ぎ、呉春門下筆頭に挙げられ、京洛のうちでは「花鳥は景文、山水は豊彦」と謳われるほどの画家に成長を遂げた。また、人物・花鳥も巧みに処理し、広い画域を誇った。その名声は当時、京都で有名であった岸駒に拮抗するほどであったという。

また、30歳頃の作として、画家の谷文晁・岸駒、狂歌師の大田南畝・石川雅望、国文学者・歌人の橘千蔭、歌人の香川景樹、賀茂社家の賀茂季鷹とともに寄合書した対幅(掛軸#掛物の種類参照)が残るが、当世きっての老大家たちと同席を許され、共作できたのは、有栖川宮家と親交があったことによると推測されている。またそのためか、宮中のご用を承るようになり、現在でも修学院離宮などに作品が残っている。

呉春の没後、豊彦は「澄神社(ちょうしんしゃ)」という画塾を開き、多くの弟子を育成した。その中には、塩川文麟、柴田是真、田中日華、古市金峨、甥の岡本常彦、養子である岡本亮彦などがいる。

家庭的には恵まれなかったようで、比較的晩婚であったと思われる。

文政8年(1825年)10月21日に正妻・佐々井美穂に先立たれた。それから、継室として太田君を迎えたものの、彼女もまた天保3年(1832年)12月3日に26歳で死去している。このとき豊彦は60歳であった。まもなくして、洛西西野木原から木村多美を迎えて三室とした。彼女との間に男児1人・女児5人をもうけるが、1人として生長しなかった。そこで、尾張国知多郡半田村(現在の愛知県半田市)の小栗伯圭(通称 半七)の四男の亮彦を養子として迎えた。

病没
弘化2年7月11日(1845年8月13日)に73歳で、大和旅行中に病没した。岡本家の過去帳によると戒名は「龍鱗院?月常光居士」となっている。

・堀和平
氏は堀、名を和平安郷(やすさと)、杏邨(きょうそん)と称した。備中国賀陽郡八田部村(現岡山県総社市総社)西宮本町の豪商堀和助安忠の四男に生まれる。生家は備中国総社宮の神主のほか酒店、質屋、廻船問屋などを営み、屋号を「志保屋」(塩屋)と称し、備中松山藩の御用商人を務めた。二兄、三兄が早世し、長兄堀安道が病弱で学問の道に進んだため家業を継ぐ。1876年(明治9年)に玉島の西山武治や柚木金蔵ら有力者と共同で、浅口郡柏島村(現倉敷市玉島)の海面干潟に灰貝(モ貝)の養殖についての願書を県に提出したり、児島味野の足袋を作る材料でもある備中小倉織を売買するなど、実業家としての片鱗を見せている。また、1879年(明治12年)より1880年(明治13年)まで賀陽郡選出の県会議員となって活動している。明治のはじめ頃の「志保屋」はたくさんの使用人がいたらしく、雨の日には、「志保屋」と筆太に書かれた番傘をさした使用人が町内にあふれたという。

原料の洋反や呉服を仕入れるため、しばしば神戸へ出向き、そこで外人から油絵の技法を学んだ。現存作品からみると、油絵具の特質をまだ充分には把握しておらず、暗中模索の域を出ないが、伝統的な図様に写実性を加味した「天神像」(総社市立総社小学校蔵)や温かい眼差しの感じられる「母子像」などは、岡山県洋画史の巻頭を飾る重要な資料といえる。この「母子像」は1977年(昭和52年)、明治前期の代表作として、東京近代美術館にも展示されている。

彼のアトリエには、従兄の息子であった満谷国四郎や、吉富朝次郎などがたびたび通い、大きな影響を受けたと思われる。二人は後に、日本における洋画の歴史の上で、大切な役割を果たすことになる。1891年(明治24年)九州の石炭を外国へ輸出する貿易商の仕事を始め、神戸へ移住したが、1892年(明治25年)病気のため急逝した。

和平は、兄堀安道と共に、岡山県立総社高等学校西側の墓地に眠り、墓石には「香屋安郷夫婦の墓」と刻まれている。

・松岡寿
岡山藩士・松岡隣の次男として現在の岡山市で生まれる。川上冬崖が主催する聴香読画館で洋画の基礎を学んだ後、工部美術学校でアントニオ・フォンタネージに師事する。フォンタネージが帰国後、後任教師フェレッチの指導に飽き足らず、1878年に浅井忠ら同志と共に退学、十一会を結成。これは洋画家初の団体であった。

1880年、ローマに留学してチェーザレ・マッカリ(イタリア語版)に絵画を学び、1888年、帰国。1889年結成の明治美術会に参加した。藤島武二ら多くの後進を指導した。

後に東京高等工芸学校(1921年創立 / 現在の千葉大学工学部)の初代校長を務めた。まとまった作品を所蔵する機関としては、故郷に建てられた岡山県立美術館や、西川浩より油彩画、水彩画、デッサンなど75点を寄贈を受けた東京国立博物館が挙げられる。

・原撫松
岡山市出石村で、岡山藩士原金兵衛久則の長男として生まれる。幼名は熊之介、のち改め熊三郎、1883年(明治16年)からは熊太郎を名乗る。父・久則は岡山藩の御融通方に勤務し、後に第二十二国立銀行創設に加わった。1879年(明治12年)化成小学校卒業後は進学せず、当時岡山にいた洋画家多賀清光と平野雄也に就いて、主に水彩画を習う。1881年(明治14年)3月に京都府画学校に入学し、小山三造、田村宗立に洋画を学ぶ。翌年、父の事業が失敗し一家は破産するが、田村や校長の田能村直入の計らいで授業料免除となり、府立測候所備品の製図描きや肖像画制作などのアルバイトで生計を立てた。1884年(明治17年)同校を優等第1位で卒業後、京都府宮津中学校ついで滋賀県師範学校の図画教員となる。1887年(明治20年)頃、画業に専念するため岡山に戻り、独学で主に肖像画を描きながら研鑽を積んだ。またこの頃、日蓮宗不受不施派の僧・杜岳日允に接し、精神面で強い影響を受ける。日允は毎夜撫松を訪ねて教えを説き、それにより撫松は名利私欲を一切捨て一生を美神に捧げることを誓ったという。

1896年(明治29年)帝国鉱山局長・伊藤弥次郎と知り合い、その勧めもあって上京。「撫松」の号は、この頃伊藤より贈られた。伊藤らを介して、伊藤博文、西園寺公望、北里柴三郎ら各界名士の肖像画を描く。特に森村市左衛門とは、画家と顧客の関係を超えた親密な交わりを結んだ。1904年(明治37年)7月から3年間イギリスに留学、ロンドン・ナショナル・ギャラリーに木・金曜日の週2回、ケンジントン・ミュージアム(現在のヴィクトリア&アルバート博物館)に週1回(水曜)通い、当時多くいたという模写指導の専門家から助言を受けながら、本格的な油彩技法を修めた。短期間のうちに伝統的な油彩技法を修得したことで、英国美術批評界の泰斗マリオン・スピールマンに絶賛された。

1907年(明治40年)11月に帰国。翌年赤坂離宮壁画制作の依頼を受けたが、帰国後は病気がちで、自身の制作に不可欠だったフレーク・ホワイト(シルバー・ホワイト(鉛白)の一種)が湿潤な日本では変色の危険があるという疑念(実際には杞憂である)からスランプに陥り、遂に完成することはなかった。大正元年10月27日胃がんにより死去。47歳。

伝統的な西洋画技法を習得したことによる堅牢なマティエールや、時に10層にも及ぶ絵の具層から生まれる繊細微妙なニュアンス、メリハリの効いた筆さばきによって典雅な風格がある。画壇から離れて活躍したことや、出所が割れやすい肖像画を主にしたことがあり、作品が美術市場出ることは稀で作品を収蔵する美術館も限られており、高い画力に比べて作品を鑑賞する機会は少ない。

・吉富朝次郎
良吉・飛佐の次男として、備中国(現・岡山県総社市田町)で生まれた。吉富家は昔「小寺屋」と称し、酒造業や刻み煙草商を営んでいたが、農業にも従事していた。総社市西宮本町の堀和平が神戸に行って外人から油絵の技法を習得して帰り、自宅のアトリエでさかんに製作しているのを見よう見まねで自分も画くようになった。この頃、総社市門田の満谷国四郎は、堀和平と甥・叔父の間柄であったので、しばしば遊びに来て、6歳年上の朝次郎に兄事していた。その後、朝次郎が一時浅尾小学校(現総社市門田)で代用教員を務めた頃、国四郎は彼の教え子であった。また、下道郡新本村(現総社市新本)出身の稲葉春生も教え子である。

1885年(明治18年)に京都府画学校洋画家へ入学し、1890年(明治23年)京都市画学校専門画科(府から市へ移管)を卒業した。大垣中学校・岐阜県師範学校で教鞭をとった後、1907年(明治40年)に、帰県して岡山県男子師範学校へ務め、美術教育に力を尽くした。当時、山本鼎が自由画を提唱したのに対して、朝次郎は写生画による指導を主張した。

1925年(大正14年)8月25日、岡山市番町へ分家、1931年(昭和6年)に師範学校を退職したが、中年からは「観石」と号し、南画や仏画にも取り組んだ。しかし遺作の大半を岡山空襲で焼失した。1908年(明治41年)作の「牛のいる川原の風景」(総社市立図書館蔵)や横長の板に描いた「読書」等はいずれも写生を主体とした詩情あふれる作品で、構図・賦彩などに時代の好尚がよくあらわれている。1941年(昭和16年)8月4日没。享年74。

・満谷国四郎
1874年10月11日に満谷準一郎と世辞との間に三男として、岡山県賀陽郡門田村(もんでむら・現総社市門田)に生まれた。現在は「満谷国四郎先生 生誕之地」と刻まれた石碑が建てられている。叔父の堀和平は県下で洋画の草分けと言われた人で、幼い国四郎は堀家に行くたびに和平の画技を見て強い感銘を受けた。さらに、浅尾小学校では代用教員をしていた吉富朝次郎に愛され、岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)に進むと松原三五郎に画才を認められた。1891年(明治24年)、ついに中学を三年で退学。徳永仁臣をたよって上京するとき、吉富朝次郎から「総社は東洋画の大家雪舟を出した地である。君も大いに頑張って西洋画の第一人者となり給え」と励まされた。

東京で五姓田芳柳に師事し、次いで小山正太郎の画塾「不同舎」で苦学力行して、1898年(明治31年)油絵「林大尉の死」を発表した。明治美術館創立十周年記念展の会場に明治天皇がたまたま見に来られ、その絵の前にしばらく立ち止まられて感激され、たいへんほめたたえられたといわれている。その作品が宮内省の買上げという光栄に浴し、明治32年には「妙義山」が外務省に、1900年(明治33年)の「尾道港」は再び宮内省に買上げとなり、彼の名声が一挙にたかまった。1900年(明治33年)には、水彩画「蓮池」をフランスで開かれた大博覧会へ出品して三位になり銅メダルを獲得した。

鹿子木孟郎らとアメリカ経由でフランスへ渡り、ジャン=ポール・ローランスの門に学んだ。1902年(明治35年)帰国するや、吉田博・丸山晩霞等と語らって「太平洋画会」を創立し、その理事となった。第二回太平洋画展に「楽しきたそがれ」、1907年(明治40年)東京勧業博覧会には「戦の話」「かりそめのなやみ」を発表し、1等受賞。翌年の文展に「車夫の家族」などを次々に発表。国四郎は三十四歳という若さで文展審査員のひとりに挙げられた。この頃は、社会風物を鋭く描いた時期である。1911年(明治44年)、大原孫三郎の援助で再度渡欧し、パリで初歩からデッサンに取り組み勉強した。新しい研究成果を身につけて1912年(大正元年)に帰朝、後期印象派などの影響により、幾分象徴主義的な画風へと転じた。そのころの作に「椅子による裸婦」「長崎の人」などがある。

その後、画面は次第に醇化され、独自の画境が切り開かれていった。

四度にわたる中国旅行で、明治リアリズムからの蝉脱を模索していた国四郎は、大陸の自然や風物に接し、「十五老」(国四郎のもじりで、九・二・四老)と称して、油絵具を使いながら、彼の絵には東洋画の落ち着きと、気品が加わった。また筆やすみを使って、山水を描く南画風の絵も描くようになり、いっそう独特の画境を示すようになった。1925年(大正14年)には帝国美術院会員となり、太平洋画会の一員として多くの後進を指導し、岡山県人では吉田苞・柚木久太・片岡銀蔵・三宅円平・石原義武らを育てた。

晩年の作品は、的確なフォルム、温か味のある色彩により、平明で装飾的な画面を作りあげている。「女ふたり」「緋毛氈」などの彼の代表作がこの頃の作品である。また明治神宮壁画には、「慈恵病院行幸図」を製作している。

1892年 上京小山正太郎の不同舎で学ぶ。
1898年 明治美術会創立10年記念展へ「林大尉の戦死」「妙義山」出品。
1900年 パリ万国博覧会へ「蓮池」出品銅牌受賞。鹿子木孟郎らと渡米。
1901年 渡欧。
1907年 東京勧業博覧会へ「戦の話」「かりそめの悩み」を出品1等受賞。第1回文展審査員となる。
1911年 柚木久太らと再渡欧
1912年 パリでジャン=ポール・ローランスに学ぶ。
1925年 帝国美術院会員。

・鹿子木孟郎
岡山県岡山市東田町に、旧岡山藩(備前池田藩)藩士の宇治長守の三男として生まれる。号は不倒。

初め郷里で松原三五郎の天彩学舎で油絵を学ぶ。1890年(明治23年)、東京に遊学したが脚気に罹り帰郷する。岡山中学予備校図画教員となるが、1892年(明治25年)、再度上京し小山正太郎が主宰する画塾不同舎に入る。1895年(明治28年)、中等教員図画免許状を受け、滋賀県・三重県・埼玉県で美術教師として勤務する。なお、三重県での鹿子木の後任は赤松麟作だった。1897年(明治30年)、岡山出身の妹尾春子と結婚。 

1900年(明治33年)、渡欧。11月中ボストン着。同行した満谷国四郎、丸山晩霞、河合新蔵と、先発の吉田博、中川八郎で「日本人水彩画家6人展」をボストンアートクラブで開催し、成功を収める。1901年(明治34年)4月にアメリカ発、ロンドン経由で6月にパリに到着。パリのアカデミー・ジュリアンで、フランス最後の歴史画家と称された老巨匠ジャン=ポール・ローランスの薫陶を受ける。1904年(明治37年)、帰国。同年、明治美術会の後進である太平洋美術会 第3回展に出品。京都で画塾を開くかたわら、パリで知遇を得た浅井忠らとともに関西美術院の創立に尽くす。1905年(明治38年)、美術雑誌『平旦』を石井柏亭、小杉放庵らと創刊する。1906年(明治39年)刊行の薄田泣菫の詩集『白羊宮』に、満谷国四郎とともに挿絵を入れる。1906年(明治39年) - 1908年(明治41年)、再び渡欧し、ローランスに師事する。滞仏中、サロン・ド・パリで『少女』が入選、アカデミー・ジユリアン一等賞を受ける。

帰国後、1908年(明治41年)6月に関西美術院長となる。文展、帝展審査員など官展を中心に活躍。関西洋画壇(京都画壇)に重きをなした。

1915年(大正4年)6月、関西美術院長を辞する。1916年(大正5年) - 1918年(大正7年)、三度目の渡仏。ローランスに師事するとともに、エミール=ルネ・メナールにも師事する。

三度の渡仏では住友友純から滞在費の支援を受けた。住友が欧州絵画の名作の購入を求めた際、鹿子木は師のローランスの作品は別にして、日本の後進画家のためには鹿子木自身が行った模写で充分だと申し出たと伝えられている。三度目の渡仏は第一次世界大戦中だったが、周囲の緊迫した空気とは対照的に、鹿子木は日本大使館内に広々とした一室を与えられ制作に励むことができた。

津田青楓、吉田初三郎、斎藤与里、黒田重太郎、安井曾太郎、小林和作、前川千帆、中村研一、佐竹徳、北脇昇、藤本東一良ら多くの後進を指導した。ヨーロッパのアカデミック美術を紹介し続けた功績により、1932年(昭和7年)、フランスよりレジオン・ドヌール勲章を受けた。1941年(昭和16年)4月3日、脳溢血のため京都左京区の自宅で静養中、尿毒症を併発し永眠。

・赤松麟作
現在の岡山県津山市[1]本町3丁目に、兄2人姉1人の4人兄弟の末っ子として生まれる。1883年に大阪へ転居。父は亜鉛製造、酸化亜鉛製造、ペンキ製造と職を変えるがいずれも成功せず、ペンキで絵を描く看板屋を始める。

小学校卒業後、父の仕事を手伝っていると、大阪最初期の洋画家で大阪朝日新聞で挿絵画家をしていた山内愚僊と知り合う。この時、愚僊はペンキで巧みに油画を描き、麟作は画が非常に好きになってしまったという。1893年数え16歳でその内弟子となり、愚僊の同僚だった西村天囚から『日本外史』などの漢学を習う。

1897年2月東京美術学校西洋画科専科1年に臨時試験で入学、同年から白馬会に出品し始める。本来なら4年通うところを、1899年7月選抜試験を受け、2年半で繰上げ卒業。1900年に鹿子木孟郎の後任として、三重県津市第一中学校で美術教師となる(一身田中学講師も兼任)。三重一中教員時代の1901年に第6回白馬会展に出品した「夜汽車」が白馬会賞を受け、後年赤松の代表作とみなされるようになる。1903年、和歌山県新宮中学校に転任。

1904年に大阪朝日新聞社に挿絵画家として入社。写真印刷がまだ未熟だった当時、絵の出来は売上を左右するほどであり、麟作は正社員待遇を受け、ポーツマス条約反対記事に添えた挿絵「白骨の涙」が評判を読んだ。この間、梅田に洋画塾を開く。大正期に入ると写真技術が飛躍的に向上したため挿絵記者の需要が減り、彼らは風刺画への転換を迫られたが、麟作はこれを嫌い画家としての創作に集中したかった理由もあり1915年に退社する。

1926年、大阪市心斎橋の丹平ハウスに赤松洋画研究所を開く。当時の門下生に佐伯祐三がいる。 1927年には大阪市立工芸学校図案科に週一で教えに通う。1934年に関西女子美術学校教授となり洋画部を担当、1937年同校校長となる。1945年に豊中岡町へ疎開、同年アトリエや長男宅が戦災で焼けたため、多くの作品が失われる。

1946年、大阪市立美術館付属美術研究所が開設され、鍋井克之、須田国太郎、伊藤慶之助、小磯良平、田村孝之介、胡桃沢源人、小野藤一郎らと共に実技指導担教授に就任。1948年、大阪府文芸賞(のちの大阪文化賞)が制定され受賞。

1953年11月24日、大阪市天王寺区の自宅で喘息により死去。

・児島虎次郎
岡山県川上郡下原村(現在の高梁市成羽町下原)に児島弥吉と雪の次男として生まれる。生家は「橋本屋」と称して旅館、仕出し業を営んでいた。1901年(明治34年)絵画を学ぶため東京に出る。1902年(明治35年)東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科選科に入学。倉敷の実業家大原家の奨学生となる。のち、大原家当主となった1歳年上の大原孫三郎とは生涯親交を持ち、経済的援助を受け続けた。1904年(明治37年)異例の早さで卒業。

1908年(明治41年)ヨーロッパに留学。1909年(明治42年)ベルギーのゲント美術アカデミーに入学。1912年(明治45年)には同校を首席で卒業し、大正元年となった同年11月に帰国。1913年(大正2年)石井十次の長女・友子と結婚。その後、絵画制作の傍ら中国・朝鮮を旅行。また、孫三郎の依頼を受け絵画買い付けのため数度ヨーロッパに渡りモネ、エル・グレコ、ゴーギャン、ロダンなどの作品を購入した。この収集品が後の大原美術館建設の礎となった。

1924年(大正13年)明治神宮奉賛会より明治天皇を讃える壁画の作成を依頼された。しかし壁画制作による過度の疲労の為、この作品を完成することなく1929年(昭和4年)死去した。享年47。なお、この壁画は友人の吉田苞により1934年(昭和9年)に完成し、明治神宮聖徳記念絵画館に所蔵されている。

1972年から2017年まで、倉敷紡績記念館(現倉敷アイビースクエア)内に、大原美術館別館として「児島虎次郎記念館」が開設されていた。2022年4月に新児島館(仮称)として旧中国銀行倉敷本町出張所建物に開館する予定。

・正宗得三郎
岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)に生まれる。実兄に小説家の正宗白鳥、国文学者の正宗敦夫、弟に植物学者の正宗厳敬がいる。1902年(明治35年)に日本画家を志して東京に出て寺崎広業に師事した。のち洋画に転じ、1907年(明治40年)東京美術学校(後の東京芸術大学)西洋画科を卒業。在学中より青木繁グループに属す。1909年(明治42年)文展入選。

1914年(大正3年)から1916年(大正5年)および1921年(大正10年)から1924年(大正13年)にかけてヨーロッパに渡り本場の西洋絵画を学ぶ。この時アンリ・マティスにも学んだ。この間、1915年(大正4年)前年に創立したばかりの二科会会員となる。第二次世界大戦前は二科会の重鎮として活躍した。東京都中野区東中野にアトリエを構えていたが、1945年(昭和20年)、空襲によりアトリエを焼失し作品の多くを失った。

戦後は1944年(昭和19年)に解散した二科会に代わり、1947年(昭和22年)正宗は熊谷守一、栗原信、黒田重太郎、田村孝之介、中川紀元、鍋井克之、宮本三郎、横井礼市と共に「第二紀会」(後、二紀会と改称)を結成した。晩年は富岡鉄斎の研究を行った。

・竹久夢二
数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれた。大正ロマンを代表する画家で、「大正の浮世絵師」などと呼ばれたこともある。また、児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。文筆の分野でも、詩、歌謡、童話など創作しており、中でも、詩『宵待草』には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。また、多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりともいえる。

彼自身の独特な美意識による「夢二式美人画」と呼ばれる作品の多くは、日本画の技法で描かれ(軸物や屏風仕立てで遺る)、また、洋画(キャンバスに油彩)技法による女性像や風景画ものこされている。好んで様々な表現形式を試みたが、むしろ、それらは後世になってから評価されたもので、当時の時点においては、印刷された書籍の表紙や広告美術などが多くの目に触れ、大衆人気という形で脚光を浴びたのであった。一時は中央画壇への憧れもあったようだが受け入れられず、終生、野にあって新しい美術のあり方を模索した。

世の動きとしてみた場合、当時の画壇では様々な芸術思潮が交錯し、ある意味で胎動期の不定のさなかである。都市における大衆文化の開花による消費生活の拡大を背景とした、新しい応用美術としてのデザインというものの黎明の時代であり、夢二もこれに着目した。生涯の後期にいたっては、彼の図案家としての才能の実績において、生活と結びついた美術を目指し、あるいは産業と融合すべきとの理念を持ち、むしろ積極的に、商業美術(のちにいわれるグラフィック・デザイン)の概念を描いていたようである。榛名山産業美術研究所の構想や、先進地である欧米視察への願望がこのことを裏付けている。

21世紀に入っても画集、詩文集、童話が様々な装丁で刊行されたり、夢二作品を専門に所蔵する美術館(後述)以外でも展示会が開かれたりしている。

また2017年には、従来知られていなかった作品『投扇興』(屏風絵)が発見された。

2020年1月6日には、面識があった田河水泡へ贈った日本画『サーカス』が田河の遺族から寄贈されたと、竹久夢二美術館が発表した。

1884年(明治17年)0歳 9月16日 岡山県邑久郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町本庄)に代々酒造業を営む家に次男として生まれる。兄が前年に亡くなっていたため、事実上の長男として育てられる。
1899年(明治32年)15歳 兵庫県神戸市の叔父宅に寄宿しつつ兵庫県神戸尋常中学校(後の神戸一中、現在の兵庫県立神戸高等学校)に入学するが、12月には家の都合で中退。
1900年(明治33年)16歳 父が家業の造り酒屋をたたみ、操業間近な八幡製鉄所に職を求めたため、一家で福岡県八幡村(現・北九州市八幡東区)枝光に転居。茂次郎もしばらく製鉄所で働く。
1901年(明治34年)17歳 家出して単身上京。
1902年(明治35年)18歳 早稲田実業学校専攻科入学。学生時代、スケッチを『読売新聞』などに投書。
1903年(明治36年)19歳 制作年らしき数字「1903」が記された、文章・絵画からなる冊子『揺籃』が2018年に発掘されている[5]。
1904年(明治37年)20歳
1905年(明治38年)21歳 友人であった荒畑寒村の紹介で平民社発行の『直言』にコマ絵が掲載される。これは最初に印刷に附された夢二の絵であった。この後、『光』、日刊『平民新聞』に諷刺画などの絵を掲載し、社会主義者らとの親交も深めた。同年6月、『中学世界』に『筒井筒』が第一賞入選、このとき、初めて夢二を名乗る。早稲田実業学校専攻科中退。
1906年(明治39年)22歳 童話雑誌『少年文庫』の挿絵を描く。
1907年(明治40年)23歳 岸たまきと結婚。読売新聞社に入社し時事スケッチを担当。
1908年(明治41年)24歳 長男・虹之助誕生。
1909年(明治42年)25歳 たまきと協議離婚。この年、最初の著書『夢二画集-春の巻』発刊、ベストセラーとなる。
1910年(明治43年)26歳 たまきと再び同棲し、その後、二児をもうける。大逆事件関与の容疑で2日間拘留される。夏、房総方面に旅行し、『宵待草』を発想。
1911年(明治44年)27歳 次男・不二彦誕生、たまきと別居。月刊『夢二 ヱハガキ』発売。
1912年(明治45年)28歳 雑誌『少女』誌上に、“さみせんぐさ”の筆名で『宵待草』原詩を発表。京都府立図書館にて「第一回夢二作品展覧会」。
1913年(大正2年)29歳 11月 絵入り小唄集『どんたく』出版、その中の一節に『宵待草』を現在の三行詩で発表。
1914年(大正3年)30歳 日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」を開店、来店した笠井彦乃と出会う。
1915年(大正4年)31歳 婦人之友社より雑誌『子供之友』『新少女』創刊、絵画主任として挿絵を描き始める。たまきとは離別。
1916年(大正5年)32歳 2月、三男の草一が生まれる。セノオ楽譜『お江戸日本橋』の表紙画、以降270余点を作画する。東京を離れ、京都二寧坂に転居。草一、他家へやられる。
1917年(大正6年)33歳 高台寺近くに移り彦乃と同棲。金沢旅行中、「夢二抒情小品展覧会」を開く。『宵待草』に宮内省雅楽部のバイオリニスト多忠亮が曲をつけ、芸術座音楽会にて発表。
1918年(大正7年)34歳 『宵待草』がセノオ楽譜から発刊、これを機に全国的なヒットとなる。長崎方面に旅行。彦乃入院、東京に戻る。
1919年(大正8年)35歳 寄宿先の本郷・菊富士ホテルにてモデルのお葉を紹介される。日本橋三越にて「女と子供に寄する展覧会」。
1920年(大正9年)36歳 彦乃25歳で病没。『長崎十二景』『女十題』のシリーズ制作。
1921年(大正10年)37歳 お葉(夢二が名付ける・本名は佐々木カ子ヨ)と渋谷に所帯を持つ(6年後には離別)。福島・会津を旅行、各地で展覧会。
1922年(大正11年)38歳 春、山形方面へ旅行、滞在。夏、不二彦と富士山登山。
1923年(大正12年)39歳 恩地孝四郎らと「どんたく図案社」を発足するも、関東大震災(大正関東地震)で潰滅。友人で画家の有島生馬とともに震災後の東京を歩き、スケッチ21枚を『都新聞』に『東京災難画信』として寄稿連載。
1924年(大正13年)40歳 アトリエ兼自宅「少年山荘」(山帰来荘)を東京府荏原郡松沢村松原(現・東京都世田谷区松原)に建設。この年に発刊された雑誌『婦人グラフ』に掲載するための表紙絵、口絵用に浮世絵の技法による新版画といわれる木版画『秋のしらべ』などを発表。
1925年(大正14年)41歳 作家・山田順子と交渉を持ち、お葉は去る。後、順子とも別れる。
1926年(大正15年)42歳 このころから、海外旅行を希求する。
1927年(昭和2年)43歳 『都新聞』に自伝絵画小説『出帆』を連載。
1928年(昭和3年)44歳 母・也須能、没(享年72)
1930年(昭和5年)46歳 4月、群馬県の伊香保温泉に約1ヶ月滞在、「榛名山美術研究所」の構想を練る。
1931年(昭和6年)47歳 父・菊蔵、没(享年79)。渡米告別展を新宿三越他で開催の後、5月7日に横浜を出航し、ホノルルを経由して渡米。
1932年(昭和7年)48歳 前年より米国に1年3ヶ月の滞在、西海岸各地にて個展を開くが、米不況もあり受け入れられず不調。
9月にパナマ運河-大西洋を経て渡欧。約1年の滞欧中、ドイツ、チェコ、オーストリア、フランス、スイスの諸都市を巡り、日本の雑誌に寄稿し、多くのスケッチ画を残す。
1933年(昭和8年)49歳 ドイツ首都ベルリンに滞在の後、8月19日にイタリアのナポリを発ち、9月18日、神戸に帰国する。10月26日、台湾を訪れて講演し、「竹久夢二画伯滞欧作品展覧会」を開催。11月11日、帰国、結核を患って病床につく。
1934年(昭和9年)満49歳11ヶ月で逝去。1月19日、親しい文芸仲間でもあった正木不如丘院長の手配により、長野県八ケ岳山麓の富士見高原療養所(現・JA長野厚生連富士見高原病院)に入院。9月1日早暁、「ありがとう」の言葉を最後に死去。49歳没。東京雑司ヶ谷霊園の文芸仲間の上田龍耳の義理の弟山地純一の墓に9月19日に埋葬される。戒名「竹久亭夢生楽園居士」。墓碑には有島生馬に依る揮毫「竹久夢二を埋む」と刻まれている。骨は後に現在の墓に移された。

・坂田一男
岡山県岡山市船頭町(現・北区)で医学教授坂田快太郎の子として生まれた。医師を目指していたが中学卒業後の受験に失敗し、画家を志す。1914年に上京して本郷絵画研究所で岡田三郎助に師事、1916年から更に川端画学校で藤島武二に学んだ。

1921年渡仏、パリに赴き、オトン・フリエス(Achille-?mile-Othon Friesz; 1879年-1949年)やフェルナン・レジェに学ぶ。1933年に帰国、岡山県玉島(倉敷市)にアトリエを構える。

戦後は、A.G.O.(アヴァンギャルド・オカヤマ)を結成、主宰し、キュビスムを基本としながらも、独特の抽象絵画を制作した。しかし、1944年、1954年の2度に渡って同地を襲った水害により、多くの作品が失われ[5]、現存するのは50点余りである。

日本においては、キュビスムの影響を受けた画家は多いが、本格的にキュビスムを学び、厳格な意味でのキュビスムの作品を残している作家は、坂田一男をおいて他はない(なお、日本において厳格なキュビスム作品を坂田以外が残していないことから、一般に、日本人は、キュビスムの論理性・厳格性に合わない、というような言われ方をされることがあるが、この主張について厳密な論証がなされているわけではない)。

一貫して、中央画壇から距離をおいていたため(本人にとっては、中央画壇は、権威的で自由がない、と映っていた)、一般には知られておらず、きちんと紹介され始めたのは、ほとんどその死後になってからである。

・池田遙邨
岡山県浅口郡乙島村(現・倉敷市玉島乙島)に生まれる。紡績会社の技師であった父親の転勤に伴い大阪市に転居。幼少より画才があり、1910年(明治43年)大阪の松原三五郎が主宰する天彩画塾に入門し洋画を学ぶ。1914年(大正3年)第8回文展に水彩画「みなとの曇り日」が入選する。わずか18歳での入選が話題となり天才少年画家として名声を得る。

1919年(大正8年)京都市に移り竹内栖鳳の画塾・竹杖会に入門し日本画に転向する。同年に第1回帝展に「南郷の八月」が入選。この頃はエドヴァルド・ムンクに傾倒し1923年(大正12年)関東大震災の惨状を描いた洋画風の「災禍の跡」を帝展に出展するが落選。一旦は倉敷に帰郷し、しばらく寺に隠って画作の研究を行う。1926年(大正15年)京都市立絵画専門学校研究科(現・京都市立芸術大学)を卒業。1928年(昭和3年)第9回帝展にて「雪の大阪」が、1930年(昭和5年

第11回帝展で「烏城」が、それぞれ特選となる。

1936年(昭和11年)より1949年(昭和24年)まで京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)助教授をつとめる。1953年(昭和28年)に画塾・青塔社を主宰する。1960年(昭和35年)「波」で日本芸術院賞を受賞。1976年(昭和51年)日本芸術院会員に選任される。

1984年(昭和59年)文化功労者として表彰される。1986年(昭和61年)倉敷市名誉市民となる。1987年(昭和62年)文化勲章を受章する。翌1988年(昭和63年)急性心不全のため京都市にて死去、享年92。

若年より歌川広重に傾倒した。法被姿で広重の足跡を辿り、東海道五十三次を3度も旅した。生涯、自然と旅を愛し全国を旅して回った。晩年は種田山頭火に傾倒し、山頭火の俳句をモチーフに画作を行い、山頭火の姿で旅をした。

・国吉康雄
国吉は1889年、岡山市内に人力車夫・国吉宇吉と以登の一人息子として誕生。弘西小学校、内山高等小学校を経て1904年に岡山県立工業学校の染料科に入学したが、1906年に退学し、カナダ経由でアメリカに渡った。国吉自身は渡米の理由について「父の助言」と後に述べたが、英語の習得を目的とした一少年の冒険とも評され、また当時は日本人のアメリカ移民が流行していた事も背景にあるといわれる。しかし同年はアメリカが帰化法を改正して、日本人移民1世のアメリカ国籍取得を事実上不可能にした年でもあった。

国吉のアメリカ生活はシアトルから始まり、鉄道工夫、農業労働者、ホテルの雑役夫により糊口を凌いだ。次いでロサンゼルスに移動して肉体労働に従事する傍らに公立学校に通い、その後スクール・オブ・アート・アンド・デザインに入学して画学生となった。1910年に国吉はニューヨークに移動し、ナショナル・アカデミーに入学するが3カ月で退学し、その後1914年にインディペンデント・スクール・オブ・アーツに入学した[6]。この前年にはヨーロッパのモダニズム芸術を紹介してアメリカの保守的な美術界に衝撃を与えたアーモリー・ショーが開催されたが、国吉自身は仕事のためこれを直には見ていない。しかしアーモリー・ショーがもたらした熱気に国吉も人づてながら触れていた。

国吉は更にヘンリー・スクールを経て、1916年にアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークに入学し、ケネス・ヘイズ・ミラー(英語版)の指導を受けた。アート・ステューデンツ・リーグの在学中に、国吉はジュール・パスキンやロイド・グッドリッチなど後に国吉を支える多くの人物と出会った。最初の妻となる画家キャサリン・シュミットとの出会いもここである。

1917年、国吉は新独立美術協会展に作品を出展した後、当時のアメリカの前衛画家が集っていたペンギン・クラブに誘われて展示会に出品し、画家活動の第一歩を踏み出した。同時期に国吉は資産家のハミルトン・イースター・フィールドから生活の援助を受け、彼の影響もあり国吉の画風はアメリカ的モダニズムへと進んでいく。このころの作品は印象派のピエール・オーギュスト・ルノワールの作風、ポール・セザンヌの色調の影響を受けている。代表作に『自画像』(1918)、『テーブル前の女』(1917)などがある。

1919年には国吉はキャサリンと結婚するが、アメリカ国籍を持たない国吉と結婚したため、当時のアメリカ法によりキャサリンもアメリカ国籍を剥奪されてしまった。

1922年、国吉がダニエル画廊で開いた個展がアメリカメディアに大きく注目され、彼の作品の素朴さや独自性、モダニズムの中にある繊細性などが評価された。その後ダニエル画廊での個展は毎年続き、国吉は独特な素朴派画家として売り出していった。当時の国吉について、ヨーロッパとも日本とも違うアメリカのモダニズムを生み出したという評価もあり、国吉はヨーロッパの模倣ではないアメリカ画家としてアメリカに受け入れられていった。

ロイド・グッドリッチは当時の国吉の画風を「東洋趣味とモダニズムのユニークな混合」と評し、ミルトン・ブラウンは「20年代の国吉の作品はマルク・シャガールなどの表現主義に近い」と評した。村木明は当時の国吉の画風について、国吉独自の作風を示すもので、それなりの意図と工夫があり、国吉の日本時代の生活記憶と空想・ユーモアから生まれた幻想的表現主義であると述べた。。当時の代表作に『野馬』(1920)、『海辺』(1920)、『海岸の家』(1922)、『釣りをする少年』(1922)、『フルーツを盗む少年』(1923)、『暁を告げる雄鶏』(1923)などがある。

また同1922年にはモダニズム画家が集っていたサロンズ・オブ・アメリカの会長職を、死去したフィールドから引き継ぎ、1936年まで務めた。

1925年、国吉はジュール・パスキンの誘いを受けてパリに渡る。エコール・ド・パリの初期に当たるこの時、国吉は特にサーカスの少女を好んで描き、サーカスの少女は後々まで希望の象徴として国吉の絵に登場する事になる。1928年に国吉は再びパリを訪れ、エロティックな性質の作品を手掛けた。またこの時にモーリス・ユトリロ、シャイム・スーティン、パブロ・ピカソらと交流し、彼らの写実的な手法に影響を受けた。

1929年、国吉はニューヨーク近代美術館により現代アメリカ絵画を代表する1人として、「19人の現代アメリカ画家展」に選出された。この時期の国吉は絵画「横たわる裸婦」などで流動的なリアリズムを表現した。当時のアメリカ美術界では、アメリカ独自のものをどう表現するかという課題を持っており、日常のリアリズムを表現するアメリカン・シーン(英語版)が流行した。国吉はここでも活躍した。

1931年10月、国吉は故郷で重病となった父を見舞うため日本に一時帰国した。その際に日本の美術界による帰国歓迎会が催され、二科会の会員に推薦されたり、東京・大阪・岡山で個展も開かれた。国吉の帰国は日本で一時的な話題にはなったが、絵は2点しか売れないなど、国吉の芸術が日本側に理解されたわけではなかった。また日本滞在中に警官に対して敬礼しなかったために、警官から激しく罵倒されるといったアクシデントもあり(国吉はこの件を劇画に残した)、以降の国吉は日本社会と馴染む事を断念する。アメリカに戻った後に妻キャサリンと離婚する。1935年に女優・ダンサー・モデルのサラ・メゾと再婚した。

1933年、国吉は母校のアート・ステューデンツ・リーグの教授に就任。またリベラル的な芸術家の集団であるアン・アメリカン・グループの委員長となる。

1930年代には世界的なファシズムの波が覆う一方で、ファシズムに反対する運動も活発化していた。国吉も自らを育んだ民主主義を守るべく、1936年にアメリカ美術家会議(英語版)に参加して全米執行委員・展覧会委員長に就任し、反ファシズム運動に身を投じた。国吉はアメリカ美術会議にて反戦・反ファシズムや文化振興といったテーマの展覧会を開催した。しかし後にソ連がドイツと接近した事、特にソ連のフィンランド侵攻に対する評価をめぐってアメリカ美術家会議内では対立が顕在化し、国吉は1940年にアメリカ美術家会議を脱退した。

当時の国吉の画風は、写実性と時代性が複合したものといわれ、女性をモチーフとした各絵画に表れている。

1941年の日米開戦の際、国吉はニューヨークに住んでいたためにアメリカ西海岸の日系人強制収容の対象にはならなかったが、敵性外国人として当局によって取り調べやカメラ双眼鏡の没収、またニューヨーク市外に出る際には許可が必要といった措置を受けた。法律上はアメリカ国籍を取得できなくとも、既に「アメリカ人画家」としてのアイデンティティを持っていた国吉は傷ついたプライドを回復し、また自身がアメリカに敵対しない事を証明する必要に迫られた。一方で国吉は自らを育んだアメリカの民主主義を守る必要を感じ、満州事変以降の日本の中国侵略に対しては日米開戦前から疑問を抱いていた。

1941年12月12日、国吉はまずニューヨーク在住日本人美術家委員会の名で声明を出し、日米戦争に際してアメリカを明確に支持すると表明した。これには保忠蔵やトーマス永井、鈴木盛、ロイ門脇といった在米日本人・日系美術家が加わった。この他にも国吉は同様の声明をルーズベルト大統領やニューヨーク州知事、更に多くの知人宛てに送った。

やがて国吉はアメリカの戦時情報局(OWI)から対日プロパガンダの仕事を受ける。1942年にハワイからの対日ラジオ放送に参加し、アメリカ民主主義の正当性を日本に向けて主張した。

一方で当時の国吉には在米日本人・日系人社会(特に西海岸)との意識のずれがあったという指摘がある。国吉は在米日本人・日系人社会について、閉鎖的である、本国政府に従順すぎるといった批判を行っているが、日米戦争に際してアメリカ政府側に無批判に立ち、他の在米日系人に対して優位な感情を持つ傾向は、国吉のみならず東海岸に居住していた日本人・日系人に共通して見られた事でもあった。

また国吉の対米戦争協力の個々の行動についても批判がある。OWIから「日本側の残忍な拷問や虐殺」のシーンをポスターに書くよう要請された際、国吉はこれに応じて日本兵が乳児や女性を殺害しているなどのシーンのポスターを描いたが、こうしたものは批判精神を欠いた、ただ残虐なだけのものであった(このような残虐なポスターは結局採用されなかった)。また、インタビューの中で国吉は(日本兵の士気を削ぐためとはいえ)、日本の民間に対する爆撃を肯定しかねない発言を残している。これは日本の支配者側として戦争を遂行している日本の軍国主義者と、被支配者側である日本の一般国民を区別している国吉の基本姿勢とも矛盾していた。

一方で、国吉はOWIでプロパガンダポスターを描いていた際、ポスター内の人物から人種的な特徴を排除し、人種に関係なく戦争で傷つく人間を描こうとしていたという指摘もある。また国吉はOWIに参加した当初、徳川時代の将軍・鎧武者をモチーフにしたポスターを描いたが、これはOWIに「芸術的だが大衆へのインパクトに欠ける」という理由で却下されていた。「残虐なポスター」は、OWI側から「最近の日本の残虐行為」を描くように促された結果でもあったという。国吉は当時のアメリカではびこっていた、「日系人は日本の天皇のみに忠誠を誓い、アメリカには忠誠心を持たない」という偏見と闘わなければならなかった。国吉が従事した対日放送はアメリカ国内でも評価され、アメリカにおける反日系主義を和らげる効果もあったが、一方で日本人を悪魔同然に描く風潮は当時のアメリカでは強かった。そしてOWIが商業主義的な手法も使ってプロパガンダを進めた結果、純美術主義で先進的な考えを持ち、国吉と考えが近かったベン・シャーンなどがOWIから離脱した。国吉自身はOWIに残留したが、保守派からの批判を受けることになる。そして国吉が描いたOWI不採用ポスターは、「日本に詳しい日本人」(国吉自身は何十年も日本から離れており、実際には詳しくないにも拘らず)が描いたものとして、実際のシーンを描いたものではないプロパガンダポスターであることを読者側に隠されたまま、対日批判報道に援用された。

この時期の国吉は不安と孤独感に苛まれ、戦争の悲惨さと虚無感が彼の作品に影響を与える。国吉の代表作の一つである「誰かが私のポスターを破った」(1943年)は、アメリカの好戦的なナショナリズムや、国吉らのリベラル派画家への反感が背景にある。一方で国吉は静物画での比喩的心理表現や造形的な楽しみを見出し、「110号室」(1944年)はカーネギー・インスティチュート全米絵画展で1等賞となった。終戦前後になると国吉は貧民層を描いた「一日の終わり」(1945年)など、現実に回帰した作品を手掛けた。また「飛び上がろうとする頭のない馬」(1945年)や、「祭りは終わった」(1947年)では、排外的になるアメリカの世相への失望を表したとも言われる。

戦後の国吉はアメリカの美術家に対する公私の援助拡大を志向し、美術家組合(artist equity association)を1947年に設立して自ら会長となった。国吉のもとで美術家組合は急成長し、ニューヨークが世界の美術界の中心になっていく事に貢献する。一方で戦後アメリカの激しい反共主義を背景に、国吉や組合も政治的な攻撃を受けたが、国吉はこれを冷静にかわした。1948年にホイットニー美術館で国吉の回顧展が開かれた事は、アメリカ美術界で国吉が確固たる地位を得ていた証であった。

国吉は1950年ごろから体調を悪化させていく。1952年6月にはアメリカは移民帰化法を裁可し、国吉らアジア人移民一世にもアメリカ国籍取得の道が開けたが、国吉は国籍取得手続きの終了を待つことなく、1953年に胃癌で死去した。国吉は晩年、もう一度日本に帰って回顧展を開き、自身の作品を日本に問おうと希望していたが、叶わなかった。

私生活においては二人の米国人女性(キャサリン・シュミット(Katherine Schmidt、婚姻期間13年)、サラ・メゾ(18年間))と結婚している。

・小野竹喬
1889年(明治22年) 岡山県笠岡市西本町に四男として生まれる。祖父と長兄は画家であった。1903年(明治36年)長兄の勧めで京都に上り、竹内栖鳳に師事。「竹橋」の号を授かる。1909年(明治42年)栖鳳の勧めで同画塾の土田麦僊とともに、京都市立絵画専門学校(絵専、現:京都市立芸術大学)の第一期生として入学(1911年卒業)。

当時の栖鳳は写生派の伝統とカミーユ・コローの写実表現を融合した作品を描いていた。栖鳳の革新的な制作姿勢の洗礼を受けた竹喬は、その後ポール・セザンヌなどの西洋近代絵画と、富岡鉄斎など南画の影響を受け、大胆な筆触と鮮やかな色彩による作風を展開した。

1916年(大正5年)洋画的手法を果敢に取り入れた《島二作》が第10回文展で特選という高評価を得るも、翌年は同展に落選し、同展の審査に対して疑問を持つようになる。当時同じように文展の審査について不満を持つ画家は多かった。そこで、1918年(大正7年)絵専卒業生である竹喬、麦僊、村上華岳、榊原紫峰、野長瀬晩花は国画創作協会を結成。国展という公募展を行い、旧習にとらわれない自由な芸術の創造を目指した。

1921年(大正10年)には麦僊、晩花とともに、渡欧経験のある洋画家・黒田重太郎の案内で渡欧。帰国後は東洋画における線の表現について再認識することとなり、江戸時代の南画を改めて学ぶ[4]。1923年(大正12年)号を「竹喬」と改める。1928年(昭和3年)第7回国展出品作の《冬日帖》によって、西洋というフィルターを通した線描と淡彩による南画風の表現に到達した。同年、国画創作協会は解散し、その後は官展に復帰する。

1939年(昭和14年)頃より、それまでの線描と淡彩による南画風の表現を、面的な対象把握と日本画の素材を素直に活かした大和絵的表現へと変えていく。1941年(昭和16年)から太平洋戦争が始まり、多くの日本画家たちと同様、竹喬も富士山や旭日など日本を賛美する画題を描いた。一方、この頃立て続けに身内や友人を亡くしている。1936年に母、麦僊、次女、1939年に華岳、1942年に師・栖鳳、1943年に長男、1945年に妻が死去し、精神的に憔悴し制作も芳しくない様子がこの頃の自筆の文章から伺える。

1947年(昭和22年)には京都市美術専門学校教授に就任し、京都市立芸術大学と改組した後も教鞭を執った。同年、帝国芸術院(現・日本芸術院)会員となる。
戦後の竹喬は、明るく柔らかな色彩により、写生に即しながらも象徴的で装飾的な画面を形作るようになる。対象とする自然は特別な場所ではなく、身近でさりげない水面や野辺、そして自宅の庭越しに見上げた樹木や雲であった。そのなかでも夕焼けの空を背景とした樹木の姿は、1974年(昭和49年)の《樹間の茜》などに描かれ、竹喬絵画を代表するモチーフとなっていく。さらに、晩年には戦前から構想を抱いていた松尾芭蕉『おくのほそ道』の絵画化に挑み、10点の連作《奥の細道句抄絵》を完成させた。

50歳前後で没した華岳、麦僊に対し、竹喬は戦後も日本画壇の重鎮として活躍し、1976年(昭和51年)には文化勲章を受章している。1979年(昭和54年)5月10日、胃癌のため死去。享年89歳。等持院の小野宅は、今も閑寂な空気につつまれ、庭や東隣に位置する名刹等持院境内には、小野竹喬の絵の素材になった木々が繁る。

・岡本唐貴
生涯芸術活動に身を染め、ダダイスム、シュルレアリスムなどの影響を受けた絵画、写生画を数多く残す。
長男は漫画家の白土三平(本名・岡本登)、長女は絵本作家の岡本颯子。

1903年(明治36年):岡山県浅口郡連島町(現在の倉敷市)に三男として生まれる。
1918年(大正7年):米騒動、労働争議を目撃、思想的に大きな影響を受ける。
1919年(大正8年):父・弥平次死去。農業の傍ら油絵の勉強を始める。
1920年(大正9年):神戸市で浅野孟府と出会い、二人で上京し、原宿にて共同生活を始める。
1921年(大正10年):浅野と彫刻家・戸田海笛のアトリエに住み、油絵のかたわら彫刻を学ぶ。
1922年(大正11年):東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻選科に入学。翌年退学。
1923年(大正12年):関東大震災のため、神戸市に移る。二科会内の急進グループ・アクションに参加。
1924年(大正13年):二科会を離れ、神原泰、矢部友衛らと三科造形美術協会の結成に参加。
1926年(昭和1年):東京に移る。神原泰、矢部友衛、浅野孟府らとグループ造型の結成に参加。
1928年(昭和3年):グループ造型を造型美術家協会として再組織。(全日本無産者芸術連盟(ナップ)発足)
1929年(昭和4年):ナップ改組による日本プロレタリア美術家同盟(ヤップ)の結成に参加。黒澤明に絵を教える。
1930年(昭和5年):相馬君子と結婚。
1931年(昭和6年):(所属のナップにさらに団体が追加され、日本プロレタリア文化連盟(コップ)が成立)
1932年(昭和7年):2月、長男・登(白土三平)が生まれる。夏、特高に検挙・投獄される。神戸市に移る。
1933年(昭和8年):東京に出、同志小林多喜二の死顔を描く。大阪にて、浅野孟府と共同展開く。北海道に行く。
1934年(昭和9年):受けた拷問からの発病(以降5年間の闘病生活)。
1937年(昭和12年):大阪にて個展。
1938年(昭和13年):新潟にて個展。東京練馬に画室を立てる。
1940年(昭和15年):満州・北京に行く。大連、奉天にて個展。
1944年(昭和19年):夏、一家で長野県に疎開。冬、住まいを移す(同じ長野県内)。
1945年(昭和20年):2月、長女・颯子が生まれる。8月、この地で終戦。
1946年(昭和21年):矢部友衛、山上嘉吉、寺島貞志、市村三男三らと現実会の結成に参加。日本美術会の結成に参加。
1948年(昭和23年):現実会解散。共産党入党(1958年離党)。
1950年(昭和25年):ソヴェート美術研究会を結成。
1953年(昭和28年):大阪にて個展。
1955年(昭和30年):寺島貞志、村雲大撲子、石垣栄太郎、別府貫一郎、後藤禎二、山上嘉吉と点々会を創立。
1956年(昭和31年):東京にて個展。
1961年(昭和36年):東京にて個展。
1962年(昭和37年):訪ソ。
1963年(昭和38年):1月、母・留與死去(82歳)。
1967年(昭和42年):創作画人協会の結成に参加。
1981年(昭和56年):妻が死去。
1986年(昭和61年):82歳で死去。

・直原玉青
岡山県赤磐郡(現:赤磐市)生まれ、兵庫県の淡路島で育つ。本名は正。大阪美術学校卒業。帝国美術展に初入選後、日展に16回入選する。南画の第一人者。社団法人日本南画院会長・理事長、現代南画協会理事長、財団法人青少年文化研修道場理事、守口市美術協会会長、青玲社主宰、黄檗宗国清寺住職、俳誌「早春」選者などを務める。洲本市名誉市民、守口市名誉市民、南あわじ市名誉市民。

2005年9月30日、心不全のため死去した。101歳没。生前は社団法人日本南画院会長として、「日本南画が中国より発展し、日本風土に適し、水と墨を主体にした世界にも類のない東洋独自の表現様式は、世界に誇るべき独自の芸術である」と日本南画の素晴らしさを語っていた。

遊魚(南画院入選)
雨逆風饕(帝国美術展入選)
南禅寺管長柴山全慶老師に師事
社団法人日本南画院創立に参加
勲四等旭日章を受ける。
現代南画協会設立、理事長となる。
日本南画院理事長に就任。
大阪府守口市名誉市民の称号を受ける。
勲三等瑞宝章を受ける。
兵庫県文化賞を受け、兵庫県公館に作品が展示保存される。
滝川記念美術館玉青館が開館(南あわじ市)。
現代南画美術館完成(守口市)

・ベル・串田
1913年(大正2年)に岡山県上道郡金田村(現・岡山市東区金田)の村長を務める串田千尋と金子の次男として生まれる。開成尋常高等小学校(現岡山市立開成小学校)卒業後、岡山県師範学校本科第一部入学。卒業後、教員となり、小学校、高等女学校の美術教員として勤務。

その後1936年頃藤田嗣治に師事し本格的に画家を志す。1938年(昭和13年)の第25回二科展に初入選。藤田がフランスに帰ることになり、東郷青児に後を任せて東郷に師事する。1943年(昭和18年)には連合艦隊「武蔵」司令官長室へ作品謹呈。

評議員となり二科会にて活躍。岡山二科会支部長や二科会監事、理事も務める。1973年《日本讃歌No.1》で二科展内閣総理大臣賞受賞。

フランスではサロン・ドートンヌ会員。 1976年、フランス芸術文化勲章(コマンドール)受章[3]。ほか、ブラジルのグラン・クルス最高文化勲章など多数受章。

《新しい世界の平和》国会議事堂買い上げ。ニューヨークフィンチ大学美術館に作品《皆足姫会陽照覧之図》千号寄贈(この作品の行方は不明になっている)。ケネディー大統領婦人、ジャクリーン・ケネディ・オナシスに《西大寺裸祭》を寄贈したほかに小説家、川端康成に《センチメンタル・ジャニー 神と共に》を贈呈。また、オーストラリア・フレーザー元首相、アメリカニューヨーク・ワグナー元市長などにも作品を寄贈。外国との親善を推進する。

所蔵先は ベル・串田記念館、佐久市立近代美術館、広島県立美術館、ニューヨーク国際連合本部ビル、国会議事堂、川端康成記念会

代表作は、ベル・串田記念館(岡山県岡山市東区神崎町)で鑑賞することができる(要予約)。収蔵品《日本讃歌》《日本の詩》《パリの少女》《若草日記》など初期の作品70点ほど。

フランス コマンドール芸術文化勲章、ブラジル グラン・クルス最高文化勲章、サンホセ市最高文化勲章、三木記念賞、岡山県第26回文化賞、文化庁10周年記念表彰

・赤木曠児郎
岡山県岡山市下田町(現:岡山市北区田町二丁目、中央町)に生まれる。その後、家が戦災で焼け出されたため各地移転。第2次大戦後、現住所(岡山市東区西大寺)において、母が洋裁学校を開き、そこに住む。父は国鉄職員。

Kojiro Akagi 1.jpg
岡山大学理学部物理学科を卒業後フランスに渡り、現在はパリ在住。油彩、水彩、リトグラフによるパリ、フランスの風景を描き続ける。ル・サロン展油絵金賞を受賞し、終身無鑑査。その他フランス大統領賞、フランス学士院絵画賞受賞等。

また、岡山県の山陽放送に月に1回「パリ通信」、山陽新聞に「フランス日本・遠眼鏡」を寄稿している。

1934年(昭和9年) - 岡山市生まれ
1956年(昭和31年) - 国立岡山大学理学部物理学科卒
1963年(昭和38年) - 渡仏・パリ在住 パリ高等国立美術学校ブリアンション教室・マテー教室/外人聴講生在籍
(以来フランスの各種具象美術団体展に出品)

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