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埼玉県について

埼玉県の玄関ともいえるのがさいたま市大宮です。
駅はJR埼京線・宇都宮線・高崎線・京浜東北線、新幹線、東武野田線、ニューシャトルなどが止まる埼玉県内でも最も巨大なターミナルです。
駅から徒歩10分ほどのところには鉄道博物館では、昔の蒸気機関車や高度な技術を誇る新幹線を見学できます。
駅から東口方面に少し離れると古い歴史を持つ氷川神社があります。
氷川神社は、水辺の遊歩道が整備されている大宮公園の中にあり、桜の木に囲まれています。
埼玉屈指のにぎわいを見せる神社で毎年初詣では200万もの人であふれかえり、大宮の街はさらににぎわいを増します。
まだ行ったことのない方は是非一度初詣に訪れてみてはいかがでしょうか。

画家について

相原求一朗

埼玉県川越町(現・川越市)に生まれる。父・茂吉、母・よし。本名は相原久太郎(のちに求一朗)。生家は農産物の卸問屋で、恵まれた環境だった。1936年、川越商業学校卒業。商業学校の商業美術担当教師から油彩を学んで東京美術学校進学を志すが、父親の逆鱗に触れ、家業を継いだ。1940年、21歳で兵役に就き、第二次世界大戦中は旧満州やフィリピンを転戦。1944年、フィリピンからの帰還途中、搭乗した飛行機が沖縄沖に墜落。重傷を負って漂流していたところを救出される。
戦後の1948年、仕事の関係で大国章夫に出会い、抑えていた絵画熱が再燃。同年、猪熊弦一郎に師事する。1950年「白いビル」で新制作展初入選。1961年、北海道に写生旅行に出かける[1]。満州での体験を甦らせ、自身の原風景を発見する。1963年、「原野」「ノサップ」で第27回新制作協会展新作家賞受賞。1968年、新制作協会会員になる。1974年、第1回東京国際具象絵画ビエンナーレ招待出品。
1996年、北海道河西郡中札内村の中札内美術村に相原求一朗美術館開館。2002年、生地の川越市に求一朗が自作を寄贈した川越市立美術館が開館。同館内に相原求一朗記念室が設けられるとともに、開館記念として「相原求一朗の世界展 自然の詩情」展が開催される。


淡島椿岳

淡島椿岳は、幕末から明治初期の画家。小林椿岳の名でも知られる。1824年(文政7年)2月8日生まれともいわれる。 明治時代の作家・画家・蒐集家の淡島寒月は椿岳の実子である。親子揃ってマルチな趣味人・独自の方向性を持った自由人として知られた。また、幕末の大富豪・伊藤八兵衛は実兄、教育者・政治家の木内キヤウは孫である。


板倉鼎

1901年(明治34年)3月26日、埼玉県北葛飾郡旭村(現・吉川市)で医者の長男として誕生。のちに千葉県東葛飾郡松戸町(現・松戸市)に転居する。1919年(大正8年)、東京美術学校西洋画科に入学、岡田三郎助らの指導を受ける。1921年、第3回帝展に初入選。翌年、写生に行った南房総の保田で、同棲中であった物理学者で歌人の石原純と歌人の原阿佐緒と知り合う。与謝野晶子は原阿佐緒の歌の師であった。美術学校卒業後の1925年、与謝野鉄幹・晶子夫妻の媒酌で、須美子と結婚。1926年(大正15年)、須美子を伴いハワイ経由で画業修行のためパリに赴いた。パリではロジェ・ビシエール(1888-1964)に師事。サロン・ドートンヌ、サロン・ナショナル、帝展などに作品を出品する。1929年(昭和4年)9月敗血症で入院、9月29日急逝、享年28歳。同じ年に次女を亡くし、妻須美子と共に帰国した長女もその後亡くなった。
ハワイで洋画を始めた妻の須美子も、巴里・日本人協会展などに作品を出品、藤田嗣治らから高く評価された。帰国後、鎌倉稲村ケ崎の実家に戻ったが1934年(昭和9年)5月に肺結核で死去、享年25歳。


岩崎勝平

1905年(明治38年)8月15日、埼玉県川越町(現川越市)に生まれた。本名は「かつへい」と読む。父は育太郎、母は育太郎の後妻の満つ。育太郎は川越商業会議所副会頭を勤めるなど川越の有力者で、勝平の叔父には福澤諭吉の娘婿で「日本の電力王」と呼ばれた実業家の福澤桃介、伯母には「激情の歌人」として知られる女流歌人の杉浦翠子がいる。翠子の夫は洋画家の杉浦非水。
川越中学校(現埼玉県立川越高等学校)在学時から絵画の世界に惹かれ杉浦非水の紹介で岡田三郎助の本郷洋画研究所へ通う。卒業後、2浪して東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科に入学、藤島武二に師事する。卒業後、1936年(昭和11年)の文展で選奨、翌年の第1回新文展で特選となるなど画壇へ華々しいデビューを果たす。
1939年(昭和14年)、光風会会員となり、また従軍画家として中国大陸に赴き挿絵を読売新聞埼玉版などに発表した。1941年(昭和16年)、斎藤五百枝の娘・百譽と結婚。しかし懐妊していた百譽が死去、死因をめぐって五百枝と争いとなり、勝平は画壇を去った。また、父の育太郎も死去し、後妻の子であった勝平は兄弟たちに冷遇され経済的に困窮することとなる。
その後、長い放浪生活に入るが詳細は分かっていない。終戦後、川越に戻り死ぬまで絵の具も買えない貧困と孤独な生活が続いた。友人の川端康成や河北倫明の励ましだけが精神的な支えで、鉛筆による素描を続けた。このデッサンは非常な好評を博し、エドマンド・ブランデンの激賞を受けたが、勝平は健康を害し暮らしは楽にはならなかった。死期を予感し新制作展に出品するも落選、失意のうちに1964年(昭和39年)9月、肺がんで死去した。享年59。墓は、川越市の真行寺。
勝平の作品のいくつかは生地川越にあった田中屋美術館が所蔵していたが、同館の閉館後は新設された川越市立美術館に移されている。


落田洋子

埼玉県浦和市生まれ。1968年、武蔵野美術短期大学商業デザイン科卒業。
広告企画の仕事を経て、1976年から油彩画を描き始める。1978年、六本木・青画廊で初個展。1979年、銅版画を開始する。個展やグループ展示会などで作品を発表している。作品は単行本や文庫本などで多く使われている。
1982年、『紅茶と海』でライプツィヒ国際図書デザイン展銅賞を受賞。
個展活動は銀座77ギャラリーを中心に展開している。
グループ展に「ポストコレクション展」(東京セントラル美術館)、「現代形象展」(ストライプハウス美術館)、「チバ・アートナウ'98」(佐倉市美術館)などがある。


金子國義

金子国義「青空」(1989年7月 美術出版社)
金子国義アリスの画廊(1993年6月 美術出版社)
お遊戯(1997年10月 新潮社)
よこしまな天使(Asahi Art Collection)(1998年11月 朝日新聞社)
OIL PAINTINGS-金子国義油彩集(2000年12月 メディアファクトリー)
Drink Me Eat Me 金子國義写真集(2004年4月 平凡社)
金子國義の世界(コロナ・ブックス)(2008年4月 平凡社)
美貌帖(2015年2月 河出書房新社)
ユリイカ 2015年7月臨時増刊号 総特集◎金子國義の世界(2015年6月 青土社)
金子國義(KAWADE夢ムック文藝別冊)(2015年8月 河出書房新社)※津原泰水監修
天守物語(2015年8月 キノブックス)※金子國義画、泉鏡花作、津原泰水監修
イルミナシオン(2016年3月 バジリコ)※金子修監修、津原泰水編集
金子國義スタイルブック(2016年7月 アートダイバー)※金子修、岡部光ともに編著


喜多川歌麿

『婦女人相十品』 大判 揃物 寛政3年‐寛政4年頃
『婦人相学十躰』 大判 揃物 寛政3年‐寛政4年頃
『歌撰恋之部』 大判5枚揃 寛政5年頃
『娘日時計』 大判5枚揃 寛政6年頃
『北国五色墨』 大判5枚揃 寛政7年頃
『青楼十二時』 大判12枚揃 寛政中期
『教訓親の目鑑』大判10枚揃 享和1年‐享和2年
「針仕事」 大判3枚続 寛政7年頃
「風流七小町」
「当時全盛美人揃 越前屋内唐土」 大判 東京国立博物館所蔵
「当時全盛美人揃 玉屋内しつか」 大判
「娘日時計」辰ノ刻・巳ノ刻・午ノ刻・未ノ刻・申ノ刻 大判 東京国立博物館所蔵
「相合傘」大判 東京国立博物館所蔵
「歌枕」
「針仕事」 大判3枚続の左 城西大学水田美術館所蔵
「山東京伝遊宴」 大判 錦絵3枚続 城西大学水田美術館所蔵
「音曲比翼の番組」 小むら咲権六 間判 城西大学水田美術館所蔵
「橋下の釣」 長判 城西大学水田美術館所蔵
「北国五色墨 切の娘」 大判 日本浮世絵博物館所蔵
「高島おひさ」 大判 大英博物館所蔵
「高島おひさ」 細判 ホノルル美術館所蔵 寛政5年頃 両面摺(一枚の紙の表面におひさの正面、裏面に後ろ姿を摺分けている。)
「歌撰恋之部 稀二逢恋」 大判 大英博物館所蔵
「見立忠臣蔵十一だんめ」 大判2枚続 東京国立博物館所蔵 寛政6年‐寛政7年頃 画中に歌麿自身が描かれている。
「青楼十二時 丑の刻」 大判 寛政6年頃 ブリュッセル王立美術歴史博物館所蔵
「婦人相学十躰 浮気之相」 大判 寛政4年‐寛政5年頃 東京国立博物館所蔵
「婦人相学十躰 ぽっぴんを吹く娘」 大判 寛政4年‐寛政5年頃 ホノルル美術館所蔵
「歌撰恋之部 物思恋」 大判 寛政4年‐寛政5年頃 ギメ美術館所蔵
「当時三美人」 大判 寛政5年頃 ボストン美術館所蔵
「婦人泊り客之図」 大判3枚続 寛政6年‐寛政7年頃 慶応義塾所蔵
「化物の夢」 大判 寛政12年頃 フィッツウィリアム美術館所蔵
「当世踊子揃 三番叟」 大判 バウアー財団東洋美術館所蔵
「姿見七人化粧 鬢直し 」 大判 東京国立博物館所蔵
「遊君出そめ初衣裳」 大判 文化初期 総州屋与兵衛版


倉田白羊

埼玉県浦和町(現・さいたま市浦和区)出身。父の倉田幽谷は佐倉藩士の漢学者で、安井息軒の高弟であった。
1894年(明治27年)、洋画家・浅井忠の門下生となる。これは、浅井に師事し将来を嘱望されていたが23歳で早世した兄・倉田弟次郎の遺志を継ぐためであった。この頃、同じく浅井の門下生だった石井柏亭と親しくなる。
1896年(明治29年)、師・浅井が東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)の教師として迎えられたため、1898年(明治31年)に倉田もこれを追うように入学し、1901年(明治34年)に首席で卒業。
1902年(明治35年)、太平洋画会に参加。作品を発表するかたわら、中央新聞社を経て時事新報社に勤務し、カットや美術展評などの仕事を行う。またこの頃から、「白羊」の雅号を用いるようになった。
1907年(明治40年)には、第一回文部省美術展覧会に『つゆはれ』で入選。この頃から倉田の活動も活発になっていく。翌年には山本鼎、石井柏亭、森田恒友による美術文芸雑誌『方寸』に参加し、同じ頃「パンの会」にも参加。 1912年(大正元年)には『川のふち』が夏目漱石の美術批評に取り上げられるなどして評判も上がっていき、1915年(大正4年)には日比谷美術館で個展も開いている。
『方寸』で知り合い親友となった小杉未醒の紹介で、押川春浪を中心としたスポーツ社交団体「天狗倶楽部」に入会していた倉田は、1916年(大正5年)、倶楽部の旅行で朝鮮・満州に出かける。これが倉田の転機となった。 この旅行の中で大自然の魅力に取りつかれた倉田の絵からは、以降人間の姿が少なくなっていく。
1922年(大正11年)、春陽会の創立に参加。同年、山本鼎に日本農民美術研究所の副所長として招かれ、長野県上田市に移住する。以後はここを終生の住処とし、作品を発表しながら農民美術運動の指導にもあたった。
1934年(昭和9年)、持病の糖尿病が悪化し右目を失明する。その後も絵は描きつづけたが、病状は悪化。1938年(昭和13年)には完全に失明し、同年11月29日に死去。墓所は多磨霊園。


小茂田青樹

埼玉県入間郡川越町(現川越市)に、呉服商・小島徳右衛門の次男として生まれる。本名は小島茂吉。通称は茂。1896年(明治29年)、叔父の養子となり小茂田姓になる。
17歳で上京。当時は川越町と東京市を結ぶ鉄路がなく、寄宿したのが松本楓湖の隣家であった。その縁もあって楓湖の「安雅堂画塾」に入門。なお、同日に、終生ライバル関係となる速水御舟も入門(御舟が午前、青樹が午後だった)。1913年(大正2年)、第13回巽画会展に出品、原富太郎に買い上げられ、以降、支援を受ける。翌年、今村紫紅が主宰する赤曜会に参加し、青樹と号する。
1915年(大正4年)の再興院展に「小泉夜雨」が初入選。その後、肺結核となり川越の実家で静養する。1918年(大正7年)、第5回再興院展で「菜園」が入選。1921年(大正10年)、第8回再興院展に洋画的な手法と細密表現の際立つ「出雲江角港」を出品し、横山大観らに推挙され日本美術院の同人となる。1929年(昭和4年)、杉立社を組織、また帝国美術学校(現武蔵野美術大学)教授に就任。1931年(昭和6年)、日本画が本来もつ装飾性に眼を向けた「虫魚画巻」を第18回院展で発表。
1933年(昭和8年)、咽頭結核が悪化し神奈川県逗子市で夭折。41歳没。墓所は川越市の広済寺にある。


後藤純男

1930年 千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)の真言宗豊山派の住職後藤幸男の子として生まれる。
1932年 埼玉県金杉村(現・松伏町)へ転居。
1942年 金杉小学校を卒業する。同年、父後藤幸男が母校で英語教員を勤めていた旧制豊山中学校(現日本大学豊山高等学校)に入学し片道2時間かけて通学した。
1945年 後藤幸男が粕壁中学の英語教員に転任すると一緒に旧制埼玉県立粕壁中学校(現春日部高等学校)第4学年へ転入する。
1946年 山本丘人に師事。 粕壁中学校卒業後、東京美術学校を受験するが入学は叶わなかった。
1949年 田中青坪に師事。
1952年 再興第37回日本美術院展覧会(院展)に初入選。5年間の教員生活を終える。
1954年 日本美術院院友に推挙。
1955年 約8年間の関西、四国における真言宗の寺を巡るスケッチ旅行を始める。
1965年 再興第50回日本美術院展覧会で日本美術院賞・大観賞を受賞。日本美術院特待に推挙。
1969年 再興第54回日本美術院展覧会で日本美術院賞・大観賞を受賞。
1974年 日本美術院同人に推挙。
1976年 再興第61回日本美術院展覧会で文部大臣賞を受賞。
1981年 ネスカフェ・ゴールドブレンド「違いがわかる男」のコマーシャルに出演。
1982年 中国の西安美術学院名誉教授に就任。
1986年 再興第71回日本美術院展覧会で内閣総理大臣賞を受賞。
1987年 北海道空知郡上富良野町にアトリエを構える。
1988年 東京藝術大学美術学部教授に就任。教授時代の門弟には、日本画家・絵本画家の後藤仁がいる。
1993年 真言宗豊山派の総本山長谷寺に襖絵「夏冬山水」を奉納。
1995年 パリ・三越エトワールにて「後藤純男展」を開催。
1997年 東京藝術大学教授を退官。北海道空知郡上富良野町に後藤純男美術館を開館。
1999年 千葉県銚子市の犬吠駅に後藤純男美術館を開館(2004年1月30日閉館)。
2002年 埼玉県北葛飾郡松伏町の名誉町民となる。
2006年 旭日小綬章を受章。
2014年5月10日 大分県玖珠郡九重町の九州芸術の杜内に常設で後藤純男リトグラフ館を開館(原画とリトグラフ)。
2016年 日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。東京藝術大学名誉教授の称を受ける。千葉県流山市の名誉市民第一号となる。10月、敗血症により死去。


斎藤三郎

1917年 - 埼玉県熊谷市に生まれる。
1930年 - 旧制浦和中学校に入学。
1937年 - 内務省に勤務するかたわら、東京物理学校(現東京理科大学)に学ぶ。
1940年 - 東京物理学校を中退して出征。戦地で画家になることを決意し、多数のデッサンを描く。
1945年 - 戦地から帰国。埼玉県浦和市に居住。
1946年-第31回二科展に初入選。
1948年-第33回二科展にて「敗戦の自画像」が特待賞受賞。
1949年-サロン・ド・プランタンに出品。第3回美術団体連合展に出品。
1950年-「信仰の女」で第35回二科展二科賞受賞。
1954年-二科会会員推挙。
1961年-第46回二科展にてパリ賞を受賞。
1972年-渡欧。第57回二科展に出品、内閣総理大臣賞を受賞。埼玉県文化賞受賞。二科会委員となる、またこの頃からスペインの人物を描き始める。
1974年-渡欧、おもにスペインに滞在する。
1975年-渡欧、おもにスペイン、イタリア、ベルギーに滞在。二科展(エジプト政府主催、カイロ国立ファイン・アート・ギャラリー)に出品。
1996年- 埼玉県浦和市にて死去。享年78。

斎藤与里

埼玉県北埼玉郡下樋遣川村(現・加須市)生まれ。本名は与里治。浅井忠、鹿子木孟郎に洋画を学び、1906年に鹿子木とともにフランスへ渡った。1908年8月に帰国した後は「白樺」誌上で、ポスト印象派やフォーヴィスムの作品を紹介した。1912年、岸田劉生らとフュウザン会を結成(翌年解散)。
1924年に槐樹社(1924-1931年)を設立し、機関誌『美術新論』の主幹として美術評論も行った。解散後、1932年に東光会(1932年-)を創設した。
この間、大阪美術学校(大阪芸術大学の前身・大阪美術学校とは別で、1944年廃校。跡地は枚方市立御殿山生涯学習美術センター)の創立に協力し、1926年に教授となった。


四方田草炎

四方田草炎は埼玉県児玉郡北泉村四方田(現本庄市北堀)出身の昭和期の画家。本名青次郎。北泉村の旧家・四方田家の次男として生まれ、生前は著名とはなれなかったが、死後、「孤高の素描画家」としてスポットを浴びる。浦和画家の一人。
草炎が描いた素描は1万点を超え、画面に強く引かれた線、同じ所を何度も何度もなぞって描かれた部分は異常に黒光りし、そこには対象の本質に迫ろうとする画家の全身全霊を傾けた、真摯で一途な執念ともみえるものがあるとされる。これは山中生活から研かれたものであった。
草炎の素描を観た近代日本画の中心人物である横山大観は、「君は一体どうしてこれが描けたのか、まさしく神の手だ」と驚嘆の声をもらした。


須田剋太
1906年 - 埼玉県北足立郡吹上町(現:鴻巣市)で、須田代五郎の三男として生まれる。本名 勝三郎。
1927年 - 埼玉県立熊谷中学校(旧制、現・埼玉県立熊谷高等学校)卒業。その後浦和市(現:さいたま市)に住み、ゴッホと写楽に傾倒する。東京美術学校(現東京芸大)を4度受験するもいずれも失敗。独学で絵を学ぶ。
1936年 - 文展で初入選。
1939年 - 文展で「読書する男」が特選。
1947年 - 朝井閑右衛門、井手宣通、伊藤悌三、大河内信敬、南政善らとともに新樹会を創設。
1949年 - 抽象絵画の旗手長谷川三郎と出会い、国画会に入り抽象画の道へ進む。
1950年 - 森田子龍編の「書の美」に論文を発表する。以後「墨美」や墨人会同人との交流を通して書に深く傾倒。
1955年 - 第3回日本抽象美術展に出品。
1957年 - 第4回サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展に出品。
1960年 - 第1回個展(大阪フォルム画廊)。
1961年 - 現代日本絵画展に出品。カーネギー国際現代絵画彫刻展(アメリカ)に出品。
1962年 - 西宮市民文化賞を受賞
1971年 - 司馬遼太郎に同行し、没する寸前まで「街道をゆく」の挿絵を担った。
1975年 - 郷里の吹上町文化賞を受賞。
1983年 - 「街道をゆく」の挿絵で第14回講談社出版文化賞を受賞。
1989年 - 埼玉県立近代美術館にすべての抽象の油彩画、グワッシュの合計293点を寄贈。
1990年 - 油彩画45点、グワッシュ320点、挿絵1858点の計2223点の作品を大阪府に寄贈。死期を感じ取り作品を散逸させないため大量の寄贈を行ったと言われている。
1990年 - 7月14日午後5時28分、兵庫県神戸市北区の社会保険中央病院にて84歳で死去。


高田誠
1913年9月24日 - 埼玉県浦和町(のち浦和市)常盤町に生まれる。
1924年(大正13年) - 浦和中学校に入学、福宿光雄に図画を学ぶ。
1929年(昭和4年) - 二科展に「浦和風景」を出品し初入選。
1930年(昭和5年) - 安井曾太郎に師事。
1931年(昭和6年) - 二科技塾(のち番衆技塾)に入り、安井や熊谷守一に学ぶ。「海の見える風景」を二科展に出品し、入選。
1955年(昭和30年) - 埼玉大学教育学部美術科講師。
1961年(昭和36年) - 埼玉県美術家協会会長。
1962年(昭和37年) - 日展評議員。
1968年(昭和43年) - 「雑木林のある風景」で日展文部大臣賞受賞、埼玉県教育功労者。
1972年(昭和47年) - 日本芸術院賞。
1973年(昭和48年) - 日展理事長。
1976年(昭和51年) - 安井曾太郎記念会理事・評議員。安井賞の運営に尽力。
1977年(昭和52年) - 埼玉県文化功労者。
1978年(昭和53年) - 日本芸術院会。
1984年(昭和59年) - 第一回浦和市民文化栄誉賞。勲三等瑞宝章受章。
1987年(昭和62年) - 文化功労者。個人としては初の埼玉県民栄誉賞受賞。
1990年(平成2年) - 浦和市名誉市民。
1992年10月24日 - 死去。11月24日にはさいたま市文化センターにて浦和市民葬が営まれた。


田中保

「木立の中の赤い屋根」(1913年)(栃木県立美術館)
「マドロナの影」(1915年)(うらわ美術館)
「キュビストA」(1915年)(埼玉県立近代美術館)
「東洋の少女(しとやかなナイチンゲール)」(1918年頃)(埼玉県立近代美術館)
「ルイズ・カンの肖像」(1919年頃)(ウッドワン美術館)
「セーヌの宵」(1920年)(静岡県立美術館)
「海と人影」(1917~20年頃)(サトエ記念21世紀美術館)
「後ろむきの裸婦」(1923年)(国立西洋美術館) 松方コレクション
「裸婦」(1924年)(埼玉県立近代美術館)
「ソリタ・ソラノの肖像」(1927年)(名古屋市美術館)サロン・デ・ナショナル出品作品
「夢をみる裸婦」(1930年)(池田20世紀美術館)
「黒いドレスの腰かけている女」(1920~30年頃)(埼玉県立近代美術館)
「金髪の裸婦」(1920~30年頃)(目黒区美術館)
「自室にいる裸婦」(1920~40年頃)(サトエ記念21世紀美術館)
「裸婦」(1920~40年頃)(棟方志功アートステーション)
「裸婦」(年代不詳)(松下美術館)
「キャベツ」(年代不詳)(かがみの近代美術館)


羽川珍重

羽川珍重の事については、曲亭馬琴著『燕石雑志』巻之五上の中にまとめられている。それによれば武蔵国川口(現在の埼玉県川口市)の生まれで本姓は真中、俗称は大田弁五郎(「大田」は川口の旧名)。珍重の父直知(なおとも)は、馬琴の祖父にとっては叔父にあたる。弱冠にして江戸に出て、鳥居清信を師とし絵を学び、のちに羽川の画姓を称す。妻を娶らず、武道をたしなみ、常に言行を慎み、遊山、舟遊びの際にも肩衣(裃)を脱がなかったので、浮世絵師には稀なる人物であると賞された。絵で暮らしを立てていたが、気が向かなければ人が勧めても絵を描こうとはしなかった。晩年は自画の絵馬を川口の稲荷五社に奉納し、自画像と小引(しょういん : 短い文)一巻を孫の二郎に与えたが、自画像と小引は火災により焼失したという。老衰して三同宣観居士の法号を称した。宝暦4年7月22日、下総国葛飾郡川津間の郷士藤浪家にて没す。藤浪家は珍重の姪が嫁いだ家であった。享年「七十余歳」。辞世の句は「たましいのちり際も今一葉かな」、墓所は江戸下谷池之端の東円寺(東淵寺)。
以上が『燕石雑志』が羽川珍重について伝える大略であるが、樋口弘によれば『燕石雑志』の記述を裏付けるものはないという。樋口弘が実際に池之端の東淵寺や埼玉県川口市へ足を運んだ結果、東淵寺には墓石はもとより寺の過去帳などにも珍重の墓が東淵寺にあったと確かめられるものはなく、川口市においても真中氏や、珍重が最期を迎えたとされる藤浪家の存在も確かめられなかったことを『初期浮世絵解説』で報告している。もっとも昭和10年(1935年)頃に長谷川義一が東淵寺を訪ねたところ、すでに珍重に関わるものはなにもなかったという(『掃苔』第四巻第四号)。
珍重のほかに画号として元信、冲信、絵情斎を名乗った。作画期は享保の頃を中心とするが、「彦根屏風模本」には延享2年(1745年)の款記があり、また「江戸下谷住」とあるので下谷に住んでいたことが知られる。画風は鳥居派または奥村政信に似るとされ、遊女評判記、役者評判記、六段本、赤本の挿絵の他、一枚摺の墨摺絵や丹絵などを20点ほど残す。羽川藤永、羽川和元は珍重の門人といわれているが、これらは珍重の別名であるとの説もありその関係は明らかではない。


深沢邦朗

第二次世界大戦に従軍し、戦地でも絵を描いたとの事。
1960年、小学館絵画賞を受賞する。
1975年、自ら設立した現代童画会の初代会長となる。
1979年、現代童画会を退会する。
1983年、自ら設立した童画芸術協会の会長となる。
2009年、肺炎で死去するまで童画芸術協会の会長を務めた。

宮崎敬介

1970年 埼玉県に生まれる。
1990年 武蔵野美術大学造形学部空間演出デザイン科入学。
1994年 同校卒業。
1995年 アニメ映画『耳をすませば』用に「牢獄でヴァイオリンを作る職人」を制作。
1996年 木口木版画展「MOONSHINE」(ピンポイントギャラリー)
1997年 ザイログラフィア木口木版画7人展(ガレリアグラフィカ)宮崎敬介木口木版画展(加藤京文堂)
2000年 木口木版画展「PLANET」(ピンポイントギャラリー)
2001年 木口木版画展「wood engraving 放浪時代」(松明堂ギャラリー)
2002年 三鷹の森ジブリ美術館展示用に木口木版画を制作。
2003年 堀田善衛『路上の人』『聖者の行進』『時代と人間』の表紙版画を制作。木口木版画展「プラネット」(ピンポイントギャラリー)
2004年 木口木版画展「calling」(松明堂ギャラリー)
2006年 木口木版画展「サイレンス」(ピンポイントギャラリー)
2007年 木口木版画・銅版画 宮崎敬介・佐藤妙子展(松明堂ギャラリー)

森田恒友


埼玉県幡羅郡久保島村(現・熊谷市)に生まれる。
小山正太郎の不同舎に学び、1902年東京美術学校(現・東京芸術大学)入学。在学中、青木繁や坂本繁二郎らと親しく交わり、また新設の太平洋画会研究所にも通った。1906年に東京美術学校西洋画撰科を卒業。
1907年、山本鼎・石井柏亭らと美術誌「方寸」を創刊。同年、第1回文展に「湖畔」を出品し入選[5]。また渡欧するまでの間、たびたび太平洋画家展にも制作を発表した。翌年にパンの会の同人となる。
1914年、ヨーロッパに渡り、セザンヌの影響を受ける。翌年帰国して二科会会員。1916年、日本美術院洋画部の同人となったが、翌年両会とも脱会し、1922年、春陽会を設立。ヨーロッパで得たリアリズムを基本に西洋画の写生を水墨画の上に生かし、自ら平野人と号し、関東平野の利根川沿いの自然を写生し、閑静な生活の中に心の澄んだ素直な作品を描いた。
南画の伝統を近代絵画に蘇らせた画家の一人。


山本容子

1952年 4月、福喜鮨創業者山本喜五郎の孫として埼玉県浦和市(現・さいたま市)の浦和市立病院(現・さいたま市立病院)で生まれる。このため、公式プロフィール上浦和市出身となっている。父は旧制武蔵高等学校尋常科から大阪府立高津中学校を経て、旧制第三高等学校受験に二度失敗し、大阪理工科大学(現在の近畿大学理工学部)入学。同校卒業後、容子の出生当時は埼玉の鉄工所に勤務していたが、後に奈良県生駒市で山本旅館の経営を引き継いだ。経営難で旅館を手放してからは自らの研究所を設立し、公害処理など化学関係の研究をおこなった。このため、容子は生後50日で山本旅館に移り住む。
1955年 8月、大阪府堺市大浜中町に転居。
1959年 4月、堺市立英彰小学校入学。
1961年 冬、父の研究所の倒産により一家が破産。東京都練馬区に夜逃げし、練馬区立田柄小学校に転校。
1963年 春、大阪府門真市に転居。門真市立大和田小学校に転校。
1964年 父が愛人を作って家から出たため、母がお好み焼き屋を始めて家計を支える。
1965年 4月、聖母女学院中学校に入学。
1966年 カトリックの洗礼を受け、洗礼名ベルナデッタを授かる。
1969年 このころ、天王寺公園で前衛劇団「日本維新派」の芝居を観劇し、強烈な印象を受ける。このとき「こういう演劇に興味があるんなら、京都芸大のアトリエ座に行けばいいよ」と聞いたことがきっかけで京都市立芸術大学を志望するに至る。
1972年 4月、関西美術院とリベラ美術研究所での1年間の浪人生活を経て京都市立芸術大学美術学部西洋画科に入学。
1974年 このころ、先輩の木村秀樹に「あなたのことが好きです」と告白して「僕も君が嫌いではない。でも、みんなで一緒にいる方が楽しいし、何より、作品を創っているのが一番楽しい」と断られる。
1975年 5月、第27回京展紫賞受賞。6月、京都のアート・コアギャラリーにて初個展を開く。
1976年 6月、第1回アート・コア賞受賞。
1977年 7月、第2回京都洋画版画美術展で新人賞受賞。10月、第2回現代版画コンクール展でコンクール賞受賞。
1978年 1月、大学院の先輩にあたる4歳上の版画家の田中孝と結婚。京都の公団南大島団地に住む。3月、京都市立芸術大学美術学部西洋画専攻科修了。田中と共に京都市立芸術大学の非常勤講師をつとめる。9月、第2回日本現代版画大賞展で西武賞受賞。このころ田中の子を妊娠したが、田中の「自分たちの面倒もみきれないほどの貧乏暮らしなのに、子供なんてとんでもない」との一言で中絶を余儀なくされる。
1980年 3月、京都市芸術新人賞受賞。10月、エイボン女性年度賞芸術賞受賞。この年、木村秀樹の紹介で大津市比叡平に転居。
1981年 このころ、容子の作品に注目して東京から訪ねて来た画廊主が田中に向かって"うちの画廊にとってあなたは取り扱い作家として興味がない"旨を宣告。このため田中との夫婦関係が冷却し、家庭内別居が始まる。
1982年 7月、田中と離婚。
1983年 第4回韓国国際版画ビエンナーレで優秀賞受賞。
1984年 7月から、妻子ある21歳上の美術評論家中原佑介と東京渋谷区代々木のアパートで同棲。このため中原の妻が代々木のアパートに押しかけ、大声で叫びながらドアを叩く、画廊の前で待ち伏せする、牛乳入れにマッチを投げ入れる、執拗に電話をかけ続けるなどの嫌がらせをおこなう。西参道を歩いていた容子に中原夫人が駆け寄って「今からこの人に突き飛ばされた、と言ってから、車に轢かれます」と叫んだこともあった。このときは容子が交番に駆け込み、警官に状況を説明してから「わたしは決してあの人を突き飛ばしたりしないから、証言を取って置いて下さい」と言った。
1985年 5月、東京港区南青山の秋山庄太郎の家作に転居。
1986年 8月、神奈川県鎌倉市に転居。
1992年 『Lの贈り物』で第23回講談社出版文化賞ブックデザイン賞受賞。
1996年 テレビ番組の富士通スペシャル『世界遺産──時を超える旅』の収録で知り合った2歳下のテレビディレクター氏家力(嵐山光三郎の元用心棒)と嵐山の仲人で結婚。
2004年 5月、氏家と離婚。


NANATO

劇団東俳を離籍後フリーで活動、その後にスタジオビコロールに所属をしつつ同時にフリー活動をしていた。現在ADESSO所属。
アメリカではL.A crewAPT UNDER LOUNGEに所属。
日本ではメイクアップアーティスト、タレントとしてADESSOに所属。
IBF国際美容連盟国際メイクアップアーティスト認定講師。
タレント以外にフリーでトータル美容家、ヘアー&メイキャップ、メイクアップ講師(IBF国際美容連盟国際メイクアップアーティスト認定講師)、ネイリスト、ヘアーブレイダー、ボディージュエリスト、メディカルオイリスト、アイブロウリスト、オルタナティブアートデザイナー(NA2&)、ハウススタジオ経営の仕事をしている。
アートデザイナーとしてNA2&の名前でデザイン画などの作成をしている。
タレントとしてドラマやショートムービー、バラエティ番組に出演している。かつては、昼の生情報番組「U・LA・LA」木曜日レギュラーとして「NANATO’s NAIL ART」のコーナーなどにネイリストとして出演していた。
「U・LA・LA」の東京ディズニーリゾート25周年記念でリポーターとして出演をしていた。
プロのヘヤーメイキャップ、ネイリスト、ヘアーブレイダーとして雑誌やアーティストのCDジャケット、PVなどにタレント名と同じ「NANATO」で記載されている。
世田谷FMの「Shining music from 明花」に特別ゲスト出演などをしていた。
shibuyacrossfmにて、minminのFRYDAY nightやエンタメジャックなど多数ラジオ番組にてメイキャップアーティストとしてゲスト出演していた。
現在は埼玉県のサロン「LINC」でトータル美容家、ネイリスト、ヘアースタイリスト、ボディージュエリスト、エステティシャン、ボディーメイク、メイキャップアーティスト、アイブロウリストとして経営もしている。自身の技術提供をする講習も開いている。
単身でアメリカ・ロサンゼルスに留学していた(ロサンゼルスにある専門学校を卒業している)。
主にARIA・LISA(m-flow)・DOUBLE・RYOKO・SLOW・SHIKATA・ZEEKなど多くのアーティストや外国アーティストローリン・ヒルなどのネイルやヘアーメイクなどを担当している。
数多くのダンス舞台などのメイクのプロデュースを手掛けている。
『woofin’girl』や『Luire』などのファッション雑誌他、ヘアーカタログ、ジュエリー雑誌などのモデルメイクやトータルビューティーのプロデュースを手がけている。
かつてはMasterTempo(Monk. Steave.i Shikata NANATO YusukeGemini)というcrewで音楽、ファッションなどの融合show event活動をし、メイクやショープロデュースだけでなくevent衣装デザインなども担当していた。
音楽人、俳優、他アーティストのイベントやライブブッキング、プロデュース業でも活躍。
各業界のメイクアッププロデュース、講師業でも活躍。
自身のハウススタジオを所持、経営もしている。
オリジナルのボディーメイク技術(オルタナティブハンドメイク)が人気で数多くのモデル、アスリート、著名人達のボディーメイクを担当している。
日本での拠点を坂戸市とし幼少期を過ごし、美容サロンも坂戸市にオープンしている。


大山結子


十文字中高等学校に進学。機能不全家庭出身で、主に家庭に起因する理由から精神障がい者となる。 家庭の事情で理数系の大学に進学したのち、すいどーばた美術学院に入学(ただし手違いでデザイン科に籍を置く)。
女子美術大学デザイン科に入学したのち、新宿美術学院の油画科に特待生として入学、多摩美術大学に油画専攻で入学、卒業。 インターメディアをモットーとした活動を展開している。 多摩美術大学在学中、演劇を先行する学生と共に、演劇『自来也』に役者として抜擢され、自来也役で出演。
この時に共演した他の学生らの多くが、のちに快快のメンバーとなる。大山は東京芸術劇場にて上演された『火の鳥(ストラヴィンスキー)』にて主演を務める。
東日本大震災の折には、一旦中止された村上隆主催GEISAIを夏に再開することとなり、カイカイキキギャラリーの招待作家として、キックオフイベントに出演した。
障害者差別解消法が施行される折には、社民党をはじめとする政治家たちと共に、参議院議員会館にて行われた勉強会に、当事者の一人として、斎藤里恵とともに登壇した。

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