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宮城県にお住いの方へ
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宮城県について

宮城県は東北地方にある県で、県庁所在地は仙台市です。
東は太平洋に面し、豊かな漁場と日本三景の一つ松島をはじめとする風光明媚な観光地などに恵まれています。
西には蔵王・船形・栗駒などの山々が連なり四季折々の姿を見せ、中央部には有数の穀倉地、仙台平野が広がります。
観光においては日本三景の松島をはじめ、美しい自然や文化的施設が多くあるため、東北でも訪れる人が多い県となっています。
東日本大震災により宮城県沿岸部には甚大な被害がありましたが、徐々に復興を始め、観光で訪れる人の数も震災前の水準に近づきつつあります。

宮城県のなかでも特に仙台は東北の玄関口とも呼ばれ、東北で一番大きな都市として認知されており、買い物だけのために近県から訪れる方も少なくありません。
食べ物も名物が多く、牛タン、ずんだ餅、寿司、牡蠣等一度訪れただけでは味わいつくせないほどの種類があります。

宮城県の気候は、夏はそれほど暑くならず、冬も雪がそれほど降らなく冷え込むことも少ないことから、暮らしやすい気候といえます。
夏は特に、海から入り込む「やませ(冷たく湿った海風)」の影響で、日本の県庁所在地で一番気温が低いことしばしばです。
それでも、2010年頃から真夏日や猛暑日を記録する日が出てきていますが、西日本や東日本に比べるとはるかに過ごしやすいといえます。
冬についても、太平洋側に位置するため、雪が降るのは主に宮城県の山沿いが中心で、平野部には積もるくらいの雪は年に数回といったところです。

画家について

熊耳耕年

明治21年(1888年)仕事に耐えられず上京し、月岡芳年に内弟子として入門。
同門の坂巻年久(のちの耕漁)とともに「三十六怪撰」「月百姿」の助手をするまでになる。
仙台に帰省中の明治25年(1892年)6月9日夜に芳年が死去、芳年未亡人に許可を得て尾形月耕の通いの門人となる。
明治26年、日本青年絵画協会第12回絵画共進会に出品、日本美術協会展覧会では褒状二等を受賞。
明治27年(1894年)、のちの河北新報の主筆・編集局長の藤原相之助夫婦の世話で石田きちと結婚。
明治29年(1896年)、長女コウが生まれる。小圃六一らが結成した青年美術会に「三日月耕年」の名で揮毫席に座り、技能を披露。
明治30年(1897年)1月17日に、『河北新報』が創刊されると、創刊号から新聞小説の挿絵を担当。
明治36年(1903年)、大阪での第5回内国勧業博覧会に作品「智仁勇」で入選。 明治39年(1906年)、一家をあげて(柴田耕洋、石川桂堂を連れて)上京、尾形月耕に再入門する。
明治41年(1908年)、帰郷中の夫人が死去、急遽仙台に戻る。このとき門人たちが、耕年の慰撫と夫人の慰霊のために書画会を開いている。同年秋、東宮(後の大正天皇)行啓。仙台12画家のひとりとして、宮城県下の24景勝地のうち、耕年は「榴ヶ岡」と「愛宕山」を描く。11月にはその画家たちが五城館で記念画会を開き、耕年も参加。また、仙台市長和達孚嘉の委嘱を受け、仙台百景を写しこれを献納。
明治42年6月、本郷座で「画家演芸」に参加するも大損に終わる。
明治43年、埼玉県知事島田剛太郎に額面を寄贈し、感謝状と木杯を受ける。
大正4年(1915年)2月4日、五十嵐ミヤと結婚。ミヤとの間に、長男信雄と次女麻が生まれている。同年11月10日(大正天皇の御即位大典の日)、東京淀橋の聖書学院内にて浸礼を受ける。
大正7年(1918年)7月、再び「画家演芸」に参加。
大正8年、『通俗基督教文庫』(福音普及会刊)にて挿絵を担当。
大正12年(1923年)、関東大震災により家族とともに郷里仙台に戻り、以後は地元の有力者を相手に肉筆画を描くことが多くなる。同年、仙台日本画展覧会に参加。大正13年、日本画家5人による研究グループ「白萩社」結成、耕年も参加。大正14年、白萩社同人で、東京美術学校出身の内ケ崎俊雄や同校中退の高橋清水と並んで、塩釜で結成されていた清交会の顧問となる。
昭和3年(1928年)、東北産業博覧会に出品した「芭蕉の辻図」(生家の大澤屋があった明治8年から9年〈1875 - 1876年〉ごろの同地を描いたもの)が日本画の部一等金牌賞受賞。昭和8年(1933年)5月、第一回東北美術展(今の河北美術展)で弟子の畑井美枝子、三浦俊子、有川いさをが出品。昭和11年、三枚続木版画「芭蕉の辻図」を出版。昭和13年死去、墓所は仙台市青葉区柏木の称覚寺。
現在耕年の(主に関東大震災で仙台に帰って以降の)作品は、瑞巌寺宝物館、仙台市博物館、福島美術館などに複数点ずつ所蔵されている。


佐藤一郎

1946年 - 宮城県古川市に生まれ、仙台で育つ。
1970年 - 東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻卒業 東京藝術大学卒業制作、買い上げ・大橋賞受賞
1972年 - 東京芸術大学大学院美術研究科修士課程油画修了
1973年 - 東京芸術大学研究生修了後、ドイツ学術交流会留学生(DAAD)として、ハンブルク美術大学に留学(-1977)
1981年 - 東京芸術大学博士課程油画専攻を単位取得退学し、同大学美術学部絵画科常勤講師(油画技法材料研究室)(-1986)
1986年 - 東京芸術大学助教授(油画技法材料研究室)(-1998)
1995年 - 文部省在外研究員として、ウィーン美術大学修復学科に在籍(-1996)
1999年 - 東京芸術大学美術学部教授(油画技法材料研究室、兼担:文化財保存学保存修復油画研究室)
2014年 - 金沢美術工芸大学大学院専任教授

サトル・サトウ

1945年 - 宮城県登米郡石森町(いしのもりちょう、現登米市中田町石森)に生まれる。宮城県佐沼高等学校卒業。
1969年 - 東洋美術学校卒業、その年、パリ国立美術学校に留学、1974年迄学ぶ。
1970年 - エジプト旅行、ピラミッドに出会い、構成、構造、幾何学の原点に触れ、衝撃を受ける。
1972年 - パリで初めての企画個展、パリ招待サロン、レアリテー・ヌーベルに出品。
1973年 - ミシェル・スフォール、岡本謙次郎と出会い、大きな影響を受ける。この頃より、パリの幾何学構成主義的作家達と交流を持ち、グループ展等に参加し始める。
1976年 - パガニー野外彫刻美術館より依頼され、モザイクを制作。イタリア
1979年 - パリにて、鉛直主義を唱える。
1986-2004年 - パリの現代サロン、グランエジュンヌドージュドウイの運営審査委員に任命される。
1988年 - 宮城の五人展に招待出品。宮城県美術館、仙台
1989年 - 在仏20年記念展が、有楽町・そごう、仙台・藤崎、銀座・モリス・ギャラリー、新潟の創庫美術館、パリ・ギャラリー・コンベルジャンス等で開始され、作品集が創庫美術館より出版される。
1990年 - 御影石による、初めての野外彫刻制作。南方中学校
1991年 - 1%制作、ブルガンブレス市立中学校に環境造型アート作品を制作。
1991-2007年 - 国立パリ大学第八、造型美術学科講師を勤める。
1992年 - みなみかたアート・フェステバルを企画、7人の現代彫刻家・現地制作(登米市南方町)、全国的にテレビ、ラジオ、新聞等で報道される。
1994年 - 登米祝祭劇場庭に、御影石による作品を制作。
1995年 - 登米市夏川、ポンデザール(芸術橋)橋全体と周りの自然を取り入れた環境造型的作品を制作。
1996年 - 仏・クレルモン・フェラン、御影石に寄る環境造型作品制作。700 x 1400 x 4500cm
1998年 - エクアドル・キトのメトロポリタン公園にコンクリートで環境造型作品制作。700 x 1500 x 4500cm、エクアドル政府より第一等文化功労賞を受ける。(日本人では野口英世博士はじめ3人目)
2000年 - 韓国・山清郡の国際彫刻シンポジュームで大賞を受賞。
朝鮮戦争終結50周年記念国際彫刻シンポジュームにて、釜山広域市南区の名誉区民賞を受賞。
登米市中田町、諏訪公園、2.5ヘクタールの空間環境造型アート作品を完成。
2001年 - レバノンで野外造型作品を制作。
2003年 - 韓国民族村にて、野外造型作品を制作。
2004年 - 台湾、桃園県にて、野外作品を制作。550 x 460 x 2000cm
米国、プエルト・リコ大学本部公園にて野外作品を制作。680 x 1000 x 2200cm
2005年 - ベネズエラにて、環境造型作品を制作。
石ノ森章太郎ふるさと記念館隣、安永寺(中田町石森)の為に、”無常の響き”制作。
2006年 - アンドラ国、郵政局より、2004年制作の環境造型作品の作品(900 x 600 x 5050cm)の作品が、切手として30万枚発行される。
2007年 - 故郷である宮城県登米市中田町にサトル・サトウ・アート・ミュージアムが開館。
2008年 - パリ招待サロン、レアリテー・ヌーベル(幾何学構成絵画)の運営審査委員に任命される。


菅井梅関

江戸時代後期の文人画家。菊田伊洲・東東洋・小池曲江とともに仙台四大画家と称揚される。
名は岳・智義、字を岳輔・正卿、号ははじめ東斎としたが梅館・梅関に改めた。奥州仙台の生まれ。
仙台柳町の老舗茶舗「名取屋」を家業とする鈴木氏の長男に生まれた。しかし、幼少より画を好んだので、家督を弟に譲ってひたすら画の修行を行った。日々、菅原道真の神像を描いて励みとし、鈴木姓から菅井姓に改姓。初号を東斎とした。
瑞鳳寺住職の古梁紹岷(南山禅師)に詩・書・画の手ほどきを受け、古梁に従って塩釜・松島に遊ぶ。また遊歴の画人として知られる仙台藩絵師根本常南に就いて画を学び、雙林寺 (渋川市)では「涅槃図」の合作を行っている。更に、南蘋派風の花鳥画や岸派風の虎図、司馬江漢のような洋風画も残しており、様々な流派を貪欲に学んでいたことがわかる。
画才を認めた常南に江戸行を勧められ、谷文晁の門戸を叩いたが文晁の北宗画風が受け入れられず、同郷の画家東東洋を頼って京都に上り、古画の鑑賞や臨模を熱心に行った。骨董商で偶然目にした扇面図に強く惹かれ、この図が長崎に滞在している清の画人江稼圃の作と知るとすぐさま長崎行きを決意。
長崎では稼圃に実力を見いだされ、画法・書法のみならず文人として必要な詩文・経学の知識・教養まで親しく教授された。また弟の江芸閣にも詩・書・画の指導を受けている。以来、京坂を往来しながらも長崎には十数年滞在。木下逸雲・諸熊秋琴・水野眉川・竜梅泉らと交友。長崎に遊歴した田能村竹田や頼山陽とも知り合う。梅関が長崎を辞するとき師の稼圃は梅関に墨梅図を描かせ、後に清国に持ち帰ったという。このとき師の恩義に報いようと号を東斎から梅関に改めた。
文政6年(1823年)頃には大坂御堂筋瓦町に居を構え、頼山陽・篠崎小竹・岡田半江・金井烏洲・八木巽処らと交友。天保元年(1830年)には山陽宅の水西荘にてその居宅風景を描き山陽の詩を添えて「水西荘帖」として合作した。梅関の山水図は当時釧雲泉と並称されるほど名声があり、また豪快で荒々しい筆致の墨梅図が高く評価された。
母が没し弟が失明したと報を受けて帰郷する。涌谷領主の伊達桂園に仕え、僧・古梁紹岷、画人・東東洋、儒者・大槻磐渓、蘭医・佐々木中沢らよき理解者らと親交を結ぶ。しかし、盲目の弟とその家族を支える生活は厳しく、折からの飢饉も加わって貧窮を堪え忍ばざるを得なかった。このような事情のためか梅関は生涯を独身で過ごした。文人としての矜持をもって過ごすも、支援者・理解者の相次ぐ訃報に接し、ついに心が折れ天保15年(1844年)正月、自ら井戸に身を投げて自殺。享年61。葛岡正雲寺(仙台市)に墓所がある。弟子に養子でもあった菅井田龍など。


林竹治郎

1871年に宮城県に生まれ、仙台師範学校(現宮城教育大学)へ入学した。師範学校在学中の1889年(明治22年)にキリスト教の洗礼を受けた。同年上京して東京美術学校(現東京芸術大学)へ入学し、3年後の1892年(明治25年)東京美術学校の特別課程を卒業すると、1898年(明治31年)9月北海道師範学校の教諭になった。2年後に退職し、札幌第一中学校(現北海道札幌南高等学校)の教諭として28年間美術を教えた。中原悌二郎や長谷川昇、今田敬一など、影響を受けて美術の道を進んだ教え子は多い。北17条西4丁目に自宅を構え、一中生を下宿させていた。周辺に下宿していた三岸好太郎も、林宅に足繁く通っていた。また、日本基督教会札幌北一条教会の長老として、新島善直や長崎次郎らと共に教会を支えた[2]。
一中の退職後は藤高等女学校で14年間教えた。北星女学校や札幌第二中学校(現北海道札幌西高等学校)でも教壇に立った。
旧制札幌一中の図画の教師をしていたときに、第一回文部省美術展(文展。現在の日展に相当)に「朝の祈り」が入選した[3]。
1927年(昭和2年)に息子の文雄が東村山のライ病棟に行くことを反対したが、文雄は反対を押し切って行った。何度も文雄を奪回しようと試みたり、文雄に繰り返しお見合いを勧めたが失敗した。
1936年(昭和11年)文雄が大西富美子と結婚すると、1939年(昭和14年)に鹿児島のライ療養所にいた文雄の家に、妻こうと一緒に札幌から転居し、文雄の家を「楽園」と呼んで1941年(昭和16年)に歿するまで住んだ。文雄と共にハンセン病患者を励まし、絵画の個展を開いて、売り上げ金をハンセン病患者に捧げた。

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