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神奈川県について

神奈川県は、東京の真南に位置し、太平洋に面しています。県庁所在地は県内東部にある横浜市で、市内には屋台やレストランが連なる大きな中華街、
伝統的な造園術が凝縮された三渓園、屋上庭園のある超高層のランドマーク タワーがあります。

神奈川県は東京都に比べて比較的地価も安いため、東京首都圏に通勤するサラリーマンにも人気があり、東京首都圏に職場を持つサラリーマンが多く居住している地域です。
横浜のような人口密度が高く商用施設が充実していてショッピングが楽しい地域から、江ノ島をはじめとする湘南ビーチエリアでは、様々なマリンレジャーを楽しめます。。
神奈川県は、交通機関も充実していて、小田急線や東急線、JR東海道線などを代表として都心方面に出るための電車が充実しています。
自動車においても、東名高速道路や横浜横須賀道路、横浜新道、小田原厚木道路など様々な高速道路が充実していて快適に移動できる地域です。

画家について

青山義雄

1894年(明治27年)神奈川県横須賀市に生まれる。
1903年(明治36年)父の転勤に伴い北海道根室市に引っ越す。
1921年(大正10年)27歳でフランスに渡りパリに居をかまえる。秋、サロン・ドートンヌに初入選。
1925年(大正14年)喀血し、南フランスに移る。
1926年(大正15年)アンリ・マティスに見い出され、親交を結ぶ。
1930年(昭和5年)第8回春陽会展に出品し、昭和洋画奨励賞を受賞。
1936年(昭和11年)42歳で梅原龍三郎に請われて国画会会員となり、第11回国画会展に滞欧作品27点を発表、評判を呼ぶ。
1937年(昭和12年)第1回佐分賞を受賞。
1952年(昭和27年)58歳で再度フランスへ渡る。
1986年(昭和61年)92歳で帰国。
1993年(平成5年)中村彝賞を受賞。
1996年(平成8年)膀胱癌のため102歳で死去。


有島生馬

有島生馬は、神奈川県横浜市出身の日本の画家。有島武郎の弟、里見弴の兄。
号は雨東生、十月亭。妻の信子は原田熊雄の妹でドイツとのクォーター。妹のシマは医学者の高木喜寛に嫁いだ。甥には武郎の長男である俳優の森雅之がおり、1923年(大正12年)に武郎が心中した後は彼の親代わりとなって育てた。姪には高木喜寛・シマ夫妻の長女・園子がおり、西洋古典学者の呉茂一に嫁いだ。
志賀直哉や児島喜久雄とは少年時代からの友人で、『白樺』創刊に参加し、代表作『蝙蝠の如く』を書いた。長くヨーロッパに留学したが、その際、有島家の女中の恋人を志賀らに託し、帰国後、彼女と結婚の意志がないことを示したため、志賀との間に疎隔が生まれ、敗戦後、志賀は『蝕まれた友情』(1946年(昭和24年))を書いて絶交。一人娘の暁子は東京川崎財閥の3代目当主・川崎守之助に嫁いだ。


大貫松三

神奈川県愛甲郡愛川町出身。尋常高等半原小学校(現 愛川町立半原小学校)から旧制厚木中学校(現 神奈川県立厚木高等学校)を卒業。
1927年に旧制東京美術学校西洋画科へ入学し、和田英作に弟子入りする。1928年、東京美術学校在学中に自作の「女と静物」を帝展(現在の日展)に出品し、入選する。また東京美術学校学生のままで旧制厚木高等女学校(現 神奈川県立厚木東高等学校)の教員を務めたこともある。
1931年から1936年まで平塚高等女学校(現 神奈川県立平塚江南高等学校)にて教師を務めた。
第二次世界大戦後の1949年に須田寿や牛島憲之らと共に立軌会を結成する。同年4月に和田侃が創刊した富山県作文協会編の『小学作文』と『中学作文』に表紙絵を提供している。
1950年代から1960年代にかけて全音楽譜出版社が発売する楽器を購入した各学校に対して、クラシック音楽家の肖像入りカレンダーを製作して“楽器のおまけ”として配布していたが、そのカレンダー製作に当たり、全音楽譜出版社創業者から依頼されてルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンやヨハン・ゼバスティアン・バッハらの肖像画を描いたのは大貫その人であった。
1982年8月31日、胃癌のために聖マリアンナ医科大学病院にて没した。75歳没。


岡田謙三

1902年9月28日、神奈川県横浜市中区初音町に生まれる。
1921年に明治学院中等部を卒業し、画家を志して川端画学校へ通い始め、1922年に東京美術学校西洋画科に入学。
牛島憲之や荻須高徳、加山四郎や小磯良平、山口長男、猪熊弦一郎のほか、中西利雄、高野三三男などと同級生であった。
しかし入学から2年後に中退してフランスへ留学、グランド・ショミエール芸術学校でデッサンを学び、サロン・ドートンヌに入選した。
1927年に帰国後、在仏中に学んだことを生かし、人物像などの制作に取り組み、二科展に出品。「ヴァルコン」(1932)、「アコルデオン」(1932)、「ブランコ」(1935)、「室内」(1936)、「時」(1936)、「つどい」 (1937)、「野外裸婦」(1938)、「幕合」(1938)、「高原」(1939)などの作品を発表した。
1950年、48歳になった岡田は、新たな道を模索するため、妻と共に渡米しニューヨークに移住。1953年にベティ・パーソンズ画廊で個展を開いた。
1982年7月25日、東京都目黒区自由ヶ丘の自宅で、心臓障害により倒れて死去(享年79)。


岡本太郎

1911年(明治44年)2月26日、母の実家である神奈川県橘樹郡高津村二子/現在の川崎市高津区二子に生まれる。
1917年(大正6年) 東京・青山の青南小学校に入学
1918年(大正7年) 2回の転校ののち、東京・渋谷の慶應幼稚舎に入学。
1929年(昭和4年)
慶應義塾普通部を卒業、東京美術学校(現・東京芸術大学)洋画科入学、半年後中退。
父のロンドン軍縮会議取材に伴い、渡欧。その後、パリ大学ソルボンヌ校で哲学・美学・心理学・民族学を学ぶ。
1936年(昭和11年) 油彩『傷ましき腕』を制作。
1940年(昭和15年) パリ陥落の直前に帰国。
1942年(昭和17年) 海外に在住していたために延期されていた徴兵検査を31歳にして受け、甲種合格。召集され、中国にて自動車隊の輜重兵として軍隊生活を送る。
1945年(昭和20年)5月、東京・南青山高樹町一帯を襲ったアメリカ軍の焼夷弾による空襲により、岡本太郎のパリ時代の全作品が焼失。
1946年(昭和21年) 復員、東京都世田谷区上野毛にアトリエを構える。
1947年(昭和22年) 後に養女となる平野(旧姓)敏子と出会う。
1948年(昭和23年) 花田清輝、埴谷雄高らと「夜の会」結成。
1949年(昭和24年) 翌年の現代美術自選代表作十五人展のために、読売新聞美術記者・海藤日出男のたっての希望により、戦災で焼失した油彩画『傷ましき腕』『露天』を再制作。
1950年(昭和25年) 読売新聞主催の現代美術自選代表作十五人展に11作品を出品。
1951年(昭和26年) 東京国立博物館で縄文土器を見る(11月7日)。
1952年(昭和27年) 「四次元との対話-縄文土器論」を美術雑誌『みずゑ』に発表する。11月に渡欧。翌年にかけてパリとニューヨークで個展を開く。
1954年(昭和29年) アトリエを青山に移し「現代芸術研究所」を設立。『今日の芸術』を光文社からはじめて刊行。
1955年(昭和30年) ヘリコプターで銀座の夜空に光で絵を描く。
1956年(昭和31年) 旧東京都庁舎(丹下健三設計)に『日の壁』『月の壁』など11の陶板レリーフを制作。
1957年(昭和32年) 46歳にしてスキーを始める。
1959年(昭和34年) 初めて沖縄に旅行する。またこの年から彫刻を始める。
1961年(昭和36年) 草津白根山でスキー中に骨折入院(同じ病院には石原裕次郎が入院していた)。療養中に油彩『遊ぶ』、彫刻『あし』を制作。『忘れられた日本――沖縄文化論』が毎日出版文化賞受賞
1964年(昭和39年) 東京オリンピックの参加メダルの表側をデザイン。
1965年(昭和40年) 名古屋の久国寺に梵鐘『歓喜』制作。
1967年(昭和42年) 大阪万国博覧会のテーマ展示プロデューサーに就任。
1968年(昭和43年) 初めての建築作品《マミ会館》が竣工。
1969年(昭和44年) 1968年から制作が開始されていた『明日の神話』完成。
1970年(昭和45年) 大阪の日本万国博覧会のテーマ展示館『太陽の塔』完成。
1973年(昭和48年) 岡本太郎デザインの飛行船レインボー号が空を飛んだ。スポンサーは積水ハウス。
1974年(昭和49年) NHK放送センター・ロビーにレリーフ壁画『天に舞う』制作。
1976年(昭和51年) キリン・シーグラムから発売されたブランデーの記念品として《顔のグラス》を制作。「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」が流行語になる。
1977年(昭和52年) スペイン国立版画院に、日本人作家として初めて銅版画が収蔵される。
1978年(昭和53年) 毎日放送のテレビ番組『もうひとつの旅』撮影のために訪れたマヨルカ島で、ショパンが使用したピアノを弾く。
1979年(昭和54年) 慶應義塾大学の卒業記念品としてペーパーナイフを制作。はじめての著作集が講談社から翌年にかけて刊行される。
1981年(昭和56年) 初めてコンピューターで絵を描く。日立マクセルのCMに出演。ピアノを叩き叫んだ言葉「芸術は爆発だ!」が同年の流行語大賞の語録賞を受ける。
1982年(昭和57年) 慶和幼稚園(名古屋市港区)の新園舎の竣工にあたり、遊戯室にモザイク壁画『あそび』を制作。
1984年(昭和59年) フランス政府より芸術文化勲章オフィシエを受章。
1985年(昭和60年) つくば万博のシンボルモニュメント《未来を視る》を制作。あわせて万博記念発売の洋酒ボトルをデザインする。こどもの城のシンボルモニュメント、《こどもの樹》を制作。
1986年(昭和61年) 福井県三方町で復元された縄文前期の丸木舟の進水式で舟長として舟を漕ぐ。
1988年(昭和63年) ダスキンのCMに出演。翌年アメリカの第29回国際放送広告賞を受賞。
1989年(平成元年) フランス政府より芸術文化勲章コマンドゥールを受章。
1991年(平成3年) 東京都庁舎移転のため、旧庁舎に設置されていた1956年作の陶板レリーフが取り壊される。
1992年(平成4年) 油彩『疾走する眼』制作。
1994年(平成6年) 三重県で開催される世界祝祭博覧会のシンボルモニュメント『であい』制作。
1996年(平成8年)1月7日 急性呼吸不全のため慶應義塾大学病院にて逝去(満84歳没)。
没後
1998年(平成10年) 青山の住居兼アトリエ跡に岡本太郎記念館が開館。
1999年(平成11年) 神奈川県川崎市多摩区の生田緑地内に川崎市岡本太郎美術館開館。
2005年(平成17年) 養女・岡本敏子逝去(79歳)。
2006年(平成18年)
7月7日 壁画《明日の神話》が汐留日テレプラザにて初公開される。これを期に岡本太郎ブームが再燃する(Be TAROと呼んでいる)。
11月28日 約60年間行方不明になったものと思われていた1947年(昭和22年)制作の油彩画『電撃』と、敏子をモデルとしたと見られる未発表の女性のデッサン画が発見される。
11月29日『電撃』を修復前に一般公開。
2007年(平成19年)2月15日 『明日の神話』の下絵(縦29センチ、横181.5センチ)が、岡本太郎記念館(東京都港区)で発見される。
2008年(平成20年)3月 『明日の神話』の恒久設置場所が東京都渋谷区の京王井の頭線渋谷駅連絡通路に決まる。同年11月17日より一般公開開始。
2011年(平成23年) 1月 太郎の生誕100年を記念し出身地の川崎市を本拠地とするJリーグ所属の川崎フロンターレがユニホームデザインの一部として、生前に製作したデザイン文字「挑」を採用することを発表。


荻野康児

京都美術工芸学校で日本画を学ぶが中退し、20歳のとき上京。洋画に転向し、太平洋画会・川端画学校で油絵を研修する。
その後、水彩画をメインに活動を展開し、日本を代表する水彩画家の一人として活躍。
日本水彩画会・白日会・水彩連盟(創立者の一人)・二科会等の会員を経て、1955年(昭和30年)には同士と共に一陽会を結成。
1974年(昭和44年)、癌性腹膜炎のため東京都杉並区の自宅で死去。72歳。


奥津国道

1932年、神奈川県秦野市に生まれる。1945年、神奈川県下の私立湘北中学校に入学するが、在学中、美術教師の藤井白映に絵の才能を見出されて指導を受ける。
1949年、宮永岳彦に師事する。1950年、松坂屋銀座店宣伝部の下請けの「浅野装工社」に入社する。1952年、二科展に入選する。その年に、小田原市展市長章を受賞する。その年に、東横百貨店に入社し、ポスター製作を手がける。1953年、ユニヴァーサル映画に入社し、映画のポスターなどの美術を担当する。1955年、嘱託として平凡出版のアートディレクターとなる。1972年、「平凡パンチ」「アンアン」の表紙の責任者となる。 1973年、初の個展を開催する。1978年、「現代の裸婦展」奨励賞受賞する。1979年、「週刊読売」の表紙画を担当する。
2002年、「水彩画プロの裏ワザ」を出版する。この本は好評となり、シリーズとして続くこととなる。


國領經郎

神奈川県横浜市生まれ。東京美術学校図画師範科卒業。日展、光風会展、日洋展などのほか、国際形象展、アジア現代美術展などにも出品、国際的に活動。戦前の中学校美術科教諭に始まり、1985年に横浜国立大学教育学部の教授を退任するまで、美術教育の分野でも多くの業績を残した。
1947年日展初入選、1955年、1969年、1971年の日展で特選、1983年第2回宮本三郎記念賞受賞、1986年日展で内閣総理大臣賞受賞。1991年日本芸術院賞受賞、同年日本芸術院会員。1992年紺綬褒章受章、日展常務理事(以降没年まで)。1994年勲三等瑞宝章受章[1]。1999年3月13日死去、4月に横浜美術館で國領經郎展開催(回顧展準備中の死亡であったため追悼展となった)、11月の第31回日展に遺作が出品された。
砂の風景画家として著名であるが元来人物画も得意とする。1950年代後半から様々な点描法による風景画を試みていたが、1960年代中頃より徐々に砂のある風景を描くようになり、技法もモチーフも変化していった。以降は若者の群像、砂丘や風紋、海や舟、鳥などのモチーフで構成した「砂の風景」をテーマに数多くの作品を描き、彼の作品群のメインテーマとなった。


島田章三

1933年7月24日、島田英之・敏子の三男として神奈川県三浦郡浦賀町大津(現在の横須賀市大津町)に生まれる。兄弟は陽一、修二、章三、迪男、嘉寿江の四男一女であった。
1940年4月、大津尋常高等小学校に入学。
1943年、肺炎から肋膜炎になり1年間休学。このとき病室で見た幻覚が後の作品『炎』に生かされている[5]。
9月、戦争の激化に伴い、祖父のいる長野市に疎開する。
1945年10月、疎開先から横須賀に戻る。
1946年4月、大津国民学校高等科に入学。
1947年、納税ポスターコンクールで全国1位を受賞。大蔵大臣賞の賞金で油絵具一式を購入する。中学校の美術教師の指導を受け、後に金沢重治、熊谷九寿に師事[4]。
1949年4月、神奈川県立横須賀高等学校に入学。美術部に入部する。
1951年1月、毎日新聞社主催の第1回全日本学生油絵コンクールに『酸素工場』で入選。
1952年3月、神奈川県立横須賀高等学校を卒業。東京藝術大学進学を決意し、川村信雄のアトリエに通う。
1954年4月、東京藝術大学美術学部油画科に入学。1学年は久保守、2学年は牛島憲之、3学年は山口薫、4学年は伊藤廉にそれぞれ指導を受ける[4]。
1957年
4月、『ノイローゼ』で国画賞を受賞し、画壇デビューを果たす。
12月、福島繁太郎の推薦により、銀座のフォルム画廊で初の個展を開催。
1958年
3月、東京藝術大学美術学部油画科卒業。卒業制作の『箱舟』で大橋賞を受賞。
4月、東京藝術大学専攻科に進学。国画会会友になる。
1960年3月、東京藝術大学油画専攻科を修了。大田区立大森第三中学校、東京工業大学附属工業高等学校などで美術の非常勤講師を務める。大学の同級生だった林敬ニとともに横浜洋裁学院内に「横浜造形研究所」を設立し、デッサンの指導を行う。
1961年4月、国画会会員となる。
1962年12月、大学の同級生だった田中鮎子と結婚。東京・大森の新居から横須賀のアトリエに通う。
1966年4月、伊藤廉の誘いで愛知県立芸術大学に非常勤講師として赴任。愛知県愛知郡長久手町に転居。
1967年12月、『母と子のスペース』で第11回安井賞を受賞[7]。
1968年9月、愛知県在外研究員として渡欧。主にパリ・モンマルトルに滞在し、スペインやイタリアを巡る。
1969年9月、帰国。愛知県立芸術大学助教授に就任。
1974年4月、愛知県立芸術大学美術学部教授に就任。
1976年5月、第29回中日文化賞受賞。
1980年、昭和54年度愛知県芸術文化選奨を受賞。
4月、『炎』(1979年)その他の作品により、第3回東郷青児美術館大賞を受賞。
8月、アメリカを旅行。
1983年
6月、ブラジルを訪れる。
9月、恩師伊藤廉の画業を讃え、新進洋画家の育成を目的とした伊藤廉記念賞を設立、運営委員となる[9]。
1990年
3月、『鳥からの啓示』(1989年)で第8回宮本三郎記念賞を受賞。
4月、愛知県立芸術大学芸術資料館館長に就任(1992年3月まで)。
10月、愛知県文化功労賞を受賞。
1992年3月、愛知県立芸術大学美術学部教授を退官。
1993年
10月、紺綬褒章を受賞。
11月、第26回東海テレビ文化賞を受賞。
1996年4月、愛知県立芸術大学名誉教授に就任。
1997年10月、愛知県知事表彰を受ける。
1999年
3月、日本芸術院賞を受賞。
9月、日本芸術院会員となる。
2001年4月、愛知県立芸術大学学長に就任(2007年3月まで)。
2004年11月、文化功労者に選出。
2005年1月、平成16年度名古屋市芸術賞を受賞。
2007年
1月、頚椎症の手術を受ける。
4月、愛知芸術文化センター総長に就任(2010年12月まで)。横須賀美術館館長に就任(2011年3月まで)。
2009年5月、旭日重光章を受賞。
2016年11月26日、名古屋市の自宅で膵臓癌のため死去。83歳。正四位を除される。
画集など
『島田章三銅版画集 vol.1.』ギャラリーデコール 1975
『島田章三石版画集 六葉女人之図』ギャラリーデコール 1975
『島田章三のパステル画』河出書房新社(アート・テクニック・ナウ)1977
『花鳥シリーズ 島田章三メゾチント版画集』ギャラリーデコール 1978
『S.Shimada essays & pictures』大日本絵画 1984
『室内楽』大月 1985
『三人採花』大月 1985
『島田章三全版画』長谷川公之編 美術出版社 1986
『島田章三かたちびと』美術出版社 1988
『島田章三画集』ビジョン企画出版社 1992
『島田章三』芸術新聞社(アート・トップ叢書 同時代の画家集成)1992
『ファイト 島田章三画文集』求龍堂 2009


長谷川潔

1891年(明治24年)12月9日:誕生。
1898年(明治31年):横浜市戸部小学校に入学。
1902年(明治35年):大阪に移住。大阪市立愛日小学校に転校、卒業。大阪市東区第三小学校に入学。
1903年(明治36年):東京に移住。鞆絵高等小学校に転校。
1911年(明治44年):菱橋洋画研究所に入り黒田清輝に素描を学び始める。
1912年(明治45年・大正元年):本郷洋画研究所に入り岡田三郎助、藤島武二に油絵を学び始める。大森に転居。
1913年(大正2年):自画自刻の創作板目木版画や木口木版画・銅版画を製作し始める。『仮面』主催洋画展に「幕の女」など木版、ガラス版、銅版もよる作品12点を出品する。
1916年(大正5年):広島晃甫(広島新太郎)、永瀬義郎と共に日本版画倶楽部を結成。
1918年(大正7年):フランスに渡る。
1928年(昭和3年):春陽会会員。
1931年(昭和6年):日本版画協会創立会員。
1935年(昭和10年):フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受章。
1939年(昭和14年):第二次世界大戦勃発。
1943年(昭和18年):ミシェリーヌ・M・ビアンキと結婚。
1945年(昭和20年):パリ中央監獄、ドランシー収容所に収監される。
1964年(昭和39年):フランス芸術アカデミーコレスポンダン会員。
1966年(昭和41年):フランス文化勲章を受章。
1966年(昭和41年):現代日本美術展で特賞を受賞。
1967年(昭和42年):勲三等瑞宝章を授与される。
1980年(昭和55年):京都国立近代美術館で大回顧展「銅版画の巨匠・長谷川潔展」が開催された。
1980年(昭和55年)12月13日:死去する。


東山魁夷

『残照』(1947年、東京国立近代美術館収蔵)
『道』(1950年、東京国立近代美術館収蔵)
『光昏』(1955年、日本芸術院収蔵)
『青響』(1960年、東京国立近代美術館収蔵)
『白夜』(1963年、北澤美術館収蔵)
『曙』(1968年、北澤美術館収蔵)
『年暮る』(1968年、山種美術館収蔵)
『花明り』(1968年、個人所蔵)
『白馬の森』(1972年、長野県信濃美術館・東山魁夷館収蔵)
『濤声』『山雲』『黄山暁雲』(1975年、唐招提寺障壁画)
『朝明けの潮』(1968年、皇居新宮殿壁画)
『夕星』(1999年、長野県信濃美術館東山魁夷館蔵) 絶筆
『春雪』(木版画、1986年)
『秋思』(リトグラフ、1991年)
『秋宵』(リトグラフ、1998年、日本経済新聞社発行)


三栖右嗣

神奈川県厚木市に生まれる
1952年東京芸術大学油絵科卒業(安井教室)
1954年一水会展出品
1972年アンドリュー・ワイエスに会う
1975年沖縄国際海洋博覧会「海を描く現代絵画コンクール展」で大賞受賞(「海の家族」)
1976年「老いる」で安井賞受賞。東京国立近代美術館所蔵
1979年スペインにて個展。宮内庁所蔵
1981年石版画集「林檎のある風景」刊行
1982年リトグラフ屏風「紅梅図」刊行
2010年心不全で埼玉県嵐山町で死去。82歳





















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