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福島県について

福島県は東北地方の最南端に位置しており、南から北へつらなる阿武隈高地と奥羽山脈によって、中通り・会津・浜通りの3つの地方に分けられます。
同じ福島県でも、この3つの地方では、気候が大変違います。
会津地方は積雪量が多い地域ですが、浜通りは一年を通してほとんど雪が降りません。
また、中通りは盆地が多いために、夏の気温は高い傾向があります。

また、中通りには東北自動車道が通っていて、会津地方および浜通り地方にも高速道路が開通しています。
そのために交通アクセスは良好で、高速バスなどを利用することもできます。
福島県のどこを訪れる場合も、とても便利です。
尚、会津地方は白虎隊の史跡があることで有名なので、年間を通して観光客が多いです。
さらに、浜通りは太平洋側に面しているので、海産物やマリンスポーツが楽しめます。
中通りには、商業の中心地である郡山市がありますので、福島県は観光に最適なところとして知られています。

画家について

猪熊克芳

1951年 - 福島県郡山市大重町に生まれる
1980年 - 福島県美術協会展 特選
1993年 - 青木繁大賞展 入選
1994年 - 日仏現代美術展 入選
1996年 - 青木繁大賞展 大賞
1997年 - 福島県総合美術展 準大賞・斎藤清賞


大塚清六

1923年(大正12年)8月18日、福島県喜多方町(現:喜多方市)に生まれる。女手ひとつで育てられ、町立喜多方幼稚園、喜多方小学校を経て、1941年(昭和16年)に喜多方商業学校を卒業する。
1943年(昭和18年)、父親の位牌を鉈で割って上京し、東京美術学校に入学。同期の渡部周三とともに安井曾太郎の教室で学ぶが、戦局の悪化にともない渡部とともに学徒出陣し、横須賀海兵隊に配属される。
1945年(昭和20年)太平洋戦争終結後、海兵隊を除隊し美校に復学。絵画を習うかたわらアメリカ赤十字社で絵画の講師をする。
1948年(昭和23年)に東京美術学校を卒業し、挿絵画家としてデビューする。以後、「週刊読売」「小説新潮」「週刊サンケイ」「週刊文春」「宝石」「アサヒ芸能」「平凡パンチ」「週刊プレイボーイ」「週刊漫画TIMES」「推理ストーリー」「ボーイズライフ」「問題小説」「婦人生活」「週刊女性」「女性自身」「週刊平凡」「マドモアゼル」「美しい十代」「女学生の友」「中1コース」などの雑誌や新聞にイラストを描いた。
私生活では1953年(昭和28年)にリネ夫人と結婚し、美校の在学中から講師をして貯めた資金で東京都中野区に自邸を建てる。
1962年(昭和37年)には同じ場所に広瀬鎌二の設計による自邸兼アトリエ「SH-60」を新しく建て替え、活動の拠点とする。この建物は竣工当時から雑誌などで紹介され、大塚のライフスタイルも一般に知られることとなった。
同年からは7年にわたり新聞や雑誌にアンネ株式会社の広告イラストを描き、日本雑誌広告賞を受ける。1966年(昭和41年)には手塚治虫の依頼により、手塚のアニメ映画「展覧会の絵」のためのイラストを描く 。1969年(昭和44年)にはレース中に命を落としたカーレーサー、福澤幸雄を偲んで出版された写真集とレコードの制作に参加する。
1970年代に入り、新たなアトリエの候補地を探すため、夫人とともにブラジルへ旅行するが、思うような土地がみつからず帰国。1974年(昭和49年)、挿絵の仕事を制限し、ブラジル人女性をモデルとした油彩画の連作に取り組み、50点の作品を描き上げた3日後の6月5日に急逝。50歳没。
リネ夫人は大塚の死後、画家として活動し、画廊も経営した。また、大塚の13回忌にあたる1988年(平成元年)11月には、出身地の喜多方市で遺作展が開かれた。


大山忠作

1943年、学徒出陣の為、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)を繰り上げ卒業。
1946年、復員し、その年の第2回日展『O先生』が初入選。翌年、高山辰雄らの日本画研究団体「一采社」に参加。山口蓬春に師事した。人物画、宗教的作品、花鳥、風景など高範な題材を得意とする。
1961年、日展会員となり、事務局長、理事長などを歴任。
1973年、日本芸術院賞受賞。
1986年、日本芸術院会員。
1996年、勲三等瑞宝章受章。
1999年、文化功労者。
2006年、文化勲章受章。2009年2月19日、敗血症による多臓器不全のため死去。86歳。


関根正二

1899年、福島県西白河郡大沼村(現白河市)に屋根葺き職人の父のもとに生まれた。
1908年、前年に発った父を追い上京、深川に住む。小学校の同級生に伊東深水がおり、伊東の紹介で1914年に東京印刷株式会社に就職、そこでオスカー・ワイルドの作品を読み、ワイルドの思想に触れた。
1915年、会社を辞めた関根は知人と共に長野県へ放浪、そこで洋画家の河野通勢と出会った影響などを受け、ほぼ独学で絵画を学んでいく。同年、16歳の時に描いた「死を思う日」が第2回二科展に入選。
1918年、19歳の時に第5回二科展に出品した「信仰の悲しみ」が樗牛賞に選ばれたが、関根はこの頃より心身共に衰弱し、翌年結核により20歳で夭折した。絶筆となった「慰められつゝ悩む」は後に紛失し、現在は作品を写した絵葉書のみが残されている。関根の代表作である「信仰の悲しみ」は後に日本の近代洋画史を代表する傑作の一つと評され、2003年に重要文化財の指定を受けている。

吉井忠

1908年、福島市に生まれる。父・菊治郎は煎餅屋を営む。福島中学(現福島県立福島高等学校)卒業後、画家を志し上京。
1926年、太平洋美術研究所に入る。
1928年、第9回帝展に「祠」で初入選。以後同展に5回入選する。
1932年、太平洋画会展中村彝賞受賞。
1936年、第6回独立展に出品、エコール・ド東京に参加。同年10月渡仏。
1937年、帰国後、東京・豊島区長崎町に住む。
1938年、創紀美術協会を結成。
1939年、福沢一郎らと美術文化協会の結成に参加する。
1941年、齋藤長三、福田豊四郎らと東北生活美術協会を結成。
1944年、従軍。
1945年、福島県岩瀬郡仁井田村(現在の須賀川市)の農場に入る。
1947年、第1回日本アンデパンダン展に出品、自由美術家協会に入る。同年4月、美術文化協会を脱会した井上長三郎、丸木位里らと「前衛美術会」結成。
1948年、東京都豊島区西池袋の谷端川沿いのアトリエの密集地域に居住。
1950年2月、日本美術会の機関誌『BBBB.』に「井上長三郎のこと」を掲載。同年8月、『アトリエ』誌の特集「展覧会のあり方について--インタービューによる批判と解説」に参画。
1952年2月、日本美術会事務局長となる。委員長は別府貫一郎[8]。
1955年冬、佐藤忠良の先達で、常磐炭坑を鳥居敏文、朝倉摂、森芳雄、中谷泰、竹谷富士雄、西常雄、岩松光一郎らと旅行[9]。
1962年11月、日本共産党発行の『文化評論』誌に「パブロ・ピカソ-その人と芸術」。
1963年7月、同誌に「絵画における民族性と伝統の問題」発表。
1964年、大野五郎、寺田政明、森芳雄らと主体美術協会を結成。
1965年、中国旅行。
1969年、フランス、スペイン、イラク、イラン、インド、中央アジアを旅行。
1970年、大野五郎、糸園和三郎、寺田政明と「樹展」グループを作る。
1974年、銀座のギャラリーで回顧展。
1975年、福島県文化会館で回顧展。同年6月、日本美術会代表となる。
1980年、日本テレビで「美の世界 わが大地なる民のうた 吉井忠」放映。
1981年5月、日本美術会代表退任。
1982年7月、新日本出版社発行の『文化評論』誌の反核特集に、コメントを発表。
1984年1月、同誌に「ファシズムと日本の画家たち」を発表。
1986年、メキシコ、キューバを、1988年に敦煌、トルファンを旅行。
1992年、「吉井忠展 - 大地に響く人間の詩」(福島県立美術館)開催。
1999年8月5日没。享年91。
2006年1月14日から1月20日、ゆかりの東京都豊島区長崎のギャラリーで「吉井忠展」。
2009年1月24日から3月1日まで、福島県立美術館で「吉井忠展」。1月24日から2月8日、生誕100周年にちなんだ作品展が郡山市駅前のギャラリーで開催。

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