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台東区について

江戸時代を通じて、東京で最も古い市街地のひとつで、浅草にある浅草寺は建立1400年の歴史となる。江戸時代は元禄文化(町民文化)が息づき、明治期からは美術館や博物館が建築され、東京芸術大学などアートの発信地ともなっている。関東大震災(1923年(大正12年))や第二次世界大戦にも焼け残った浅草橋界隈の問屋街などにはいまだ大正、昭和初期の街並みや風情が残っている。

区の中心駅である上野駅は古くから北関東・東北・信越地方からの玄関口として知られ、新幹線も停車する。 区は全般的に商業地であるため、純粋な住宅地は一部で、供給量も少ない。戸建も一部地域を除くと少なく、ビルやマンションなど土地の高度利用が進んでいる。

(財)古都保存財団が選定する「美しい日本の歴史的風土100選」において、次世代に残す美しい日本の歴史的風土が、良好に保存されている全国の事例の一つとして寛永寺・上野公園周辺、谷中の街並みが選ばれた。 ル・コルビュジエの国立西洋美術館が世界遺産に登録されている。東京国立博物館表慶館や東京国立博物館など国の重要文化財が多い区である。

両区ともに下町文化の根付く由緒ある土地のため、合併後の名称は紛糾した。様々な案が考え出され、最終的に下谷区側の案は「上野区」、浅草区側の案は「東区」に収束したが、結局まとまらず、都知事の案により下谷区台東小学校にて既に採用されていた「台東」の語を用い「台東区」を区名とした。上野の高台の「台」と、上野の東側にある下谷と浅草の下町を連想する「東」を組合わせたもので、康煕字典にめでたい意味で載る瑞祥地名でもある。 その他の候補には、「下町区」「太平区」「隅田区」「浅谷区」などかあった。

読み方は都、区で発行する出版物のふりがな等で見られるように公式には「たいとうく」だが、初期はそれほど強く統一されておらず、現在でも昭和初期生まれくらいの高齢者は、地元の台東区民も含め多くの場合「だいとうく」と読んでいる。

区内の町名に台東があるが、1964年(昭和39年)の住居表示により区名を取って名付けられたものであり、由来とは関係ない。

画家について

・荒木哲夫
銅版画を中心に多様な技法を駆使して心象風景を描いた版画家、昭和12(1937)年6月1日、東京府台東区に、皮革加工業を営む生家の三男一女の長男として生まれる。同20年、東京府本所区立業平国民小学校に入学、10歳の時、肋膜からカリエスという宿痾に襲われ、美術鑑賞や読書などを趣味とする内省的生活を送る。同26年東京都台東区立精華小学校を卒業。同30年、同区立福井中学校を卒業し、病気のため通信教育で学び同33年都立上野高校を卒業、同年武蔵野美術大学西洋画科に入学する。同校在学中、版画に興味を持ち、同35年東京国際版画ビエンナーレ展でフランスの版画家ジョニー・フリードランデルの作品に感銘を受ける。同37年武蔵野美術大学西洋画科を卒業。パリ留学をめざして英語、仏語を学び、同40年、パリへ留学、フリードランデル工房に入門。フリードランデルの指導を受けるかたわら、アカデミー・グラン・ショーミエール、パリ市立素描講座クロッキー室に学ぶ。同42年パリで個展。翌年はブリュッセルで個展を開くが、同43年病を得てパリで手術を受け、その後も体力が回復せず同45年に帰国する。帰国後もクラコウ国際版画展、ウィーン国際版画展に出品、受賞する他、国内外の展覧会に出品する。同51年東京芸術大学美術学部材料学研究室に学び、駒井哲郎に師事する。翌52年より日本版画協会展に出品。同53年、東京版画研究所でリトグラフを学び、銅版の他、モノタイプ、エンボーシュ、コラージュなど多彩な技法をとり入れた新たな展開を見せた。代表作に「夜想曲」(昭和42年)、版画集『夜との対話』『昼との対話』(同49年)がある。
1984年クモ膜下出血のため、東京都港区の慈恵医大付属病院で死去した。享年46。

・荒木 経惟
1940年(昭和15年) - 東京市下谷区(現・東京都台東区)三ノ輪で生まれる。
1959年(昭和34年) - 東京都立上野高等学校を卒業する。同期に立花隆と東八郎の夫人がいる。
1963年(昭和38年) - 千葉大学工学部写真印刷工学科を卒業後、電通に宣伝用カメラマンとして勤める。
1964年(昭和39年) - 写真集「さっちん」で第1回太陽賞を受ける。
1971年(昭和46年) - 電通で同僚の青木陽子と結婚する。
1972年(昭和47年) - 電通を退社してフリーになる。
1974年(昭和49年) - 東松照明、細江英公、森山大道、横須賀功光、深瀬昌久らと「WORKSHOP写真学校」の設立に参加する。
1988年(昭和63年) - 安斎信彦、田宮史郎と、三人の頭文字からなる事務所「AaT ROOM」を設立する。
1990年(平成2年) - 「写真論」「東京物語」で第2回写真の会賞を受ける。
1992年(平成4年) - 「空景/近景」で第4回写真の会賞を受ける。
1999年(平成11年) - 織部賞を受ける。
2008年(平成20年) - オーストリアより科学芸術勲章を受ける。
2011年(平成23年) - 安吾賞を受ける。
2013年(平成25年) - 毎日芸術賞特別賞を受ける。

・石井柏亭
1882年(明治15年)東京府下谷区下谷仲御徒町(現在の東京都台東区上野)に生まれる。本名は石井満吉。祖父は画家の鈴木鵞湖、父は日本画家の石井鼎湖で、弟は彫刻家の石井鶴三である。母はふじ。女婿は画家の田坂乾。

1892年(明治25年)、11歳の時から柏亭と号して日本美術協会や青年絵画共進会に作品を出品、これ以降、毎年作品を出品しながら、印刷局工生として彫版の見習い生となっている。1897年(明治30年)浅井忠に入門し、油絵を学び、1900年(明治33年)に結城素明らが自然主義を標榜して結成した无声会に参加、新日本画運動を推進した。また、中村不折にも師事しており、1902年(明治35年)に結成された太平洋画会に参加。1904年(明治37年)東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)洋画科に入学するが、眼病のため中退。雑誌『明星』に挿絵を描いたり、また詩作を発表した。

1907年(明治40年)、山本鼎とともに美術雑誌『方寸』を創刊(ドイツの「ユーゲント」等を念頭に置いたといわれる)。近代創作版画運動の先駆をなした。1908年(明治41年)木下杢太郎、北原白秋ら文学者とパンの会を結成した。隅田川沿いの料理屋において結成された、このパンの会では江戸情緒が追慕され、彫師伊上凡骨との木版画制作につながっていった。この頃の版画に1910年(明治43年)版行の「東京十二景」、「木場風景」などがある。「東京十二景」は、外遊前後の作品(1910-1914年)であり、伊上凡骨が下絵を彫っている。この2つのシリーズは、浮世絵木版画の形を取っており、新版画に分類されるものである。特に「東京十二景」シリーズでは、女性が一人いて、上部のコマ絵には東京の風景が描かれていた。また、三代歌川豊国による錦絵「江戸名所百人美女」という作品を模して制作された作品であり、琅玕洞(後に柳家書店・青果堂)という画廊から1枚25銭で販売された。なお、「東京十二景 よし町」に描かれたモデルは芸者の五郎丸であった。技法的には山本鼎ほど多角的ではなかったが、水彩スケッチの感触を生かした木版風景画を多く残している。

1910年(明治43年)12月、渡辺銀行の専務、渡辺六郎の支援でヨーロッパに外遊、1912年(明治45年)に帰国。1913年(大正2年)、「日本水彩画会」を創立、1914年(大正3年)には有島生馬らとともに二科会を結成した。1922年(大正11年)東京帝国大学工学部講師。西村伊作が創立した文化学院に招かれて教壇に立った(後に美術部長を務めた)。

1928年(昭和3年)フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章受章、翌1929年(昭和4年)『中央美術』を創刊、1935年(昭和10年)帝国美術院会員となり二科会を辞す。1936年(昭和11年)一水会を結成、1937年(昭和12年)帝国芸術院会員、1949年(昭和24年)日展運営会理事、没後正四位勲二等旭日重光章受章。享年76。墓所は文京区の護国寺共同墓地九通。法名は彩光院釈柏亭居士。作品数は5000点とも6000点とも言われる。

・井上有一
東京市下谷区(現在の東京都台東区)出身。1935年、青山師範学校(後の東京学芸大学)を卒業後に、小学校の教員をしながら画家を目指すが挫折。1941年に上田桑鳩の弟子となって書道に転向する。東京大空襲に巻き込まれて生死の境を彷徨ったこともある。

戦後、保守的な書道界に対する反発から師の下を離れて、森田子龍・江口草玄・中村木子・関谷義道と「墨人会」を結成して前衛的な書道を意図するようになる。以降は教員生活を続けながら創作活動を行い、内外の書道展・美術展に作品を発表する。特に1957年にブラジルのサンパウロ・ビエンナーレに出展した『愚徹』がイギリスの美術評論家であるハーバード・リードに絶賛されたことからその名は海外で知られるようになった。同じ頃、神奈川県茅ヶ崎市の菱沼海岸にアトリエを設置して創作活動の舞台とした。1958年に開かれたブリュッセル万国博覧会「近代美術の50年展」に手島右卿とともに日本を代表する書家として作品を出展する。

1971年に神奈川県の寒川町立旭小学校の校長に就任したのをきっかけに1975年にアトリエを寒川町に移し、翌1976年定年で校長職を退いてからは芸術活動に専念する。1985年に肝不全により69歳で死去。

・大沼映夫
1933年、東京都に生まれる。1960年、東京藝術大学美術学部油画科卒業。大橋賞、サロン・ド・プランタン賞受賞。第34回国画会展に初出品し、国画賞受賞。以後出品を重ねる。61年会友、62年会員。1961年、第35回国画会展で国画賞、国画会35周年記念賞受賞。1962年、東京藝術大学美術学部油画専攻科修了。1963年、オランダ政府給費留学生としてアムステルダム王立美術学校に留学。1年半在学後、71年まで滞欧。1965年、第8回サンパウロ・ビエンナーレ。1969年、オステンド・ヨーロッパ賞展で銅メダル賞受賞。1971年、帰国、愛知県立芸術大学講師となる。~73年。1973年、東京藝術大学美術学部助手。76年助教授、83年教授95年美術学部長。1974年、第4回新鋭選抜展で優秀賞受賞。1979年、明日への具象展の結成に参加、第1回展に出品。以後同展の他、日本秀作美術展などにも出品。1982年、現代日本美術の展望-油絵(富山県立近代美術館)。1985年、第8回東郷青児美術館大賞受賞。1988年、第6回宮本三郎記念賞受賞。1990年、私が私のスタイル展-大沼映夫・奥谷博・島田章三・宮崎進(有楽町アートフォーラム、他)。1992年、両洋の眼展
。1993年、IMA「絵画の今日」展。1996年、個展(メナード美術館)。2000年、個展(東京藝術大学大学美術館)。

・小絲源太郎
小絲源四郎、はなの長男として東京市下谷区上野元黒門町20番地に生まれる。生家は料理屋で、「揚げ出し」の名で知られた。1904年(明治37年)に東京の神田中学校を卒業した年に、白馬会の展覧会で藤島武二の「蝶」を見て感動、画家を志す。翌春、藤島の指導する白馬会駒込研究所に入り、デッサンを学ぶ。

1911年(明治42年)に東京美術学校金工科卒業、同年西洋画科に転入するが中退。在学中の1910年(明治43年)、文展に入選。1933年(昭和8年)帝室審査員、木版画を岡田清次郎の彫り、西村熊吉の摺りにより発表する。金沢美術工芸大学教授、東京芸術大学教授を務めた。当初は、印象派に影響を受けた画風であったが、大正末年には写実的で穏健な画風となり、明快で強い画風に変えてから、評価されるようになった。晩年には簡潔な形態と色彩のはっきりした画面によって独自の画風を作った。1954年(昭和29年)、日本芸術院賞受賞、1959年(昭和34年)、日本芸術院会員。1961年(昭和36年)、日展常務理事。1965年(昭和40年)、文化勲章受章(同日文化功労者)。同年の第16回NHK紅白歌合戦で審査員の一人を務めた。作品に「春雪」、「冬の虹」等。

・郷倉和子
日本画家郷倉千靭(ごうくら せんじん)の長女として東京に生まれる。1935年女子美術専門学校日本画科卒業、1937年安田靫彦に師事、院展に出品を続け、1957年日本美術院賞、1960年院展同人、1970年院展文部大臣賞、1984年院展内閣総理大臣賞、1989年日本芸術院賞・恩賜賞受賞、1992年勲四等宝冠章、1997年日本芸術院会員、2002年文化功労者。 花鳥画が多い。

2013年11月、99歳(白寿)の誕生日を祝って企画された「白寿記念 郷倉和子展 心の調べ」が富山県立近代美術館で開催された。

2016年4月12日、心不全のため死去。101歳没。歿後同日付で叙正四位、授旭日重光章。

・五味悌四郎
シュールレアリスムを思わせる写実的な筆遣いに、陰影を巧みに使う功名な筆遣いで秀作を生み出し続けた洋画家が、五味悌四郎です。海外に渡り、洋画の研究を続け、その独特な世界観は日本の洋画界に革命をもたらすほどの、大きな功績をあげていきました。そんな五味悌四郎は、1918年に東京都に生まれます。幼少の頃より絵画に魅せられていた五味悌四郎は、様々な作品を見ては洋画を研究し続けて行きます。そして、本格的に洋画を学ぶために、東京美術大学への入学を決意。見事、合格を果たし洋画における研究と研鑽を積み上げて行きます。そして、様々な経歴を経て、1945年には第一回日展より特選候補までの腕前となっていきます。さらに、中心的に活躍をすることとなる一水会出品には、1947年に出品を始めます。名誉ある展覧会への出品を機に、より洋画の研鑽をしていくために、1964年には渡欧を決意します。パリのグランショミエールにて学び、本場のシュールレアリスムを掴みとります。そして、1965年に出品した、ボザール展では入選を果たす事になるのです。フランスのル・サロン展にて銀賞と銅賞を受賞し、日本のみならず海外においても、高い評価を獲得することとなります。帰国後の1968年には、ついに一水会で優勝を飾ります。この実力と貢献を買われ、1984年には一水会の委員に推挙されます。しかし、より自由な作品を生み出し続ける道を選んだ五味悌四郎は、1986年に一水会を大会し、無所属として活動を始めることとなります。静止画においては、その研ぎすまされた写実力を発揮し、日本におけるシュールレアリスムの最高峰とも言える作品を生み出し続けていきます。 さらには、無所属となったことで、個展なども積極的に開催し高い評価を獲得しつづけていきます。五味悌四郎自体、そこまで広く知られている画家ではありませんが、日本における静止画の巨匠とも言われるほどの大人物でした。五味悌四郎こそ、日本洋画界に欠かすことのできない、重要人物の1人だったのです。

・小森邦夫
構造社彫塑研究所において斎藤素巌に師事。端麗な女性像を多く作成する傍ら、指導者として日本芸術院賞受賞者の蛭田二郎や能島征二等を育てた。茨城県水戸市の公園等には、小森の作成した徳川光圀像などがあり、市民や観光客に親しまれている。

1935年、構造社彫塑研究所に入所する。
1985年、「青春譜」で 日本芸術院賞受賞する。
1987年、勲四等旭日小綬章を受章する。
1989年、日本芸術院会員となる。
1991年、社団法人日本彫刻会委員長となる。日展事務局長となる。

・近藤弘明
東洋の仏教的真理を幻想美によって現わし、視覚に語りかけてくる作品を目指し描き続けた日本画家、1924(大正13)年9月14日、東京市下谷区龍泉寺町(現、台東区龍泉3丁目)に生まれる。本名弘明(ひろあき)。家は天台宗寺門派三井寺(園城寺)の末寺にあたる天台宗龍光山三高寺正宝院で、江戸七不動のひとつ、飛不動とも呼ばれた。父・近藤教圓は仏画をよくし、近藤は幼いころから絵の具溶きや絹張りの手伝いをしていたという。1930(昭和5)年、6歳のときに得度受戒し僧籍に入る。36年3月下谷区立龍泉寺小学校を卒業。中学時代には川端画学校のデッサン教室へ通い、一時洋画家となることも考えたという。41年3月文京区の駒込中学校卒業、大正大学師範科に入学する。その一方で当時東京美術学校教授であった常岡文亀に植物写生を習い、43年大学を中退、東京美術学校(現、東京藝術大学)日本画科へ入学した。44年陸軍軽井沢航空教育隊に志願し入隊、八ヶ岳山麓にてグライダー訓練を受ける。訓練中に見た小さな高山植物が強く印象に残り、後の作風に影響を及ぼしたという。その後罹病、陸軍学校を点々とし、終戦後は兄が大僧正となっていた滋賀県大津の園城寺法泉院に滞在、療養に努めるとともに、兄から天台哲学を学ぶ。この頃一時文学を志し、志賀直哉のもとへ通うが、「文学よりも絵に向いている」との助言から、47年画業に専念するため上京、翌年4月東京美術学校に復学した。49年3月東京美術学校を卒業し、以後も同校助教授だった山本丘人に教えを受けた。
 50年第3回創造美術展へ「街裏」を出品、初入選を果たす。翌年創造美術と新制作派協会が合同して新制作協会となり、同年の第15回展へ「木馬館」「六区高台」を出品、以後第37回展(1973年)まで毎回出品し、新作家賞を4度受賞、63年には会員となる。また同会の春季展や日本画部研究会へも積極的に出品し、受賞を重ねた。54年第18回新制作展へ「夜の華」など4点を出品。この頃から異形ともいえる幻想的な花や鳥をモチーフとした作品が制作されるようになる。翌年12月尾崎光子と結婚。59年1月、初となる個展(画廊ひろし)開催。60年1月第11回秀作美術展に「月の華」(1959年)が選抜出品され、第15、17回展(1964、66年)にも選抜される。同年7月第2回みづゑ賞選抜展に「解脱」「迦陵頻伽」を出品。この頃より仏教的な世界観に基づくものと考えられる作品が描かれ始める。62年5月第5回現代日本美術展へ「慈母」(のちに「天上の華」と改題)「飛翔」を招待出品、翌年5月第7回日本国際美術展へ「善と悪の園」を招待出品する。以後も前者には第8回展(1968年)まで、後者には第9回展(1967年)まで出品、65年の第8回日本国際美術展では、「寂光」がブリヂストン美術館賞となる。66年第5回福島繁太郎賞受賞。60年代半ば頃より、各モチーフが徐々に具象的となり、画面が遠近法に即した広がりを見せる風景として構成されるようになる。また「幻影」「寂園」(1968年、個展・彩壺堂)など、具体的な菩薩の姿を描いた作品が表れはじめる。71年「今日の日本画―第1回山種美術館賞展―」へ「清夜」を出品、優秀賞となる。74年新制作協会日本画部会員全員が同会を退会、新たに創画会を結成し、9月の第1回展へ「黄泉の華園」を出品、第13回展(1986年)まで出品した。75年6月「一つの神秘的空間を示す画業にたいして」第7回日本芸術大賞が贈られる。76年12月東京・杉並から神奈川県小田原市にアトリエを移転、寂静居と名付けた。82年3月第4回日本秀作美術展に「幻桜」が選抜される。同展へは1990(平成2)年の第12回展に「幻秋(秋の七草)」で再び選抜されて以降、第25回展(2003年)までに10回選抜された。83年10月第10回創画展へ「霊桜」を出品。この頃より描かれるモチーフが現実の草花となり、日本の伝統的な花鳥画を思わせるような構図の画面となっていく。85年第21回神奈川県美術展の審査員となり、以後第31回展(1995年)まで務め、第32回から第39回展(2003年)までは顧問を務めた。86年2月、師である山本丘人が没し、翌年の第13回春季創画展を最後に創画会を退会、以後無所属となる。91年4月紺綬褒章受章。93年9月、初期作品から最新作までを集めた回顧展「華と祈り 近藤弘明展」開催。2000年4月二度目となる紺綬褒章を受章。同年7月には「サンクチュエール日光 近藤弘明展―聖地の神秘を描く」が開催された。
2015年肺炎のため死去した。享年90。

・杉山寧
東京府東京市浅草区浅草西三筋町(現在の東京都台東区三筋一丁目、二丁目西側辺り)に文房具店を営む杉山卯吉の長男として生まれる。本籍・神奈川県。1928年、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に入学。山本丘人、高山辰雄らと「瑠爽画社」(るそうがしゃ)を結成、日本画の革新をめざす運動に携わる。1929年、帝展に出品、1931年、美校日本画科卒、結城素明に師事。1934年、第1回日独交換留学生に選ばれベルリン大学に学ぶ。だが1938年に肺結核を病む。1943年、朝鮮満洲支那へ取材旅行。その後は病のために長く創作活動が止まる。

1947年に日展特選、1950年、日展審査員。1951年に「エウロペ」を日展に出展して本格的に画壇に復帰。以降、作風を一新した絵画を意欲的に発表する。1957年、日本芸術院賞受賞、1958年、日展評議員。1970年、日本芸術院会員。1974年、文化功労者、文化勲章受章。

1958年6月、長女・瑤子が三島由紀夫と結婚。三島は瑤子を選んだ理由について「芸術家の娘だから、芸術家に対して何ら幻想を抱いていないこと」を挙げた。実際は瑤子は見合いの際に一目で三島を気に入り、結婚を強く希望した為に、両家話し合いの末結婚と成った(媒酌人は川端康成夫妻)。

1969年に日展常務理事となり、1974年に日展理事長に就任。この間、1970年に娘婿の三島が割腹自殺。1976年、西ドイツより大功労十字勲章受章。1977年、東京国立近代美術館評議員。1991年に東京都名誉都民になる。 1956年から1986年12月号まで『文藝春秋』の表紙画を描いた。1993年の誕生日の朝、心不全のため没した(生没同日)。死後、従三位に叙せられる。墓は寛永寺谷中墓地にある。

戦前は日本画の技法を極めた技巧で知られたが、戦後は岩絵具を用いながらも線描などの日本画の技法を一新し、メチエールにこだわった独自の作風を確立した。また。エジプトやインドなどの古代遺跡や神像、抽象画や裸婦など従来の日本画にはなかった題材も手掛けた。亡くなる直前まで、納得いくまで絵を修正し続けるなど完璧主義者としても知られた。

・高村光雲
江戸下谷(現・台東区)に町人・兼吉の子として生まれる。1863年(文久3年)から仏師の高村東雲の元に徒弟となる。後に東雲の姉・エツの養子となり、高村姓となる。

明治維新以後は廃仏毀釈運動の影響で、仏師としての仕事はなく、輸出用の象牙彫刻が流行したために木彫も衰え、光雲自身の生活も苦しかった。そのような中で光雲は木彫に専念、積極的に西洋美術を学び、衰退しかけていた木彫を写実主義を取り入れることで復活させ、江戸時代までの木彫技術の伝統を近代につなげる重要な役割を果たした。

1889年(明治22年)から東京美術学校に勤務、翌年に彫刻科教授、同年10月2日、帝室技芸員に任ぜられる。1893年(明治26年)には『老猿』をシカゴ万博に出品。1900年(明治33年)には『山霊訶護』をパリ万博に出品。1926年(大正15年)に東京美術学校を退職し、名誉教授。

光雲の弟子には山崎朝雲、山本瑞雲、米原雲海、関野聖雲など近代日本彫刻を代表する彫刻家がいた。

1934年 死去。満82歳。

・高村光太郎
東京府東京市下谷区下谷西町三番地(現在の東京都台東区東上野一丁目)出身。本名は光太郎と書いて「みつたろう」と読む。

日本を代表する彫刻家であり画家でもあったが、今日にあって『道程』『智恵子抄』などの詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載されており、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられる。著作には評論や随筆、短歌もあり能書家としても知られる。弟は鋳金家の高村豊周であり甥は写真家の高村規。父である高村光雲などの作品鑑定も多くしている。

1883年(明治16年)に彫刻家の高村光雲の長男として生まれ、練塀小学校(現在の台東区立平成小学校)に入学。1896年(明治29年)3月、下谷高等小学校卒業。同年4月、共立美術学館予備科に学期の途中から入学し、翌年8月、共立美術学館予備科卒業。

1897年(明治30年)9月、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)彫刻科に入学。文学にも関心を寄せ、在学中に与謝野鉄幹の新詩社の同人となり『明星』に寄稿。1902年(明治35年)に彫刻科を卒業し研究科に進むが、1905年(明治38年)に西洋画科に移った。父・高村光雲から留学資金2000円を得て、1906年(明治39年)3月よりニューヨークに1年間2ヶ月、ロンドンに1年間1ヶ月、その後パリに1年滞在し、1909年(明治42年)6月に帰国。アメリカでは、繁華なニューヨークの厳しい生活の中で「どう食を求めて、どう勉強したらいいのか、まるで解らなかった」と不安で悩んでいる時に、運良くメトロポリタン美術館で彫刻家ガットソン・ボーグラムの作品に出会う。感動した光太郎は熱心な手紙を書き、薄給ではあったが彼の助手にしてもらった。このようにして昼は働き夜はアート・スチューデンツ・リーグの夜学に通って学んだ。世界を観て帰国した光太郎は旧態依然とした日本の美術界に不満を持ち、ことごとに父に反抗し東京美術学校の教職も断った。パンの会に参加し『スバル』などに美術批評を寄せた。「緑色の太陽」(1910年)は芸術の自由を宣言した評論である。また、同年、神田淡路町に日本初の画廊「瑯玕洞」を開店する。

1912年(明治45年)、駒込にアトリエを建てた。この年、岸田劉生らと結成した第一回ヒュウザン会展に油絵を出品。1914年(大正3年)10月15日に詩集『道程』を出版。同年、長沼智恵子と結婚。1916年(大正5年)、塑像「今井邦子像」制作(未完成)。この頃ブロンズ塑像「裸婦裸像」制作。1918年(大正7年)、ブロンズ塑像「手」制作。1926年(大正15年)、木彫「鯰(なまず)」制作。1929年(昭和4年)に智恵子の実家が破産、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり、のちに統合失調症を発病した。1938年(昭和13年)に智恵子と死別し、その後1941年(昭和16年)8月20日に詩集『智恵子抄』を出版した。

智恵子の死後、真珠湾攻撃を賞賛し「この日世界の歴史あらたまる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる」と記した「記憶せよ、十二月八日」など、戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表し、日本文学報国会詩部会長も務めた。歩くうた等の歌謡曲の作詞も行った。1942年(昭和17年)4月に詩「道程」で第1回帝国芸術院賞受賞。1945年(昭和20年)4月の空襲によりアトリエとともに多くの彫刻やデッサンが焼失。同年5月、岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮沢清六方に疎開(宮沢清六は宮沢賢治の弟で、その家は賢治の実家であった)。しかし、同年8月には宮沢家も空襲で被災し、辛うじて助かる。

1945年8月17日、「一億の号泣」を『朝日新聞』に発表。終戦後の同年10月、花巻郊外の稗貫郡太田村山口(現在は花巻市)に粗末な小屋を建てて移り住み、ここで7年間独居自炊の生活を送る。これは戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自省の念から出た行動であった。この小屋は現在も「高村山荘」として保存公開され、近隣には「高村記念館」がある。

1950年(昭和25年)、戦後に書かれた詩を収録した詩集『典型』を出版。翌年に第2回読売文学賞を受賞。1952年(昭和27年)、青森県より十和田湖畔に建立する記念碑の作成を委嘱され、これを機に小屋を出て東京都中野区桃園町(現・東京都中野区中野三丁目)のアトリエに転居し、記念碑の塑像(裸婦像)を制作。この像は「乙女の像」として翌年完成した。

1956年(昭和31年)4月2日3時40分、自宅アトリエにて肺結核のために死去した。73歳没。戒名は光珠院殿顕誉智照居士。この高村の命日(4月2日)は、高村がアトリエの庭に咲く連翹(れんぎょう)の花を好んでおり、彼の告別式で棺の上にその一枝が置かれていたことから連翹忌と呼ばれている。

著名な芸術家・詩人であるとともに、美や技巧を求める以上に人間の「道」を最期まで探求した人格として、高村を支持する人は多い。

・谷文晁
公余探勝図 寛政5年(1793年) 重要文化財・東京国立博物館
青山園荘図稿 寛政9年(1797年) 重要文化財・出光美術館
戸山山荘図稿 寛政10年(1798年) 重要文化財・出光美術館
木村蒹葭堂像 享和2年(1802年) 重要文化財・大阪府教育委員会蔵(大阪市立美術館保管)
八仙人図 享和2年(1802年) 静嘉堂文庫美術館
彦山真景図 文化12年(1815年) 東京国立博物館

・寺井力三郎
1953年  東京芸術大学油画科卒業
1955年  東京芸術大学油画専攻科修了
1957年  黒土会結成
1966年  一水会賞受賞
1967年  一水会会員推挙
1968年  安井賞候補展出品
1971年  一水会会員優賞受賞
1972年  安井賞候補展出品
1977年  一水会委員推挙
1978年  安井賞候補展出品
1979年  安井賞候補展出品
1988年  高崎芸術短期大学教授(~90)
1990年  第33回埼玉文化賞受賞
1997年  紺綬褒章受章
2006年  カナダ、ノバスコシア州ウルフビルに尊敬するアレックス・コルビル氏を訪
ねる

・長谷川雪旦
唐津藩士の子で、江戸出身。住居は江戸・下谷三枚橋(現在の東京都台東区上野の仲御徒町駅付近)。国立国会図書館には「雪旦・雪堤粉本」という大量の下絵や模写が一括して保存されており、それらの研究により、雪舟13代を名乗る絵師・長谷川雪嶺を師としたことが確認されている。その模写には師・雪嶺や雪舟の作品が複数存在しているが、それに留まらず琳派風・円山四条派風の図や、伝統的な仏画等も含まれており、雪旦が早い段階から様々な流派の絵をこだわりなく学んでいたことがわかる。
中年期には高嵩谷に師事し、狩野派も学んだという。『増補浮世絵類考』の記述を元に、初めは彫物大工で後藤茂右衛門と名乗ったといわれるが、数え15歳にして既に画技はかなりの習熟を見せ、彫物大工の片手間にできる業ではなく、その可能性は低い。
現在確認できる雪旦最初の仕事は、寛政10年(1798年)刊行の『三陀羅かすみ』で、北尾重政や葛飾北斎と分担して雪旦も漢画を担当している。以後も、特定の流派に属することなく、漢画系の町絵師として狂歌本の挿絵や肖像画を描いて生計を立てる。また、俳諧を好み、五楽という俳号を名乗って文人たちと盛んに交流した。
転機が訪れたのは40代に入った頃である。文政元年(1818年)、唐津藩主・小笠原長昌に従って唐津に赴いていることから、この少し前に唐津藩の御用絵師になったものと推測され、今も唐津市には雪旦の作品が相当数残っている。このほかにも、雪旦はしばしば各地を旅し、その土地の名所や風俗の写生を多く残しており、こうした態度が『江戸名所図会』を生み出す土壌になったと言える。天保5年から7年(1834~36年)にかけて刊行された『江戸名所図会』では、650景にも及ぶ挿絵を描いて名声を得る。その甲斐あってか、文政12年(1831年)に法橋に叙せられている。また、「長谷川法眼雪旦六十三歳」と款記のある作品も見えることから、天保11年(1839年)頃には法眼に叙せられていたと分かる。 一方、唐津藩の小笠原家とは長昌が文政6年(1823年)にわずか28歳で没して以降、疎遠になったと見られる。
天保14年(1843年)で死去。享年66[6]、満年齢で64歳もしくは65歳であった。当時は浅草新谷町(のちの浅草芝崎町。現在の東京都台東区西浅草3丁目)にあった妙祐山幸龍寺に葬られた。その後、寺は関東大震災で罹災・焼失し、昭和初期になってから墓地ともども世田谷区北烏山へ移転している。
弟子として、息子の長谷川雪堤や、朝岡且?がいる。「親族と一門」節も参照のこと。

・速水御舟
速水御舟は、大正・昭和初期の日本画家である。本名は蒔田 栄一(まきた えいいち、後に母方の速水に改姓)。禾湖・浩然のち御舟と号す。オクイシェー・クーロンヌ勲章・赤十字二等名誉勲章受章。今村紫紅は兄弟子。
1894年(明治27年)8月2日、東京府東京市浅草区に生まれる。従来の日本画にはなかった徹底した写実、細密描写からやがて代表作『炎舞』のような象徴的・装飾的表現へと進んだ。長くない生涯に多くの名作を残し、『名樹散椿』(めいじゅちりつばき)は昭和期の美術品として最初に重要文化財に指定された。1935年(昭和10年)3月20日、腸チフスにより急逝した。40歳没。

・真野満
1901(明治34)年9月27日、東京浅草に生まれる。父は河鍋暁斎門下の日本画家真野暁亭で、兄松司も日本画家の道を歩んでいる。15、6歳の頃一時、尾竹竹坡に絵の手ほどきを受ける。1918(大正7)年太田聴雨、小林三季の結成した青樹会に参加し、第1回青樹社展に「凝視」を出品。その後22年第一作家同盟に青樹社の一員として参加し、第一回展に歴史画を出品したが、この同盟は数年にして解散となる。その後父の勧めで京都市立絵画専門学校に進み1927(昭和2)年卒業。再び上京して37年安田靫彦に師事、翌38年第25回院展に「貴人愛猫」が初入選した。41年第28回院展「七おとめ」が日本美術院賞第三賞を受賞、また40年より法隆寺金堂壁画の模写に文部省嘱託として従事し、中村岳陵の班で五号壁を担当した。戦後、『源氏物語』や『伊勢物語』などの平安文学に材をとり、52年第37回院展「小墾田宮」、54年第39回「伊勢物語」、55年第40回「泉(伊勢物語)」が奨励賞を受賞。57年第42回「羽衣」が再び日本美術院賞となり、同年日本美術院同人に推挙された。71年第56回院展「伊勢物語」が文部大臣賞、80年第65回「後白河院と遊女乙前」は内閣総理大臣賞を受賞する。一貫して神話や文学、歴史画にモティーフを求め、師靫彦の伝統を継ぐ流麗にして明快な筆線の美しさを基調とした作品を発表。78年より日本美術院評議員をつとめる。1991(平成3)年には「大和絵六十年の歩み真野満展」が日本橋三越で開催された。
2001年老衰のため死去した。享年99。

・山下新太郎
881年(明治14年)東京・根岸の表具師の長男として生まれる。

幼少時から絵画に親しみ、また特に天神像を好んだことで実父と懇意にしていた狩野芳崖に天神図を依頼、その図画を手本として過ごした。また1892年(明治25年)頃から父の友人のひとりである新岡旭宇に書を、1899年(明治32年)には義兄である西田長左衛門について英語と漢文を習っている。

1901年(明治34年)、画家を志望して藤島武二に師事し、木炭画を習う。同年、東京美術学校西洋画科選科に入学、黒田清輝に師事した。東京美術学校時代の同期に青木繁、熊谷守一、和田三造などがいる。

1904年(明治37年)、東京美術学校西洋画科を成績優秀なため一年繰り上げて卒業[1]。卒業と同時に東京外国語学校フランス語専科に入学、後日暁星高等学校に転校した。翌年4月、アメリカ合衆国経由でフランスに渡仏・留学し、はじめラファエル・コランに師事したが、のちにエコール・デ・ボザール(国立パリ美術学校)に入学、フェルナン・コルモンに学ぶ。

留学中には1907年(明治40年)5月のスペイン旅行を初めとしてグラナダ、セビリアなどを経て年末にパリへ戻るまで絵画模写などに従事していた。またスペイン旅行の翌年となる1908年(明治41年)には「窓際」をサロン・ド・パリに出品、翌1909年(明治42年)にも同サロンに「読書」「読書の後」を出品している。しかし1909年晩夏に体調を崩し、スイス経由でイタリアに旅行し、イタリアではミラノ、ベニス、フローレンス、ナポリなどを11月までかけて周り、11月以降はマントン、マルセイユを経て再びパリへ戻った。このイタリア旅行の間に「靴の女」を制作していた。

1910年(明治43年)6月、スエズ経由で帰国[1]。同年開催の第4回文展に留学中に書き溜めた絵画3点(「読書」「読書の後」「靴の女」)を出品、「読書の後」が三等賞を受賞した[1]。また翌1911年(明治44年)第5回文展出品作「窓際」が三等賞受賞。

1914年(大正3年)有島生馬・石井柏亭らとともに二科会を結成。同年湯浅一郎と朝鮮を旅行し、朝鮮鉄道局の依頼に応えて京城鉄道局経営の朝鮮ホテルに壁画を描いた。この壁画は翌1915年(大正5年)の再渡鮮時に完成した。

この間、私生活では1910年7月に日本女性と結婚し、1912年(明治45年)に長女が、1914年(大正3年)に長男が誕生している。1915年(大正5年)9月の第2回二科展には10か月当時の長男の像を描いた「端午」と、妻の像を描いた「供物」を出品した。また1917年(大正7年)には三光町(現東京都新宿区)に新居を落成させている。

1925年(大正14年)文化学院美術部で教鞭をとる。

1931年(昭和6年)5月、朝鮮美術展審査員として小林万吾と朝鮮に渡った。同年9月23日、神戸港より再びパリへ遊学しギメ東洋美術館所蔵の屏風絵(東洋画)を修復、この功績で翌1932年(昭和7年)フランスよりレジオンドヌール勲章シュヴァリエを授与される。また同年開催の第19回二科展には「春近きセーヌ河」などヨーロッパ滞在時代に描き溜めた作品計36点を出品、特別陳列された。

1935年(昭和10年)、二科会を退会し、帝国美術院会員[1]。1937年(昭和12年)、一水会を創立、同年、帝国芸術院会員[1]。1949年(昭和24年)、日展運営会常任理事。1952年(昭和27年)、国立近代美術館評議員。1958年(昭和33年)、日展理事、1961年(昭和36年)、同顧問。

1955年(昭和30年)、文化功労者(文化功労章)、1964年(昭和39年)、勲三等旭日中綬章受章。

1966年4月11日、東京都港区芝の自宅にて84歳で死去。

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