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愛媛県について

愛媛県は四国地方の北西部分にあり、北側には瀬戸内海があり、本州四国連絡橋の尾道・今治ルート(通称・瀬戸内しまなみ海道)によって電車や車で海を越えて広島県へ行き来出来るようになっています。

愛媛という県名は『古事記』の「かわいい姫・うつくしい姫」を意味する「愛比売(えひめ)」に由来しています。
雑誌「ホトトギス」を中心に活躍した俳聖・正岡子規や、ノーベル賞作家の大江健三郎を輩出しているほか、夏目漱石の『坊っちゃん』、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の舞台となるなど、豊かな文化が息づいています。
また、野球をはじめ、スポーツが盛んな土地柄で、近年では、瀬戸内しまなみ海道をはじめとして、県全体でサイクリングパラダイスを目指す「愛媛マルゴト自転車道」を展開し、自転車による新文化の定着を図っています。

愛媛県の県庁所在地は松山市となります。
松山市には松山空港があり、国内便は東京・成田・大阪・福岡など、国際便は上海・ソウル行きが運行しています。
他に松山市へ行くには高速バスやフェリーも利用出来るので交通は便利です。
四国の他の地域、香川県や高知県へ移動するにはJRが利用出来ます。

愛媛県で有名な観光地と言えば、松山市にある道後温泉です。
松山市内には路面電車の伊予鉄道が走っており、重要な移動手段として市民に親しまれています。
松山市駅、JR松山駅や繁華街である大街道商店街、松山城行きのロープウェイ乗り場などへ行くのにもこの路面電車が便利なので、観光客にも使いやすい交通手段となり、もちろん道後温泉にも行けます。
道後温泉は3000年もの歴史があると言われており、旅館や共同浴場、土産物店、飲食店などが集まっており、レトロな雰囲気が楽しめる街として人気の観光スポットです。

愛媛県には、たくさんの観光地があります。
温泉地がたくさんあり、松山市の道後温泉や今治市の湯ノ浦温泉・鈍川温泉、西条市の本谷温泉などがあります。
史跡・旧跡も愛媛県内各地にあり、松山城や今治城、宇和島城、大洲城、湯築城などがあります。
自然を楽しむことができる観光地もたくさんあり、四国カルスト、面河渓、滑床渓谷などがあります。
また、美術館や博物館なども充実しており、愛媛県総合科学博物館では、世界最大のプラネタリウムを見ることができます。

画家について

・高畠華宵
上京した当座は生活苦に喘いでいたが、1911年に「華宵」名義で発表した津村順天堂「中将湯」の広告画で一躍有名になる。アール・ヌーボーやユーゲントシュティール、特にオーブリー・ビアズリーの影響を受けたとされるシャープなペン画によるモダンな絵はそれまでの広告イラストとは一線を画したもので、世間の注目を集めた。

 その後『少女画報』(東京社)『少女倶楽部』『少年倶楽部』(いずれも講談社)『日本少年』『婦人世界』(いずれも実業之日本社)などの少女向け雑誌や少年雑誌、婦人雑誌などに描いた独特な美少年・美少女の挿絵や美人画は一世を風靡し、たちまち竹久夢二らと並ぶ人気画家となった。1926年には自身の意匠による便箋や封筒を発売するなど、現代でいうメディアミックス風のプロモーションも行い、当時の流行歌「銀座行進曲」(正岡容作詞、1928年)の歌詞に「華宵好みの君も往く」と歌われるほどになった。また、鎌倉・稲村ヶ崎一の谷(いちのやと)に建てた異国情緒あふれる自邸は「華宵御殿」と呼ばれ、華宵の趣味が凝縮したものとして注目を集めた。華宵御殿には、全国の女性(とくに女学生)からのファンレターが殺到し、地方の令嬢が華宵御殿見たさに家出するほどだった。当時の華宵の画料は本人の言い値で決まっていたとされ、1925年には『少年倶楽部』の加藤謙一らの画料引き下げの求めに対し、華宵は寄稿の取りやめで応じたという。

しかし戦時色が濃くなるにつれ、人気絶頂の1937年ごろから雑誌などの活動が減ってゆき、一般大衆の間でもその人気は持続しなかった。戦後も華々しいカムバックとはいかず、1960年代に再評価を受ける(後述)まではやや歴史の中に埋もれた存在となっていた。それでも完全に忘れ去られることはなく、昭和中後期における少年少女、婦人雑誌の人物の挿絵は華宵の影響を受けたものが多い。漫画家の丸尾末広も華宵の画風から影響を受けていることがよく知られている。

・智内兄助
1980年代初めから、和紙にアクリル絵具という独特な画法を確立し、日本画と洋画との境界を越えた革新的な表現方法に到達。日本の伝統美である衣装文様や花鳥風月を、「もののあはれ」を基調としたその作風は独特の技法とあいまって智内独自の幻想世界を創り上げている。古典の伝統から逸脱することなく、日本の美意識を斬新な手法で捉える「絵師」として、安井賞をはじめ数々の賞を受賞し、現代画壇を代表する洋画家として揺るぎない地位を築きあげている。1992年毎日新聞・宮尾登美子作の連載小説「蔵」の挿絵を担当して以来、その人気と知名度を不動のものとした。
2002年、2004年には、ギャルリーためながフランスにおいて個展を開催し、ヨーロッパ屈指の大コレクターであるロスチャイルド家に多くの作品を蒐集されるなど、世界の多くのコレクターを魅了している。これを機に活躍の舞台を世界各地へと広め、パリ発表から5年を経た2007年、帰国後初の展覧会をギャルリーためなが東京にて開催し、成功裏に幕を閉じた。

ここ数年は花や山々という日本人の原風景に迫る自然界の描写に新境地を見出しており、日本内外で高い評価を得ている。

フリージャズトランペッターの近藤等則とは中学高校の同級生で友人。近藤と2人で絵本も出版している。息子の智内威雄はピアニストで、局所性ジストニアに冒され左手のピアニストとして演奏活動を行っている。

・野間仁根
愛媛県伊予大島の津倉村(吉海町、現・今治市)に生まれる。上京後まもなく東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学する。伊藤廉らと童顔社を結成し活動した後、拓榴社を経て、1933年(昭和8年)に二科会へ入会する。1955年(昭和30年)に鈴木信太郎、高岡徳太郎らと共に二科会を去り「一陽会」を創設する。

1979年(昭和54年)12月30日、78歳で東京にて逝去した。18歳で上京したが、その後もたびたび帰郷し島の風景をスケッチした。野間家の分家・角浜の6代目当主であったため、生家や墓は愛媛県大島にある。

釣りと海を愛し、東京に転居後も故郷・瀬戸内の海を描き続けた。写生と釣りのために千葉県の外房に通い、太海浜に接するように建つ江澤館を定宿とした。ユーモアあふれる気さくな人柄は、その著書『呑馬先生釣日記』によく表れている。江澤館には野間仁根・傳治の絵が残され、今も仁根の描いたヒラメの絵が包装紙に使われている。

画業を通じて熊谷守一や藤田嗣治と、挿絵の仕事等を通じて井伏鱒二や川端康成などと交流があった。

・柳瀬正夢
愛媛県松山市で生まれる。3歳で母と死別し、家計を助けながら画家を志した。11歳のとき、福岡県門司市(現・北九州市)に移る。1915年、15歳で油彩「河と降る光と」が院展に入選し、早熟の天才画家として有名になった。その後上京し絵画を学び、1920年には読売新聞に入り、時事漫画を描いていた。

折しも米騒動やロシア革命に刺激を受け、大正デモクラシーが高まりを見せた頃で、文芸界でも民衆芸術論が盛んに議論された。柳瀬もそのような芸術運動に傾倒してゆき、普門暁の未来派美術協会に入ったり、村山知義、尾形亀之助、大浦周蔵、門脇晋郎とともにMAVOを結成したりして、前衛美術に進んだ。1924年には、三科造形美術協会を結成している。

一方でプロレタリア美術にも傾倒し、1921年に種蒔く人、未来派美術協会に参加。1923年に日本漫画会発起人となる。そして1925年、日本プロレタリア文芸連盟の結成に参加、同年創刊の無産者新聞に参加し、多くの挿絵を執筆した。

1931年10月、日本共産党入党。しかし翌1932年に治安維持法違反で検挙され、拷問を受ける。こうした逆境にもめげずに、プロレタリア美術への運動を続け、無産階級の画家として知られたゲオルグ・グロッスを日本に紹介した。他にもカリカチュア、絵画に始まり、デザイン(ポスター)、コラージュ、舞台美術、絵本など、戦前~戦中にかけて幅広く活躍した。

1945年5月25日、山の手空襲により新宿駅西口で戦災死。享年45。諏訪に疎開していた娘を見舞うため、22時発の中央本線の夜行列車に乗ろうとした所、空襲の被害に遭ったと言われている。遺族によって柳瀬の遺体が発見されたのは、死後4日経った5月29日だった。東京都東村山市の「圓龍寺」の柳瀬家の墓に眠っている。

・大野雄山
1909年 - 愛媛県喜多郡内子町平岡に生まれる。
1927年 愛媛画壇の草分け 牧田嘉一郎に絵画の手ほどきを受ける。
1929年 東京美術学校教授 小林万吾に師事。東京淀橋洋画研究所、同舟舎に所属。
1930年 光風会展に入選。愛媛美術展会友に推挙。
1931年 白日会展に入選。光風会会員 小寺健吉に教えを乞う
1932年 第一美術展に入選
1933年 野田信から肖像画、装丁、商業図案を習得
1934年 挿絵画家 小林秀恒の一門に入り、挿絵技法を習得
1938年 講談社「キング」等11誌の挿絵執筆
1942年 京城日報、北海道子供新聞の挿絵執筆
1945年 東京大空襲を逃れ実家の愛媛県喜多郡五十崎町に疎開
1959年 五十崎町より松山市に転居し、画業に専念
1960年 新世紀美術展に「岩堰」を出品。新世紀美術協会準会員に推挙。
1962年 第五十回日本水彩展に「石手寺」を出品し、入選。以降も第53、55、56、57、59、60、61、63、65回展に出品し、通算10回入選した。
1970年 第59回展に出品した「部落に有る河畔」がMO賞(奨励賞)
1971年 松山市のヒロヤ画廊で第一回個展を開催。以降も通算15回個展を連続開催。
1976年 ヒロヤ画廊で第一回「雄山会 水墨画展」を開催。以降も水墨画展を通算11回、チャリティ展など開催
1977年 日本水彩展で会友に推挙
1978年 白亜美術展に入選 白亜美術会会員に推挙
1995年 日本水彩画会会員に推挙
1998年 愛媛県松山市で死去。89歳
1999年 ヒロヤ画廊で大野雄山遺作展を開催
2018年 松山市のギャラリーリブ・アートにて「生誕110年 大野雄山絵画展」を開催

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