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新潟県について

新潟県は本州の日本海沿岸に位置する県です。
スキー場、国立公園、多くの温泉で知られ、沖合には離島の佐渡島があります。
県庁所在地の新潟市は、魚介類の他、巨大な水族館であるマリンピア日本海でも有名です。

新潟県の主な産業は、農業です。
コシヒカリの収穫量は日本一で、魚沼産コシヒカリはトップブランドとしても有名です。
亀田製菓などお米を利用した米菓製造メーカーも多いです。

新潟県は、歴史資料によれば8世紀には越後国、佐渡島は佐渡国と呼ばれていました。
歴史上の有名人は戦国武将の上杉謙信です。
越後から能登、上野に領土を広げ、甲斐の名将武田謙信と争った川中島の戦いは有名です。
江戸時代、佐渡では金、銀の産出量が増え、徳川幕府の財政を支えました。
幕末には奥羽越列藩同盟に参加した越後の長岡藩や新発田藩が官軍に敗れました。
一方日米修好通商条約によって新潟が開港しますが、本格的に機能するのは昭和に入ってからで、満州航路が開かれ、上越線が開通した事が大きな要因となっています。
明治維新後、越後は13県に分けられました。
その後統合され現在の新潟県となりました。

画家について

会田誠

1965年、新潟県新潟市に生まれる。父は社会学者で新潟大学名誉教授の会田彰。また本人によると、母親はフェミニストであった。 小さい頃は授業中に走り回るなど落ち着きがなく「いまでいう典型的なADHD(注意欠陥・多動性障害)」だったという。「基本的に飽きっぽくて同じ絵を繰り返し描くことができない」と本人が語っている。
新潟県立新潟南高等学校卒業後、代々木ゼミナール造形学校を経て、1989年東京芸術大学油画専攻卒業、1991年東京芸術大学大学院修了(油画技法材料第一研究室:佐藤一郎)。在学中に小沢剛、加藤豪らと同人誌『白黒』(1 - 3号)を発行。1993年、レントゲン藝術研究所で開催された「fo(u)rtunes part2」でデビュー。
2003年には、会田自身の制作を追ったドキュメンタリー映画『≒会田誠』(ビー・ビー・ビー株式会社)が公開。
2005年、写真「Girls Don't Cry 2003」の一つが香港クリスティーズにおいて9253ドル(約110万円)で落札された。
2012年11月10日には渡辺正悟監督によるドキュメンタリー映画『駄作の中にだけ俺がいる』が公開。
2013年、第8回安吾賞受賞。


安宅安五郎

明治16年(1883年) 新潟市東堀通に四男として生まれる。
東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科入学。藤島武二に師事。在学中に文展に「靴屋」出品、文部省買上げ。
明治43年(1910年) 東京美術学校卒業
大正8年(1919年) 第一回帝展「白蓮樹」特選
大正9年(1920年) 第二回帝展「砂丘に立つ子供」特選
大正10年(1921年) 相馬其一と渡欧
大正11年(1922年) 第4回帝展特選
大正13年(1924年) 推薦
大正15年(1925年)帝展委員任命
昭和2年(1927年) 帝展審査員任命
明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に「教育勅語下賜」
昭和4年(1929年)・6年(1931年)・7年(1932年) 帝展審査員任命
昭和6年(1931年) 「浜の娘」政府買上
昭和11年(1936年) 文展審査員任命
昭和12年(1937年) 大阪毎日新聞主催総合展に銀賞受賞
以後官展の審査員任命
昭和17年(1942年) 第5回文展に「秋草」出品文部省買上
昭和32年(1957年) 中国に文化使節として招待を受け訪問
昭和35年(1960年) 9月1日パーキンソン病により没。77歳


黒井健

黒井健は、日本の絵本作家、イラストレーター。新潟県新潟市生まれ。神奈川県川崎市在住。
新潟大学教育学部中等美術科卒業。日本児童出版美術家連盟会員。学習研究社幼児絵本編集部を経て、フリーに。2003年5月、「黒井健絵本ハウス」開館。
2010年9月、新潟市立中央図書館こどもとしょかん名誉館長に就任。


小林古径

1883年(明治16年)、新潟県高田(現上越市)に生まれる。早期に家族を亡くし、16歳の1899年(明治32年)に上京して梶田半古に日本画を学ぶ。39歳の1922年(大正11年)より前田青邨と共に渡欧留学。翌1923年(大正12年)、大英博物館で中国・東晋の名画「女史箴図巻」(じょししんずかん)を模写している。「蚕の吐く糸のような」と評される線描が特色のこの中国古典を研究することによって、古径は東洋絵画の命である線描の技術を高めた。
代表作「髪」は、このような古径の線描の特色をいかんなく発揮した名作である。簡潔に力強く描かれた線と単純な色彩で、髪の毛一本一本や美しく縁取られた顔の輪郭、半裸の女性の体温や皮膚の柔らかい感触まで、繊細に描き出している。
「髪」は、裸体画として、日本で初めて切手のデザインとなった。1935年(昭和10年)、帝国美術院会員。1944年(昭和19年)、東京美術学校教授に就任。同年7月1日帝室技芸員となる。1950年(昭和25年)、文化勲章受章。1957年(昭和32年)4月3日、死去、贈従三位、贈勲二等旭日重光章(没時叙位叙勲)。
古径の住居として東京都大田区南馬込に建築された小林古径邸は新潟県上越市の高田公園(現:高田城址公園)内に移築・復原され、国の登録有形文化財に登録されている。古径は、「私が好きになるような家を建ててください。」と言っただけで一切注文を出さなかった、古径邸ができあがってもすぐには移り住まずに通ってきては眺めて楽しんだというエピソードが残っている。
また、古径は絵画における写生の重要性を認識しており、庭の植物や庭で飼育した鳥などを写生したという。


佐藤哲三

1930年(昭和5年)兄の重義が勤務していた村上駅の赤帽をモデルとした『赤帽平山氏』を制作、同作はその年の国画奨学賞を受賞。
同年に父親が死去するが、家業の十万堂は玩具店として営業再開する。
翌年、佐藤の友人である新発田市の郵便配達員をモデルとした『郵便脚夫宮下君』を制作。同作も国画奨学賞を受ける。
1932年年6月、足尾銅山を訪れる。1933年には長与善郎と出会い、その年の6月には梅原龍三郎が武者小路実篤らと発起人となり『佐藤哲三作品頌布会』を発足させた。
1934年、澤田貞雄が東京日日新聞に連載した小説『競争』の挿絵を描く。6月、佐藤は上野で開かれた「第4回新版画集団展」を観覧し、藤牧義夫の作品に感銘を受ける。
1935年、ドイツの女流版画家、ケーテ・コルヴィッツの作品『母子』から強い影響を受け、似た構図の作品『苦悩』を制作する。9月13日に新発田大火が発生し、十万堂も被害を受けたが、多くの作品は難を逃れた。


蕗谷虹児

1898年 (明治31年) 12月2日、新潟県北蒲原郡水原町 (現・阿賀野市) 生まれ。新潟県新発田町 (現・新発田市) 出身。本名は一男といった。
蕗谷虹児の自伝小説「花嫁人形」「乙女妻」によれば、父親・傳松 (でんまつ) は新潟市 (現・新潟市中央区)、新潟島の信濃川河口付近にあった三傳小路に土蔵と屋敷を構えた北前船の廻船問屋「三傳 (さんでん)」当主の次男であったが、当主が廃業し、新発田町にて活版印刷所を開業。
傳松と職人達は印刷汚れを落とすため、近所の湯屋、広小路の「有馬の湯」に毎晩通うが、番台に座っていた京人形のような美貌の看板娘・新保エツと傳松が恋仲になり、水原町へ駆け落ちする。
1898年 (明治31年) 12月2日、傳松19歳、エツ15歳の時に水原町にて虹児を出産、傳松は活版印刷所を開業するが失敗。
1899年 (明治32年) 3月、貧困の末、新発田町の母親の実家である「有馬の湯」に虹児を預け、父母は新潟市東堀通 (現・新潟市中央区東堀通) の堀に面した二間きりの借家に引越する。父は新聞記者 (新潟中央新聞、現・新潟日報) へ転身。
1902年 (明治35年) 3月2日、弟 (次男) 虎男が新発田町の実家で生まれる。3月末、父親が実家まで迎えに来て、一家で新潟市東堀通に引越。 東堀前通八番町付近には、当時から吹屋小路 (ふきやこうじ) が存在している。
家族4人となり生活に無理が生じ、父が柏崎の新聞社の植字工 (印刷工) に転身。一家で柏崎の裏通りの二軒長屋に一年暮らす。病弱な母親がこの頃から寝たり起きたりの生活となり、虹児が使いをするようになる。しかし、父親の酒癖のために生活は苦しく、柏崎での生活を諦める。
父親は、才能を惜しむ先輩の口添えで再び新潟市営所通 (現・新潟市中央区営所通) の新潟中央新聞に入社。一家で営所通の堀端近くにあった新潟中央新聞社の物置きの中二階に引越。父親がアルコール中毒の禁断症状で苦しむようになるが、この頃の虹児は、貧しい生活でも父親の酒癖さえなければ天国だったという。
1905年 (明治38年) 4月、虹児は西堀小学校 (のちの新潟市立大畑小学校、現・新潟市立新潟小学校) に入学。
1907年 (明治40年) 2月19日、弟 (三男) 春男が生まれる。同年、営所通の家で父の素人ばなれした絵と母が描く「たこ入道」の絵を見る。この時の母による絵の指導がきっかけで虹児は絵を描きはじめる。
1908年 (明治41年) 9月4日、営所通の家に居た一家は新潟大火で焼け出される。 新発田町の「有馬の湯」からほど遠からぬ掛倉町 (現・新発田市中央町) 裏路地の七軒長屋に引っ越し、父は新発田町の新聞社に就職。虹児は新発田町の新発田本村尋常小学校 (通称・三ノ丸小学校、現・新発田市立外ヶ輪小学校) に転校する。 この頃から竹久夢二の絵を透写する。 夢二の画風が母親をイメージさせたためだった。 母親は「有馬の湯」の横にある兄嫁の髪結いの店を手伝ったが、胃病で大量吐血し、三か月間床につく。
1911年 (明治44年)、新発田本村尋常小学校を卒業する。父親が新津の「岩越新報」の主筆として迎えられることになり、母親を新発田町に残し、虹児も新津で暮らす。新津尋常高等小学校に入学する。
仕事がうまくいかず、再び父親は新潟中央新聞の後身に迎えられ、主筆となる。一家は大伯父の家があった新潟市白山浦 (現・新潟市中央区白山浦) に引っ越す。病弱な母親を支えながら近くの白山公園 (白山神社) を散歩し、公園から望む雄大な信濃川の景色を母子で眺めることが、虹児にとって何よりも幸せな時間であった。
1911年 (明治44年) 8月17日、母エツは虹児12歳の時に28歳の若さで死去。虹児の記憶に残った若く美しい母への追慕の情が、後の作風に大きな影響を与えた。
母親の死により家族は離散。伯父の世話で新潟市 (現・新潟市中央区) の有名な株式仲買店の新潟支店にて丁稚奉公をするが、翌年突然倒産したため、新潟市 (現・新潟市中央区)古町地域の「鶴木洋服店」で丁稚奉公。その後、父親の紹介で印刷会社「公友社」に移り丁稚奉公、月給で毎晩南画を学ぶ。
1912年 (大正元年)、貧しいながらも恵まれた絵の才能が桜井市作「公友社」社長 (のちに爆弾市長と呼ばれる新潟市長) の目にとまり、古町地域出身の日本画家の尾竹竹坡 (おたけちくは) の弟子になるよう勧められ、14歳で上京。内弟子として竹坡のもとで日本画を約5年学ぶが、父親の仕事の関係で樺太へ渡ることになり、それを機に放浪画家の生活を送ることになる。
1919年 (大正8年)、竹坡門下の兄弟子の戸田海笛を頼って上京。戸田海笛の紹介で日米図案社に入社、図案家としてデザインの修行をする。
1920年 (大正9年)、22歳、竹久夢二を訪ねる。夢二に雑誌『少女画報』主筆の水谷まさるを紹介され、蕗谷紅児の筆名により同誌へ挿絵掲載のデビューを果たす。吉屋信子の少女向け小説『花物語』に描いた挿絵が評判になり、10月創刊の講談社『婦人倶楽部』のカットなど挿絵画家としての仕事が増え始める。
1921年 (大正10年)、竹久夢二の許可を取り、虹児に改名。朝日新聞に連載の吉屋信子の長編小説『海の極みまで』の挿絵に大抜擢され、全国的に名を知られるようになる。
『少女画報』『令女界』『少女倶楽部』などの雑誌の表紙絵や挿絵が大評判で時代の寵児となり、夢二と並び称されるようになる。
1924年 (大正13年) 2月、『令女界』に発表した詩画「花嫁人形」は、後に杉山長谷夫の作曲で童謡にもなり、虹児の代表作となった。他にも9冊の詩画集を出版。挿絵に感傷的な余韻を残し、見る者に描き手の想いを伝える絵を手掛けたいと、自らの絵を「抒情画」と名付けるようになる。
1925年 (大正14年)、挿絵画家としての生活に飽き足らず、フランスのパリへ留学。苦学の末、フランス国民美術協会(ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール)のサロン、サロン・ドートンヌ等への連続入選を果たし、またフランス画壇で活躍する日本人画家の藤田嗣治や東郷青児等と親交を深め、画家としての地歩を固めつつあった。
1929年 (昭和4年)、東京の留守宅の経済的破綻により急ぎ帰国。借金返済のため、心ならずも挿絵画家の生活に戻るが、パリ風のモダンな画風は一世を風靡した。虹児を世に送り出した夢二の柔らかい画風とは対照的に、このころの虹児の挿絵はシャープかつ洗練された線で描かれ、都会的な香りに満ちていた。
1935年 (昭和10年)、詩画集『花嫁人形』出版。しかし、やがて戦争に突入し戦時色が強くなると、虹児の絵は時勢に合わず、制作を休止。ただし、1943年 (昭和18年)、「航空報国」を掲げる大日本航空美術協会主催の第3回航空美術展に招待作品として戦争画『天兵神助』(個人蔵) を出品している。
終戦後は、復興された各誌に執筆を再開。1953年(昭和28年)の小学館の絵本や、1956年(昭和31年)の講談社の絵本など、20冊を越える絵本の挿絵で子供に親しまれた。
1954年 (昭和29年)、日本初の本格的アニメーションスタジオ「東映動画スタジオ」の設立に参加。
1958年 (昭和33年) 4月5日、東映動画初のカラーアニメーション映画『夢見童子』を監督(演出・原画・構成)。 『夢見童子』は初の長編カラーアニメーション映画『白蛇伝』公開に先駆け、テスト的に製作された短編アニメ作品の一つであり、東映動画初期のアニメ技術蓄積に寄与した。虹児は『夢見童子』製作にあたり、監督業だけでなく宣伝広告のデザインまで、一人何役も担当した。このマルチなプロデュース・スタイルは、のちの宮崎駿のスタイルの先駆けとなった。 なお、映画『白蛇伝』に感動して東映動画に入社した一人が宮崎駿である。さらに、手塚治虫も自伝『ぼくはマンガ家』にて、映画『白蛇伝』に刺激を受けて自らのアニメーション製作を決意したと記載している。 その後、虹児は監督業を務めることはなく、考証担当としてアニメ製作に関わるが、高畑勲ら若いスタッフ達から「蕗谷先生」と呼ばれ、親しまれることを喜びとし、仕事が無い日も東映動画に通い続け指導した。
1966年 (昭和41年)、虹児の画業50年記念として当時の新潟市長らが発起人となり、虹児の希望で新潟市中央区西堀通にある現在のイタリア軒傍に、『花嫁人形』の詩碑が建立。除幕式には虹児夫婦も招かれ、虹児の後輩大畑小学校の児童40人が『花嫁人形』を歌い祝った。 詩碑には「少年期このイタリア小路近くに赤貧の中ですごしました。15歳で虹児を生み、29歳の若さで逝った薄幸の母の面影を、西堀を行き交う舞妓 (※古町芸妓) の姿に求めて、しばしばイタリア軒前にたたずんでいた虹児の想いがこの詩を生み、杉山長谷夫の旋律にともなわれて、哀愁に満ちた不朽の名曲として今に歌われています。」とある。
1968年 (昭和43年)、三島由紀夫の若き日の小説作品『岬にての物語』(牧羊社、署名入り豪華限定本) に、彩色画が挿絵装丁に用いられ、三島も虹児へのオマージュを記した。
1973年 (昭和48年)、75歳、第5回蕗谷虹児個展が新宿、小田急百貨店画廊で開催。在りし日の母親との想い出を描いた新作『西堀通り』を発表。虹児最後の新作展となる。
1979年 (昭和54年)、中伊豆温泉病院で急性心不全により没した。享年80歳。 虹児の死後、机の中に残されていた手記には、身体の弱かった母親が自分と弟達を産んだ負担で結果的に早逝してしまったことへの懺悔(ざんげ)と、あの世から再び母親が自分を迎えに来てくれることを願う、晩年の虹児の想いが綴られていた。
1987年 (昭和62年)、新発田市の虹児の母方実家が近くにあった新発田市役所の隣に「蕗谷虹児記念館」が建設された。
また、『花嫁人形』を歌い継ごうと、1998年から毎年同市にて、「全国『花嫁人形』合唱コンクール」が行われている。


横山操

1920年 ‐ 新潟県西蒲原郡吉田町(現・燕市)に町医者の私生児として生まれる。その後、横山家に養子に出される。名前の“操”とは出生と関係があるとする説もある。
1934年 ‐ 洋画家を志し上京し、洋画家の弟子となる。ポスターや看板描きなどで生活を立てながら洋画を学ぶ
1938年 ‐ 第25回光風会展に油彩画の『街裏』が入選するもその後、師の勧めにより日本画に転向する
1939年 ‐ 川端画学校日本画部の夜間部に入学する
1940年 ‐ 当時もっとも新表現に先取的存在であったとされる青龍社(川端龍子が中心的人物の会)の主催する第12会青龍展に『隅田河岸』が入選。しかし、その後徴兵・召集される。
1945年 ‐ シベリア抑留に遭う。カザフスタン辺りで石炭採掘の工員として強制労働をし、そのときの情景や想いなどが、後の横山の作風に影響されたとされており、『カザフスタンの女』等に当時の印象を色濃く残している
1950年 ‐ 復員し、帰国する。戦争で中断していた制作を再開する
1951年 ‐ 杉田基子と結婚する
1956年 ‐ 初の個展を銀座で開催する。『炎炎桜島』で青龍賞を受賞
1957年 ‐ 東京都台東区谷中の五重塔が無理心中の男女によって放火、炎上。消失後のその様子を描く(『塔』)
1960年 ‐ 自らの作品を焼却する。またこの頃から『赤富士』の連作が人々の人気を集め、一躍有名画家となる
1962年 ‐ 日本画の新たな表現を目指し、青龍社を脱退する
1963年 ‐ これまでとは違う新生横山としての第一回個展・越後風景展を開催する
1966年 ‐ 多摩美術大学日本画科の教授に就任し、多くの日本画家を育てる。そのときに「被害者になるな、加害者になれ」という自らの生き様を彷彿とさせるような言葉で指導し、また、生徒達に人望があった
1971年 ‐ 酒の飲みすぎにより(大変な酒豪でもあった)脳卒中で倒れ右半身不随となる。回復後は左手で制作を続けた
1973年4月1日 ‐ 新作の制作途中に没(享年53)。


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