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島根県について

島根県の県名は、県庁の置かれた松江城周辺が旧島根郡(嶋根郡)に属していたことによる。嶋根の名は『出雲国風土記』での八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)の命名によると伝えられる。なお、松江城下は松江城が立地する島根郡(大橋川以北。橋北)と意宇郡(大橋川以南。橋南)にまたがる。

島根県は日本海に面しているため、水産業が盛んです。
中国、四国地方で最も漁獲量の多い県です。
中でもベニズワイガニ、ブリは全国一位、アジは島根県が二位を占めています。
また、古くから鉄鋼技術が発達し、鉄鋼産業が盛んに行われています。
そのため、鉄鋼関連の有名企業も多数集積している県です。
更に石見銀山、出雲大社などをはじめ、松江市、浜田市など風光明媚な観光地も多く、観光業も年々上昇の兆しをみせています。
その他、公共工事の比率が全国二位であり、建設業も大きな役割を担っています。

島根県は旧国名が、出雲国、石見国、隠岐国であったことから現代においても、出雲地方、石見地方、隠岐地方と三つの地域に分類されることが多いです。
出雲地方は、スズキ・ヨシエビ・ウナギ・ワカサギ・シラウオ・コイ・ヤマトシジミの宍道湖七珍や出雲そばが名物として挙げられ、松江城や出雲大社等が位置しています。
石見地方は、石見焼や石州瓦の他、三瓶山や世界遺産である石見銀山が位置しています。
隠岐地方は、海に囲まれているため漁業が深く根付き、さらに隠岐ジオパークとして世界塩パークネットワークに加盟しています。
また、古来から遠流の島として知られていて後醍醐天皇が流されてきた等々、島根県本土とはまた違った文化や歴史を持っています。
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画家について

・小豆澤亮一
1848年(弘化5年/嘉永元年)、出雲国松江城下(現在の島根県松江市)に豪商・小豆澤浅右衛門の長男として生まれる。日本画を学んだ後に上京し、写真家・洋画家の横山松三郎に弟子入りした。横山は白黒写真に油絵具で着色してカラー化する「写真油絵」の考案者であったが、1884年(明治17年)に横山が死去した後は小豆澤がこの技法の継承者となる。

1885年(明治18年)7月1日、専売特許条例が施行された。小豆澤は7月9日に写真油絵の技法で特許を出願し、10月7日付で権利を取得する。この技法は通常の描画に比べて細密な作業が求められるため視力の低下に悩まされた。しかし、特許権(当時の法律では取得から15年)の満了を待たずして1890年(明治23年)に急逝し、技法の継承者もいなかったため写真油絵の技術は顧みられることもなく廃れてしまっている。

2015年(平成27年)10月、江戸東京博物館で「浮世絵から写真へ -視覚の文明開化-」と題する特別展が開催され、初代東京府知事・烏丸光徳の肖像画など小豆澤の写真油絵が広く紹介された。

・安野光雅
1926年(大正15年)3月20日、島根県津和野町の旅館を営む家に生まれる。1940年(昭和15年)山口県立宇部工業学校(現・山口県立宇部工業高等学校)採鉱科に入学。1944年1月、宇部工業学校を繰り上げ卒業、住友鉱山に就職し忠隈鉱業所(飯塚市)へ。1945年4月応召、香川県王越村(現坂出市)にて上陸用舟艇の秘匿場建設に従事。復員後、1946年、敗戦直後の混乱期に無資格のまま山口県徳山市(現・周南市)で小学校の教員を務める。のち山口師範学校(現・山口大学教育学部)研究科を修了し、1949年(昭和24年)に美術教員として上京。約10年間三鷹市の三鷹市立第五小学校や明星学園や武蔵野市立第四小学校で教師を務めるかたわら、玉川学園出版部で本の装幀、イラストなどを手がけた。明星学園・国語部、教育科学研究会・国語部会などによる日本語指導(言語の教育)のテキスト『にっぽんご』シリーズの装幀も手がけたのもこの頃である。この小学校教諭時代の教え子に後の筑摩書房取締役の編集者・松田哲夫がおり、そのつながりで同社の多数の本の装丁をしている。藤原正彦も教え子であった。二紀会に所属していたが、食べるための仕事のために出品できなくなり、1960年代に退会。

35歳のとき教師を辞して絵描きとして自立。1968年(昭和43年)、42歳の時に刊行された最初の絵本『ふしぎなえ』(福音館書店)で絵本作家としてのデビューを果たす。『ふしぎなえ』は、1961年にフランスを旅したときに目にしたエッシャーの絵に大きな影響を受け不可能図形の不思議な世界を描き、世界中で評判となった代表作である。エッシャーからの影響についてはエッセイ「『ふしぎなえ』について」(「空想工房(平凡社)」)で自ら「エッシャーの作品に魅せられて呪いにかかった」旨を述べている。

その後次第に世界的評価が高まり、絵本は世界各国で翻訳された。文学にも詳しく、著作は多数あり、画家としても数多くの作品を発表し、司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の装画も担当した。大阪府立国際児童文学館(1984年開館)のシンボルマークも担当。

2001年春に、故郷津和野町に多くの作品を、常時展覧する「安野光雅美術館」が開館した。2011年夏に神奈川近代文学館で、展覧会「安野光雅の世界」が開催。2015年夏に東京の東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館で、展覧会「旅の風景 安野光雅 ヨーロッパ周遊旅行」を開催。

2020年12月24日、肝硬変のため死去。94歳没。

・石橋和訓
1876年:島根県飯石郡反辺村(現・出雲市佐田町反辺)の農業石橋熊三郎、マツの長男として生まれる。
1883年:反辺第二尋常小学校入学。幼少から画道を須佐神社神官などから指導された。掛合高等小学校に卒業後は自宅で農耕の傍ら今市町(現・出雲市)の永瀬雲山に南画を習う。
1892年:松江に出て県立師範学校教師の後藤魚州に南画を学ぶ。
1893年:飯石郡長・中村秀年、須佐神社宮司らの勧めにより意を決して上京。千家尊福邸に一時仮住まいし松平直亮、千家尊福らの推薦を得て南画家滝和亭塾に入門、内弟子となり本格的に日本画修行を始める。
1895年:東京美術協会展に漢画を出品、2等賞を受ける。
1901年:広島砲兵第5連隊入隊。
1903年:イギリスに渡りジェー、サーゼント及びゼーらに師事。
ローヤル・アカデミーを卒業し1918年帰国した。
1908年の第二回文展に『ものおもい』を1909年の第三回文展に『美人読書』を出品してともに三等賞を受けた。
1918年:一時帰国。のち再び渡英し帰国後は帝展の審査員となった。

・石本正
島根県那賀郡岡見村(現浜田市三隅町)出身。島根県立浜田中学(現:島根県立浜田高等学校)卒業。京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学したが在学中に徴兵され中国に渡る。復員後、人物や風景を描く。1944年(昭和19年)9月、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)日本画科卒業。1947年(昭和22年)第3回日展で「三人の少女」が初入選。1950年(昭和25年)より創造美術、新制作展に出品し、1951年(昭和26年)「旅へのいざない」など四度新作家賞を受賞。1956年(昭和31年)新制作協会会員。1970年(昭和45年)京都市立芸術大学教授となる。1971年(昭和46年)日本芸術大賞、芸術選奨文部大臣賞受賞。1974年(昭和49年)創画会会員。2015年(平成27年)9月26日午前11時58分、不整脈による心停止のため自宅で死去した。95歳。

・小林敬生
1944年1月26日:島根県松江市に生まれる。
1945年:広島県豊田郡(現:東広島市)豊栄町吉原に転居。
1954年:滋賀県大津市に転居。
1962年3月:滋賀県立瀬田工業高等学校を卒業。同年4月 日本新薬株式会社に入社。
1963年3月:日本新薬株式会社退社後、清田雄司に絵画指導を受ける。
1964年4月:インターナショナルデザイン研究所(京都3期) に入所。
上野伊三郎、上野リチ(Felice Rix-Ueno)、平田自一郎等に指導を受ける。同期に陶芸の大道正男等。
1968年3月:インターナショナルデザイン研究所専攻科を修了。
同年12月:上京。
版画集『日本之社会運動・明治』(私家本 板目木版)
1969年:洋画家 宮永岳彦に師事 油絵や板目木版に取り組む。
1975年:独学で「木口木版」による制作を開始。
1978年:第2回日本現代版画大賞展にて、「遺された部屋 No.6・A1」「遺された部屋 No.8」で優秀賞を受賞。
1979年:版画集『午前3時の無言歌』(10点セット、シロタ画廊)刊行。
木口木版作家グループ「鑿の会」(柄澤齊ら)に参加。
1981年:日本版画協会会員に推挙される。
1982年:第2回ソウル空間国際版画ビエンナーレにて、「夜明け I」「夜明け II」で大賞を受賞。
1984年:版画集『静止した刻』(8点セット、シロタ画廊)刊行。
1987年:「蘇生の刻 -S62・8-」(タテ90.0xヨコ120.0cm)発表。
1989年:第19回現代日本美術展にて、「蘇生の刻 -飛翔・A-」で、ブリヂストン美術館賞を受賞。
第3回和歌山版画ビエンナーレにて、「蘇生の刻 -S63・12-」(タテ90.0xヨコ156.0cm)で優秀賞を受賞。
1990年:第1回高知国際版画トリエンナーレにて、「蘇生の刻 -飛翔-」が佳作に選ばれる。
1991年:第2回大阪トリエンナーレにて、「蘇生の刻 -H3・3-」(タテ110.0xヨコ270.0cm)で特別賞を受賞。
1993年1月:個展『小林敬生展-木口木版1977~1992』(於:銀座和光ホール)開催。
「蘇生の刻-白い朝(群舞)」(タテ167.0xヨコ260.5cm)が銀座和光に展示される。
『小林敬生木口木版画 1977?1992』(株式会社ギャラリーステーション、ISBN 978-4915478505)刊行。
第2回高知国際版画トリエンナーレにて、「蘇生の刻 -白い朝・92-12-」 で大賞を受賞。
1997年 多摩美術大学美術学部絵画学科版画専攻教授となる。
第8回大阪トリエンナーレにて、「蘇生の刻 -群舞97・3D-」で銀賞を受賞。
1998年:「蘇生の刻-S62.8-」を、文化庁が買上げ。
2003年:第1回北京国際版画ビエンナーレにて、「蘇生の刻 -群舞97・3B-」で銅賞を受賞。
メキシコ・グァナファト州立大学で特別講義・実技指導。
2005年:滋賀県立近代美術館において、「滋賀の現代作家展 - 小林敬生 木口木版1977-2004」開催。
2006年:秋の褒章で、紫綬褒章を受章。
2007年:第13回山口源賞にて、「白い朝又は早暁 -塔05・03C-」(木口木版)で大賞を受賞。
2011年:中国美術学院で特別講義・実技指導(中国杭州市)。
10月『小林敬生-木口木版画全作品1976?2011-』(阿部出版、ISBN 978-4872423280)刊行。
版画集『蘇生の刻 -楽園(エデン)-』(6点セット、シロタ画廊)刊行。
2013年10月25日-11月10日、「陽はまた昇る 小林敬生-版画1967~2012-展」(於:多摩美術大学美術館)開催。
2014年4月:多摩美術大学美術学部絵画学科版画専攻、名誉教授となる。
2016年:第8回レオナルド・シャーシャ記念版画大賞(イタリア)で大賞を受賞。
2018年:詩画集「宙(そら)へ」(シロタ画廊、詩篇:建畠哲、木口木版:小林敬生)刊行。
2019年:中央美術学院で特別講義・実技指導(中国北京市)。旭日小綬章受章。

・野々内保太郎
明治35年(1902)島根県東出雲町で生を受け、西山翠嶂に師事し京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)を卒業。「祥雲」という号を名乗っていたが、1932年から本名の保太郎へ改め、その翌年の1933年第13回帝展に「みやまの春」が初入選。以来、帝展・文展・日展に28回の入選を重ねる。1959年に皆川千恵子らと共に「牧人社」結成。画風は、細密かつ華麗な花鳥画を得意としていた。息子の、野々内良樹、井上稔、野々内宏の3人も絵の道に進み日本画家として活躍している。

1902年 島根県八束郡東出雲町出雲郷(現・松江市)に生まれる。
1935年 第13回帝展で「みやまの春」が入選。
1959年 牧人社結成。

・橋本明治
1929年より帝展に出品、旧制浜田中学から、1931年東京美術学校日本画科卒、松岡映丘に師事。1937年新文展で特選。1940-1950年法隆寺金堂壁画模写に従事。戦後、日展に出品。1948年創造美術結成に参加するが、後に脱退して官展に戻る。1952年日展審査員。1958年日展評議員。1969年日展理事。1971年日本芸術院会員。1972年日展常務理事。
1974年に第25回NHK紅白歌合戦のゲスト審査員となる。
日本画家橋本弘安の伯父にあたる。
1991年、急性肺炎のため死去。墓所は東京都文京区小石川三丁目の伝通院。

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