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長野県について

長野県は日本の本州中央にある県で、新潟県、群馬県、埼玉県、山梨県、静岡県、愛知県、岐阜県、富山県の8つの県と接しています。
県内に分水嶺があり、日本海側に流れる河川としては千曲川や姫川など、太平洋側に流れる川としては、木曽川や天竜川があります。
長野県は全体的に山岳地域が多く、盆地や谷に人が集中して住んでいるのが特徴ですが、移動するのには峠を越えることが必要な場合も多いです。

長野県といえば、自然が多く観光客が多いことでも有名です。
軽井沢や白馬、上高地、志賀高原などの高原や、野沢温泉や白骨温泉、上諏訪温泉、昼神温泉などの温泉、また、善光寺や松本城といった歴史的な観光資源もあります。
産業といえば、精密機械も有名で、時計や光学製品、近年では電子部品なども製造されてます。
交通網は、鉄道は北陸新幹線や中央本線、篠ノ井線などが、中央自動車道、上信越自動車道、長野自動車道などが県内の各都市を結んでいます。

7 世紀に建立された善光寺のご本尊は一般非公開の「秘仏」で、それを模した前立本尊が 7 年に一度公開されます。
近くには、温泉やスキー場がある日本アルプスが広がっています。
この一帯にある野沢温泉、白馬、広大な志賀高原は、1998 年冬のオリンピックの会場となった場所です。

画家について

有賀常近

師系・経歴は一切不明。長野県常楽寺所蔵の「三浦屋図」という絵馬を描いたことが知られるのみであり、初代鳥居清信の門人ともいわれているがそれも定かではない。
この絵馬は享保15年(1730年)、上田市海野町の人々によって常楽寺に奉納されたもので、画風は鳥居派風とされる。


歌川国直

初代歌川豊国の門人。本姓は吉川(きっかわ)または芳川、名は鯛蔵、後に四郎兵衛。一鳳斎、一楊斎、浮世庵、独酔舎、柳烟楼、後素園、写楽翁、写楽斎、東雲亭と号す。
戯作者の春亭三暁の弟で信濃国の生まれ。作画期は文化9年(1812年)から天保の頃にかけてで、初めは明画を学んだが浮世絵に転じて役者絵や美人画を描き、為永春水の人情本など200冊以上に及ぶ版本の挿絵を手掛けた。
他に肉筆美人画も残している。晩年は画業を廃した。享年62。墓所は八王子市大横町の極楽寺、法名は高琇琮運居士。門人に竹斎龍子、歌川直貞、歌川直房、歌川直重らがおり、同門の歌川国芳に影響を与えた。


小穴隆一

北海道函館市に生まれ、長野県塩尻市の祖父のもとで育つ。父は中山道洗馬宿(現在の塩尻市洗馬)の旧家である志村家の出だった。
旧制開成中学校中退。太平洋画会研究所にて中村不折に師事。二科展には第1回から出品。のち春陽会に移る。
1919年、瀧井孝作に連れられて東京・田端の芥川龍之介邸を訪れ、以後芥川の無二の親友となる。誕生日が芥川の母の命日だったため、芥川から「僕の母の生まれかはりではないかと思ふよ」と言われていた。
1921年の『夜来の花』以降、芥川の著書の装丁を担当。1922年、親友芥川龍之介をモデルに『白衣』を制作、この作品を二科展に出品して話題となる。同年、芥川は次男が誕生したとき、隆一の名に因んで多加志と命名した。
1923年、脱疽のため右足を足首から切断。以後、義足を使用するようになる。
1926年、芥川が神奈川県鵠沼の旅館東屋の貸別荘「イ-4号」を借りると、隣接する「イ-2号」を借りて住む。「蜃気楼--或は「続海のほとり」--」に出てくる「O君」が小穴のことである。翌年、芥川が田端に引き揚げると、小穴も東京に戻った。
1927年、芥川が子供たちに「小穴隆一を父と思へ。従つて小穴の教訓に従ふべし」との遺書を残して自殺。以後、芥川の遺族と親しく交際。しかし芥川の甥である葛巻義敏とは険悪な関係だった。
1956年、著書『二つの絵』(中央公論社、1956年)の中で芥川が私生児だったという説を発表し、波紋を呼ぶ。その他の著書に『白いたんぽぽ』(日本出版協同、1954年)などがある。
このほか、画家としては宮沢賢治や坪田譲治の作品に挿絵を描いた。


加々美豊

旧制松本中学校(現長野県松本深志高等学校)を卒業。教員を勤めた後、画家となる。水彩による風景画と、ビー玉をモチーフにした抽象画で知られる。教員時代より抽象画と風景画を発表し始め、国内だけではなく、海外においても数多くの賞を受賞した。キューバに絵画を寄贈した際に、大使より勲章を受けている。
実弟の加々美益次は、東京大学山岳部所属中に、第2次南極地域観測隊に最年少の24歳で参加し、その後山下汽船(現商船三井)役員を経て、内航大型船輸送海運組合会長。



川上冬崖

文政11年(1828年、文政10年(1827年)生まれとも言われる)、信濃国高井郡松代藩領福島新田村(現長野県長野市)に山岸瀬左衛門の末子として生まれる。母の実家である墨坂神社宮司方から須坂藩藩校立政館に学ぶ。弘化元年(1844年)江戸に出て上野寛永寺東叡院の小従となり、同院に出入れしていた円山四条派の絵師大西椿年に写生画を学んだ。
嘉永4年(1851年)に幕府御家人株を購入、川上仙之助の養子となり、以後川上姓を名乗る。幕臣となり蕃書調所へ出仕、安政4年(1857年)2月に蕃書調所句読教授出役、同年7月に蕃書調所絵図調出役命ぜられ、その直後長崎海軍伝習所に赴く。そこでオランダ書の翻訳を通じ遠近法、製図、測量術などを研究し、石版画などの模写を行う。
文久元年(1861年)、画学局が開設されると画学局出役、翌年同局筆頭になり、少し後に入局する高橋由一と共に、博物図譜制作にあたるなどの活発な活動をみせる。慶応元年(1865年)、將軍徳川家茂に従って上京、技術者として製図・写真撮影に従事した。
明治維新後は明治2年下谷御徒町の700坪に及ぶ自らの屋敷内に画塾「聴香読画館」を開く。そのカリキュラムや塾生について正確な記録は残っていないが、小山正太郎、松岡寿、印藤(千葉)真楯、川村清雄、中丸精十郎、松井昇、浦井韶三郎らを指導する。
また、地理書「輿地誌略」の挿絵を銅版画で描いたり、石版技術を研究し「写景法範」という習画帳や西洋画の一般指導書「西画指南」を刊行、洋画法の普及に功績を残す。明治9年(1876年)には明治天皇の北海道行幸に随行して、2点の油画を制作献納している。ただし、冬崖の油彩画は書物から学んだ技法を中心とするもので、西洋画と呼びうる作品は多くは残っていない。
そもそもタブローの基準作が定まっておらず、真贋の鑑定が難しい。その一方で、冬崖は伝統的な日本画を多く描き、下谷の文人サロン「半閑社」のメンバーと親しく交遊し、聴香読画館も当初は南画を学ぶ者が多かった。伸びやかな筆致による花鳥画の優品を見る限り、洋画より南画に才能を持っていたようだ。明治10年(1877年)の第一回内国勧業博覧会では美術部の審査主任を務めており、これは冬崖が伝統美術と西洋美術の両方に通じていたことからの人選だと考えられる。
一方、明治5年10月より陸軍兵学寮に出仕し、明治11年(1878年)からは参謀本部地図課に勤めた。明治14年(1881年)第二回内国勧業博覧会でも審査官を務めるも、熱海で自殺。部下の起こした清公使館への地図密売事件の責任を取ったとされるが、詳細は不明。


菊池契月

1879年(明治12年)11月14日、長野県下高井郡中野町(現在の中野市)で素封家の細野勝太郎・はつ夫妻の次男として生まれる。少年時代から絵を描くことを好み、1892年(明治25年)、13歳で山ノ内町の渋温泉在住の南画家・児玉果亭に入門、「契月」の画号を与えられる。
小学校高等科卒業後は呉服屋、製糸工場、町役場で勤務し、そのかたわら中野町に滞在中であった高島雪松に私淑。やがて画家として立つことへの思いが止み難いものとなり、1896年(明治29年)、妹の結婚式のどさくさに紛れて同郷の友人・町田曲江とともに故郷を出奔、京都に出て南画家・内海吉堂に入門。しかし、二人はその画風を受け入れることができずにいた。
これを察してか二人の画力と性格を見抜いた吉堂は、契月に京都の日本画家・菊池芳文を紹介。翌1897年(明治30年)に、18歳でのその門下に加わった。因みに町田曲江は寺崎廣業の門下となった。
大正期に入ると、それまでの歴史上の故事に取材した作品にかわって、身辺の風物を題材とした作品が主流を占めるようになり、1913年(大正2年)の『鉄漿蜻蛉』(おはぐろとんぼ)、1914年(大正3年)の『ゆふべ』、『媼』、1916年(大正5年)の『花野』などが生み出された。同じ年に文展の永久無鑑査作家、翌年には絵画専門学校の助教授に昇進している。
1918年(大正7年)に師であり、義父でもある芳文が死去すると、師の後継者として「菊池塾」の主宰者となり、同年には絵画専門学校の教授、さらに文展の審査員にも就任した。文展が翌年帝展に改組されたのちも、引き続いて審査委員をつとめている。
このように、画壇での地位を着実に高めていきながらも、1920年(大正9年)の『少女』では、それ以前の作品に見られなかった鮮烈な色彩、不気味なまでに生々しい写実的表現が見られ、師匠から受け継いだ四条派の伝統を墨守するだけでなく、それを踏まえたうえで新しい独自の画風を確立しようとする姿勢が窺える。
1922年(大正11年)、京都市から美学者の中井宗太郎、画家の入江波光とともにヨーロッパへの視察出張に派遣された。1年ほどに及んだ欧州滞在の間、フランス、イタリアを中心に各地を訪問、特にルネサンス期のフレスコ画や肖像画に深い感銘を受け、チマブーエやジョットのいくつもの作品を模写した。こうした経験によって古典的作品の偉大さや価値を再認識し、帰国後も仏教美術・大和絵・浮世絵の諸作を研究し、収集した。こうした行動の成果は1924年(大正13年)の『立女』や、翌年の『春風払絃』となって結実。
前者では奈良時代の絵画からの影響、後者では浮世絵からのそれが、それぞれフレスコ画調の晴朗な色彩と融和している。こうした作風は1928年(昭和3年)の『南波照間』(はいはてろま)で到達点に達したとみなされている。この作品の完成には同年の沖縄旅行で受けた感銘も大きく関わっている。なおこの作品は1986年(昭和61年)4月に発行された「切手趣味週間」記念切手の図柄として採用されている。
昭和に入るころからは、こうした傾向の作品と並行して、均一でクールな線と抑制された控えめな色彩による白描画風の諸作が生み出されるようになり、作品に二つの系統が認められるようになる。こうした路線の最初は1927年(昭和2年)の『敦盛』で、1930年(昭和5年)の『婦女』、翌年の『朱唇』、さらにその翌年の『少女』がそれに続き、1933年(昭和8年)の『涅歯』(はぐろめ)で完成の域に達したと考えられている。
契月はこの前年の1932年(昭和7年)には京都市立絵画専門学校と京都市立美術工芸学校両校の校長となったが、この1933年にはそれらの職を退いて絵画専門学校専任の教授となった。またこの頃には若い女性の姿がしばしば画題となった。なかでも特筆すべきは、その当時の風俗に則って描かれた、1934年(昭和9年)の『散策』であろう。こうした作品の誕生には同時期の息子・一雄の結婚が大きく影響している考えられる。また同年12月3日には帝室技芸員となった 。
1936年(昭和11年)には絵画専門学校の教授を退官、その翌年には帝国芸術院の会員となったが、この前後の時期から当時の日本を巡る情勢を反映してか、倶利伽羅峠の戦いに取材した1935年(昭和10年)の『松明牛』、戦場での武士同士の交流を描いた、1938年(昭和13年)の『交歓』などといった、戦(いくさ)を題材とした作品が目立つようになる。
特に1941年(昭和16年)の日米開戦以降は、日本画家報国会による軍用機献納展や、帝国芸術院会員による戦艦献納展などといった展覧会に作品を出品し、地位と名声のある画家として、戦時下における銃後の志気高揚に協力した。1943年(昭和18年)の『小楠公弟兄』(しょうなんこう おととえ)も、皇室に対する忠誠心と、敵と果敢に戦う強い意志をあらわす偶像といわれていた武将・楠木正成の二人の息子の姿を描いている。
1945年(昭和20年)の終戦後は、同年の『富士出現』を最後として大規模な作品の制作からは遠ざかった。やはり同年の作である『小堀遠州』は水墨画風の洒脱や軽妙を見せるもので、画家が新たな境地を切り開いたことを示す。これ以後はこうした小品が創作の中心となったが、その背景には、持病の高血圧症の悪化による体調不良もあった。1947年(昭和22年)に日本芸術院の会員、1950年(昭和25年)には京都市立美術大学の名誉教授、1954年(昭和29年)には京都市の名誉市民となり、同年には平等院鳳凰堂の壁画模写の指導にあたった。
その翌年の1955年(昭和30年)9月9日、脳塞栓により自宅で死去、75歳だった。絶筆は『源氏物語挿図』。京都市美術館で市民葬が営まれ、死の翌年には京都と東京で遺作展が開催された。


木下靜涯

長野県上伊那郡上割村(現駒ヶ根市)出身。中沢尋常小学校卒業後、代用教員となる。17歳で上京し村瀬玉田に入門した。1907年に兵役のため陸軍戸山学校に入隊したが、翌年胸膜炎を罹患し除隊となり、京都に移り竹内栖鳳に師事する。

1918年に「東京芝皓会」の友人と共に日本を出てインドや中国に向かう途中で立ち寄った台湾で友人が腸チフスに感染し一時的に滞留することになる。各地転々と写生に赴き、1921、1923、1925、1926年にはそれぞれ台北と新竹で絵画展を開く。1923年に裕仁皇太子に「蕃界絵巻」を献呈し、名声を得て台湾で活動することを決意し台北州淡水郡に住み、「世外荘」と名付けた自宅は台湾や日本の芸術家、文化人が交流する場となる。
1927年から台湾の公式な展覧会における東洋画(日本画)の審査員となり、同じ長野県出身の郷原古統と共に台湾日本画協会や栴檀社などの団体に参与したが、郷原が1936年に日本に帰国すると、台湾の画壇における木下の地位はより重要となる。同年、結城素明、村島酉一らと第10回台湾美術展覧会の審査員となる。その後の台湾総督府美術展覧会の審査員も務め尽力する。
1946年、戦後は日本に帰国。戦前の台湾の絵画界が「地方としての色彩」を探っていく道筋とその発展の軌跡の上で、台湾籍画家に対して、創作面でも台湾本島という地元の特色を形にするよう積極的に奨励・支援し先導者としての重要な役割を果たした。晩年は息子の住む福岡県北九州市で過ごした。「好日好日又好日」という句を詠んで1988年没。


郷原古統

長野県東筑摩郡広丘村(現塩尻市)出身。堀江家に生まれ、伯父で広丘村村長の郷原保三郎の養子となる。母方の従兄弟に歌人の太田水穂がいた。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)を経て、1907年に東京美術学校日本画科に首席入学し、図画師範科に転じて寺崎広業に師事し、1910年に卒業。京都で美術教師として教壇に立った後、1917年に台湾に渡り、旧制台中中学校に赴任する。
1927年に設立された台湾美術展覧会で創立委員や審査員を務めた。1932年に「栴檀社」を主宰し、多くの門弟を育成した。1936年に父の住む兵庫県芦屋市に帰国し、1946年に塩尻に帰郷した。1962年には台湾時代の門弟によって郷里に顕彰碑が建立された。


小林勇

長野県上伊那郡赤穂村(現駒ヶ根市)の農家の五男として生まれる。実業学校で基礎教育を受けたのち家業を手伝っていたが、1920年、17歳で上京し、岩波書店の住み込み社員となり、岩波文庫の創刊に携わる。幸田露伴の愛顧を受ける。
岩波茂雄の女婿(次女小百合と結婚)となるが、1928年に独立し、三木清らの援助を受けて自身の出版社・鉄塔書院、新興科学社を興す。だが、後に経営不振となり、1934年に岩波書店に復帰。1937年には『回想の寺田寅彦』を編んでいる。1945年5月治安維持法違反の嫌疑で逮捕され拷問を受ける(横浜事件)が、同年8月29日釈放。
1946年岩波書店支配人、岩波映画を興し、のち岩波書店代表取締役、1955年初の随筆集『遠いあし音』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。1962年岩波書店会長、1972年退任。
中谷宇吉郎、初代中村吉右衛門など文化人たちとの交遊は幅広く、生涯にわたり書画を描き「吉井画廊」などで個展を十数回催した。数多くの随筆評伝などの著書を上梓している。晩年は、山梨県にある清春白樺美術館創設に関わった。


小山敬三

1897年(明治30年)長野県北佐久郡小諸町(現小諸市)荒町に生まれる。
1915年(大正4年)旧制長野県立上田中学校を卒業。
同年慶應義塾大学予科入学。
1916年(大正5年) 父の反対を押し切り、画家になるために慶應義塾大学理財学科を中退し、川端画学校で藤島武二に師事。
1920年(大正9年)島崎藤村のすすめで渡仏。アカデミー・コラロッシでシャルル・ゲラン(Charles Gu?rin)に油絵技法を学ぶ。
1928年(昭和3年)帰国。
1929年(昭和4年)神奈川県茅ヶ崎市にアトリエを構える。
1936年(昭和11年)有島生馬、山下新太郎らと一水会を結成。
1959年(昭和34年)連作「白鷺城」で日本芸術院賞を受賞。
1960年(昭和35年)日本芸術院会員。
1970年(昭和45年)文化功労者。
1971年(昭和46年)小諸市名誉市民称号受贈
1975年(昭和50年)文化勲章を受章。
同年に生まれ故郷の小諸市に代表作を寄贈し、村野藤吾設計による小諸市立小山敬三美術館が完成。
1985年(昭和45年)私財2億円を寄贈し小山敬三美術振興財団設立、中堅の洋画家を対象にした小山敬三美術賞の授与と油彩画修復技術家の留学奨励を行った、2006年に解散。
1987年(昭和62年)神奈川県で没す。
戦前にアンブロワーズ・ヴォラール『画商の思い出』を翻訳(新版は美術公論社)。


西郷孤月

筑摩県筑摩郡松本深志町(現・長野県松本市)に旧松本藩士・西郷績(いさお)の長男として生まれる。祖先は松平康長に仕えた三河西郷氏。幼少時に東京神田に引っ越し、明治12年(1879年)6月、東京高等師範学校附属小学校、明治17年(1884年)7月、本郷新花町の私立独逸語学校、明治19年(1886年)、神田錦町私立東京英語学校で学ぶ。語学を学ぼうとしたのは明治時代の風潮の1つで、語学を身に付けておけばなんとか生計が立つとの考えからであった。同年10月小石川餌差町の私立知神学校美術科へ入学して絵を習い始め、明治21年(1888年)、狩野友信に師事して日本画修業を始める。
明治22年(1889年)、英語学校で同窓だった横山大観や、下村観山らとともに東京美術学校の第一期生として学ぶ。校内臨時試験で、観山と共に乙組に編入された。同27年2月に絵画科を卒業、卒業制作の「俊寛鬼界ヶ島ニ決別ノ図」が宮内庁買上げとなる。この頃から橋本雅邦に見出され、同校研究科へ進む。翌年3月、岡倉覚三(天心)の推薦で近衛師団に従軍、日清戦争の模様を写し、9月に帰国、「朝鮮風俗」(東京芸術大学大学美術館蔵)を描く。一方、大観・観山らと古画を模写して、古典学習にも努めた。明治29年(1896年)、研究科修了後、すぐに助教授となる。同年9月から日本絵画協会共進会に出品し始め、毎回賞を得る。
明治31年(1898年)に岡倉覚三が東京美術学校を辞任するのに従い辞職し、日本美術院の設立に尽力、評議員に挙げられる。橋本雅邦門下の四天王、大観・観山・孤月・菱田春草のうち、最も将来を嘱望され、同年末雅邦の四女・榮と結婚。媒酌人は岡倉覚三であった。
しかし、ある酒席で雅邦と激突、以降、酒と遊蕩に明け暮れるようになり、それが要因となり1年を待たずに離婚してしまう。岡倉天心の子・一雄によると、新婚の妻の他に女があることが発覚して別れたため、日本美術院にいられなくなったという。暫く共進会への出品もなかったが、同僚の勧めで33年(1900年)4月より再び参加し始めるが、かつて下位だった春草らの優位に及ばなくなっていく。私生活の不行跡も加わって仲間たちも離れていき、明治36年(1903年)、弧月会をつくり渡欧資金を集めようとしたが、うまくいかず挫折する。同年6月木村武山と東北、北陸、北海道を巡遊したのち、中央画壇を離れ各地を放浪することとなる。明治39年(1906年)、大観と春草は孤月の才能を惜しみ、日本橋倶楽部の展覧会に参加させるが、もはや昔日の面影はなかった。その足跡は判然としないが、明治41年(1908年)11月には、叔父のいた神戸に滞在していたのがわかっている。しかし、明治44年(1911年)に盟友の春草が病死した後、何かが吹っ切れたように翌大正元年(1912年)に台湾へ渡り「台湾風景」(山種美術館、松本市美術館蔵)を描く。大陸への更なる進出を望んでいたものの、台北で胃腸カタルを発病し7月帰国するが、本郷駒込富士前町の自宅で急逝した。墓所は文京区本駒込の吉祥寺。


篠原昭登

1945年、終戦の年に旧制諏訪中学(現在の長野県諏訪清陵高等学校)を卒業。翌年、兄が戦地から帰還したのを機に、教師になるために上京。
1949年、東京第三師範学校美術科(現在の東京学芸大学)卒業。教員となり東京都練馬区立開進第二小学校に奉職。
1951年、洋画家の巨匠、田崎廣助に師事。田崎の研究会に弟子入りする。
1952年、第14回一水会に出品、初入選。以後毎年出品。
1954年、結婚。
1958年、第1回日展に初入選。以後毎年出品。
1964年、練馬区立谷原小学校に3年生の二学期に転入して来た現代美術家大竹伸朗を担任として受け持つ。
1968年、一水会会員推挙、
1977年、一水会委員推挙、
1984年、茅野市美術館協議委員になる。練馬区立南が丘小学校(南田中)を最後に退職。
1986年、茅野市美術協会会長になる。(1992年まで7期勤める)東京から茅野市へ帰住。月刊雑誌『短歌』角川書店(現在は角川学芸出版が発行)発行の表紙を1年間受け持つ。
1989年、茅野市芸術文化協会設立、副会長就任。(1993年まで4期勤める)
1993年、茅野市芸術文化協会会長となる。(1997年まで4期勤める)
1999年、一水会常任委員に推挙される。
2002年、長野日報に「里山」を連載する。(以後2004年まで続く。画集「里山-スケッチとその想い」にまとめられる。)
2004年、第36回日展審査員委嘱。
2005年、日展会員に推挙される。
2014年、一水会運営委員に推挙される。


島崎蓊助

島崎蓊助は、昭和時代の画家、共産主義運動家。父は作家の島崎藤村、兄は同じく画家の島崎鶏二。
藤村の三男として長野県で出生した。しかし、2歳時に母が死去、伯母に当たる藤村の姉の元に引き取られ、父・藤村の私生活も乱れていた(藤村の項目参照)など不幸のうちに成長する。14歳の時、兄・鶏二が川端画学校への進学を決めたとき、父の命により同行させられることを決定される。上京後は兄と共に画学校に通う中、村山知義と知り合いプロレタリア美術運動に参加、次第に共産主義運動への関心を高めていく。1929年にヴァイマル共和政期ドイツのベルリンへ留学するが、千田是也らと共にもっぱら共産主義運動に熱中していた。しかしナチスの台頭により次第に活動は困難を究め、1933年に帰国する。1944年に召集され、陸軍報道部員として中国戦線に送られる。前線では主に戦場のスケッチを描く作業に従事していた。
父の世話をしていた兄・鶏二が南方で戦死したため、戦後は父の残した膨大な資料や未発表の原稿の整理に追われた。1970年になってようやく筑摩書房『藤村全集』編纂へのめどが立ち、画業に復帰、1971年に東京・日本橋の柳屋画廊にて初めての個展を開く。これが生涯で最初で最後の個展となり、以後も制作は続けていたが公式に発表することはなく、主に『歴程』で宗左近らのスポンサーとして裏方の活動を続けた。
没後しばらく共産主義運動家として評価であったが、近年、ようやくその画業についても再評価する活動が始まっている。


島崎鶏二

1907年に藤村の次男として長野県に生まれる。早くから画家を志し、上京して川端画学校に進学。1929年にフランスに留学、アンリ・マティス、パブロ・ピカソを研究。1931年に帰国後は二科会を中心に出品し、1934年には特待待遇、1937年には正会員に推薦される。岡田謙三と共に当時の二科会の両輪とも言われたが、1943年に召集され、1944年、従軍先のボルネオ島にて飛行機事故により戦死。享年37。
画風は詩的で哀愁を帯び繊細、と評され、父・藤村の作風にも通じるものがあるとも言われる。
弟の蓊助も鶏二の影響を受けて画家となった。


白鳥映雪

1912年 長野県北佐久郡大里村(現・小諸市)に生まれる。
1932年 伊東深水の門下生となる。
1943年 「生家」で新文展入選。
1946年 この年から四年間、深水と小諸で行動を供にする。
1950年 「立秋」で日展の特選と白寿賞を受賞。伊東深水、児玉希望、奥田元宋等と日月社を結成。
1957年 「ボンゴ」で2回目の日展特選。
1964年 日本橋三越で個展を開催。
1986年 「寂照」で日展内閣総理大臣賞。
1987年 銀座松屋でデッサン展を開催。
1989年 長野オリンピックIOC会長に長野市の要請で絵画を贈呈。
1994年 「菊慈童」で恩賜賞と日本芸術院賞をそれぞれ受賞する。
1995年 勲四等旭日小綬章受章[1]。
1997年 日本芸術院会員となる。
1998年 日展顧問に就任。「羽衣」が首相官邸に飾られる。
1998年 小諸市名誉市民称号受贈[2]
2001年 「菊慈童」「序曲」が衆議院議長公邸に飾られる。
2002年 長野放送より「幻の母を心に秘めて-日本画家白鳥映雪90歳」が放映。
2003年 勲三等瑞宝章受章。
2004年 NHKにて白鳥映雪の特集番組「命ある限り画家白鳥映雪」が全国放映。
2007年6月15日 急性心不全のため死去。享年94。


荘司福

1946年 - 院展に初入選、日本美術院研究会員
1951年 - 日本美術院院友
1974年 - 「風化の柵」が内閣総理大臣賞を受賞
1981年 - 日本美術院評議員となる
1986年 - 「刻(とき)」で芸術選奨文部大臣賞を受賞


鈴木芙蓉

信濃国伊那郡北方村(長野県飯田市伊賀良北方)に木下甚内の次男として生まれる。同郷の画家の佐竹蓬平とともに白隠禅師の高弟の寒山永啄の寺子屋で学ぶ。
明和年間に江戸に出て渡辺玄対の養父である渡辺湊水について画を学んだ。林鳳岡の家僕となって学問に励み、儒者としての素養を身につける。その後、深川三角油掘に移り住み、柴野栗山、亀田鵬斎、太田錦城ら当代一流の儒者と交流している。 漢詩もよくし、菊池五山、大田南畝などとも関係している。また平沢旭山の『漫遊文草』に挿絵を画いているが、画家ではなく儒者と見られることを好んだ。
寛政期より画作が盛んとなる。江戸南画の大成者谷文晁とはその師であり弟子ともされるが、むしろ相互に影響しあった関係と推察される。渡辺玄対や北山寒厳とも同様な関係であろう。芙蓉の作品は儒者的気質を反映して漢文化が主題となっており当時の文人からの評価は高かった。
寛政5年(1793年)、浪速に木村蒹葭堂を訪ねてその足で熊野に分け入り那智瀑布を写生。後に代表作となる「那智大瀑雨景図」を製作する。
寛政8年(1796年)に画才を認められ、徳島藩蜂須賀家の御用絵師となる。儒者として召し抱えられたかった芙蓉は、絵師としての登用を残念がったという。同年国元に在藩を命じられ、「鳴門十二勝真景図巻」などを画く。 阿波踊りを描いた最古の絵「阿波盆踊図」(個人蔵、那波網川賛、徳島市指定文化財)もこのころの作品である。画室を「中禅窟」とした。
実子の鈴木小蓮が25歳で夭折。鈴木鳴門を養子とした。門弟に大岡雲峰がいる。
文化13年(1816年)死去、享年65。法名、老蓮院文煕日雍居士。墓所は江戸浅草大仙寺と、故郷飯田の木下家墓地。木下家墓地には、息子小蓮の墓もある。
鈴木鳴霽(めいさい)は孫にあたり、鳴門とともに徳島藩の御用絵師を継承した。


武井武雄

1913年 長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。
1919年 東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科卒業。
1922年 東京社が創刊した絵雑誌『コドモノクニ』創刊号のタイトル文字及び表紙絵を担当、その後絵画部門の責任者(絵画主任)となる。
1923年 処女童話集『お伽の卵』出版
1925年 初の個展を開催。このときに用いられた「童画」という言葉がのちに定着する。
1927年 岡本帰一、清水良雄、深沢省三、川上四郎、初山滋、村山知義とともに日本童画家協会を結成。
1929年 自ら創案した新作の玩具・小手工芸品「イルフ・トイス」展を開催。
1935年 「刊本作品」の制作を始める。
1944年 恩地孝四郎の推薦で日本版画協会会員となる。
1946年 日本童画会結成。会員となる。文化団体「双燈社」を起こす。
1959年 紫綬褒章受章
1967年 勲四等旭日小綬章受章
1983年 死去
2015年 4月より、岡谷市のデザインナンバープレートと家屋調査済証に武井の童画を使用。


富岡永洗

信濃国松代城下御安町(現・長野県長野市松代町)に松代藩士の富岡芳山(判六)の六男として生まれる。父も「奇雪」と号する絵師であった[1]。
初めは独学で絵を学び、青年期に陸軍参謀本部で製図の仕事をしながら18歳の時に小林永濯に付いて浮世絵を学び、藻斎永洗と号した。画業の傍ら雑誌の挿絵も手がけ、艶やかな美人画で評判を得た。その画風は、当時における流行の一典型を成したとも言われ、後の鏑木清方にも影響を与えている。師永濯の死を機に官職を辞して明治23年(1890年)から画業に専念するようになった。風俗画を得意としており、『都新聞』に入社し挿絵画家として毎日連載小説の挿絵を描くようになったが、下町の粋筋が購買層の『都新聞』は永洗が挿絵を描くのと描かないのでは、新聞の売行きが大いに違ったというほどの人気を得た。永洗の妖艶な美人画は喜多川歌麿以来といわれたが、時代物にしろ現代ものにしろ、特異な人物を描くことでも知られた。『都新聞』以外には雑誌『風俗画報』の挿絵も描いた。
明治20年(1887年)代から明治30年(1897年)代に肉筆浮世絵の美人画で活躍、その他に小学校教科書の挿絵、雑誌『文芸倶楽部』の口絵や、明治期の浮世絵師では珍しく春画なども手がけている。松本楓湖や梶田半古らとともに日本画会を創立するが、後に退会。また一方で岡倉覚三(天心)の日本美術院特別賛助員となっている。岡倉は挿絵画家出身の永洗も分け隔てなく厚遇し、円満な社交家でもあった永洗は、美術院と各界とを繋ぐメッセンジャーのような立場だった。明治31年(1898年)日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会では、「今様美人」が一等褒状を受けている。
晩年は本画家を志し、肉筆の風俗画、歴史画が多くなった。しかし、口絵全盛期の明治38年(1905年)、結核のため42歳で死去した。墓所は東京都港区南青山2-7-8の玉窓寺。法名は永洗院文彩秀徳居士。永洗塾が育てた口絵画家も多く、弟子に谷洗馬、浜田如洗、井川洗厓、桐谷洗鱗、宮川春汀、松本洗耳などがいる。


中川紀元

長野県上伊那郡朝日村(現辰野町樋口)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒、東京美術学校(現東京藝術大学)彫刻科入学。中退後、太平洋画会研究所、本郷絵画研究所へ通い洋画に転向、藤島武二にデッサンの指導を受け、また、二科会の重鎮であった石井柏亭や正宗得三郎にも師事。
1907年(明治40年)から1914年(大正3年)まで玉川尋常小学校の図画工作の講師をしており、当時の校長は島木赤彦が勤めていた。教え子には堀内唯生がいた。1915年第2回二科展に初入選。1919年にはフランスへ渡り、マティスに師事。
1920年に「ロダンの家」等で樗牛賞を受賞、帰国後滞欧作7点を出品し二科賞を受賞。1922年、古賀春江らとアクションを結成。1930年、中村岳陵ら日本画家たちと六潮会を結成。二科会解散後、熊谷守一らと二紀会を結成。文化学院講師、帝国美術学校(現武蔵野美術大学)教授。1935年多摩美術大学教授、1964年、日本芸術院恩賜賞受賞。五男は画家の中川タマオ。


中澤優子

20歳で故郷の諏訪市を離れ、絵画に精進し、現在は春陽会を中心に活動を展開している。
作品のテーマとして女性像を選ぶことを好み、画面にしばしば絹糸や絹布を描画して独特な色面を用い、人生を示すアレゴリーとして、あるいは繊細な女性の表情の演出として表現する画風である。 これは、中澤が絹糸・絹布産業が盛んであった諏訪市内で育ったため、幼少時から身近に絹糸や絹布に親しんだことによる。
2007年(平成19年)11月には諏訪市美術館において、大作を中心に約30点を展示して、諏訪離郷以来50年ぶりとなる大規模な個展を開催した。


中島千波

疎開先の長野県上高井郡小布施村(現・小布施町)で画家の中島清之の三男として生まれる。帰京して教育を受け、1971年に東京芸術大学大学院を卒業。大学在学中以降、数々の賞を受賞した。シリーズ作として 「衆生」「形態」 などを生み出している。現在、東京芸術大学名誉教授および日本美術家連盟常任理事を務める。 著作に「日本画の描き方」「中島千波画集」などがある。


野村千春

諏訪郡平野村(現:岡谷市)の間下(ました)地区の旧家、武居家(諏訪大社下社の祝および武居祝の一族であり、江戸末期まで地域一帯の神職を務め、明治以降は豪農であった一族。同族に武居三吉、武居俊樹がいる)の次女として生まれた。三女一男の家であった。
平野高等女学校(現:長野県岡谷東高等学校)時代、同校の教師だった諏訪郡原村出身の洋画家(のちに彫刻家)清水多嘉示に画才を認められて画家を志した。同校を卒業後、父の反対を押し切って上京、キリスト教伝道者の姉・菊枝の下に身を寄せる。1929年、洋画家中川一政に内弟子として師事し、春陽会研究所に学ぶ。その後、同郷の武井直也から彫刻を学び、妹・百代とともに武井家に留守番として住まわせてもらう。1932年、巽聖歌と結婚。
1931年(昭和6年)春陽会第9回展に初入選、1950年(昭和25年)には会友賞受賞し、1952年(昭和27年)には春陽会会員に推挙された。女流画家協会には創立会員として参加し、1952年(昭和27年)及び1954年(昭和29年)には大賞にあたる女流画家協会賞を受賞した。1963年(昭和38年)以降、長野県美術展(県展)の審査員を長年に渡って務めた。
2000年(平成12年)91歳で死去した。


長谷川青澄

1916年(大正5年) 9月25日、長野県下水内郡飯山町(現 長野県飯山市)に生まれる。旧制飯山中学(長野県飯山北高等学校)卒業。
15歳で地元の細野順耳(菊池契月の兄)に学び、1933年(昭和8年)上京し、18歳で松岡映丘門の吉村忠夫に入門し大和絵を専攻。 1952年(昭和27年)36歳の時に吉村忠夫の急逝をうけ、日本美術院・同人の中村貞以(なかむらていい、1900年 - 1982年)に入門し、日本美術院展覧会を目指し研鑽を重ねる。
1953年(昭和28年)、37歳で第38回 日本美術院展覧会に〈庭〉が初入選。以後、51年間にわたり春・夏の院展に連年入選。1955年(昭和30年)に、39歳で日本美術院院友。
1958年(昭和33年)から奨励賞を18回受賞。1961年(昭和36年)から春季展賞を2回受賞する。
1972年(昭和47年)に、56歳で日本美術院特待。1982年に、66歳で日本美術院同人。1989年に、73歳で日本美術院評議員。
1990年(平成2年)に「月(石山)」が、日本美術院展覧会内閣総理大臣賞を受賞。1994年(平成6年)に「足柄の山姥」が、日本美術院展覧会文部大臣賞を受賞。
東大阪市喜里川町に居を構え創作活動に没頭するなか、師の中村貞以が主催した画塾「春泥会」を引き継ぎ、師の七回忌後は画塾「含翠(がんすい)」として継承。 社中や同僚との勉強研鑽につとめる一方、日本美術院展覧会を目指す日本画家の育成に努めた。
含翠の門下には、清水達三・松岡政信・寺本郷史・小沢道治・藤本久美・寺田真規・長谷川笑子・浅田彩・居垣瑞生・磐城佳子・宇田和代・宇田宏海・大草肇・神森智代・北尾かおり・小林檀・新谷慶子・進藤政子・住友徳成・高木康子・田中重造・中尾隆晴・中森あゆみ・成川誠一郎・濱田君江・日高正子・堀内康子・松尾喜久子・松田知子・松原久美子・三宅美里・宮澤千恵子・柳本富子・山崎容子・油谷嘉之・渡邊妙子 諸氏の名が連なる。
2004年(平成16年)7月23日、大阪府吹田市内の病院で心不全のため逝去。享年87。


藤森桂谷

藤森桂谷は、南画の画家、歌人、啓蒙家。現在の長野県安曇野市出身。

桂谷は画家としての主たる号であり、俳句の雅号は「麦里」、和歌には本名の「寿平」「としひら」が使われている。その他、自作の絵には「南安迂農」「辛田」「雪蝶山人」「桑渓」「小倉山人」「新田迂農」など種々なオートグラフがある。


堀内唯生

1900年 長野県諏訪郡玉川村(現在の茅野市)神之原に父堀内佐代吉・母ふさの三男として生まれる。(本名 堀内忠雄)
1911年 玉川尋常高等小学校(現在の玉川小学校)五年の時の校長は島木赤彦であった。
1914年高等小学校 では中川紀元に図工を教わった。唯生の家のすぐ前の家に正宗得三郎と中川紀元が下宿していた。中川紀元に描いた画を持ってくるように言われ、時々描いた画をみてもらう。
1920年 小尾喜作が校長であった茅野市立玉川小学校に教員として勤める。
1925年 玉川小学校を退職し、東京へ上京。中川一政に師事。雅号を唯生とする。
1926年 春陽会第四回展に初入選。以後終戦までほとんど毎年入選。また、師に誘われこの年より1931年まで中川一政の家(東京/永福町)に五年間同居し、中川一政と一緒に画を描いた。
1931年 原田なみ江と結婚。千葉県印旛郡、神奈川県川崎市に住む。長男(堀内龍也)長女(増沢直子)が生まれる。2~3ヶ月家をあけ、伊豆・房総などに出かけて画をかく生活をする。
1945年 東京大空襲の際、戦前の画ならびに生活のすべてを焼失。生まれ故郷の玉川村へ疎開。以後上京の意志は持ちつつ、終戦後の荒廃した都会で幼い子供の養育は困難と判断、上京を断念。農業をしながら画をかく。
1959年 中川一政が茅野へ来訪。唯生に画に専念することを勧める。
1961年 秋、諏訪市美術館で志村一男、野村千春、堀内唯生の共同展覧会を行なう。
1962年 子供が大学入学のため上京。これを期に「20年近く子供のため時間を費やしたが、これからまた自分の仕事をする。画をかく。」とキャンパスに向かう。画の主は“海,花,たくみ沢”の三つであった。
1973年 肺炎により諏訪中央病院に入院。退院後少しずつ画をかく。
1979年 脳血栓により軽い右マヒ。以後画筆を置く。
1981年 10月、茅野市美術館にて堀内唯生個展を開催、124点を出品する。12月、急性肺炎となり入院。12月25日永眠す。


原田泰治

1歳児の時小児麻痺にかかり、歩行困難になる。諏訪市立上諏訪中学校、長野県諏訪実業高等学校卒業後、武蔵野美術大学商業デザイン科に入学。はじめは洋画家を志すも、途中でデザインに転向。
1963年:大学卒業後、故郷でデザインスタジオを設置し、デザイナーとして活動する。
1980年:第29回小学館絵画賞を受賞。
1982年:朝日新聞日曜版に「原田泰治の世界展」を連載開始し、並行して全国で個展をする。
1989年:アメリカ合衆国各地で展覧会を開催。
1994年:原田原作の絵本『さだおばさん』が東宝より、さだまさし監督、吉田日出子で映画化される。
1997年:長野冬季オリンピック競技大会での文化芸術祭に参加。
1998年:諏訪湖のほとりに諏訪市原田泰治美術館(名誉館長さだまさし)がオープン。
2000年:日本の全国各地20か所で「日本の童謡・唱歌100選展」開催。
2004年:原田の作品の世界をパッチワークキルトで表現する原田泰治美術館主宰の公募展「第一回 絵画キルト大賞」が始まり、以後毎年開催されている。同館での受賞作品展では大賞、優秀賞など受賞作品と原田の原画を並べて展示される。
2008年:上田電鉄1000系電車のラッピング車両「自然と友だち」のデザインを担当。
2009年現在、日本グラフィックデザイナー協会会員、クロアチア共和国ナイーブ美術協会名誉会員、中国・上海金山農民画協会会員を務める。


菱田春草

1874年(明治7年)、長野県伊那郡飯田町(現・飯田市)に旧飯田藩士の菱田鉛治の三男として生まれた。1890年(明治23年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。春草は美校では大観、観山の1学年後輩にあたる。美校での師は狩野派の末裔である橋本雅邦であった。春草は大観、観山とともに、当時美校校長であった岡倉天心の強い影響下にあった。1895年(明治28年)21歳で卒業すると、同年の秋から翌年にかけて帝国博物館の委嘱を受けて、大規模な古画模写事業に参加、京都や奈良をめぐった。
過激な日本画改革論者であった岡倉天心には反対者も多く、1898年(明治31年)、岡倉は反対派に追われるように東京美術学校校長を辞任した(反対派のまいた怪文書が原因だったとされる)。当時、美校の教師をしていた春草や大観、観山も天心と行動を共にして美校を去り、在野の美術団体である日本美術院の創設に参加した。
その後春草は1903年(明治36年)には大観とともにインドへ渡航。1904年(明治37年)には岡倉、大観とともにアメリカへ渡り、ヨーロッパを経て翌年帰国した。1906年(明治39年)には日本美術院の五浦(いづら、茨城県北茨城市)移転とともに同地へ移り住み、大観、観山らとともに制作をした。しかし、春草は眼病(網膜炎)治療のため、1908年(明治41年)には東京へ戻り、代々木に住んだ。代表作『落葉』は、当時はまだ郊外だった代々木近辺の雑木林がモチーフになっている。1911年(明治44年)、満37歳の誕生日を目前にして腎臓疾患(腎臓炎)のため死去した。
兄の菱田為吉は東京物理学校教授、弟の菱田唯蔵は九州帝国大学、東京帝国大学教授。


増田正宗

増田正宗は、明治から昭和にかけての日本画家、本名は久太郎。実業家の増田通二の父。

長野県東筑摩郡松本(現松本市)生まれ。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)を経て東京美術学校日本画科卒業。下村観山、結城素明、寺崎広業に師事する。1912年フランスに渡り修行。帰国後、第10回文展に「菟裘」が、第11回文展に「光明皇后深夜縫衣之図」がそれぞれ入選。1926年聖徳太子奉讃展に「雪降る朝」を出品。1927年第8回帝展に「鴉」が入選してから第11回の「熊野神幸船」まで連続で入選する。その他仏画も多く残している。


丸山晩霞

信濃国小県郡祢津村(現・長野県東御市)生まれ。本名・健作。1888年彰技堂に入門、明治美術会展に出品。1895年、群馬県沼田付近で、写生をしている吉田博に出会う。その時吉田の描いていた水彩画に感銘を受ける。1898年、吉田博とともに「日本アルプス写生旅行」を敢行、飛騨方面まで巡る。1899年、三宅克己と交友。三宅の勧めから、1900年渡米。同行した、鹿子木孟郎、満谷国四郎、河合新蔵と、先発の吉田博、中川八郎で「日本人水彩画家6人展」をボストンアートクラブで開催。大成功を収め、プロビデンス、ワシントンD.C.でも6人展を開催した。その後、鹿子木、満谷、河合とともにヨーロッパ巡遊、シンガポール、香港経由で1901年に帰国。
1902年、明治美術会改め「太平洋画会」創立に加わる。小諸義塾の水彩画教師となり島崎藤村と交友。1907年大下藤次郎らと日本水彩画会研究所を設立。1907年文展に「白馬の神苑」を出品。1908年、日本山岳会会員。1909年、絹本に水彩で描いた日本画調の作品を「和装水彩」として発表。1911-1912年再びヨーロッパに渡る。この滞欧中に大下藤次郎が急逝する。
1913年、日本水彩画会創立、評議員となる。水彩画は庶民の間に急速に広まり、日本各地を講習会や指導で訪れた。1923年、関東大震災の被災者救済を目的に、中国、東南アジア、インドを旅行。内弟子の関晴風と、小諸・玄光院で慰霊のため「釈迦八相」を制作。
1936年日本山岳画協会創立に参加。祢津村にアトリエ「羽衣荘」を新築。太平洋画会、日本水彩画会、日本山岳画協会には毎年出品を続けた。1942年没、享年76。内弟子の小山周次が中心となって遺稿集「水彩画家丸山晩霞」が日本水彩画会から刊行された。晩年、画風に関しては不評だった丸山晩霞だが、この遺稿集に寄稿した顔ぶれからも、丸山晩霞の存在が当時の日本美術界において大きかったことがわかる。
丸山晩霞の墓は、生家の裏山にあり、墓石には「水彩画家丸山晩霞 ここに眠る」とある。アトリエの「羽衣荘」には藤村の碑文がある。
丸山晩霞は世界各国から持ち帰った石楠花を育てるなど、高山植物に関しては博学であった。また俳句にたしなみ選者でもあった。自らを田園画家と称し、郷里の風景を愛した。地元祢津村における丸山晩霞には、文化人としての存在もあり、地域振興や活性化にも一役を果たしている。
丸山晩霞の画風は、吉田博や三宅克己に影響された初期、1911年の欧州旅行以後の中期、1920年代以降の晩年と、掛け軸や屏風に表装された「和装水彩」に分類してよいだろう。
明治37年(1904年)1月の『新小説』に、島崎藤村が「水彩画家」を発表した。内容は水彩画家・鷹野伝吉が妻の不貞を発見しつつこれを許すが、別の女と親しくなって妻が苦悩するというもので、藤村の実体験に基づくものだったが、『中央公論』明治40年(1907年)10月号に晩霞は「島崎藤村著『水彩画家』の主人公に就て」を発表し、抗議した。小説モデル問題の第一号とされるが、見ての通り主人公が水彩画家だというだけで、藤村自身の体験を描いたものであった。
平成18年(2006年)11月、長野県東御市に個人美術館「丸山晩霞記念館」が開館。


宮坂勝

宮坂勝は、明治から昭和にかけての洋画家。

長野県南安曇郡倭村(現松本市)生まれ。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)を経て1919年東京美術学校西洋画科卒業。1923年フランスに留学し、オットン・フリエスに師事、1927年帰国。母校中学の美術教師となった。国画創作協会展に作品の出品を開始し、奨励賞を受賞、同会会員となる。1931年帝国美術学校教授となり、後進の指導とともに、油絵の普及に努めた。1945年戦災で東京の自宅を焼失し、生家へ疎開。1946年信州美術会(長野県展の団体)を結成し幹事、審査員となり、郷里の美術の発展に尽くした。


宮原麗子

1930年(昭和5年) 岡谷市生まれ。父は岸田劉生に師事し一水会会員、日展委嘱作家であった洋画家の高橋貞一郎、弟は女子美術大学名誉教授の洋画家高橋靖夫である。因みに麗子の名は、父が岸田劉生の娘麗子から名づけたと言われている。
1949年(昭和24年) 長野県岡谷東高等学校卒業。高校在学中に長野県美術展(県展)に入選するなど若いころから、その才能を発揮していた。その後女子美術大学洋画科入学。在学中から一水会展と女流画家協会展へ作品を出品しはじめ、本格的に絵の道を志すようになった。女子美術大学卒業後は、同校の講師を勤めたり、自宅を解放して絵画教室を開くなどしてきたが、一貫して絵画制作に没頭してきている。現在は、女流画家協会委員、一水会会員、信州美術会会員、日本美術家連盟会員などで活躍している。
1984年(昭和59年) ヨーロッパへ取材旅行に出掛けたのをきっかけに、しばしばヨーロッパを訪れ、そのモチーフが以降の作品に大きく反映されている。また、宮原の娘・宮原むつ美が画家として、スペインを拠点に制作活動を行っており、2006年(平成18年)には、スペインのマドリードで娘との二人展を開催した。
展覧会は、公的美術館での企画展、個展開催など多数。また、各種展覧会へ出品、受賞をしている。特に父貞一郎、麗子、弟靖夫の親子三人展の開催は特色あるものとなっている。
なお、2000年(平成12年)には、紺綬褒章を受賞している。
2008年一水会委員に推挙される。


桃澤如水

1873年1月14日 - 現在の長野県上伊那郡飯島町本郷に父桃澤与一右衛門匡尊と母・さいの次男として生まれる。
1888年 - 飯田岡庭塾にて英語、漢文を学ぶ。同友に菱田春草。
1890年 - 上京。橋本雅邦門に入る。東京美術学校絵画科に入学。
1891年 - 香取秀真、岡麓らと共に大八洲学会(夜学)にて黒川真頼、佐佐木信綱の指導を受け、国文、和歌を学ぶ。
1893年 - 香取秀真らと花月歌会を創る。菱田春草らと夏休みに天竜船下りを楽しむ。
1896年 - 香取秀真、岡麓らと雑誌「うた」を創刊。
1897年 - 日本絵画協会第二回絵画共進会に「寒崖落月図」を出品し、褒状三席を授かる。東京美術学校絵画科卒業。
1899年 - 正岡子規を訪問。根岸短歌会に加わる。
1900年 - 根岸短歌会にて活躍。
1903年2月 - 転地療養のため三重県津へ転居。「馬酔木」「日本青年」に寄稿。
1904年 - 真宗高田派の総本山専修寺附属の勧学院に舎監、国文教師として勤む。
1905年10月 - 長塚節が如水を訪ね来る。
1906年 - 「日本美術」に「曾我蕭白」を発表。8月、結核性腹膜炎にて桑名病院で死去(満33歳)。


矢崎博信

1960年、超現実絵画の展開展(東京国立近代美術館)「高原の幻影」出品
1966年、近代日本洋画の150年展(神奈川県立近代美術館)「時雨と猿」出品。同年諏訪の美術の先駆者たち展(諏訪市美術館)
1972年、郷土の三夭折作家展ー戸田佑暉、矢崎博信、小松秀雄ー(諏訪市美術館)
1975年、シュルレアリスム展「高原の幻影」(東京国立近代美術館)
1981年、「矢崎博信遺作展」諏訪中時代の同級生の初代茅野市美術館長、北澤敏郎の働きかけにより、開催。展覧会を機に、矢崎の遺族に同美術館へ多数の作品を寄託される[15]。
2000年、戦没者回顧矢崎博信展:諏訪市美術館
2014年、生誕100年 矢崎博信展 幻想の彼方へ:茅野市美術館


山本弘

長野県下伊那郡神稲村(現豊丘村)に生まれた。まもなく父親について長野県飯田市へ転居する。1945年予科練に入ると言って上京するが入隊しなかった模様で、帰郷してまもなく終戦を迎えた。戦後ヒロポン中毒に苦しみ、山本も何度か自殺未遂を繰り返していった。
帝国美術学校(現武蔵野美術大学)に入学するが中退した。中央本線沿線に住み、池田龍雄らと交流する。菊華女子高等学校で開かれた第1回杉並文化展に出品する。20歳代早いころ飯田市へ帰る。日本アンデパンダン展等に出品する。相変わらず何度も自殺未遂を繰り返した。34歳で結婚し以後アルコール中毒に苦しみながら油彩を制作し続けた。山本はその後、飯田市で何度も個展を開き、40歳代後半、2度アル中治療のため飯田病院へ入院するが完治には至らなかった。最後に1年余の入院から退院後から間もなく1981年7月15日、山本は自殺を遂げた。51歳だった。
山本の死後、飯田市美術博物館に50点余が収蔵された。また美術評論家の針生一郎にも絶賛され、東京都京橋の東邦画廊で遺作展を繰り返し瀬木慎一、ワシオトシヒコ等美術評論家より高い評価を受けた。その後、銀座や日本橋の兜屋画廊、77ギャラリー、ギャラリー汲美、ギャラリーMoMo六本木、ギャラリーゴトウ、戸村美術、ギャラリー403、銀座K'sギャラリー-an、道玄坂アートギャラリーで個展を開いている。













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