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香川県について

香川県は、日本の全47都道府県で最も面積が狭い。かつては大阪府の面積を上回り46位であったが1988年10月1日に国土地理院が算定法を見直し、岡山県の玉野市との間に境界未定部分がある香川郡直島町の面積(14.2km2)を県全体の面積に算入しないことになったため面積が減少し、大阪府と逆転した[2][3]。その後、大阪府では関西国際空港の開港や大阪市西部の開発などで埋め立てが進められたため、現在では直島町を含めた参考値よりも大阪府のほうが面積が大きくなっている[4]。また、県全体の面積は日本一面積の大きい市町村である岐阜県の高山市よりも狭い。しかし人口は高山市の約11倍、人口密度は約13倍である。また、平野が県土のほぼ半分を占めている。

香川県の総面積は全国47位、人口密度は全国11位、可住地面積比率全国10位、居住室畳数全国9位、誘導居住面積水準以上世帯割合全国11位、自然災害の少ない方から全国3位である(2008年統計)。
古来より雨量、河川の流水量ともに少なく旱魃に備えて県内各地に14,000を超える数のため池が造られ点在している。また香川県は、平野が多いことから県全体の人口密度が高い。
北部に広がる瀬戸内海には、小豆島など多くの島々が点在している。本州の岡山県とは島々を伝う形で架けられた瀬戸大橋により、道路・鉄路で結ばれている。瀬戸内海を越えた岡山県との結びつきは強く、民間テレビ放送局が同一のエリアになる程である。
麺のコシがしっかりとした讃岐うどんや、こんぴらさんの愛称で親しまれる金刀比羅宮、空海の生誕地としても知られる善通寺(四国八十八箇所の一つ)、寛永通宝の銭形砂絵で知られる観音寺、対岸の倉敷市児島から坂出市にかけて海上に架けられた瀬戸大橋が有名である。

正月には、餡餅の入った白味噌仕立の雑煮「餡餅雑煮」を食べる風習が一部にある。江戸時代、讃岐の国では塩・砂糖・木綿が特産で、「讃岐三白」と呼ばれていた。このうち砂糖は幕府への献上品として多くが用いられ、庶民の口には滅多に入らなかったことから「せめて正月ぐらいは砂糖を使った餡の入った甘い餅を食べたい」という思いから餡餅雑煮が誕生したと言われている。ただ、食べる県民と食べない県民の比率は半々であり、好みが分かれる[5]。
香川県庁舎の設計者は丹下健三で、この他にも丹下は香川県立体育館や県営一宮団地も設計している。
救急病院数は全国2位、救急車搬送所要時間は全国3位、介護老人保健施設普及率は全国8位、看護師数は全国14位、医師数は全国12位である。また、2009年度と2010年度の有効求人倍数はそれぞれ全国1位、2位である。
県内を供給区域とする電力会社は四国電力であるが、岡山県に隣接した島嶼部である香川郡直島町および小豆郡の全域は海底地形の理由から、四国電力ではなく中国電力の供給区域となっている。

香川県は第一次産業が盛んな県です。
水産業では、オリーブハマチというブランド魚が出てきました。
香川県は全国で初めてハマチの養殖に成功した県です。
このオリーブハマチは養殖期間中に2週間以上、香川県産のオリーブ葉の粉末を加えたエサを与えて育てたハマチです。
オリーブハマチは通常の養殖ハマチと比べ、旨みや香りに優れ、さっぱりとした味わいです。
香川県オリジナルのオリーブハマチを一度食べてみてはいかがでしょうか。

穏やかな瀬戸内海に浮かぶ四国地方の一つが香川県です。
台風の被害も比較的少なく、晴天の日が多い事から雨量が少ないのが気候の特徴です。
その為、ため池が多いのですがその中でも満濃池は日本一の大きさを誇っています。
これは、弘法大師が作ったとしてもよく知られています。
また有名なのは讃岐うどんですが、その他にも空豆を甘辛く炒った醤油豆や鷄の脚を豪快に焼いた骨付き鳥など香川県発祥のおいしい食べ物もたくさんあります。

画家について

・猪熊弦一郎
1902年 - 香川県高松市に生まれ、丸亀市に転居。丸亀東幼稚園、城北小学校に通う。小学校の時から絵がうまく、学校の美術の授業で教師の代わりをする事もあった。
1921年 - 旧制丸亀中学校(現・香川県立丸亀高等学校)卒業。
1922年 - 東京美術学校(現・東京芸術大学)洋画科に入学し、藤島武二に師事する。のちに同学校を中退。
1926年 - 「婦人像」で帝展初入選を果たす。その後、「座像」で特選に選ばれるなどし、帝展無鑑査となる。
1936年 - 帝展改組をきっかけに小磯良平、脇田和らと新制作派協会を設立する。
1938年 - フランスに移り、アンリ・マティスの指導を受ける。この時、マティスに自分の絵の批評を請うと「お前の絵はうますぎる」と言われ、これを自分の画風が出来ていないと捉えて愕然とする。以来、自らの画風を模索する歳月を過ごすが、マティスの影響からなかなか抜け出せなかった。
1940年 - 第二次世界大戦が勃発し、最後の避難船となった白山丸で帰国[5]する。
1941年 - 中国に文化視察として派遣され、その後もフィリピン(1942年)、ビルマ(1943年)に従軍画家として戦地へ赴いた。
1944年 - 陸軍美術展で戦争画の「◯◯方面鉄道建設」を発表。
終戦後、田園調布純粋美術研究室を発足し、後進の指導にあたる。
1950年 - 白地に赤で有名な三越の包装紙「華ひらく」のデザインを行い(このデザイン画を受け取りに赴いたのが当時三越に勤務していたやなせたかしである)、当時としては破格の報酬でも話題となった。
1951年 - 上野駅に壁画「自由」を完成。また、慶應義塾大学大学ホールの壁画「デモクラシー」と名古屋丸栄ホテルホール壁画「愛の誕生」で、第2回毎日美術賞を受賞する。
1955年 - 活動の拠点をニューヨークに移す。この時期から画風は一気に抽象の世界に移っていった。また、この時期は、マーク・ロスコ、イサム・ノグチ、ジョン・ケージ、ジャスパー・ジョーンズなどさまざまな著名人と交友関係を深めたことでも知られる。
1973年 - 脳血栓で倒れてニューヨークを離れ、1975年からは温暖なハワイで毎年冬をすごしながら創作活動を続けた。
1980年 - 勲三等瑞宝章を受章する。
1991年 - 丸亀市名誉市民。丸亀市猪熊弦一郎現代美術館開館。
1993年 - 「祝90祭猪熊弦一郎展」で第34回毎日美術賞を受賞する。同年 逝去。90歳没。

・小林萬吾
庄屋の長男として讃岐国三野郡詫間村(現・香川県三豊市)に生まれる。漢学を修めた後、松山の官立中学に入学、はじめは安藤仲太郎、原田直次郎に師事し。1889年に内国勧業博覧会に「芝東照宮図」が入選。1895年、黒田清輝主宰の天真道場に入門する。1898年、東京美術学校西洋画科選科修了。1900年、流派・白馬会に参加。 1903年、内国勧業博覧会三等賞。1904年、東京美術学校助教授。1907年、第1回文展に出品。1909年、「渡船」で第3回文展三等賞。1911年から1914年まで文部省からの派遣によりフランス、イタリア、ドイツに留学。1918年、東京美術学校教授。1920年、第2回帝展審査員を務める。1922年、パリ万国博覧会に出品。1930年、東京高等師範学校教授。1932年、東京美術学校教授。1934年、帝展審査委員。1941年、帝国芸術院会員。1944年、正四位勲三等瑞宝章受章。

1946年頃、軽度の脳溢血で倒れ寝たり起きたりの不自由な身での生活となり、1947年12月6日死去。

・中原淳一
先祖は物部姓中原氏といわれる。

幼少の時より絵や造形に才能を示し、18歳の時、趣味で作ったフランス人形が認められて東京の百貨店で個展を開催。それがきっかけで雑誌『少女の友』の挿絵、口絵、表紙絵、付録等を手掛けるようになり、一世を風靡する人気画家となる。 竹久夢二に強い影響を受け、若い頃は神田神保町で夢二の本を買い集めたという。

太平洋戦争後は、女性に夢と希望を与え、賢く美しい女性になってほしいとの理想に燃え、自分の雑誌『それいゆ』(1946年)や『ひまわり』(1947年)や『ジュニアそれいゆ』(1954年)、『女の部屋』(1970年)を相次いで創刊。編集長として女性誌の基礎を作っただけでなく画家、ファッションデザイナー、スタイリスト、インテリアデザイナー、人形作家など多彩な才能を発揮。その全ての分野において現代につながる先駆的な存在となった。 しかしながら1958年(昭和33年)半ばより、中原自身が病に蝕まれるようになり、1983年に70歳にて逝去するまで療養と闘病を繰り返しながらの芸術家活動だった。

2000年(平成12年)に山梨県河口湖に中原淳一美術館が開館(2005年に閉館)。

2004年(平成16年)7月には、東京・広尾に遺族が運営する中原淳一グッズ専門店「それいゆ」がオープン。現在、中原淳一の著作権は株式会社ひまわりやが管理し、定期的に原画展を行っている。

1913年(大正2年)
2月16日、香川県大川郡白鳥本町(現・東かがわ市)に生まれる。
1915年(大正4年)
父親の転職により一家で徳島県徳島市に転居[3]。
1924年(大正13年)
母とともに広島県広島市に転居、広島女学院付属小学校に転入。代用教員時代の杉村春子と知り合い、生涯にわたり交遊を持った[3]。
1925年(大正14年)
同小学校を卒業し母とともに上京。おかっぱ頭の内気な少年で、早くに父を失い、母と2人の姉に囲まれ育った。姉たちと一緒に西洋人形を作ることが大好きだった。
1928年(昭和3年)
日本美術学校入学。本格的に西洋絵画を学ぶ。
1932年(昭和7年)
3月、東京の銀座松屋にてフランス風人形の個展を開催。これを機に雑誌『少女の友』の専属画家として表紙、挿絵を手がけるようになる。
後に日中戦争が激化すると、優美でハイカラ、かつ目が大きく西洋的な淳一のイラストは軍部から睨まれた。その圧力により、淳一のイラストは1940年(昭和15年)5月号を最後に掲載されなくなった。
1940年(昭和15年)
1月、東京市千代田区麹町に自身のグッズを扱う雑貨店「ヒマワリ」を開店。
6月、『きものノ絵本』を通信販売で発行。
11月、宝塚歌劇団元男役トップスターの葦原邦子と結婚。のち二男二女に恵まれる。
1945年(昭和20年)
3月に招集、8月に復員。
1946年(昭和21年)
5月、神保町にて雑貨店「ヒマワリ」を再開。
8月、雑誌『ソレイユ』(フランス語で太陽、ひまわり。後の『それいゆ』)を創刊する。国土が荒廃し物資が不足していた時代に、生活を豊かにする方法を多くの女性に授けることで爆発的な売れ行きを示した。「ヒマワリ社」(後の「ひまわり社」)を設立。
1947年(昭和22年)
雑誌『ひまわり』を創刊。
1952年(昭和27年)
『ひまわり』12月号にて廃刊。翌年、『それいゆ』臨時増刊として「ジュニア号」を発行。(のちの『ジュニアそれいゆ』の原形となる)
1954年(昭和29年)
雑誌『ジュニアそれいゆ』を創刊。
1958年(昭和33年)
7月に心筋梗塞のため入院。12月、退院。
1959年(昭和34年)
7月に脳溢血のため入院。10月、退院。
1960年(昭和35年)
心臓発作のため入院。『それいゆ』『ジュニアそれいゆ』は廃刊となる。
1961年(昭和36年)
千葉県館山市にて療養生活となる。
1964年(昭和39年)
渡仏し、半年後に帰国。徐々に仕事を再開する。
1970年(昭和45年)
3月、雑誌『女の部屋』創刊するも、体調悪化のため5号で廃刊となる。
1972年(昭和47年)
脳血栓で倒れ、館山市の高英男の別荘にて療養生活。
1979年(昭和54年)
脳血栓と心臓発作のため入退院を繰り返す。
1983年(昭和58年)
4月19日、死去。

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