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茨城県について

茨城県は関東地方の北東部にあり、栃木県・群馬県とともに「北関東」と呼ばれる地域です。
南北に大きく広がり、北部は福島県に接し、南部は千葉県に接しています。
また西側は山間部が多く、東側には太平洋に面しており関東平野が広がっています。

県庁所在地の水戸市は、県の中央部にあり、2 月下旬~3 月にかけて梅が咲き乱れる偕楽園で知られています。
江戸時代、水戸藩第九代藩主徳川斉昭公により「領内の民とともに楽しむ場にしたい。
」と いう思いのもとに創設されました。
13haの園内には三千本の梅が植えられており、春になると県外からも沢山の観光客が訪れます。

また水戸市の西側にある笠間市は、花や龍の飾り彫りが施された笠間稲荷神社で有名です。
笠間市の南西には 2 つの峰を持つ筑波山があり、目的やレベルに合わせてさまざまなハイキングトレイルが整備されています。

画家について

靉嘔

1931年 茨城県に生まれる
1953年 池田満寿夫らと共にデモクラート美術家協会に参加
1954年 東京教育大学(現・筑波大学)教育学部芸術学科卒業
1966年 ヴェニス・ビエンナーレに参加
1971年 サンパウロ・ビエンナーレに参加
2010年 茨城県つくば美術館にて「靉嘔 AY-O 1950s-2010展」開催


小川芋銭

1868年 - 江戸赤坂溜池の牛久藩邸で生まれる。幼名、不動太郎。
1871年 - 廃藩置県により新治県城中村に移住する。
1879年 - 牛久小学校下等小学校第三級を卒業し上京、小間物屋に奉公する。
1880年 - 桜田小学校尋常科第三級後期を卒業。本多錦吉郎の画塾、彰技堂に入り洋画を学ぶ。
1888年 - 尾崎行雄の推挙を得て、『朝野新聞』に客員として入社(入社年は通説)する。磐梯山噴火の惨状をスケッチし新聞に掲載(通説、裏付け資料なし)。
1893年 - 父親の命により牛久に戻り農業に従事する。
1896年 - 渡辺鼓堂の推奨により『茨城日報』に漫画が採用される(通説、裏付け資料なし)。
1899年 - 取手の句会『水月会』に入会。
1904年 - 幸徳秋水らが主催する『週刊平民新聞』に漫画を描き始める。水戸の文芸団体『木星会』の結成に参加。
1908年 - 初の画文集『草汁漫画』を刊行。
1910年 - 俳誌「ホトトギス」の挿絵を描く。表紙絵は1911年から。
1911年 - 東京・大阪の三越で漫画展を開く。
1915年 - 川端龍子らと『珊瑚会』設立。
1917年 - 珊瑚会展に出品した「肉案」が横山大観に認められ日本美術院同人に推挙される。
1922年 - 茨城新聞社社長飯村丈三郎古希記念画冊を描く。
1923年 - 茨城美術展の顧問になる。
1935年 - 帝国美術院参与となる。
1938年 - 牛久の自宅で死去。


川原井正

1906年(明治39年)茨城県東茨城郡鯉淵村大字五平(現・茨城県水戸市五平)で父、熊四郎と母、ちよの 四男として生まれる。
1912年(明治45年)東茨城郡鯉淵村尋常高等小学校に入学、1920年(大正9年)同校卒業。
1922年(大正11年)7月上京し、荒川区尾久町1丁目514番地に落ち着くも翌年関東大震災に遭遇する。
1924年(大正13年)川端画学校に入学しここで学ぶも、やがて1926年(大正15年)に本郷絵画研究所に移り、岡田三郎助画伯に師事。春台展にも数回出品する。
1931年(昭和6年)古典協会の会員となり約4年間青山研究所で制作を続け、新宿三越等での協会展に出品する。丁度この頃読売新聞社で油絵技法の講習会が開かれ、西洋古典のセオリーと技法をやったが、絵には時代感覚とか精神とかがなければならないので、古典そのままでいいとは思われない。所謂古典技法のマンネリ化に限界を感じた。そこで「今後の行うべき絵画に対する表現方法など型枠にはめられない個性を尊重し、自由に想いのままに描く、対象物の中に潜んだものを抉り出しこれをキャンパスに描きたい」との思いを強くした。同様の考え方を強烈に持っていた進藤章ら数名ともこれからの生き方や進むべき道などを真剣に協議した。
そこで当時の画壇から背を向けた新しい一派として、1939年(昭和14年)「菁々会」を結成した。会長は進藤章で事務所は進藤章宅(瀧野川区田端672)に置いた。そして同年11月、第1回菁々会展を銀座・三昧堂画廊で開催した。
その後場所を変えながら毎年開催したが特に第3回菁々会展は銀座・菊屋画廊での開催で、初日が1941年(昭和16年)12月9日からであり、正しく太平洋戦争(大東亜戦争)勃発の翌日ということで開催が危ぶまれたが、真剣に熟慮に熟慮を重ね戦況を冷静に見極めて開催を断行したのであった。誠にも厳しい中での開催であった。その時の様子の一端を進藤章は次の様に記している。即ち「会期中今年も亦川原井氏が毎日会場の番をしてくれる。午後四時ともなれば皆の同人が申し合わせた様に集まって来る。会場の片隅に置かれた瀬戸の火鉢をかこんで其処に置かれた数個の椅子、椅子の上には夕刊と号外とがちらばっている。海、陸、空軍の大きな戦果を盛って」と。しかしこの展覧会から新たに葛西康(後・秋田大学教授、一陽会会員ともなる)も参加し新たな会員となって「菁々会」も一段と盛り上がった。しかしその後戦争も次第に苛烈となり1944年(昭和19年)第6回展を銀座・菊屋画廊で3日間のみの開催をもって菁々会展の中止のやむなきに至る。 
1942年(昭和17年)5月には進藤章の紹介で、曹洞宗常堅寺の住職で教師をしていた及川英雄の長女、ちゑと見合い結婚をした。やがて住まいも荒川区尾久町から渋谷区幡ヶ谷中町(後、渋谷区笹塚に住居表示変更)に移転した。しかし戦争で総てを焼失し先ず何より家族を養い、生きて行かなければならなかった。これは単に菁々会会員だけの問題ではなく、日本国中の大問題でもあった。  そこで先ず絵筆を断ち友人から乞われるまま友人の経営するメーターなどをつくる計器製造会社に勤め、小企業であったので営業活動など不慣れな仕事なども無我夢中でこなして行った。そして63歳の時役員定年で退職した。しかし絵に対する最も大切な充実期・完成期を台無しにしてしまったが少しずつ絵筆を執るように心掛け、努力し、作画活動を開始した。
丁度その頃、生き残った同志・進藤章、疎開して秋田県秋田市に在住していた葛西康と3人で1969年(昭和44年)「菁々会」を復活させ事務所を渋谷区笹塚の自宅に置き、その年(昭和44年)の11月銀座・月光荘ギャラリーで第7回菁々会展を開催した。その後毎年場所をかえて開催をした。
しかし会長の進藤章は体調を崩し、やがて喉頭癌の手術をして声帯が摘除され完全に発声が出来なくなり総て筆談となったが、「明治魂なる強靭な精神力」で他界する寸前の第11回菁々会展まで格調高い作品の発表を続けた。
1976年(昭和51年)5月18日進藤章 永眠 享年76
1976年(昭和51年)10月追悼進藤章第12回菁々会展を銀座・ゑり円画廊で葛西康と二人で開催した。
1981年(昭和56年)10月には銀座・月刊美術画廊にて葛西康と油絵二人展を開催した。
1986年(昭和61年)には住まいを東京都町田市鶴川に移転し、次女の嫁いだ冨田一家と同居生活に入る。アトリエで作画活動するもやがて葛西康も病に倒れ1990年(平成2年)3月26日 永眠 満84歳だった。
たった一人きりになり、妻ちゑも2005年(平成17年)5月8日に行年94歳で他界して、完全に絵筆を断った。満93歳位までは一人で銀座の画廊まで出掛けたり、展覧会などにも行ったりしていたし、満100歳位まで散歩も日課にしていたが、やがて歩けなくなり、介護手当ての世話になり、2008年(平成20年)11月20日老衰で他界した。行年103歳の大往生であった。


河鍋暁斎

河鍋暁斎は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、日本画家。号は「ぎょうさい」とは読まず「きょうさい」と読む。それ以前の「狂斎」の号の「狂」を「暁」に改めたものである。明治3年(1870年)に筆禍事件で捕えられたこともあるほどの反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残している。
狩野派の流れを受けているが、他の流派・画法も貪欲に取り入れ、自らを「画鬼」と称した。


木村武山

明治9年(1876年)、茨城県笠間市に旧笠間藩士・木村信義の長男として生まれる。本名は信太郎。父は廃藩後に帰農した後、笠間銀行(現・常陽銀行)を設立、頭取となる程の実業家で郷党の人望家だった。はやくも2歳頃から地元の南画家・桜井華陵に師事、12歳頃には「武山」の号を用いている。武山の号は、笠間のシンボルとも言える佐白山・山上の別称「阿武山(おたけ)」に由来する命名という。明治23年(1890年)、地元の西茨城連合高等小学校を卒業後に上京、東京開成中学校に入学するが、翌年、東京美術学校普通科に編入する。ここで同校教授の下村観山の強い影響を受け、以後画家としての人生を観山と共に歩むことになる。またこの頃、川端玉章の画塾・天真社で学ぶ。
明治29年(1896年)9月に卒業後も同校に留まり、日本画研究科へ進む。同年、日本絵画協会第一回展に「貫定卿旧都観月」で二等褒状を受ける。明治30年(1897年)2月には平泉中尊寺金色堂修復に助手として参加。翌年10月に創立された日本美術院に参加、最初は副員だったがのち正員となる。同年12月一年志願兵として近衛歩兵第1連隊に入隊している。明治35年(1902年)頃から先輩の下村観山との強い絆が生まれたようで、谷中初音町の八軒家に観山や大観と共に住み、朦朧体への批判で世評が厳しくなった美術院を支える中心作家としての立場が明快になっていく。明治37年(1904年)2月に起こる日露戦争ではjかつての近衛歩兵第1連隊に応召され、7月陸軍歩兵中尉に任官し、8月には従七位に叙位される。
明治39年(1906年)、観山の推挙により岡倉らの五浦移転に、一家をあげて同行する。武山の代表作の多くはこの五浦時代に描かれており、後半期の画業の主流となる仏画も並行して描き始めた。大正3年(1914年)、大観・観山らと共に日本美術院を再興、経営者、評議員、同人の三役を兼ね、以後中心的存在として院の経営に尽力した。昭和12年(1937年)、脳内出血で倒れ郷里・笠間で静養、病で右手の自由が利かなくなったため左手で絵筆を執り、「左武山」の異名をとる。昭和17年(1942年)、喘息のため死去。法名は泰霊院映誉広彩武山居士。墓所は木村家の菩提寺である笠間市の月崇寺のほか、自邸内の大日堂に分骨された。
作品初期は歴史画が多く、25歳頃から主に花鳥画を描く。大正初期は琳派の手法を用いた壮麗な作風が特徴的である。1916年(大正5年)、笹川臨風と共に大和・河内巡りをした際、観心寺の如意輪観音坐像に驚嘆したのを切っ掛けに、後年は仏画を多く描いた。優れた色彩感覚を持ち、日本美術院きってのカラリストと評された。


小堀進

1904年(明治37年)1月22日、茨城県行方郡大生原村(現潮来市大賀)に生まれる。
1922年(大正11年)3月、千葉県立佐原中学校(現千葉県立佐原高等学校)を卒業。中学時代より郷里の水郷風景を水彩で描いていた。
翌1923年(大正12年)、上京し葵橋洋画研究所に入所、晩年の黒田清輝に洋画の基礎を学んだ。
1932年(昭和7年)、第9回白日会展出品作「うすれ日」が公募展初入選。また同年開催の第19回日本水彩展出品作「画室の一隅」「盛夏の海」も同時に入選した。翌1933年(昭和8年)にも第20回二科展出品作「高原」が二科展初入選している。以後1939年(昭和14年)まで二科展出品を継続。
1934年(昭和9年)、第21回日本水彩展でキング賞を受賞、この受賞により日本水彩会員に推挙された。同年の第11回白日会展でも受賞し会友に推挙、続く1936年(昭和11年)に第13回白日会展で同会新会員となる。
1939年(昭和14年)、第26回二科展「遊覧船」が二科展への出品最終作品となった。
1940年(昭和15年)5月、洋画界における水彩画の地位向上を目指し荒谷直之介、春日部たすくら有志8名と水彩連盟を結成し、以降日本水彩画の発展に際し中心的な役割を担った。同年12月には水彩連盟初の第1回展を東京都銀座の三越で開催し、以後第5回展まで東京都および大阪府の三越で通年開催した。
戦時中は1942年(昭和17年)第5回文展出品作「初秋水郷」、1943年(昭和18年)第6回文展「水が咲く」が連続入選。その後1944年(昭和19年)に郷里へ疎開した。この間、1972年2月には大日本帝国海軍横須賀鎮守府を通じ潜水艦各艦に日本水彩画会員として石井柏亭など会員23名と共に小堀も水彩画作品30点余を贈っている。
戦後1947年(昭和22年)に再度上京し、文展より組織改まった第3回日展にて出品作「驟雨」が入選。1949年(昭和24年)第5回日展「湖畔」が無鑑査、以後死去前年の1974年(昭和49年)まで一度も欠かさず日展出品を継続した。この間、日展審査員を6回務めている。
1957年(昭和32年)に入り日展が民営化、社団法人となると日展評議員に就任。
1969年(昭和44年)、改組第1回日展に「初秋」を出品。この年、日展理事に就任した。
1970年(昭和45年)、前年作品「初秋」により第26回日本芸術院賞を受賞。同年、名古屋芸術大学教授に就任。
1974年(昭和49年)11月、水彩画家として初めて日本芸術院会員となる。
1975年(昭和50年)3月16日、癌性胸膜炎により東京都北区の大蔵省印刷局東京病院にて死去、71歳没。
1975年、勲三等瑞宝章受章。
1991年(平成3年)、潮来市名誉市民に選出される。
2004年(平成16年)、郷里潮来市にて生誕100周年を記念し小堀のブロンズ像が建立された。


雪村

雪村は、室町時代後期・戦国時代の水墨画家、僧侶。雪村周継とも称し、諱、別号に如圭・鶴船老人等。佐竹氏の一族で武家を継がず禅僧となる。周文・雪舟の画風を慕い、のち独自の特色を発揮して一家を成す。最も山水画に長じ、花鳥画・人物画も能くした。


立原杏所

水戸横竹隈に水戸藩の藩儒であった立原翠軒の長男として生まれた。家系は常陸平氏大掾氏の一門・鹿島氏の庶流といい、鹿島成幹の子・立原五郎久幹を祖とする立原氏。祖父は水戸藩彰考館管庫・立原蘭渓。父は水戸藩彰考館総裁・立原翠軒。長女は崋山門下十哲のひとりに数えられる南画家・立原春沙、次女は斉昭の側室・利子。三男に幕末の志士・立原朴二郎。子孫には大正時代の詩人で建築家の立原道造がいる。
幼い頃、林十江に画筆を学ぶ。寛永8年(1796年)、父の門下で鮎画や真景図の名手であった小泉斐(壇山)などに師事する。また、伊勢国寂照寺の僧・月僊にも学び、付立技法による山水画の樹木や、花鳥画の筆勢が強く爽快な表現などに影響が見られる。享和3年(1803年)に父が隠居し家督を継いで(家禄200石)先手物頭、扈随頭などの職を務めた。
文化9年(1812年)、江戸小石川藩邸勤務となってからは谷文晁に師事し、中国の元代から明、清の絵画を閲覧、場合によっては借り受けて模写をしている。とくに惲寿平、沈南蘋の画風を学んだという。また宮部雲錦にも画技を習い、その人となりに影響されたという。その作品には謹厳にして高い品格を漂わせ、すっきりと垢抜けた画風が多い。渡辺崋山・椿椿山・高久靄厓とも交流があり、華山が蛮社の獄で捕縛された時には、椿山らと共に不自由な体をおして救出に助力・助言をし、藩主斉昭の斡旋を図ろうとしている。その他、業績としては日本画多数。著書に『水滸伝印譜』、『近世書画年表』、『墨談評』などがある。
長女・春沙は渡辺崋山に入門し画家として閨秀を揮った。次女・利子は斉昭の側室となって喜連川藩主喜連川縄氏をもうけた。
最晩年に脚気を患い、天保11年(1840年)、小石川の藩邸で死去。享年56(満54歳没)。墓は文京区向丘の海蔵寺と、常澄村(現在の水戸市常澄)六地蔵寺。


利根山光人

6人兄弟の末子として生まれる。幼時より創作活動を行っていた。早稲田大学高等師範部国語漢文科(現在の教育学部国語国文学科)卒業後は、静岡県の農業学校、栃木県立烏山高等女学校、海城学園に国語教員として勤務した。その後、一時教員生活を去り、メキシコなどへ渡航した。シケイロス、オロスコなど壁画作家の影響を受ける。帰国後は聖徳学園高等保育学校、聖徳学園短期大学などで教えながら、創作活動を行う。
メキシコのマヤ文明をテーマにした作品(リトグラフ、油彩)を数多く残し、日本芸術大賞やメキシコにおける最高文化勲章であるアギラ・アステカ・ブラーカ賞などを受賞した。版画製作開始後は瑛九や泉茂や早川良雄らによって結成されたデモクラート美術家協会に参加。晩年は岩手県北上市展勝地近くにアトリエを構え、創作活動をした。アトリエは現在、利根山光人記念美術館として公開されている。
海城高校時代の教え子に窪島誠一郎がいる。


中村彝

1887年(明治20年)、茨城県仙波村(現在の水戸市)に生まれる。男3人女2人の5人兄弟の末子であったが、兄2人と姉1人は彝が10代の時に相次いで亡くなる。父は彝が生まれた翌年に没しており、母も彝が11歳(満年齢、以下同)の時に没した。軍人の兄を頼って上京し早稲田中学校に進むが、自身も軍人を目指すべく名古屋陸軍地方幼年学校に転じるため中退する。
1904年(明治37年)、祖母が死に、唯一生き残った2番目の姉が嫁いでからは天涯孤独の身となり、一人暮らしを余儀なくされる。彝自身も結核を病み、療養のため学校(陸軍中央幼年学校)を中退した。
1905年(明治38年)、18歳の時に転地療養のため千葉県北条湊(現在の館山市)に赴き、彝はこの地で水彩スケッチを始めた。翌年から白馬会研究所、次いで太平洋画会研究所で洋画の勉強をするが、その間にも千葉県などへ転地療養を繰り返している。
1909年(明治42年)第3回文展に初入選。
1910年(明治43年)には第4回文展で『海辺の村』が3等賞となり、この作品は実業家の今村繁三が購入する。
1911年(明治44年)、新宿・中村屋の主人・相馬愛蔵夫妻の厚意で、中村屋の裏にある画室に住むことになる。相馬夫妻は、彫刻家・荻原碌山(おぎわらろくざん)や中原悌二郎をはじめ多くの芸術家を支援していた。
1913年(大正2年)~1914年(大正3年)にかけての彝の作品には相馬家の長女・俊子をモデルにした裸婦像が数点あり、2人の親密な関係が伺われる。彝は、俊子に求婚するが結核を理由に反対され、この失恋が元で煩悶することになる。
1916年 新宿区下落合にアトリエを構える。以後、彝は亡くなるまでこのアトリエでの創作を行う。
1920年(大正9年)には前述の今村繁三邸でルノワールの作品を実見し、また院展の特別展示でルノワールやロダンの作品を見て強い感銘を受けた。彝の代表作とされる『エロシェンコ像』はこの年に制作されたもので、ルノワールの影響が感じられる。ワシーリー・エロシェンコ(1890年 - 1952年)はアジア各地を放浪していたロシア人の盲目の詩人で、先述の新宿・中村屋の世話になっていた。
1921年(大正10年)には病状が悪化し、同年7月には遺書を認めている。彝は1921年(大正10年)から翌年にかけては病臥の生活で、ほとんど作品を残していない。
1924年(大正13年)、37歳で死去。死の直前の1923年(大正12年)~1924年(大正13年)に描かれた『頭蓋骨を持てる自画像』は、若い頃の彝の自画像とは別人のように頬がこけ、眼の落ち窪んだ相貌になっているが、その表情には苦行僧か聖人のような澄みきった境地が感じ取れる。絶筆は花を生けた花瓶を描いた『静物』(未完)。
1988年 茨城県近代美術館敷地内に下落合にあった中村のアトリエを新築復元した「中村彝アトリエ」が創設される。(現在一般公開中止)
1989年(平成元年)中村彝賞が中村彝会(弟子であった鈴木良三 (画家)会長)によって創設され、第1回賞贈呈式が2月2日新宿中村屋で行われた(受賞者は佐竹徳)。同賞は、60歳以上の優れた具象画家を対象に年1回選考される。
2013年(平成25年)新宿区下落合に残るアトリエ跡が復元され、「新宿区立中村彝アトリエ記念館」としてオープンした。


那波多目功一

1933年、茨城県那珂湊市(現在のひたちなか市)に生まれる。
1950年、第35回院展に「松山」が高校生にして初応募、初入選。
1951年、第7回日展に「秋影」が初入選。
1952年、茨城県立那珂湊第一高等学校を卒業。
1983年、第68回院展において「廃園」が奨励賞受賞。
1984年、第69回院展において「うすれ日」が日本美術院賞・大観賞を受賞。日本美術院特待となる。
1985年、春の院展において「小春日」が外務大臣賞・奨励賞を受賞。
1986年、第71回院展において「耀」が日本美術院賞・前田青邨賞を受賞。
1990年、第75回院展において「月輪」が日本美術院賞・大観賞を受賞。日本美術院同人となる。
1995年、第80回院展において「寂」が文部大臣賞を受賞。
1999年、第84回院展において「富貴譜」が内閣総理大臣賞を受賞
2000年、「富貴譜」が日本芸術院賞を受賞。日本美術院評議員となる。
2002年、日本芸術院会員となる。
2005年、芸術文化の振興に大きく貢献したとして茨城県から特別功績者として表彰される。
2008年、旭日中綬章受章。


服部正一郎

服部正一郎は、日本画家、日本芸術院会員。茨城県出身。
1968年二科展に出品した『水郷』が日本芸術院賞を受章。1987年日本芸術院会員。1992年、勲三等瑞宝章受章。


山下りん


常陸国笠間藩(茨城県笠間市)の出身。1873年(明治6年)に江戸に出て豊原国周という浮世絵師に学び、後に川上冬崖に洋画を学んだ中丸精十郎に師事する。1877年(明治10年)には工部美術学校に入学し、アントニオ・フォンタネージの指導を受けた。同窓生の山室政子の影響で正教会に改宗した。工部美術学校は1880年(明治13年)に退学する。
同年、山室の代役で教会より派遣され聖像画家として修養すべく帝政ロシアの首都サンクトペテルブルクに留学した。ビザンチン式の聖像の技法を山下自身は好まず、ロシア滞在中に記した日記に「イコンはおばけ絵」「イタリヤ画(ラファエロが描いたような絵)が画きたい」などの発言を残している。滞在中は女子修道院でイコン製作技術を学び、本当は5年滞在のところを丸2年滞在して1883年(明治16年)に帰国した。
帰国後は東京神田駿河台にあった日本正教会の女子神学校にアトリエを構え、外界との接触を絶ちイコン制作に没頭する。1891年(明治24年)に竣工したニコライ堂にも後にイコンを描いた(関東大震災で焼失)。主に関東地方や東北・北海道を中心に300点あまりの聖像を残した。作風には留学当時ロシアで支持されていた西欧カトリックの宗教画の影響が強く、模写したロシア・イコンを通じて山下りんがギュスターヴ・ドレの聖画集を間接的に模写していたことが指摘されている。
イリナ山下のイコンは全て模写であり無署名である。この点において、正教のイコンの原則を忠実に守っている。ロシア留学からの帰国後は、留学経験を誇る風もなく、機関紙である『正教時報』に留学体験を書くこともなく、肖像写真にも土産にもらったワンピースを着ることもなく粗末な木綿の着物で写り、教会内で目立った自己主張もせず、ただただイコン制作のみに努めた。当時の女子神学生の証言として、周囲とは全く没交渉で、浴室で稀に会った程度であり、アトリエすらも見た者は居なかったというものがある[2]。
ロシア革命後は正教も衰えたため、1918年(大正7年)、61歳で郷里の笠間に戻り、晩年は白内障のためもあって絵筆はとらなかったという。満81歳で没。墓所は笠間市の光照寺。
1901年(明治34年)44歳で制作、個人所有のイコン、ウラジーミルの聖母は2005年に『美の巨人たち』でとりあげられた。


横山大観

1868年(慶応4年 / 明治元年)、水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれる。府立一中、および私立の東京英語学校の学齢時代から絵画に興味を抱き、洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学ぶ。1888年(明治21年)、母方の縁戚である横山家の養子となる。東京美術学校を受験することに決めると急遽、結城正明、狩野芳崖などに教えを受ける(その期間は2、3か月程度だったと言われる)。また、受験の際は受験者数300人中、 200人が鉛筆画での受験をし、しかも彼らは有名な師に何年も教わってきたと聞くや、試験の直前に鉛筆画から毛筆画への試験の変更を申請。見事に東京美術学校へと合格した。1889年(明治22年)、東京美術学校に第1期生として入学。岡倉天心、橋本雅邦らに学ぶ。同期生には下村観山、西郷孤月、第2期生には菱田春草などがいる。
美術学校を卒業後、京都に移って仏画の研究を始め、同時に京都市立美術工芸学校予備科教員となった。またこの頃より雅号「大観」を使い始めるようになった。1896年(明治29年)、同職を辞すと、母校・東京美術学校の助教授に就任した。しかし2年後に当時校長だった岡倉天心への排斥運動が起こり、天心が失脚。天心を師と仰ぐ大観はこれに従って助教授職を辞し、同年の日本美術院創設に参加した。
美術院の活動の中で、大観は春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表する。しかしその先進的な画風は当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びた。現在ではその画風を的確に表す言葉とされる「朦朧体」という呼称も、当初は「勢いに欠ける、曖昧でぼんやりとした画風」という意味で、批判的に使用された言葉であった。保守的風潮の強い国内での活動が行き詰まりを見せ始めたため、大観は春草と共に海外に渡った。インドのカルカッタや、アメリカのニューヨーク、ボストンで相次いで展覧会を開き、高い評価を得た。その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、ベルリン、パリでも展覧会を開き、ここでも高い評価を受ける。この欧米での高評価を受けて、日本国内でもその画風が評価され始めた。1907年(明治40年)には、この年より始まった文部省美術展覧会(文展)の審査員に就任。欧米外遊での経験から、西洋画の鮮やかな色彩が琳派との共通性がある事を見出し、大正時代における琳派ブームを牽引した。1913年(大正2年)には、守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院を、下村観山、木村武山等と共に再興した。
以後、大観は日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、1934年(昭和9年)に朝日文化賞受賞。1935年(昭和10年)には帝国美術院会員となった。1937年(昭和12年)には、この年制定された第1回文化勲章の受章者となった。同年、帝国芸術院会員となる。
太平洋戦争下には日本文学報国会顧問となり、アドルフ・ヒトラーへの献呈画を描くなど、戦争協力を行った。
戦後の1951年(昭和26年)に日本美術院会員を辞任、同年に文化功労者となった。大観は1958年(昭和33年)2月26日、東京都台東区にある自宅にて89歳で永眠した。大観の永年に渡る日本美術発展への貢献により正三位に叙せられ、勲一等旭日大綬章を贈られた。なお、大観の脳は現在もアルコール漬けにされた状態で、東京大学医学部に保管されている。


富張広司

茨城県猿島郡境町に生まれる。茨城県立境高等学校を経て、1957年(昭和32年)に茨城大学教育学部美術科を修了し、茨城県の公立小学校の学校教員となる。その後、独学で木版画制作を始め、ノースウエスト国際版画展をはじめとした様々な作品を出展していった。
1978年(昭和53年)には文化庁芸術家海外研修員および日米友好基金の日米芸術家交換生としてニューヨークに一年間滞在した。 その後、1981年(昭和56年)に教員を退職して、画業に専念し始め、1983年(昭和58年)にホノルル美術館にて個展を開催した。
1992年(平成4年)に栃木県小山市に富張木版画美術館を開館し、栃木県小山市に移り住んだ。
2003年(平成15年)には茨城県芸術祭美術展・横山大観賞を受賞し、2009年(平成21年)に画業50周年記念展を開催し、2013年(平成25年)に富張広司近作木版画展を開催する。


松本楓湖

天保11年9月14日(1840年10月9日)、常陸国河内郡寺内村(のちの稲敷郡新利根町寺内、現・茨城県稲敷市寺内)に、松本宗庵の三男として生まれる。名は敬忠。幼名は藤四郎、通称藤吉郎。父宗庵は漢方医で、漢学の素養もあり近所の子弟に教えていたという。
楓湖は幼いころから絵を好み、一般に人物を描くのに右向きの顔ばかりで左向きの顔は容易に描けないものだが、楓湖は左右どちらも自在に描けたという。最初息子が絵師になるのを反対していた父もこれを見て画人になるのを許し、数え12歳の楓湖を連れ嘉永4年(1851年)秋に江戸に出て、浮世絵師の歌川国貞への弟子入りを頼むが、断られて帰国している。2年後の嘉永6年(1853年)再び江戸へ出て、鳥取藩の御用絵師・沖一峨に学ぶ。一峨は狩野派や琳派、南蘋派に学んで濃彩華麗な花鳥画を得意とした絵師であり、楓湖も一峨から華やかな色彩感覚を学んだ。安政2年(1855年)16歳のとき「洋峨」の号で、地元茨城県の実家近くの逢善寺本堂天井画「天人図」などを描いている。
一峨が亡くなった翌年安政3年(1856年)17歳で、谷文晁の高弟で彦根藩御用絵師佐竹永海の画塾に入り、画号を永峨と改める。5年後には塾頭となったが、文久2年(1861年)前後から尊皇運動に転じており、勤皇画家として知られた。自身も剣術を修め、水戸藩の武田耕雲斎や藤田小四郎らと交わり勤王党を援助している。元治元年(1864年)天狗党の乱が起きるとこれに参加、幕府軍に敗れて一時郷里で蟄居する。
翌慶応元年(1865年)江戸に戻り、再び画道に専心する。明治元年(1868年)、歴史人物画の画題を『前賢故実』に依っていた楓湖は、永海の許しを得て菊池容斎に入門、画号を楓湖に改める。画号の由来は、郷里が霞ヶ浦に近く、その一入江が通称「カエデ湖」と呼ばれていたことに因む。その一方で、生活の糧として輸出商アーレンス商会の依頼で、輸出用七宝の下絵なども描いている。明治15年(1882年)、宮内省より出版された欽定教科書『幼学綱要』において、大庭学仙、竹本石亭、月岡芳年、五姓田芳柳らの候補の中から楓湖が選ばれ、全7巻62図の挿絵を描き一躍名を轟かせた。明治20年(1887年)には、その姉妹編といえる『婦女鑑』(全6巻)でも挿絵を担当している。なお、楓湖はこのころまで断髪せず、丁髷姿で通したという。明治21年から明治27年には末広鉄腸らの小説の木版口絵を手がけており、政治小説などの口絵初期のもので白黒のものなどを描いている。
明治31年(1898年)、日本美術院の創設に参加、文展開設当初から(第4回まで)審査員にあげられた。歴史画に長じ、第4回内国勧業博覧会に「蒙古襲来・碧蹄館図屏風」(明治27年(1894年))、第1回文展に「静女舞」(明治40年(1907年))などを発表、大正8年(1919年)、帝国美術院会員となった。大正12年(1923年)6月22日歿。東京谷中初音町の全生庵に葬られた。


森田茂

1925年(大正14年) 茨城県師範学校本科第二部(現在の茨城大学)を卒業。真壁郡大田尋常高等小学校(現在の筑西市立大田小学校)の教員となり、子供たちに絵画を教える
1926年(大正15年) 第3回白牙会展に『静物』が入選
1928年(昭和3年) 大田尋常高等小学校を退職。画家を志し上京する
1931年(昭和6年) 同じ茨城県出身の熊岡美彦が開設した熊岡洋画研究所に入所
1932年(昭和7年) 飛騨高山に写生旅行
1933年(昭和8年) 第1回東光展に『白衣』が入選
1934年(昭和9年) 第15回帝展に『神楽獅子の親子』が初入選。第2回東光展に『稽古』が入選
1935年(昭和10年) 第1回大東会絵画展に『飛騨祭』が入選
1936年(昭和11年) 文部省美術展覧会鑑査展に『飛騨広瀬の金蔵獅子』が入選
1938年(昭和13年) 東光会会員となる。第2回新文展で『金蔵獅子』が特選
1946年(昭和21年) 第2回日展に『阿波人形』が入選
1956年(昭和31年) 日展審査員、東光会委員
1962年(昭和37年) 日展評議員
1966年(昭和41年) 第9回新日展で『黒川能』が文部大臣賞受賞
1970年(昭和45年) 第1回改組日展出品作品『黒川能』が日本芸術院賞受賞
1971年(昭和46年) 日展理事
1975年(昭和50年) 日展監事
1976年(昭和51年) 日本芸術院会員
1977年(昭和52年) 勲三等瑞宝章、日展常務理事
1980年(昭和55年) 東光会初代理事長
1982年(昭和57年) 日展顧問
1989年(平成元年)文化功労者
1992年(平成4年) 下館市名誉市民に推挙
1993年(平成5年) 文化勲章受章、茨城県名誉県民に推挙
2007年(平成19年) しもだて美術館および茨城県近代美術館において100歳記念展開催
2009年(平成21年) 肺炎のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去。101歳没





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