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広島県について

県名は県庁所在地である広島市に由来する。その広島の由来は、1589年(天正17年)からの毛利輝元による広島城築城の際に、1591年(天正19年)命名されたものである。大江広元(毛利氏の祖)以来、毛利氏は「元」の通字以外、「広」も諱に使用する字の一つとしていた。毛利元就の時代には、完全に臣従したもの(吉川元春、天野元貞、出羽元祐など)には、「元」を一字書出として与えたが、そうでない国人衆(平賀広相、阿曽沼広秀など)には、明白に傘下に組み入れられたと示す「元」の字を避け、「広」の字を与えたとされる。この慣習は毛利輝元にも引き継がれ(吉川広家、山内広通、益田広兼など)、毛利氏(特に輝元)の与える「広」は重要な意味合いを持った。従って「広島」は、この「広」とこの地の豪族であり、普請奉行であった福島元長の「島」を併せたとする説が有力である。また他に、デルタのため「広い島」からきたという説もある。

広島県は日本の中部地方に位地する県です。
県庁所在地は広島市で、瀬戸内海に面しています。
毛利元就と陶晴賢が合戦を行った地として有名な厳島は、世界遺産にも認定されている厳島神社を始め観光名所として有名です。
厳島神社へは宮島駅から出ているフェリーで行くことができ、またフェリー乗り場の近くには宮島ボートレース場があり、レース場から厳島の大鳥居をみることが出来ます。
宮島の名産は牡蠣とアナゴで特に牡蠣の加工品は土産としての定番です。
また、広島市には世界遺産に認定されている原爆ドームが今も保存されていて、戦争の凄惨さを現代に伝えています。
原爆ドームへは広島駅から路面バスを利用していくことが出来ます。

牡蠣以外の広島県名産品として有名なのが「もみじまんじゅう」です。
広島県に観光に来た場合のお土産の定番となっています。
2014年の流行語にも選ばれたカープ女子で有名なプロ野球チーム、広島東洋カープは1956年の創立以来、地元の人たちに愛されています。

画家について

・靉光
1907年 広島県山県郡壬生町(現・北広島町壬生)に農家の二男として生まれる[1]。
1913年 父方の伯父の養子となり広島市鉄砲町へ転居。
1922年 高等小学校卒業後、印刷所に奉公し製版技術を習う。
1924年 大阪に出て天彩画塾に学び画家を志す。このころから靉川光郎(あいかわ みつろう)と名乗る。靉光の名は、これを略したものであった。
1925年 17歳で上京、谷中へ居住し太平洋画会研究所に学んだ。フランス近代絵画の影響を受け、作風がめまぐるしく変化した。
1926年 二科展に初入選。以降「池袋モンパルナス」と呼ばれた界隈で、独自の画風を追求していった。
1930年頃から画風が変化し、次第に前衛的作品が増える。二科展他、中央美術展、独立展などに出品し多くの賞を得た。
1936年 第6回独立美術展に『ライオン』を発表。2年間ライオンの連作を制作した。
1938年 第8回独立美術展へ代表作となる『眼のある風景』を出品し、独立美術協会賞を受賞した。画風が次第にシュールレアリズムに傾く一方、宋元画の影響も現れる。
1939年 福沢一郎ら40名のシュルレアリスム運動家と共に美術文化協会を設立する。
1943年 「新人画会」の結成に参加し主要メンバーとして活躍する。靉光も同年から翌年にかけて3作の自画像を製作した(『自画像』、『梢のある自画像』、『白衣の自画像』)。
1944年 『白衣の自画像』完成直後に応召し大陸へ渡った。兄への手紙では「ようやく戦時下の男になれそうです」と靉光は召集時の心境を綴っている。満州では南京、武漢方面へ転戦したとされる。
1945年 8月6日、靉光の故郷である広島に原爆が投下され、靉光が故郷へ残してきた作品、資料の多くが焼失してしまう。8月15日に中国で終戦を迎えた。
1946年1月19日、靉光は中国の上海郊外でマラリアとアメーバ赤痢により病死した。享年39。靉光の遺族の元には、遺品の飯盒だけが友人から送られた。
靉光は生前、独特な画風から画壇の主流から外れ“異端の画家”とも呼ばれたが靉光の死後、作品が日本人の油彩表現として一つの到達点を示したとして評価を高めた。2007年3月~5月に靉光の生誕100年を記念する回顧展が東京国立近代美術館で開催された。

・有地好登
1949年 広島県府中市に農家の末子として生まれる
1968年 日本大学芸術学部美術学科入学
1972年 日本大学芸術学部美術学科卒業
1976年 Bradford College of Art & Design留学(イギリス)
1979年 日本大学芸術学部助手
1981年 日本大学芸術学部専任講師 88年助教授 94年同教授
この間、客員芸術家としてイギリス、アメリカ、オーストラリア、中国台湾などで教える。
また、1986年10月から文化庁芸術家在外研修員として約1年間マサチューセッツ州に滞在した(スミスカレッジ・アメリカ)。
2005年・10年には国立台湾芸術大学でワークショップ講義を行っている。

・奥田元宋
「元宋の赤」と言われる独特な赤色が特徴。「美術人名辞典」(思文閣)によれば「自然と自己の内面を照応した幽玄な山水で精神性の濃い絵画世界を築く」と評されているほか、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典には「日本の風景美の伝統を受け継いだ静かで神秘的な水墨画の世界に、多彩な色使いによる色彩美を加え、新朦朧派と評される独自の風景画を確立した」と解説されている。

また、歌会始の召人に選出されており、歌人としても著名だった。

1912年(明治45年)- 広島県双三郡八幡村(現・三次市吉舎町八幡)に生まれる。
1931年(昭和6年)から1935年(昭和10年)- 1931年(昭和6年)に上京し遠戚の児玉希望に師事、内弟子となった。しかし1933年(昭和8年)に自身の絵画技術に疑義を持ったことを発端に児玉門下を出奔、その間文学、映画などに傾倒したものの、その後1935年(昭和10年)に師児玉に許されて再び門下に戻るが外弟子に降格された。
1936年(昭和11年)- 文展の鑑査展に「三人の女性」が初入選。
1937年(昭和12年)- 児玉希望画塾第1回展に「舞踏場の一隅」で塾賞受賞。この頃に児玉より雅号「成珠」を与えられたが用いず、中国宋元絵画への憧れと本名にちなんだ「元宋」を自ら号するようになった。
1938年(昭和13年)- 第2回文展「盲女と花」が特選受賞。
1944年(昭和19年)- 戦争の激化に伴い故郷に疎開。
1949年(昭和24年)- 第5回日展で「待月」が特選と白寿賞を受賞。
1962年(昭和37年)- 第5回新日展で「磐梯」が文部大臣賞、文化庁買上げになる。
1963年(昭和38年)- 前年「磐梯」により日本芸術院賞受賞。
1973年(昭和48年)- 日本芸術院会員に推挙。
1974年(昭和49年)- 日展常任理事に就任。
1976年(昭和51年)- 同郷の人形作家・川井小由女と結婚。これ以降、小由女は奥田姓を名乗る。
1981年(昭和56年)- 宮中歌会始に出席、真言宗大聖院の本堂天井画「龍」を制作、同年文化功労者に選ばれる。
1984年(昭和59年)- 文化勲章を受章。
1989年(平成元年)- 広島県名誉県民。
1995年(平成7年)- 日本芸術院第一部(美術)部長になる。
1996年(平成8年)- 銀閣寺の庫裏、大玄関・弄清亭障壁画が完成。
2003年(平成15年)- 心不全のため東京都練馬区富士見台の自宅で死去。
2006年(平成18年)- 広島県三次市東酒屋町に奥田元宋・小由女美術館が開館。
2020年(令和2年)- 妻の小由女が文化勲章を受章。史上初の夫妻での文化勲章受章となった。

・金島桂華
1925年帝展で「芥子」が特選、1927年「鳴子九皐」(宮内省買い上げ)、1928年「牡丹」で特選。1929年には小野竹喬や大村廣陽とともに帝展無鑑査に推薦される。1930年から1939年まで京都市立美術工芸学校教諭を務める間、1934年帝展審査員に推される。1930年代半ばから日本画壇を支えるために力を貸し、「国防費献金京都日本画家有志会」の設立メンバーの一員として1937年8月、石崎光瑤、登内微笑、堂本印象、中村大三郎、宇田荻邨、山口華楊、?本一洋、福田平八郎とともに作家に呼びかけ、寄贈された作品の頒布会を開いた。これを「京都日本画家献画運動」と呼び、およそ80名から寄せられた作品の代金をまとめて1万円(当時)としている。献金は第十六師団を通じて陸軍に寄せられた。

日展では1950年に運営会参事に加わると第8回出品作「鯉」に対して芸能選奨美術文部大臣賞を受賞。1960年理事、1969年同じく顧問に就く。また第9回出品作「冬田」に対し1954年に日本芸術院賞を受け、1959年になると児玉希望、小糸源太とともに3月に第一部新補充会員に序せられる。ところがこのとき日本画分野の審査で金島と同票だった宇田荻邨は有資格者でありながら、年長の金島のみ当選させたと松林桂月と鏑木清方、安田靫彦が抗議する。本来であれば選外となった場合は改めて推薦を受け審査の対象となるところ、宇田を日本美術院初の保留会員として扱い、欠員を生じたとき無投票で当選させることが決まった。

1974年9月14日、肝性脳症のため京都市内の病院で死去、享年82歳。

・児玉希望
広島県高田郡来原村原田(現・安芸高田市高宮町原田)出身、本名・省三。尾竹竹坡門下を経て、1918年に川合玉堂の門に入る。「希望」の号は竹坡がつけたもの。帝展に出品し、1921年「夏の山」で初入選。1928年帝展では洋画の手法を取り入れた「盛秋」で特選となる。以後、新文展、日展に出品。1950年日展運営会参事、伊東深水門下の白鳥映雪らとともに日月社を結成。1952年の作品「室内」により日本芸術院賞を受賞。1958年日展評議員、1959年日本芸術院会員。1961年日展常務理事。1970年勲三等旭日中綬章受章。画塾の門下には佐藤太清、奥田元宋、船水徳雄らが在籍した。賀茂鶴酒造名誉会長の石井泰行は娘婿。

・ジミー・ツトム・ミリキタニ
母国日本の教育を受けるため生後3ヶ月で帰国[2]。母の故郷広島県五日市町(現広島市佐伯区)で18歳まで育つ。軍国主義が強まる日本で兵学校に行くことを拒否。1938年、絵描きになる夢を抱いて自由の国・アメリカへ再び戻る。しかし第二次大戦中の1942年には大統領令により、米国籍を持つにも関わらず、ツールレイクの日系人の強制収容所に送られた。そこで勧められるままに米国市民権を放棄、終戦後の1947年まで約5年間、数ヶ所の収容所に拘留され続けた。市民権はその後も回復されず、働き場を得られず各地を放浪。1950年代始めにニューヨークに流れ着いた。ここで仏教会の援助を受け料理人として1980年代後半まで約30年間、東海岸を渡り歩きレストラン等で働く。1959年に市民権は回復したが、引越しを繰り返していたため通知は届かなかった。

1980年代後半、雇用主が亡くなり突然住む場所も職も失う。ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジのワシントン・スクエア・パークでホームレスのような生活をしながら、路上でボールペンなどで描いた猫の絵を売る。再び芸術家を目指すが路上生活は長きに及んだ。2001年、ミリキタニの絵を買ったことが縁で映画監督のリンダ・ハッテンドーフと知り合い、ミリキタニの半生と二人の交流を描いたドキュメンタリー映画『ミリキタニの猫(The Cats of Mirikitani)』が製作された。本作品は世界各国の映画祭で高い評価を受け数多くの賞を受賞している。

なお、同作品に出演しているジャニス・ミリキタニ(詩人、フェミニスト)は、いとこの娘にあたる。ジャニスは詩作のほかに、貧困救済のためのプロジェクトや、幼いときに義父から受けつづけた性暴力の経験から児童虐待防止を訴える活動などをしている。

2007年、70年ぶりにミリキタニは日本に帰省。8月6日の広島市の広島平和記念式典にハッテンドーフ監督とともに参列した。小学校時代の先生を原爆で亡くしているため献花し、「仰げば尊し」を朗々と歌い上げまわりを驚かせた。

2012年、脳出血に起因する機能不全のためニューヨーク市内の病院で死去。92歳没。

・野田弘志
1936年、6月11日に韓国全羅南道に生まれる(本籍地は広島県沼隈郡柳津村)。その後、福山、中国・上海と転居。
1945年、日本に帰国し福山市で過ごす。
1951年、静岡県浜名郡に転居。
1952年、愛知県立豊橋時習館高等学校に入学。
1956年、上京し阿佐ヶ谷美術学園洋画研究所に通う傍ら、森清治郎に絵画を学ぶ。
1957年、東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻に入学。
1960年、白日会第36回展に初入選し、白日賞受賞。
1961年、第37会展においてプルーヴー賞受賞、白日会準会員となる。東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻(小磯良平教室)を卒業、東急エージェンシー企画調査部制作課にイラストレーターとして入社する。
1962年、白日会会員となる。東急エージェンシーを退社。以後、デザイン会社を設立し、イラストレーターとして活躍。
1966年、『現代日本文学館 三島由紀夫』(文藝春秋)の挿画を製作。
1970年、画業に専念するためにイラストレーターを辞する。安井賞展、国際形象展、新鋭選抜展、明日への具象展、日本秀作美術展などに出品するほか、初の個展(銀座・三越)等、個展を中心に作品を発表。
1974年、東京造形大学非常勤講師となる(勤務は2年間)。
1982年、白日会第58回展で内閣総理大臣賞を受賞。
1983年、朝日新聞の朝刊に連載された加賀乙彦の小説『湿原』の挿画を担当( - 1985年)。
1987年、加賀乙彦「ヴィーナスの笑くぼ」(『婦人公論』連載)および宮尾登美子「松風の家」(『文藝春秋』連載)の挿画を担当。
1988年、野田弘志展〈明晰なる神秘〉(有楽町アートフォーラム、豊橋市美術博物館他)を開催。
1990年、ベルギーで個展(ヘント・ヴェラヌマン美術館)を開催。日本経済新聞に「写実のこころ10選」を連載。
1992年、「現代の視覚」展 (東京・有楽町アートフォーラム)に出品。第14回安田火災東郷青児美術館大賞を受賞。第5回 安田火災東郷青児美術館大賞作家展〈第14回受賞者野田弘志〉(新宿・安田火災東郷青児美術館)および「安田火災東郷青児美術館大賞受賞記念野田弘志展」(ふくやま美術館)を開催。
1992年、「両洋の眼・現代の絵画」、安田火災東郷青児美術館大賞15周年歴代作家展(新宿・安田火災東郷青児美術館)、「美しすぎる嘘〈現代リアリズム絵画展 PART1 スペイン―日本〉」(日本橋・三越)、「大和思考」〈思いがフォルムになる時〉(大阪・近鉄アート館)に出品。
1993年、「豊橋市美術博物館所蔵 野田弘志展」(札幌・三越)を開催。日本ポルトガル友好450周年記念・新妻實・野田弘志展〈隠されている美神 石と骨〉(リスボン・GALERIA VALENTIM OE CARVALHO他)に出品。
1994年 ベルギーで野田弘志展〈油彩・水彩〉(ヘント・ヴェラヌマン美術館)を開催。 第12回宮本三郎記念賞を受賞。「第12回宮本三郎記念賞 野田弘志展」(日本橋・三越本店)を開催。「輝くメチエ ?油彩画の写実・細密表現」(奈良県立美術館)に出品。
1995年、「洋画の展望 -具象絵画を中心に-」(福井県立美術館)に出品。北海道壮瞥町にアトリエを構える。
2007年、大規模な回顧展を開催。
2018年、天皇並びに皇后の肖像画を制作し、宮内庁に奉納。2018年度北海道文化賞受賞。

・平山郁夫
1930年 - 広島県豊田郡瀬戸田町(現尾道市瀬戸田町)に生まれる。
1947年 - 東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。
1952年 - 卒業とともに同校助手となる。
1973年 - 東京藝術大学美術学部教授に就任。
1988年 - ユネスコ親善大使に就任。
1989年 - 東京藝術大学学長に就任。1995年まで務める。
1992年 - 世界平和アピール七人委員会委員に就任。2005年まで務める。
1992年 - 日中友好協会会長に就任。2008年まで務める。
1992年 - 早稲田大学より名誉博士号贈呈。
1994年 - 文化財保護振興財団理事長(現・文化財保護・芸術研究助成財団) に就任。
1996年 - 日本育英会会長就任。2001年まで務める。
2001年 - 再び東京藝術大学学長に就任し、2005年まで務める。
2005年 - 日韓友情年日本側実行委員長に就任。
2005年
東京国立博物館特任館長に就任。
平城遷都1300年記念事業特別顧問。
2009年 - 脳梗塞のため東京都内の病院で死去。

・福原五岳
京都に上り、池大雅に入門。大雅門第一位と評される。同門には青木夙夜・池野観了など。大坂に移り、大雅の画風を広め、大坂画壇の隆盛に一役買った。人物図は彭城百川以来の名手と評され、山水図も得意とした。懐徳堂や混沌詩社の名流と交友。三宅春楼・中井竹山・片山北海・頼春水・木村蒹葭堂・葛子琴・細合半斎・慈雲・蔀関月などである。

安永頃に北渡部町に住み、寛政頃から本町に住んだ。寛政11年(1799年)、70歳にて歿し、下寺町源聖寺に埋葬される。

門下に林?苑・岡熊嶽・浜田杏堂・鼎春嶽・黒田綾山・岡本豊彦・広瀬臺山・平田玉蘊、松本奉時などがいる。

・船田玉樹
広島県賀茂郡広村(現在の呉市広)出身。速水御舟の門に入り、御舟没後は小林古径に師事。1938年(昭和13年)、岩橋英遠らと歴程美術協会を結成、丸木位里らと日本画の前衛表現を推し進める。戦後は郷里にとどまり、孤高の画業を貫く。2012年(平成24年)から2013年(平成25年)にかけて、練馬区立美術館と広島県立美術館で大規模な回顧展が開催され、それにあわせて画文集『独座の宴』が刊行される。

船田の娘でアコーディオン奏者・ゆうこ(副島優子)は、シンガーソングライター・村下孝蔵の元妻。村下の楽曲『ゆうこ』のタイトルになっている。また、息子の船田奇岑は、父の画業を継ぐ日本画家であり電子楽器テルミンの演奏家でもある。

・松山省三
広島県広島市出身。父・渡辺又三郎は広島藩主を務めた浅野氏の荒小姓で伊藤博文の弟子。維新後、代言人から政治家になり市議会議長、第8代広島市長を務めた。省三は三男であった。

日本中学校を経て東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画撰科に入学、1907年卒業(卒業時は渡辺姓。その後、弁護士・松山広居に養子入り)。

リベラリストだった省三は政治家になることを嫌がり、画家になるべく家族を連れて1909年上京。妻・英子は当時妊娠7ヵ月で、上京直後に生まれた長男が後の歌舞伎役者、河原崎国太郎である。1909年11月に小山内薫が主宰した自由劇場の公演で、他の美術学校関係者とともに背景画を担当したという。実父は広島市長在職中の1910年7月に病死した。

画業では白馬会の岡田三郎助に師事、院展などに出品した。パリに憧れ留学が夢だったが、義父が小豆相場に失敗して断念。親友の劇作家・小山内薫に勧められ、美術学校時代の教授だった黒田清輝らに聞かされたパリの「カフェ」のような、文人や画家達が集い芸術談義をできる場所を作りたいと、平岡権八郎とともに1911年3月、京橋日吉町(現・銀座8丁目)に「カフェー・プランタン」を開業した。プランタンは仏語で春を意味し、親友小山内が命名した。

日本で初めて「カフェー」と名乗り、珈琲や洋酒、サンドイッチ、食事を揃えた。フランスのカフェの給仕は男性であるが、プランタンは女給仕、今でいうウェイトレスを置いて人気を得た。従来にない営業形態のため、当初は会費50銭で維持会員を募り会員制としていた。会員には森?外、永井荷風、谷崎潤一郎、岸田劉生、岡本綺堂、北原白秋、島村抱月、2代目市川左團次ら錚々たるメンバーが名を連ね大いに賑わった。店の壁は彼らの落書きで埋まり、店の名物になったという。

カフェー・プランタンは日本第1号のカフェとされ、松山は日本の「事始め」や「飲食文化史」に名前を残すこととなった(日本における喫茶店の歴史)。

しかし、1923年9月の関東大震災で日吉町のプランタンは焼失。

震災後の一時期、牛込神楽坂に支店を出した。こちらの店は文化人や早大生に特に愛されたという。またかつて大型客船でバーテンをしていたこの店の従業員が、船内用の英文18ページの麻雀の手引書を持っていて、松山がこれに興味を持ち、二代目 市川猿之助に頼んで、市川が上海で買った一組の麻雀牌を店に持ち込んだ。近くに住む広津和郎と佐々木茂索、松井潤子をカフェ2階に呼び、しどろもどろのルールでゲームを始めたのが、麻雀史に於ける日本麻雀の黎明期ープランタン時代の始まり[7]。その後、貿易商で麻雀通の林茂光(鈴木郭郎)が店に出入りするようになり、松山の牌と、この林の指導を受けた菊池寛、濱尾四郎、古川ロッパ、久米正雄らが日本麻雀の基礎を創った。この神楽坂プランタンは日本の「麻雀荘発祥の地」でもある。神楽坂店は震災の翌年から約2年営業。

本店は銀座通りの南金六町に移転したが、1945年3月の建物疎開で取壊された。

第2次世界大戦後は、文春クラブ支配人を務めた。

1970年2月2日、85歳で死去。墓所は調布市明西寺にある。

長男は歌舞伎俳優の5代目河原崎國太郎。孫は俳優の松山英太郎、松山政路、女優の松山梨絵。曾孫は歌舞伎俳優の7代目嵐芳三郎、6代目河原崎國太郎、女優の由夏、俳優の芦田昌太郎、女優の松山愛佳。

・丸木位里
広島県安佐郡飯室村(現・広島市安佐北区)で農業および太田川で船宿を営む丸木金助・スマの子として生まれた。臨月の頃、スマは船宿の2階から客の食膳を下げる際に階段から転落した。その事故により、出生した位里の顔の右側には目立つ痣が残ってしまっていた。このことで位里に負い目を感じたスマは、位里の生き方には干渉せず、一切を本人の自由に任せることにした。位里はそのことを終生感謝していたという。長じて上京し田中頼璋・川端龍子に師事。日本南画院、青龍社に参加し1939年から1946年まで美術文化協会展に出品。1941年、洋画家の赤松俊子(丸木俊)と結婚した。

1945年8月広島に原爆が投下されると、広島市西郊の三滝に移住していた父母など実家の家族の安否を気遣った位里は、疎開先の埼玉県浦和市(当時浦和画家など画家が多く居住していた)を離れ、俊とともに被爆直後の広島に赴き救援活動に従事した。この体験をもとに1950年、俊と協働で『原爆の図』を発表するとともに絵本『ピカドン』を刊行し、以後、原爆をテーマとする絵画を描き続けた。

1946年に日本共産党に入党。

1956年11月、丸木夫妻がアムステルダム留学中、原爆の絵の展覧会を手伝ったことで知り合った香川睦久が留守宅に上がり込み、留守番をしていた母のスマを撲殺。窃盗目的の殺人と見られている。事件発覚後、香川の遺体が神奈川県横須賀市長者ヶ崎で発見されたが、飛び込み自殺したものとされた。

1964年に部分的核実験停止条約の評価を巡り共産党を除名される。

1966年、埼玉県東松山市に移住し、翌1967年に自宅近くに原爆の図丸木美術館を設立した。

1995年には妻の俊とともにノーベル平和賞候補に推薦された[5]。翌1996年には朝日賞を受賞した。『原爆の図』以外では、『水俣の図』、『南京大虐殺の図』の妻との共作もある。また、位里単独の作品(日本画)では牛をモチーフとした一連の作品が知られている。画家・絵本作家の大道あやは妹にあたる。

・吉原英雄
1931年(昭和6年) - 広島県因島市に生まれる。
1950年(昭和25年) - 大阪市立美術研究所・洋画部に学ぶ。
1952年(昭和27年) - 遠縁にあたる吉原治良に師事。
1954年(昭和29年) - ゲンビ展に出展。具体美術協会の創立に参加。
1955年(昭和30年) - 具体美術協会を退会しデモクラート美術家協会に移籍。
1968年(昭和43年) - 第6回国際版画ビエンナーレ招待出品、文部大臣賞受賞。
1969年(昭和44年) - 第9回現代日本美術展ブリヂストン美術館賞受賞。
1970年(昭和45年) - 第20回芸術選奨新人賞受賞。
1978年(昭和53年) - 京都市立芸術大学教授に就任。
1994年(平成6年) - 紫綬褒章受章。
1995年(平成7年) - 京都市文化功労者の顕彰を受ける。
1996年(平成8年) - 京都市立芸術大学を停年退官し名誉教授に就任。
2002年(平成14年) - 勲三等瑞宝章を受勲。
2003年(平成15年) - 大阪市文化功労者の顕彰を受ける。
2007年(平成19年) - 膵臓癌のため死去。享年76。死後、従四位に叙された。

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