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富山県について

富山県の総人口は2015年8月1日時点で1,064,858人です。
国勢調査によると、人口のピークは1995年の1,123,125人で、その後は減少に転じ、2005年と2010年を比較すると約18,000人が減少しています。
また、2005年の富山県と全国の年齢別人口分布を比べてみると、20代~30代が少なく、特に20代前半が極端に少なくなっています。
対照的に50代後半が極端に多く、70代以上も多いため、深刻な高齢化が進んでいます。

富山県は、北陸3県の一つで親不知を境に新潟県と倶利伽羅(くりから)峠で石川県、日本アルプスを超えると岐阜県飛騨地方、長野県とも隣接しています。
歴史上の関係で呉羽山を境に東西で文化や方言が違います。
富山県には全国でも数少ない路面電車が、県庁所在地の富山市と高岡市にあります。
特に富山市の駅北のライトレールは電車の線路をそのまま利用した低層型車両で環境面からも注目されています。
2015年4月に開通した北陸新幹線、国際線もある富山空港、高速道路の北陸道があるため東京や大阪などへの交通の便が大変良いところでもあります。

富山県内には独自の流通を持つアルビスや大阪屋などのスーパーでは新鮮野菜や魚介類から日用品まで、安く手に入れることができます。
基本的に車社会の県のため、アピタやイオン、パチンコなどどこの店も駐車場が広いのが特徴です。
また、砺波・南砺市ではアウトレットモールの誘致によりさらに活性化してくところとなっています。

画家について

東一雄
日本の洋画家。富山県富山市出身。紺綬褒章、元亜細亜美術交友会理事、元旺玄会会員。愛称は「カラス」。
明治43年(1910年)8月14日、富山県上新川郡広田村(富山市新屋)に父兵蔵、母セツの長男として生まれる。
大正5年(1916年) 父の任地であった福井県小浜町から広田村へ帰郷。6月16日、父兵蔵死亡。
大正14年(1925年) 富山師範学校(現・富山大学教育学部)に入学。安岡信義先生に絵画を学ぶ。
昭和2年(1927年) 美術部を退部し、文検数学科を目指す。
昭和5年(1930年) 胸部疾患により、文検受験を断念。3月23日、母セツ死亡。富山師範卒業後、岩尾滝尋常小学校に勤務。
昭和5年(1930年) 西砺波郡図書教育研究会に恩師安岡を指導講師に迎える。
昭和8年(1932年) 西砺波郡醍醐尋常小学校に転任。川辺外治と出会う。東京で石川寅治、佐竹徳、鶴田吾郎各氏の指導を受ける。
昭和10年(1935年)文検西洋画用器画科合格。版画講習会にて小野忠重と出会う。林キミ重と結婚。
昭和11年(1936年) 旧制氷見中学校(現・富山県立氷見高等学校)に転任。布尾良策らと蒼潮会結成。マンドリンを持つ女(日満産業大博覧会銅賞受賞)
昭和12年(1937年) 9月の氷見の大火により初期作品の多くを消失。
昭和13年(1938年) 造形版画協会賞受賞。宇治山哲平、斎藤清との交流始まる。
昭和15年(1940年) 藤島武二の「耕到天」に出会う。
昭和16年(1941年) 川辺外治を中心とした一沓会を結成。
昭和20年(1945年) 旧制富山中学校(現・富山県立富山高等学校)に転任。終戦後、居を移し、アトリエ「五便堂」と称す。棟方志功、織田一磨との交流始まる。
昭和21年(1946年) 第1回県展で実行委員を務める。
昭和22年(1947年) 洋画研究会・一線美術協会を結成。荒谷直之介、久泉共三らを迎え前田常作などが参加。富山中学で永原廣を招き石膏像を制作。北陸美術展に出品、富山県知事賞を受賞。
昭和24年(1949年) 旺玄会に出品し、牧野賞受賞。
昭和25年(1950年) 富山市美術教育学会を創立。(初代会長)
昭和26年(1951年) 五便堂を号する。 
昭和28年(1953年) 第1回個展開催。富山高校の校章をデザインする。
昭和33年(1958年) 旺玄会退会。日展の出品を辞め、以後無所属。
昭和39年(1964年) 国際美術教育会議日本代表。欧州外遊。
昭和40年(1965年) 「広目天像」の制作依頼があり、須賀久作の紹介で東大寺、法隆寺を訪問。「百済観音」に魅せられる。
昭和42年(1967年) 富山高校退任。富山女子短大に講師として迎えられる。「日本のいとなみ」紀行に取り組む。
昭和44年(1969年) アメリカ、メキシコ外遊。
昭和48年(1973年) 富山市政文化功労者賞。
昭和50年(1975年) ー蜃会結成。富山県文功労者表彰。
昭和51年(1976年) インドネシア外遊。亜細亜現代美術展大賞受賞。
昭和55年(1980年) 心筋梗塞で入院。病床日記を描く。
昭和59年(1984年) 2度目の心筋梗塞。病床日記を描く。
昭和61年(1986年) 地域文化功労者文部大臣表彰受賞。
昭和63年(1988年) 紺綬褒章受章。
平成5年(1993年) 北日本新聞文化賞受賞。
平成7年(1995年) 東一雄自選展、氷見で「ふるさと氷見を描く」、東京で「民衆詩を追い求めた六十年」開催。
平成10年(1998年) 東一雄回顧展。
平成11年(1999年)第14回日本の海洋展(特別出品)。
平成12年(2000年) 北日本新聞夕刊にて「絵筆の追憶」を連載。連載途中に死亡。享年90歳。"




荒谷 直之介
明治35年(1902年)5月11日、富山県富山市南田町に父鶴次郎、母コトの次男として[要出典]生まれる。
早くから画家を志し、赤城泰舒に師事する。その後、葵橋洋画研究所で黒田清輝らに学ぶ[1][2]。
昭和11年(1936年)に日本水彩画会の第一賞を受賞、昭和15年(1940年)には昭和洋画奨励賞を受賞し、水彩画家としての頭角を現す[2]。1940年には小堀進や春日部たすくらとともに「水彩連盟」を結成する[2]。
昭和21年(1946年)、一水会の会員となる[1]。
昭和43年(1968年)より千葉県佐倉市にアトリエ、のちに住所を転居し、以後26年間、佐倉市上志津に住んでいた[2]。
平成6年(1994年)2月18日、死亡。享年91歳。

井黒四郎
現在の富山県滑川市に生まれる。1936年(昭和11年)第13回白日展で入選。1940年(昭和15年)第10回独立展で入選、同年佐藤洋らと北越美術協会設立。
1948年(昭和23年)に棟方志功、佐藤洋、手塚義三郎らと北潮会結成。1949年(昭和24年)在野系の作家集団として佐藤洋、前田常作、玉井忠一らと一軌会結成。
1967年(昭和42年)2月、富山青木画廊で「郷土作家二人展シリーズ(2)井黒四郎・大島修三展」を開催した。

石崎光瑤
富山県西礪波郡福光町(現在の南砺市)で、素封家・石崎和善の五男として生まれる。本名は石崎猪四一。石崎家は和泉屋の屋号で本業は麻布業だったが、江戸時代から蔵宿業を営み、町役人も務めた豪商だった。幼少より画才があり、明治29年(1896年)12歳頃東京から金沢に移り住んだ琳派の絵師・山本光一に師事する。光瑤の「光」は師から貰っており、この頃の光瑤は福光や金沢近郊を写生して廻ったという。これに飽き足らなくなると、師の薦めもあって同36年(1903年)19歳で京都の竹内栖鳳の門に入る。新古美術品展で受賞を重ねるなか、明治42年(1909年)吉田孫四郎、河合良成、野村義重ら4人と、ガイド宇治長次郎らの案内で、民間人としては初めて剱岳登頂に成功する(初登頂は柴崎芳太郎)[1]。
大正元年(1912年)第6回文展に《薫園》が初入選、以後文展・帝展に出品を続ける。大正5年(1916年)から翌年にかけてインドを旅行。ヒマラヤ山脈登った後、アジャンター石窟群やエローラ石窟群などの古蹟を巡る。帰国後に第12回文展に出品した《熱国妍春》と、翌年第1回帝展の《燦雨》が特選となり、無監査となる。大正11(1922年)11月から翌年にかけてにはヨーロッパに外遊している。
その後も帝展に出品を続け、大正14年(1925年)から昭和20年(1945年)まで京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)の教員を務めた。昭和8年(1933年)高野山金剛峯寺から障壁画制作の依頼を受け再度インドへ行き雪のヒマラヤ山脈に登り、帰国後貴賓室に襖40枚に及ぶ大作を制作している。昭和17年(1942年)に師の竹内栖鳳が亡くなると、石崎画塾を開いて後進の育成に務めた。しかし、昭和21年(1946年)脳溢血で倒れ床に伏すようになり、翌年死去した。享年62。
なお、光瑤の次男[1]、石崎宏矩は父が写生のため集めた昆虫の標本に魅せられ、昆虫のホルモン等を研究して学士院賞を受賞した、名古屋大学名誉教授[2][3]。
地元の南砺市立福光美術館では、光瑤の作品を約660点収蔵しており、専用展示室にて展示されている。

岩井新吉
大正2年(1913年)富山県黒部市牧野に生まれる。
昭和元年(1926年)黒部市三日市小学校卒業。
昭和12年(1937年)京都にて鹿子木孟郎に師事。
昭和14年(1939年)第4回京都市展「自画像」出品。
昭和16年(1941年)鹿子木孟郎没後、東京にて鈴木千久馬に学ぶ。
昭和17年(1942年)第2回創元会展「黒部峡谷」入選。
昭和22年(1947年)岡山市文化使節団員として中国訪問。
昭和25年(1950年)第6回日展「自画像」入選。(以後8回入選)
昭和36年(1961年)黒部市展招待出品。(以後毎年出品)
昭和43年(1968年)東京から岡山市に移住。
昭和49年(1974年)Sの会主宰となる。第1回Sの会出品。(以後毎年開催)
昭和60年(1985年)創元会運営委員、審査員となる。
平成元年(1989年)瀬戸大橋完成記念繪はがき制作、年賀はがき制作。
平成3年(1991年)創元会第50周年記念展賞受賞。第51回創元会展努力賞受賞。
平成4年(1992年)岡山県現代洋画選抜展出品。
平成9年(1997年)黒部市美術館にて郷土出身作家「岩井新吉展」開催。[1]
平成13年(2001年)12月、逝去。

大島秀信
富山県富山市に生まれる。戦後、東山魁夷と川崎小虎に師事し、1951年(昭和26年)第7回日展に「ダム」で入選。1969年(昭和44年)県内作家「第1回5人展」開催。
1970年(昭和45年)第2回改組日展に「樹蒼」で特選受賞。1979年(昭和54年)「選ばれた俊英15人展」で北日本美術賞を受賞。1981年(昭和56年)「’81富山の美術」に出品。
以後’84’86’90の同展に出品。同年、日展特選。1988年(平成元年)日展会員。1999年(平成11年) 日展評議員。2014年(平成26年) 8月29日、肺炎のため死去。享年86歳。


金守世士夫
富山県高岡市に生まれる。帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)卒業。戦後、疎開中の棟方志功に師事し、木版画を制作する。1947年国画会に初出品。
1952年同会賞を受賞。1958年、ニューヨーク・セントジェムス現代版画展で受賞。1970年刊の「湖山」など数多くの木版画集を手がける。1980年、富山市文化功労賞。
1992年、勲五等瑞宝章受章。2016年、死去。


下保昭
1927年(昭和2年)富山県砺波市に生まれる。第1回富山県展(審査員に小坂勝人、櫻井鴻有)で富山市民賞を受賞し安嶋雨晶の紹介で1949年青甲社に入り、西山翠嶂に師事。
日展を舞台に活動し特選白寿賞2回及び菊華賞や文部大臣賞などを受賞。1970年には、43歳で日展評議員に選任される[2]。
1982年日本芸術大賞、1985年に芸術選奨文部大臣賞。1988年に日展を脱会してからは一貫して山水を主題とする水墨画を追及。
1990年京都市文化功労者、第3回MOA岡田茂吉賞、2000年北日本新聞文化賞、2002年京都府文化賞特別功労賞、2004年旭日小綬章。2018年8月7日、肺癌のため死去[3]。91歳没。
門下に川島睦郎、重岡良子、山崎隆夫ら多数。
富山県水墨美術館には「下保昭作品室(常設展示室)」があり、約150点を収蔵、随時15点ほど展示している。


川辺外治
明治34年(1901年)2月4日、富山県砺波市苗加に川辺宇之吉、めゐの二男として生まれる。
大正5年(1916年) 富山師範学校第1部に入学し、曾根末次郎に写生を学ぶ。
大正7年(1918年) 長兄が病死
大正9年(1920年) 富山師範学校を卒業。福野小学校に勤務する。
大正11年(1922年) 図画研究会を設立する。油絵を描き始める。
大正12年(1923年) 「図画指導法」を出版する。
大正14年(1925年) 富山県美術展を福野小学校で開催する。
昭和2年(1927年) 東京府専科図画教員試験に合格
昭和3年(1928年) 東京市立大正小学校勤務として富山県より出向する。太平洋美術学校夜間部専科(昭和4年までは太平洋画会研究所)に入学。
昭和5年(1930年) 光風会に出品。
昭和7年(1932年) 富山県立砺波高等女学校(のちの富山県立砺波女子高等学校、現在の富山県立となみ野高等学校)に転任
昭和11年(1936年)7月、創立された大潮展に出品
昭和12年(1937年) 大潮展で『草刈り子供』が特選を受賞。
昭和16年(1941年) 第1回創元展に出品。以後、出品を続ける。第4回新文展で『忙中の食事』が入選し、三井コレクション買い上げとなる。これを記念し、一沓会を結成する。
昭和21年(1946年) 富山県洋画連盟を発起、結成する。疎開中の作家らと講習会を行う。
昭和23年(1948年) 富山県立出町高等学校(のちの富山県立砺波高等学校)に勤務する。砺波デッサン会を開設。
昭和28年(1953年) 日展に出品。以後も創元展とともに出品を続ける。
昭和31年(1956年) 北陸美術功労賞を受貫。富山県立砺波高等学校を退職。
昭和33年(1958年) ジャンルを越えた県内作家の創作グループ、彩彫会を結成する。
昭和40年(1965年) 「画業40年回顧展」(佐藤美術館)
昭和45年(1970年) 個展(新宿アルカン・シェル画廊)
昭和47年(1972年) 富山県文化功労賞を受賞。
昭和48年(1973年) 北日本文化賞を受賞。彩彫会15周年記念展(富山県民会館、銀座・ヤマト画廊)
昭和49年(1974年) 「川辺外治作品集」刊行。
昭和51年(1976年) 彩彫会富山県文化功労賞を受賞。
昭和53年(1978年) 勲五等瑞宝章を受ける。
昭和56年(1981年) 「黒い太陽シリーズ展」(富山美術館)
昭和58年(1983年) 「川辺外治自選展」(富山県民会館美術館・砺波市文化会館)開催。9月29日死去、享年82。

木下晋
中学時代より美術に傾倒し、地元の油絵教室に通う。後に木内克や麻生三郎に師事[1]。1963年(昭和38年)、自由美術協会展にクレヨン画を出展し、
最年少(16歳)で入選して注目を浴びる[4][5]。1969年22歳のとき村松画廊で開かれた初個展で、評論家・瀧口修造と出会う。
1981年(昭和56年)にアメリカに進出するが、現地の画廊での売り込みに失敗[1]。自分ならではの作品制作への思いを強くし、モノクロームの表現に注目して鉛筆画を始める[5][6]。
同1981年、美術評論家の洲之内徹の紹介により「最後の瞽女」といわれる小林ハルに出逢う。
1983年(昭和58年)より小林をモデルにした制作活動を開始し、これが木下の代表作の一つとなる[3]。この制作を通じて、9Hから9Bのイギリス製鉛筆を色彩のように使い分ける、
独自の技法を確立する[2]。1992年45歳のとき念願だあったニューヨーク(キーンギャラリー)での個展が実現する。
小林死去直前の2005年(平成17年)にはハンセン病回復者の詩人である桜井哲夫に出逢い、翌2006年(平成18年)より桜井の肖像画が新たなライフワークとなる[2][7]。
ほかにも軽度の知的障害を患っていた実母、小説『痴人の愛』のヒロインのモデルとされる和嶋せい(葉山三千子)の晩年の姿、山形県鶴岡市の注連寺の天井絵画などを描いており[8]
多彩な濃淡の鉛筆によって対象の陰影を克明に捉えた画[6]、鉛筆1本で人物画の髪や顔の皺1本1本まで描くような細密な作品で知られるようになる[2][5]。
2013年(平成25年)、紺綬褒章を受章[3]。
制作活動の傍ら、東京大学工学部建築学科講師、武蔵野美術大学造形学部油絵科講師、新潟薬科大学講師、金沢美術工芸大学大学院専任教授を歴任したほか、
名古屋芸術大学の客員教授も務める[3]。画文集に「祈りの心」(求龍堂)、絵本「ハルばあちゃんの手」「はじめての旅」(福音館書店)などがある[9]。


木村立嶽
現在の富山市南田町に、木村定吉の第7子として生まれる。父は仏師として修行しながら、仏壇の指物師・宮大工を生業にしていた。6歳頃から藩画師に入門。
藩主・前田利保の推薦で江戸へ行き、木挽町狩野家の狩野栄信・養信に師事。16歳で藩士に取り立てられ、20歳で狩野派を修め、「雅」字を拝領し雅経と名乗る。
嘉永元年(1848年)の時、藩命で富山へ戻り、殿中に「松図」を揮毫する。藩主はその画技を高く評価し、地元の名岳(嶽)立山に因んで「立嶽」の号を与えたという。
最初は江戸と富山を往復する生活だったが、嘉永4年(1851年)木挽町画所を辞して富山へ帰り、藩主に絵を指南する。
この頃『本草通串証図』(全94巻)の制作にも参加し、極彩色の花卉図などを手掛けている。万延元年(1860年)幕命で江戸の木挽町画所へ復帰し、代替わりした狩野雅信に師事。
同門の芳崖、狩野友信らと江戸城杉戸絵の制作を担当する。
慶応4年(1868年)、徳川家達の駿府行きに雅信が随行したため同行。翌明治元年新政府の命で、奈良の神武天皇陵へ派遣されこれを写生し、荒廃した御陵域の修理にあたった。
その後も奈良社寺宝物取調掛として調査を行う。明治8年(1875年)9月内務省図書寮に出仕し画図掛となる,神武天皇御陵図を製作、これを元に現在の神武陵が出来上がった。
しかしその一方で生活には困窮し、明治11年からは芳崖と共に精工社の陶器画や漆器の下絵を描いて糊口をしのぐ。明治14年(1881年)の第二回内国勧業博覧会では、
陶器画で妙技二等賞受けている。翌年農商務省勧農局より植物写生掛を命ぜられ、日本中の産物の写生図を描く。同年第一回内国絵画共進会で褒状。
この頃、フェノロサと出会いその意見を取り入れた作品を手掛ている。明治17年(1884年)第二回内国絵画共進会に「人物」と「山水」を出品し再び褒状を受ける。
同年結成された鑑画会に主力メンバーの一人として、新しい日本画を目指す活動に加わった。明治23年(1890年)横浜で没した。享年64。長男の木村立峰(1853年-1926年)も絵師となった。


清原啓一
富山県砺波市出身。辻永、新道繁に師事し、1959年日展特選、1994年日展内閣総理大臣賞、日展常務理事、顧問。
2002年日本芸術院賞・恩賜賞、芸術院会員。光風会常務理事。花と鶏を描く。


郷倉千靱
1915年東京美術学校日本画科卒業、1916年渡米、1922年院展日本美術院賞受賞、1924年日本美術院同人、院展に出品を続け、1934年帝国美術学校日本画科教授、
1936年多摩美術学校日本画科教授、1949年日展審査員、1956年多摩美術大学教授、1958年日本美術院評議員、1960年日本芸術院賞受賞、1971年勲四等旭日小綬章受章、
1972年日本芸術院会員。没後勲三等瑞宝章追贈。
壁画を描いた。長女の郷倉和子も日本芸術院会員


高坂卓至
昭和6年(1931年)富山県新湊市庄西町(現・射水市)に生まれる。金沢工芸大学美術科卒業、宮本三郎、高光一也に師事。1951年金沢現代美術展知事賞。
1954年、東京都公立中学校教諭となる。1979年、東京銀座の日動画廊で開催の「第2回現代裸婦展」にて出品、準大賞を受賞。翌年、同画廊にて海をモチーフとする作品発表。
1981年モスクワ、レニングラード、キエフを訪れ滞欧作品を制作する。1982年故郷の新湊市中央文化会館にて個展開催。1988年、高岡市美術館にて異色作家シリーズ特別展「高坂卓至展」開催。
2007年没。どの会派にも属せず、ひたすら画業に励む裸婦と海の画家。


小坂勝人
富山県高岡市国吉に生まれる。富山県立工芸学校(現・富山県立高岡工芸高等学校)卒業後、東京美術学校日本画科、同校研究科で学ぶ。結城素明に師事。
1926年第7回帝展「海景」で初入選、以後同展、新文展、日展に作品を発表する。戦禍を避けて城端町に疎開し、戦後は富山県日本画家連盟の設立等に尽力した。


櫻井鴻有
富山県高岡市に生まれる。富山県立工芸学校図案科(現・富山県立高岡工芸高等学校)を経て、1927年京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学、後に同校研究科に進む。
1930年第11回帝展に「北越山村」で初入選、以後同展、新文展に出品。1945年高岡に疎開。以後、郷土で日本画の発展に尽力した。

佐竹清
昭和3年(1928年) 樺太に生まれる。終戦後に南砺市福光、のちに高岡市に移住し小学校の教員として働く。1951年棟方志功に師事する。
当時、福光で開いていた教室に参加し、素質があると褒められて版画と教員の二足のわらじを履くようになった。1953年日本版画院展受賞、1954年国画会展入選し1961年日版会会員となる。
1965年第1回個展。1991年自宅に万葉版画館を開館。版画のみならず作曲やアコーディオン演奏、演劇も好み1992年、高岡野外音楽劇に参加し、1995年越中野外音楽劇団代表となる。
2003年9月、高岡市万葉歴史館で「佐竹清 越中万葉を彫る」自選展。[1]2018年6月19日没、享年90歳。


里見米庵
明治31年(1898年)富山県小杉町(現・射水市)に生まれる。1913年に上京して鈴木赤城、井沢蘇水らに日本画を学ぶ。1923年京都絵画専門学校に入学し、1932年同校研究科を修了。
1934年第15回帝展に「嵯峨之秋」で初入選。1938年日満博覧会に「愛宕山」で金賞受賞、1942年第29回院展に「海口裏街」で入選、後に特待。
1984年、富山県民会館美術館で「里見米庵・三村石邦・富山芳男展」開催。1993年没。住居近くの京都市右京区にある天龍寺別院塔頭の慈済院の天井に天龍絵図を残した。弟子に塚下静庵。


塩崎逸陵
富山県高岡市に生まれる。富山県立工芸学校(現・富山県立高岡工芸高等学校)を卒業後、東京美術学校に学び、川端玉章、寺崎広業に師事する。
1915年第9回文展に「蟲の音」で初入選。以後、同展および帝展に出品。東京で制作に励み、花鳥図や風景画を描いた。

島田四郎
明治38年(1905年)富山県庄川町に生まれる。1962年、神奈川県美術家協会創立発起人会に参加。
1965年、阪井田勇、柴山静穂、他9名による「港に働く作家グループ」(現在・港の作家美術協会)の創立に賛助。
文展特選1回、日展特選2回、晩年には「佇立ニ女・ネコ」で黒田清輝賞を受賞。1986年没。

十二町仁三
大正15年(1926年)富山県高岡市に生まれる。富山県立工芸学校(現・富山県立高岡工芸高等学校)を経て、金沢美術工芸専門学校(現・金沢美術工芸大学)で学ぶ。
1952年富山県染織試験場に勤務し、1955年小倉遊亀に師事し日本画を描き始め、1957年には安田靫彦門下の火曜会に入会して画技に励む。
1959年、院展に「店」で初入選。以後、院展を中心に制作を続ける。2000年12月没。次女に染織家の十二町薫。

頭川政始
富山県高岡市に生まれる。漆芸家の山崎立山に師事。1957年第13回日展に「初秋」(工芸)で初入選。金沢美術工芸大学工業デザイン科卒業後、1962年漆芸から画家に転身する。
1969年から1988年まで「5人展」に出品。1989年に筋萎縮性側索硬化症を発症し、1993年に逝去した。


高倉一二
大正9年(1920年)富山県高岡市に生まれる。1947年、第33回光風会展に「盆踊り」で入選、第2回富山県展(審査員に織田一磨、伊藤四郎)に「瑞龍寺山門」で商工会議所会頭賞。
1950年第6回日展に「新港漁場」で入選。以後、1952年に高光一也を中心に手塚義三郎、丸山豊一らと共に北陸光風会を設立し光風会と日展(入選33回)を舞台にする。
1973年に高岡市文化功労表彰、1984年に富山県文化功労表彰、1991年に勲五等瑞宝章。2004年没。

篁牛人
明治34年(1901年)富山県婦負郡桜谷村大字石坂村(現・富山市石坂)に生まれる。1921年、富山県立工芸学校(現・富山県立高岡工芸高等学校)を卒業し(同期に小坂勝人)、
同校卒業生で組織する富山工芸会に参加。工芸作品の図案を制作し商工省工芸展などで中島杢堂、安川慶一らと受賞を重ねるが
1934年頃からパブロ・ピカソ、藤田嗣治、小杉放庵などの感化を受け1940年頃より絵画に専念し始める。1947年頃から独自の渇筆技法で制作を行い、主題を東洋思想に求めた。
1975年脳梗塞で倒れ療養するも以後は制作が困難となり1984年没。
篁牛人が晩年過ごした邸宅跡地には、篁牛人の作品を紹介する富山市篁牛人記念美術館が建つ。

谷口藹山
安政6年(1861年)、梁川星巌の旧宅(丸太町三本木)に移る。ますます画名が高まり田能村直入と並称されるようになる。
明治2年(1869年)には西園寺公望が開校した私塾立命館に富岡鉄斎、山中静逸らとともに講師として招かれる。
明治13年(1880年)64歳のとき、京都府画学校(のちの京都市立芸術大学)の南画担当教授となる。同時期には望月玉泉(大和絵)、小山三造(洋画)、鈴木百年(鈴木派)や幸野楳嶺(四条派)が同校の教授となっている。
明治15年(1882年)、第11回京都博覧会で銅賞を受賞。同年、東京で開催された第1回内国絵画共進会においても銅賞を得ている。その後も第14回京都博覧会で銅牌賞。同19年、幸野楳嶺の主催する京都青年絵画研究会の審査委員を務めた。同28年、第4回内国勧業博覧会で褒状を受ける。
明治29年(1896年)には田能村直入・富岡鉄斎・巨勢小石、東京の渡辺小華らと日本南画協会を設立。以降、京都画壇の長老として敬われた。
明治32年(1899年)8月、心臓病になりその後胃病を併発。同年12月歿。享年84。西王寺(京都市中京区西ノ京)に墓所がある。山水画(1870年)一点が大英博物館に収蔵されている。


谷口山郷
大正3年(1914年)、富山県下新川郡南保村(現・朝日町)に生まれる。父と炭焼きをしながら独学で絵を描き、1933年に上京し太平洋美術学校で洋画を学ぶ。
後に川端画学校に転じ、日本画を専攻する。(当時、同校に岩崎巴人も学ぶ。)1937年に召集を受け終戦まで8年間転戦する。復員後郷土に戻り、
1948年には小川中学校美術教諭となり「赤い山」の制作を始める。1952年、再興第2回新興美術展にに出品し入選。
翌年第3回同展に「残雪の山」、「雪崩」が入選。さらに1955年第5回同展で努力賞受賞で準会員、第6回同展で会員推挙となる。またこの時期毎年読売アンデパンダン展へも出品する。
1958年、岩崎巴人、長崎莫人らと日本表現派を結成し、渋谷東横百貨店で開催した第1回展に「孤岩」と「師走の空」を出品。以後1965年まで派展へ出品を続ける。
1967年、日本表現派を退会、以後美術団体に属さず、独自の道を歩む。1974年に朝日町東草野に転居し、「廃家シリーズ」を描き始める。
1992年、朝日町立ふるさと美術館で「異端の日本画家三人展」開催。また、地元の赤川焼で自ら製作した「山郷徳利」[1]などの作品を残した。2000年没。


鶴谷登
富山県高岡市に生まれる。1963年(昭和38年)に渡米しシルクスクリーンの技法を習得。フィラデルフィア「プリントクラブ展」でジョージ・ロス賞を受賞し1969年(昭和44年)に帰国。
2002年(平成14年)、第三回北日本美術大賞展で特別賞を受賞、福光美術館で回顧展。


布尾良策
明治38年(1905年)富山県氷見郡窪村窪(現・氷見市窪)に生まれる。1921年、富山師範学校(現・富山大学教育学部)に入学、小学校教員養成過程に学ぶ。
在学中の夏期休暇の課題の風景画を描いたところ、安岡信義に激賞される。1926年婚姻し布尾姓を名乗る。1929年川辺外治に師事。
1934年、文検を受験し「師範学校中学校高等女学校教員(西洋画・用器画)」に合格、1935年、旧制富山中学にて開催された版画講習会に参加(講師に木版画の小野忠重、銅版画の武藤完一)。
1936年、富山県立氷見高等女学校(現・富山県立氷見高等学校)に奉職し、本格的に絵を描き始める。同年東一雄らと氷見で初めての洋画研究会「蒼潮会」結成。
1941年、川辺外治を中心とした「一沓会」に参加し、同年の大潮展で入選。その後、高光大船と相知り浄土真宗に深い関心を寄せ 、高光大船の紹介で暁烏敏の知遇を得て 、
中村研一に絵の批評を受けたりする。暁烏敏の紹介で高光一也に師事し、1954年第10回日展で「鏡の前」で初入選、以後10回入選。光風会展では入選を続け1957年に会友、
1961年に会員となり、日展と光風会を中心に作品を発表した。楽器シリーズが主だったが晩年はアジャンタ、漁師を題材にした作品を描き、1992年没。


豊秋半二
明治40年(1907年)富山県朝日町に生まれる。1935年に上京して安田靫彦に師事。1946年第31回院展に「お盆だて」で初入選。1948年第33回院展に「障子」で入選。
1955年第40回院展に「エジプトの宝」で奨励賞を受賞。翌年の同展に「江口」で美術院大観賞を受賞。1960年院展を離れ従来の花鳥や人物ではなく、山岳をモチーフとした風景を描き始める。
個展で作品を発表を続け、その後京都市大徳寺障壁画「連壁飛鳥」を制作した。1981年「‘81富山の美術」展などにも出品参加。1992年没。


野上祇麿
富山県射水郡下村(現・射水市)の加茂神社神官の次男[1]として生まれる。1963年日本美術家連盟会員。1965年アンデパンダン・フェスティバル実行委員。
1967年第4回国際青年美術家展、ポール・ギャラリー(ニューヨーク)アメリカ展。1969年第1回5人展。1971年ジャパンアートフェスティバル展出品。1972年第1回北日本美術賞受賞。
1981年の’81富山の美術に出品。1982年富山県美術品専門委員。1983年富山県洋画連盟委員長、富山県文化功労賞受賞。1986年富山県芸術文化協会文化功労賞表彰。
2000年富山県美術連合会参与、日本美術家連盟富山県代表。2003年第4回北日本美術大賞展大賞受賞。2006年富山県洋画連盟顧問。2008年北日本新聞文化賞受賞。
2017年10月23日、肺炎のため逝去。


藤森兼明
1935年 - 富山県砺波市庄川町に生まれる。
1958年 - 金沢美術工芸大学洋画科卒業。高光一也に師事。大学在学中の1952年に日展初入選。
1980年 - 第12回日展・特選(洋画)受賞[1]。
1984年 - 第16回日展・特選(洋画)受賞[1]
1996年 - 日展会員となる。
2001年 - 第33回日展にて日展会員賞受賞[2]。
2002年 - 紺綬褒章受章。
2004年 - 第36回日展にて内閣総理大臣賞受賞[3]。作品 : 「アドレーション・デミトリオス」。
2007年 - 第39回日展に「アドレーション・サンビターレ」を出品し[4]、この作品により日本芸術院賞を受賞[5]、2008年12月15日[注 1]に日本芸術院会員となる[6]。紺綬褒章受章(以後2回受章)。第41回東海テレビ文化賞受賞。
2009年 - 第62回中日文化賞受賞[7]。
2010年 - 2010年度 北日本新聞文化賞受賞

前田常作
1926年、富山県下新川郡椚山村(現在の入善町)に生まれる。
一度、富山師範学校本科卒業後、武蔵野美術学校に入学する。
1953年、武蔵野美術学校を卒業。
1955年東京のタケミヤ画廊にて初の個展を開催する。
1957年、第1回国際青年美術家展で大賞を受賞する。翌年奨学金を得てフランスに留学。
1959年第1回パリ、青年美術家展に出品、イタリアでも個展を開く。
1961年、第6回日本国際美術展で東京国立近代美術館賞を受賞する。
1971年、第2回インドトリエンナーレに出品。
1979年から日本の全国各地で巡回個展を開催し、京都市立芸術大学教授に就任。そして、第11回日本芸術大賞を受賞する。
1983年に武蔵野美術大学教授。
1989年、仏教伝道文化賞を受賞。
1992年、紫綬褒章を受章し、翌年安田火災東郷青児美術館大賞を受賞する。
1994年、武蔵野美術大学の学長に就任。
1995年、富山県入善町名誉町民に選ばれた。
2000年勲三等瑞宝章受章、武蔵野美術大学の理事長に就任。
2002年「マンダラへの道」展開催。
2007年10月13日、心臓病のため死去。享年81。武蔵野美術大学名誉教授であった。


松浦守美
山下守胤の門人。姓は松浦、名は安平。守美、守義、応真斎守義、応真斎、応真斎国美、国美、国義、応真斎国義と号す。富山に生まれる。父は絵師で、雪玉斎春信と称していた。
作画期は嘉永6年(1853年 )頃から没年にかけてであった。明治19年(1886年)まで富山売薬版画の下絵を描いていた。
特に名所絵、福絵、役者絵、広告絵、暦絵、童話絵、歴史絵、年中行事絵のほか、商売繁盛に因む縁起物などの題材の絵を多く描いている。
また富山藩第10代藩主の前田利保の絵所預となっており、嘉永6年刊行、利保著の『本草通串証図』の挿絵を始めとして、安政3年(1856年)の序のある『俳諧多磨比路飛』、
翌安政4年(1857年)刊行の『麻頭巾集』及び『俳諧画讃百類集』、安政6年(1859年)刊行の『八重すさび』、刊行年未詳の『俳諧四季織』などの挿絵を描き、好評を得ている。
他に、国義の署名のある絵馬「石橋山合戦」を描いており、富山市の稲荷神社に奉納している。明治7年(1874年)には全国を漫遊し、神社仏閣、山水勝地などの写生を行った。
明治11年(1878年)9月に明治天皇が北陸巡幸をされた際、船橋及び呉羽山の真景を描いて押絵の額面として献上した。享年63。

南桂子
1949年(昭和24年)には第13回自由美術展に油彩画「抒情詩」を出品し、森芳雄のアトリエで後に夫となる版画家の浜口陽三と出会った[1]。
1954年にフランス・パリに渡ると、フランスでは浜口と暮らした[1]。40歳を過ぎてから銅版画の世界に入り、ジョニー・フリードランデル(英語版)版画研究所でアクアチントを学んだ[1]。
1955年には自由美術家協会会員に推され、1956年には「風景」がフランス文部省に買い上げられた[1]。
1957年にはニューヨーク近代美術館(MoMA)のクリスマスカードに「羊飼いの少女」が採用され、1958年にはユニセフによるグリーティングカードに「平和の木」が採用された[8][1]。
このグリーディングカードは200万枚以上が発行され、2度増刷されている[8]。1964年にはユニセフの1966年版カレンダーに「子供と花束と犬」が採用された[8]。
1970年に出版された谷川俊太郎の詩集『うつむく青年』では、ペン画による挿絵や装画を手がけた[8]。谷川は「銅のフェティシズム 南桂子さんに」という詩を詠んでいる[8]。
1968年には親交のあった朝吹登水子らが翻訳を担当した『世界文学全集 46 ボーヴォワール/デュラス』(講談社)で挿絵8点を手掛け、1969年に出版された福永武彦の『幼年 その他』(講談社)でも
挿絵を手掛けている[8]。
1961年から1981年まではパリの画廊と専属契約を交わしている[1]。1982年には帝国ホテルの全客室に南の銅版画が飾られ、
1992年に創刊した帝国ホテルの情報誌「IMPERIAL」では1号から13号まで連続して南の作品が表紙を飾った[8]。2011年時点でも一部の客室には南の作品が飾られている[8]。
1981年にはパリからアメリカ合衆国のサンフランシスコに移り[1]、1984年には日本版画協会名誉会員に推挙された。1996年に日本に帰国[1]。
1998年には浜口陽三の作品を常設展示する「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」が開館し、南の作品の所蔵も行っている[1]。2000年には夫の浜口陽三が死去。
2004年、心筋梗塞により東京都内港区の病院で死去した[1]。93歳[1]。


吉田公均
越中国新川郡江上村(現・富山県中新川郡上市町江上)に、代々地元の豪農だった父・真四郎の三男として生まれる。
幼時より画を好み、紀広成(山脇東暉)に学ぶ。文政13年(1830年)27歳で『平安人物志』に掲載され、この頃には一人前の絵師として認められていた。
広成没後は、貫名菘翁に文人画を学び、その後再び四条派の松村景文に師事する。1855年(安政2年)に京都御所が再建された際、学問所の杉戸に「春秋花車図」「松鷹図」を描いた[1]。
明治維新後は、東京に移ったとも言われるが、京都に帰って亡くなったという。73歳で没、墓は郷里上市町の浄誓寺。子孫に『戦艦大和ノ最期』で知られる小説家・吉田満がいる[2]。
作品は総じて細やかな筆使いと華麗な色彩を特色とし、花鳥山水画を得意とした。理由は不明だが大聖寺を度々訪れていたらしく、作品が複数残っている。

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