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愛知県について

愛知県には、名古屋城や犬山城、岡崎城、長篠城、岩倉城などの沢山の史跡があります。
自然を楽しむことができる観光地もあり、豊田市の香嵐渓では、紅葉やカタクリの花などの雄大な自然を見ることができます。
愛知万博で人気があった、映画「となりのトトロ」のサツキとメイの家もあり、人気の観光スポットにもなっています。
愛知県には、その他にも、熱田神宮や豊川稲荷、金蓮寺などの有名な寺社があり、パワースポットとして人気を集めています。

愛知県は中部地方に位置し県庁所在地は名古屋市であり、尾張・名古屋・知多・西三河・東三河のブロックで分けることが多いです。

まず尾張は国宝犬山城と日本モンキーパークがある「わん丸君」のいる犬山市、木曽川の鵜飼も有名で市内だけで連泊楽しめます。
知多は常滑ボートレースや、招き猫、焼き物散歩道がおすすめです。
エビせんべいの里は試食がたくさんありますし、「知多娘。
」というアイドルグループが存在しています。
西三河はトヨタ自動車のお膝元、岡崎城で「オカザえもん」や八丁味噌見学が楽しめます。
東三河といえば「いなりん」がいます。
B級ぐるめのお稲荷さんが美味しい、豊川稲荷は愛知県の商売繁盛の神様です。
名古屋市内の観光は「御もてなし武将隊」が出迎えてくれるメーグルというバスが便利です。
金の鯱と名古屋市科学館の巨大プラネタリウムが愛知県の自慢です。
もぐらのキャラクターが象徴するように、地下街が発達しており、始めての方は迷われることが多いです。

画家について

荻須高徳
1921年(大正10年)に上京、小石川(現・文京区)にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事する。1922年(大正11年)には東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。
1927年(昭和2年)に同校を卒業すると、9月に渡仏。1928年(昭和3年)、佐伯祐三らとモラン写生旅行を行い、佐伯の死にも立ちあう。
荻須は画家として活動期間の大半をフランスの首都パリで過ごした。初期の作品は佐伯祐三と同じく、ヴラマンクやユトリロの影響が見受けられ、
パリの街角、店先などを荒々しいタッチで描いたものが多かったが、その後穏やかなタッチで造形性に富んだ構成でパリの都市風景を描くようになる。
荻須の画家としての最初の成功は1928年(昭和3年)のサロン・ドートンヌ入選であった。1934年(昭和9年)には最初の個展をジュネーヴで開催。
この頃から、作風も佐伯と見分けのつかないようなものから、落ち着いた色調、静寂さを備えたものへと変化していく。サロン・ドートンヌ会員に推挙され、フランスでの地位を確立したかに見えたが、
1940年(昭和15年)に戦況悪化のため一時帰国を余儀なくされる。この時サロン・ドートンヌ出品作がパリ市買上げとなった。帰国後は新制作派協会の会員となる。
終戦後の1948年(昭和23年)、日本人画家として戦後初めてフランス入国を許可され再び渡仏。以後死去するまでパリで制作活動を行うことになる。1982年(昭和57年)にはフランス国立造幣局が
荻須高徳の肖像を浮彫にしたメダイユを発行。後に同国大統領となるシラク・パリ市長(当時)は「最もフランス的な日本人」と彼を評した。
同年文化功労者に選定されたのを受けて10年ぶりに帰国したのが祖国の地を踏む最後となった。
1986年(昭和61年)10月14日、パリのアトリエで制作中に倒れ死去、84歳だった。死の一週間前ほどに同年の文化勲章受章が内定していたため、11月3日には死去日に遡って同章が授与された。
墓はパリのモンマルトル墓地にある。


牧野義雄
1892年(明治25年) -名古屋英和学校卒業
1893年(明治26年) - 渡米、サンフランシスコのジョン・ホプキンズ美術学校に入学
1895年(明治28年) - 父死去
1897年(明治30年) - 渡仏後、渡英,ロンドンに居住
1898年(明治31年) - サウス・ケンジントン芸術学校に入学。ゴールドスミス美術学校で学ぶ。
1903年(明治36年) - 生活に困窮し、一時期、自殺を考える。
1907年(明治40年) - 画集『The Colour of London』を出版(水彩画とエッセイが掲載)入院と手術
1908年(明治41年) - 画集『The Colour of Paris』を出版
1909年(明治42年) - 画集『The Colour of Rome』を出版
1910年(明治43年) - 英文エッセイ『日本人画工 倫敦日記』を出版。イギリス紳士録に記録
1923年(大正12年) - マリ-・ビロン(フランス人)と結婚し、ニューヨークに居住
1927年(昭和2年) - マリーを残してロンドンへ移住
1928年(昭和3年) - マリーと協議離婚
1942年(昭和17年) -日英交換船で帰国。東京の重光邸で世話を受ける。
1945年(昭和20年) -空襲を受け、日光へ疎開、終戦後、鎌倉材木座の重光別邸に居住
1950年(昭和25年) -鈴木小太郎家に世話になる。
1952年(昭和27年) -東京インターナショナル・クラブで個展。全展示作品を売り切り。
1956年(昭和31年) -鎌倉小町の秋月病院で死去する。享年87(満86歳)。墓所は豊田市の神龍寺。


松井守男
武蔵野美術大学造形学部油絵科を卒業と同時に、フランス政府奨学生としてフランスに渡り、パリを拠点に制作活動を始めた。
同地ではアカデミー・ジュリアンやパリ国立美術学校に学び、パブロ・ピカソとの出会いによって大きな影響を受ける。
以後、サロン・ド・メへの招待、印象派発祥の画廊ギャラリー・ベルネーム=ジュンネでの個展、エールフランスの機内デザインを手がけるなどの活動を展開するも、
さまざまな苦悩や葛藤の中で1985年に2年半の歳月をかけ、自らの遺作と見なした『遺言』と題する作品を発表。この作品によって細かなタッチを面相筆で大画面に重ねて描く作風を確立し、
以後さまざまなヴァリエーションを生む。
1997年にフェッシュ美術館(コルシカ・アジャクシオ)での個展を機にコルシカ島に拠点を移し、以後地中海西部の豊かな自然をモティーフとした作品を手がける。
2000年、フランス政府より芸術文化勲章、2003年にレジオンドヌール勲章をフランス本国にて受章した。
2005年の「愛・地球博」のフランス・ドイツ共同パビリオンの貴賓室にて作品が展示されたほか、2008年にはシャネル・ネクサス・ホール(東京・銀座)や、
長崎の大浦天主堂などの史跡で個展が開催された。2008年のスペイン・サラゴサ万博にて再度フランス公式画家に選出された。


川合玉堂
春渓群猿図(しゅんけいぐんえんず)及び 秋渓群鹿図(しゅうけいぐんかず)
1890年(明治23年)作。日本画。17歳を迎えるこの年、画号を「玉堂」に改めた後、係る連作を第3回内国勧業博覧会に出品し、初の入選を果たした。
家鴨(あひる) 
1897年(明治30年)作。絹本著色、日本画。1幅。172.1cm×253.6cm。東京国立博物館所蔵。

『二日月』
二日月(ふつかづき) (英題)New Moon 
1907年(明治40年)作。絹本著色墨画。1幅。86.4cm×139.0cm。東京国立近代美術館所蔵(※画像参照)。
溪村春麓図(けいそんしゅんろくず) 
1907年(明治40年)作。絹本著色墨画。150.5cm×85.0cm。広島県立美術館所蔵。
深山濃霧(しんざんのうむ) [
1909年(明治42年)作。絹本著色墨画。1幅。224.2cm×142.4cm。東京国立博物館所蔵。
行く春(ゆくはる) (英題)Parting Spring 
1916年(大正5年)作。紙本著色六曲一双屏風。各183.0cm×390.0cm。
国の重要文化財。指定日:1971年(昭和46年)6月22日。指定番号:01660。指定名称:紙本著色行く春図 川合玉堂筆 六曲屏風 一双。所有者:国立美術館。保管施設:東京国立近代美術館。
「文化遺産オンライン」(文化庁サイト)の解説で玉堂の代表作の一つに挙げられている。桜の季節の長瀞の景勝を描く(画像参照)。「長瀞渓谷#描かれた長瀞渓谷」にも詳説あり。
悠紀主基屏風(ゆきすき びょうぶ)
1928年(昭和3年)、山元春挙との合作。六曲ニ双屏風。東京国立博物館管理。
朝もや(あさもや) (英題)Morning Mist 
1938年(昭和13年)作。絹本著色墨画。軸・1幅。86.5cm×118.3cm。東京国立近代美術館所蔵。
溪山四時図屏風 
1939年(昭和14年)作。六曲一双屏風。各168.7cm×373.8cm。東京国立博物館所蔵。
彩雨(さいう) 
1940年(昭和15年)、67歳時の作。絹本著色墨画。1幅。87.7cm×116.7cm。東京国立近代美術館所蔵。「文化遺産オンライン」(文化庁サイト)の解説で玉堂の代表作の一つに挙げられている。
暮雪(ぼせつ) 
『暮雪図』ともいう。1952年(昭和27年)作。紙本著色。1幅。125.0cm×30.7cm。池田コレクション。石川県七尾美術館所蔵。「文化遺産オンライン」(文化庁サイト)の解説で玉堂の代表作の一つに挙げられている


山本梅逸

欄間の彫刻師山本有右衛門の子として生まれる。この父は尾張藩の組同心だったとも、藩士の用人だったとも伝えられるが、記録は残っていない。
父は梅逸が13歳のときに没し生活は貧窮したが、母は子どもの教育に心掛け、梅逸に和歌の手解きをしたという。幼い時から画を好み、地元の絵師山本蘭亭に学]。
蘭亭は梅逸の画才を見抜き張月樵に入門させた。その後、尾張画壇のパトロンで古書画の収蔵家として知られた豪商神谷天遊(永楽屋伝右衛門)の庇護を受け、
天遊に理論面での指導を受けつつ、同家に所蔵される中国古画の臨模が許された。天遊の元で、生涯の盟友となる7歳年長の中林竹洞とも出会う。
天遊に連れられ万松寺に出向いたとき王冕(元時代)の「墨梅図」[4]を見て深く感銘したことから梅逸の号を授けられたといわれる。
同じくこのとき兄弟子の竹洞は李?(りかん)「竹石図」に感銘したことからその号を与えられたという。
享和2年(1802年)、恩人の天遊が病没すると師友の竹洞と共に京都に赴く。寺院などに伝わる明清の古書画を盛んに臨模し、明末の文人楊文聡の山水画を購入するなど書画の収集にも傾注した。
新天地を求め上洛した二人だが、京都画壇の壁は厚く画業は停滞し、竹洞の父の危篤の報を聞いて、一旦は名古屋に帰る。
天保3年(1832年)に再び京都に出て、以降画家として認められ京都の文人社会に知られるようになる。書画会の出品も多く次第に京阪で人気の画家となり、年収が200両にもなったという。
頼山陽などと交遊し煎茶にも親しみ、その茶は梅逸流と称された。弘化元年(1844年)には、煎茶会席を彩る席飾りの図案集『清娯帖』も描き、名古屋の煎茶普及にも一役買っている。更に笛や陶芸も趣味にしていたという。
日本各地に遊歴し、江戸では大窪詩仏と交流。尾張藩主の邸宅で谷文晁とともに画作を行っている。天保元年(1830年)、名古屋では藩主の命によって朝鮮から来た豹を写生している。
その他にも山陽・四国・北陸にも脚を伸ばしている。京都に画家として23年留まったが安政元年(1854年)に尾張藩御用絵師格として取り立てられ、御用人支配の地位を得た。
帯刀、拝謁も許され御園町(現在の名古屋市中区)に移り住んだ。享年75。法名は玉禅院天蘂梅逸居士。京都慈眼寺と伊勢山町洞仙寺(現在は千種区平和公園洞仙寺墓地)に葬られる。
梅逸は山水画・花鳥画を得意とした。その画風は円山四条派の写実性・装飾性に影響を受け、明清の古書画の研究から模倣に陥ることなく独自の繊細で優麗な画風を築き上げ高い評価を得た。
反面、描き込み過ぎで、描き殴ったような荒々しい筆致が目立つと評されることもある。


大久保泰
古式の笑 春鳥会 1941
空しき花束 大日本雄弁会講談社 1948
カナの饗宴 美術出版社 1948
デュフイの歌 毎日新聞社 1949
西洋名画の話 美術出版社 1951 (少年美術文庫)
世界の美術家 あかね書房 1952 (世界伝記文庫)
宿命の画家達 中央公論社 1952
近代絵画の話 宝文館 1952 (NHK教養大学)
ゴッホ 講談社 1954 (世界伝記全集)


大沢鉦一郎
1914年 蔵前の東京高等工業学校図案科(現・東京工業大学)中退。愛知県知多市古見に移住。(療養目的)
1917年 宮脇晴と愛美社結成。
1919年~1920年 第6・7回院展洋画部に入選。
1920年 常滑市大野町へ移住。
1932年 第10回春陽展「少女海水浴」入選
1936年 帝展無鑑査
1933年 春陽会入会
1946年 第1回日展(写生)特選。
1964年 CBC文化賞受賞

北脇昇
愛知県名古屋市出身。父が単身朝鮮半島に渡ったことから、1910年、母親と京都に住む叔父の広瀬満正(元貴族院議員、実業家)の元へ移る。
爾来、北脇は死亡するまで京都をほとんど離れなかった。1915年、京都市立銅駝尋常小学校卒業。同年、同志社中学校に入学。1917年、同校を中途退学。
1919年2月、鹿子木孟郎の画塾に入る。1930年4月、津田青楓の画塾に入る。1932年、第19回二科展に初入選。同年9月、京都洋画協会の結成に参加。
1933年10月、独立美術京都研究所が開設され、その委員となる。1937年6月、京都青年芸術家クラブ結成に参加。
1939年5月、福沢一郎ら40名の前衛活動家と共にシュルレアリスム運動で知られる美術文化協会の創立同人となる。
シュルレアリスムと日本(東洋)文化(仏教、禅、易、曼荼羅等)、さらには、数学等の自然科学との融合の方向性を探り、
その作品は、ヨーロッパのシュルレアリスムの真似にとどまらない、日本的な独自の境地に至っている。
北脇の作品としては、カラフルで幻想性の強い写実的な作品がほとんどであるが、ほぼ完全な抽象絵画も制作している。
デカルコマニーやコラージュも制作した。同時期の画家としては、小牧源太郎や今井憲一と交流した。
1948年6月、肋膜炎を発病。1950年4月、肺結核を診断される[2]。1951年12月18日、死去。50歳没。


鬼頭鍋三郎
1916年 名古屋商業学校を卒業し、明治銀行に入行。
1921年 明治銀行を退職。
1923年 上京し、岡田三郎助に師事。松下春雄と美術グループ「サンサシオン」結成。
1924年、辻永に師事。帝展に出品。
1931年 光風会会員。1934年帝展特選。
1943年 「小休止」で陸軍大臣賞受賞。(戦後は日展に出品)
1944年 従軍画家として戦地に赴任。
1952年 日展運営会参事
1953年 中部日本新聞社文化賞受賞。
1954-1955年 渡欧。
1956年 日本芸術院賞受賞。
1958年 日展評議員。
1963年 日本芸術院会員、日展理事。
1968年 愛知県立芸術大学教授( - 1973年)。
1969年 日展常務理事。
1970年 勲三等瑞宝章受章。光風会理事長就任( - 1980年)。
1975年 日展顧問。


月僊
名古屋の味噌商の家に生まれる。7歳で得度、玄瑞の名を与えられて浄土宗の僧となる。
10代で江戸に出て増上寺に入ると増上寺46世の妙誉定月に眷顧され、定月から一字を貰い受けて「月俸」と号した。
仏門修行の傍ら、雲谷派に連なり「雪舟十二代画裔」と自称した桜井雪館に画を学ぶ。その後上洛して知恩院に住し、円山応挙に師事して写実的画風の感化を受けた。
また、与謝蕪村の影響も受け、さらに諸派に学んで独自の画風を確立した。
山水・人物を得意とし、人物の形影が寂寥としていることを特長とする。誰に乞われても必ず画料を取ったので「乞食月僊」と世に知られたが、
「画料を官に納めてその利子でながく貧民を救う(月僊金)などの活動」をしていた。知恩院の貫主に懇願されて、1774年(安永3年)伊勢国宇治山田(現在・三重県伊勢市)の寂照寺を
再興するために入山。画名が高まり画を請う者が絶えず、巨万の富を積みさらに銭をむさぼること甚だしいため、
譏る人も多かった。しかしのちに寺の伽藍・山門を建て、経典を購入して倉におさめ、山道の改修・天明飢饉の施米・宮川架橋・文化年間の伊勢大火罹災者の救済などに尽くす姿を見せ、
人はみなその功徳に服すようになったという。死に臨んで遺言し、窮身永代救済に千五百両を奉行所へ寄託する。
京都妙法院、愛知県岡崎市昌光律寺・寂照寺[2]、三重県立美術館などに作品が残されている。門下に立原杏所・亜欧堂田善・村松以弘などがいる。
『列仙図賛』(3巻、天明4年(1784年)刊)、『耕織図』『月僊画譜』などの作品がある。

小堀四郎
1922年、画家を志して上京。東京美術学校(現、東京藝術大学)西洋画科に入学。
同期に小磯良平、猪熊弦一郎、牛島憲之、荻須高徳、山口長男等。
1928年、フランス留学。帰国後森?外の次女杏奴(あんぬ)と結婚。
1935年、松田改組による美術界の混乱に大きく失望し、恩師・藤島武二の助言で、画道を貫くため表舞台からは退く。
以降、東京美術学校同期生による年1回の上杜会(じょうとかい)展を主な発表の場とし、制作に専念。作品の多くは生涯作家の手元に置かれた。
芸術への探究心は年を追う毎に旺盛になり、晩年は100号の大作を製作する等、制作意欲は衰えなかった。


斎藤吾朗
1947年 - 愛知県西尾市に生まれる。
1965年 - 愛知県立西尾高等学校を卒業。
1969年 - 多摩美術大学油絵科卒業。
1971年 - 同大学の大学院美術研究科修了。
1972年 - 「コンサート後の記念撮影」第40回独立展で初入選。
1973年 - ルーブル美術館でモナ・リザを日本人初の公認模写。
1974年 - 「屋根の上の記念撮影」第18回シェル美術賞展で2等受賞。
        「玄孫を抱いた記念撮影」第42回独立展で奨励賞受賞。
1975年 - 「屋根の上の七五三」で第43回独立展独立賞及び海老原賞を受賞。
1977年 - 国際ナィーブ美術展(ユーゴスラビア)に日本代表として出品。
1982年 - 「袋の中のおばあさん」で第50回独立展で50周年記念賞を受賞。
1986年 - 個展(ニューヨーク・日本クラブギャラリー)開催。
        個展(ボストン・ジャパンソサエティ)開催。
        ハーバード大学芸術学部特別講師。
1988年 - 愛知県芸術選奨文化賞を受賞。
1990年 - 個展(ニューヨーク・ジェイン・ギャラリー)開催。
1993年 - 個展(ヘルシンキ・ギャラリーNOVO)開催。
        アートポート国際美術展(フィンランド)に招待出品。
1995年 - ジャパンフェスティバル美術展(スリランカ・ジャヤワルデネ文化センター)。
        赤土・炎・夕焼け 斎藤吾朗の世界展(高浜市やきものの里かわら美術館)。
1998年 - 「モナ・リザ」から赤絵「風土記」・斎藤吾朗の世界展。(伊東・池田20世紀美術館)
2001年 - Asian Arts Now2000(ラスベガス美術館)実行委員長。
2002年 - ニューヨーク・グランドゼロ路上展実行委員長。
2004年 - 個展(JR名古屋高島屋)。
2005年 - 「斎藤吾朗の軌跡」展(ギャラリーがらんどう)。
        ルーヴル美術館収蔵記念休刊日特別ツアー。
2006年 - 歌会始御題「笑み」特別展(伊勢・神宮美術館)。
        斎藤吾朗の軌跡展(北海道・神田日勝記念美術館)。
        個展(名古屋港イタリア村・ダ・ヴィンチ館)。
2007年 - 全国職人の集いIN西尾幡豆 実行委員長。
2009年 - 個展(宮城県大崎市 緒絶の館)。
2011年 - 斎藤吾朗の作品と収集品ー全活動を語ろう具展(高浜市やきものの里かわら美術館)。
        斎藤吾朗全仕事展(伊勢現代美術館)。
2012年 - 風景の会 -東北を描く-展企画(宮城県[大崎市 緒絶の館)
2013年 - 宮城県大崎市古川第一小学校に「古川第一小学校 木造校舎」寄贈
2015年 - 熱田神宮宝物館に「熱田神宮・創祀千九百年」常設展示

齋藤真成
1917年(大正6年)6月5日 - 愛知県名古屋市に生れる。
1920年(大正9年) - 京都府の伯父(服部五老)宅に移住。
1934年(昭和9年) - 龍谷大学予科入学
須田国太郎らに洋画を学ぶ。
1940年(昭和15年) - 同大学文学部仏教学科卒業
1941年(昭和16年) - 徴兵される。
1943年(昭和18年) - 真如堂・東陽院の第30世住職となる。
仕事の傍ら洋画を描く。
1965年(昭和40年) - 京都教育大学特修美術科・助教授に就任
1967年(昭和42年) - 同大学の教授に就任
成安女子短期大学講師
1999年(平成11年) - 真如堂・第53世貫主に就任
2009年(平成21年) - 母親の故郷である鶴岡市に作品を3点寄贈した為、市より感謝状を授与される。
2019年(令和元年)11月19日 - 死去。


柴田俊明
1967年愛知県名古屋市に生まれる。1986年愛知県立長久手高等学校を卒業後、上京。1990年東京造形大学造形学部美術学科絵画専攻卒。
1997年東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程美術専攻単位取得満期退学。
洋画家としての活動は、1989年に東京で初個展、以後現在まで18回の個展を開催。第30回昭和会展招待作家(1995)。
公募団体は新制作協会に所属し、1991年、第55回新制作展に初入選。93年、94年の二度の落選を経て、2006年、新作家賞を受賞。
作品は、主に人物をモチーフとした構成的な作風で知られる。
1994年、東京芸術大学大学院における修士論文で、『パーヴェル・フィローノフ絵画理論研究序説? 分析的芸術論と作品にみられる彼の世界観に関する一考察 ?』を発表。
2002年には、個展及びフィローノフ研究の為にロシア・サンクトペテルブルクを訪問。国立ロシア美術館側の協力で、作品収蔵庫のフィローノフ作品を調査した。
その後、2004年に論文『パーヴェル・フィローノフの研究 ? 絵画作品の分析 ?』(美術教育研究、第9号)を発表している。
武蔵野美術学園講師、新制作協会協友。東京都在住。

城景都
1946年インド系韓国人の父の三男として生まれる。小学校時代より音楽と絵に興味を持ち、学生時代を経て、ロックバンドを結成し、ライブ活動を行いつつ、絵を書き始める。
傷害事件で少年院に入ったこともあるが、恩師であり画家である近藤正治と出会い、その芸術論に感銘し、その後本格的に絵を描きはじめる。
植物の葉脈から導き出した、貫乳風のひび割れを使った作風は独自のスタイルといえる。从会会員。
画集等で公表されている生年月日は1948年12月13日であるが、現在では1946年12月13日に訂正されている。
弟に画家で絵本作家の木村昭平がいる。

受賞歴
1970年 シェル美術賞展 佳作賞
1972年 イタリア・ジェノバ市芸術家展 大賞
1978年 安井賞 入選
1979年 第一回中日展 佳作賞
1982年 日仏現代美術展 賞2席
1984年 日仏現代美術展 入賞

杉本健吉
1905年、名古屋市で生まれる。父は人形浄瑠璃三味線師匠の杉本銀次郎。
1923年、旧制愛知県立工業学校図案科卒業。
1925年、岸田劉生の門をたたく。
1926年、「花」で春陽会初入選。
1950年、平家物語を題材にした吉川英治作(週刊新潮連載)新・平家物語の挿絵を担当する。
1977年、名古屋市ヒマラヤ美術館に展示室開設。
1987年、愛知県知多・美浜緑苑に財団法人杉本美術館が開館。
1989年、世界デザイン博覧会に陶壁を制作する。
1994年、「画業70年の歩み 杉本健吉展」を愛知県美術館で開催。
2004年、肺炎のため亡くなる。享年99。

田村能里子
1944年 - 愛知県葉栗郡木曽川町(現・一宮市)に生まれる。
1962年 - 愛知県立旭丘高等学校美術課程卒業。
1966年 - 武蔵野美術大学油絵学科卒業。
1969年 - 結婚。田村姓となる。夫の赴任地であるインドに同行。
1982年 - 昭和会展優秀賞受賞。
1986年 - 文化庁芸術家在外研修員として中国に派遣、滞在。
1988年 - 西安の飯店に壁画制作。
1989年 - 中山競馬場のロビーに壁画制作、以後各地で壁画を制作する。
1999年 - JR東海名古屋駅ビルの壁画制作、テレビ東京でも壁画制作。
2003年 - ファンケルスクエアで壁画制作。
2005年 - マルホ株式会社創剤技術研究所に壁画「季のきらめき」を制作。
2012年 - ホテル椿山荘東京に壁画やアクリル画、デッサンを制作設置[2]。
2013年 - 福岡女子大学学生会館の壁画完成。

坪内滄明
伝統的な日本画(風景画)を得意としたが、花鳥画なども描いた。
挿絵画家である中村岳陵に師事し、1960年には日展初入選。その後も日展、新日展で特選・白寿賞や菊花賞、日本芸術院賞などを受賞し、1981年には文部大臣賞を受賞。


中林竹洞
竹洞は、名古屋の産科医・中林玄棟の子として生まれた。幼い時から画を好み、14歳で沈南蘋風の花鳥画を得意とする絵師・山田宮常に学ぶ。
翌年、尾張画壇のパトロンとして知られた豪商・神谷天遊に才覚を見込まれると同家に引き取られ、ひたすら古画の臨模を行って画法を会得した。
天遊に連れられ万松寺に出向いたとき李?(リカン・元代)の「竹石図」[1]を見て深く感銘したことから竹洞の号を授けられたといわれる。
このとき弟弟子の山本梅逸は王冕の「墨梅図」に感銘したことからその号を与えられた。19歳の時には絵画をもって生計を立てるにいたった。
享和2年(1802年)、恩人の天遊が病没すると梅逸と共に上洛。寺院などに伝わる古書画の臨模を行い、京都の文人墨客と交流した。天遊の友人・内田蘭著に仕事の依頼を受けて生計を立てた。
30代後半には画家として認められ[2]、以後40年にわたり文人画家の重鎮として知られた[3]。墓所は京都府の黒谷の真如堂。墓碑に「竹洞隠士」とある。
竹洞は『画道金剛杵』などの画論書を著し、著作は30種類を超える。中国南宗画の臨模を勧め、清逸深遠の趣きを表すべきであると文人としての精神性の重要さを強調している。
また室町時代からの画人47人を品等付けし、その上で池大雅を最高位に置いている。
その画風は清代文人画正統派の繊細な表現スタイルを踏し、幕末日本文人画の定型といえる。中国絵画を規範に自らの型を作って作画するため構図や趣向がパターン化し、
多作なことも手伝い、変化に乏しくどの作品も似たような印象を受ける。ただし、70年前後から亡くなるまでの最晩年は、筆数が少なくなり、
素直に自身の心情を吐露した作品へ変化するのが認められる[4]。
長男・中林竹渓、三女・中林清淑も南画家。門人に大倉笠山、今大路悠山、勾田台嶺、斎藤畸庵、高橋李村、玉井鵞溪、梁川紅蘭がいる。


中村正義
1924年 - 愛知県豊橋市に生まれる。生家は蒟蒻工場を営んでいた。
1940年 - 病気により豊橋市立商業学校を中退。
1946年 - 中村岳陵に師事、日展初入選。
1950年 - 第6回日展に「谿泉」(豊橋市美術博物館蔵)を出品、特選となる。 1952年にも「女人」で特選を受賞する。その後肺結核療養のため1957年まで制作を中断する。
1960年 - 第3回新日展の審査員となる。
1961年 - 神奈川県川崎市細山に転居。日展を脱退する。
1963年 - 個展「男と女」(上野松坂屋・名古屋丸栄)を開催。従来の画風から一変した前衛的かつポップな作品30点を発表する。
1964年 - 映画『怪談』(小林正樹監督)のため「源平海戦絵巻」5部作(国立近代美術館蔵)を制作。
1966年 - 個展「顔の自伝」(日本画廊)開催。
1967年 - 直腸癌の手術を受ける。
1969年 - 個展「太陽と月のシリーズ」(銀座三越)開催。
1970年 - 写楽研究の成果「写楽」(ノーベル書房)を出版。東京造形大学の日本画教師となる。
1974年 - 人人会を結成。第1回人人展(日本橋三越)開催。
1975年 - 東京展実行委員会事務局長として展覧会開催に奔走。第1回東京展(東京都美術館)を実現させ、「おそれ」を出品。
1977年 - 4月16日、肺癌のため死去。享年52。
1980年 - NHK『日曜美術館』「私と中村正義」放映。「異端の天才画家 中村正義」展(豊橋市美術博物館)開催。『中村正義画集』(講談社)刊行。
1983年 - 「反骨・奔走の偉材 中村正義」展(神奈川県立近代美術館)開催。
1988年 - 「中村正義の美術館」公開。
1993年 - NHK『日曜美術館』「現代日本画の出発 中村正義」放映。
1997年 - 「没後20年-中村正義」展(豊橋市美術博物館、川崎市市民ミュージアム、新潟市美術館)開催。
1998年 - 「中村正義の美術館」開館10周年記念として『創造は醜なり』(美術出版社)刊行。
1999年 - NHK『新日曜美術館』「拝啓中村正義さま」放映。
2005年 - テレビ東京『美の巨人たち』「100枚の自画像」放映。
2011年 - 所在不明になっていた作品を含めた230点の作品による「中村正義 日本画壇の風雲児、新たなる全貌展」(名古屋市美術館)開催。
2012年 - 「中村正義 日本画壇の風雲児、新たなる全貌展」が東京都の練馬区立美術館に巡回。


名倉弘雄
1945年 愛知県西尾市に生まれる"
1961年 愛知県立西尾高等学校に入学。
1964年 愛知教育大学教育学部美術科(美術専攻)に入学。
1968年 同大学卒業する。
1973年 ヨーロッパ(8カ国)遊学。
1974年 個展(渡欧展) 碧南アトリエにて。
1983年 個展(仏像と風景)西尾ギャラリー・サンドリオンにて。
1984年 個展(仏像の世界)西尾ギャラリー・サンドリオンにて。
1985年 第32回日府展に洋画を出品。
1985年 中部日府展に日本画を出品(日本画に転向)。
1986年 第33回日府展に日本画を出品(以後毎年)評議員に推挙される。
1989年 第36回日府展奨励賞を受賞する 。
1990年 第37回日府展にて日本画府理事に推挙される。
1993年 個展(日本画の世界) 名鉄パレ百貨店にて。
1994年 東海3県の日本画府理事により創日会を創立する。創立会員となる(創日会の監査委員になる)。
1995年 能楽3人展(日本画、面打ち、写真)稲沢市荻須記念美術館[11]にて。
2005年 秋の創日展中日賞(中日新聞)を受賞する。
2006年 第13回創日展奨励賞受賞する。
2006年 創日会運営委員に選出される。
2007年 創日会運営委員長(会代表)に選出される。
2010年 紙上個展(新しい日本画、独自の表現) 茨城美術新聞紙上美術館企画にて。
2013年 創日会運営委員長(会代表)を辞する。第60回記念 日府展にて奨励賞を受賞する。一般社団法人 日本画府に復帰する。  
2014年 第61回 日府展にて努力賞を受賞する。一般社団法人 日本画府参事に推挙される。  
2015年 第9回 モナコ・日本芸術祭2015 出品並びに公式ツアーに参加 Rose de Monaco 賞を受賞する。
2015年 第62回 日府展にて二度目の努力賞を受賞する。      
2015年 パリのマドレーヌ寺院で開催の 2015「恒久平和展」に出品する。
2015年 東久邇宮文化褒賞を受賞する。
2016年 Art Maison Selection「ある視点」?多層な日本美術を検証する? に出品する。REIJINSHA GALLERY 東京銀座にて。
2016年 一般社団法人 雪舟国際美術協会無鑑査会員に推挙される。
2016年 第63回 日府名古屋展にて愛知県知事賞を受賞する。 
2016年 A.M.S.C. スペイン本部芸術家会員となる。( モニュメントに記銘される )
2017年 第11回 モナコ・日本芸術祭2017 出品並びに公式ツアーに参加 モナコ・日本芸術祭「造形芸術文化賞」を受賞する。
2017年 台北で開催の台日藝術博覧会 一Art Station一 2017 に出品する。台日国際藝術交流貢献奨を授与される。
2017年 Art Maison International Vol.21 に掲載される。
2017年 国際美術展 OASIS 2017 に出品する。
2017年 スペインのマドリードで開催のアートメゾン・ビェンナーレ 2017 に出品する。DIPLOMA 証書とゴールド会員証を授与される。
2018年 第12回 モナコ・日本芸術祭2018 出品並びに公式ツアーに参加 Prix des Arts et de la Culture Rencontre Artistique Monaco-Japon 賞を受賞する。
2018年 Art Maison International Vol.22に掲載される[12]。
2018年 国際美術展 OASIS 2018 (日本とスペイン) に出品する。
2018年 第65回記念 日府展にて日府賞受賞する[13]。
2018年 アート・ルネサンス・グランプリ(レオナルド・ダ・ヴィンチ没後500年 - ルネサンス500年祭 開催記念) を受賞する[14]。
2018年 美術専門誌 BM(美術の杜) Vol.48 [15] に国際美術評論家との対談が掲載される。
2019年 第13回 モナコ・日本芸術祭2019 出品並びに公式ツアーに参加 Prix grand abenir賞を受賞する[16]。
2019年 Art Maison International Vol.23 にスペイン国際美術評論家との対談が掲載される[17]。
2019年 台北で開催の 台日藝術博覧会 Art Station 2019 に出品する。梅花奨 [18]を授与される。
2019年 21世紀国際芸術賞金賞 [19]を受賞する。BM Vol.49 に掲載される。
2019年 世界基準国際芸術文化協会より デュ・パトリモアンヌ芸術賞 [20]を授与される。Art Journal 2019.August Vol.98 に掲載される。
2019年 ミラノ・レオナルド500開催記念・ミラノ国際芸術褒章受章 [21] 並びに評論家推薦作家大賞を受賞する。BM(美術の杜) Vol.50 に掲載される。
2019年 世界基準国際芸術文化協会より The International Most Valuable Artist 賞を授与される。Art Journal 2019.November Vol.99 に掲載される。
2019年 Bienal de ARTE de JAPON Era HEISEI - REIWA 2019[22] 出品参加する。
2019年 トリコロール最高芸術金賞選考委員会より最高芸術金賞を授与される。BM(美術の杜) Vol.51 [23] に掲載される。
2020年 Japan Art Bridge Project 2020 [24] 第14回モナコ・日本芸術祭 並びに ミラノ・ジャパンアートコレクション2020 に出品 公式ツアーに参加する。
      アーティスティックゲートウェイ賞 並びに PREMIO INTERNAZIONALE D'ARTE DI MILANO 賞 [25]を授与される。       
2020年 第26回 雪舟国際美術協会展にて特選(日本画)を受賞する。
2020年 アートジャーナル社より日本藝術選奨 [26] 日本画部門大賞を授与される。 日本美術史珠玉の名画・名筆100選受賞 [27]する。
2020年 ユニオン・デ・ザールより現代人気美術作家年鑑 年間グランプリ [28]日本画部門を授与される。
2020年 日米蘭仏藝術アカデミー協会よりアートクロス芸術大賞 [29]を授与される。
2020年 世界基準国際芸術文化協会 [30]より世界芸術遺産百科事典に登録される。
2020年 Art MAISON INTERNATIONAL Vol.24 平成美術 HEISEI BIJUTSU に掲載される。
2020年 エトワール芸術大賞 [31] 並びに アート・ラヴィサント・グランプリ[32]を受賞する。BM Vol.52 に掲載される。
2020年 BM(美術の杜) Vol.53号 [33] 現代の巨匠 名倉弘雄の特集[34] が掲載される。
2020年 戦後日本美術総集Ⅳ(麗人社発行) [35] に2点が掲載される。
2020年 BIFROST Vol.28 [36] にて 新時代最優秀作家賞を授与される。
2020年 パリ・ルーブル美術館 世界遺産登録 30年記念 アルチスト ブリリアント 認定証 [37] を受ける。

沼田月斎
牧墨僊及び葛飾北斎の門人。150石取りの尾張藩の侍で代官町に住んだ。文化元年(1804年)に大番組となっている。
初め牧墨僊に絵を学び、のちに墨僊からその前名である月斎歌政の名を譲られ、二代目月斎歌政と称した。これは墨僊の妻が沼田氏で、月斎と何らかの繋がりがあったためとも思われる。
文化9年(1812年)、名古屋滞在中の葛飾北斎からも墨僊とともに絵を学んでいる。
文政のころ月斎を名乗り、文政元年(1818年)刊行の『北斎画鏡』や、翌年刊行の『北斎漫画』九編などの奥付に、校合門人の一人として月斎歌政の名前が見られる。
版本の作としては天保14年(1843年)刊行の『絵本今川状』などがある。肉筆浮世絵では美人画を得意としたが、「歌政」と署名した作品は後に師のものと間違われる場合もあった。
天保以降は浮世絵から離れて張月樵・山本梅逸に師事して南画で一家を成し嘉永6年(1853年)には画壇から退く。
享年78。
門人に埴原月岬、大石真虎、川崎千虎、川崎美政、岩田古朴、服部月真、今井雪政らがいる。


平川敏夫
中村正義との出会いによって本格的に日本画の制作を始めるようになる。
1950年には正義の薦めで第3回創造美術展に出品し、以後、創造美術が新制作派協会と合併して新制作協会日本画部となった後も同展に出品を続ける。
初期の作風は素朴派を思わせる幻想的な表現で漁村や夜の庭園、水辺の景色などを描き、第18回新制作展では《月の庭》など庭四題が新作家賞を受賞。
やがて画面の色調は褐色系に寄り、陰影を強調した線でフォルムを切り抜く新たな表現様式へと踏み込むようになります。
1953年、当地方を台風13号が襲い、家屋のみならず樹林にも大きな被害をもたらしたが、翌年にはあらたな芽吹きがみられ、そのたくましい生命力に触発されて樹々のシリーズが生み出された。
当初は冬枯れの樹枝が波打つ様を描いていたが、やがて燃えさかる炎と化したかのような樹枝を朱で描いたシリーズに至る。
また1970年代からはこれらの樹木のなかに古寺の塔を配した連作を発表。「塔は樹の魂」として画面のなかで象徴的な位置を占める。
1980年代より画面から色彩が影を潜めるようになり、墨の濃淡を主体とした画境に到達する。
従来の水墨画と一線を画すのは染色を思わせる「白抜き」の画法によるもので、深閑とした雪庭を描く《雪后閑庭》、紅葉の葉が幾層にも重なり合い、
無彩であるにもかかわらず装飾美にあふれる《那谷寺仙境》などをあらわす。
1990年、豊橋市美術博物館において初の回顧展「平川敏夫展」を開催。1997年には岐阜県美術館で「華麗なる変遷-平川敏夫展」が開催。
2006年5月14日に肺炎のため死去。
享年81。

星野眞吾
豊橋第二中学校(現・豊橋東高等学校)在学中から、水彩画・油彩画を描くようになった。また、この時期に中村正義と出会った。
1944年(昭和19年)に京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)図案科を、1948年(昭和23年)に京都市立美術専門学校(現・京都市立芸術大学)日本画科を卒業。
同窓生11人と「グループ・パンリアル」(翌年、「パンリアル美術協会」に改称)の設立に参画した。星野らは自らの作品を「膠彩画(こうさいが)」と称し、
伝統主義的、形式主義的な従来の日本画とは異なるものであるとした。以後、星野は厚紙や和紙のコラージュによる抽象画などの実験的作品を制作した。
1960年代半ば頃から、作風に大きな変化が現れた。その大きな要因は、父の死であった。自分が存在していたことの証を肉体が滅びた後も残したいとの思いを強くした星野は、
糊を塗った身体を和紙に押し当て、その上に顔料をまぶすことにより、和紙の上に自らの身体を投影する、「人拓」という手法を多用するようになった。
1949年の「第1回パンリアル展」以来、星野は継続して同展に作品を寄せてきたが、パンリアル美術協会結成30周年の節目となる1977年、
「第35回パンリアル展」への出品をもって協会を脱退した。これと前後して中村正義らと「人人会(ひとひとかい)」を結成し、精緻な写実的描写による異世界の構築を試みるなど、
日本画の革新を目指して活動した。晩年には白内障や緑内障に苦しみながらも創作活動を続けた。
1997年12月29日死去。74歳。

牧墨僊
葛飾北斎の門人。姓は牧、名は信盈(のぶみつ)。通称新次郎、寛政5年(1793年)に登と改名、さらに文化7年(1810年)、助左衛門(あるいは助右衛門)を襲名した。
月斎、峨眉丸、歌政、月光亭主人、北亭、北僊、墨仙、百斎、酔墨山人、画狂人、斗岡楼、慶遊斎などと号す。狂歌名は竹風庵。
尾張藩の家臣の家に生まれ、寄合組に属し、名古屋鍛冶屋町下新道北西角(現・名古屋市中区鍛冶屋町)に住んでいた。安永8年(1779年)、100石を与えられて馬廻組に入る。
初めはおそらく参勤交代で江戸に出て、喜多川歌麿の門人となる。寛政(1789年-1801年)後期から享和3年(1803年)まで、月斎峨眉丸あるいは鳥文斎と称して、
狂歌絵本や狂歌俳諧の摺物など文芸方面と関わりを持つ仕事を中心にしつつ、「芸妓立姿図」(東京国立博物館所蔵)のような鳥文斎栄之風の肉筆美人画などを描いた。
寛政6年(1794年)御書院番になり、加増されて150石取りになった。この年刊行の自作の艶本「笑本東都名所図会」に、「鳥文画」と落款している。享和元年(1801年)銅版画を制作。
これは司馬江漢に次ぎ、松原右仲や亜欧堂田善とほぼ同時期にあたり、日本の銅版画史上の中でも比較的早い時期に属する。
ただし墨僊が銅版画の技法をどこから学んだかは諸説あってはっきりしない。
享和3年(1803年)刊行の「寿福百人一首教鑑」には、喜多川歌政・東都峨眉丸と落款している。寛政8年(1796年)の俳諧本「常棣」において初めて歌政と称し、以降文化3年(1806年)まで歌政と称した。また文化4年(1807年)の春から歌政の号は弟子の沼田月斎に譲り、自身は墨僊の号を使用する。文化9年(1812年)、北斎が関西へ行く途中で名古屋に滞在したとき北斎の門人となり、肉筆画、絵手本、絵本及び細判摺物、版本の挿絵を描いたが、一枚摺の錦絵はほとんど残していない。文化14年(1817年)から馬廻組に戻っている。その後、文政7年(1824年)に刊行された狂歌絵本「弄花集」において竹風庵歌政月斎と記していることから、牧墨僊と月斎峨眉丸は同一人とする説があるが、両者の作品を比べるとその画風は異なる。
著作として絵本『写真学筆』、『真景画苑』、『画賛図集』、『一宵話』、『北帝夷歌集』、『栄玉画鑑』、『狂画苑』などの他銅版画を自刻し、
「瘍科精選図解」や「蕃舶図」、「天球図」といった数種の作品が挙げられる。文化11年(1814年)刊行の「北斎漫画」に尾張校合門人として名を連ねている。
享年50。
墓所は名古屋市中区大須3-29の萬松寺。
墓地は名古屋市平和公園萬松寺墓地。法名は大寿院亀岩墨僊居士。
喜多川歌麿と葛飾北斎という浮世絵界の二大巨匠に学んだことと、中京における銅版画の創始者となったことは特筆される。門人に、沼田月斎、森玉僊らがいる。


三岸節子
1905年 愛知県中島郡小信中島村に生まれる。
1925年 「婦人洋画会」結成。
1947年 「女流画家協会」創立の発起人となる。
1951年 第一回芸能選奨(現・芸術選奨)を受賞。
1968年 フランスへ移住。
1986年 秋の叙勲で勲三等宝冠章を受章。
1988年 尾西市の名誉市民に推挙される。
1989年 フランスから帰国。
1990年 朝日賞を受賞。
1994年 女性洋画家として初めて文化功労者となる。
1998年 市は第三者の手に渡っていた節子の生家跡を買い取って三岸節子記念美術館を建設し、11月3日に開館した。
1999年 急性循環不全のため、大磯の病院で94歳で死去。


水谷勇夫
膠絵(にかわえ)と称する和紙と日本画の顔料を使った現代絵画で1960年頃から国内外の注目を浴びる。本人は「日本画」という言葉を嫌って使わなかった。
自らの戦争体験をもとに人間存在の不条理、矛盾を暴きだすような気迫のある作品を生み出した。1963年には角川書店が刊行した『世界美術全集 戦後日本美術』に掲載された。
舞台美術も手がけ、舞踏の土方巽や大野一雄、麿赤兒などの舞台美術を担当する。
またコンセプチュアル・アート(概念芸術)の松澤宥とも親交が深く、行動芸術「玄界遍路」などコンセプチュアル(概念的)な仕事も行った。
社会の底辺で迫害される側の人間に目を向け、公害や差別など社会的なテーマを扱った作品も多い。表現活動は絵画にとどまらず、
陶器を使ったインスタレーション(本人は窯造形と呼んだ)や書作品も手がけた。書ではNHK大河ドラマ「琉球の風」の題字を担当した。
また、杉浦明平の小説、『小説渡辺崋山』の挿絵も担当する。1974年には『神殺し・縄文』を刊行した。
2005年6月5日、腹部大動脈りゅう破裂のため愛知県半田市の病院で死去。
83歳没。

宮脇晴
1917年 大沢鉦一郎と「愛美社」を結成。
1920年 名古屋市立工芸学校卒業[1]。
1928年 名古屋市立工芸学校教諭就任、帝展入選[2]。
1943年 新文展特選[2]。
1949年 中部春陽会を設立。後進の指導をする。

三輪修
1958年 愛知県一宮市で生まれる。
1972年 独学で絵を始める。
1975年 中部白日会(中部白日賞)
1977年 スイス美術賞展・日伯現代美術展
1983年 第59回白日会展(白日賞受賞)
1985年 伊藤廉記念賞展 入選
1993年 第69回白日会展(М賞受賞)
1998年 志摩の絵展招待出品
2003年 第79回白日会展(U賞受賞)
2003年 尾西市絵画公募展入賞
2003年 第5回熊谷守一大賞展佳作
2008年 第84回白日会展(東邦アート賞受賞)


藪野健
1943年9月1日愛知県名古屋市に生まれる。
1969年早稲田大学大学院文学研究科修士課程芸術学(美術史)専攻修了。
1970年~1971年マドリード、サン・フェルナンド美術学校プロフェソラード留学。
1976年早稲田大学理工学部講師(西洋美術史)、武蔵野美術大学講師(絵画)
1984年早稲田大学政治経済学部講師(芸術)、同理工学部建築学科講師(設計実習)、
1988年同第二文学部講師、1989年同学理工学部機械工学科講師などを経て、
1990年武蔵野美術大学造形学部映像学科教授(絵画、表現論)。
1999年早稲田大学芸術学校空間映像科教授(~2010年)。
2009年日本藝術院会員。
2010年一般社団法人二紀会副理事長。
2010年早稲田大学基幹理工学部表現工学科教授。
2011年4月~2012年10月早稲田大学會津八一記念博物館館長。
2014年早稲田大学栄誉フェロー、名誉教授、維持員。山田洋次監督「小さいおうち」絵画監修。
2015年府中市美術館館長。山田洋次監督「母と暮らせば」イメージアドバイザー。
2016年広島大学名誉博士。

山本鼎
1882年(明治15年) - 愛知県額田郡岡崎町に生まれる
1887年(明治20年) - 一家東京に転居、浅草山谷に住む
1892年(明治25年) - 小学校尋常科四年を卒業、桜井暁雲(虎吉)方に弟子入りする
1900年(明治33年) - 一家上田市大屋に転居、父一郎医院を開業
1902年(明治35年) - 東京美術学校西洋画科選科入学
1904年(明治37年) - 木版二色刷「漁夫」発表、石井柏亭「刀画」と名づける
1905年(明治38年) - 11月、美術雑誌『平旦』において「西洋木版に就て」(翌年1月まで連載)と題して「版画」の語を使用
1907年(明治40年) - 石井柏亭、森田恒友らと『方寸』誌創刊
1908年(明治41年) - パンの会発足、発起人となる
1909年(明治42年) - 北原白秋詩集「邪宗門」挿絵
1912年(大正元年) - 神戸港からフランス留学、エコール・ド・ボザールに入学、エッチングを学ぶ
1914年(大正3年) - 島崎藤村と親交、第一次世界大戦始り、ロンドンへ避難
1915年(大正4年) - エコール・ド・ボザールに通学再開
1916年(大正5年) - スェーデン、ドイツ、チェコ、ロシアを経てシベリア鉄道経由で帰国
1916年(大正5年) - 帰国途中のモスクワにて児童想像美術展と農村工芸品展示所を見る
1917年(大正6年) - 日本美術院洋画部同人、長野県上田で金井正らと児童の美術教育の改革につき話し合う
1917年(大正6年) - 北原白秋妹、家子と結婚、東京市外日暮里に新居を構える
1918年(大正7年) - 戸張弧雁、寺崎武男らと日本創作版画協会設立、会長となる
1918年(大正7年) - 長野県小県郡神川村小学校で講演「児童自由画の奨励」
1919年(大正8年) - 東京・日本橋三越にて第1回日本創作版画協会展、日本児童自由画協会設立
1919年(大正8年) - 執筆した「日本農民美術建業の趣意書」を神川村に配布、
1919年(大正8年) - 農民美術練習所を神川小学校に開講
1920年(大正9年) - 東京・日本橋三越で農民美術品展示即売会
1921年(大正10年) - 農民美術練習所を大屋に完成
1922年(大正11年) - 春陽会創立に参加
1923年(大正12年) - 第2期農民美術講習を新築した農民美術研究所にて開始
1931年(昭和6年) - 日本版画協会設立、副会長となる
1935年(昭和10年) - 帝展参与、日本農民美術研究所閉鎖、春陽会脱退
1936年(昭和11年) - 新文展審査員
1940年(昭和15年) - 東京・日本橋三越で個展
1942年(昭和17年) - 群馬県榛名湖畔に滞在
1942年(昭和17年) - 北原白秋死去、葬儀委員長をつとめる
1942年(昭和17年) - 榛名湖畔の旅館で脳溢血のため倒れ、高崎市内の病院で加療後、帰京
1944年(昭和19年) - 病気療養のため上田市に転居
1946年(昭和21年) - 腸捻転となり、入院して手術を受けた後死去。

吉田翔
1984年 愛知県名古屋市生まれ
2001年 河合塾美術研究所名古屋校日本画専科修了
2003年 成安造形短期大学造形芸術科美術コース日本画クラス卒業
2006年 大阪成蹊大学芸術学部美術工芸学科絵画表現領域日本画工房卒業
2008年 大阪成蹊大学芸術学部美術学科絵画表現領域日本画工房研究課程修了
2009年 大阪成蹊大学芸術学部美術学科絵画研究室講師









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