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大田区について

前身は大森区と蒲田区であるが、区の政治・経済は蒲田に一極集中している。

東側は東京湾を挟んで房総半島を望み、西側は川崎市中原区、幸区、南側は川崎市川崎区、北側は江東区、品川区、目黒区、世田谷区と境界を接する。 夜間人口は世田谷区の方が多いものの、都市構造が異なっており、東部の広大な埋立地と西部の丘陵部に挟まれた狭い区域での密度の濃い都市部となっている。

東京23区の中で都心から最も遠くに位置し、23区で唯一、都心15km圏に分類される(埼玉県川口市や千葉県市川市と同じ距離圏)。ただし、区役所が所在する蒲田は多摩川を挟んで神奈川県川崎市と接する交通の要地で、東京都心と神奈川県を結ぶ鉄道(JR東海道線・京浜東北線や浅草線と相互乗り入れする京急線など)の本数が多い。区東部には羽田空港があり、大田区の面積の約3分の1を占め、空港の所在地の地名も「大田区羽田空港○丁目」となっている。

区内人口は平成12年(2000年)国勢調査では前回比2.21%増、平成17年(2005年)国勢調査では同2.31%増と増加傾向にあり、2017年(平成29年)時点では鳥取県や島根県、高知県の人口を上回る。大田区戸籍住民課調べによる出生・死亡等の自然増減、転入・転出等の社会増減、外国人の帰化等のその他増減を加味した人口動態でも平成16年度(2004年度)+4,862人、平成17年度(2005年度)+5,246人、平成18年度(2006年度)+3,043人の増加となっている。区内人口は夜間人口より昼間人口の方が多い。男女比率は平成17年(2005年)国勢調査では、男性103 対 女性100 となっている。

人口密度は平成12年(2000年)国勢調査では10,937人/km2、平成17年(2005年)国勢調査では11,190人/km2である。東京23区で19番目の低人口密度となっているが、これは前述の通り羽田空港の面積を含むからである。それでも東京都平均の約2倍、全国平均の約33倍に相当する。

世帯当たりの人員は平成12年(2000年)国勢調査では2.19人、平成17年(2005年)国勢調査では2.11人と減少傾向にある。

外国人登録者数は一定している。大田区戸籍住民課調べでは毎年1月1日時点で平成15年(2003年)15,534人、平成16年(2004年)16,015人、平成17年(2005年)15,716人、平成18年(2006年)16,181人、平成19年(2007年)16,475人、2019年(平成31年)1月1日現在でその数は24,199人に達している。国籍では中国、韓国朝鮮、フィリピンの順に多い。

人口は増加傾向にあり、世帯数はさらに急増傾向にあるため、1世帯当たりの人員は縮小傾向にある。これは「夫婦と子供世帯」の大家族世帯が減少し、「単身世帯」や「夫婦のみの2人世帯」が増加していることを示している。

大田区高齢福祉課の予想では2023年度(令和5年度)には区域の5人に1人が、75歳以上の後期高齢者となる。

画家について

・狩野養信
伊川院栄信の長男として江戸で生まれる。母は稲葉丹後守家来、松尾多宮直常の娘。通称、庄三郎(しょうざぶろう)。号は玉川・晴川院・会心斎。もともと、彼の名「養信」の読みは「たけのぶ」であったが、1813年(文化10年)、将軍徳川家慶に長男竹千代が生まれると、「たけ」の音が同じでは失礼であるとして「おさのぶ」に読み改めた。さらに、竹千代が翌年亡くなり、玉樹院と呼ばれたため、それまでの号・玉川を避けて「晴川」とした。
15歳で初めて江戸城に出仕した。その前日から、没する前日までの、36年間にわたる『公用日記』56冊には、御用絵師の業務やそれ以外の日常を知ることが出来る。
1819年(文政2年)に法眼の称号を得、1828年(文政11年)には父の死を受けて家督を相続し、木挽町狩野派9代目となる。1834年(天保5年)、法印に叙せられた。1838-39年(天保9-10年)には、江戸城西の丸御殿、1844-45年(天保15-弘化2年)には本丸御殿の障壁画再建の指揮をとった。障壁画は現存しないが、上述の『公用日記』に淡彩下図が残る。
子に狩野雅信、弟に『古画備考』を著した朝岡興禎、浜町狩野家の狩野董川中信、中橋狩野家の狩野永悳立信らがいる。
なお、弟子に明治期の日本画家である狩野芳崖と橋本雅邦がいる。橋本雅邦は、その父・橋本養邦が狩野養信の高弟であったのに加え、雅邦自身、木挽町狩野家の邸内で生を受けている。幼少期は父から狩野派を学んで育ち、わずかに最後の一ヶ月のみながら最晩年の養信に師事してもいる。芳崖と雅邦は同日の入門であり、実質の師匠は養信の子・雅信であったと考えられている。他の弟子に、阿波藩御用絵師の中山養福、松代藩絵師の三村晴山、弘前藩の御用絵師の新井晴峰、糺晴岱、狩野養長、岩崎信盈、林伊教など。
2003年(平成15年)、東京都大田区の池上本門寺にある、養信の墓が移転される際、遺骨が掘り出され、頭蓋骨から、生前の頭部復元模型が制作された。この模型は、池上本門寺に保管されている。

・鈴木保徳
独立美術協会の創立会員のひとり、明治24年(1891)11月23日、東京蒲田区(現・大田区)に生まれ、大正5年3月、東京美術学校西洋画科を卒業した。在学中は黒田清輝の指導をうけたが、卒業後の一時期は、生来の生物、特に昆虫好きから生物学にむかおうと悩んだりしたが、二科会展の大正10年(1921)第8回展から出品、昭和3年第15回二科展に「接木と花」「青嵐」他3点を出品して二科賞を受賞、会友となった。
 昭和5年(1930)11月、三岸好太郎、高畠達四郎らと二科会のなかの同志、林武、児島善三郎、鈴木亜夫らと共に独立美術協会を設立、翌年1月第   1回展を開催、以後、独立展を中心に作品を発表してきた。その間、昭和8年には独立展開催のために台湾に旅行、また昭和11年にはグループ展のために中国東北部(旧満州)に旅行した。昭和29年(1954)には多摩美術大学教授となり同41年(1966)まで後身の指導にあたり、47年(1972)紫綬褒章をうけた。作風は、明暗の対比のつよい人物像、やや抽象化した形体による構成風の作品から、ふとい筆触による雄大な自然風景、線のリズミカルな表現をみせた静物画という展開をとっている。
1974年 胃ガンのため東京世田谷区の自宅で死亡した。享年83歳。

・櫃田伸也
1941年、東京都に生まれる。1964年、東京藝術大学美術学部油画専攻卒業。大橋賞受賞。1965年、第29回新制作協会展で新作家賞受賞。68年第32回展まで同賞受賞。72年会員。1966年、東京藝術大学大学院修了、同校非常勤助手となる。~69年。1969年、個展(田村画廊,東京)。1970年、NHK美術部のデザイナーとして勤務。~71年。1975年、愛知県立芸術大学美術学部絵画科油画に勤務。96~2001年教授。1979年、文化庁芸術家在外研修員としてパリに滞在。~80年。1983年、現代日本の美術-風景との出会い展(宮城県美術館)。1984年、名古屋市芸術奨励賞受賞。1985年、第1回具象絵画ビエンナーレ展。87年第2回展も出品。第28回安井賞展で安井賞受賞。1989年、アートエキサイティング’89(埼玉県立近代美術館、他)。1990年、文部省在外研修員としてニューヨーク、パリに滞在。1992年、個展(梅田近代美術館)。1994年、個展(西武アート・フォーラム)。2001年、個展(愛知県立芸術大学芸術資料館)。東京藝術大学絵画科油画教授。09年退任。2004年、個展(諏訪市美術館)。2005年、日韓現代美術特別展(福岡アジア美術館)。2007年、文化庁芸術家在外研修制度40周年記念-旅展(国立新美術館)。2008年、個展-退任記念展(東京藝術大学大学美術館)。2009年、第32回損保ジャパン東郷青児美術館記念大賞受賞。放課後のはらっぱ-櫃田伸也とその教え子たち展(愛知県美術館、他)。2011年、個展(損保ジャパン東郷青児美術館)。

・横溝洋
和3(1928)年4月25日、東京都大田区に生まれる。小学校高学年の頃から絵に興味を抱き、同26年、早稲田大学理工学部応用化学科を卒業して同年猪熊弦一郎に師事する。翌27年、第4回読売アンデパンダン展に対象を抽象的形体にデフォルメした「工場」を出品し、安部公房により新聞展評に取り上げられる。同31年第30回国画会展に「かつぐ」で初入選し、以後同展に出品を続け、同37年同会会友となる。同48年、インド、スリランカへ、翌年インド、ネパールへ、同51年トルコ、イラン、アフガニスタンへ赴き、帰国のたびに個展によってその成果を発表。同55年前後から中国、西域を中心に旅している。作品は早くから抽象的傾向が強く、晩年には「系」のシリーズを追求し、幾何学的形体と強烈、明快な色彩で宇宙の律を表現するような画面を示した。同61年、国画会会員に推挙された。絵画のほか著述もよくし、著書に『表現とは何か–系の世界1」(築地書館、昭和59年)、『私的空間池上村–系の世界2」(同、昭和61年)、『柿くへば 食から見た明治以降の文学–系の世界3』(同、昭和63年)などがある。
1990年 食道ガンのため、東京都渋谷区の日赤医療センターで死去した。享年62。

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