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品川区について

旧品川区と旧荏原区の合併後の地名は、「大井区」「東海区」「城南区」「八ツ山区」「港区」などの候補があったが、旧品川区が踏襲された。

同時期に東京都内に誕生した特別区の中で唯一、これまでの区名が新たな区名に採用された。

2015年(平成27年)「国勢調査」結果より、夜間人口(居住者)は386,855人で、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は544,022人[2]。昼間人口は夜間人口の1.406倍である。

『東京23区生活実感ランキング2006』(2006年9月HOME'Sリサーチ)で東京23区の中で各区住民による総合満足度ナンバーワンに選ばれた。

画家について

・伊東傀
1918年に東京都で生まれる。東京芸術大学の名誉教授となる。1993年、しながわ美術家協会の顧問となる。産経準大賞の金のトロフィーである天女の舞は、伊東の作品である。2009年2月1日に心不全のため死去した。

・杉全直
洋画家であるが、東京美術学校系統のシュルレアリスムのグループで目立った活動をしていた「貌」に参加し、平面作品のみではなく、立体作品を中心に制作した時期もある。現代日本美術展、日本国際美術展などで優秀賞を受賞し、日本の抽象絵画をリードする一人となった。

1924年、兵庫県姫路市に移住。その後、美術学校進学のためアトリエ村として画家が多く集まっていた埼玉県浦和市(現・さいたま市浦和区)へ移住し浦和画家にひとりに数えられる。1933年、東京美術学校(現:東京芸術大学)油画科予科に入学。その後、本科に入科し、1938年に卒業。

1939年、福沢一郎ら40名の前衛活動家と共にシュルレアリスム運動で知られる美術文化協会の創立同人となる。 戦後もシュルレアリスム的な作品を制作していたが、抽象表現主義的な作風へ移行。

1950年代から国内外を問わず、数多くの美術展に出品する。その後、多摩美術大学教授や東京芸術大学教授を務めた。1981年、第31回芸術選奨文部大臣賞を受賞。

1990年頃までは意欲的に制作に打ち込む。1994年、脳梗塞のため死去。

・立川広己
1949年(昭和24年) 東京都品川区に生まれる。
1972年(昭和47年) 武蔵野美術大学卒業。
1983年(昭和58年) 埼玉県岩槻市展市長賞。
1984年(昭和59年) 日仏現代美術展入選。
1986年(昭和61年) 上野の森絵画大賞展佳作賞受賞。ニッポン放送賞受賞。
1986年(昭和61年) フジテレビジョン「朝のテレビ美術館」にて作品が放送される。
1986年(昭和61年) 入賞作品「時の停止」が上野の森美術館買い上げになる。
1989年(平成元年) 自由美術展にて佳作作家賞受賞。
1989年(平成元年) 自由美術協会会員に推挙される。
1989年(平成元年) 全国有名百貨店(新宿伊勢丹他)巡回。個展開催が始まる。
1991年(平成3年) 現代精鋭選抜展記念大会にて金賞を受賞。
1993年(平成5年) 自由美術協会より安井賞候補作家展出品に選ばれる。
1994年(平成6年) 全国花の大賞展招待出品。
1996年(平成8年) 作品「華宴」F150号が通産省(現経済産業省)工業技術院買い上げとなる。
2001年(平成13年) 沖縄平和祈念堂主催平和記念美術展へ招待される。[要出典](出典は、雑誌「一枚の繪」1996年(平成8年)12月号、165頁、雑誌「一枚の繪」2002年(平成14年)1月号、146頁、雑誌「一枚の繪」2008年(平成20年)1月号、121頁など)
2005年(平成17年) NHK北九州支局テレビ出演。
2006年(平成18年) 上野の森美術館「作家の視点展」へ招待出品。
2009年(平成21年) 東京有楽町フォーラム「アートフェスタ」に出席をする。
2012年(平成24年) 全国有名百貨店巡回個展を開催する。
2013年(平成25年) 画業40周年記念展を全国で開催。
2016年(平成28年) 西日本放送テレビ香川テレビ放送網「RNC news every.」テレビ出演しライブパフォーマンスを行う。
2017年(平成29年) 東京・銀座の画廊、ギャラリー一枚の絵 にて個展開催。
2019年(平成31年) 東京・銀座の画廊、ギャラリー一枚の絵、伊勢丹浦和店にて個展開催。また高松三越個展はテレビ放映。
2019年(令和元年) 東京・上野の東京都美術館で11月に開催される公募展、55周年記念都展の外部審査員に任命される。
2019年(令和元年) 自由美術協会会員、日本美術家連盟会員。

・中西夏之
1935年、東京市品川区大井町生まれ。1954年、東京都立日比谷高等学校卒業。同窓に作家の坂上弘・文芸評論の権田萬治などがいる。1958年、東京藝術大学絵画科(油画専攻)を卒業。大学時代の同窓に高松次郎・工藤哲巳・磯辺行久など。1959年、シェル美術賞で佳作を受賞した。

1962年、高松次郎・川仁宏らと共に、山手線のホームや車内で卵型のコンパクトオブジェを用いた「山手線事件」のハプニングを行い、翌1963年、第15回読売アンデパンダン展に《洗濯バサミは攪拌行動を主張する》を出品、時代を代表する作品となる。同年、高松次郎・赤瀬川原平らと「ハイレッド・センター」(高・赤・中)を結成し、銀座の街頭や画廊などで日常に懐疑を突きつける多くのイヴェントを実践した。

1960年代から舞踏家の土方巽と交流をもち、周辺の瀧口修造や澁澤龍彦、シュルレアリスム系の画家や詩人たちと親交するほか、1965年、暗黒舞踏派公演『バラ色ダンス〜澁澤さんの家の方へ』、1968年、『土方巽と日本人—肉体の叛乱』で主要な舞台美術・装置を手がけ、笠井叡や山海塾らとも協働を重ねる。近年はフランス・リヨン国立歌劇場でのペーター・エトヴェシュ作曲、天児牛大演出によるオペラ作品(『三人姉妹』(1998年)、『更級夫人』(2008年))などでも舞台美術を担当した。

初期には、砂を用いた絵画《韻》、連作廃品を溶接した《内触覚儀》、アクリル樹脂で身辺の事物を封じ込めたコンパクトオブジェなど物質的な要素の強い作品を制作し、1960年代以降も《正三角儀》や《山頂の石蹴り》など、幾何学的かつ身体感覚を強く反映した作品が多い。

1960年代後半からは「絵画」の制作を主軸とし、特に1970年代から、白、紫、黄緑といった色を基調とする、油彩の平面作品を発表。作家と現実空間との緊張関係を主題にした思考性の強い作品を数多く制作。現在まで精力的な取り組みを見せている。

1995年の神奈川県立近代美術館での個展以来、インスタレーション「着陸と着水」シリーズが続いている。

1996年より2003年まで東京藝術大学にて美術学部絵画科油画専攻教授を務めた。

2004年から2007年までは倉敷芸術科学大学で教授を務めた。

2016年10月23日、脳梗塞のため死去した。81歳没。

・益田義信
益田農事株式会社取締役。益田太郎冠者の子として東京に生まれる。兄弟は5人とも「信」の字を名前に含むため、俗に「五信」と呼ばれる。慶應義塾大学卒。梅原龍三郎に師事する。パリ留学後、国画会に所属した。ヴェネツィア・ビエンナーレなど国際展のコミッショナー。国際造形芸術連盟会長。

日本自動車連盟(JAF)のマークは、1963年(昭和37年)の創立当時に理事を務めていたことから益田がデザインした。色については、制作当初から白とブルーと決めていたとのことで、全9種の試作のうち5枚をJAFに持参し、最終決定されたものが、益田の一番のお気に入りのデザインだったというエピソードが残されている。

父と同じく、戦時中も洋行するほどの放蕩ぶりで、祖父・益田孝(三井物産、日本経済新聞社創業者)の築いた巨額の財産を使い果たしたことで知られる。

妻の桑子は、洋鉄を最初に扱った鋼鉄商の森岡平右衛門娘。

・吉田善彦
老舗の呉服屋の次男として1912年(大正元年)10月21日、東京府荏原郡大崎町(現東京都品川区)に生まれる。

小学校時代に南画家の中田雲暉に絵画の手ほどきを受ける。1929年(昭和4年)より速水御舟に師事。

1935年(昭和10年)腸チフスにより速水が急逝。同年以後小林古径に師事する。

1937年(昭和12年)、幸三郎の助力によって完成した「もくれんの花」が第24回日本美術院展覧会(院展)に初入選。

1940年(昭和15年)2月、第49回院展出品作「富士月明」が文部省買上作品に決定。同年より法隆寺金堂壁画模写事業に参加、橋本明治の助手として第9号大壁(弥勒浄土図)と第11号小壁(普賢菩薩像)を担当、模写作業のため奈良へ転居。

1941年(昭和16年)、速水御舟遺門の同志9名と圜丘会を結成[1]。同年日本美術院院友に推挙。

1942年(昭和17年)、法隆寺金堂壁画模写事業安田班として安田靫彦監修の元、6号壁を仕上げる。

1944年(昭和19年)応召義務により応召、太平洋戦争終結後となる1946年台湾より復員。復員後は再度法隆寺金堂壁画模写事業に従事。

1954年(昭和29年)東京世田谷区に戻り、安田靫彦門下生による火曜会に参加。1957年より1963年にかけて4作が院展奨励賞、1962年第47回院展出品作「滝」が日本美術院次賞を受賞、これらにより1964年(昭和39年)日本美術院同人に推挙。

1964年(昭和39年)より東京芸術大学講師、のち1968年(昭和43年)助教授、1969年(昭和44年)教授となり1980年(昭和55年)まで教職に就く。

1970年(昭和45年)には東京芸術大学第三次中世オリエント遺跡学術調査団の模写班に参加、トルコのカッパドキアへ赴く。

1973年(昭和48年)、第58回院展「藤咲く高原」が文部大臣賞受賞。同年、イタリアのローマを始めとするイタリア国内壁画の研究を手掛ける。

1976年(昭和51年)6月10日より27日までの期間、宮川寅雄を団長、中川一政を名誉団長とする、美術家代表の訪中としては9年ぶりとなる中国文化交流使節日本美術家代表団に脇田和、中根寛、高山辰雄、加山又造、平山郁夫と共に参加、北京を始めとする中国各都市巡遊行を行った。

1978年(昭和53年)、第63回院展「春雪妙義」が日本芸術院賞恩賜賞受賞。同年、日本美術院評議員就任。

1981年(昭和56年)、第66回院展「飛鳥日月屏風」が内閣総理大臣賞受賞。同作は翌1982年(昭和57年)1月、第23回毎日芸術賞も受賞。

1982年(昭和57年)2月、朝日新聞社より『吉田善彦画集』出版。

1986年(昭和61年)、東京芸術大学名誉教授。翌1987年(昭和62年)、日本美術院理事就任。

2001年(平成13年)11月29日、肺炎により東京都世田谷区の病院で死去、享年89。

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