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山梨県について

山梨県は富士山や八ヶ岳、南アルプスなど、たくさんの高い山にかこまれている「ぼん地」といわれる地形をしています。
となりには東京都、神奈川県、静岡県、長野県、埼玉県があります。
高い山が海からの湿った風をさえぎってくれるので、一年中雨や雪が少なく、晴れの日が多い気候です。
釜無川、笛吹川、富士川など、大きな川もたくさん流れていて、山梨ならではの農産物や特産物があります。


山梨県は日本一高い山で有名な富士山があるほか、八ヶ岳や赤石山脈、奥秩父山地といった山々に囲まれている地域です。
また、河口湖や山中湖といった富士五湖として知られる湖もあります。

山梨県は果樹栽培が盛んであり、ブドウや桃と言った果物が特に有名です。
また、ブドウからワインを作る試みも行われており、特に勝沼産のぶどうから作られた勝沼ワインは全国的に知られています。
山々から流れ出る湧き水が多く採取できることでも知られており、山梨県のミネラルウォーターの生産量は日本全国の総生産量の40%にもなります。
その湧き水を用いた酒造りも盛んに行われており、酒の蒸留所も点在しています。

画家について

武田信廉

天文10年(1541年)6月、兄・晴信(信玄)は父・信虎を駿河国の今川義元の元へ追放して家督を相続し当主となる。晴信は信濃侵攻を本格化させ、翌天文11年7月には諏訪氏を攻めこれを滅ぼす。
信廉の初見史料は晴信が諏訪統治を確立しつつあった天文17年(1548年)11月である。『高白斎記』に拠れば、信廉は諏訪衆千野氏に対し、武田方に謀反を起こした諏訪西川衆の追放と所領没収を伝えて知行増加を約束しており、諏訪衆に対する取次役であったと考えられる。また、同じく『高白斎記』に拠れば、天文20年(1551年)7月には晴信の命により、駿河・今川義元の娘を義信の正室に迎える旨を伝えている。
『甲陽軍鑑』によれば信廉は80騎を指揮したという。武田家臣団編成を記した『軍鑑』の「惣人数」によれば信廉は「武田」姓を免許された武田一族を記載した御一門衆のうち武田信豊(武田信繁の次男)の次に記載され、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いにおいて兄の信繁が戦死したため、親族衆筆頭となったという。戦時には、後方守備や本陣守護などを務めている。元亀元年(1570年)には信濃・高遠城主に任じられた。
元亀4年(1573年)4月に信玄が死去した後は、一族の重鎮として飯田城代や大島城代などの要職を任された。父の信虎が信玄の死後に帰国を望んだため、信廉が信虎の身柄を引き取り、居城である高遠城に住まわせた。このときに「信虎像」を作成した。天正3年(1575年)、5月21日の長篠の戦い設楽原合戦では小幡信貞・武田信豊とともに中央隊に布陣していたと考えられており、会田岩下氏・山口氏・依田氏・大戸浦野氏らを相備とした。ただし、このうち西上野衆の大戸浦野氏は、左翼に布陣した箕輪城代・内藤昌秀(昌豊)の相備であることが指摘される。『信長公記』によれば、長篠合戦において信廉は山県昌景に続き「二番」に攻撃を仕掛けたという。
天正10年(1582年)3月の織田・徳川勢による甲州征伐では、織田信忠を先鋒とする織田勢が南信濃から侵攻したが、信廉は大した抵抗もすることなく、大島城を放棄して甲斐へ退却する。戦後、織田軍による執拗な残党狩りによって捕らえられ、勝頼自刃から13日を経た3月24日、甲斐府中の立石相川左岸にて森長可配下の各務元正、豊前采女によって殺害された。享年51。墓所は甲府市桜井町の逍遥院にある。


幽斎年章

月岡芳年の門人。姓は中澤、名は延太郎。年章は号で、幽斎は別号。甲斐国巨摩郡布施村(現在の山梨県中央市小井川)の百姓・惣甫・りうの長男として生まれる。6歳の時父を亡くし、2年後に継父・喜七が入婿、弟が生まれる。明治14年(1881年)継父の姪・ゑいと結婚するが、4年後に離縁。その後、家を弟に任せ上京し、月岡芳年の内弟子となった。
月岡芳年に師事した理由は明らかではないが、芳年は元治元年(1864年)に甲府道祖神祭礼における幕絵制作のため甲府を訪れており、1871年(明治4年)にも山梨県を訪れている。元治元年の来訪時には年章がまだ年少であるため、明治4年の来訪時に芳年に出会ったか、もしくは山梨において地元絵師に支持し、東京の芳年を紹介され入門した可能性が考えられている。
明治21年(1888年)の「青山練兵所観兵式御幸之図」(大判三枚続)が初作で、明治39年(1906年)まで30点弱の錦絵が確認されている。内訳は、日清戦争関係などの戦争絵が最も多い。他に、大判3枚続の「義経再興記」のような武者絵や、「日本撰景」などの風俗画が知られている。
明治31年(1898年)頃に山梨に戻り、県内を転々としながら地元の人々のために肉筆画を手がけた。これは、日清戦争後に浮世絵が衰退に向かい浮世絵師を引退したのが理由だと考えられる。年章の肉筆画は錦絵とは違って世相画は見られず、歴史画、人物画、美人画、更に南画風が強い山水画や花鳥画など、地元を中心に百数十点確認されている。大正の始めには三日町の太田源七、中村英一、加藤肇氏等が子供の頃師事を受け教示代として酒を持参したそうである。大正10年東京で客死したと伝えられるが、異説もある。


近藤浩一路

大正前期の美術界では珊瑚会を中心に新南画が流行していたが、近藤も1919年(大正8年)に日本美術院第6回展で初入選を果たし、翌年の第七回以降でも入選し、本格的に日本画へ転向する。近藤の画風は第六回入選作では浦上玉堂や川端龍子の色彩表現、群青派などの影響を受けており、同時代に流行していた写実主義的手法や光線表現など洋画手法取り入れ、「カラリスト浩一路」と評された。1921年(大正10年)には日本美術院(院展)に入会し、横山大観らに評価される。
1922年(大正11年)には岡本や小寺健吉や鈴木良治らの画家友人とヨーロッパ各国を旅行する。この旅ではフランスを拠点にスペインやイタリアへも足を伸ばし和田や藤田らを訪ね、各国の名所や美術サロン、美術館を訪ねる物見遊山的なものであるが、帰国後には旅行記を美術誌に寄稿し後に『異国膝栗毛』としてまとめている。『膝栗毛』ではスペインでのゴヤやエル・グレコの作品観賞が一番の目的であったとし、最も印象深いものとして記している。浩一路はこの旅で伝統的な西洋美術を絶賛する一方で、同時代の前衛美術に対しては批判的見解を示しており、日本画壇が同時代の西洋美術に強い影響を受ける中で、自身の日本人意識を強めるものであったと記している。同年には中国へも旅行しているが、ヨーロッパ旅行が作品に反映されていなのに対し、中国旅行では帰国後に中国風景を描いており、近藤がこの時期に日本人や東洋人としての意識を強めていたと指摘されている。
1923年(大正12年)の第10回院展では「鵜飼六題」を出展し、これは近藤の代表作と評されている。同年には関東大震災で自宅を失い、一時静岡へ滞在したのちに妻の故郷であった京都市へ移住する。京都時代には「炭心庵」と名付けたアトリエで「京洛十題」「京洛百題」などの風景画を手がけている。また、茨木衫風ら門弟たちの育成にも務め、山本有三や吉川英治、芥川龍之介らの文人や俳人らとも交遊している。画風は大正から昭和初期にかけて、墨の濃淡による面的表現から描線による線的表現へと変遷していることが指摘されている。
1931年(昭和6年)には個展開催のため、茨木杉風とともにフランスのパリへ渡る。パリでは小松清の助力を得て個展を開催し、小松を通じて美術批評家であるアンドレ・マルローと親交を結ぶ。アンドレ・マルローの『人間の条件』に登場する蒲画伯は、浩一路がモデルである。


望月春江

山梨県西山梨郡住吉村増坪(現在の甲府市増坪町)に父「宗正」、母「もと」の二男として生まれる。1908年(明治41年)に山城尋常高等小学校高等科(現在の甲府市立山城小学校)を卒業し、同年に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)に入学、卒業後、1914年(大正3年)に東京美術学校日本画科に入学し1919年(大正8年)に同科を首席で卒業する。卒業後は結城素明に師事するとともに、文部省大臣官房図書課の嘱託となり、1920年(大正9年)には東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の講師(後に同校の教授)となった。1913年(大正2年)には実践女子専門学校(現在の実践女子大学)の講師となり1932年(昭和7年)まで務めている。また、昭和42年(1967年)には東京純心女子短期大学(現在の東京純心女子大学)の教授となっている。 昭和46年(1971年)に勲四等旭日小綬章を受章、昭和50年(1975年)には山梨県特別文化功労者、昭和52年(1977年)11月には山梨県政特別功績者となり、昭和53年(1978年)3月には紺綬褒章を受章。昭和54年(1979年)2月13日、心不全のため東京慈恵会医科大学附属病院青戸分院で永眠。
1921年(大正10年)の第三回帝展で《春に生きんとす》が初入選。1929年(昭和4年)の第十回帝展において《明るきかぐのこの実》が特選となる。1937年(昭和12年)には山梨美術協会の結成に参加し創立会員となり、1938年(昭和13年)には川崎小虎や穴山勝堂らと日本画院を創立。その後、1958年(昭和33年)には第十三回日展に出品した《蓮》により日本芸術院賞を受賞。日展審査員も務めている。
花鳥画を得意とし、後年には墨と金を用いた独特の画風を確立した。代表作には《菖蒲郷》、《香抽暖苑》、《寒月梅花》などがある。
山梨県立美術館が開館する前年の昭和53年(1979年)には、同美術館に代表作20点を寄贈するなど、作品の多くは同美術館に収蔵されている。また、同美術館においては、昭和54年(1979年)4月に「望月春江展」が、平成25年(2013年)には「富士の国やまなし国文祭記念事業 望月春江とその時代展」(開催期間・平成25年(2013年)4月27日-同年6月9日)が開催されている。


野田修一郎

山梨県甲府市鍛冶屋町(甲府市中央)に生まれる。戦後に上京し、私立麻布中学校で日本画家の山田申吾に学ぶ。1951年(昭和26年)に東京藝術大学日本画家へ入学する。同期には日本画家の鈴木美江がいる。
1974年(昭和49年)の第六回日展で特選となる。以来出展を続け、1984年(昭和59年)には日展で再び特選を受賞し、日展を中心として活躍する。ほか、日春展日春賞・奨励賞を受賞する。
野田は生涯にわたって馬を得意なモチーフとして描いており、代表作に《雪原》(1982年)がある。作品の一部は山梨県立美術館に収蔵され、1989年(平成元年)には同館で「郷土作家シリーズⅠ 野田修一郎展」が開催された。


のむら清六

のむら清六は、日本の画家。日本画家。

山梨県西八代郡下九一色村(現市川三郷町)に生まれる。旧姓は石原。1933年(昭和8年)に上京して川端画学校夜間部で学ぶ。結婚後に野村姓となる。卒業後の1943年(昭和18年)に徴用され、戦後は1949年(昭和24年)から小説の挿絵などを手がける。1952年(昭和27年)から山梨日日新聞文化欄に挿絵や随筆を発表し、東京の画廊で個展も開催した。1975年(昭和50年)には第一回日仏現代美術展で大賞を受賞している。
同郷で俳人の飯田蛇笏・龍太親子とも親交があり、蛇笏の主催する俳誌『雲母』の表紙も手がけた。作品は山梨県立美術館に収蔵され、2000年には同館で「のむら清六 奔放・異端の日本画家」が開催された。


石井精一

山梨県南巨摩郡増穂町(現在の富士川町)に生まれる。独学で絵を学ぶ。はじめ現代美術家協会に属して活動していたが、1975年(昭和50年)にシェル美術賞展において一等を受賞すると、以後はフリーとして活動する。
1976年にはスペイン美術賞展において銀賞、翌1977年にはスイス美術賞展において優秀賞を受賞する。同年には日仏スペイン美術賞展でオシセテ・ナショナル・デ・ボザール賞を受賞し、翌1978年にはビブリオティック・デザール賞を受賞する。さらに1979年にはロオイユ賞を受賞する。
石井はスーパーリアリズム的な幻想的絵画を多く手がけ、仮面の人物が登場するシリーズや、代表作には《畳の記憶》(1975年、山梨県立美術館所蔵)がある。


小林一枝

千葉県習志野市に生まれる。1937年(昭和12年)には山梨県韮崎市へ移住し、山梨大学美術科において洋画を学ぶ。山梨大学卒業後は山梨において教員を務める傍ら制作を行い、峡北美術協会・1937年(昭和12年)に創設された山梨美術協会へ出品を行っている。1954年(昭和29年)には山梨美術展奨励賞を受賞する。1955年(昭和30年)には峡北美術協会会員となる。1959年(昭和34年)には第20回山梨美術協会20周年記念展で会員に推薦されている。
小林は二科会の織田廣喜の知縁を得て、織田の推薦で二科展に出展を行い、1959年(昭和34年)には初入選している。その後、二科展への出展は取りやめ、山梨美術協会展への出展を続けている。1967年(昭和42年)から1973年(昭和48年)にかけて4回の個展を開催している。1981年(昭和56年)には船岡賞を受賞する。
山梨県を拠点に活動を行った洋画家・佐野智子(1925年 - 1994年)は、山梨を拠点に活動を行う女性画家の奨励を目的に1977年(昭和52年)に二美会会員の桑原浜子・竹田春子とともに「三人展」を開始し、1979年(昭和54年)には小林と川口和子を加え第1回「女流五人展」を開催する。女流五人展はその後「九人展」に発展し、小林は第10回展まで出展を行っている。1992年(平成4年)には山梨美術協会の永年会員となる。中央画壇では1994年(平成7年)に創元会会員となっている。
2011年(平成23年)には山梨美術協会総会において会長・斎藤武士が退任したことにより、新会長に須田國生が就任し小林と手塚義彦を副会長に新体制が発足した。山梨美術協会会員のうち女性会員で役員となった人物は、2016年時点で小林のほか相談役を務めた竹田春子がいる。小林は同年11月に死去。
小林は織田廣喜の幻想的な画風に学び、画題には寺院や田園風景を好み、明るく優しい色彩で寺の参道や山門などを多く描いている。


桑原福保

山梨県東八代郡境川村寺尾(笛吹市)に生まれる。父は神主の腎蔵、母は志ん。桑原家には四男三女があり、福保は長男。幼少期から洋画を志し、油彩画を手がける。
1927年(昭和2年)3月に山梨県師範学校(山梨大学)本科第一部を、翌1928年(昭和3年)3月に山梨県師範学校専攻科を卒業後、同年4月から山梨県中巨摩郡田之岡村(南アルプス市)の八田尋常小学校に美術教師として勤務する傍ら制作活動を行う。同年12月10日には母の志んが死去。
大正期から昭和初期にかけて、中央画壇ではフォービズムの影響を受けた画風や日本的な油彩画、写実などの画風や前衛美術運動が活発化しており、山梨においても赤蓼会が甲府で展覧会を開催し、土屋義郎らが中心となり岸田劉生をはじめとする草土社の画風に影響された写実表現を展開していた。福保もこの時期に草土社的な画風で「鯖」を手がけている。
1933年(昭和8年)4月には上京し、東京府東京市王子区(東京都北区)の第二岩渕尋常小学校の教員となる。同年には洋画家の熊岡美彦に師事し、夜間は熊岡洋画研究所で学ぶ。1939年(昭和14年)には結婚。1944年(昭和19年)には志願して海軍省嘱託となり、広島県佐伯郡小方村(広島県大竹市)の海軍潜水学校に派遣される。
1936年(昭和11年)には文展で初入選して以来、文展や日展、師の熊岡や斎藤与里が創設した東光展、山梨美術協会展などに出展を重ね、1954年(昭和29年)には第10回日展において「魚市場にて」が岡田賞を受賞する。
昭和戦前期・戦中期には「宇佐美の海岸」(1936年)、「老農夫」(1940年)、「U子像」(1939年)などの作品があり、他の画家の影響を受けた作品が多く、デフォルメにも積極的に取り組んでいる。また、背景には表現主義を取り入れ、都市風俗の描写にも力を入れている。戦中には防空壕を掘る様子を描いた「或る日の家族」(1943年)などの作品もあり、当時の過酷な社会状況を日常風景として描いている。
戦後は山梨に帰郷し、アトリエ付きの自宅で画業を営み、戦後に中央で流行した抽象表現にも取り組んでいる。一方で甲府市愛宕町に桑原絵画研究所を開いて後身の育成も行い、竹田稔、清水美生、石川甚栄、船窪敏夫、早川ニ三郎らを輩出する。1958年(昭和33年)10月から一年半をかけてアメリカからフランス、イタリア、ドイツ、オランダ、ベルギー、イギリス、スペインへ渡り、各地の風景を描いた。1963年(昭和38年)に死去、享年55。
2002年には山梨県立美術館において「桑原福保展-山梨に見る写実の流れ-」が開催された。


辻葦夫

山梨県甲府市に生まれる。山梨県立甲府中学校(山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、上京して慶應義塾大学に入学する。大学時代から油絵をはじめ、1929年(昭和4年)には福沢一郎に師事する。翌年には地元で米倉壽仁らとシュルレアリスム絵画グループである「六人社」を結成する。また、1937年(昭和12年)に設立された山梨美術協会の結成にも参加し、1941年(昭和16年)・翌42年(昭和17年)には副委員長を務める。
1944年(昭和19年)には独立美術協会で《秋》、《静物》が入選し、同年にはサロン・ド・ジュワン会員となる。戦後には1955年(昭和30年)に中村宗久らと「白壽会」を結成し、葦夫は二代目の会長になる。1978年(昭和53年)には財団法人実財団から文化功労実賞を受賞する。


増田誠

増田は港や河岸の風景、パリの市井の人々の生活などを多く描いた。渡仏初期には当時の流行を反映してアンフォルメルを意識した作品を手がけている。特にパリの石畳の風景を画題として選び、佐伯祐三や荻須高徳と比較された。1970年代から80年代にかけてはギリシャ神話や旧約聖書を題材とした大作を手がけ、キャンバスを複数枚つないだ大型の作品も手がけている。故郷山梨では富士山を描いた作品も見られる。
多作な画家として知られ、油彩、版画、エッチング、リトグラフ、墨彩画など1600点以上がヨーロッパや日本に所在しており、個人の所蔵家の手元に残っている作品も多く、その全容は未だ明らかにされていない。また、増田の思想や芸術観、フランス画壇における評価など指摘検証も十分になされていない。
日本では1970年(昭和45年)から1988年(昭和63年)の第十五回展まで小田急百貨店で個展を開催する。1991年(平成3年)には故郷の都留市中央に増田誠美術館が開館する。2012年には山梨県立美術館で『増田誠 パリ-人生の哀歓』が開催された。2015年(平成27年)には増田誠美術館が都留市上谷のミュージアム都留に移転統合された。


名取春仙

久保田米僊及び久保田金僊の門人。本名は芳之助。春僊、春川、黛子洞、梶蔦亭、青紫亭とも号す。山梨県中巨摩郡明穂村(現・南アルプス市小笠原)で、名取市四郎・みちの五男として生まれる。父・市太郎は両国屋という綿問屋で、雑貨なども商い、峡西地方の金融業・十圓社を興し、第十国立銀行創立の際にも若尾逸平らと共に資金を拠出、山梨県初代県議会議員の一人でもあった。ところが父の事業の失敗により、1歳の時東京に移る。1892年(明治25年)東京市立城東尋常高等小学校に入学。同窓の川端龍子、岡本一平、仲田勝之助とともに画才を認められていた。11歳の時、綾岡(池田)有真に日本画の基礎と着彩を習う。1900年(明治33年)14歳で米僊に、米僊失明後は金僊に学ぶ。1904年(明治37年)東京美術学校日本画撰科に入学、1905年(明治38年)福井江亭にも洋画も学び、平福百穂に私淑して中退する。
1902年(明治35年)、16歳の時、「秋色」、「霜夜」を第13回日本絵画協会展・第8回日本美術院連合共進会展に出品、「摘草」を第5回无声会展に出品した。同年、真美会に出品した水墨画「牧牛の図」が褒章を受けたのを始めとし、数多くの賞を受けた。1906年(明治39年)、20歳の時には日本美術院展に「海の竜神」を出品、入選している。同年、平福百穂、水野輝方らと実用図案社で働く。翌年、東京朝日新聞連載の二葉亭四迷の小説『平凡』の挿絵を描いたことが縁となり、1909年(明治42年)、同社に入社、1913年(大正2年)に退社するまでに夏目漱石の小説『虞美人草』や『三四郎』、『明暗』、『それから』などの挿絵を描いたことで、ジャーナリズムに認められ、以降、多くの挿絵を手掛けた。他には森田草平の『煤煙』や長塚節の『土』、島崎藤村の『春』、田山花袋の『小さな鳩』、泉鏡花の『白鷺』、石川啄木『一握の砂』(東雲堂書店、1910年)などの挿絵をしている。
1915年(大正4年)には小雑誌『新似顔』に役者絵を掲載した。翌1916年(大正5年)に京橋の画博堂で開催された第2回「劇画展覧会」に出品していた肉筆画「鴈治郎の椀久」が渡辺庄三郎の眼にとまり、渡辺版画店から役者絵「初代中村鴈治郎の紙屋治兵衛」を版行、これが春仙の最初の新版画作品であった。春仙の役者絵は、写実に基づきながらも、役者の美しさ、芝居の面白さを無視したものではなく、それが多少甘いと評される訳であるが、本作品の持つすっきりとした爽快感が評価され、代表作となった。その後、1917年(大正6年)には「梅幸のお富」を版行している。春仙の作品は後に「創作版画 春仙似顔絵集」にまとめられ、1925年(大正14年)から1929年(昭和4年)まで刊行された。この似顔絵集を見たドイツ大使ヴィルヘルム・ゾルフ、徳川頼貞、高見廉吉らは春仙に木版による肖像画を依頼、これらを制作した。春仙はおよそ100種以上の版画を作成、山村耕花とともに新版画の中で、役者大首絵を描いた代表的存在であった。他に肉筆画なども手掛けている。
1930年(昭和5年)にはアメリカの雑誌『アメリカンマガゲンオブアート』に伊東深水、川瀬巴水らとともに春仙の版画における功績を紹介されている。1950年代後半には富士山を「是即ち地球で第一の山」とたたえて、富士山を題材とした風景画を手掛けている。
1958年(昭和33年)2月、長女を肺炎で亡くし、1960年(昭和35年)3月30日午前7時、妻の繁子とともに青山の高徳寺境内名取家墓前で服毒自殺した。74歳没。法名は浄閑院芳雲春仙信士。遺書には、寺院へ迷惑をかけることの詫びと、将来、夫婦のどちらか一人だけが残されることは望まぬため、娘の傍で二人で逝くことにした旨が記されていた[1]。
没後、1987年(昭和62年)に春仙の画業を顕彰するため民間有志が惜春会を結成。その4年後地元に櫛形町立春仙美術館が開館し、町の合併に伴い南アルプス市立春仙美術館と改称し現在に至っている。


萩原英雄

1913年(大正2年)2月22日、山梨県甲府市相生町(現在の甲府市宝一丁目)に生まれる。父は元治郎・母は「ふじ」、英雄は元治郎の次男。父の元治郎は警察署長を努め、蔵書家としても知られ、現在の山梨県笛吹市境川町の出身である俳人の飯田蛇笏(いいだ だこつ)とも親交があった。
1920年(大正9年)、元治郎は日本統治下の朝鮮・定州の警察署長として単身赴任し、翌1921年(大正10年)には華族を呼び寄せ英雄も朝鮮へ渡る。1929年(昭和4年)には単身で日本へ帰国し、東京の日本大学第二中学校(現・日大二高)に編入する。東京府下野方町上高田(東京都中野区)に住む。このころより油彩画をはじめ、1930年(昭和5年)には耳野卯三郎から指導を受けている。
1932年(昭和8年)3月に旧制中学を卒業し、同年4月には文化学院美術科へ入学する。このころには公募展へも作品を出展し、白日会第9回展に油彩画の作品<雑木林>が入選し、光風会第19回展では油彩画<上り道>、日本水彩画会第19会展に水彩画<アネモネ>(東京藝術大学所蔵)が入選している。
1933年(昭和8年)4月に東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)油絵科へ入学する。東美時代は授業で木版画や銅版画とも接している。在学中は両親の理解や姉夫婦の援助を受け、西洋美術の画集や文献を収集し、セザンヌなど近代美術を好みつつ、16世紀まで遡り西洋美術を研究したという。この年には白日会第10回展に油彩画<風景>、光風会第20回展に油彩画<南天畑>が入選しているが、これ以降は学校の校則により公募展出展が禁止されたため、公募展への出展は行っていない。
1934年(昭和9年)には東京美術学校油画科本科へ進み、南薫造の指導を受ける。本科時代には後の洋画家・長谷川利行とも知り合っている。1938年(昭和13年)3月に東京美術学校油画科本科を卒業する。卒業制作は<自画像>で、多くの初期油彩画が戦災で失われているなか現存しており、同年制作のアカデミックな雰囲気において、鋭い眼差しを向ける詰襟姿の青年として自身を描いている。
この年には父が死去し、同年4月には浮世絵の複製を手がけていた高見沢木版社に入社し、企画部を担当し主に図版の出版や職人のマネージメントに携わった。セザンヌやマティスらの画集刊行に携わり、浮世絵についても理解を深める。同年11月には結婚する。
1943年(昭和18年)6月には召集を受けて高見沢出版社を退社し、陸軍東部第17部隊に入隊する。短期間で除隊となる。1945年(昭和20年)3月の東京大空襲では自宅のアトリエが初期作品や蒐集品とともに焼失する。


深沢幸雄

深沢幸雄は、日本の版画家、銅版画家。多摩美術大学名誉教授。深澤幸雄と表記されることもある。
銅版画の一種であるメゾチントを中心とした作品を制作し、日本における戦後銅版画の第一人者のひとりとされている。版画だけでなく、書(詩)、陶芸、ガラス絵、パステル画の創作も行なっている。
初期には人間の内面や感情の奥底を表現したモノクロの作品が多かったが、やがて壮大で叙事詩的なテーマを取りあげるようになり、鮮烈な色彩といくつもの銅版画技法を用いるようになった。深沢の作品はニューヨーク近代美術館(MoMA)、ボルティモア美術館(英語版)(いずれもアメリカ)、メキシコ国立版画美術館(メキシコ)、ケルン文化会館(ドイツ)、ウフィツィ美術館(イタリア)、チェコ国立近代美術館(チェコ)、山梨県立美術館、南アルプス市立春仙美術館などに所蔵されている。東京国際版画ビエンナーレ、ルガノ国際版画ビエンナーレ(スイス)、聖ジェームス協会日本現代版画展(アメリカ)、サンパウロ・ビエンナーレ(ブラジル)などで展覧会が開催された。


河内成幸

1948年 山梨県上野原市(旧上野原町)に生まれる。
1969年 多摩美術大学油絵科入学 
1969年 第37回日本版画協会展初出品で入選
1970年 第38回日本版画協会展<新人賞>受賞
1973年 多摩美術大学油絵科油画科卒業
1976年 第44回日本版画協会展<最優秀賞受賞>
1976年 第12回現代日本美術展<兵庫県立近代美術館賞>
1976年 第7回グラン・プリ展<次席賞>受賞
1977年 第8回国際青年美術家展<佳作賞>受賞
1978年 第12回日本国際美術家展<東京国立近代美術賞>受賞
1978年 第2回日本現代版画大賞展<優秀賞>受賞
1979年 第10回版画グラン・プリ展<グラン・プリ>受賞
1979年 第8回グレンヘン国際色彩版画トリエンナーレ招待展<最高賞>受賞(スイス)
1979年 山梨の版画4人展(山梨県立美術館)
1982年 第6回ノルウェー国際版画ビエンナーレ展招待<最高賞>受賞
1982年 第3回リストウェル国際版画ビエンナーレ展招待<優秀賞>受賞(カナダ)
1982年 近代日本の美術1945年以降展(東京国立近代美術館)
1983年 第4回カリフォルニア国際版画展招待<最高賞>受賞
1984年 第1回山梨県新人選抜展招待<山梨県立美術館賞>受賞
1985年 第1回和歌山県版画ビエンナーレ展<優秀賞>受賞(和歌山県立美術館)
1985年 文化庁芸術家在外研修派遣によりニューヨーク・コロンビア大学大学院留学
1986年 ヨーロッパ遊学
1986年 アトランディス・ペーパー研究所でデモンストレーション(ロンドン)
1986年 帰国
1987年 第2回和歌山版画ビエンナーレ展<佳作賞>受賞
1988年 ノーベル財団より版画7点依頼。及び金メダル授与<貢献賞>受賞
1989年 第18回リュブリアナ国際版画ビエンナーレ展<クラーゲンフルト賞>受賞(旧ユーゴスラビア/スロベニア)
1990年 ビエラ国際版画展招待<買上賞>受賞(イタリア)
1990年 第1回高知国際版画トリエンナーレ展<佳作賞>受賞(紙の博物館/高知)
1991年 大阪国際版画トリエンナーレ1991展<特別賞>受賞
1992年 ぶどうの国の国際版画トリエンナーレ展(山梨県立美術館)(1999年まで開催)
1992年 第3回多摩大賞展<大賞>受賞
1993年 第2回高知国際版画トリエンナーレ展<優秀賞>受賞
1994年 クレコフ国際版画トリエンナーレ展(ポーランド)
1996年 第3回さっぽろ国際現代版画ビエンナーレ展<北海道ガス賞>受賞
1997年 国際版画展’97招待<ポーランド美術館買上賞>受賞(ポートランド美術館・オレゴン)
2001年 「成幸・美榮子二人展」(インターチャーチセンター/ニューヨーク)
2002年 第70回記念日本版画協会展常務理事
2002年 多摩市企画「河内成幸展」(パルテノン多摩/多摩)
2003年 北京国際版画展<銅賞>受賞
2003年 台湾国立台北芸術大学客員教授
2003年 グローバル国際芸術貢献賞<金賞>受賞(中国)
2004年 個展(ワークスギャラリー/ニューヨーク)
2004年 個展(チェンマイ大学美術館/タイ)
2004年 国立中国美術学院客員教授
2006年 日・韓現代版画展(Maga美術館/韓国)
2007年 名古屋造形大学客員教授
2008年 ワルシャワ国際版画トリエンナーレ展 特別出品3点
2009年 佐渡はんが甲子園審査員委員長
2009年 新潟県美術展覧会 版画部門審査
2009年 個展(南アルプス市春仙美術館/山梨)
2010年 多摩美術大学客員教授
2010年 個展(ガレの森美術館/徳島)
2011年 国際版画交流展(イタリア・パドヴァ)
2011年 紫綬褒章を受章。
2012年 中国雲南国際版画展国際審査員
2012年 4人展(プーシキン美術館/ロシア)
2012年 第1回ノヴォシビルスク国際版画トリエンナーレ展(第6回ノヴォシビルスク国際版画ビエンナーレ展)<国際グランプリ賞>受賞
2012年 「世界に羽ばたく版画の巨匠 河内成幸」(ミウラート・ヴィレッジ/愛媛)


進藤章

1900年(明治33年)4月12日、父善次郎と母たいの7人兄弟の長男として山梨県北都留郡小淵沢村上久保(現・山梨県北杜市小淵沢町上久保)に生まれる。小淵沢小学校、大泉高等科3年を経て山梨師範学校(現・山梨大学)に学ぶ。
卒業後、日野春、小淵沢、甲府富士川小学校に訓導として勤め、当時文壇を風靡した武者小路実篤らの白樺運動の影響を受け、地方文化の活動、ことに画道に専心した。また山梨師範学校の先輩でもあった土屋義郎氏の紹介により岸田劉生の草土社に属し、木村荘八の指導を受けた。
1919年(大正8年)歌人の喜与子と見合い結婚し、1927年(昭和2年)夫婦で上京して、章は四谷第一小学校に勤務したが、途中で絵の勉強がしたくなって古典美術協会に入所、「根本からはじめたい」といって教師を辞めた。ここで4ヶ年間古典技法の研究をし、大調和展、古典美術協会展に作品の発表をつづけた。
1929年(昭和4年)「岸田劉生画伯遂に徳山に逝く」など当時の美術界の動きを美術日記に残している。また「私の絵には詩があると人はいう。絵に文学的要素が邪道のようにいった時代があったが、造形に詩的なものがあっても邪道とは考えたくない。心のおもむくままに描きたいのである。今の仕事は草土社でも古典協会でもない。けれども劉生画論の中に出てくる『唯心境』、色も形も超えて内から滲み出す精神とか、そういうものがなければ人の心を打つわけにはゆかないだろうし、作風はまるきり変わっても、その意味では草土社精神が終生を貫くだろう。これから私の絵は次第に明るさと鮮明度を増すことだろうし、身についた東洋趣味、日本趣味が油彩の新日本画になることも事実。静物を描いても静物的風景になりつつあることも事実だろう」と。中川紀元氏は「進藤さんの絵は色彩の音楽である」と評している。1933年(昭和8年)東京日動画廊で「山岳個展」を開き、作品45点を発表。以後毎年、銀座三昧堂、菊屋画廊で個展を開催しながら画業への情熱に生きた。
1939年(昭和14年)在京の数人と「菁々会」を結成して会長となり、同年11月に第1回展を銀座三昧堂で開催しその後毎年開催したが、特に第3回展は初日が1941年(昭和16年)12月9日、太平洋戦争(大東亜戦争)の翌日であったのにも拘らず、戦況を冷静に見極め熟慮した上で開催を断行したのであった。その時の様子は次ぎの様に記されている。即ち「8日早暁米、英両国に対し戦争状態に入る。6時のニュースに続く号外の飛報。帝都はにわかに緊張の極。やがて大詔渙発、宣戦布告となる。午後より防空実施下令とはいえ夜に入り空は晴れ、月高くかがやけど市民は必要以上に燈火官制を実施し全く暗黒なり。明日より開会の第3回展のどうなる事かと疑いつつも既に腹を決め、暗がりの街に絵を運ぶ。いささか悲壮でもある。明くれば雨、雨ひどく降り続けど相次ぐ勝報に国民の心明るく人皆の心は戦いに共の耳をうばわれたり。皇国三千年の歴史の先端に大きくも勃発した民族の戦い、大東亜戦争と共に吾が菁々会第三回展は記念すべくも開かれたり。12月17日夜、章記す」と。しかし戦争も次第に苛烈になり第6回展を1944年(昭和19年)10月、銀座・菊屋画廊での3日間のみの開催をもって中止のやむなきに至る.しかし1969年(昭和44年)11月、生き残った3人(進藤章・葛西康・川原井正)で第7回菁々会展を銀座・月光荘画廊で開催し、その後場所を変えながら晩年まで継続した。
終戦の年の1945年(昭和20年)故郷の小淵沢村に帰り、翌1946年(昭和21年)山梨美術協会展、県芸術祭展に出品、画道専念を意図したが、1947年(昭和22年)郷里の青年団有志の情熱に押されて公選の初代村長となり、1949年(昭和24年)歌聖若山牧水がこの地を来遊した1923年(大正12年)の秋、諷詠した一作「甲斐の国こぶちさわあたりの高原の秋すゑつかたの雲のよろしさ」は作者自身の真筆であり、これを文化事業の一環として、村当局をはじめ、山脈短歌会のものが、村内有志の方がたのご厚意を得て歌碑を刻み小淵沢西小学校(現・小淵沢町総合スポーツセンター)の校庭につづく丘、雑木林の中に建立したが、その後現在地「生涯学習センターこぶちさわ」に移された。尚、この年(昭和24年)11月13日の除幕式に招かれた喜志子夫人も「数多い碑の中に自筆の歌碑は少なく、中でも優れている方だ」との言葉があり、進藤も「恐らく最高に近いのではなかろうか」と評している。また除幕式に招かれた夫人は駅前の「いとや旅館」の往年牧水が泊まった部屋で一夜を過ごし、次の夜、進藤宅の天井に雨漏りのしみのあるその奥座敷で泊められた時に詠んだ「はに鈴のほろろこほろぎよもすがら枕のあたりにて鳴く」も石碑に刻まれ1990年(平成元年)11月18日に小淵沢町がふるさと創生事業の一環として、牧水の歌碑の左隣に建立した。この除幕式には息子である旅人氏から次のような祝歌が寄せられた。 「甲斐駒を 仰ぎ見せむと 町びとの思ひは凝りて ここに母の碑」。
さて進藤は村長を1期4年間引き受け、北巨摩郡町村会長、県町村会教育委員会副会長等政治界に身をおいた。しかし、人間形成に芸術の尊さを痛感し、1948 年(昭和23年)その地方的なきめ細かい歩みを意図して「峡北美術協会」を設立、以後会長として28年間、後進の指導と激励を続けた。
1951年(昭和26年)甲府中込百貨店で個展を開催した。一方、画業のみならず広く地方文化の進展のために1952年(昭和27年)には県立図書館協議会副会長、また1954年(昭和29年)には小淵沢財産区議会議長、人権擁護委員、行政相談委員等社会奉仕にも献身し、大阪朝日新聞厚生事業団主催の「日本名作家展」にも例年寄贈出品をつづけた。 その間、菁々会長、峡北美術協会長のほか山梨美術協会副会長、同協会相談役をながくつとめ、山梨美術の興隆に意をそそいだ。
1976年(昭和51年)5月18日 永眠 享年76
1976年(昭和51年)6月、甲府県民会館地下画廊で峡北美術協会主催による「進藤章遺作展」が開催され、更に同年10月「追悼進藤章第12回菁々会展」が銀座ゑり円画廊で開催された。
1979年(昭和54年)11月3日、山梨県立美術館の落成開館に当たり「蓮池」ほか2点が同館収蔵作品として展示された。


高森龍夫

青山学院卒業後、山梨県都留郡の都留中学校の教員を経て、平凡社や中央公論社で校正の仕事などに従事し、太宰治の担当編集者となる。その後、改造社に入社し『俳句研究』の編集長などを務めた。戦後、青山虎之介が創業した新生社に入社、同社発行の雑誌『花』、『新生』の編集長を歴任し、谷崎潤一郎、吉川英治などの担当をした。
長男の高森朝樹(梶原一騎)によれば、大変な酒好きであり「酒豪なんてものじゃなく酒仙だった」と語っている。その上、酒癖が非常に悪かった酒乱の梶原と違い、いくら飲んでも乱れることがない真の酒飲みであった。しかし、酒の飲み過ぎが祟って胃癌のため死去、享年57。臨終の際に、当時まだ22歳だった梶原に遺した遺言は「若い身空で、大変だろうがよしなに」というものであった。
『巨人の星』の登場人物である星一徹は、梶原一騎夫人の高森篤子も語っているように龍夫がモデルとされるが、実際の龍夫は自己主張が強いわりには控えめで飄々とした性格で、放任主義であまり息子たちの教育に首を突っ込まない故に叱ることがなく、一徹とは正反対の人物だったという。その性格は、長男の梶原を通り越して、孫である梶原の長男にその性格や顔立ちが受け継がれ、生前の梶原や、龍夫の妻や江も驚いていたという。
妹の高森ゆか里(梶原一騎、真樹日佐夫の叔母)は、兄・龍夫のことを「反骨心が旺盛で、上から押さえつけられることが大嫌いな自由人でした」と評している。


高山良策

1917年(大正6年)3月11日、山梨県西桂村(現西桂町)出身の大工の次男に生まれる。のちに日本画家になる兄の影響で、幼少期から絵に親しみ、画家を志す。
1931年(昭和6年)、14歳。家が貧しかったため単身上京。製本工場に勤務しながら、独学で絵を学ぶ。画集を買う余裕もなかったため、丸善などの書店に行き、画集を立ち読みして様々な絵を見たという。
1938年(昭和13年)、21歳。陸軍に徴兵され、中国戦線に渡るが、苛烈な最前線にもかかわらず、紙切れまでも利用して、軍隊での生活を題材に、鉛筆や水彩による多くのスケッチを描いた。
1940年(昭和15年)、23歳。退役して帰国後、田辺製薬図案部に就職。また、本郷にあった福沢一郎の絵画研究所で学ぶ。福沢は当時、シュルレアリスム絵画を描いており、その影響をうける。
1943年(昭和18年)、26歳。太平洋戦争がはじまると、同僚の黒田龍雄(のちに、快獣ブースカをデザインした)とともに田辺製薬を退社し、東宝航空研究資料室に入社。国策映画の特撮用のミニチュアを製作する。多くの美術家が集まっており、山下菊二、難波田龍起らを知る。
1945年(昭和20年)、28歳。戦争末期の3月、貧困だがエネルギーあふれる画家たちが集まっていた「池袋モンパルナス」のアトリエつき住宅に転居。
1946年(昭和21年)、29歳。山下菊二、大塚睦らと「前衛美術会」を結成。同年利子夫人と結婚。東宝では、スタッフ・俳優のほとんどが参加した一大労働闘争「東宝争議」が始まり、高山も共産党に入党する。争議中には、組合の命令で同僚の鷺巣富雄、山下菊二、山本常一らと街頭で似顔絵描きもさせられた[1]。
1950年(昭和25年)、33歳。共産党を離党。
1951年(昭和26年)、34歳。東宝を退社。以後は、フリーの立場で、特撮・造形関係の様々な仕事をする。
1953年(昭和28年)、36歳。日教組プロが製作した映画『ひろしま』のセットデザインをてがける。
1954年(昭和29年)12月、37歳。子ども向け雑誌『よいこのくに』(1954年12月号、学研)の「おめでとう くりすます」のページでは、人形制作・構成の川本喜八郎のもとで、装置を担当した。
1958年(昭和33年)、41歳、人形劇映画『注文の多い料理店』(学研人形部)で人形操作を担当、
1959年(昭和34年)、42歳。飯沢匡の人形アニメーション映画『ポロンギター』(26分・16mm・カラー、学習研究社)の人形制作を佐々木章、加藤清治とともに担当。また、練馬区に転居し、引越しが5月だったことからそのアトリエを「アトリエ・メイ」と名づける。このアトリエ名は、のちに「怪獣制作工房」名として有名になった。
1961年(昭和36年)、44歳。大映の超大作映画『釈迦』の特撮用セットを作る。のちの『大魔神』にも繋がる、神像崩壊シーンの特撮も手がける。
1962年(昭和37年)、45歳。『鯨神』で、大橋史典と交代し鯨神(セミ鯨)の撮影用ミニチュアを制作。
1963年(昭和38年)、46歳。大映初の怪獣、『大群獣ネズラ』のネズラを作るが不評だった。のち撮影は中断され、企画自体が幻に終わった。
1964年(昭和39年)、47歳。「よみうりランド」の水中ショー用の精巧なウミガメの作り物を製作。
1965年(昭和40年)、48歳。上記のウミガメの作り物に円谷英二が目を留め、彫刻家成田亨の紹介により円谷プロダクション製作の『ウルトラQ』に参加。製作第14話より怪獣・宇宙人の着ぐるみ製作を担当。成田の秀逸なデザインもあり、現在でも、強烈な印象を与える造形となる。
1966年(昭和41年)、49歳。京都に3か月間出向し、大映映画『大魔神』の大魔神造形を担当。等身大、実物大の大魔神も製作。ラストで崩れ落ちる大魔神のミニチュアにおいては、素材選びに苦労しながらも見事な効果を上げた。
この崩壊シーンでは、魔神像がうまく崩れず、かなり悩まされている。利子夫人によると、『ウルトラマン』の制作を始めた円谷プロから、東京の自宅に「早く戻って欲しい」と催促の電話が何度もあったが、「この撮影を見届けるまでは帰れない」として、京都の現場に残っていたという。
これにさきがけ、京都と東京を往復する多忙な日程の中、『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』のバルゴンも製作しているが、結局その表面仕上げはエキスプロに任せている。
1967年(昭和42年)、50歳。『ウルトラマン』に続いて『ウルトラセブン』にも参加し、ほとんどの怪獣の造形を担当。「毎週の怪獣造形」という過酷なスケジュールの中、独特の存在感のあふれる怪獣を作り続ける。週1回放送というテレビ番組の厳しいスケジュールから、『ウルトラマン』の怪獣の3分の1は過去の怪獣の改造による使いまわしであったが、成田のデザインと高山の造形はそのハンデを感じさせないものであった。
同年、ピー・プロが特撮を担当した『神州天馬侠』で大ワシのクロを制作、『怪獣王子』の恐竜をデザイン・制作。うち数体は、番組打ち切りのため制作したもののお蔵入りとなってしまう。主役のネッシーは、大橋史典が制作したものが重厚すぎて使えず、開米栄三と協力して手直しを担当。また、これとは別に小ぶりのネッシーを制作している。
ピープロではこのほか、同社のパイロット作品『ゴケミドロ』の、宇宙怪物ゴケミドロ、同じくパイロット作品の『豹マン』のヒーロー「豹マン」を、ゴムマスクタイプと植毛タイプの2種類制作した。この時期、折からの怪獣ブームの中、「怪獣を作る男」としてマスコミに大きくとりあげられ、話題となる。
1968年(昭和43年)、51歳。『ウルトラセブン』の途中で、成田が怪獣デザインを中途降板した後は、池谷仙克とコンビを組み、さらに名怪獣を作りつづける。『マイティジャック』では敵組織Qの「レイブン」などの超兵器、『戦え! マイティジャック』ではゲスト怪獣の造形に参加。
1971年(昭和46年)、54歳。「第二次怪獣ブーム」の火付け役となった『宇宙猿人ゴリ』で、再び盟友うしおそうじのもと、ゴリ博士ら猿人のマスクや、おどろおどろとした「公害怪獣」を製作した。ゴリ博士の紫を基調にしたスーツは、高山のデザインによる。利子夫人によると、『宇宙猿人ゴリ』の番組名について、「悪役が番組の題名になるなんて面白いな」と語っていたそうである。
同作品には、高山の個人作品「かなぶんおやぶん」がゲストの怪獣キャラクター(コンピューター怪獣)として使用されている。また、当作では怪獣「クルマニクラス」のデザインの手直しをしたり、「モグネチュードン」のデザインを手がけてもいる。
同年、『帰ってきたウルトラマン』の怪獣数体を担当。開米プロダクションの開米栄三社長は、同作品で怪獣造型を引き継いだということで、高山の元を挨拶に訪ねたそうである。また、『シルバー仮面』の全宇宙人・怪獣の造形を担当した。
1972年(昭和47年)、55歳。『快傑ライオン丸』を担当。「豹マン」に続いての毛やヒゲの多い「ライオン丸」の造形も見事であり、また、ライバル役「タイガージョー」も人気を集めたことで、以後もピー・プロにおける「猫系ヒーロー」を任されることになった。
また、円谷プロ初の劇場オリジナル映画『怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス』の怪獣造形を担当。ほかにも同時期の『アイアンキング』を手がける傍ら、『突撃!ヒューマン』では再び成田亨と組んで怪獣を造型(「ジャイロック」のみ)するなど、第一次ブームにも増して多忙な制作スケジュールをこなす。
1973年(昭和48年)、56歳。1月から放送開始の『ファイヤーマン』における大半の怪獣造形を担当する一方で、『風雲ライオン丸』にも参加。『ファイヤーマン』の終了直後には、『スーパーロボット レッドバロン』へスライド参加し、敵ロボットの半分を手がける。
1974年(昭和49年)、57歳。『鉄人タイガーセブン』や『電人ザボーガー』のほか、寺山修司の前衛映画『田園に死す』の不気味なギミック「空気女」を製作。
1975年(昭和50年)、58歳。『冒険ロックバット』の造形(「ドラダヌギー」のみ)を担当。
1976年(昭和51年)、59歳。『恐竜探検隊ボーンフリー』のティラノサウルス(モデルアニメ用の人形及び手踊りギニョール)のみ造型。
1979年(昭和54年)、62歳。日仏合作として企画されたがパイロット版のみで終わった『シルバージャガー』を最後に怪獣造形の世界から離れ、シュルレアリスムに立脚した土俗的な絵画作品を描く。
1982年7月27日、肝臓癌のため、65歳で死去。入院先の病院では、輸血の提供に、数多くの高山怪獣のファンが名乗りを上げた。
死去の半年前に、雑誌の依頼を受けて30cmサイズの怪獣のミニチュア7体(レッドキング、ガラモン、ペギラ、ラゴン、カネゴン、ケムール人、ギエロン星獣)を製作している。妻がその理由を聞くと「残るものは、同じだから」と答えたという。
2001年(平成13年)、練馬区立美術館で、学芸員の土方明司の企画により「高山良策の世界展」が開催される。








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