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宮崎県について

宮崎県の旧国名は日向国(ひゅうがのくに、ひむかのくに)。日向(ひゅうが)と書いて「ひなた」と呼ぶこともあり、あたたかなイメージがあります。
宮崎県のキャッチフレーズは「日本のひなた宮崎県」。
1981年~2010年平年値の平均値データでは、平均気温(3位)・日照時間(3位)・快晴日数(2位)と全国トップクラスで、春季のプロ野球を筆頭にスポーツのキャンプ地としても有名です。
南国情緒にあふれた県で、海沿いに並ぶワシントニアパーム(ヤシの木)やフェニックスがシンボルとして定着しています。
「てげてげ(適当に)」「いっちゃが(それでいいよ、気にしなくていいよ)」という方言に代表されるように、競争意識があまりなく、のんびりとしておおらかな風土。
「日向(ひゅうが)時間」という言葉もあるぐらいマイペースな人が多い土地柄のため、飲み会などの集まりでは”本来スタートしたい時間の30分前の集合時間で調整する”というのも、南国宮崎ならではなのかもしれません。
海・山・川と自然に恵まれ、豊富な物資があるからこそ、せかせかしなくても暮らしていける。そんな暮らしから「よだきい(めんどくさい)」なんて方言も生まれたのかもしれません。

『古事記』に「竺紫(つくし)の日向の高千穂のくじふる嶺に天降りまさしめき」とあり、天照大神の孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)が降り立った国(天孫降臨神話)。この神の孫である山幸彦と海幸彦の争い(山幸彦と海幸彦神話)、さらに、山幸彦の孫であるカムヤマトイワレヒコが、東征して大和橿原宮にて、天皇に即位し初代天皇神武天皇となった(神武東征神話)等の神話(日向神話)がある。

画家について

・弥勒祐徳
1937年、宮崎県立妻中学校を卒業。
1938年、西都市立寒川小学校の代用教員となった後、1940年応召。南方戦線に従軍し、1944年、召集解除。
1944年から三納青年学校(のちの西都市立三納中学校)の助教諭となり英語を担当。
1947年、同校の美術部顧問となったのがきっかけで、本格的に絵を描き始めた。
1952年、宮日総合美術展で初入賞し宮日賞受賞。この年勤務する中学校で英語担当から美術担当になった。
1958年、宮崎県美術展に初入選し、1969年には最優秀賞を受賞した。以後、数々の賞を受賞し、1976年、同美術展無鑑査の資格を取得。
1978年、妻中学校の勤務を最後に定年を迎える。また、妻中学校の他にも宮崎大学教育学部非常勤講師、宮崎県立西都商業高等学校講師を務めた。
1983年、弥勒美術館『神楽館』をつくる。
これまでに宮日総合美術展(宮崎日日新聞社主催)で計三回特選を獲得。
2005年、宮崎県美術展で「竜神の舞(打越かぐら)」を発表、絵画部門の大賞を受賞。
2007年5月に妻を亡くすが、その妻をモチーフにしクスノキを彫り上げて、仏像を完成させた。

・益田玉城
同郷の山内 多門とともに上京し、川端 玉章(川端画学校)に入門の後、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科選科修了。川端画学校・ 女子美術学校(現・女子美術大学)で後進を育成し、銀座3丁目にあった美術工芸品店㈱生秀館の図案部長も務める。

大正4年第9回文展にて《かの子屋の娘》が初入選、大正9・10・昭和3・4 年の各年に帝展入選を果たし、昭和6年には《姫街道》で無鑑査推薦となる。 浮世絵・大和絵を研究する一方、昭和8年第14回帝展無鑑査出品の《隅田川風景》など、昭和初期の女性風俗を扱った美人画も得意とした。昭和10年新帝展の再改組運動にも関わった。

昭和30年、74歳で逝去するまで精力的に内外各地を写生旅行した。昭和15年には従軍画家として中支戦線を取材し、その成果を「日支事変画展」として発表した。

主要作品は、新帝展の再改組運動の拠点でもあった目黒雅叙園に遺され同美術館(1991-2002年)の管理下にあったが、現在は郷里の都城市立美術館の所蔵となっている。

・山内多門
宮崎県都城市倉之馬場通東に山内勝麿の子として生まれる。16歳で郷里で狩野派の中原南渓に学ぶ。1899年(明治32年)に上京、同郷の造船技師で経営者だった須田利信の家に寄寓しながら、川合玉堂に入門、雅号都洲を授かる。翌1900年(明治33年)橋本雅邦に師事し、前期日本美術院に参加、同年第8回日本美術協会第三回日本美術協会連合絵画共進会「三顧草盧」という歴史画で初入選。1903年(明治36年)画号を本名の多門に改める。この頃は須田の後援を受け研鑽に励み、同じ院展の中堅画家山田敬中と比較されるまでになる。この頃は伝統的狩野派風の肥痩や圭角の強い線ではなく、雪舟の広大で雄渾な山水画に多く学んでいる。

1906年(明治39年)国画玉成会の創立同人に名を連ね、後に幹部となる。大正に入ると二葉会の幹事も務める。1916年(大正5年)チフスを患うが九死に一生を得た後、中島観誘に就いて禅を深めるなど、より内生的になっていく。雪舟の影響を脱し、むしろ与謝蕪村風の余情ある画趣に引かれる。再興院展後は院展より官展に出品し、後に審査員となる。1930年(昭和5年)聖徳記念絵画館に大作を献納してから床につくことが多くなる。若葉会の会頭として多くの後進の指導に努めたが、1932年(昭和7年)病となり没した。

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