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秋田県について

秋田県は、東北地方の北西部に位置し、東西約70km、南北約170kmの長方形に近い形をしています。面積は全国第6位の広さです
西部は日本海に面し、東部の県境は南北に奥羽山脈が連なっています。このため秋田県の気候は典型的な日本海型気候となっています。

秋田県は歴史の宝庫で、旧石器時代まで遡ることができます。
当時から人々が暮らしていた痕跡として、沢山の遺跡や石器が発掘されています。
7世紀から19世紀中頃までの約1300年間は、中央から「蝦夷」と呼ばれ、監視下におかれてきました。
戊辰戦争においては明治新政府側に味方したため、藩の名前がそのまま県名となりました。
ちなみに、東北6県のうち、藩名が県名として残っているのは「秋田県」の他は「山形県」だけです。
なお、「秋田」という地名は「日本書紀」にも記述されており、東北で歴史に名を残した最初の地とも言われています。
す。

秋田県では、農業も盛んで、全国的にも有名な「あきたこまち」の生産や「りんご」「さくらんぼ」「ブドウ」といった果物も豊富で毎年多くの地域に出荷されており、米出荷は全国3位です。
また、名物の食べ物や飲み物として「稲庭うどん」「日本酒」「きたりたんぽ」も有名です。
漁業では、「ハタハタ」や「ふぐ」を捕ることができます。
「ハタハタ」は消費量も秋田県が多く、とてもお人気のある魚です。

画家について

勝平得之

家業である紙漉き業、左官業の傍ら絵を書いていたところ、竹久夢二の絵に惹かれ浮世絵版画を始める。このとき、色刷版画の研究をし、1928年に自画、自刻、自刷の彩色抜法を完成させる。以後、故郷秋田の情景を描き続ける。1929年には日本版画協会展に「外濠夜景」、「八橋街道」が入選。その後数々の展覧会に多数入選し国内に名を轟かせた。1935年、秋田県を訪れたブルーノ・タウトと知り合いになり、作品が世界に紹介された。ケルン東洋美術館には代表作およそ70点が保存されている。
秋田県文化功労章、秋田市文化章、河北文化賞を受賞。
1971年1月4日、胃癌のため市立秋田総合病院で死去。


山本タカト

秋田県出身の画家。東京造形大学絵画科卒業。「浮世絵ポップ様式」、さらにそれを発展させた「平成耽美主義」と呼ばれる独特の画風で知られる。
東京イラストレーターズ・ソサイエティ会員。国際浮世絵学会会員。


柴田安子

大和絵や日本画、近代洋画などさまざまなジャンルの絵画を学び、自らの作品に取り入れた。
例えば女性達を描いた『めらはど』(1936年)は、当時としては斬新であった「計算された線と色彩による構築的な構図」によって描かれている。
また小熊秀雄は、新日本画研究会展に出品された『馬市帰路』に対して「光りの落ちてきかたは興味がある。」「画の出来不出来を別にして、作者の思索生活が出てゐるのは観る者をうつ。」などと評している。
1907年、秋田県大曲市で生まれる。
上京して千代田高等女学校に入学、在学中から松岡映丘に師事。1931年に結婚。
1938年には新美術人協会を設立。しかしその同年、甲状腺の異常が見つかり手術を行った。
1946年には病状が悪化。その頃、絵画に対する理想が高かったために、自作のほとんどを焼却した。その翌年に東京都で病死、享年39。


平福百穂

画家平福穂庵(順蔵)の四男として、秋田県角館(仙北市)に生まれた。本名は貞蔵。
幼い時から秋田市の豪商である那波家のコレクションなどで、秋田蘭画を見て育ったが、1890年(明治23年)から父から絵を学びはじめる。同年末に父が急死すると、翌年から父の後援者の援助を受け、本格的に絵を学び始める。同じ年の秋に開かれた亡父の追悼画会で画才を認められ、「百年」の百と「穂庵」の穂を取って「百穂」と号す。
1894年(明治27年)に上京し、四条派の第一人者川端玉章の内弟子となる。
1897年(明治30年)に川端塾の先輩だった結城素明の勧めにより東京美術学校に入学する。1899年(明治32年)に卒業後、翌1900年(明治33年)に素明らと无声会を結成、日本美術院のロマン主義的歴史画とは対照的な自然主義的写生画を目指す。1916年(大正5年)に金鈴社結成後は、中国の画像石や画巻、南画への関心を示す古典回帰が見られる作品を発表、やがて1932年(昭和7年)の「小松山」など、自然主義と古典が融合した作品を生み出すに至った。
一方で1903年(明治36年)頃からは伊藤左千夫と親しくなりアララギ派の歌人としても活動し、歌集「寒竹」を残す。島木赤彦は百穂の絵画頒布会を開催することで、「アララギ」の経営を助けた。また、秋田蘭画の紹介にも努めた。作家・田口掬汀と親しく、掬汀の孫の高井有一の小説『夢の碑』に、棚町鼓山として登場する。
平福は、平福を中心に川端龍子・小川千甕・小川芋銭らと日本画グループ「珊瑚会」を形成した。「珊瑚会」は1915年(大正4年)から1924年(大正13年)まで10回の展覧会を主催している。


藤井勉

1948年(昭和23年)5月、秋田県仙北郡飯詰村(現美郷町)天神堂に藤井吉五郎の次男として生まれる。六郷町立六郷中学校、秋田県立六郷高等学校を経て岩手大学教育学部特設美術科に進み、以後岩手県盛岡市を拠点として創作活動に入った。1976年(昭和51年)に第20回シェル美術展で佳作賞を、1977年(昭和52年)には第12回昭和会展で優秀賞を受賞し、1980年(昭和55年)には第23回安井賞展で入選を果たしている。写実的な少女画をライフワークとしている。代表作は「風」「剣」「寂」。
パリなど国内外の各地で個展を開いている。1998年(平成10年)には初めて郷土仙南村(当時)で個展をひらいた。
2017年(平成29年)9月12日、心不全のため、盛岡市内の病院で死去、69歳。
なお、美郷町金沢西根百目木の百記山等心寺(浄土真宗大谷派)には幼少期の藤井勉の描いた吉祥画が本堂天井画板のひとつとして飾られている。

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