大学別-芸術家

著名な芸術家-大学一覧

日本大学芸術学部 著名な卒業生

池田光宏
画家種
美術家
人物・来歴・経歴・その他
神奈川県横浜市生まれ。神奈川県立東金沢高等学校を経て、1994年、日本大学芸術学部美術学科卒業、1997年、東京芸術大学大学院美術研究科修了。
窓をスクリーンとして人影の映像を映し出す作品「by the Window」が知られている。この方法で、2001年から、住宅、商店、オフィス、公共施設などで作品を発表。「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」(新潟、2003年/2006年)、また、「AOBA+ART」(横浜、2008年)などの企画にも積極的に参加、AOBA+ART2013年では「青葉食堂〜わたしのお庭であいましょうツアー〜」のディレクションをする。2008年、平成20年度文化庁芸術家在外研究員としてスウェーデンに滞在(2年間)。2014年より長岡造形大学准教授。
代表作
Bluemoment 眺めのいい近所
こどもハウス劇場
雪の効果
山口勝弘
画家種
前衛芸術家
人物・来歴・経歴・その他
1928年に東京府荏原郡大井町で生まれた。幼い頃から勉強家で多くの本に囲まれて過ごし、時には難しい哲学書や洋書を読んだりして周囲の大人を驚かせていたという。特に船や飛行機などに興味を抱き、その構造を研究したり絵に描いたりもしていた。府立第一中学校(現・都立日比谷高等学校)を卒業後、1945年に日本大学工学部予科に入学。その後、文・法の2つの予科を経て、1948年に日本大学法学部法律学科に入学した(1951年卒業)。
芸術に関しては、特に大学等での専門的な教育を受けておらず、学生時代に大学内のサークルで作品を制作したり、学外の美術講習会に参加したりしながら、独学で学んでいった。また、戦後まもなくGHQによって設置されたCIE図書館に足繁く通い、そこでモホリ=ナギやジョージ・ケペッシュらの著書を読んで最新の造形思想に触れ、前衛芸術に関する知識と関心を深めていった。そして、大学在学中の1948年に開催したグループ展で初めて抽象絵画を発表し、アーティストとしての活動を開始した。
大学卒業後の1951年秋、詩人・瀧口修造の下に集まった北代省三(造形作家)、武満徹(音楽家)らと共に、インターメディアの活動を目的とするアーティスト集団「実験工房」を結成した。新たなテクノロジーを積極的に導入しながら音楽・美術・文学など芸術の諸領域の融合を目指す「実験工房」の活動は、まさに当時の芸術表現の最先端をいくもので、山口もその中心メンバーの一人として活躍した。「実験工房」は、バレエの上演やピアノの演奏会、オートスライドによる映像上映、電子音楽や造形的インスタレーションなど多角的な活動を展開していったが、山口個人としては同時期、光学的原理に基づくオリジナルな構造を持った造形作品「ヴィトリーヌ」シリーズを制作している。この「ヴィトリーヌ」は山口の初期の代表作と言えるもので、そこには今日のインタラクティブアートにも通じる、極めて先進的な思考が反映されている。
「実験工房」の活動は1957年頃には下火となり、山口も自身の新たな表現の方向性を模索するようになっていった。そうした一種の閉塞感が漂う中で、1961年10月から1962年1月にかけて、ヨーロッパ(イタリア、スイス、スペイン)およびアメリカ(ニューヨーク)への旅を行っている。その際、特にニューヨークで出会った様々な作品やアーティストとの交流は、山口にとって既存の概念を打ち壊す非常に大きな出来事となった。「ヴィトリーヌ」に別れを告げた山口は、その後立体的な彫刻作品の制作を始める。「布張り彫刻」と呼ばれる作品では、天井や壁面を用いた環境的な展示方法を考案し、ニューヨーク近代美術館の「新しい日本の絵画と彫刻展」(1965年)に選出されるなど、世界的にも高い評価を受けた。1965年以降はアクリル樹脂を素材とした光の彫刻作品へと移行し、さらなる新境地を切り拓いた。そこでは、新しいテクノロジーの象徴としての新素材が巧みに造形表現に取り入れられ、「環境芸術」という新たな概念を提示する試みとして注目された。また1968年には、ヴェネチア・ビエンナーレの日本代表にも選出された。
1970年に開催された日本万国博覧会では、三井グループ館の総合プロデューサーを務めた。その手腕は、パビリオンの建築計画からマルチメディア・コンテンツの演出、鑑賞装置の設計など、様々な場面において発揮された。同時期、次第にビデオによる芸術表現に注目するようになった山口は、1971年に小林はくどう、中谷芙二子、かわなかのぶひろ、松本俊夫、萩原朔美等、アーティスト仲間と共にグループ「ビデオひろば」を結成する。そこではビデオメディアを、従来の映像メディアとは異なる「社会的なメディア」として捉え、その新たな可能性を展望しながら様々な実験的試みが展開された。これ以降、ビデオメディアを中心とした表現活動を行っていくこととなり、以後数十年にわたって日本のビデオアートの第一人者として活躍した。またアーティスト活動を行う傍ら、1977年に筑波大学の教授に就任し、芸術専門学群総合造形領域において後進の指導にあたった(1992年まで)。
映像作品、インスタレーション作品、パフォーマンスなど、様々な表現手法を用いてビデオアートの制作を行い、特に海外で精力的に発表を行っていった。また、1981年に開催された神戸ポートアイランド博覧会でテーマ館顧問を務めるなど、社会的な活動にも積極的に関わった。1982年にはメディアによる芸術活動を組織化することを目的とし、グループ「アールジュニ」を結成。若手のアーティスト活動を支援した。また、1989年に始まったテクノロジーアートの祭典「名古屋国際ビエンナーレ・アーテック」(1997年まで隔年開催)ではディレクターの一人として参加し、フェスティバル運営の中心的な役割を果たした。
1992年3月に筑波大学を定年退官後、神戸芸術工科大学に移り、視覚情報デザイン学科でひき続き後進の指導にあたることとなった(1999年まで)。また淡路島芸術村計画の構想を立ち上げ、同年10月に兵庫県一宮町(現・淡路市)で「第1回世界環境芸術会議」を開催した。そして1994年にその中核となる施設「淡路島山勝工場」が完成し、自身の作品制作および生活の新たな拠点とした。制作についてはひき続き精力的に活動を行い、国内外の個展・作品展で発表を行った。
2001年に突然の病に襲われ、その後遺症により不自由な身体となり、第一線の活動から退くことを余儀なくされた。しかし病後も創作意欲が留まる事は無く、構想と手描きのドローイングを中心とした新たな表現活動を行うようになった。2006年には、「メディア・アートの先駆者 山口勝弘展 「実験工房」からテアトリーヌまで」が開催され、アーティストとしての存在感を改めて印象づけた。この頃は、展示規模の大小を問わず意欲的に作品発表行うと共に、国際的な芸術文化の祭典「神戸ビエンナーレ」の組織委員を務め(2007年~現在)、初回には招待作家としてインスタレーション作品の発表を行った。2011年3月11日に発生した東日本大震災では、その惨状に心を痛め、犠牲者への鎮魂の思いを込めた32点の絵画作品「三陸レクイエム」を制作。国内外で発表を行った(ロンドンでは映像作品のみ)。一方、美術界では戦後日本の前衛芸術を再評価する機運が高まり、2013年から2014年にかけて、山口がかつて在籍した「実験工房」の活動を紹介する大規模な巡回展「実験工房展-戦後芸術を切り拓く」が開催された。2018年5月2日、敗血症のため死去。90歳没。
代表作
ヴィトリーヌ
Cの関係

光の立方体
夜の進行
静かな昇天
赤い街
ペン
沼田識史
画家種
現代美術家
人物・来歴・経歴・その他
父方の母親は、東京芸術大学音楽部の前身である東京音楽学校卒業で、母方の叔父が画家という中で幼少期を過ごす。幼年から少年時代に、初めて衝撃を受けた音楽は、カーペンターズが歌った『遥かなる影』やスティーヴィー・ワンダーの楽曲の『迷信』であったと沼田は答える。それからは絵を描くと同時に歌も唄うようになった。そのような環境の元で絵画と音楽に対する興味が深くなる。
幼少期から色々な絵画を観てきたが、小学4年生の終わりに梅原龍三郎が描いた『竹窓裸婦』を観て、「これこそ大人の女性の身体だ」と、沼田は強い衝撃を受ける。
小学3年生の頃、映画の事ではあるが、黒澤明監督の『椿三十郎』を観て、絵画を観ているような衝撃を受けて、母親に「この監督はアメリカの人なの?」と母親に尋ねると、母親は「これは日本の監督で黒澤明という人が創った作品だよ」と教えられ、「日本にこんな凄い監督がいるのか」と、絵画の面でも、音楽の面でも大変勉強になった事を、今でも鮮明に覚えていると沼田は言う。
主に人物を対象にした現代美術作品で知られている。 キャンバスにアクリル絵具で描き、唯一無二のスタイルで既成概念に囚われず、自由な発想の独特な雰囲気や個性を持つ人物画を描いたり、ポップアート、抽象的な絵、コラージュなども創る。写真を撮ることもある。
現代美術家、沼田識史が崇拝する人物は黒澤明監督、スタンリー・キューブリック監督、俳優のジャック・ニコルソン。尊敬する人物は画家の梅原龍三郎、横尾忠則、ジャン=ミシェル・バスキア(Jean-Michel Basquiat)。
沼田識史がこだわっているのは、「絵は描くのではなく」「書くものだ」ということである。これは尊敬している画家である、ジャン=ミシェル・バスキア(Jean-Michel Basquiat)の絵画を観て学んだ。
沼田は絵を制作する時に、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲、交響曲第9番の第4楽章を何度も繰り返し聴きながら作品の制作を行う特徴がある。それは沼田の絵を制作する心のテンポと第4楽章の曲のテンポが合って心地よいと、沼田識史自身言っている。
現在の現代美術家、沼田識史の描く絵のルーツは、幼年時代から少年時代の環境によるものと沼田自身も答えている。
代表作
憎愛少女

愛する地球
黄色の象さん
らくだ
Lady

夕景
朝景
李禹煥
画家種
現代美術家
人物・来歴・経歴・その他
日本の現代美術の大きな動向である「もの派」を理論的に主導したことで有名である。個展および国際展への出品多数。代表作は「点より」「線より」シリーズ。
直島に安藤忠雄とのコラボレーションによる李禹煥美術館を開館。釜山市立美術館敷地に「李禹煥ギャラリー(Space LeeUFan)」を開設している。
1956年、ソウル大学校美術大学を中退後、来日。
1961年、日本大学文理学部哲学科を卒業。
1969年、「事物から存在へ」が美術出版社・芸術評論募集に入賞。
1971年、評論集『出会いを求めて』(田畑書店)を出版、国内外の美術界に影響を与える。
2010年、香川県直島町に初の個人美術館である李禹煥美術館が開館。
2015年、釜山市立美術館敷地に2館目の個人美術館李禹煥ギャラリー(Space LeeUFan)を開館。
代表作
線より
点より
From Winds
With Winds
木村俊幸
画家種
現代美術家
人物・来歴・経歴・その他
日本大学芸術学部に油絵専攻で入学するが、8ミリの撮影を行っていた女性と知り合い映像業界に興味を持ち、ポストプロダクション企業マリンポストへアルバイトとして入る。最初は写植打ちの手伝いなどであったが、マット画を手がける石井義雄の仕事を目にして石井に弟子入りし、そのまま大学を中退してマットペイントの道へと進んだ。
1990年にオリジナルビデオ『女バトルコップ』のマット画でデビュー。映画作品に多く携わった後、独立してLOOP HOLE名義で美術活動もはじめる。早くにデジタル技術を導入していたことから、1990年代後半からはコンピュータグラフィックスによるプロモーションビデオやフィルムエフェクトなども手がけるようになった。
映画『スポーン』でハリウッド作品にも参加。その後、海外へ活動拠点を移すことも持ちかけられていたが、海外ではイレギュラーとしての物珍しさで受けていたと感じ、また日本での生活を好んでいたことから日本での活動を継続した。
代表作
Homunculus
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飯田 竜太
画家種
現代美術家
人物・来歴・経歴・その他
飯田竜太は1981年静岡県生まれ。日本大学芸術学部美術学科彫刻コース卒業、2014年東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術専攻修了。本や新聞といった紙を素材に言語の枠組みを外側からとらえる彫刻作品を制作。04年ガーディアン・ガーデン主催の第22回グラフィックアート「ひとつぼ展」にてグランプリを受賞。10年に台湾の大規模アートフェス「VERY FUN PARK」に参加し注目を集めたほか、日本国内でもCOMME des GAR Ç ONSとアイ・ウェイウェイのDMシリーズに作品が採用されるなど、高い評価を得る。15年より日本大学藝術学部美術学科彫刻コース常勤講師。Foam Photography Museumでの個展開催(アムステルダム、2015)、Festival Images(ヴヴェイ、2014)に参加するなど国際的にも活動。16年「本棚のアーケオプテリス Archaeopteris in The Bookshelf」(ガーディアン・ガーデン、東京)では本を「読む」ことではなく、「切る」、「彫る」ことで解釈する彫刻作品を発表した。07年にグラフィックデザイナー田中義久とアーティストデュオ・ネルホルを結成し国内外で展示を行う。
代表作
Simon
本の装飾
目に見える見えない
中村宏
画家種
画家
人物・来歴・経歴・その他
1932年、静岡県浜松市下池川町に生まれる。第3子、次男。生家は、祖父が創設し、祖母が校長を務める浜松高等女学校にあった。1939年、静岡県立師範学校付属小学校入学。1945年、静岡県立浜松第二工業学校入学。1948年、静岡県立浜松第二高等学校編入学。1951年、日本大学芸術学部美術学科入学。指導教授は野口弥太郎、吉岡憲。主任は山脇巌。在学中に映画学科で牛原虚彦からエイゼンシュテインのモンタージュ論を学ぶ。1953年、青年美術家連合に参加。1955年、日本大学芸術学部美術研究室へ入所。前衛美術会へ入会。1958年、日本大学芸術学部美術研究室を退所。1950年代、政治的・社会的な事件や事象を取材して描かれた作品群は「ルポルタージュ絵画」として注目を集めた。それ以降も、時々の社会状況と深く関わりながら描かれてきた作品は広く支持されており、戦後日本美術史において高く評価されている。1969年、美学校(現代思潮社)創設に参加、中村宏油彩工房を担当。1975年、桑沢デザイン研究所に勤務。1982年、東京造形大学に非常勤講師として勤務。2004年、東京造形大学客員教授に就任。
性的な雰囲気や心的世界などを奇抜な画面構成と特異な表現で描く。非常に独特のその絵柄には、現代ポップアートにもつながる世界がある。雑誌の装丁なども多く手がける。
空に浮かぶ蒸気機関車や、セーラー服姿の一つ目少女、そして高速で流れる車窓の風景などが彼の作品の一貫した愛玩キャラクターといえる。戦後一貫して具象にこだわり、独自の絵画を追求した作品であることが特徴。観る者にとって強烈な印象を残す。
さまざまな事件や事象を記録し伝えるところからスタートした彼の作品は、現在に至るまで、常に実際の鑑賞者を念頭において構想され、描かれてきており、絵画の中に、鑑賞者に対してコミュニケーションを積極的に促すような“記号”や“図”、“絵言葉”などの、線描をベースにした独自の「図画」的な要素を盛り込んだ幅の広い仕事が展開され、観る者の視点を捕らえるための独自の探求が続けられているため、中村の作品は、何よりもまず、ひとりの鑑賞者が事件に遭遇するかのように出会う画面として現れており、常に個々の鑑賞者をまきこみ続ける作品である。
代表作
国鉄品川

四世同堂
内乱期
ブーツと汽車
円環列車・B-飛行する蒸気機関車
HUDSON-C62
車窓篇TYPE5(ドリル)
金子國義
画家種
画家
人物・来歴・経歴・その他
織物業を営む裕福な家庭の四人兄弟の末っ子として生まれた。蕨第一国民学校(現・蕨市立北小学校)入学。図画工作に優れた子供だった。バレエ公演を観て憧れ、バレエを習う。ミッションスクールの聖学院中学校・高等学校を経て、1959年、日本大学藝術学部デザイン学科入学。歌舞伎舞台美術家の長坂元弘に師事し、舞台美術を経験する。大学卒業後、グラフィックデザイン会社に入社するも3か月で退社し、フリーとなる。1966年、『O嬢の物語』の翻訳を行っていた澁澤龍彦の依頼で同作の挿絵を手がける。翌1967年、澁澤の紹介により銀座の青木画廊で個展「花咲く乙女たち」を開き画壇デビューする。世紀末的・デカダンスな雰囲気を漂わせる妖艶な女性の絵を得意とする。
活動・表現領域は幅広いが、一般には「富士見ロマン文庫」(富士見書房)、『ユリイカ』をはじめとする多くの書籍・雑誌の装幀画・挿絵を手がけたことで知られた。また、1998年には神保町に画廊「美術倶楽部ひぐらし」を開設した\。
コシノジュンコとは、古くからの親交があった。のちに親友となった安井かずみを金子に紹介したのもコシノである。
L'Arc〜en〜Cielのhydeとは、プライベートも含めて親交が深かった。hydeからのラヴ・コールでソロ・アルバム「FAITH」のジャケットアートワークや、彼の好きなコウモリをモチーフにした浴衣のデザインをした。
2015年3月16日午後、虚血性心不全のため東京都品川区の自宅で死去。78歳没。
代表作
O嬢の物語
不思議の国のアリス
櫻井 孝美
画家種
画家
人物・来歴・経歴・その他

1944年 埼玉県北埼玉郡屈巣村(現鴻巣市)生まれ
1963年 埼玉県立不動岡高等学校 卒業
1968年 日本大学芸術学部美術学科 卒業
山梨県富士吉田市にアトリエをかまえる
1976年 土日会結成に参加(以降毎回出品)
1985年 「東京セントラル美術館油絵大賞展」大賞受賞
1987年 「第22回昭和会展」昭和会賞受賞
1988年 「第31回安井賞展」安井賞受賞
富士吉田市文化功労賞受賞 野口賞受賞
1990年 「両洋の眼展」('91'92'95'96'06'07'08'09)
1997年 「櫻井孝美自選展」(山中湖高村美術館)
1998年 「心象富士36景展」全国巡回
2000年 富士吉田市市制施行50周年事業 「郷土の作家展」
個展(シャモニーモンブラン市 文化交流)
「『SAKURAI』展」 (MBギャラリー・パリ)
2004年 「幸-歌会始御題によせて 展」(式年遷宮記念神宮美術館)
2006年 「笑み-歌会始御題によせて 展」(式年遷宮記念神宮美術館)
2007年 土日会代表就任
2010年 富士北口本宮浅間神社へ作品を奉納
2014年 読売新聞額絵シリーズ「巨匠たちの富士」に50号が選定される
2015年 『‐緑と水と太陽‐ 燦めく日々 櫻井孝美作品集』発行
「‐緑と水と太陽‐ 燦めく日々』櫻井孝美展」(韮崎大村美術館)
2016年 紺綬褒章受章
代表作
富嶽・輝
田中岑
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
香川県三豊郡和田村(現 観音寺市豊浜町)出身。旧制香川県立三豊中学校、日本大学芸術科卒業。
1937年(昭和12年)三豊中学4年生の時に美術部を創る。1939年(昭和14年)東京美術学校油絵科に入学、小林万吾が保証人であった。その後、海老原喜之助に出会い日本大学芸術科に転校を薦められて入学した。在学中、独立美術協会展などに出展する。
兵役に就き復員後、第15回独立美術展に出品する。1947年(昭和22年)自由美術協会展に出品、同年4月に上京して以後出展を続けた。1950年(昭和25年)春陽会の出展して研究賞を受賞。翌年に春陽会準会員、1953年(昭和28年)に春陽会会員となった。
1956年(昭和31年)安井賞展が設定され、第1回の受賞者となる。この賞は、将来日本の美術を推進するに足りると推定される新人洋画家であり、また具象的傾向の作風に限られた。新人の登竜門として設定された。
1960年(昭和35年)から1961年(昭和36年)にかけて、パリ、ロンドン、ローマに滞在、木村忠太のアールピノサンでの個展に立ち会った。1966年(昭和41年)から4年間、女子美術大学講師を務める。1970年(昭和45年)母校香川県立観音寺第一高等学校の創立70周年記念壁画の製作を行った。
2014年(平成26年)4月12日に逝去。93歳没。兄は舞台美術家の田中照三。
代表作
透影
日輪
海辺
記憶
廣幡憲
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1911年(明治44年)2月21日、秋田県仙北郡中仙町字大清水(現・大仙市)に高橋幸之助、エシの二男として生まれた。本名は憲太郎である。4人兄弟である。
1918年(大正7年)に清水尋常小学校(現・大仙市立清水小学校)に入学、その後、小学2年の夏に養子話が持ち上がり、1919年(大正8年)9月19日、養子縁組の手続きがとられた。これは、母の妹で男鹿市脇本の本明寺に嫁いだ叔母のトヨに子がなかったためである。養父は廣幡耕道、憲太郎は養子に入ってから名前を憲導と改めた。 脇本尋常小学校三年に編入学され、1923年(大正12年)3月、脇本小尋常六年を卒業した。翌1924年(大正13年)、仙台市の栴檀中学(戦後、栴橿学園高等学校、1975年廃校。学校法人としては現在の東北福祉大学)に入学、ここで寮生活を送った。この学校は曹洞宗の僧の養成学校である。
卒業後の1930年(昭和5年)、養父の勧める仏教系の大学を断って日本大学英文科に入学した。この頃、近所に住む第三東京市立中学校(現・東京都立文京高等学校)の美術教師、風間直得に石膏デッサンを習い始め、美術に関心を示し始めた。その後、目白のプロレタリア美術研究所に通うようになる。その一方で、養父からの仕送りは途絶え、友人・知人の家を渡り歩いて生活するほど衣食にも困り、大学も2年で中退した。養家の方は、憲導が僧職につかないことから協議離縁し、1934年(昭和9年)9月に生家に復籍した。この少し前から、廣幡憲を名乗るようになっていた。 1935年(昭和10年)春には、見かねた兄が上京し、廣幡は生家に連れ戻された。
生家に戻ってからはすることがなく、家の周辺を散歩したりスケッチをしたりしていたが、成田忠久(教育指導雑『北方教育』主宰)が新聞を出す計画であることを知っていた長谷部哲郎(当時は清水尋常小学校勤務)から新聞記者になるよう勧められたので、秋田市に引越し「夕刊秋田」(日刊のタブロイド紙)の新聞記者として働くようになった。
この頃、平野弘の招きで鷹匠町に越してきた藤田嗣治を取材。藤田に感化されて、連日藤田の制作現場へ通うようになり、藤田の助手として道具運びや水汲みなどを手伝った。
1937年(昭和12年)の初め頃には「夕刊秋田」は廃刊同然であり、廣幡の記者としての生活も終わっていた。藤田が壁画「秋田の行事」の制作を終え秋田を去った後、廣幡は再度上京し、阿佐ヶ谷に間借りして絵の制作を始めた。 1937年(昭和12年)の二科展に「山小屋」が入選、この後間もなく東郷青児を訪ね、以後しばしば東郷のアトリエに通うようになった。ここで、東郷の弟子の1人だった神谷信子と出会う。
1938年(昭和13年)9月頃、当時23歳だった藤原当子(平鹿郡雄物川町沼館、藤原熊吉の三女)と結婚した。ただし、婚姻届を出したのはずっと遅く、太平洋戦争後の1946年(昭和21年)2月になってからである。
1939年(昭和14年)になって、二科会の中で前衛的な傾向の若い画家たちと共に二科内に九室会を作った。参加したのは、廣幡以外では、山口長男、斎藤義重、吉原治良、鷹山宇一、桂ユキ子、松本竣介、山本敬輔である。このうち山口、吉原らがリーダー格だった。その他、同年の絶対象派協会の結成にも参加した。
1941年(昭和16年)秋頃、建築デザイナーの水島政男と知り合い友人関係を結ぶようになった。 一方、この頃になると妻の当子とは別居して、神谷信子と愛人関係になり、神谷の自宅がある久我山で同棲していた。後年、当子とは一男一女をもうけるまでに至った。当子の方は、阿佐ヶ谷の自宅に住み、洋裁の内職で細々と生活していた。太平洋戦争中は、当子は一時期郷里の秋田に疎開したが、廣幡の方は、東郷青児が軽井沢に疎開したのを追って、終戦時まで東郷の書生のような生活をしていた。終戦後になって当子は上京してくるが、最後まで神谷信子との関係を断つ事はできなかった。
太平洋戦争後、再建された二科会の第1回展に、抽象画「ラ・ニユェ」「パンチュール」を出品して特賞を受け、二科会員に推挙された。更に1947年(昭和22年)には二科会無鑑査になった。 同年に自由美術協会に移籍し「白の作品A」「白の作品B」を出品した。
1948年(昭和23年)10月9日、自由美術の会合の後友人の水島政男と新橋付近で飲み歩き、東京駅で中央線の立川行きの終電車に乗ったが眠り込んでしまい、吉祥寺ではなく終着駅の立川まで乗り過ごしてしまった。久我山まで歩いて帰るところを、同駅構内で車庫に戻るためにバックしてきた電車に轢かれて事故死した。
法名は普明院草風一桐居士。生家に近い大清水墓地に埋葬されている。同年には日本橋柳屋画廊で、翌1949年(昭和24年)には北荘画廊で遺作展が開催された。
代表作
ミルク
カンナの絵
ラ・ニユェ
パンチュール
白の作品A
白の作品B
西村元三朗
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1917年12月25日 - 兵庫県神戸市元町通1丁目、西村蘭更堂薬局に、父・光雄、母・まさの三男として生まれる
1942年 - 小磯良平に師事する。日本大学専門部芸術科に入学。川端画学校洋画科に在籍。
1944年 - 日本大学専門部芸術科卒業
1948年 - 頌栄保育専攻学校(現・頌栄短期大学)の絵画講師に就く
1953年 - 新制作展で「洞」「空間」が新作家賞受賞
1958年 - 新制作協会会員に推挙される
1971年 - 兵庫女子短期大学教授に就く
1980年 - 神戸市文化賞受賞
2002年 - 神戸市灘区の自宅で逝去
代表作

空間
松原 潤
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他

1959 東京都に生まれる
1983〜 独立展出品
1984 日本大学芸術学部卒業
1985 個展(みゆき画廊)
1986 独立美術協会展 新人賞
1988 多摩美術大学大学院美術研究科修了
独立美術協会展 奨励賞
1990 独立美術協会展 独立賞
1991 「モーツァルトその絶対美に迫る26人展」(横浜岩崎博物館)
独立美術協会展 中山賞
1992 第2回前田寛治大賞展(日本橋高島屋、倉吉博物館)
1994 個展(池袋西武)
1995 第3回前田寛治大賞展
1997 第3回美の予感展(日本橋高島屋他)
独立美術協会展 奨励賞
1998 多摩秀作美術展 佳作賞
個展(アートウォール)
1999 独立美術協会展 奨励賞
2001 新世紀を開く美(日本橋高島屋他)
独立美術協会展 奨励賞
2002 独立美術協会展 会員推挙
2003 個展(光画廊)
2005 個展(G・KIZNA)
2006 個展(光画廊)
SENSATION vol.1(日本橋高島屋)(07.08)
2007 個展(G・KIZNA)
2009 個展(G・KIZNA)
2010 個展(ギャラリー・ムサシ)
現在・ 独立美術協会会員 拓殖大学工学部デザイン学科講師
代表作
南東風
薄明
Ghost of a Rose
Castles and Dreams
Morning Star
安西水丸
画家種
イラストレーター
人物・来歴・経歴・その他
東京都港区赤坂生まれ。7人兄弟の末っ子で姉が5人いた。一番上の姉とは7つ離れている。生家は祖父の代から建築設計事務所を営んでいた。
1945年、重い喘息を患い、母の郷里である千葉県千倉町(現・南房総市千倉町)に移住。幼少期を千倉で暮らす。その頃の体験や思い出は、初期の漫画作品、エッセイ、小説など多くの作品に登場している。「千倉」は彼にとって重要なキーワードとなっており、すべての心象のルーツであるように描かれている。1949年、千倉町立七浦小学校に入学。
1961年、日本大学豊山高等学校卒業。日本大学藝術学部美術学科造形コースに入学。1965年、同大学を卒業。電通にアートディレクターとして就職。1969年、同社を退社して渡米。現地でADアソシエイツ(N.Y.のデザインスタジオ)に就職。
1971年、帰国。平凡社のADとなり、そこで当時雑誌『太陽』の編集をしていた嵐山光三郎に誘われたのをきっかけに、デザイナーからイラストレーターへと転向。ペンネームの「安西」は、嵐山から「あ」がつく名前がいいと言われ、祖母の苗字「安西」から取った。また「水丸」は、子どもの頃から「水」という漢字が好きだったことから。
また、嵐山の紹介で、『ガロ』等で多数の漫画も発表していた。
1979年、「パレットクラブ」発足。メンバーは、ペーター佐藤、原田治、当時「ポパイ」のアートディレクターの新谷雅弘の4人。パレットクラブから派生した東京築地にあるイラストの学校「パレットクラブ・スクール」に於いては、講師にも就いている。※講師としては、東京築地のパレットスクールより京都のインターナショナル・アカデミーのイラスト教室が先である。メンバーはパレットクラブの4人で、ペーター佐藤は講師に就いていた当時に逝去。
1981年、安西水丸事務所を設立し、本格的にフリーのイラストレーターとなる。その後イラストレーターと平行して日藝の講師を1991年から2003年まで務める。
1987年3月、エッセイ集『青インクの東京地図』を刊行。以降、エッセイや小説も発表する。小説の代表作に『メランコリー・ララバイ』、『バードの妹』、『アマリリス』など。
2005年、東京イラストレーターズ・ソサエティの理事長に就任。
2013年1月、個展「1984 〜 2013 vol.1 : MIZUMARU ANZAI ORIGINAL WORKS」と「1987 〜 2013 vol.2 : MIZUMARU ANZAI SILK SCREENS」をスペースユイにて開催。
2014年3月17日に神奈川県鎌倉市にて執筆中に倒れ、病院に搬送されて治療を受けていたが、3月19日の21時7分、脳出血のために死去した。71歳没。
同年8月19日、玄光社よりムック『イラストレーション緊急増刊 安西水丸 青空の下』が刊行される。
同年10月17日から11月20日まで、「安西水丸展」が銀座のクリエイションギャラリーG8で開かれる。
代表作
レモンとコカコーラ
無題
石原豪人
画家種
イラストレーター
人物・来歴・経歴・その他
18歳で満州に渡り、映画看板などを描く。体調を崩したため、1955年頃(昭和30年)から挿絵画家としての仕事を始める。以後40年間にわたって精力的に描き続けた。
テレビがなかった時代の映画の看板から始まり、光文社の江戸川乱歩シリーズの挿絵(『魔法人形』ほか数巻のみ)、立風書房のジャガーバックスシリーズを始めとする怪奇系児童書、小学館の「なぜなに学習百科」シリーズ、各社の学年誌・少年雑誌・少女雑誌の怪獣・怪人・幽霊・妖怪・怪奇現象などのイラストを手がけた。平成に入ってからはサブカルチャー雑誌やトレンド雑誌、家庭用ゲーム誌の挿絵までカバーしていた。
林月光名義でゲイ雑誌やSM雑誌の濃厚な挿絵も手がけていた。
「好き嫌いがなくてこそ高級な人間」をモットーとしており、注文されれば分野を問わず何でも描く。手がけた分野は、紙芝居・映画看板・カストリ雑誌・学習雑誌・少年雑誌・少女雑誌・芸能雑誌・新聞小説・劇画・広告・アメリカンコミックに至る。さらにはシスコのキャプテンウルトラチョコレートのパッケージと包装紙まで手がけ、ファミ通にスーパーマリオブラザーズの絵を描いたこともある。その作品点数の多さゆえに、自宅の床が抜けたというエピソードもある。
代表作
モンスター大百科
松虫
江戸川乱歩
おおたうに
画家種
イラストレーター
人物・来歴・経歴・その他
おおた うには神奈川県出身のイラストレーター。日本大学藝術学部放送学科卒。ファッションを題材にイラストを描くことが多い。イラストの横に、手書き文字でコメントや説明文が書き添えられているのが特徴。
代表作
チェリーコーク
田村映二
画家種
立体イラストレーター
人物・来歴・経歴・その他
田村 映二は、日本のイラストレーター。静岡県沼津市出身、日本大学芸術学部卒。日本を代表する立体イラストレーターである。
代表作
リリイ
タムタムキューブ
夢國旅日記
雨宮淳
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
雨宮治郎の子、雨宮敬子の弟として東京に生まれる。父、姉とともに芸術院会員となっている。
日本大学芸術学部を卒業後、彫刻家北村西望に師事し、1963年日展初入選、1984年西望賞受賞、1991年内閣総理大臣賞受賞、1997年日本芸術院賞受賞、2001年日本芸術院会員。日展常務理事。
2010年2月8日、心不全のため死去。72歳没。
日本政府は死亡した2月8日付にて雨宮淳を従四位に叙し、旭日中綬章を授けた。
代表作
首(B)


雨宮敬子
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
彫刻家雨宮治郎の娘として東京に生まれる。弟は雨宮淳。日本大学芸術学部卒業。1956年日展初入選、1982年長野市野外彫刻賞、1983年中原悌二郎賞優秀賞、1985年日展内閣総理大臣賞受賞、1994年日本芸術院会員。2017年4月、旭日中綬章受章。2017年11月、文化功労者。
主に女性のヌード座像を制作している。『雨宮敬子作品集』(講談社 2005)がある。
2019年7月31日、心不全のため、88歳で死去。死没日をもって従四位に叙される。
代表作
惜春
田中治彦
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
東京府東京市日本橋区室町(現:東京都中央区日本橋室町)出身の父と東京府東京市下谷区金杉(現:東京都台東区下谷)出身の母の子として疎開先の東京都世田谷区松原町で生まれた。
戦争による財産喪失の影響が続き成人までの生活費と学費意外に親からの援助は無かった。最終校は東京都世田谷区三軒茶屋にあった日本大学農獣医学部(この学部は1995年12月に日本大学生物資源科学部等に改組されて今はない)。
東京育ちの後、1986年(昭和61年)東京都港区六本木三丁目から山梨県北巨摩郡高根町字念場原(現:山梨県北杜市高根町清里)に移住した。家は代々浄土真宗大谷派で、信仰は仏教。菩提寺は東京都台東区寿にある善照寺。
学生時代に出かけたパリのギメ美術館で見た日本の勾玉の形と歴史に心を揺さぶられて物作りに入る。この影響のため彫刻からジュエリーに到るまでの作品全てが立体物である。
芸術・美術学校及び関連する教育を一切受けなかった芸術家で、自動車工場で金属加工をながめ、歯科医院で金細工を知り、またお寺で内面を聴くなど独学で習得した技法と沢山の出会いから目覚めた感性により新しい分野の作品が次々と創造されている。木・貝・漆・宝石・鉄・貴金属・空き缶からパン等、異素材の組み合わせだがテーマは一貫して「こころを表す」。
田中が多くの人に語る言葉がある、「制作技術の頂点を極めることは素晴らしい。しかし私にとっての彫刻は、生きることへの問いかけ、心の叫びをいかに形にあらわすかだ。素材、技法はそのためにある。」 "人間の精神性"を基にした独創性作品の評価は海外でも多く1982年から1984年に掛けてイギリス大英博物館が作品3点を購入している。日本の皇族方にも鑑賞や購入がある。
「芸術家が弟子あるいはスタッフに加筆させたらそれは贋作だ。」こう言ってアトリエには誰も入れないで一人で制作するため日数がかかり、作品数が極端に少なく美術商・ギャラリーに出回る事は殆どない。
1975年 - 東京都港区六本木3丁目にアトリエを開設した。
1980年当時、日本の公募展に応募したくても「作品のジャンルがない、前例が無い」と門前払いの状態であった。
1981年 - 国内にジャンルが無いならニューヨークで道を開こうと、フィフスアベニューにあるミキモトで初個展。
1981年 - ロンドン、チャーリングクロスギャラリー39で個展。
1982年 - 大英博物館が作品「ヤモリ」「初夢」『大英博物館リスト2012年8月27日14時(日本時間最新版取得)』の2点を購入。
1982年 - 東京の銀座和光ホールで個展。
1982年 - 東京アメリカンクラブで個展。
1984年 - 大英博物館が作品「海島」を購入。『田中治彦モダンアート美術館2012年8月27日14時(日本時間最新版取得)』
1985年 - 米国ハワイ州が漆箱を購入。
1987年 - 妻チカ子が夫治彦の作品展示の為の美術館「A MUSEUM of ART」(ア ミュージアム オブ アート)を設立した。(現在は内容そのままで「田中治彦モダンアート美術館」と名称が変更されている。) ここで田中作品の殆どを見る事が出来る。
1989年 - 渋谷区立松濤美術館長 村瀬雅夫著の本『野のアトリエ』(桃源家出版)に掲載。
1992年 - 高円宮憲仁親王著の本『創造のプロファイル』(流行通信社) ISBN 4-947551-81-X に掲載。
1994年 - 京都平安建都1200年に際し来るべき次への展覧会、「世紀を超えるクラフト展」に作品が招待展示。
1994年 - ロスアンゼルス、カウンティ美術館の「現代根付け彫刻展」に、18金縄で編んだ根付けとルビーを入り根付けの2点が招待展示。
2007年 - 社団法人日本ジュウリーデザイナー協会(現:公益社団法人日本ジュエリーデザイナー協会)の正会員になる。
2008年 - 日本ジュエリーアート展で作品が入賞。作品2点は5月上野の森美術館を始め伊丹 仙台 名古屋 福岡と9月まで巡回展示。
2009年 - 社団法人 日本ジュウリーデザイナー協会の創作保全委員長になる。
2009年 - 山梨県立美術館で「やまなしの美術館大全展」開催、作品展示。
2010年 - 山梨県立美術館で「田中治彦とファミリー、リンゴ1個分の愛を地球へ展」を開催。
2010年 - 「第1回日本ジュエリーデザインコンペティション」で作品が入賞。作品は5月上野の森美術館を始めとして伊丹 仙台 名古屋と7月まで巡回展示。
2010年 - 大英博物館発刊の本【Haiku Animals】(俳句と生きもの)『大英博物館書籍リスト2012年8月27日14時(最新版取得)』に作品掲載。
2010年 - 日本ー南アフリカ政府 交流100年記念行事参加デザイナーの内、日本側の一人に選ばれ総プラチナ作品をデザインと制作。11月シェラトン都ホテル東京にて展示、記念式典が行われた。
2010年 - 日本デザイン団体協議会D-8のデザイン保護研究会委員になる。(D-8は: 経済産業省所管の一般社団法人と公益社団法人の8つが集まった活動体)
2011年 - 公益社団法人 日本ジュエリーデザイナー協会の理事になる。
2012年 - 「日本ジュエリーアート展」で作品が入賞。作品は5月上野の森美術館を始め6月伊丹と巡回展示。
2012年 - 東京国立博物館に根付作品1点が収蔵された。高円宮コレクションの中に田中治彦作の根付が2点あり、東京国立博物館140周年・高円宮殿下の十年式年祭を記念した国立博術館へ(江戸期から現代作品)寄贈にこの内1点が該当した為。東京国立博物館本館では、2012年10月~12月この作品を含めた特別展示を開催した。
2013年 - 公益社団法人 日本ジュエリーデザイナー協会の任期2年の理事が終了。再び理事就任が決まり、任期2年間の勤めを始めた。
代表作
ヤモリ
初夢
海島
内山翔二郎
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
1984 神奈川県に生まれる。
2008 日本大学藝術学部美術学科彫刻コース卒業
日本大学藝術学部長賞 受賞
2009 財団法人北野生涯教育振興会 彫刻奨学金受賞
2010 日本大学大学院芸術学研究科造形芸術専攻博士前期課程 彫刻分野修了
2013 第16回岡本太郎現代芸術賞 特別賞受賞
代表作
never die jr.
ある惑星の住人II
大成哲
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
東京都八王子市出身。2004年、日本大学芸術学部を卒業。同年東京芸術大学大学院入学。2005年、チェコ政府奨学金を取得しチェコ・プラハへ留学。プラハ美術アカデミー(AVU)とプラハ工芸美術大学(VSUP)に各1年ずつ在籍。2008年、東京芸術大学大学院修士課程を修了。
東京とチェコに滞在し、ガラス、石、木などを用いて彫刻、インスタレーションを制作している。
2012年、上野の森美術館が平面芸術の若手作家を対象に実施する「VOCA展」において、作品「まねびNO.6」が佳作に入選した。
近年では2014年に第一生命南ギャラリーでの個展「Tets Ohnari ∞ Egon Schiele」を開催。
グループ展では2014年にポーラ ミュージアム アネックスにて行なわれた「ポーラ ミュージアム アネックス展2014-光輝と陰影-」や、同年にフィンランドにて行なわれたガラス作家による展示「European Glass Experience Exhibition in Finland」に参加している。
2019年、トンボ鉛筆やオルファ、トーヨー産業、サンフレックスなど日本とチェコの会社計9社とスポンサー契約をしている。
代表作
叫びの肖像
manebi-tear
土屋公雄
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
1955年 福井県福井市生まれ
1977年 日本大学芸術学部建築デザイン科卒業
1989年 ロンドン芸術大学チェルシーカレッジ美術彫刻科修士課程修了(Chelsea college of art and design)
1990年 プライマル・スピリット展(企画原美術館)/ロサンゼルスカウンティ美術館、ルフィーノ・タマヨ美術館(メキシコ)など巡回。「Eternity」フランスのヴァシィビエール現代美術センターで個展
1992年 「所在」青山スパイラルガーデンで個展
1993年 USIS米国務省のプログラムにてアースワークを視察
1996年 「虚構と記憶」原美術館で個展
1999年 森に生きるかたち展/箱根彫刻の森美術館
2000年 アートドキュメント2000樹霊三人展-構造・振動・記憶-/金津創作の森 シドニーオリンピック2000・モニュメント制作
2001年 東京空襲犠牲者追悼・平和モニュメント制作
2002年 第25回サンパウロ・ビエンナーレ
2003年 越後妻有アートトリエンナーレにて「創作の庭」を制作。「記憶の家/覚醒する時間」発電所美術館で個展。「未現像の記憶」ダブリンの5thギネスアートセンターで個展
2004年 作品「記憶の領域」が文化庁買上げとなる
2005年 アートドキュメント2005未現像の記憶―土屋公雄展/金津創作の森
2006年 日本のパブリックアート展/世田谷美術館
2009年 土屋公雄APT(アートプロジェクトチーム)設立
2010年 愛知県立芸術大学プロジェクトチームとして瀬戸内国際芸術祭に参加
2012年 「夢のあとに/交差する時間」福井県立美術館で個展
2015年 戦後美術クローズアップ展/東京都現代美術館
代表作
Mの記憶
東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑
鞍掛純一
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
1967年、東京に生まれる
1990年、日本大学芸術学部美術学科彫刻専攻卒業
1992年、日本大学芸術学部芸術研究所修了
代表作
大地のおくりもの
やまのうえした
コロッケハウス
脱皮する家
岡孝博
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
1970 広島県 尾道市 御調町生まれ
1996 日本大学藝術学部 美術学科 彫刻コース卒業
1998 日本大学大学院芸術学研究科 造形芸術専攻 博士前期課程修了
2011 東京藝術大学大学院 美術研究科 先端芸術表現専攻 素材と創造性 研究生修了
代表作
印刷書の鼓動
鷹尾 俊一
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
1950 熊本生まれ
1973 日本大学芸術学部彫刻科中退
1981 第16回昭和会展優秀賞
1983 神戸具象彫刻大賞展優秀賞
1984 第3回高村光太郎大賞展特別優秀賞
1989「秘めたフォルムを刻む」鷹尾俊一彫刻展(池袋西武アートフォーラム)
1994 鷹尾俊一彫刻展、日動画廊
1996 TUES鷹尾俊一展、美ヶ原光源美術館
2001 個展(トキアートスペース)
2003 個展(トキアートスペース)
2004 個展(トキアートスペース)
代表作
青年の像
横たわる像

多和 圭三
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
1952 愛媛県大三島生まれ
1978 日本大学芸術学部美術学科彫刻専攻卒業
1980 日本大学芸術学部芸術研究所修了
2009-20 多摩美術大学彫刻科教授
代表作

蠢動
正六面体
月形那比古
画家種
陶芸家
人物・来歴・経歴・その他
1923年(大正12年)新潟県糸魚川市に生まれる。当時の実家は専業農家。5人兄弟姉妹の三男。父は石刻匠、母は華道家。父が那比古5歳の時に不慮の事故で急逝。母子家庭で育てられる。旧制中学時代に当時の国鉄糸魚川駅で実家で菜園した野菜を戸板にて販売して家計を助けた。のちに長岡市の土建業の高瀬組に丁稚に入り、新潟縣立長岡工業高等學校に入学。早稲田大学建築科夜学に入学し終戦後に復学編入し日本大学芸術学部卒業。
在学中に荒川豊蔵に運命的な出会いをする。のち荒川豊蔵の作陶創作精神と美学に傾倒。新潟県立長岡工業学校卒業後、早稲田大学在学中の1941年に学徒出陣、一年早く志願して第二次世界大戦(1939年〜1945年。史上二度目の世界大戦)へ参戦。元陸軍技術将校。(最終階級は中尉)戦後復学し日本大学芸術学部卒業。志野は桃山時代に発祥、その後衰退し昭和中期に荒川豊蔵に復興再現されるまで、焼成方法など志野には不明な点が多かったが、永年の天命創作居住を美濃の岐阜県に構え、昭和30年代中頃に独自の研究を基に半地下式穴窯を築き、薪を燃料とする独自焼成方法を発見探求、志野をさらに極端なまでの長時間焼成する火陶「鬼志野」を発表し、昭和陶芸界に衝撃を与えた。また1970年代以降にはには鬼志野作品がアメリカを中心とした海外にも紹介され、国際的に鬼志野がoni-shino、devil-shino、damon-shinoと紹介され、日本国内のみならず直接的、または間接的に海外の陶芸家などにも大きな影響を与えた。
また得度及び出家し、一千日の托鉢修行から受けた禅の精神を反映させた作品群は「禅の陶芸」「禅陶」とも言われた。陶芸創作活動の他に並行して、絵画、映画、写真、建築、篆刻、書、彫刻、モダンバレーの舞台監督などにも、ジャンルを超えた多彩な創作の足跡を残したことでも知られている。主な受賞は文部大臣賞受賞。パリ芸術大賞受賞、現代文化賞など他多。美濃の陶工がパリで初めて単独個展をした先駆者として知られている。「炎の陶人」「東洋のピカソ」の異名を持つ。陶芸代表作に鬼志野、志野の他に、鬼黄瀬戸などの鬼シリーズがあり、彫刻代表作品は長野市善光寺(国宝の本堂で知られる)にある「善光寺御縁起・如来奉遷本田善光尊像」(本体高さ3メートル60センチ)など他。絵画代表作品は富士シリーズ、龍神(日大所蔵)など。書や篆刻作品には禅をテーマにした作品が多い。一貫した創作活動のテーマは「生存への畏敬」。彼のその風貌に圧倒される面があったり、マスメディアなどでイメージが先行する時もあったが、彼の長島茂雄風に良く似たしゃべり方から受ける印象は、実に人間味あふれる人物であった。2006年(平成18年)8月16日急性心筋梗塞にて急逝。享年84(満83歳没)。
月形那比古は終戦後、かねてから崇拝する荒川豊蔵に傾倒していったのだが、昭和20年代から昭和30年代前半の岐阜県の美濃の陶工は志野焼の故郷、岐阜県東濃(東美濃)でも著名な陶芸作家は荒川豊蔵を筆頭に、加藤十右衛門、初代加藤幸兵衛ぐらいしかいなく、1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピック景気前の日本の地方はまだまだ昔の佇まいを残す典型的な田舎であった。美濃における当時は個人作家というスタイルは都市部などでは個展発表で認められるスタイルとなりつつあったが、陶芸作家という言葉は一般的認知度は低かった。当然陶芸並びに創作活動だけでは食べていくことは出来にくい状況だったと思うが、日本における現代舞踊の第一人者の石井漠の一番弟子である※石井みどり芸術バレー団の舞台監督を任されることになり、創作活動の一環として、舞台監督を約5年ほど挑戦する。挑戦するも食い足りなく、求めている今の心境は満たされないと感じるようになっていったようである。若き日の月形那比古は第二次世界大戦での悲惨な体験を元に、今以上に国境のない世界で生きて行きたいと考えるようになる。彼らのためにも自分は出家し、一千日の托鉢修行を普化宗(ふけしゅう)京都明暗寺虚無僧になり、全国行脚を発願するようになる。尺八を法器とし一千日の托鉢修行を行ったのであった。簡単に言えば虚無僧として尺八を吹くことが読経することと同じと考える普化宗宗派の本山で、禅宗の一つとなる明暗寺に出会ったということと、自らの模索期と重なり、自己を見つめることになったのだろう。また秋葉山曹洞宗に帰依、火防ならびに炎を祈り拝みながら、昭和35年ごろに自分の陶工スタイルが確立しつつ、それまでにも描いた初期の抽象絵画よりも早く全国縦断展にて独自の陶芸の鬼志野を発表していくようになる。
昭和35年(1960年)から昭和39年(1964年)になると、美濃の陶芸作家は前出の荒川、加藤、初代加藤以外に月形那比古、奥磯栄麓、松山祐利らが個人作家として台頭した、特にこの三人に言えることは、荒川豊蔵についで美濃でもっとも早く半地下式穴窯を再現し、その極限とも言える焼成方法を自分のものにしたことがいえよう。昭和40年代の全国的な第一次陶芸ブームの波がおこり始まるのもこのころである。彼らは全国展開を個々にするようになって行く。月形那比古は黒田領治(初代黒田陶々庵 明治38年1905年生〜昭和62年1987年没)から陶工ならぬ、焼工と言われたりしたのもこの頃である。仮に志野の第一世代が荒川、加藤十右衛門とすると、(初代加藤幸兵衛は志野も焼成していたが、色絵など多岐にわたるジャンルの焼き物をしていた。)志野の第二世代の陶工は月形、奥磯である。(松山祐利は主に美濃にいながらも自然釉焼き〆陶芸を得意としていた)
昭和40年(1965年)から45年(1970年)には鈴木蔵、玉置保男、若尾利貞、加藤孝造らが独立、ますます美濃の陶芸界は活発になっていく。また志野再興第一世代の荒川豊蔵の、個人作家としての内弟子である吉田喜彦、中山直樹らが独立、加藤十右衛門内弟子の滝口らが独立し、志野並びに美濃陶芸の都は不動の「陶都」として一般大衆にも認知されるわけである。
昭和50年(1975年)から昭和63年(1988年)(昭和64年は1月1日から1月7日までの一週間しかない)までを後期とすると、日本の高度経済成長期とあいまって、自由に創作活動ができた時期であるといえよう。確かに月形那比古は陶芸作家であるが、洋画家という一面も持っていた人物である。定例個展タイトルである「月形那比古の全貌展」は壮大なスケールの総合芸術活動を行い陶芸、絵画、彫刻、篆刻、書など日本縦断ツアーで発表し衆目を集めた。また芸術の都フランス・パリでの全貌個展を連続2回(当初は1回の予定だったらしいが、絶賛されて2回目を開催。)やり遂げ、美濃の陶工芸術家の中で初めて前人未到の単独個展をパリにて行った。このことは後進を導く例になったのであった。この頃、月形那比古は内一番弟子となる加藤芳比古が入門し、個人作家としての責任が大きくなっていく。同時にテレビ出演や、雑誌マスコミなどの取材も増え、昭和48年(1973年)に昭和30年代からの名品集である鬼志野図鑑を発行するなど、今まで以上に独自の路線とともに、「燃ゆる炎の造形想念」を開眼することになった。
平成元年(1988年・那比古65才)から平成18年(2006年・那比古83才)を晩期及び最晩期とするならば、彼自身の芸術創作活動の一つのまとめの時期にあたると時代と言えよう。同時に現代美濃陶芸における巨匠の地位を築いた時期にあたる。日本国内における凱旋個展を成功させ、46都道府県開催の全国ツアー個展での月形那比古の創作作品「表現手段は違っても芸術はひとつ」の思想と彼独自の作品発表スタイルはジャンルを超えたファンに恵まれ、また良い環境と良いスタッフに恵まれたラッキーボーイであった。また、来る新世紀21世紀を前に時代が素直にこの作家を受け入れた時代だった。多彩なジャンルの作品はそれぞれのジャンルをクロスオーバーさせて、一つの那比古「燃ゆる想念」の世界を作り上げ「炎の陶人・心象作家(画家)」として親しまれていった。この時代の代表作品は長野市の善光寺に収蔵されている、「善光寺御縁起・如来奉遷本田善光尊像」(本体高さ3メートル60センチ)が1996年がある。土岐市の織部の日記念事業として定着した「織部の心」展に招待出品や、金沢の大樋長左衛門が中心となって盛り上がった、画期的な展覧会の国際ティーボールコレクション(国際茶碗コレクション)などに招待出品などなどした。また彫刻作品においては、初期はオブジェ風な作品が多かったのだが(月形那比古のオブジェ彫刻は非形象彫刻・ひけしょうちょうこくと呼ばれた。)、晩年は具象彫刻に移り、武将列伝シリーズや、高僧列伝シリーズなど手がけた。晩期には「炎の極限を禅」と想定した造形想念をより強調させた作品が多い。ひとえに陶芸作家というジャンルを超えたその創作活動は現在でも他の作家にも影響を与え、特に鬼志野は亜流を発生させるなど、その月形那比古の創作活動の考え方に傾倒する作家は多い。現在、彼のその足跡並びに、思想は長男の陶芸作家・洋画家として活躍している月形明比古に美濃でもすたれゆく貴重な伝統的半地下式穴窯の特殊焼成技法とともに受け継がれている。彼も「美濃における炎の魔術師」などの異名を持つ。
代表作
紫香楽花生
粉引立鼓茶碗
今野安健
画家種
陶芸家
人物・来歴・経歴・その他
1971年(昭和46年)10月12日、山形県鶴岡市家中新町に生れる。
1990年(平成2年)、高等学校を卒業する。
大学に進学し日本大学芸術学部美術学科に入学。
1994年(平成6年)、同大学を卒業する。
1995年(平成7年)、有田藤悦製陶所に勤務する。
1996年(平成8年)、中川自然坊に師事する。
2002年(平成14年)、鶴岡市に焼き窯を作り独立する。
2004年(平成16年)10月16日、季刊「陶磁郎」(双葉社)で白い器が紹介される。
2008年(平成20年)6月21日、田鶴濱守人と二人展。
代表作
唐津茶碗
井出岳水
画家種
版画家
人物・来歴・経歴・その他
荒井寛方の門人。本名は井出泰三。岳水と号す。明治32年(1899年)、山梨県船津町(現・南都留郡富士河口湖町船津)に生まれた。日本大学芸術学部を卒業後、山内多門に師事、その後、荒井寛方に学んでいる。後に美術育英協会の理事を務めている。岳水は昭和4年(1929年)には中国へ引っ越して、上海で日本画塾を開き、第二次世界大戦後までそこで暮らしていた。17年間、同地に滞在した後、昭和21年(1946年)に日本に帰国した。昭和24年(1949年)、彼は渡辺版画店の渡辺庄三郎と協力して花鳥画を制作し始めた。 彼は、大きな鶴や青鷺を描いた木版画で最も知られており、その多くはリアルで、小原古邨や他の花鳥画の画家のデザインに似ていた。 しかし、彼の「鶴」2点は、新版画の中でも特に珍しいもので力強い線形によるデザインであった。享年83。
代表作
蔦に四十雀
鶴図

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