大学別-芸術家

著名な芸術家-大学一覧

武蔵野美術大学 著名な卒業生

奈良美智
画家種
現代美術家
人物・来歴・経歴・その他
青森県弘前市で出生後、青森県立弘前高等学校卒業まで弘前市で育つ。武蔵野美術大学を1年で中退して、1981年に愛知県立芸術大学美術学部美術科油画専攻に入学し、1985年に卒業、1987年に同大学大学院修士課程を修了した。
河合塾千種校美術研究所講師を経て渡独、1988年ドイツ国立デュッセルドルフ芸術アカデミー(Kunstakademie Düsseldorf)に入学、A.R.ペンク(A. R. Penck)に師事し1993年にマイスターシュウラーを取得し、アカデミーを修了した。1994年から2000年まではケルン近郊のアトリエを拠点に作品を制作した。1998年にカリフォルニア大学ロサンゼルス校にて非常勤客員教授を村上隆と共に3か月間務める。1995年には名古屋市芸術奨励賞を受賞した。
音楽が好きで、作品制作も音楽を流しながら行う。少年ナイフ、bloodthirsty butchers、THE STAR CLUB、マシュー・スウィート、R.E.M.のCDジャケットを手がけており、ニルヴァーナのカート・コバーンを模したと思われるキャラクターやthee michelle gun elephantのCDジャケットをパロディー化した作品を描いたりしている。60~70年代の洋楽にも詳しく、マイナーレーベルのSSWやロック、またルーツミュージック(特にトラッドなどの白人ルーツミュージック)にも造詣が深い。手作りの小屋の内側を中学、高校時代に聴いていたレコードジャケットで埋めた作品もある。ミュージシャンとの交流も多くニューヨークでの展覧会オープニングにYO LA TENGOやデボラ・ハリーなどが来ている。
一人で作品制作を行ってきた奈良であるが、 「Yoshitomo Nara + graf A to Z」ではクリエイター集団「graf」と共同作業で展示会場作りからの創作活動の旅を行った。台湾、韓国、横浜へと移動したその展覧会の様子は、ドキュメンタリー映画 『NARA:奈良美智との旅の記録』(監督 坂部康二)として2007年に劇場公開され、後にDVDとして発売された。
カレーライスが好物で、2001年に漫画『おごってジャンケン隊』(現代洋子)にゲスト出演した際、当時のアトリエの近所にあるCoCo壱番屋をお薦めの店として挙げている。また、最近では松屋にもよく通っているとTwitterで述べている。
東北地方太平洋沖地震に関する活動の一つとして宮城県で開催されているARABAKI ROCK FEST.に2011年から連続して参加している。2000年にはドイツでの12年間の生活を終え帰国した。 2001年には日本における大規模な個展「I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」を横浜美術館で開始し、広島市現代美術館や吉井酒造煉瓦倉庫(弘前市)など開始国内の5ヶ所の美術館を巡った。 2005年からは土地が安いという理由で東京近郊の田園地帯に移転している。2006年度に武蔵野美術大学客員教授を務めた。2010年には米文化に貢献した外国出身者をたたえるニューヨーク国際センター賞を受賞。アジア人としてはヨー・ヨー・マに次ぐ受賞であった。2013年には芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。 2013年以降は Blum & Poe、Pace Gallery(英語版)で発表している。
代表作
Cosmic Eyes
ナイフ・ビハインド・バック
dead of night
あおもり犬
秋山祐徳太子
画家種
現代美術家
人物・来歴・経歴・その他
本名は秋山 祐徳(あきやま すけのり)で、雅号は聖徳太子をもじって付けた。
1970年代の東京都知事選挙へ出馬したことでも知られている。見世物学会理事。
1935年 東京日暮里生まれ。都立工芸高図案科(現デザイン科)に入るも空手部部活動に精を出す。
1960年 武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)彫刻科卒業。卒業後は工業デザイナーとして大手電機メーカーに勤務したのち、前衛芸術家に。
1965年 岐阜アンデパンダン展に自分自身を出品。これ以後「ダリコ」をはじめ、ポップハプニングと称するパフォーマンスを展開。
1973年 初の彫刻展を開催。以後、ブリキによる彫刻作品を次々と発表。
1986年 ビデオ・デ・パップル「俺が秋山祐徳太子だ!」(インタビュアー:加藤よしこ、VE:目黒 子、ディレクター:樋川恵一)。
1994年 池田20世紀美術館で「秋山祐徳太子の世界展」を開催。
1999年から2003年まで札幌大学文化学部客員教授。赤瀬川原平・高梨豊と「ライカ同盟」で活動していた。
2020年 老衰のため神奈川県座間市の病院で死去。85歳没。
代表作
ダリコ
O男爵
X男爵
ダイヤの皇帝
三角男
中山ダイスケ
画家種
現代美術家
人物・来歴・経歴・その他
1968年(昭和43年)、香川県丸亀市に生まれる。1988年(昭和63年)から武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科に学ぶが、1990年に中退した。その後は演出家・飴屋法水に師事したのち、現代美術作家として独立した。
1990年代中期には須田悦弘、中村哲也、小金沢健人、坂東慶一らと若手美術作家のグループ『スタジオ食堂』を結成し、様々なイベントやプレゼンテーションを行った。1997年から活動拠点をアメリカ合衆国に移し、翌1998年にはニューヨーク市のギャラリー 「ダイチ・プロジェクツ」において、日本国外における初めての個展を開いた。
美術作家として個展やグループ展を行いながら、ファッショショーの演出、舞台美術、店舗や商品のコンセプトメークなどを手がけ、講演やワークショップ活動も積極的に行っている。私生活では2002年(平成14年)12月に、女優の鶴田真由と結婚しており、スポーツ全般、特にサッカーのファンでもある。
代表作
Pop Surrealism
Delicate-54
吉村益信
画家種
現代美術家
人物・来歴・経歴・その他
高校時代は、地元大分の画材店キムラヤの美術サークル「新世紀群」で活動した。ここには、同郷の磯崎新、赤瀬川原平、風倉匠らが集っていた。1951年(昭和26年)、武蔵野美術学校油絵科(現・武蔵野美術大学)に入学。1955年(昭和30年)、卒業後、読売アンデパンダン展に出品を始めた。1957年(昭和32年)、父の遺産を元に新宿区百人町に小さな土地を購入。磯崎新に設計を依頼し、住居兼アトリエを建築した。この家は、その白いモルタルの壁から「新宿ホワイトハウス」と呼ばれた(のちにネオ・ダダの拠点となる)。1960年、第4回シェル美術賞展に油彩によるマチエールを強調した作品を出品し、三席を受賞した。
1960年(昭和35年)3月、第12回読売アンデパンダン展初日の晩、「新世紀群」の後輩の赤瀬川原平、風倉匠、そして 篠原有司男らとともに「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」を結成した。メンバーは他に荒川修作、石橋別人、豊島壮六、上田純らがいた。1960年(昭和35年)4月、東京の銀座画廊で第一回ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ展を開催。篠原有司男がマニフェストを起草した。このとき篠原は画廊の中空に300個のゴム風船を群がらせ、吉村は展覧会ポスターを全身にミイラのようにぐるぐる巻いて銀座の路頭にさまよい出た。この街頭パフォーマンスは当時大きな話題となった。 1960年(昭和35年)7月、吉村のアトリエ「新宿ホワイトハウス」で開かれた第二回展では、単に「ネオ・ダダ」と自称し、岸本清子、田辺三太郎、田中信太郎、吉野辰海がメンバーに加わった。同年9月、鎌倉材木座海岸で「ビーチ・ショー」を開催。同月、東京の日比谷公園内にある日比谷画廊の屋内外で第三回展ネオ・ダダ展を開催。美術作品らしいものはいっさいなかったが、グループは展覧会の有無にかかわらず連日マスコミの取材を受け、群がるカメラ陣を前にアナーキーな破壊的パフォーマンスを行った。
1961年(昭和36年)3月、第13回読売アンデパンダン展では、ウィスキーの壜を多量に使った廃品芸術の作品「殺打駄氏の応接室」、石膏のレリーフ「サダダの塔」を発表、また、新宿ホワイトハウスにおいて、石膏細工の棺桶をつくり、自らなかに横たわり屍体となるハプニングを繰り返した。
しかし、吉村は津田信敏舞踊研究所(後のアスベスト館)の女性と突如結婚し、ネオ・ダダグループは「蒸発」してしまったという。
1962年(昭和37年)、吉村はホワイトハウスを売却、渡米。1966年(昭和41年)まで、ニューヨークに滞在した。その間、石膏によるオブジェシリーズを制作し、1962年、1963年のゴードンス画廊グループ展、1964年、1965年のカスティラン画廊グループ展、1965年のクライスラー美術館「ニュー・アイ」展、巡回展「日本の新しい絵画と彫刻」展などに出品。また同1965年国立近代美術館で開かれた「在外日本作家展」にはシュルレアリスム風のオブジェ「月時計」、「硬貨」を出品した。1966年(昭和41年)、ビザのトラブルで帰国した。
1966年帰国後、ネオン管などを使ったライト・アートを制作。1967年、東京画廊で開いた個展「トランスペアレンツ・セレモニー」ではアクリルのケースに入ったネオン作品を展示、またこの傾向の作品「32 Neon clouds in Perspective」を同年の第9回日本国際美術展に出品した。1968年、第8回現代日本美術展に、環状の金属の帯の周りを光が走る「反物質 ライト・オン・メビウス」を出品し、コンクール優秀賞を受賞。1969年、第9回現代日本美術展には砂と電球による「200W」を出品。1970年(昭和45年)、日本万国博覧会では、多数の施設のプロデュース、ディスプレーを手掛けた。1971年(昭和46年)、豚の剥製を使ったオブジェ「豚=ピッグ・リブ」を第10回現代日本美術展に出品。1972年(昭和47年)、輪切りにされた巨大な象のレプリカを使った個展、「群盲撫象展」をサトウ画廊で開いた。1970年代後半にはアーティスト・ユニオンの事務局長を務め、アーティストの社会的自立に貢献した。常に人々の先頭に立ってリーダーシップを発揮し、既成の枠にとらわれない自由な活動を展開した。実験精神にあふれ、変容を続けた作家であった。
2011年3月15日、多臓器不全のため死去。享年78。
代表作
殺打駄氏の塔<幽閉されたハレム
HOW TO FLY O
HOW TO FLY Three steps
HOW TO FLY 1
線遠近法風景
ARRESTED IN THE MIRRORS 1
時間の遠近法 勝負なしの関係
月時計
硬貨
荒川修作
画家種
現代美術家
人物・来歴・経歴・その他
1936年、名古屋市に生まれる。生家はうどん屋。愛知県立旭丘高等学校美術科卒業。武蔵野美術学校中退。1958年、読売アンデパンダン展に初出品。1961年、渡米し、以後ニューヨークに定住。渡米後、マドリン・ギンズ(Madeline Gins、1941年 - 2014年)と知り合い1962年頃から共同制作を始める。1970年、ヴェネツィア・ビエンナーレで代表作となる『意味のメカニズム』を発表。1972年、同作のドイツでの巡回展示を見た物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクから賞賛され、ギンズとともにマックス・プランク研究所に招待をうける。また同年、ミュンヘンオリンピックのポスターをデザインした。
1982年、紺綬褒章受章、1986年、フランス文芸シュヴァリエ勲章受章、2003年、紫綬褒章受章など内外でその活躍が認められている。1997年、グッゲンハイム美術館で日本人としては初の個展を開催している。
初期には棺桶に入ったオブジェのような奇怪な作品を作っていたが渡米してからは画面に図形、文字、矢印などを描き込んだ「図形絵画」と呼ばれる一連の作品を制作する。「意味のメカニズム」においては書込まれた言葉と図像や貼付けられた既製品の物体などによって鑑賞者に身体と認識における試行や行動を促すに至るまでその「図形絵画」を発展させ、従来の「美術作品」の位置を逸脱し見る側が作られる場所の制作へ向かう。ギンズとの共同制作は書籍の著作でも並行され、「死なないために」(リブロポート)他、多数が複数の言語で出版されている。
近年は特に、人間の自律的な行動の環境に直接的に影響を与える建物や庭園のようなものを建築する活動が目立った。1994年、奈義町現代美術館(岡山県)に 磯崎新とのコラボレーションによる「遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体」を製作。1995年、岐阜県にテーマパーク「養老天命反転地」を建設。公園の特殊な構造から入園者に怪我人が相次いだが荒川は「案外少ないな」と平然としていた。2005年、養老のような空間で日常生活を営めるようにと東京都三鷹市に「三鷹天命反転住宅~In Memory of Helen Keller~」を建造・販売。2008年、ニューヨーク、イースト・ハンプトンに「バイオスクリーブ・ハウス」を完成。様々な建築さらには都市規模の変革プロジェクトを提示した。通常の美術家・芸術家の概念では捉え切ることができなくなった自身の活動領域を「コーデノロジスト」と称した。
世界の著名な哲学者や分子生物学者に注目され2005年にはパリ第10大学で、2008年にはペンシルベニア大学で荒川修作+マドリン・ギンズをめぐる国際カンファレンスが開催。国内の諸々の講演会等においては宮崎駿、養老孟司、茂木健一郎、利根川進他、多くの分野の人々との場において芸術・科学・哲学などにわたる自身の深遠な知見に基づき際立って独特な印象を残す言い回しで語りかけた。近年ではテレビ・雑誌・webなどのメディアへの登場も少なくなく、出身小学校で授業を行うNHKの教育番組『課外授業 ようこそ先輩』に出演した際は、本人の記憶違いから出身校の名古屋市立御劔小学校ではなく同市立瑞穂小学校で収録が行われたが、局を批判する声にも「非難する方がおかしい。私は自分の名前もよく忘れる」と意に介さなかった。

2010年5月19日、ニューヨーク市内の病院にて死去。73歳没。また、2014年1月8日、妻のマドリン・ギンズが死去。
代表作
ダイヤグラム(図式)
意味のメカニズム
養老天命反転地
柳幸典
画家種
現代美術家
人物・来歴・経歴・その他
1959年 福岡県生まれ
1985年 武蔵野美術大学大学院造形研究科終了
1986年 栃木県立美術館アート・ドキュメント優秀賞
1990年 イエール大学大学院美術学部彫刻科修了(アメリカ)
アジアン・カルチュラル・カウンシル、日米芸術交流プログラム招待(PS1ミュージアム、インターナショナル・スタジオ・プログラム)
第45回ベニスビエンナーレ、アペルト部門受賞
1995年 第6回五島記念文化財団 美術新人賞
2005-2015年 広島市立大学芸術学部准教授
1986年から蟻を使った作品、フンコロガシのように土の玉を転がす作品など、美術のシステムの外で〈移動〉を切り口に発表を開始。北川フラムに見いだされ代官山のヒルサイドギャラリーをメインに煙によるパフォーマンス『I Feel Yellow』などを発表。 栃木県立美術館でのアート・ドキュメントでは優秀賞を受賞する。
1988年、イエール大学スクール・オブ・アート・アンド・アーキテクチャー大学院彫刻科に奨学金を得て渡米、ビト・アコンチ(英語版) 、フランク・ゲーリー等に師事する。修了制作で制作した『ワンダリング・ミッキー』(1990)が優秀賞となる。大学院修了後の1990年にニューヨークのストアフロント・フォー・アート・アンド・アーキテクチャー、1991年にはロサンゼルスのLACE(ロサンゼルス・コンテンポラリー・エキシビジョンズ)で個展。この際、砂絵の万国旗を蟻が壊して行く作品『ザ・ワールドフラッグ・アント・ファーム』(1990)を発表し、アメリカの代表的美術雑誌の一つであるArt in America(英語版)の表紙になる。以降、ニューヨークにスタジオを構え国際的な活動を始める。
1993年、第45回ベニス・ビエンナーレのアペルト部門にて『ザ・ワールドフラッグ・アント・ファーム』が受賞。1996年には、サンフランシスコ湾に浮かぶ元連邦刑務所アルカトラズ島でのアートプロジェクトを実現。
湾岸戦争直前に行ったニューヨークのストアフロント・フォー・アート・アンド・アーキテクチャーでの個展「Hi-no-maru 1/36」、そしてヒルサイドギャラリーでタミヤのプラモデルの戦車を使った『セルフ・ディフェンス』(1990)、細見画廊でのウルトラマンとウルトラセブンのフィギュアを大量に並べた『バンザイ・コーナー』(1991)を発表、日本のポップ・アイコンを使用したこの『ヒノマル・シリーズ』は、日本の社会、政治、経済を分析し国家や民族のイデオロギーの問題を捉えた作品として注目を集め、村上隆や中村政人など同世代の作家に大きな影響を与える。
1992年より、Asian Cultural Councilの助成を得てPS1スタジオプログラムに招待される。同年、フジテレビ・ギャラリーで行った個展で巨大なネオンの日本国旗『ヒノマル・イルミネーション』を発表し、1992年に開館したばかりの直島コンテンポラリー・アート・ミュージアム(現在のベネッセアートサイト直島のベネッセハウス)での個展に招待される。この直島での滞在の際に瀬戸内海の離島でのライフワークを思い立ち、3年の島探しの末に明治時代の銅の精錬所廃墟がある岡山市犬島に出会い『犬島プロジェクト』を構想。ニューヨークと犬島を行き来するようになる。
1995年に犬島の精錬所遺構をアートと自然エネルギーで再生し島全体が芸術となる柳の構想による計画『犬島プロジェクト』を、株式会社ベネッセコーポレーション代表取締役社長(当時)の福武總一郎が支持し、プロジェクトの実現に動き出す。2008年、三島由紀夫が住んだ家と近代化産業遺産が一体となった犬島アートプロジェクト『精錬所』(当時)現在の『精錬所美術館』が公開。13年の歳月を要したプロジェクトとなった。後の離島を舞台とした瀬戸内国際芸術祭の先駆けとなる。
2000年のホイットニー・バイアニュアル(英語版)にニューヨーク在住の外国人アーティストとして初めて蔡國強と共に選出され、ジャスパー・ジョーンズの『Three Flags』をモチーフとした『スタディー・フォー・アメリカンアート』シリーズを発表。
同年の広島市現代美術館で初の回顧展の後、9.11のアメリカ同時多発テロ事件直前にニューヨークとサンフランシスコのスタジオを引き上げて福岡県糸島市の玄海灘に面した山の北斜面に自ら設計したスタジオを構える。後にこの太陽エネルギーを利用した設計思想が犬島のプロジェクトにも引き継がれる。
日本帰国後、2005年より広島市立大学芸術学部准教授(2015年辞職)として現代表現領域を立ち上げ、広島市内にある被曝遊休施設のアートによる有効利用を目的とした広島アートプロジェクトを立ち上げる。
2010年の第1回瀬戸内国際芸術祭での犬島『家プロジェクト』では、建築家の妹島和世とのコラボレーションで柳の作品が犬島集落の三カ所のサイトに展示された。
犬島でのプロジェクトの完成後、現在は広島県尾道市の離島「百島」の廃校となった旧中学校を拠点に、2012年『ART BASE 百島』を立ち上げ、尾道水道をフィールドに活動している。
2016年に横浜のBankART1929の全館を使って30年の作家活動を回顧する大掛かりな個展を開催。福島第一原子力発電所事故を取材した新作『Project God-zilla』を発表し、毎日新聞と読売新聞で年間ベスト展覧会に選ばれる。
代表作
ザ・ワールドフラッグ・アント・ファーム
ワンダリング・ミッキー
バンザイ・コーナー
ヒノマル・イルミネーション
山口啓介
画家種
現代美術家
人物・来歴・経歴・その他
1962年西宮市に生まれる。祖父は兵庫の寺(浄土宗)の住職で、祖父亡きあと父が住職をつとめる。当時サラリーマンだった父の転勤で大阪府枚方市、福岡県福岡市、東京都世田谷区と転居をくりかえす。実弟はアートディレクターの山口アツシ。大学時代から東京都福生市の米軍ハウスに居住し制作。大学では油絵を描いていたが授業で銅版画を経験したことがきっかけで制作をはじめる。卒業後、同大学の研究室に入る。この頃に山口自身が恩人と語る池田満寿夫と出会い、満陽工房で銅版画制作の手伝いをしながら自身の作品をつくる機会を得る-《水船のためのsketch-満陽工房で》(1989年)。1989年からの2年間で集中的に大型銅版画にとりくむ。1990年ヒルサイドギャラリー(東京)で初個展。1992年、Asian Cultural Councilの助成によりニューヨーク滞在、同年文化庁芸術家在外研修員としてフィラデルフィア(ペンシルベニア大学)に派遣。このとき大型組み合わせ銅版画の中で最も大きい作品となる《エノラ・ゲイ》の制作にとりかかる。1994年《エノラ・ゲイ》を含む銅製の船の立体作品などと組み合わされたインスタレーション《Calder Hall Ship Project》を発表。1995年に大阪トリエンナーレ1994の関西ドイツ文化センター・デュッセルドルフ市特別賞により渡独。ドイツ、デュッセルドルフ市から提供されたアトリエで《原子力発電所》《象の檻》《世界地図》の3つのシリーズからなるドローイングを制作する。その後、引き続きアトリエ・ヒューアベックの助成を受けデュッセルドルフに滞在。1997年に帰国後、キャンバス絵画《コロニー》シリーズと、カセットプラントを発表。1998年以降、カセットプラントによるワークショップなど活動を広げる。2001年ごろ、ゲーテの原植物の概念や、三木成夫の考えに触発され、植物と人間のアナロジー的絵画作品《花の心臓》シリーズを制作、発表。2005年、イラクの劣化ウラン弾に被曝した子供を描いた《DU Child》を、初めての木版で制作。2011年3月11日以降、《震災後ノート》を付けはじめる。2013年、瀬戸内国際芸術祭2013で男木島に歩く方舟を制作。同年いわき市立美術館でhakobune プロジェクトを開催。2001年から、東京と兵庫に在住、制作。
代表作
王の墓 
千の高原 
水路-王の方舟 
胞子を蒔く船 
炭素の船 
4つの黒船 
繭の記憶 
RNA World-5つの空5つの海 
プルトニウムの輸送 
Calder Hall Ship - ENOLA GAY
石田徹也
画家種
現代美術家
人物・来歴・経歴・その他
静岡県焼津市出身。父親は元焼津市議会議員。4人兄弟の末子。3人の兄は、長男が一級建築士、次男が銀行員、三男が服飾デザイナーである。
焼津市立小川小学校、焼津市立小川中学校、静岡県立焼津中央高等学校を経て、1996年、武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒業。元々高校は美術系を希望していたが、親からの強い要望で普通高校に入る。本人は苦痛を感じていたという。大学時代の友人に映画監督の平林勇がおり、共同で作品を製作していた。就職活動中に一社だけデザイン会社に行ったが、採用されず、画家として活動する。
蒸気機関車やビニール袋、便器などといった日常生活で使用するものと一体化した青年を題材とすることが多い。題材としている青年はほとんどが同じような顔をしており、作家本人と似ているが本人は否定している。後期作品ではメッセージ性を抑制し、より抽象的な作風になっていくが、これにはテーマは押し付けるものではなく、観た人がそれぞれ好きに感じてくれればいいという意図がある。
2005年5月、踏切事故で死去。31歳没。
死後、2006年11月にクリスティーズが香港で開催したオークション『アジアの現代美術』に Lot. 496 として出品された『無題』(2001年)は、78万香港ドル(約1200万円)で落札された。 2012年5月に開催されたユナイテッドアジアンオークションに出品された「囚人」(Prisoner 1999)は予定落札価格の3倍以上の819,800USD(約9,230万円)にて落札された。
2009年、紺綬褒章を授与され、遺族が受け取る。
2019年にスペイン・マドリードの国立美術館で開催された個展が31万人を超える入場者を集める。
代表作
みのむしの睡眠
SLになった人
飛べなくなった人
健康器具
回収
捜索
前線
大竹伸朗
画家種
現代美術家
人物・来歴・経歴・その他
1955年10月8日、東京都目黒区に生まれる。1957年、大田区南六郷に転居。六郷水門、多摩川、巨人軍練習場、江崎グリコ工場などが、当時の思い出とともに東京の原風景となる。物心ついた頃には身近にテレビがあり、昭和30年代に吹き替えで放映されていた「名犬ラッシー」、「うちのママは世界一」、「ポパイ」、「ブロンコ・シャイアン」、「とつげき!マッキーバー」等のアメリカのテレビ番組を好んで視聴し、大きな影響を受ける。
1962年、大田区立六郷小学校入学。この頃、漫画家になることを決意。第1作目は野球漫画「がんばれ!三ちゃん」。8歳年上の兄とともにレコード店に通い、アメリカン・ポップスや和製ポップス、民族音楽風の民謡などを聴き、音楽に興味をおぼえる。1964年、練馬区立谷原小学校に3年生の二学期に転入。担任を洋画家篠原昭登が受け持つ。その頃、『少年マガジン』に連載されていた漫画『紫電改のタカ』のカラー図版を用いて、初めてのコラージュ作品《「黒い」「紫電改」》を制作。1965年、練馬区谷原に転居。隣駅の西武池袋線富士見台駅近郊にあった虫プロダクションに絵を持って通い、スタッフから絵の指導を受けたりセル画を貰う。兄の影響でビートルズを知る。
1968年、練馬区立石神井東中学校入学。サッカー部に入る。兄を通じて海外のサウンドトラック・レコードやファッション、アート系の雑誌に影響を受ける。東京国立博物館の展覧会「レンブラント名作展」で油絵に興味を持ち、岡鹿之助の『油絵のマティエール』をテキストにして独学で油絵を始める。
1971年、東京都立大泉高等学校入学。サッカー部に入る。近所の絵画教室に週1回程度通う。兄に頼まれて購入した『現代の美術4 ポップ人間登場』(講談社)でアンディ・ウォーホル、デイヴィッド・ホックニー、ロナルド・B・キタイ(英語版)、アレン・ジョーンズ(英語版)、エドゥアルド・パオロッツィ、リチャード・ハミルトン、フランシス・ベーコンらの作品を知り、画家という存在に初めて強いリアリティを抱く。
1974年、東京芸術大学美術学部絵画科(油画)を受験し不合格となる。4月、武蔵野美術大学造形学部油絵学科に補欠入学。4月21日に同大学を休学して北海道別海町のウルリー牧場へ行き、同牧場で「無給、無休、住み込み」という条件で働く。年末、漠然と海外行きを決意する。1975年、1月から3月にかけて北海道内を撮影、スケッチして歩く。4月、東京に戻り、大学に復学。ボブ・ディランをモデルに、初めての立体作品《男》を制作。
1977年5月、大学を休学して渡英。ロンドンに滞在し、スケッチや写真撮影をする。6月、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートの卒業展でラッセル・ミルズ(英語版)の作品に出会う。8月、英国のポートベロー(英語版)の蚤の市で、マッチのラベルを貼り込んだノートブックと大量のマッチラベルを購入し、このラベルでコラージュ・ブックの制作を始める。11月、ラッセル・ミルズに面会し交際が始まる。12月、デイヴィッド・ホックニーに面会、翌年4月まで絵を見てもらうようになる。
1978年5月、帰国して大学に復学。リトグラフ、オフセットなど、印刷印画紙やフィルムによる作品に興味を持つ。ノイズ・ユニット「JUKE/19.」の始まりとなる音楽活動を、中学時代の後輩と開始。ブライアン・イーノのプロデュースにより同年に発売されたコンピレーション・アルバム『NO NEW YORK』に参加したバンドの殆どすべてから影響を受ける。
1979年9月、初めての香港旅行。10月、第4回ロットリング・イラストコンテストで最優秀賞を受賞。11月、作品を見てもらった黒田征太郎から紹介された『野性時代』のカットの仕事で、自身の名前が初めて活字となった。同月、池袋にオープンした「スタジオ200」のオープン記念ポスター装画に作品が採用される。これが最初のポスターの仕事となる。
1980年3月、武蔵野美術大学油絵学科を卒業。4月から8月までロンドンに滞在。6月、ノートルダム・ホール(英語版)にて、ブルース・ギルバート(英語版)、グラハム・ルイス(英語版)、ラッセル・ミルズ、大竹の4人でサウンド・パフォーマンスを行う。8月から10月にかけてパリと香港にも滞在。10月、「JUKE/19.」を結成。スタジオ録音、ライブ活動を始める。12月、1枚目のアルバム『JUKE/19.』を発売。
1981年、JUKE/19.としてシングル盤1枚とアルバム2枚を発表。JUKE/19.のライブも行う。
1982年、最初の印刷本となる「PSYCHEDELIC MAGAZINE LTD. vol.1 Presentation Issue」を刊行。9月、4枚目のアルバムを発表後にJUKE/19.は自然消滅。12月、初個展「大竹伸朗 個展」(ギャルリーワタリ、東京)。
1983年、ニューヨーク、香港、ロンドン、ナイロビなどに滞在。作品はカンヴァス下地に印刷物や紙を貼り込む手法が以前より更に強まる。
1984年3月、個展「大竹伸朗1983-1984」(ギャルリーワタリ、東京)。5月から9月にかけて京都を複数回訪れる。京都的な風景に愛憎入り混じる感覚を覚え、初めて「日本景」について考える機会になる。
1985年2月、個展「大竹伸朗 ペインティング/コラージュ」(コンコース・ギャラリー、ICA、ロンドン)。5月、個展「大竹伸朗 放浪する言語」(ジェノヴァ)。6月、ラッセル・ミルズとユニット「オンリー・コネクト」を結成、パフォーマンスを行う。
1986年、初の画集『《倫敦/香港》一九八〇』を用美社から出版。同書の豪華版が、同年の造本装幀コンクールで日本書籍出版協会理事長賞(豪華本部門)を受賞。1月と9月に個展「《倫敦/香港》一九八〇」(みゆき画廊およびヒルサイド・ギャラリー、東京)。3月、結婚。
1987年1月、個展「《倫敦/香港》一九八〇 PART Ⅱ」(みゆき画廊、東京)。5月、個展「《倫敦/香港》一九八〇」(ギャルリー・ダン、大阪)。7月、作品集『《倫敦/香港》一九八〇』の豪華版が、ADC最高賞を受賞。10月、個展「大竹伸朗展 E.Z.M.D. & ETCHINGS」(ギャルリー・ダン、大阪)。11月、個展「大竹伸朗展 1984-1987」(佐賀町エキジビット・スペース、東京)。
1988年1月、愛媛県宇和島市の造船所から廃船を譲り受けることになり、妻の実家が所有している倉庫をアトリエとして使うことになる。妻の実家に間借りして宇和島での制作を始める。夏までに、東京・石神井のアトリエを引き払う。9月、個展「キャンヴァシズム 夢と細胞 大竹伸朗新作展」(西武アート・フォーラム、東京)。第23回造本装幀コンクール、全日本製本工業組合連合会会長賞(豪華本部門第1位)受賞。ライプチヒ造本コンクール銅賞受賞。
1989年、「CANVASISM展」のカタログが、ニューヨークのADC第3回国際展で優秀賞を受賞。1月から3月、米国に滞在して作品を制作。11月、個展「大竹伸朗\America」(西武アール・ヴィヴィアン、東京)。
1990年4月、個展「大竹伸朗 Recent Works 1988-1990」(ギャルリーところ、東京)。個展「テンポラリー・ミュージアム第二期 大竹伸朗 Shipyard Works 1990」(寺田倉庫 Space T33、東京)。10月、武満徹と初めて会う。都築響一と共同で、版元「UCA」を設立。
1991年9月、個展「大竹伸朗の仕事 ECHOES 71-91」(ギャラリーところ、東京)。個展「大竹伸朗の仕事 ECHOES 55-91」(西武アート・フォーラム、東京)。個展「大竹伸朗の仕事 ECHOES 89+91」(ザ・コンテンポラリー・アートギャラリー、東京)。10月、個展「大竹伸朗の仕事 ECHOES 55-91」(なんばCITY・シティホール、大阪)
1992年、個展「大竹伸朗 1991-1992」(ギャラリーところ、NICAF92、横浜)。
1993年6月から7月、個展「〈ジャリおじさん〉〈東京サンショーウオ〉原画展」(東京アート・フォーラム/ザ・コンテンポラリー・アートギャラリー、東京)。7月、求龍堂『カスバの男』制作のため、都築響一とモロッコへ旅行。12月、個展「大竹伸朗 網膜」(ギャルリーところ、東京)。
1994年8月、個展「大竹伸朗の新作版画展 カスバの男 モロッコ日記」(西武アートフォーラム、東京)。9月、絵本『ジャリおじさん』が第43回小学館絵画賞を受賞。
1995年3月、個展「大竹伸朗 網膜」(高島屋コンテンポラリー・アートスペース、東京)。4月、個展「大竹伸朗展 X+Y=LOVE」(ストアデイズ、東京)。5月、ボアダムスの山塚アイと出会い、ユニット「パズル・パンクス」を結成する。8月から10月、米国アトランタに滞在しアーティスト・ブックを制作。9月から10月、「'95ブラティスラヴァ世界絵本原画ビエンナーレ」で絵本『ジャリおじさん』が金牌を受賞。10月、雑誌『頓智』に初の小説連載「覗岩テクノ」を寄稿。パズルパンクスとして小冊子付きCDブック『パイプライン ヤマンタカ日記』を刊行。
1996年11月、ヤマタカ・アイとの初のサウンド・パフォーマンス「パズルパンクス」ライブを行う(ラフォーレミュージアム原宿、東京)。このパフォーマンスのために、遠隔操作による自動演奏エレキギター(後の《ダブ平》)を制作。
1997年、宇和島駅で約一年前まで使用され駅舎改築で廃品となったネオンサインを譲り受ける。5月、個展「大竹伸朗 イン・プリント」(ナディッフ・ギャラリー、東京)。10月、個展「大竹伸朗 プリンティング/ペインティング」(CCGA現代グラフィックアートセンター、福島)。
1998年、個展「新津 あいまいで私が日本 大竹伸朗展」(新津市美術館、新潟)。4月、個展「大竹伸朗展」(コモンズ・ギャラリー、ハワイ大学マノア校美術学部、ホノルル)。4月、「都築響一 大竹伸朗 青山秘法館」(ナディッフ・ギャラリー、東京)。7月、個展「ネガな夜 大竹伸朗展」(西武アートフォーラム、東京)。
1999年2月、「時代の体温 ART/Domestic」に出品、遠隔操作による自動演奏バンド《ダブ平&ニューシャネル》とEYE(パズルパンクス)によるライブを行う。5月、個展「ZYAPANORAMA 大竹伸朗展」(パルコ・ギャラリー、東京)。夏頃、新潟のパチンコ店で廃品になった「自由の女神」像を下取りする。7月、個展「『既にそこにあるもの』を読むために 大竹伸朗と創作させるモノたち」(青山ブックセンター本店、東京)。
2000年2月、個展「大竹伸朗展 既景」(セゾンアートプログラムギャラリー、東京)。3月、札幌市生涯学習総合センター内の劇場緞帳が完成。6月、個展「大竹伸朗展」(ベイス・ギャラリー、東京)。8月、個展「ダブ景 大竹伸朗展」(KPOキリンプラザ大阪)。10月、個展「10・08 武満徹『SONGS』+大竹伸朗」展(ナディッフ・ギャラリー、東京)。
2001年4月、個展「大竹伸朗デジタルワークス「鼠景」」(エプサイト、東京)。9月、「THE STANDARD スタンダード」(直島コンテンポラリーアートミュージアム、香川)に参加し《落合商店》を発表。12月、『武満徹 SONGS』でADC賞を受賞。
2002年4月、個展「Man is basically good. 大竹伸朗展」(ベネッセハウス直島コンテンポラリーアートミュージアム、香川)。5月、個展「BLDG. 大竹伸朗新作展」(ベイスギャラリー、東京)
2004年6月、個展「大竹伸朗展『UK77』 写真、絵、貼 1977-1978年」(ベイスギャラリー、東京)。
2005年6月、個展「ON PAPER 大竹伸朗展」(ベイスギャラリー、東京)。
2006年9月、個展「旅景―TABI-KEI―」(ベイスギャラリー、東京)。10月、個展「大竹伸朗 全景 1955-2006」(東京都現代美術館)。個展「大竹伸朗と別海」(ウルリー牧場、北海道)。香川県直島の家プロジェクトの「はいしゃ」に作品「舌上夢/ボッコン覗」を発表。
2007年、個展「大竹伸朗と別海 2007年」(ウルリー牧場、北海道)。個展「大竹伸朗 路上のニュー宇宙」(福岡市美術館、広島市現代美術館)。
2008年、個展「貼/Shell & Occupy」、個展「貼貼/Shell & Occupy 2」、個展「貼貼貼/Shell & Occupyスペース3」(Take Ninagawa、東京)。
2009年、香川県直島で、銭湯「I♥湯(アイラブゆ)」をオープン。また、第2回「(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞」を受賞。個展「貼貼貼貼/Shell & Occupy 4」(Take Ninagawa、東京)。
2010年、個展「#65」、個展「#65 | 2005 - 2010」(Take Ninagawa、東京)。
2011年、個展「大竹伸朗展」(佐賀町アーカイブ、東京)。
2012年、ドイツのカッセルで5年に一度開催される第13回ドクメンタに参加。個展「大竹伸朗」(アートソンジェ・センター、ソウル)。
2013年、個展「’00-’12」(Take Ninagawa、東京)。個展「大竹伸朗: 憶速」(高松市美術館、香川)。個展「大竹伸朗展: ニューニュー」(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、香川)。個展「焼憶展」(INAXライブミュージアム 世界のタイル博物館、愛知)。
2014年、「大竹伸朗展 ニューニュー」ほかの成果により、平成25年度(第64回)芸術選奨文部科学大臣賞美術部門受賞。個展「大竹伸朗」(パラソルユニット現代美術財団、ロンドン)。個展 「既憶景」(宮浦ギャラリー六区、香川・直島)。
2016年、個展「Shinro Ohtake: Solo Exhibition」(シンガポール・タイラー・プリント・インスティチュート (STPI),シンガポール)、個展「時憶」(Take Ninagawa、東京)、個展「SHOW-CASE project No. 3」(慶應義塾大学 三田キャンパス、東京)。
2019年、宇和島市学習交流センター「パフィオうわじま」内ホールの緞帳が完成。同年4月6日オープンと共にお披露目される。
代表作
直島銭湯「I♥湯」
モンシェリー:スクラップ小屋としての自画像
女根/めこん
スクラップブック
杉田陽平
画家種
現代美術家
人物・来歴・経歴・その他
三重県津市生まれ。三重県立飯野高等学校応用デザイン科卒業後、武蔵野美術大学造形学部油絵科在学中に革新的な絵画を次々に考案し、様々な絵画コンクールで受賞を重ね本格的にプロの画家活動に専念していく。今や個展を開けば即完売という、作品が入手困難な芸術家のひとりであり、多くの画家達に影響力がある。
石原慎太郎などの著名人も作品を高く評価している。若手作家ながらも完売作家の異名をとる。
Amazonプライム・ビデオの婚活サバイバル番組『バチェラー・ジャパン』の男女逆転版として、2020年夏より配信される『バチェロレッテ・ジャパン シーズン1』の男性参加者17名のうちの1人に選ばれた。
2020年10月からYouTubeチャンネル『杉ちゃんのカラフル日記』を開設。
絵の具の皮をまとったキャンパス、歯科技工士の使う溶剤での立体成型など、意表をつく。決まった型を持たないのがモットー。その反面、並々ならぬ美術の知識と美術史への鋭い感性を持つ。
画材の持つ可能性を最大限に活用した表現で、抽象画や具象画など幅広く野心的な作品を作り出すことが特徴。
例えばパレットの上に盛った絵の具は無造作に置かれているが、それをパレットから剥がして作品として作り上げるなど。今までの発想では出来なかったような画材の可能性に発展。固形化させた絵の具でさえも画材として使うこともある。そうすることで、具象として作る作品が、抽象的にも見える錯覚を呼び起こし、抽象と具象が共存しているかのように映る。
展示されるギャラリー空間や環境によって多種多様に作風を変化させるのが大きな特徴であるが、一貫して絵画の本質そのものを問う。
初期の頃は、アクリル絵具の皮をコラージュして制作する風景画やポートレートを描いていたが、近年は「未知なる絵画をつくる」をテーマに、鑑賞者の既成概念を揺り動かす大胆で独特のフォルムの抽象画作品などを制作している。
代表作
秘する花に包まれし家
炎上し、儚き想い出を照らす涙の船
舘井啓明
画家種
現代美術家
人物・来歴・経歴・その他
1937年 韓国京城府(現・ソウル特別市)に生まれる
1944年 両親の出身地である福島県伊達町に移住
1956年 福島県立福島高等学校卒業
1961年 武蔵野美術大学油絵科卒業、福島青美会参加
1961年 西川産業株式会社デザイン部入社、福島市内中合デパートにおいて個展開催、アンデパンダン展出展
1971年 西川産業株式会社退社、渡仏。以後画業に専念、渡仏中にサロン・ドートンヌ展等に出品
1974年 帰国、赤光社会員、帰国後も急逝するまで、ヨーロッパ、北米、南米、インドなど精力的にスケッチ旅行を行う
1976年 北海道、福島県、東京都等において急逝するまで毎年個展を開催
1978年 福島全逓会館に油絵壁画「祭典」を制作
1982年 北海道のアトリエが全焼。自己の作品や収集した絵画など600点以上が焼失
1995年 福島県福島市のアトリエにおいて脳内出血のため急逝
1995年 後援会により1998年まで遺作展が毎年開催される
1998年 後援会により舘井啓明作品集が発行される
1999年 北海道七飯町に舘井啓明記念アトリエ館が開館
2010年 伊達市梁川美術館において舘井啓明展が開催される
2011年 アメリカニューヨークにおいて遺作展「ラスト・サムライ」が開催される
代表作
男の顔
ポートレイト
踊り子ジプシー
内藤礼
画家種
現代美術家
人物・来歴・経歴・その他
1986年-東京都のパルコ・スペース5で初個展Apocalypse Palaceを開催
1995年- 国立国際美術館で個展。『みごとに晴れて訪れるを待て』を出品。
1997年‐ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。『地上にひとつの場所を』を出品。鑑賞者を一人ずつ数分間だけ招き入れる方法をとったため、長蛇の列となった。
2001年- ベネッセアートサイト直島の家プロジェクトで古民家「きんざ」に作品設置。『地上にひとつの場所を』の直島ヴァージョン『このことを』を設置。
2002年‐香川県の直島で個展。
2003年‐アサヒビール芸術文化財団芸術賞受賞。
2008年‐横浜トリエンナーレ2008に参加。
2010年‐豊島美術館に作品設置
2013年-広島県立美術館にて個展『タマ/アニマ(わたしに息を吹きかけてください)』を開催。
2014年-東京都庭園美術館にて個展『内藤礼 信の感情』を開催。
2018年-水戸芸術館にて大規模個展『明るい地上には あなたの姿が見える』を開催。
代表作
地上にひとつの場所を
地上に存在することは、それ自体、祝福であるのか
color beginning
椛田 ちひろ
画家種
現代美術家
人物・来歴・経歴・その他
1978年福岡県生まれ、東京都育ち。2004年武蔵野美術大学大学院修了。筆を使わず指と手で描いていく油彩画と、線を重ねていくボールペン画の双方を手掛ける。近作では鏡や水を使った作品も発表。主な個展に、2011年「目をあけたまま閉じる」アートフロントギャラリー(東京)、「fear/flight/fleeting」LASALLE College of Arts(シンガポール)、「『私』のゆくえ」αMギャラリー(東京)、2010年「境界の先の光景」遊工房アートスペース(東京)など。主なグループ展に2011年 MOTアニュアル2011「世界の深さのはかり方」東京都現代美術館などがある。
代表作
遠距離間の不気味な作用
GLOSSARY vol.1
井口 雄介
画家種
現代美術家
人物・来歴・経歴・その他
1985年 カナダ生まれ、東京都在住
2013年 武蔵野美術大学大学院博士後期課程作品制作研究領域修了
屋外空間における仮設的作品(インスタレーションアート)の展開を主に行っている。大規模な作品を展開することにより、鑑賞するにあたり鑑賞者自身がくぐる、のぼる、歩くといった要素を作品性に含ませることにより、作品がなくなった後にでも鑑賞者の行為がその場の記憶に結び付くように作品を考えている。
代表作
KALEIDO-SCAPE
CUBIC ROOM
中島由夫
画家種
近代美術家
人物・来歴・経歴・その他
1940年 - 埼玉県に生まれ。
ゴッホに憧れ、11歳から画家を目指す。武蔵野美術大学、明治学院大学で学んだ後、ヨーロッパの諸大学(ロッテルダム美術大学、アントワープ王立アカデミー)でさらに学びスウェーデンのバーランド芸術大学を卒業。
コブラ (芸術運動)に積極的に参加する。
現在、画廊をスウェーデンに移し活動中。「北欧の太陽」を作品にすることが多い。
日本では埼玉近代美術館、日動美術館、人間総合科学大学などで作品が展示されている。
海外ではアントワープ美術館、ストックホルム近代美術館、オークランド美術館、ベルリンナショナルギャラリー、ニューヨーク大学など世界中の100箇所以上にのぼる場所で作品が展示されている。
代表作
サンセット サンライズ
グリーンサン
もうひとつの太陽
白夜
白夜A
白夜B
白夜C
北国の春
太陽の光
光の花
地上からの愛
上村 次敏
画家種
画家
人物・来歴・経歴・その他
1934年、福岡県久留米市に生まれる。以後主に埼玉県所沢市で生活する。
1957年、武蔵野美術学校に入学。
1959年、同校在学中に第3回シェル美術賞を受賞する。
1961年、丸善石油美術奨励賞選抜展出展。卒業課題の卒業制作を担当教授に有名作家のコピーと誤解され、卒業できず同校中退。翌年の第2回太平洋青年美術家展に入選、さらに2年後の1963年には第3回パリ青年ビエンナーレ展に日本代表として宮脇愛子、渡辺恂三、工藤哲巳らと共に、フランス国立近代美術館に出展。同年、現代日本美術展入選、二紀会同人努力賞受賞。
1967年、第4回国際青年美術家展に入選。
1982年、青木画廊第1回個展開催。
1986年、青木画廊第2回個展「交錯する視角、二つの視点?」開催。
1997年、TIaF展(東京国際アート・フェスティバル展)を東京国際フォーラムで開催。
1998年、没。享年64。
代表作
サン・マルコ広場
クレモナの大聖堂
迷宮と幻影
佐々木賢光
画家種
画家
人物・来歴・経歴・その他
佐々木賢光は、岩手県都南村(現・盛岡市)生まれの画家。血液型はO型。
武蔵野美術大学出身。岩手県を中心に活動し、風景画、南部曲り家、岩手山、その他数々の作品を残した。
右手にパーキンソン病を患い、入院生活の末、64歳で死去した。
代表作
朝焼けの岩手山
木漏れ日
雫石川上流水車小屋
笹倉鉄平
画家種
画家
人物・来歴・経歴・その他
1973年 武蔵野美術大学商業デザイン科(現・視覚伝達デザイン学科)に入学。
1977年 同校卒業後、広告制作会社のグラフィック・デザイナーとなる。
1980年 フリーランスのイラストレーターとなり広告・出版物に多くのイラストを描く。また、森永製菓のパッケージイラストをおよそ10年間担当する。
1987年 毎日新聞カラー別刷り版にドイツのロマンチック街道沿いの風景を描いた「Romantic Gallery」シリーズを月一で連載。
1988年 前年シリーズの好評を以って、同紙面での連載としてフランスの街並みを描いた「ロマン色の街角」シリーズ掲載。
1990年 青山で初の個展。これより、画家としての活動に専念。
1991年 シルクスクリーンによる初の版画作品を発表(以降、現在までに180作以上がリリースされる)。
1992年 花の万博「フロリアード/1992」(オランダ開催)の記念版画が制作される。ニューヨーク・アートエキスポに出品。
1994年 神戸大丸にて個展。
1996年 小田急百貨店、新宿高島屋など各地で個展(以降、現在までに全国有名百貨店に於いて100を超える個展を開催)。
1998年 大丸ミュージアム・東京で初の美術館個展。
2000年 自身の絵画/版画作品、版権等の管理を行う、版元兼事務所(株)アートテラスを設立。
2001年 フィレンツェに架かる"ポンテ・ヴェッキオ"を描いた作品「祝福」が「イタリア.フィレンツェ.日本.文化経済交流協会」公認作品となる。
2004年 イタリア、マルケ州、レカナーティ市庁舎(他2会場)にて個展を開催。
2005年 フィレンツェ・京都姉妹都市締結40周年記念行事として、フィレンツェ市主催による個展を同市パルテ・グエルファ宮にて開催。
2006年 中国北京、国立中国美術館にて、劉長順氏との二人展を開催。
2006年 全笹倉鉄平 画集 ヨーロッパやすらぎの時間版画作品を所蔵し、企画展形式で作品展観する「版画ミュージアム」が神奈川県大和市に開館。
2007年 ニューヨーク・アートエキスポに出品。
2007年 油彩、水彩、スケッチ等の肉筆原画を中心に企画展形式で展観する「ちいさな絵画館」が兵庫県西宮市に開館。
2008年 パリと京都にて「日仏交流150周年」および、「京都市・パリ市姉妹都市盟約締結50周年」を記念した個展が、京都市の後援のもとそれぞれ開催される。
2015年 「京都・フィレンツェ姉妹都市提携50周年記念事業」の一環として、両市後援のもと、京都、フィレンツェそれぞれにおいて個展を開催。
代表作
アパルトマンの窓辺
雨のち夕陽…
ヴァカンス
ヴィーナスの港
工藤和男
画家種
画家
人物・来歴・経歴・その他
1933年 - 大分県で生まれる
1946年 - 大分市立金池小学校卒業
1949年 - 大分市立碩田中学校卒業
1952年 - 大分県立別府緑ヶ丘高等学校卒業
1957年 - 創元会展初出品(以後毎年出品)
1962年 - 武蔵野美術大学卒業
1963年 - 創元会会員
1965年 - 日展初入選
1967年 - 創元会展会員新人賞
1970年 - 安井賞候補展出品(以後7回)
1971年 - 創元会運営委員
1973年 - 昭和会展出品(以後招待出展2回)
1976年 - 日展特選
1977年 - 日展無鑑査
1977年 - 日展審査員
1978年 - 紺綬褒章受章(以後4回)
1979年 - 日展特選
1980年 - 日展委嘱
1983年 - 創元会常任委員
1992年 - 創元会常任理事
1994年 - 日展審査員
1995年 - 創元会副理事長 日展会員
1997年 - 東京国際美術館(現多摩美術大学美術館)にて自選展開催
1999年〜2014年 - 創元会理事長
2005年 - 大分合同新聞文化賞受賞
2005年5月4日 - 九州芸術の杜内に自身初となる工藤和男美術館が開館
現在 - 創元会会長 日展評議員
代表作
働く人
初冬の海
東北の漁港
海と漁師
漁港の家族
漁師
島眞一
画家種
画家
人物・来歴・経歴・その他
1942年に東京都台東区根岸に生まれ、7歳の時に国立市に引っ越した。1966年に武蔵野美術大学造形学部美術科彫刻専攻を卒業。卒業制作は大学に買い上げられている。同1966年に美術科助手に就任し、1971年まで武蔵野美術大学で助手を務めた。
助手の任期を終えた1971年には美術研修を目的としてスペインに渡り、マドリード、クエンカ、バレンシアなどで精力的に作品を制作して個展やグループ展を行った。作品制作に加えて、アルタミラ洞窟壁画からスペインの現代美術に至るまでのスペイン絵画の特質について研究している。
1985年に日本に帰国して千葉市に居住。スペインではモノクロームに近い抽象画を描いていたが、次第に作風が変化していき、日本帰国後初の個展には荒削りなアントニ・タピエスの影響を残しながらも繊細で理知的な作品を出品している。日本では東京・日本橋の日本画廊と名古屋市のギャラリーA.C.Sを中心に、国立市の画廊岳、相模原市のギャルリヴェルジェでたびたび個展を開いた。
1987年に武蔵野美術大学通信教育課程油絵学科に着任し、1992年に武蔵野美術大学教授となった。1989年から1992年には千葉工業大学でも「芸術学」の講義を持っている。1994年から1995年には武蔵野美術大学の在外研究員として再びスペインを訪れ、ロマネスク美術を視察した。
2008年11月30日、癌のために死去。66歳没。2009年から2010年にはギャラリーA.C.S、国立市のコート・ギャラリー、日本画廊の3か所で追悼展が開催され、2012年には岐阜県池田町の極小美術館で島眞一展が開催された。
代表作
外から内へ折れ曲がって
ベサメムーチョ
遠藤剛熈
画家種
画家
人物・来歴・経歴・その他
京都市に生まる。幼少年時代から絵を描くことを好む。18歳頃から約10年間東京に住み彫刻の石膏像と人物と静物と武蔵野を描く。
京都へ帰り、28歳頃から60歳頃まで東山山麓の南禅寺の塔頭で風景を制作。
50歳頃から洛北の八瀬、植物園、洛西の嵯峨野、嵐山などを描き始める。65歳頃から京都の周辺の北山と南丹の風景を描き始める。60歳頃から大樹の制作を始める。
2000年秋、遠藤剛熈美術館を公開。
武蔵野美術大学(西洋画科)と佛教大学(佛教学科)を卒業。
代表作
展望、蹴上より
大津港
西荻窪関根町の風景
水路閣と椿
原田泰治
画家種
画家
人物・来歴・経歴・その他
1歳児の時小児麻痺にかかり、歩行困難になる。諏訪市立上諏訪中学校、長野県諏訪実業高等学校卒業後、武蔵野美術大学商業デザイン科に入学。はじめは洋画家を志すも、途中でデザインに転向。
1963年:大学卒業後、故郷でデザインスタジオを設置し、デザイナーとして活動する。
1980年:第29回小学館絵画賞を受賞。
1982年:朝日新聞日曜版に「原田泰治の世界展」を連載開始し、並行して全国で個展をする。
1989年:アメリカ合衆国各地で展覧会を開催。
1994年:原田原作の絵本『さだおばさん』が東宝より、さだまさし監督、吉田日出子で映画化される。
1997年:長野冬季オリンピック競技大会での文化芸術祭に参加。
1998年:諏訪湖のほとりに諏訪市原田泰治美術館(名誉館長さだまさし)がオープン。
2000年:日本の全国各地20か所で「日本の童謡・唱歌100選展」開催。
2004年:原田の作品の世界をパッチワークキルトで表現する原田泰治美術館主宰の公募展「第一回 絵画キルト大賞」が始まり、以後毎年開催されている。同館での受賞作品展では大賞、優秀賞など受賞作品と原田の原画を並べて展示される。
2008年:上田電鉄1000系電車のラッピング車両「自然と友だち」のデザインを担当。
2009年現在、日本グラフィックデザイナー協会会員、クロアチア共和国ナイーブ美術協会名誉会員、中国・上海金山農民画協会会員を務める。
代表作
こいのぼり
心の海
夕日の海
初雪
山本大貴
画家種
画家
人物・来歴・経歴・その他
山本 大貴は日本の画家。白日会会員。千葉県出身。武蔵野美術大学大学院修了後、ゲーム会社勤務を経て画家となる。
スーパーリアリズムの画風であり、「写実新世代の旗手」と称されてきた。
モチーフとの距離感を大切にしている。
「私がここ数年で特に意識していることは、対象との距離感です。モデルさんに肉薄して、その体温までわかる距離で捉えるというのではなく、決して触れることができないような、壁を一枚挟んだ先から眺める距離、こちらの存在に気づかれないような場所からのぞき見るような捉え方、それが私の対象に向けた立ち位置です。-中略- 決して自分がその理想の世界に居座るのではなく、彼女たちにそこにいて欲しいと願い、私は現実世界から遠く眺めるだけでよいのです。」
サブカルチャーとの親和傾向を見せており、2012年の『Light Music!』は『けいおん!』をモチーフとしている。
近年の制作プロセスを端的に説明する際、「映画を撮るように」描いていると伝えており、自身が独自の記録・出力装置であって何百年も輝きを保持できる油絵というフィルムで鑑賞できるという。リアリズムという手法の性質上、自ずと映像的または写真的な表現技術への親和性を認識して絵づくりを行っている。
代表作
花の追憶
Reminiscence
北原順子
画家種
画家
人物・来歴・経歴・その他
1968 広島生まれ
1991 武蔵野美術大学 造形学部油絵科卒業
2003 第32回 MUSABI展(武蔵美校友会広島支部グループ展)
    ※以後 毎年出品
2005 第57回 広島県美術展 入選
    ※翌年も入選
    第59回 二紀展 入選
    ※以後 毎年入選
2007 第59回 広島県美術展 大賞受賞
2008 第61回 二紀展(広島巡回展)にて広島二紀宮永賞受賞
    第62回 二紀展(東京本展)にて奨励賞受賞
2009 第1回「清流会展」に出品
2010 第2回「清流会展」に出品
代表作
蘇生
加藤泉
画家種
画家・彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
加藤 泉は、日本の画家、彫刻家。
島根県出身。1992年、武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業。
初期より、胎児のような人間をモチーフとした油彩絵画作品を手がける。まず絵画作品で注目を集めるようになり、2002年よりイタリアやドイツでの美術展に作品を出展。2004年頃からは立体作品も発表するようになった。
2005年にアメリカ合衆国ニューヨークのジャパン・ソサエティー・ギャラリーで行なわれた美術展「リトルボーイ:爆発する日本のポップカルチャー」 (Little Boy: The Arts of Japan's Exploding Subculture) に立体作品(「無題 2004」)と絵画作品を出展、話題となる。2007年には第52回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際企画展 (it:LII Esposizione internazionale d'arte di Venezia) に招待され、絵画作品(『無題』2006年。国立国際美術館蔵)などを出展した。
その作風には「プリミティブな」「不思議な有機性を持つ」「力強く生命力に溢れた」「不気味な」「異形の生命体」、「幼形成熟したキモカワイイ裸の人と植物」といった表現がなされる。
代表作
プリミティブの復権
無題
前田常作
画家種
画家・版画家
人物・来歴・経歴・その他
1926年、富山県下新川郡椚山村(現在の入善町)に生まれる。
一度、富山師範学校本科卒業後、武蔵野美術学校に入学する。
1953年、武蔵野美術学校を卒業。
1955年東京のタケミヤ画廊にて初の個展を開催する。
1957年、第1回国際青年美術家展で大賞を受賞する。翌年奨学金を得てフランスに留学。
1959年第1回パリ、青年美術家展に出品、イタリアでも個展を開く。
1961年、第6回日本国際美術展で東京国立近代美術館賞を受賞する。
1971年、第2回インドトリエンナーレに出品。
1979年から日本の全国各地で巡回個展を開催し、京都市立芸術大学教授に就任。そして、第11回日本芸術大賞を受賞する。
1983年に武蔵野美術大学教授。
1989年、仏教伝道文化賞を受賞。
1992年、紫綬褒章を受章し、翌年安田火災東郷青児美術館大賞を受賞する。
1994年、武蔵野美術大学の学長に就任。
1995年、富山県入善町名誉町民に選ばれた。
2000年勲三等瑞宝章受章、武蔵野美術大学の理事長に就任。
2002年「マンダラへの道」展開催。
2007年10月13日、心臓病のため死去。享年81。武蔵野美術大学名誉教授であった。
代表作
狂った人
偶像
アリバイ
内田あぐり
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
1949年東京都に生まれる。1969年武蔵野美術大学造形学部日本画学科に入学。
1975年武蔵野美術大学大学院修了、同年第2回創画展に出品、創画会賞を受賞する。その後、主に創画会で活躍する。1990年葉山町にアトリエを開く。
1993年から武蔵野美術大学で教鞭を執り、第12回山種美術館賞展で大賞、2002年『吊(つる)された男―'00M』で第1回東山魁夷記念 日経日本画大賞を受賞した。各地で個展を開催している。国内外で日本画のワークショップを開催している。
2019年神奈川文化賞の受賞が決まった。
大胆なフォルムと、それぞれ独立した色彩による構成が特徴とされる。
代表作
地への廻廊
吊された男
この世でいちばん美しい場所
温度差7℃
つくられる平面
土屋礼一
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
岐阜県養老郡養老町出身。岐阜県立大垣南高等学校、武蔵野美術大学卒業後、加藤東一に師事。
日展理事、武蔵野美術大学客員教授、金沢美術工芸大学教授。代表作『赤い沼』は文化庁に買い取りを受けている。
1998年、師の加藤東一が描く予定だった、瑞龍寺 (岐阜市)本堂障壁画を描く。 この時より、本名の、土屋禮一名義で、作品を発表。
2007年に「軍鶏」で日本芸術院賞受賞。
2009年、日本芸術院会員。
2011年、隅田川花火大会花火コンクールの審査委員長を歴任。
2019年(令和元年)、 宮内庁の委嘱により、大嘗祭の後の、大響の儀に飾る、主基地方 (京都府) 風俗歌屏風(六曲一双)を担当する (和歌は、永田和宏担当)。
代表作
赤い沼
水たまり
流し

隠岐
西田俊英
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
1983年山種美術館賞展「華曼」で優秀賞受賞、1984年東京セントラル美術館日本画大賞展「聖牛」で大賞受賞、1990年両洋の眼・現代の絵画展「朝」で推奨受賞、1993年文化庁在外研修員として一年間インドで研究する。1995年院展出品作「プシュカールの老人」で日本美術院賞大観賞及び足立美術館賞受賞、1996年院展出品作「寂光」で天心記念茨城賞受賞、1997年院展出品作「カルロス」で日本美術院賞大観賞受賞、及び平成9年度文化庁買上優秀美術作品に選出される。1998年日本美術院同人推挙 、2002年個展~祈り~、2002年院展出品作「キング」で文部科学大臣賞受賞 、2003年今井美術館にて回顧展~いのちの讃歌~2004年、個展~静かなる刻~(西武アートフォーラム他) 2005年院展出品作「きさらぎの月」で内閣総理大臣賞受賞、個展~光の中で~、~ノスタルジー~開催。2006年郷さくら美術館の開館記念展にて個展、2007年院展出品作「吉備の鶴」で二回目の足立美術館賞を受賞した。2008年個展〜旅の途中〜、2009年個展〜余白の月〜、〜心の庭〜、2011年個展〜天と地と星と〜、この個展の出品作「飄々海々」で翌年、第18回MOA岡田茂吉賞展大賞受賞した。2012年個展〜翼の海〜、2014年春の院展出品作ボルゾイ犬を描いた「観」で第10回春の足立美術館賞受賞、2015年個展〜いのちの景色〜、2016年個展〜自然に抱かれて〜、横浜そごう美術館にて回顧展〜忘るるなゆめ〜を開催した。2017年院展出品作屋久島の森から構想を得た「森の住人」で日本芸術院賞を受賞し、同年日本芸術院会員となる。個展〜青い大地〜(GINZA SIX他)
1995年に文化庁在外研修員として滞在した印度で、インドミニアチュール絵画の研究と印度各地での取材が大きな転機になり、帰国後は印度を題材にした作品を発表した。印度の老人を描いた「プシュカールの老人」で日本美術院賞を受賞してからは、多くの人物画の作品を発表し、また、叙情性のあるヨーロッパの風景等も多く描いている。日本美術院同人になってからは、次第に日本の古典をふまえながらも、湿潤な日本の風土を描いた風景画や現代的な新感覚の花鳥画に挑戦し、インドの聖牛やボルゾイ犬等、様々な動物の美しい魂の輝きの一瞬を愛情深く捉えた作品も多い。
代表作
華鬘
聖牛
プシュカールの老人
寂光
カルロス
キング
きさらぎの月
吉備の鶴
塩出英雄
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
塩出 英雄は昭和-平成時代の日本画家。
明治45年(1912年)4月6日、広島県福山市生まれ。昭和6年(1931年)帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)日本画科に入学。奥村土牛に師事し、昭和12年(1937年)より院展で活躍。昭和25年(1950年)「泉庭」が日本美術院賞、昭和44年(1969年)「春山」が内閣総理大臣賞となる。昭和38年(1963年)母校・武蔵野美術大学教授。昭和59年(1984年)武蔵野美術大学名誉教授就任。昭和60年(1985年)、武蔵野美術学園学園長に就任。平成13年(2001年)3月20日死去。88歳。
代表作
静座
春山
立川広己
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
東京都品川区で生まれ、武蔵野美術大学にて洋画を学んだ。美術展覧会・公募展で数々の作品が入選・入賞する。美術館や政府系機関などをはじめとして作品が買い上げられ、専業画家となる。美術専門誌を中心とする雑誌や新聞等の取材の他、テレビ出演などマスメディアへの露出も多い。個展等へ作家・アーティストとしての出席も継続的かつ積極的に行い続けている点も特徴的である。
会場に出席する作家本人から創作作品の話が聴けたり、ライブパフォーマンス・実演が見られる観点(会いに行ける芸術家・会いに行ける画家という観点)を捉えると、アーティストと観覧者とのリアルな距離感が近い側面も併せ持つ。新たな技法・モチーフなどを取り入れていくことにも積極的である。創作作品の守備範囲は広く、モダンアート・現代美術家としての顔を持ち合わせる。
表現スタイルの基本は、モダニズムである。オーソドックスなものから生まれる「立川広己流モダニズム作品の世界」を次々と創り上げる。『立川広己画伯個展』への作品出展は、華やかで自由なスタイルを貫く。『薔薇図』をはじめとする『華麗なる花々シリーズ』(『花シリーズ』)、古木、風景画、人物画、抽象画『JAZZシリーズ』(『ジャズシリーズ』)など、作品はモチーフを限定することはなく、多彩に制作している。
安定した人気作家となってからも、表現活動発表の場と捉え、毎年公募展への大作出展を続けている。チャリティー絵画展等で自身の数々の作品を寄贈するなどの尽力を通じた美術文化活動への造詣も深い。
1949年(昭和24年) 東京都品川区に生まれる。
1972年(昭和47年) 武蔵野美術大学卒業。
1983年(昭和58年) 埼玉県岩槻市展市長賞。
1984年(昭和59年) 日仏現代美術展入選。
1986年(昭和61年) 上野の森絵画大賞展佳作賞受賞。ニッポン放送賞受賞。
1986年(昭和61年) フジテレビジョン「朝のテレビ美術館」にて作品が放送される。
1986年(昭和61年) 入賞作品「時の停止」が上野の森美術館買い上げになる。
1989年(平成元年) 自由美術展にて佳作作家賞受賞。
1989年(平成元年) 自由美術協会会員に推挙される。
1989年(平成元年) 全国有名百貨店(新宿伊勢丹他)巡回。個展開催が始まる。
1991年(平成3年) 現代精鋭選抜展記念大会にて金賞を受賞。
1993年(平成5年) 自由美術協会より安井賞候補作家展出品に選ばれる。
1994年(平成6年) 全国花の大賞展招待出品。
1996年(平成8年) 作品「華宴」F150号が通産省(現経済産業省)工業技術院買い上げとなる。
2001年(平成13年) 沖縄平和祈念堂主催平和記念美術展へ招待される。(出典は、雑誌「一枚の繪」1996年(平成8年)12月号、165頁、雑誌「一枚の繪」2002年(平成14年)1月号、146頁、雑誌「一枚の繪」2008年(平成20年)1月号、121頁など)
2005年(平成17年) NHK北九州支局テレビ出演。
2006年(平成18年) 上野の森美術館「作家の視点展」へ招待出品。
2009年(平成21年) 東京有楽町フォーラム「アートフェスタ」に出席をする。
2012年(平成24年) 全国有名百貨店巡回個展を開催する。
2013年(平成25年) 画業40周年記念展を全国で開催。
2016年(平成28年) 西日本放送テレビ香川テレビ放送網「RNC news every.」テレビ出演しライブパフォーマンスを行う。
2017年(平成29年) 東京・銀座の画廊、ギャラリー一枚の絵 にて個展開催。
2019年(平成31年) 東京・銀座の画廊、ギャラリー一枚の絵、伊勢丹浦和店にて個展開催。また高松三越個展はテレビ放映。
2019年(令和元年) 東京・上野の東京都美術館で11月に開催される公募展、55周年記念都展の外部審査員に任命される。
現在2019年(令和元年)5月現在) 自由美術協会会員、日本美術家連盟会員。
代表作
浮遊する物体
赤富士
大地が割れる
終美
横たわるトルソ
崩壊する街
遠藤彰子
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
暗緑色を基調とした背景に、複数の視点からなる建物、踊り場、広場などがあり、そこに多数の人物や動物が描かれ、全体として神秘的な印象を受けるような作品が特徴とされる。
東京都中野区出身。武蔵野美術短期大学油絵学科卒。武蔵野美術大学油絵学科教授。
1969年- 武蔵野美術短期大学美術科卒業
1972年‐女流画家協会展
1977年‐紀伊国屋画廊にて個展
1978年‐昭和会展・林武賞受賞
1980年‐女流画家協会賞、宮本賞を受賞。
1986年‐安井賞展・安井賞受賞「遠い日」
1986年~1987年:文化庁・芸術家在外派遣研修
1990年‐日本秀作美術展出品
1995年‐日本橋三越本店にて個展
1996年‐武蔵野美術大学油絵学科助教授に就任
1999年- 武蔵野美術大学造形学部油絵学科教授
2004年‐府中市美術館にて「力強き生命の詩」 他受賞、著書多数。
2007年- 芸術選奨文部科学大臣賞受賞。
2014年- 紫綬褒章受章。
2018年- 武蔵野美術大学名誉教授
代表作
遠い日
力強き生命の詩
追憶
通り
散歩
坂本善三
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1911年 - 熊本県阿蘇郡小国町宮原に、坂本謙吉、イカの3男として生まれる。
1929年 - 大津中学校(現・熊本県立大津高等学校)卒業。本郷絵画研究所に入り、岡田三郎助に師事。
1931年 - 帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)西洋画科入学。第1回独立展出品。
1933年 - 東京日日新聞社において第1回個展開催。
1934年 - 帝国美術学校は、3年次終了で中退。
1935年 - 兵役に。1945年まで3度応集。
1946年 - 長い兵役の後、熊本に帰郷し、阿蘇坊中で制作。風景、静物をモチーフにした写実的な半具象の作品を描く。
1947年 - 第15回独立展、独立賞受賞。
1949年 - 独立美術協会会員となる。
1952年 - 熊本市に転居。
1957年 - ヨーロッパへ。フランス・パリを拠点に、スペイン、イギリス、ドイツ、イタリアなど各地を訪れる。
1959年 - 帰国。熊本市にて制作。作品が日本の風土や生活にねざした抽象画へと変化をはじめる。
1965年 - 第33回独立展で児島賞受賞。
1967年 - 第35回独立展でG賞受賞。
1968年 - 九州産業大学教授に就任。
1973年 - 熊本県美術家連盟会長となり、以後5期10年務める。
1978年 - 熊本県近代文化功労者として表彰される。
1985年 - 熊本県立美術館で「坂本善三展」を開催。
1986年 - FIEST展(パリ)で、リトグラフィ「構成80」が専門家賞(Prix Professionnel)を受賞。
1987年 - 熊本市で没。76歳。
代表作

連帯
構成
灰色の中の青
池谷孝子
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1982年 - 日展初入選をする。
1991年 - 千葉大栄町立美術館に寄贈をする。
1994年 - 日展会友となる(改組日展入選10回による)。
1996年 - 資生堂ギャラリーにて個展を開く。
1996年 - 第28回日展において特選を受賞。
1997年 - 第28回特選受賞者グループ展。
1997年 - 日展無鑑査となる。
1998年 - 文化庁選抜展に出品。
1998年 - 日展入選(以後連続入選)。
1998年 - 松樹会(以後毎年10回)。
2007年 - 日展入選。
代表作
伊豆多賀風景
真鶴の港
ブーケと女
セーヌ河
早川義孝
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1954年 - 千葉県立東葛飾高等学校2年生在学時、第5回全日本学生油絵コンクールにて最高賞の文部大臣賞を受賞、翌年の1955年にも連続して同賞を受賞する。途中、武蔵野美術学校で学ぶも授業に絶望して中退。実家のカフェでアルバイトをして過ごす。数年後、友人が早川の宅を訪れ、その旧友の言葉に動かされ再び絵筆を握る。
1962年 - 第6回新槐樹社展に出品し、内閣総理大臣賞、文部大臣賞、栄誉賞の各賞を受賞。第6回安井賞候補展にも出品。
1965年 - フジ・インターナショナル・アートギャラリーにて個展を開催する。
1981年 - 第1回インターナショナル国際展で金賞受賞、同年から1997年まで中宮画廊にて個展を開催。
1989年 - パリ・ギャルリ・マルセルベルネイムにて個展。同年の第4回現美展に2000年まで11年連続して出品し、銀座和光、Bunkamura Galleryなど、全国各地で個展を開催。
2012年 - 平成24年7月25日永眠
代表作
家族
夕暮れと街
シンドバットの船・夜
シンドバッドの船
松井守男
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1942年、豊橋にて出生。武蔵野美術大学造形学部油絵科を卒業と同時に、フランス政府奨学生としてフランスに渡り、パリを拠点に制作活動を始めた。同地ではアカデミー・ジュリアンやパリ国立美術学校に学び、パブロ・ピカソとの出会いによって大きな影響を受ける。
以後、サロン・ド・メへの招待、印象派発祥の画廊ギャラリー・ベルネーム=ジュンネでの個展、エールフランスの機内デザインを手がけるなどの活動を展開するも、さまざまな苦悩や葛藤の中で1985年に2年半の歳月をかけ、自らの遺作と見なした『遺言』と題する作品を発表。この作品によって細かなタッチを面相筆で大画面に重ねて描く作風を確立し、以後さまざまなヴァリエーションを生む。
1997年にフェッシュ美術館(コルシカ・アジャクシオ)での個展を機にコルシカ島に拠点を移し、以後地中海西部の豊かな自然をモティーフとした作品を手がける。
2000年、フランス政府より芸術文化勲章、2003年にレジオンドヌール勲章をフランス本国にて受章した。2005年の「愛・地球博」のフランス・ドイツ共同パビリオンの貴賓室にて作品が展示されたほか、2008年にはシャネル・ネクサス・ホール(東京・銀座)や、長崎の大浦天主堂などの史跡で個展が開催された。2008年のスペイン・サラゴサ万博にて再度フランス公式画家に選出された。
代表作
遺言
Paysage en noir et blanc
Kakejiku
Triptych:La Crucifixion,La Résurrection,L'Ascension
自然
Arbre de Vie
大久保 佳代子
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
埼玉県に生まれる。1987年、埼玉県美術展覧会で初めて入選する。1995年、武蔵野美術大学造形学部油絵科を卒業する。1998年、光風会展で入選する。2000年、埼玉県北美術展の知事賞を受賞する。2008年、埼玉県美術展覧会の美術家協会賞を受賞する。
2010年、第42回日展に入選する。同年、第69回水彩連盟展で入選する。同年、「ひととき」で第60回埼玉県美術展覧会(洋画部門)の知事賞を受賞する。同年、第96回光風会展の光風奨励賞を受賞する。同年、大久保佳代子水彩画展(個展)を開催する。
2011年、第43回日展に入選する。2012年、第44回日展に入選する。2013年、第2回大久保佳代子水彩画展(個展)を開催する。2014年、第41回絵の現在選抜展の銅賞を受賞する。同年、改組第1回日展で入選する。
2015年、改組第2回日展で入選する。同年、第3回大久保佳代子水彩画展(個展)を開催する。2016年、改組第3回日展で入選する。2017年、「木漏れ日」で第67回埼玉県美術展覧会のNHKさいたま放送局賞を受賞する。
代表作
ひととき
木漏れ日
大塚耕二
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
熊本県菊池市隈府下町の大塚書店の次男として生まれる。旧制鹿本中学(現在の熊本県立鹿本高等学校)を卒業後、帝国美術学校の学生であった、坂本善三(後に抽象画家となる)に師事する。
1934年、帝国美術学校西洋画科(現武蔵野美術大学)に入学。
1935年、浅原清隆、小田正春、森堯之ら学生仲間と絵画グループ「表現」を結成、同年、創立者兼初代校長で後に政治家・衆議院議員へ転身する北昤吉と学生らの対立より起きた同盟休校事件(学生ストライキ)が発生し、帝国美術学校より多摩帝国美術学校(現多摩美術大学の前身)が分離独立。
1936年、から銀座の紀伊国屋画廊を拠点として展覧会を開催した。藤田嗣治の案内で、フランスの詩人で画家のジャン・コクトーが展覧会を訪れ、大塚耕二の作品を称賛した。それを受け、感涙し自信を深めた。同年、表現メンバーを中心に「映画研究会」を結成。同年、日本のシュルレアリストの象徴的存在の瀧口修造らとアヴァン・ガルド芸術家クラブの結成に参加した。
1937年、日中戦争勃発。日本のシュルレアリスムは開戦とともに日本政府に弾圧され始めた。
その年、第4回表現展および第7回独立美術協会に《トリリート》を出品、翌年も同展に出品した。「トリリート」は高い評価を受け、超現実主義絵画へ確立させた生涯の代表作となった。
1938年には「トリリート」はフランスの権威ある「シュルレアリスム簡約辞典」に<黄昏の隔世遺伝>の題名で作品図版とともに掲載され、一躍有名になり画壇の話題となった(日本人では他に瀧口修造、瀧口綾子、山中散生、下郷羊雄、岡本太郎等が掲載された)。帝美校卒業後、美術文化協会の創立に参加し、第一会展に出品した「太陽と小鳥」は詩人でもある瀧口修造から「造形詩人の一人となった」と激賞を受けた。
1939年、帝国美術学校を卒業、独立美術協会展に出品。美術文化協会の創立に同人として参加した。
1940年熊本市の千徳デパートで個展。同年、美術文化第1回展に出品した。
1941年、太平洋戦争勃発。 瀧口修造は、その前衛思想が危険視され、治安維持法違反容疑で特高に逮捕された。シュルレアリストの象徴だった瀧口が捕まった事によって戦前、戦中のシュルレアリスムは終焉を迎えた。
大塚耕二応召、西部21部隊(熊本野砲隊)に入隊し、満州ハイラルに派兵。
1945年、フィリピンに派兵。 同1945年7月30日、フィリピン・ルソン島プログ山にて戦死、享年31歳。
将来の大器と嘱望されたが、僅か7年余りの短い画業が惜しまれる。 作品は、主に熊本県立美術館に収蔵されている。
2014年5月27日放送の開運!なんでも鑑定団(テレビ東京)の出張鑑定IN 熊本県菊池市(菊池市文化会館にて収録)に出場した江頭実市長が依頼した大塚耕二の油絵が本物と鑑定され、大塚作品の全国的再評価につながった。同年7月、「熊本─東京・画家たちの上京物語・坂本善三、大塚耕二、浜田知明の軌跡」展が熊本県立美術館にて開催された。
代表作
トリリート<黄昏の隔世遺伝>
出発(たびだち)
海の見える丘と木の枝
小山田二郎
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1914年(大正3年)、小山田廣志と妻まつの子として父の出張先である中国・安東県で生まれる。翌年に両親から離れて祖父母の住む日本に引き取られ東京で暮らし始めるが、2歳の時スタージー・ウェーバー症候群を発症。手術を受けるが完治する事は無く次第に下唇が腫れあがり顔中に痣が浮かぶようになった。1927年(昭和2年)、13歳で母と共に母の実家である栃木県尾大田原市に転校したが、時と共に変形する顔にコンプレックスを抱き内に篭るようになった。
その後、遠縁の日本画家・小堀鞆音のもとで絵を学び、画家への道を志すが父の猛烈な反対を受ける。1934年(昭和9年)、20歳の時に帝国美術専門学校(現・武蔵野美術大学)に入学するも父の堅実な道をという理由で図案科での入学であった。諦めのつかなかった二郎は翌年に父親に黙って西洋画科へ転入し、すぐに父の知るところとなり仕送りを停止された結果中退を余儀なくされた。在学中には矢崎博信らと「L'anima(アニマ)」を結成している。太平洋戦争が勃発すると画材を集めることもままならず、絵描きとしても戦争を賛美することばかりが求められる風潮に絶望して一時筆を置くが、大日本印刷が画家を集めている事を知り1944年(昭和19年)に入社した。
終戦後は日本の変わりように矛盾を感じその思いをぶつけるかのような作品を描いている。1947年(昭和22年)、自由美術家協会(戦前からある前衛美術の有力団体)に入会。1952年(昭和27年)、38歳の時に瀧口修造の推薦を受けてタケミヤ画廊(神田駿河台下の洋画材店「竹見屋」の画廊で6年間の営業中に201の展覧会を行ない日本の現代美術に多大な貢献をした)で初めての個展を開催し、その後も毎年個展を行うようになった。1952年、共に画家活動をしていたチカエと結婚して高円寺に暮らし、一女にも恵まれ、魔理亞(まりあ)と名付けた。妻の小山田チカエ(1922-2012、本名・島貫キク、北海道出身)は、上京後広告会社に勤めながら絵を描き、自由美術家協会に属し、1950年代には左翼系画家を集めた「ニッポン展」(前衛美術会主催)にも参加、晩年は「美術・九条の会」にも参加していた。
1959年(昭和34年)、協会の方針に疑問を感じて退会した。団体展参加に疑問を持ち、以降は画廊での個展を中心に作品を発表。
1971年(昭和46年)、57歳の時に「ラーメンを食べに行く」と言って府中市の自宅を出たまま突如失踪し、家族を置いて20代の愛人・小堀令子(小堀鞆音の孫、武蔵野美術大学卒)に奔った。令子とは娘・亜巣架をもうけ、生涯生活を共にした。失踪以後の活動は特定の画廊でのみ行い、世間との関わりが希薄化するにつれて世間から注目されることも少なくなった。1991年(平成3年)、進行性胃癌で死去。享年77。小山田の没後、令子も画家として活動を始め、絵画教室講師も務める。
代表作
宿命
野蛮人
食卓
顔B
ピエタ
こわす者
鳥女
アダムとイヴ

鳥女
漂着物
ロマンス
夏の虫(A)
舞踏
合田佐和子
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1940年 高知県高知市に生まれる。
1959年 武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)に入学。
1963年 同校卒業後、唐十郎主宰の劇団状況劇場・唐組、寺山修司主宰の天井桟敷の宣伝・舞台美術などに参加する。
1965年から 各地で個展・オブジェ展を開催。
1982年 第1回現代芸術祭「瀧口修造と戦後美術」に出品。
1989年 東京都の渋谷パルコにて個展を開く。
1991年 朝日新聞で中上健次の連載(小説「軽蔑」)に挿絵を手がける。
2001年 高知県立美術館で森村泰昌と合田佐和子展を開催。
2003年 松濤美術館にて個展を開く。生涯に多数の作品集・個展を開催した。
2016年2月19日 心不全のため75歳で没した。
三木富雄は2人目の夫で、その間に生まれたのが合田ノブヨである。
代表作
ロゼッタ・ギャラクシー
自筆画 愚者の金
田村能里子
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1944年 - 愛知県葉栗郡木曽川町(現・一宮市)に生まれる。
1962年 - 愛知県立旭丘高等学校美術課程卒業。
1966年 - 武蔵野美術大学油絵学科卒業。
1969年 - 結婚。田村姓となる。夫の赴任地であるインドに同行。
1982年 - 昭和会展優秀賞受賞。
1986年 - 文化庁芸術家在外研修員として中国に派遣、滞在。
1988年 - 西安の飯店に壁画制作。
1989年 - 中山競馬場のロビーに壁画制作、以後各地で壁画を制作する。
1999年 - JR東海名古屋駅ビルの壁画制作、テレビ東京でも壁画制作。
2003年 - ファンケルスクエアで壁画制作。
2005年 - マルホ株式会社創剤技術研究所に壁画「季のきらめき」を制作。
2012年 - ホテル椿山荘東京に壁画やアクリル画、デッサンを制作設置。
2013年 - 福岡女子大学学生会館の壁画完成。
代表作
砂の煌き
風の語らい
インドの女
陽たかく
矢崎博信
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
長野県諏訪郡永明村(現・茅野市)出身。父源蔵と母とらの の長男として生まれる。実家は「信厚館」という生糸の製糸工業を経営していたが博信が子供の頃に倒産している。父矢崎源蔵は郷土史研究家、河合曾良研究者として知られていた(「信州文壇」という信州文壇社発行の雑誌に記事を連載していた)。
1921年(大正10年)永明村立永明尋常高等小学校(現・茅野市立永明小学校・茅野市立永明中学校)入学、この頃矢崎家に下宿していた担任の絵画教師、清澤の影響を受ける。
1928年(昭和3年)長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)入学。絵画部顧問であった洋画家高橋貞一郎から洋画を学ぶ。 1932年信陽社主催、郷土絵画展覧会に、「線路付近」「信濃境風景」を出品、銅賞を受賞。審査員の中川紀元、清水多嘉示に、「中学生であるが、精密な技巧と自然な観察がいい」と評される。
1933年(昭和8年)上京、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)西洋画科に入学。設立者金原省吾と名取堯、講師陣に清水多嘉示や高畠達四郎がいた。金原、名取、清水が長野県出身だったので信州人の学校とも言われていた。 (創立者兼初代校長は思想家、評論家、で後に政治家・衆議院議員へ転身する北昤吉である。) 第1回白雲美術試作展覧会に「農村スケッチ」「岡谷風景」等計9点を出品。
1935年(昭和10年) 同盟休校事件(学生ストライキ、矢崎やそのグループ仲間達も参加。)が発生し、帝国美術学校より多摩帝国美術学校(現多摩美術大学の前身、北 昤吉が名誉校長となった。)が分離独立。 同年、小山田二郎、有海千尋、金子親、小島義成、山鹿正純、横山千勝らと前衛美術グループ「L'anima(アニマ)」を結成、アニマとは生命という意味で、「行動主義」を提唱したフランス文学者小松清により名づけられた。小松は帝国美術学校に招かれ幾度も講演会を開いていた。学生達は彼の影響を受け、慕い、小松の家は学生のたまり場となっていた。矢崎も小松の影響を受けていて、アニマや後に結成する動向の仲間たちと提唱した、報告絵画という活動がある。「報告」とは、ある場所を訪れ、そこで起きたことを多くの人に伝える、文学や映画のジャンルで、矢崎達は絵画で表現しようとした。しかもそれにシュルレアリスムの要素を加え、現実のルポルタージュと超現実世界の融合した作品で、白昼(意識的活動の場)において夜(夢、又は無意識の場)を見つめ、両者の関係を「或る意味づけをしめす」ものと考えた。これらは小松の提唱した「行動主義」の影響である。
アニマ第1回洋画展(銀座紀伊国屋画廊)に「絵の具との共同制作」「煙」「朝」を出品。同年に計4回のアニマ洋画展を紀ノ国屋画廊で開催。
1936年(昭和11年)には映画研究会『T映』を浅原清隆、庄司正(日本画科)と発足。同年、四宮潤一、瀧口修造、大塚耕二らの結成した研究団体アヴァン・ガルド芸術家クラブに参加。(瀧口が慶應義塾大学予科在学中1930年にアンドレ・ブルトン〈シュールリアリズムの創始者、彼が一時期共産主義者だった事が、戦時下日本のシュールレアリスト達への弾圧につながった。〉の『超現実主義と絵画』を翻訳。本書は日本における本格的なシュルレアリスムの最初の文献として美術家に広く読まれていた。帝国美術学校のアニマ、動向の仲間たちも、瀧口を敬愛し、影響を受けていた。)そして、また同年、井上愛也・今井康雄・富岡宏資・山鹿正純・浅原清隆と前衛美術グループ「動向」を結成する。
アニマ第5回展に「江東区工業地帯」出品(紀伊国屋画廊)。
動向第1回東京報告絵画展に「日本橋」「二つの銅像」「屋根風景」出品。
1937年(昭和12年)「アトリヱ」誌〈アトリエ社またはアルス (出版社)〉(第14巻第6号1937年6月号等、数回)に論文が掲載され、シュルレアリスムを理論的に追求しようとする矢崎の哲学が評価された。
1938年(昭和13年)第8回独立美術協会展に「高原の幻影」が入選。 帝国美術学校卒業。 映画会社の就職試験に落ちたため、帰郷し、父源三の紹介で岡谷町立尋常高等小学校代用教員の職につく。 信州文壇社主催、信州美術展第1回洋画展覧会に「湖畔の煙」等が入選。(帰郷後も瀧口修造、大塚耕二らとの交流は続いていた。)
1937年(昭和12年)日中戦争勃発。芸術家達にも戦争の暗い影が迫っていた。日本のシュルレアリスムは開戦とともに弾圧されていく。 それだけでなく、二・四事件(長野県全体で起きた教師弾圧事件)によって失われた教職への国家の信頼を取り戻すべく、以降の長野県の教育は、戦争協力体制への著しい傾斜を見せることになった。
1939年(昭和14年)臨時召集により水戸工兵隊に入隊。満州(現在の中国東北部)に出兵。
1940年(昭和15年)召集解除により帰任。
1941年(昭和16年)岡谷中央国民学校の助教員として採用された年、太平洋戦争開戦、臨時召集により出征。
1942年(昭和17年)召集解除により帰任。
1943年(昭和18年)岡谷中央国民学校を体調不良により依願退職。母校である県立諏訪中学校の嘱託教諭となる。後に洋画家となる篠原昭登が4年生の時に、矢崎が出征する前の数回授業を受けた。
第7回一水会展に「早春」が入選。
金沢部隊に召集され3度目の出征。
1944年(昭和19年)2月に乗っていた輸送艦の船底で作業していたところに魚雷攻撃を受けチューク諸島(トラック島)付近で戦死、(トラック島空襲)享年29歳。
矢崎博信と同時期帝国美術学校で学んだ、他の多くの前衛美術家、および画家達も戦火に若い命を散らしていた。
代表作
線路付近
信濃境風景
農村スケッチ
岡谷風景
日高浩耀
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
台湾生まれ。立命館大学卒業後、現在の武蔵野美術大学に入学。 中学時代より塩月桃甫に師事し、画家としての修行を積んだ。日本表現派同人、同展奨励賞受賞。
作品「原爆忌」が広島平和祈念館に、「惨火」が大阪府平和祈念戦争資料室に永久保存されている。
代表作
原爆忌
惨火
山本貞
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
東京生まれ。武蔵野美術学校(現:武蔵野美術大学)卒。1957年「青い円」で二紀展初入選。1964年渡米、アート・スチューデント・リーグで学ぶ。1997年二紀会理事長。2004年「少年のいる夏」で日本芸術院賞、同年芸術院会員。2017年秋の叙勲で旭日中綬章を受章。風景画家。
代表作
青い円
少年のいる夏
城戸 真亜子
画家種
洋画家・女優
人物・来歴・経歴・その他
美術大学在学中からモデルとして活動していたが、1981年(昭和56年)度の『カネボウ化粧品キャンペーンガール』に選出されたことで広く知られるようになった。同年10月には、映画「アモーレの鐘」(監督:渡辺邦彦)に主演、映画デビューした。
1984年(昭和59年)には歌手として、楽曲 『やさしく描いて ~カシニョールの女のように~(作詞・作曲:小坂恭子)をリリース。また、1988年(昭和63年)4月からは、テレビのワイドショー番組 『3時にあいましょう』(TBS)で司会を務めるなど、テレビタレントとして活動を広げる。
タレント活動と並行して画業も行っており、銀座や日本橋などでの個展の開催もある。
神保町にある珈琲店の巨大壁画、東京湾横断道路の壁画 (海ほたる内)などを手がけている。1998年(平成10年)には、上野の森美術館が主催するVOCA展に入選した。
代表作
たゆたう
誕生日には花束を
そら
脇田愛二郎
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
1942年 - 東京都に生まれる。父は洋画家の脇田和
1964年 - 武蔵野美術大学本科西洋画科卒業後、すぐにアメリカ・ニューヨークに渡る
1967年 - ブルックリン・アート・ミュージアムに学ぶ
1971年 - シアトル国際版画展で入賞
1973年 - 箱根彫刻の森美術館大賞展、東京国立近代美術館にて東京国際版画ビエンナーレ展出品、その後ニューヨークなどの展覧会に参加する
1977年 - 栃木県立美術館にて日本の現代美術展出品
1983年 - 平櫛田中賞受賞
1986年 - 第2回東京野外現代彫刻展で大賞受賞
1988年 - アメリカ・ダラスでの個展を皮切りに東京や京都などで順次個展を開催
2002年 - 軽井沢の脇田美術館で個展
2006年 - 肝不全で死去
代表作
ねじられた錆の柱
TRANSFORMASION
螺旋
青木野枝
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
鉄を媒介にした空間表現が特徴とされる。 「重量感のある彫刻とは対照的に、軽やかで繊細、流れるような彫刻で知られている」。また、「鉄という見た目よりもずっと重い素材を使いながら、時には藤の籠のような、また時には草花のシルエットのような重量を感じさせない彫刻を作り出している。」
鉄は通常、美術用ではなく工業材料として使われるものであるが、青木は自分で切って加工をすると新しく生まれ変わるような感覚がすごく好きと述べている。

1981年 - 武蔵野美術大学造形学部彫刻学科を卒業
1983年 - 同校大学院造形研究科の彫刻コースを修了
1990年 - 第12回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に参加
1995年 - 国立国際美術館で個展開催
1997年 - 第9回倫雅美術奨励賞を受賞
2000年 - 芸術選奨新人賞受賞、東京都目黒区で個展
2003年 - 第33回中原悌二郎賞優秀賞を受賞し、さらに、下関市立美術館賞を第20回現代日本彫刻展でそれぞれ受賞。
2014年 - 1月1日、第55回(2013年度)毎日芸術賞を受賞。
2017年 - 第40回中原悌二郎賞受賞
代表作
薬玉
水冠
亀池・蓮池
雲垣
白玉/玉響
寒天
井上武吉
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
1930年、奈良県宇陀郡室生村(現・宇陀市)に生まれ、1951年に武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)彫刻科に入学、同年には第15回自由美術家協会展で初入選した。1953年にも第17回自由美術家協会展で入選し、1955年に武蔵野美術学校彫刻科を卒業した。
1962年 - 第5回現代日本美術展で優秀賞を受賞、更に7、8、9回でも優秀賞。翌年には第7回日本国際美術展で優秀賞受賞、次回展でも同賞を受賞する。
1965年 - 現代日本彫刻展に第1回から参加。
1967年 - 靖国神社無名戦士のための記念碑「慰霊の泉」を制作。
1968年 - 第1回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で大原美術館賞を受賞。同展第2、第3回展でも神戸市教育委員会賞を受賞。
1969年 - 箱根 彫刻の森美術館の設計を担当する。
1975年 - 池田20世紀美術館の設計を担当する。
1977年 - 海外のベルリン美術アカデミーなどで個展を開催。
1978年 - 国立ベルリン美術学校客員教授就任。
1979年 - 第1回ヘンリー・ムーア大賞展・優秀賞受賞。
1981年 - ドイツのノイエギャラリーにて個展、その後デンマークで巡回個展。
1986年 - 紫綬褒章 受勲。
1991年 - 伊丹市地下空間「my sky hole 91-4 ITAMI」と平和モニュメント(荒牧バラ公園)設置、 第22回中原悌二郎賞受賞。
1992年 - 第17回吉田五十八賞を受賞した。
1995年 - 第45回芸術選奨文部大臣賞を受賞。
1997年 - 逝去。享年67
1997年9月26日、急性心筋梗塞によって横浜市内の病院で死去した。
代表作
若きヴァイオリニストの手
若者の首
悲哀
女の首
宮崎敬介
画家種
木版画家
人物・来歴・経歴・その他
1970年、アニメーターの宮崎駿と大田朱美の二男として、埼玉県所沢市に生まれた。版画家柄澤齊の作品に感動したことをきっかけに、武蔵野美術大学造形学部在学中に独学で木口木版画を始めた。
卒業後は版画家として活動し、木口木版画の制作を続けている。普段は父親が著名なアニメーション監督であることを伏せて創作活動をしているが、一部作品を父の関わった作品に提供したことがある。
1970年 埼玉県に生まれる。
1990年 武蔵野美術大学造形学部空間演出デザイン科入学。
1994年 同校卒業。
1995年 アニメ映画『耳をすませば』用に「牢獄でヴァイオリンを作る職人」を制作。
1996年 木口木版画展「MOONSHINE」(ピンポイントギャラリー)
1997年 ザイログラフィア木口木版画7人展(ガレリアグラフィカ)宮崎敬介木口木版画展(加藤京文堂)
2000年 木口木版画展「PLANET」(ピンポイントギャラリー)
2001年 木口木版画展「wood engraving 放浪時代」(松明堂ギャラリー)
2002年 三鷹の森ジブリ美術館展示用に木口木版画を制作。
2003年 堀田善衛『路上の人』『聖者の行進』『時代と人間』の表紙版画を制作。木口木版画展「プラネット」(ピンポイントギャラリー)
2004年 木口木版画展「calling」(松明堂ギャラリー)
2006年 木口木版画展「サイレンス」(ピンポイントギャラリー)
2007年 木口木版画・銅版画 宮崎敬介・佐藤妙子展(松明堂ギャラリー)
代表作
DAPHNE
NIGHT
岡田輝
画家種
陶芸家
人物・来歴・経歴・その他
京都府舞鶴市出身。武蔵野美術大学を卒業後、人間国宝である藤原雄に弟子入り。1975年(昭和50年)には日本伝統工芸展に初入選し、その後も中日国際陶芸展文部大臣賞などを受賞するなど、将来の備前焼界を代表する作家と嘱望されている。
倉敷芸術科学大学芸術学部デザイン芸術学科教授を務め、2016年、退任。JR舞鶴線・西舞鶴駅の駅舎にある備前焼の壁は岡田の作品『舞・賛・燦』(1999年)である。
代表作
舞・賛・燦
小暮紀一
画家種
ガラス工芸作家
人物・来歴・経歴・その他
武蔵野美術大学工芸工業デザイン科で工芸デザインを学び、卒業後の1992年、富山市立市民学園 富山ガラス造形研究所入学、1994年卒業。 その後富山市内に工房『蜻蛉玉 丙午(とんぼだま へいご)』を設立、作家活動を開始する。2002年より隔年で武蔵野美術大学工芸工業デザイン科の特別講師を2010年まで務めた。
富山ガラス造形研究所在学中からトンボ玉の制作を始め、同時期にガラス作家・松島巌との出会いからコアガラスの制作に入る。現在はトンボ玉及びコアガラスの両分野において最も活動するガラス作家の一人である。また、この分野の技術・技法の普及にも熱心で、多くの講習会やデモンストレーション・ワークショップを開催している。2006年に『トンボ玉』(ほるぷ出版)著作。本の内容を忠実に再現したDVD(A3インターナショナル)も存在する。
代表作
とんぼ玉
中川久嗣
画家種
木工作家
人物・来歴・経歴・その他
武蔵野美術短期大学卒。同校卒業後、ギャラリーマロニエで個展。その他、埼玉県立近代美術館で「木のかたちとエスプリ」展に参加、木の素材を生かした作品を中心に活動している。他に住宅や店舗などの設計も手がける。1996年、creative factory PARADIS を設立する。
代表作
木のいろいろ・木のかたち

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