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岐阜県について

岐阜県は中部地方に位置する内陸県です。
飛騨山脈がある山岳地帯であり大規模スキー場が多くある一部豪雪地帯となっていますが、多治見市をはじめ夏の国内最高温度を記録する地域もあります。
奥飛騨温泉郷、下呂温泉など温泉街が多数ありますし世界遺産の白川郷をはじめ、さるぼぼの飛騨高山、郡上八幡阿波踊りなど観光に恵まれています。
美濃和紙がユネスコ無形文化遺産に登録されたことを受け、現地でも再び楮からの紙漉きが注目されています。

岐阜と命名したのは織田信長といわれ、金華山の岐阜城、関ヶ原の合戦跡地や国宝犬山城がある歴史の国でもあります。
木曽川、長良川で夏季に鵜飼が行われますが、女性鵜匠が誕生したことが話題となりました。
鮎を好んで食べ、カステラ生地に求肥を入れた和菓子「若鮎」が好まれます。
世界最大の淡水魚水族館アクア・トト、各務ヶ原航空宇宙博物館などの施設も充実している岐阜県です。
方言は「お金を崩す→お金をこわす」「バカ→たわけ」などがポピュラーで岐阜県民は年齢問わず使用します。

画家について

山本芳翠
嘉永3年(1850年)、美濃恵那郡明智村野志(現在の岐阜県恵那市)で農業と養蚕を営む山本権八の長男として生まれる。本名は為蔵、為之助、為治(次)郎。
既に10歳頃から絵が好きで、絵を見れば手当たり次第模写したと、後年芳翠は回想している。慶応元年(1865年)15歳の時ふと手にとった『北斎漫画』に啓発されて画家を志す。
始めは京都において、小田海僊の門人久保田雪江に南画を学ぶ。そのうち、本当に南宗画を勉強するため中国に行こうと、明治4年(1872年)頃に横浜に出てくる。
渡航の世話をしてくれる人はなく困窮していると、初世五姓田芳柳の家の前に飾られていた横浜絵に生きているようだと感心してその門に入り、南画から転向し洋画を学んだ。
当時、芳柳の次男・五姓田義松はチャールズ・ワーグマンに絵を習っており、芳翠もこれに同行して西洋画に触れる。明治6年(1873年)末には横浜から東京に移り、
明治8年(1875年)頃には津田仙の学農舎に寄留し、肖像画で一家を成すまでになった。
1876年(明治9年)、工部美術学校に入学し、アントニオ・フォンタネージの指導を受けた。
翌年退学し、同年の第1回内国勧業博覧会に『勾当内侍月詠図』を出品、花紋賞を受賞し宮内庁買い上げの栄誉を受ける。
1878年(明治11年)、かねてより知遇を得ていた津田仙と岸田吟香の斡旋で、パリ万国博覧会の事務局雇としてフランスに留学する。
当地のエコール・デ・ボザールでジェロームに絵画技法を学ぶ。芳翠は多芸で料理も上手く、当時の在仏日本人が日本食を食べたくなると、みな芳翠の下宿に行ってご馳走になったという。
黒田清輝もそうした一人だったが、芳翠は黒田に画家になるよう強く勧め、法律家志望の黒田を洋画家へ転向させる。
1887年(明治20年)に帰国。その際当時日本海軍がフランスに注文し、日本に回航する予定だった巡洋艦・畝傍に渡欧中に制作した作品が積載された。
しかし同艦は南シナ海で原因不明の消失を遂げ、300点とも400点とも言われる作品のすべてが失われてしまった。本人は無事帰国を果たし、版画家合田清とともに画塾「生巧館」を主宰。
教え子に湯浅一郎、藤島武二、白滝幾之助、北蓮蔵、広瀬勝平などがいる。1889年(明治22年)、松岡寿、浅井忠、小山正太郎、原田直次郎らと明治美術会の設立にこぎつけた。
芳翠はほぼ毎回、この展覧会に出品している。
しかし、本人にとっては黒田清輝までの繋ぎのつもりだったらしく、「今に黒田が帰ってくる。そうしたら日本の洋画も本物になるでだろう。黒田ならきっとうまく画壇を導いて率いていくよ。
この生巧館なんかも黒田にあけ渡して、その塾にしてしまって、俺は万事黒田任せでやって貰うつもりだ。お天道さまが出たら、行燈は要らなくなるよ」と語っていた。
明治27年(1894年)に黒田がフランスから帰国すると本当に画塾を黒田に譲り、黒田は画塾を「天真道場」と改めた。
生巧館から開放された芳翠は、京都に仏事(仏教)博物館を建て、そこに油彩画による釈迦の生涯を展観して、その入場料で洋画家を志す若者を留学させようと志す。
しかし、借金の保証人には死なれ詐欺に遇うなど全くの徒労に終わり、今度は大阪に豊臣秀吉像を建て自らの名を残そうとするが、これも実らなかった。
東京に戻った芳翠は、日清戦争に従軍、翌28年(1895年)2月に帰国している。明治29年(1896年)明治美術会を脱退し、黒田が結成した白馬会にも参加している。
晩年の明治36年(1903年)には、演劇や歌劇における洋風舞台装置の制作を行なった。
この年、日本人による最初のオペラ公演となったグルック作曲「オルフェウス」(オルフェオとエウリディーチェ)の上演(ケーベル博士等の指導による)では背景画の一部を担当した。
1906年(明治39年)11月15日、自宅で脳溢血により死去した。
満56歳没。
法名は松光院芳仙翠翁居士。泉岳寺に葬られた。


大橋翠石
1895年(明治28年) - 31歳の時、京都・岡崎で開催された第4回内国勧業博覧会に『虎図』を出展し、褒状・銀牌を受賞する。
11月 - 京都青年絵画共進会に『猛虎図』を出展し、2等を受賞。
1896年(明治29年)5月 - 大阪私立絵画共進会に『月下虎図』を出展して、望月玉泉・山元春挙らと3等銅賞を受賞。
1897年(明治30年)5月 - 京都第1回全国絵画共進会に『虎図』を出展し、4等を受賞。東京美術協会展に出展し、2等を受賞。
1898年(明治31年) - 日本美術画会に出展。東京美術協会展に出展。
1899年(明治32年) - 大阪南画展覧会に出展し 2等を受賞。全国絵画共進会に出展し、3等を受賞。愛知全国絵画共進会に出展。
1900年(明治33年) - パリ万国博覧会で『猛虎図』が優等金牌を受賞。
1901年(明治34年) - 作品が宮内庁御用品となる。
1903年(明治36年) - 農商務省主催の第5回内国勧業博覧会に『双虎図』を出展し、2等を受賞。
1904年(明治37年) - セントルイス万国博覧会に出展し、優等金牌を受賞。
1907年(明治40年) - 東京府勧業博覧会に『猛獅図』を出展し、2等を受賞。
1910年(明治43年) - 日英博覧会に出展し、優等金牌を受賞。
1913年(大正2年) - 宮中に虎図を納入し、350円を下賜される。
1918年(大正7年) - 大垣祭(大垣八幡神社の例祭)の山車「?(やま)」の一つである「菅原?(すがわらやま)」(郷里・大垣新町の?)の見送り(やまの背面につられる画面)に最初の虎図を描く。
1924年(大正13年) - 菅原?の見送りに極彩色の虎図『岩上猛虎之図』(早春の崖を下るほぼ原寸大の猛虎)を描く。
1925年(大正14年) - 名古屋美術倶楽部で大橋翠石新作画展を開催。
1926年(大正15年) - 名古屋松坂屋で大橋翠石絵画展覧会を開催。
1927年(昭和2年) - 東京上野日本美術協会で翠石百幅展が開催される。発起人は東郷平八郎・金子堅太郎・団琢磨ら。『白虎之図』を描く。金泥、プラチナ泥を用い、画面上部の朱文方印「天覧余光耀九重」は明治天皇への献上作下図にも押されている。[12]
1944年(昭和19年)-母校である大垣の興文小学校第四義校の後身、大垣市立東小学校の講堂を飾るため、『大虎図』を描く。


熊谷守一
17歳で上京し、芝公園内にある私立校正則尋常中学に転校するが、絵描きになりたいことを父に告げたところ、「慶応義塾に一学期真面目に通ったら、好きなことをしてもよい」と言われたため、
1897年(明治30年)に慶應義塾普通科(慶應義塾普通部)に編入し、1学期間だけ通って中退する。
1898年(明治31年)、共立美術学館入学。1899年(明治32年) 召集、徴兵検査で乙種合格(前歯が7本抜けていたため甲種では不合格。日露戦争では徴兵されなかった)。
1900年(明治33年)、東京美術学校に入学。同級生に青木繁、山下新太郎らがいる。山梨県や東北地方を巡るスケッチ旅行をする。
1905年(明治38年)から1906年(明治39年)にかけて樺太調査隊に参加しスケッチを行う。
1909年(明治42年)自画像『蝋燭』は、闇の中から世界を見つめる若き画家の不安を描き、第三回文展で入賞した。
1913年(大正2年)頃、実家へ戻り林業などの日雇い労働の職につく。この時期作品は「馬」他3点のみ。
1915年(大正4年)再び上京。第2回二科展に「女」出展。後に軍の圧力で二科展が解散されるまで毎年作品を出品する。
1922年(大正11年)、42歳で大江秀子(1898-1984)と結婚。秀子は和歌山県日置郡南部町の生まれ。大江家は近在きっての豪商で、山林地主だった。大正9年に原愛造と結婚している。
5人の子供(黄、陽、萬、榧、茜)に恵まれたが、絵が描けず貧乏が続いた。熊谷は「妻からは何べんも『絵を描いてください』と言われた。
周りの人からもいろいろ責め立てられた」と後に述べている。当時は日々の食事にも事欠くありさまで、次男の陽が肺炎に罹ったときも医者にみせることができず死なせてしまった。
陽の亡骸を熊谷は絵に描いている(『陽の死んだ日』1928年(昭和3年))。
熊谷は描いた後で、これでは人間ではない、鬼だと気づき愕然としたという。
1929年(昭和4年)二科技塾開設に際し参加。後進の指導に当たった。
1932年(昭和7年)後々池袋モンパルナスと称される地域の近く(現在の豊島区千早)に80坪に満たない土地を借り、家を建てる。
1938年(昭和13年)同じ二科会会員の濱田葆光のつよい薦めで墨絵(日本画(毛筆画))を描き、この年に濱田葆光の助けで大阪と奈良と名古屋で相次いで個展が開かれる。
熊谷守一の最初の個展は、意外にも墨絵(日本画(毛筆画))であった。
1947年(昭和22年) 二紀会創立に参加。
1951年(昭和26年) 二紀会退会。無所属作家となる。
1956年(昭和31年)76歳 軽い脳卒中で倒れる。以降、長い時間立っていると眩暈がすると写生旅行を断念し遠出を控えた。
晩年20年間は、30坪もない鬱蒼とした自宅の庭で、自然観察を楽しむ日々を送る。(熊谷守一自身が「約30年間 家から出ていない」などの言葉を残しているが、
実際はこの脳卒中以降というのが正しい。また、庭についても自身が「50坪足らずの庭」と言葉を残しているが実際はずっと狭かった。)
1967年(昭和42年)87歳 「これ以上人が来てくれては困る」と文化勲章の内示を辞退した。また1972年(昭和47年)の勲三等叙勲も辞退した。
1976年 郷里の岐阜県恵那郡付知町に熊谷守一記念館が設立される。
1977年(昭和52年)8月1日、老衰と肺炎のため97歳で没した。

前田青邨
1885年(明治18年)1月27日、岐阜県恵那郡中津川村(現・中津川市)で出生。食料品屋(乾物屋)を営む父常吉、母たかの次男だった。本名、廉造といった。
1898年(明治31年) 上京し京華中学校に入学するが体をこわして中途退学、帰郷。
1901年(明治34年) 再び上京し、尾崎紅葉の勧めで梶田半古に入門
1902年(明治35年) 半古から「青邨」の雅号を貰う。梶田半古の弟子は小林古径をはじめ雅号に「古」の字を貰うことが多かったが、青邨以降は奥村土牛を含め「古」を貰っていない。
1907年(明治40年) 紅児会に入り、今村紫紅、小林古径、安田靫彦らの俊英とともに研究を続ける。  
1911年(明治44年) 下村観山の媒酌で、荻江節の家元 初代荻江露章こと佐橋章子の妹すゑ(荻江露友)と結婚。
1912年(明治45年) 健康を害し、神奈川県平塚に転地療養する。
1914年(大正3年) 再興された日本美術院の同人となる
1915年(大正4年) 朝鮮旅行
1918年(大正7年) 日本美術院評議員に推挙される
1919年(大正8年) 中華民国へ旅行
1922年(大正11年) 事業家・望月軍四郎の援助で小林古径と共に日本美術院留学生として約1年間渡欧。アッシジで観たジョット・ディ・ボンドーネの壁画などイタリア中世の絵画に感銘を受ける。 
1923年(大正12年) 大英博物館にて中国・東晋の名画「女史箴図巻」を模写して帰国(模写は東北大学附属図書館が所蔵)
1930年(昭和5年) 「洞窟の頼朝」で第1回朝日文化賞受賞
1935年(昭和10年) 帝国美術院会員となる。御即位記念献上画「唐獅子」を制作
1937年(昭和12年) 帝国芸術院会員に推挙される
1943年(昭和18年) 満洲・支那旅行
1944年(昭和19年)7月1日 帝室技芸員に推挙される。
1950年(昭和25年) 文化財保護委員会専門審議会委員に就任
1951年(昭和26年) 東京芸術大学日本画科主任教授に就任。翌年より平山郁夫が青邨の助手となり、爾来指導を受けることとなる 
1955年(昭和30年) 文化勲章受章、文化功労者。中津川市名誉市民となる
1956年(昭和31年) 日本美術家連盟会長に就任
1957年(昭和32年) 川合玉堂の後を継いで香淳皇后の絵の指導役となる
1958年(昭和33年) 日本美術院常務理事
1959年(昭和34年) 国立近代美術館評議員
1960年(昭和35年) 訪中日本画家代表団団長
1962年(昭和37年) 東京芸大名誉教授
1964年(昭和39年) 日光二荒山神社宝物館の壁画「山霊感応」完成
1967年(昭和42年) 法隆寺金堂壁画再現事業総監修に安田靫彦と共に就任
1970年(昭和45年) 皇居長和殿「石橋の間」に1955年(昭和30年)に謹作した壁画「石橋」を加筆。新たにその左右に「紅牡丹」「白牡丹」の二面を制作
1973年(昭和48年) 高松塚古墳壁画模写事業総監修者
1974年(昭和49年) ローマ法王庁からの依頼によりバチカン美術館に納める「細川ガラシア夫人像」を完成
1977年(昭和52年)10月27日 老衰のため逝去(92歳没)。贈従三位

川崎小虎
1910年 東京美術学校日本画科卒業。
1914年 文展「つき草」初入選。
1916年 文展「花合せ」特選。
1943年 東京美術大学教授。
1961年 日本芸術院恩賜賞。
1967年 武蔵野美術大学名誉教授。


加藤栄三
1906年(明治39年) 岐阜市に漆器商加藤梅太郎、ための三男として生まれる。
1926年(大正15年) 東京美術学校日本画科に入学。(同学年に東山魁夷、橋本明治、山田申吾、若林景光らがいた)
1929年(昭和4年) 第10回帝展「夏日小景」初入選。
1931年(昭和6年) 東京美術学校卒業。結城素明に師事。
1936年(昭和11年) 文展に出品した「薄暮」で文部大臣賞を受賞。
1945年(昭和20年) 岐阜空襲により生家が全焼。「薄暮」などの代表作やこれまで描きためた写生等ほとんどを焼失。
1959年(昭和34年) 前年の日展出品作「空」で日本芸術院賞受賞。
1969年(昭和44年) 日展理事となる。
1971年(昭和46年) 第3回改組日展「流離の灯」出品。日展出品作としては絶筆となる。
1972年(昭和47年) 自宅にて死去。享年65。

守屋多々志
1912年(大正元年)、岐阜県大垣市船町の味噌たまり製造元「四代目孫八」の四男(11人兄弟の8番目)として生まれる。生後100日目、分家守屋貞吉(大垣市桐ヶ崎町の米穀商)へ養子に出される。
1930年(昭和5年)、岐阜県立大垣中学校(現:岐阜県立大垣北高等学校)を卒業。上京し、同郷の前田青邨に師事。
1931年(昭和6年)、東京美術学校(現:東京藝術大学)日本画科に入学。在学中に特待生となる。同級生には高山辰雄がいる。
1936年(昭和11年)、東京美術学校を卒業。卒業製作「白雨」が川端玉章賞を受賞。
1941年(昭和16年)、再興日本美術院第28回展に「継信忠信」が初入選。
1943年(昭和18年)、第30回院展に「陸奥の宿」が入選、この年から雅号を「多々志」とする。
1954年(昭和29年)、総理府留学生としてイタリアに2年間留学。
1967年(昭和42年)、法隆寺金堂壁画再現模写開始。第十号壁「薬師浄土」を担当。
1972年(昭和47年)、文化庁より高松塚古墳壁画模写を委嘱され、東壁の女性群像を担当。
1974年(昭和49年)、日本美術院同人に推挙される。愛知県立芸術大学日本画科の教授となる。
1976年(昭和51年)、飛鳥保存財団より委嘱され、高松塚壁画館に展示するための壁画模写(20面)に総監督として従事。
1977年(昭和52年)、第62回院展出品作品「駒競べ」にて文部大臣賞受賞。
1984年(昭和59年)、ローマ教皇庁より聖シルベストロ教皇騎士団勲章受章。
1985年(昭和60年)、第70回院展出品作品「愛縛清浄」にて内閣総理大臣賞受賞。
2001年(平成13年)11月3日、文化勲章を受章。同年7月28日、大垣市守屋多々志美術館が開館。
2003年(平成15年)12月22日、聖路加国際病院において永眠。享年91。

加藤東一
1916年(大正5年) 漆器商加藤梅太郎・ため夫妻の五男として、岐阜市美殿町で生まれる。兄は日本画家の加藤栄三。
1947年(昭和22年) 東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)日本画科を卒業。第3回日展「白暮」初出品、初入選。
1948年(昭和23年) 山口蓬春に師事する。
1952年(昭和27年) 第8回日展「草原」特選受賞。
1955年(昭和30年) 第11回日展「砂丘」特選および白寿賞受賞。
1969年(昭和44年) 藤沢市鵠沼に居住。
1970年(昭和45年) 改組第2回日展「残照の浜」内閣総理大臣賞受賞。
1977年(昭和52年) 前年の日展出品作「女人」で日本芸術院賞受賞[1]。
1984年(昭和59年) 日本芸術院会員となる。
1989年(平成元年) 日展理事長となる。
1991年(平成3年) 第1回岐阜市民栄誉賞受賞。
1993年(平成5年) 鹿苑寺(金閣寺)大書院障壁画完成。
1995年(平成7年) 文化功労者。
1996年(平成8年) 岐阜市名誉市民となる。
1996年(平成8年) 肺炎のため没。享年80。勲二等瑞宝章を受ける。
1997年(平成9年) 藤沢市名誉市民となる。

村井正誠
昭和2年(1927年)第14回二科展で《新宮風景》が入選。
昭和3年(1928年)に同学院卒業と同時に、3月横浜港からフランス船、ポルトス号にて渡仏、4月パリ到着。留学した。在仏中の有島生馬の紹介で、藤田嗣治と、海老原喜之助に会う。
藤田宅のある小説家や、絵描きのいる文化人横丁モンパルナスにアパートを借りて、作品制作をしながら、
小型乗用車を乗り回しヨーロッパ各地(ルーアン経由でノルマンディー、エトルタ等)を旅した。
エトルスク美術(英語版)(エトルリア美術)などの原始美術や、ビザンティン美術など初期キリスト教美術を直に触れた事も以後の作品制作に影響を与えた。
そしてモンドリアンの幾何学抽象やアンリ・マティス、パブロ・ピカソなど前衛美術に多大なる印象を受け、具象風景作品から抽象芸術に移行していった。
留学生仲間に添田知、津田(大津田)正豊、津田正周、長谷川三郎、矢橋六郎、菅野廉がいる。 昭和7年(1932年)6月、マルセイユより靖国丸で帰国。

昭和8年(1933年)2月、文化学院の同期で女流画家協会の結成当初の会員であった小川孝子と結婚する。
昭和9年(1934年)会員待遇にするからと独立美術協会の里見勝蔵に誘われて二科会を出品を辞め、第4回独立美術協会展に出品(その後、同年独立不出品同盟に名を連ねる。
〈大津田正豊、長谷川三郎〉独立美術との絶縁と独自の美術運動を起こす旨を声明。)
山口薫、矢橋六郎など学生のころからの友人や、大津田正豊、瑛九、浜口陽三、長谷川三郎、シャルル・ユーグらと新時代洋画展を結成。
昭和12年(1932年)自由美術家協会創設[。(昭和15年に美術創作家協会に改称。 )

昭和13年(1938年)母校文化学院の講師となり以後平成9年(1997年)まで勤める。
昭和14年(1939年)外山卯三郎らによって新設された美術工芸学院の教授になる。
昭和17年(1942年)10月、中国新京に移り住んでいた矢橋六郎を山口薫らと訪ね、美術創作家協会巡回展開催(新京・三中井百貨店ギャラリー)。
昭和18年(1943年)、西村伊作が反政府思想や天皇を批判、自由思想によって不敬罪で拘禁されたため、日本政府によって文化学院強制閉鎖。
昭和20年(1945年)敗戦を自宅迎える。文化学院再開、復職する。 昭和21年(1946年)日本美術会の結成に参加。 昭和24年(1949年)東京教育大学教育学部芸術学科の非常勤講師になる。
昭和25年(1950年)には植村鷹千代と江川和彦、瀧口修造、阿部展也、古沢岩美、小松義雄、岡本太郎、北脇昇、福沢一郎らと日本アヴァンギャルド美術家クラブ創立に参加し、
さらに昭和28年(1953年)には、山口薫、矢橋六郎、中村真、植木茂、小松義雄、吾妻治郎、荒井龍雄、小川孝子とともに、自由美術家協会やモダンアート協会。
長谷川三郎、西田信一、脇田和、川端実、山口薫、等と共にエスプリ会(1952年)。
長谷川三郎、植木茂、恩地孝四郎、川口軌外、末松正樹、西田信一、山口長男、山口正城、吉原治良、瀧口修造、植村鷹千代らと共に
日本アブストラクトアートクラブ、国際アートクラブ日本支部(1953年)などの創立に加わる。

昭和29年(1954年)、武蔵野美術大学教授に就任。
昭和30年(1955年)、日本国際美術展で佳作賞
昭和35年(1960年)イイノホール(飯野ビルディング)に石壁彫刻と寄木壁画の大作を作成。 昭和37年(1962年)現代日本美術展で「黒い線」が最優秀賞を受賞。
東京国際版画ビエンナーレ展で文部大臣賞を受賞。  
昭和41年(1966年)から昭和42年(1967年)まで日本美術家連盟理事長も務めた。 同年、(1966年)和歌山県新宮市民会館の玄関ホールの壁画「熊野」を制作。
高さ3メートル、幅18メートルの大きさで、熊野三山、八咫烏、浜木綿などを描いている。
昭和42年(1967年)村井正誠・小川孝子二人展 以降毎年開催(~1998年)
昭和45年(1970年)新宮市名誉市民の称号を贈られる、和歌山県文化賞受賞。和歌山県民文化会館のステンドグラスをデザインした。
昭和46年(1971年)和歌山県で開催された第26回国体の参加賞、記念賞をデザイン。 昭和50年(1975年)武蔵野美術大学造形学部油絵科教授を辞す、
武蔵野美術大学より武蔵野美術大学名誉教授の称号を贈られる。
昭和54年(1979年)和歌山県立近代美術館にて個展開催。同年神奈川県民ホールギャラリー(神奈川県立県民ホール)にて個展開催。 和歌山市民会館大ホールの緞帳のデザインを担当。
昭和59年(1984年)鎌倉画廊にて個展「水彩による表現”PART 2」開催以後定期的に同画廊にて個展を開催。
昭和60年(1985年)埼玉県庄和町(現在の春日部市)文化学院芸術専門学校設立に西村久二(西村伊作の長男)や大山美信(文化学院の教え子)らとともに参加。
開校当初から講師を勤める。同年 勲四等旭日小綬章授与される。
昭和61年(1986年)、和歌山県丹鶴城址に、文化学院の学長の与謝野鉄幹「与謝野寬の歌碑」を造形(石造)。短歌「高く立ち 秋の熊野の海を見て 誰そ涙すや 城の夕べに」を刻んでいる。
昭和62年(1987年)、文化学院出身の天童大人のプロデュースしたグループ展「聲を織るもののふたち展」出品。(ギャラリーミカワ) (他に砂澤ビッキ、中川幸夫、渡辺豊重出品)。
昭和63年(1988年)文化学院芸術専門学校美術科科長就任。
昭和64年/平成元年(1989年)9月9日、妻小川孝子逝去。享年81歳。
平成3年(1991年)「飛ぶ二人」大理石壁画、東京都議会議事堂。同年12月、画家で教え子の川田伊津子と再婚。
平成7年(1995年)1~7月、村井正誠展が神奈川県立近代美術館、大原美術館、岐阜県美術館、富山県立近代美術館、和歌山県立近代美術館を巡回する。
長年にわたる美術界への貢献に対して、平成9年(1997年)には、 中日新聞社中日文化賞、世田谷区文化功労者を受賞。
母校和歌山県立新宮高等学校の玄関に壁画「新宮の山と海と空」を制作。
平成10年(1998年)には、中村彝賞を受賞した。
平成11年(1999年)2月5日。逝去享年93歳。


篠田桃紅
日本の租借地だった関東州大連に生まれる。
5歳頃から父に書の手ほどきを受ける。その後、女学校時代以外はほとんど独学で書を学ぶ。
1950年から数年、書道芸術院に所属して前衛書の作家たちと交流を持つが、1956年に渡米。
抽象表現主義絵画が全盛期のニューヨークで、作品を制作する。文字の決まり事を離れた新しい墨の造形を試み、その作品は水墨の抽象画=墨象と呼ばれる。
アメリカ滞在中、数回の個展を開き高い評価を得るが、乾いた気候が水墨に向かないと悟り、帰国。以後は日本で制作し各国で作品を発表している。
和紙に、墨・金箔・銀箔・金泥・銀泥・朱泥といった日本画の画材を用い、限られた色彩で多様な表情を生み出す。
万葉集などを記した文字による制作も続けるが、墨象との線引きは難しい。近年はリトグラフも手掛けている。
海外では昭和30年代から美術家としての評価が高かったが、日本では海外ほどの評価を得ることができないままであったが、
2000年代に入り新潟県新潟市や岐阜県関市に篠田の名を冠するギャラリーが相次いで開館し、2010年代に入ってもエッセイがベストセラーになりメディアにもたびたび登場している。
2014年5月、沼津市役所特別応接室に1966年に納入した壁画「泉」が、30年以上存在が忘れられた状態から再発見されたことが報じられた。
2015年、『一〇三歳になってわかったこと』が45万部を超えるベストセラーになる。

北蓮蔵
幼少期には両親が読経を教えようとしても覚えず、絵ばかり描いていたという。1889年(明治22年)東京で女学校の教員をしていた姉を頼って上京、
同郷の山本芳翠と合田清らによって設立された生巧館画塾に入る。蓮蔵は芳翠の書生をしていたと後に回想しており、また時に「芳翠二世」を名乗り、
蓮蔵と芳翠を「親戚」とする同時代資料もある(真偽不明)ことから、両者は単なる画塾の師弟にとどまらない深い関係にあったようだ。
更に蓮蔵は白滝幾之助、和田英作、和田三造、岡田三郎助といった同時代の画家とも交流を重ねた。
芳翠が画塾を帰朝した黒田清輝に託すると、蓮蔵も後身の天真道場で学び、1897年(明治30年)東京美術学校(現在の東京芸術大学)選科に入学、翌年卒業。
白馬会展には、大画面に旧派的な色彩で描いた構想画を出品するが、良い評価はなかなか得られず次第に出品数も減っていった。
この時期、博文館から出版された『少年世界』などの挿絵を手掛け初めており、蓮蔵は以後昭和初期まで多くの挿絵を描いている。
明治30年半ばになると、芳翠の助手として舞台背景画の制作に携わり、同じく芳翠が企画したと思われる日露戦争を描いた戦争画の展覧会にも参加した。
当時こうした戦争画の展覧会は人気を博したらしく、1905年(明治38年)には芳翠の従軍に従って大陸にわたっている。
戦争後は再び舞台背景の仕事に携わり、1911年(明治44年)には帝国劇場に入社、背景主任として多くの舞台背景を手掛けるようになる。
1914年(大正3年)には薄拙太郎に背景主任を譲り帝劇を退社するが、大正期には背景制作のみならず、舞台全体の指導も行ったようだ。
他にも1907年(明治40年)の東京勧業博覧会や1914年の大正博覧会で建てられたパビリオンの設営・装飾にも参加している。
帝劇退社後は、同時代の画家に比べて遅まきながらも文展・帝展に出品・入選し、画家としてのキャリアを重ねていく。
1927年(昭和2年)7月、師・芳翠に倣ってかフランスに渡る。フランスでは、美大の後輩で帝劇では部下でもあった香田勝太の世話になる。
2年後の1929年(昭和4年)9月頃帰国。
帰国後も官展へ出品を続けるが、一方で皇国三千年の歴史を絵画によって知らしめようとする国史絵画館関連の制作に関わり、海軍とも関係を深めていく。
代表作の一つ「提督の最後」も「海軍報道班員」の資格で、1943年(昭和18年)第二回大東亜戦争美術展に海軍作戦記録画として出品した作品であり、同展では審査員も務めている。
戦後間もない1949年(昭和24年)恵比寿の自宅で食道癌により逝去。
享年74。


矢橋六郎
1905年11月16日、岐阜県不破郡美濃赤坂に生まれる。県立岐阜中学校を経て、1924年、川端画学校に通いはじめる。
1926年、東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科に入学し、1930年に同校を卒業。
同年渡欧。ヨーロッパ滞在中フォービズムやキュビズムなどの影響を受ける。
梅原龍三郎に師事し、梅原らの創立になる国画会に参加。滞欧中も同展に出品を続け1932年に同会会友となる。
1933年、帰国。同年国画会を退会する。
1936年、山口薫、村井正誠らと自由美術家協会を創立。
1939年生家の家業である矢橋大理石商店[4]に勤務することとなるが画業もつづける。
1941年には旧満州、新京に渡り、矢橋大理石廠株式会社勤務。
1945年には兵役に服すが、1946年に帰国。帰国後は矢橋大理石商店取締役に就任する。
1950年村井らと共にモダンアート協会[5]を創立する。
モザイク作家としても知られ、「海」(1962年、大名古屋ビルヂング)、「彩雲流れ」(1965年、新東京ビルヂング)、「日月と東海の四季」(名古屋駅新幹線口)、
「松と海」(新大阪駅貴賓室)「春・夏・秋・冬」(岐阜県庁)等を制作している。
晩年にはステンドグラスも制作。美術教育にも尽くし、武蔵野美術大学、東京芸術大学で教鞭を取ったほか、1969年には岐阜県・教育委員長をつとめ郷里の振興に寄与した。
1966年、中日文化賞を受賞。




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